落合直文

2019年04月17日

「いねよかし」①(『於母影』8)

きょうから訳詩集『於母影』の最初の作品「いぬよかし」に入ります。まずは、ざっと全体を眺めておきましょう。

  いねよかし

  その一

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

  その二

しばし浪路のかりのやと
あすも変らぬ日は出でなん
されど見ゆるは空とうみと
わかふるさとは遠からん
はや傾きぬ家のはしら
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎
かど辺に犬のこゑかなし

  その三

こなたへ来よや我わらは
何とて涙おとせるか
穉ごゝろに恐るゝは
沖のはやてか荒なみか
はらへ涙も世のうさも
この大舟はいと強し
翼にほこるはやぶさも
かばかり早くはよも飛ばし

  その四

あらきは海のならひとぞ
高き波にはおどろかず
サァ、チャイルドな驚きそ
わか悲みはさにあらず
父にはわかれなつかしき
母には離れ友もなみ
世には頼まん人ぞなき
たのむは神と君とのみ

  その五

父はいたくも泣かざりき
さすがに思ひあきらめて
されどまた世に力なき
母はなくらん帰るまで
あないとほしの我僮
涙のつゆぞうつくしき
心だにかく優しくば
わが目もいかで乾くべき

  その六

こなたへ来よや我しもべ
色蒼ざめしは何故か
フランス人は来ずこゝへ
あるは寒さをいとひてか
サァ、チャイルドよ弱りても
敵を恐るとな思ひそ
気色あしきはつれなくも
わかれし妻を思ひてぞ

  その七

君か族のすみたまふ
浜辺にちかきわがとまや
ちゝは何処と子等は問ふ
妻の答はいかにぞや
といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

  その八

こゝろ卑しき女郎花
あだし人をや招くらむ
きのふ涙にまだぬれし
たもとも今日は乾くらん
泣かぬ我身ぞあはれなる
かくまでさぴしき人や誰
われを泣かせんばかりなる
人のなきこそかなしけれ

  その九

汐路にまよふ舟一葉
身の行末もさだまらず
わが為に人なげかねば
人のためにもわれなかず
あだし主人の飼ふ日まで
声かしましく吠ゆれども
むかしの主の音をせで
帰らば噛まんわが犬も

  その十

舟よいましを頼みては
わが恐るべき波ぞなき
故里ならぬ国ならば
いつこもよしと極みなき
海に泛びぬ里遠み
陸に上らば木がくれし
むろにや入らん山深み
わが故里よいねよかし

ハロルド

「いねよかし」の原詩は、イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)作『チャイルド・ハロルドの巡礼(Childe Harold's Pilgrimage)』(1817)の一節です。

ただし、直接、底本としたのはハインリヒ・ハイネの訳になる「Gut'Nacht」でした。これは、ハインリヒ・ラウベ編のハイネ全集(全6巻)の第2巻に収められています。

「Gut'Nacht」すなわち「Gute Nacht(おやすみ)」を、「いねよかし」と訳しているわけです。訳者は落合直文と推定されています。

落合直文(1861―1903)は、文久元年11月22日、陸前国(宮城県)伊達家の重臣鮎貝家に生まれました。幼名は亀次郎。落合直亮の養子となり、名を直文としています。

伊勢神宮教院に学んで、国史、国文を修め、1881(明治14)年に上京。この翌年、東京大学古典科に入学しましたが、兵役のため83年に中退しました。

88年には皇典講究所の国文教師となります。この年、下にあげる七五調のロマン的長詩『孝女白菊の歌』を『東洋学会雑誌』に発表し、反響をよびました。

阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれ
いずこの寺の鐘ならむ、諸行無常とつげわたる
をりしもひとり門を出て、父を待つなる少女あり。
年は十四の春あさく、色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわからねども、末たのもしく見えにけり
父は先つ日遊猟にいで、今猶おとずれなしとかや
軒に落ちくる木の葉にも、かけひの水のひびきにも、
父やかへるとうたがわれ、夜な夜なねむるひまもなし
わきて雨ふるさ夜中は、庭の芭蕉の音しげく、
鳴くなる虫のこえごえに、いとどあわれを添えにけり
かかるさびしき夜半なれば、ひとりおもいにたえざらむ
菅の小笠に杖とりて、いでゆるさまぞあはれなる……

そして89年、森鴎外に協力して「新声社」を結成し、訳詩集『於母影』を発表することになります。

92年には、雑誌『歌学』創刊号に、新しい歌観を示した和歌革新論を述べています。また、『日本大文典』『ことばの泉』などの編著もあり、国文学者、教育者としても業績を残しました。

93年には「あさ香社」を結成。新派和歌の結社として与謝野鉄幹、金子薫園、尾上柴舟ら多くの俊秀を育成。詩、短歌、文の改良を意図して、実作を重ねていきました。

直文の歌には、たとえば「緋緘(ひをどし)の鎧(よろひ)をつけて太刀佩(は)きて見ばやとぞ思ふ山桜花」があります。

国士的な感慨を詠んだ作風から、詠史的優雅な境地へ。主情的なものから、人生の哀れに透徹した境地を生み出し、流麗な調べをもつ、とも評されています。

明治36年12月16日に肺疾患のため東京市本郷区浅嘉町(現・東京都文京区本駒込)の自宅で死去。42歳でした。没後に『萩之家遺稿』(1904)、『萩之家歌集』(1906)が編まれました。


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2019年04月18日

「いねよかし」②(『於母影』9)

『於母影』の最初の詩である「いねよかし」。「その一」から少しずつ読んでいくことにします。

  その一

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

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この第1節の原詩は、次のようになっています。

Leb wohl! leb wohl! im blauen Meer (a)
Verbleicht die Heimat dort. (b)
Der Nachtwind seufzt, wir rudern schwer,(a) 
Scheu fliegt die Möwe fort. (b)
Wir segeln jener Sonne zu, (c)
Die untertaucht mit Pracht. (d)
Leb wohl, du schöne Sonn, und du, (c) 
Mein Vaterland - gut Nacht! (d)

日本近代文学大系の補注では、次のように訳しています(大意)。

さらば、さらば、青海に
影うすれゆく彼方の故郷。
夜風はうめき、我らが漕ぐ手は重く、
怖ぢおそれつつ鷗は飛去る。
我らは日輪に向かいて帆走り、
そははなやかにいま沈みゆく。
さらば、汝美しき日輪、また汝、
我が故国よ、――いぬよかし。

原詩は抑揚格(Jambus)を基調とする8音節の行と6音節の行が交互に現われ、脚韻は隔行で押韻する(Kreuzreim)民謡調の平明な詩風になっています。

これと落合直文の訳詩を比較すれば、一見して明らかなように、直文訳では原詩の韻律のうち音節という要素は無視し、ababcdcdcdと脚韻だけは忠実に合わせていることが分かります。

すなわち「韻」訳ということになります。


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2019年04月19日

「いねよかし」③(『於母影』10)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その一」の意味をざっと見ておきます。

  その一

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

櫓

「いねよかし」の「いね」は、「寝ね」すなわちナ行下二段活用の動詞「寝ぬ」の連用形。ハイネ訳のタイトル「GUT' NACHT」にしたがって、良く寝なさい→おやすみ、という意になるのでしょう。

ちなみにバイロンの原詩には、このようなタイトルは付いていません。

「艫」(ろ、とも)は、へさき、船の前部、船首、あるいは、とも、船の後部、船尾の意味ですが、原詩などからすると和船をこぎ進める用具の「艪」(ろ)のことと思われます。

ふつう、水をかく脚部と手で握る腕部とを、への字形に継いであります。脚部にあけた入れ子の穴を、船尾に取り付けた櫓杭 (ろぐい) にはめて支点とし、腕部につけた櫓杆 (ろづく) とよばれる突起と船床とを早緒 (はやお) で結んで、押し引きして水をかき、船を進めます。

「きしれ」すなわち「きしる」は、 堅いもの同士が強く触れ合って音が出る、摩擦し合って音が出ること。

「村千とり」は、慣用では群れをなしている千鳥、一群れの千鳥、たくさんの千鳥を意味する「群千鳥」のことでしょう。原詩では、カモメとなっています。

「夕日影」は、夕日の光、夕方の日影のこと。「夕日かげ秋とおぼゆる深山辺の梢さびしき日ぐらしの声」(藤原家良)。

この夕日影をうけて船は、「逐ひつゝ」すなわち、沈む夕日に向かってはしってゆきます。

次の「のこる日影も」について、日本近代文学大系には「沈みかけた夕日に対する呼びかけであり、したがって次につづく「わかれゆけ」は別れの挨拶である。

沈みながらなお水平線上に見えている夕日も遂には沈みゆくがよい、という心を歌う。故郷への別れの挨拶である次の行と対をなしている」とあります。

最後の行で、「故郷」への「Gute Nacht」のあいさつとして、「いねよかし」と言っています。


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2019年04月20日

「いねよかし」④(『於母影』11)

「いねよかし」のつづき、きょうは冒頭の「けさたちいでし故里は」について検討してみたいと思います。

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

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前に見たように、原詩(ハイネ訳)の冒頭は――

Leb wohl! leb wohl! im blauen Meer
Verbleicht die Heimat dort.
さらば、さらば、青海に
影うすれゆく彼方の故郷。

また、もともとのバイロンの詩の冒頭は「Adieu,adieu!(さらば、さらば!)」となっています。しかし落合直文は、このようには訳さずに「けさたちいでし故里は」と改訳しています。

直文は、どうしてこのように改変したのでしょうか。以下、慶應義塾大学国文学研究会『森鴎外・於母影研究』から、それに関する考察を引用しておきます。

「この改変を直文の偶然的な思いつきに帰するのは容易であるが、それは何の意味ももたらさない。我々は、直文の古典的イメージ・発想の世界を探照することによって、この問題を考えるべきなのである。

第一に〈けさ〉の語に着目しよう。もちろん、三行目の〈夜嵐〉等によって知られる現在の時と対照をなすように出発の時を表わす〈けさ〉を設定し、その間の時間的経過を黙示するという技巧的な意図もあろう。

しかし、交通手段のさほど発達していなかった時代の旅を想定するならば、夜が明けると同時に出発するのはごく当然のことだったのである。

これがいわゆる〈朝立ち〉である。「いぬよかし」がもともと旅の詩であったことを考えると、〈けさ〉の設定にはこのような古典的発想が大きく関与していたと思われるのである。

次に〈たちいでし〉の部分について考えてみよう。そもそも、日本古来の旅の文学においては、その発端としての旅立ち、すなわち門出がきわめて重要な位置を占めてきた。

このことは、『土佐日記』以来の紀行文学をみれば明らかである。民俗学的にも、これは重要な儀式であった。この点をふまえるとき興味をひくのは、次のような謡曲の詞章である。

(A)
けふ出(い)でて いつ帰るべき古里(ふるさと)と、思へばなほもいとどしく(『夜討曾我』)

(B)
相模(さがみ)の國を立(た)ち出(い)でて、相模の國を立ち出でて、たれに行(ゆ)くへを遠江(とおとおみ)、げに遠(とお)き江(え)に旅舟(たびふね)の。(『景清』)

両者ともに曲のはじめの部分にある旅の記述であるが、「いねよかし」に類似した旅の出発が謡われているのである。

詳述する余裕はないが、このように旅の文学の冒頭において旅人の日常的世界(家や故郷)からの出発が明確に示されることの背景には、日本に古来からある門出の発想が存していると考えられるのである」。


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2019年04月21日

「いねよかし」⑤(『於母影』12)

「いねよかし」(その一)のつづき、きょうは2行目の「青海原」について考えてみたいと思います。

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

土佐日記

きのう見た「けさたちいでし」郷里がもう、すっかり「青海原」に隠れてしまったというのです。

「青海原」(あおうなばら)は、古くは「あおうなはら」)と読まれ、青々として広い海のこと。

万葉集には「阿乎宇奈波良(アヲウナハラ)かぜなみなびき往(ゆ)くさ来(く)さつつむこと無く舟ははやけむ」(20・4514)

土佐日記=写真、wiki=には「あをうなはらふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(承平5年1月20日)とあります。

また、『於母影』が発表される3年前の明治19年(1886)年7月に刊行された『書生唱歌』には、「バイロン氏の青海原」(大和田建樹訳)として、次のよう一節もあります。

さかまけ深き青海原(あをうなばら)。
  一萬艘(さう)のぐんかんも
たゞいたづらにうかびゆく。
  陸(くが)をば人は荒らせども
人のちからは濱邊まで。
  波の上なる難船も  
みなこれ汝(なれ)がわざぞかし。

慶應義塾大学国文学研究会の『森鴎外・於母影研究』では、「青海原」について次のように考察しています。

「この語は確かに原詩のthe waters blue(青い海)や独訳のblauen Meer(同義)の適切な訳語である。しかし、直文の古典的イメージ・発想の世界においては、また特別の意義をもっているように思われる。

これを明らかにするために、まず平安時代の和歌にその用例を探ってみよう。すると我々は次のような歌を見出す。

あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも

この歌は、日本古来の旅の文学の代表として既にその名を掲げた、紀貫之の『土佐日記』承平五年一月二〇日の条に安部仲麿の作として記されているものである。

この歌の原形は、『古今集』巻九・羈旅歌冒頭にあるごとく、

天の原ふりさけみれば春日なるみ笠の山にいでし月かも

というものである。これは周知のごとく、仲麿が中国から帰国の旅に出ようとしたときの門出の歌である。

貫之はこの歌を自らがおかれた海路の旅という状況にあわせて改変したと考えられている。

このような例歌の存在をふまえ、しかも既に述べたごとき直文の古典的教養の範囲内に『土佐日記』が入るものとするならば、〈青海原〉の訳語を用いる直文の古典的イメージ・発想の世界において、海路の旅を中心とする『土佐日記』の内容が意識されていたと考えることも可能であろう。

ちなみに『土佐日記』では、停泊していた港から出帆するとき、

九日のつとめて、おほみなとよりはなのとまりをおはんとて、こぎいでけり。

十一日。あかつきにふねをいだして、むろつをおふ。

というような興味深い記述も見出せるのである。これはまさに海路の旅における〈朝立ち〉である」。


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2019年04月22日

「いねよかし」⑥(『於母影』13)

「いねよかし」のつづき、きょうは「その二」をざっとながめておくことにします。

  その二

しばし浪路のかりのやと
あすも変らぬ日は出でなん
されど見ゆるは空とうみと
わかふるさとは遠からん
はや傾きぬ家のはしら
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎
かど辺に犬のこゑかなし

ヤエムグラ

「浪路」すなわち波路は、船の行く波の上を道に見立てた言葉で、ふなじ、航路のこと。 

「かりのやと」は、仮の宿。① 仮に住んでいる家。または、旅先での宿り② (主に、暗示や比喩として) 無常である世。はかない、この世。現世のことをいいます。

「あすも変らぬ日は出でなん」は、第1節にあった「波にかくるる夕日影」の句を受けたもの。日はいったん沈んでも朝がくればまたのぼってこよう。しかし、自分が故国を見ることはもうあるまい。

こうした感慨が、「されど見ゆるは空とうみと/わかふるさとは遠からん」へとつながっていきます。

後半の4行は、「遠からん」としのぶ、ふるさとの家とその周辺を思い浮かべての脳裏の映像となっていきます。

日本近代文学大系の頭注には、この映像はいかにも日本的な、ひなびた山家のごとくであるが、原詩では「城館」が人気なく荒れているであろう、と歌っている。また、城館とはバイロンの領地ニューステッドの僧院が考えられている、とあります。

「家のはしら」については、大正5年8月刊の縮刷『水沫集』では「家の軒」と訂正されました。字数が七・五となるので口調はいいものの「やえむぐら」との押韻が放棄されたことになります。

「秋のむし」も「傾きぬ家の柱」と同じように、映像の日本的な翻訳と見ることができます。原詩では「住む人が去って館は荒涼としたであろう」と歌っているだけです。

「八重葎」は、アカネ科の一年草または越年草で、畑地、藪、草地に雑草として普通に生えます。茎は高さ 60~90センチ。断面は方形で、稜に沿って逆向きのとげがあります。

葉は6~8枚輪生し、広線形で縁と中央脈上にも逆向きのとげがあります。このうちの2枚だけが本来の葉で、その葉腋からだけ、腋芽や花序が分枝します。

5~7月に短い円錐花序をつけ、小さい淡緑色の花を数花ずつつけます。花冠は4裂し、短い4本のおしべがあります。果実は表面に鉤状のとげがあり、熟すると黒くなります。

原詩は、ただ「雑草」とあるだけで、これも日本的翻案の一つと考えられます。八重葎が荒れた庭のすさまじい景観の象徴に用いられている例は古くからあります。

たとえば、万葉集の巻11には「玉敷ける家も何せむ八重むぐらおほへる小屋(をや)も妹としをらば」


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2019年04月23日

「いねよかし」⑦(『於母影』14)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その三」の意味をざっとながめておきます。

  その三

こなたへ来よや我わらは
何とて涙おとせるか
穉ごゝろに恐るゝは
沖のはやてか荒なみか
はらへ涙も世のうさも
この大舟はいと強し
翼にほこるはやぶさも
かばかり早くはよも飛ばし

ハヤブサ

「我わらは」は、主人公ハロルドの侍童。バイロンのお気に入りで、ギリシア旅行に連れて行った、彼の領地の小作人の息子ロバート・ラシトンがモデルだと言われています。

この連は、ハロルドから侍童への語りかけになっています。

「涙おとせるか」は、原詩では「weep and wail」(涙を落として泣き叫ぶ)とありますが、独訳では「weinst(すすり泣く)」と変えられています。

 「穉」は、おさない、いとけない、わかい、あどけない、といった意味。ここでは、穉 (をさな)ごゝろ、と読みます。

「はやて」は、寒冷前線などに伴って、急に激しく吹く風のこと。

「世のうさ」は、世のなかの物事が思いのままにならないつらさを言っているのでしょうが、原詩・独訳ともに、該当する語句は見あたりません。ハロルドは、侍童が泣くのはもっぱら海の波風を恐れてのことと思って慰めます。

『新拾遺集』(巻10・哀傷歌)に「夜のうさも如何計かは欺かれむはかなき夢と思為さずば」などの和歌にしばしば詠まれます。

「世のうさ」は、次の節の侍童の答えのなかではじめて打ち明けられますが、その前に出てきてしまったことになります。

「はやて」「荒なみ」の対語表現を受けて「涙」に対する語として選ばれたのか。「はやぶさも」と押韻するためにあえて入れたとも考えられます。

「はやぶさ」=写真、wiki=は、カラスほどの大きさで、翼開長さ84~120センチもある鳥。南極大陸を除くほぼ全世界に分布し、成鳥は背面が灰色がかった青黒色から黄緑色がかった灰色まで変異があります。

下面がクリーム色で、胸から腹に暗色の横斑が密にあり、眼下から頬にかけてひげのように見える黒い模様があります。

幼鳥は成鳥より褐色に富み、胸から腹の暗色の斑が縦に入っています。山地や谷間、海岸などの岩場近くにすみ、巣はつくらず断崖の岩のくぼみに 2~3卵を産みます。

主な獲物は鳥類で、先のとがった翼をはばたいて高速で飛び、高空から飛んでいる鳥めがけて急降下。ときには自分よりも大型の鳥を蹴落として捕えます。

そうしたときの時速は、320キロほどに達するとみられ、389キロという記録もあります。「きっ、きっ、きっ」と鋭い声で鳴くのが特徴。3000年も前から鷹狩に使われてきました。


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2019年04月24日

「いねよかし」⑧(『於母影』15)

「いねよかし」の続き。きょうは「その四」の意味をざっとながめておきます。

  その四

あらきは海のならひとぞ
高き波にはおどろかず
サァ、チャイルドな驚きそ
わか悲みはさにあらず
父にはわかれなつかしき
母には離れ友もなみ
世には頼まん人ぞなき
たのむは神と君とのみ

高い波

この節から、次節の4行目までが、侍童の言葉になります。

「あらきは海のならひとぞ/高き波にはおどろかず」。原詩・独訳ともに波と風が対置されていますが、訳詩では風が歌われていません。

「高き波」は、原詩の「waves roll high(波は高くさかまく)」をふまえた訳となっています。

「サァ、チャイルドな驚きそ」は、原詩の「Yet marvel not,Sir Childe,」(サー・チャイルドよ、驚かれるな)の直訳です。

『水沫集』以降、外国語の固有名詞をそのまま音訳するのを避けるためか、「サァ、チャイルドな驚きそ」を、「君よわれをな怪みそ」に変えています。

「marvel」の訳としても、「驚きそ」より「怪みそ」のほうがしっくり来るように思われます。

「わか悲みはさにあらず」は、原詩にはない部分です。ドイツ語訳の「viel andre Ding' es sind, Wes halb ich schlimmgemut(私を悲しませるのは他の多くのことです)」に拠って、こうした表現を加えたと考えられます。

「父にはわかれ」は、「母には離れ」と対をなしています。直文はこうした修辞的な技法を「対語法」と呼んで「その語のさま、物の左右ならびたる如く、詞を正しく配列する法なり」(『中等教育日本文典』明治23・12)としています。

また、直文の「孝女白菊の歌」(明治21・2~22・5)にも「父のめくみをしることに。母のなさけをしるたびに」と、対語法を用いています。

「世には頼まん人ぞなき」と言う侍童のモデルであるロバート・ラントンは、バイロンによれば「私自身と同じように、友だちのない動物みたいだから」ということで、「ボッブ」という通称でバイロンにずいぶんと可愛がられていたそうです。


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2019年04月25日

「いねよかし」⑨(『於母影』16)

「いねよかし」の続き。きょうは、「その五」をざっとながめておきます。

  その五

父はいたくも泣かざりき
さすがに思ひあきらめて
されどまた世に力なき
母はなくらん帰るまで
あないとほしの我僮
涙のつゆぞうつくしき
心だにかく優しくば
わが目もいかで乾くべき

泪

「いたくも泣かざりき」は次の行の「思ひあきらめて」と合わせて原詩「did not much complain」(泣きごとを多くは言わなかった)の意訳になっています。

独訳も原詩とほとんど同趣になっています。また、原詩・独訳ともに「父は私を心から祝福してくれた」とある部分は訳詩には反映されていません。

日本近代文学大系の頭注によれば、「さすがに思ひあきらめて」は、原意とややはなれた自由な訳になっていて、ハイネ訳では「父はねんごろに私を祝福してくれた」とあるそうです。

「世に力なき」は、原詩・独訳ともにこれに該当する部分はなく、訳者が付け加えた日本的な母のイメージだと考えられます。

「あないとほしの我僮」からは、ハロルドの侍童に対する言葉となります。

「涙のつゆ」には、原詩の意をふまえつつも、たとえば「限りなき泪の露に結ばれて人のしもとはなるにやあるらむ」(佐伯清忠、『拾遺集』巻8・雑上)のような日本的な情感が付与されているようです。

「涙のつゆぞうつくしき」からは、少年の眼に浮かぶ涙は別れてきた両親を思うゆえのものでだから、それがいじらしい、という気持ちがうかがえます。

「心だに」は、ここではハロルドの心のことと見られます。自分の心がもしも、この少年のように純情なものだったとするならば、という意味になります。


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2019年04月26日

「いねよかし」⑩(『於母影』17)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その六」をながめておきます。

  その六

こなたへ来よや我しもべ
色蒼ざめしは何故か
フランス人は来ずこゝへ
あるは寒さをいとひてか
サァ、チャイルドよ弱りても
敵を恐るとな思ひそ
気色あしきはつれなくも
わかれし妻を思ひてぞ

ナポレオン

「我しもべ」は、バイロンの原詩では「my staunch yeoman」(私の信頼できる従僕)、独訳では「mein Schlossdienstmann(私の城館の従僕」となっています。

このモデルはウィリアム・フレッチャー。バイロンのニューステッドの城館の侍僕で、主人の死に至るまでその傍らを離れなかった忠実な従者だったとされます。ここからは、最初のギリシア旅行に随行した、この従僕への語りかけです。

バイロンはこのギリシア旅行(1809~1811)の途中で『チャイルド・ハロルドの遍歴』を草しました。当時は、ヨーロッパ全土がナポレオン戦争の渦中にありました。

ナポレオン=写真、wiki=は、大陸封鎖令を施行して、その勢力の絶頂期。「フランス人」といえば、そんなナポレオン率いるフランスの軍隊のことで、従僕を恐れさすには十分すぎるものでした。

バイロン一行のさしあたっての目的地イベリア半島にも戦火は広がり、戦争の影響で航海そのものも難渋しました。

「寒さ」は、原詩では「gale(強風)」ですが、独訳では「Durchfröstelt(寒気に身ぶるいさせること)」となっています。こちらのほうを踏まえての訳と考えられます。

原詩・独訳ともに「Sir Childe」の呼びかけとなっていて、「サァ、チャイルドよ弱りても」は、それをそのまま音訳しています。『水沫集』以降は「君よ、わが身は弱りても」に変わりました。

「弱りても」は、原詩の「I'm not so weak(私はそんなに弱くはない)」を踏まえたものと考えられ、独訳には該当する部分はありません。

「つれなくも」は、原詩にも独訳にもありません。「つれなくも」について直文編の『言泉』には「情(ナサケ)を知らず。あはれみなし。心強し。人情なし。つれもなし。平気なり。無神経なり。つらし(辛し)」とあります。

ウィリアム・フレッチャーは結婚したばかりの身で、新妻のサリーを家に残してきていました。そんな「わかれし妻」が恋しくて、旅に出た当初は不満顔だったといいます。


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2019年04月27日

「いねよかし」⑪(『於母影』18)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その七」を見ておきます。

  その七

君か族のすみたまふ
浜辺にちかきわがとまや
ちゝは何処と子等は問ふ
妻の答はいかにぞや
といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

ニューステッド

「君か族」の「族」の読みは「うから」。血縁的・社会的な氏族共同体の族員をさします。『言源』には、「うから 族〔名〕身うちの人。血縁の人。みより。やから。身属」とあります。

原詩では「thy hall(君の館)」とだけあり、独訳では「dein Stammschloss(君の一族の館)」となっています。実際のところバイロンは、母とは別居し、異母姉はすでに嫁いでいて、その城館は留守番に管理を託してありました。

「浜辺」は、独訳では「am Seerand」、海辺とも湖畔ともとれます。実際にはバイロンの所有していたニューステッド・アビー=写真、wiki=近くの湖水の畔のようですが、訳者は海岸と解しています。

「とまや」は、苫屋、すなわち苫で屋根を葺(ふ)いた家、苫葺きの粗末な小屋のことです。原詩・独訳にはありません。

『新撰歌典』の「地理」の項には「海、湖、浜、潟、浦、浜のとまや」とあります。和歌的には、「とまや」と「浜辺」はすんなり結びつきます。

「子等は問ふ」は、原詩では「they」で、内容的には「boys」を示しています。独訳では「bub」と単数で、一人の男の子を指しています。

「ちゝは何処と子等は問ふ/妻の答はいかにぞや」と、郷里の妻子が自分を心配しているだろうと気遣うくだりは、「孝女しのふの歌」(明治23、『少年園』)にも「なみたにしほるわか袂/あわれとうたふわかことは/見つゝきゝつゝ妻や子や/いかにかなしと思ふらむ」とあります。

「といへど」以降は、ハロルドの答えになります。ただ、原詩・独訳とは内容的にかなり異なります。

「これもふさはし」と、妻との別れを恨みながらも涙を見せないのが男であるらしい、というのですが、原詩では汝の悲嘆は尊重して敬意を表し、さげすみはしない、という意味になっています。

「猛き身」のところは、原詩では、けなげな、実直な、の意。ちょっと唐突で、不自然な訳に思われます。

「なんたちに似ず」は、原詩・独訳では、私の心は軽く、の意味。父母を思う侍童や妻子を思う下僕の心との違いから、お前たちとは違ってという訳になったと考えられます。

「とつ国」は遠い異国のこと。

「戯れに」には、両親や妻子との別れを惜しむ従者とは違って、親密な係累をもたない自分には、故国との別れも哀惜ならぬ戯れとしか思われない、という気持ちといえるでしょう。


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2019年04月28日

「いねよかし」⑫(『於母影』19)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その八」を見ておきます。

  その八

こゝろ卑しき女郎花
あだし人をや招くらむ
きのふ涙にまだぬれし
たもとも今日は乾くらん
泣かぬ我身ぞあはれなる
かくまでさびしき人や誰
われを泣かせんばかりなる
人のなきこそかなしけれ

女郎花

「女郎花」=写真、wiki=は、オミナエシ。ここでは、浮気な女性の比喩形象になっています。原詩では「妻や恋人の見せかけの嘆きをだれが信じよう」、独訳でも、ほぼ同じ「女のためいきは信用できぬ」といった意味。ここでは、自由な意訳を試みています。

女郎花は、女性を象徴する歌語。『新撰歌典』の「類語及び作例・八月」の項には、「その名をかしけれは、女に取りなして、あはれなるさまによむなり」とあります。

和歌では『源氏物語』(手習)の「他し野の風になびくな女郎花われしめ結はむ道遠くとも」のように、浮気な女として詠まれることが多く、また「女郎」の連想で娼婦的なニュアンスも生じます。

「あだし」には、実感がない、の意と、他の、という二つの意味があります。ここでは、よその男に心をうつすことを言います。

そして「あだし人」は、他の愛人の意。女郎花に結びついています。ただし、原詩は「Fresh feeres」(新しい主人)、独訳は「frischer Buhlertross」(新しい愛人)。

女心のたのみ難いことを言っているだけで、直接的に、故国に残してきた愛する人が他の人に心を移しているだろうことを歌っているわけではありません。

「たもと」は、前の行の「涙」や「ぬれし」の縁語。原詩・独訳にはありませんが、和歌的発想からは自然に生じて来ます。

「泣かぬ我身ぞ」は、原詩では「For pleasures past I do not grieve,/Nor perils gathering near;(過ぎ去った歓びを私は悲しまない/迫ってくる禍も悲しまない)」。独訳も同じような文句になっています。

直文の訳は「泣かぬ我身」と簡潔ですが、自分に涙がないのは、別れを惜しむべき親や妻子がいるわけでもない。この世に無用の気楽な身の上だからで、それがあわれだ、というニュアンスが読み取れます。

原詩には「海路の危険を恐れるわけでもない」意の一句がありますが、それは訳詩にはあらわれていません。

「あはれなる」は、次の行の「さびしき」と同じようにハロルドの自己認識を示しています。原詩・独訳とも該当する言葉はありません。

「泣かぬ我身」と簡略化したのは、この「あはれなる」を言うためだったととらえることもできそうです。

「われを泣かせんばかりなる/人のなき」は、原詩・独訳ともほぼ同趣で、私に涙を流させる何ものもない、という意味です。

ただ、訳詩では泣かせる主体が「人」に限定されてい点がちがいます。それによって「さびしき人」であるハロルドのイメージがより鮮明になります。


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2019年04月29日

「いねよかし」⑬(『於母影』20)

「いねよかし」のつづき。きょうは「その九」を眺めておきます。

  その九

汐路にまよふ舟一葉
身の行末もさだまらず
わが為に人なげかねば
人のためにもわれなかず
あだし主人の飼ふ日まで
声かしましく吠ゆれども
むかしの主の音をせで
帰らば噛まんわが犬も

海路

「汐路」は、海路、船路のこと。原詩(wide sea)、独訳(weiten Meer)ともに、広い海の意味です。

『千載集』巻8の羇旅の歌に「わたの原しほぢ遥に見わたせば雲と波とは一つなりけり」(刑部卿頼輔)と詠まれています。

「舟一葉」(ふねひとは)は、水に浮かぶ木の葉のような一艘の小舟。『言泉』の「一葉の舟」の項には、「散りやすき一葉の舟の内ながらさすが月日を渡りかねつゝ」(『夫木抄』)という例歌が載っています。

小舟を数えるのに、詩語では往々に一葉といいます。島崎藤村の詩集にも『一葉舟』というのがあります。原詩には、舟の語はなく「われ一人大海にただよう」という意味になっています。

「身の行末もさだまらず」のところは、原詩・独訳ともに、この世の中でひとりぼっちだ、という意味になっています。

『続後拾遺集』巻17(雑歌下)に「うきに猶たへてつれなく存へば身の行く末を誰に喞(かこ)たむ」(法眼行胤妹)とあるように、「身の行末」は歌語として用いられます。

孤独感を将来への危懼に転換するという操作の背景には、和歌的な連想が働いているようです。

「あだし主人」は、別の、つまり新たな主人がえさをやるようになるまで、という意。

「あだし」は、「あたし」ともいい、「あだし国」「あだし事」「あだし人」などと、名詞につけて「ほかの、別の、異なった」の意を表わします。

「あだ」に、副助詞「し」がついた語、また、形容詞語尾「し」がついた語などといわれます。

「吠ゆれども」は、吠えるであろうが、というニュアンスでしょう。「むかしの主」は、「あだし主人」に対して、それ以前の主人、すなわちハロルドのことをいいます。

忠実なはずの犬でさえも主人を忘れてしまうと歌われ、いっそうハロルドの心中の悲哀が強調されています。

「音をせで」は、ひっそりと、足音を立てずに帰ったとすればの意。原詩にはこの語はなく、独訳の「leis」(小声で語りかける)に絡めての訳のようです。

この犬は、バイロン自身の飼犬であるアルゴスを思って書かれてます。アルゴスは実際、主人のことを見忘れて、領地に帰って来たバイロンに襲いかかったことがあったといいます。

「帰らば噛まん」は、人の心のたのみがたいのはもとより、通常、忠実な動物と思われる犬でさえも、という主人公のさびしさが反映しているフレーズです。


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2019年04月30日

「いねよかし」⑭(『於母影』21)

「いねよかし」のつづき。きょうは最後の節「その十」を見ます。

  その十

舟よいましを頼みては
わが恐るべき波ぞなき
故里ならぬ国ならば
いつこもよしと極みなき
海に泛びぬ里遠み
陸に上らば木がくれし
むろにや入らん山深み
わが故里よいねよかし

barco

「恐るべき波」の「波」は、原詩では「foaming brine(大海の咆哮)」、独訳でも「wilde Meergebraus」(荒々しい海の咆哮)と、直文訳よかなり激しい言葉になっています。

「故里ならぬ」には、故国以外ならどこでもよいから、舟よ、自分を好きなところへはこんで行ってくれ、という気持が込められています。

「極みなき/海」は、原詩では「dark-blue waves」(紺碧の海)。独訳は「Meer und Luft」(海と空)となっています。この空間的な広がりを「極みなき」と表現したのでしょうが「Luft(空)」は訳されていません。

「里遠み」は、やや破調ですが、「海に泛(うか)び」にかかって、陸を遠く離れて海に浮かぼうという意味です。

『古今集』(巻20、とりものゝ歌)に「我門の板井の清水里遠み人し汲(く)まねば水草(みくさ)生(お)ひにけり」(私の家の門前にある板囲いの井戸の清水は、人里から遠いので人が汲みに来ないものだから、水草が生えてしまったよ)と詠まれている歌語です。

原詩の「when you fail my sight」(きみがぼくの視界から消えるとき)を踏まえているのでしょうが、原詩の「you」は「waves(波)」のことで「里」とはちがいます。故郷を離れて遠く旅してきた感慨が込められているのでしょう。

「陸に上らば」の「陸」は「くが」と読みます。独訳の「Und ist die Fahrt vollbrachit」(そして船の旅が終われば)を意訳したものと考えられます。

「木がくれし/むろ」は、山深い森の中にかくれた小屋。原詩では「海路が終わったならば(陸に上らば)上陸するところは森であろうと谷間であろうとけっこうだ」という意味になっています。

独訳は、「Sei mir willkommen,Wald und Kluft!」(来やれ、森よ谷よ)となっています。

「むろ」は、『言泉』に「上古、山の側面などを横に掘りて、岩屋の如く構へたる所」とあります。原詩には「caves」(洞穴)。また「むろ」には、僧房のように籠り住むところという意味もあり、出家・隠遁のイメージも重なります。


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2019年05月01日

「いねよかし」⑮(『於母影』22)

「いねよかし」のつづき、もう一度、全体を眺めておきましょう。

  いねよかし

  その一

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

  その二

しばし浪路のかりのやと
あすも変らぬ日は出でなん
されど見ゆるは空とうみと
わかふるさとは遠からん
はや傾きぬ家のはしら
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎
かど辺に犬のこゑかなし

  その三

こなたへ来よや我わらは
何とて涙おとせるか
穉ごゝろに恐るゝは
沖のはやてか荒なみか
はらへ涙も世のうさも
この大舟はいと強し
翼にほこるはやぶさも
かばかり早くはよも飛ばし

  その四

あらきは海のならひとぞ
高き波にはおどろかず
サァ、チャイルドな驚きそ
わか悲みはさにあらず
父にはわかれなつかしき
母には離れ友もなみ
世には頼まん人ぞなき
たのむは神と君とのみ

  その五

父はいたくも泣かざりき
さすがに思ひあきらめて
されどまた世に力なき
母はなくらん帰るまで
あないとほしの我僮
涙のつゆぞうつくしき
心だにかく優しくば
わが目もいかで乾くべき

  その六

こなたへ来よや我しもべ
色蒼ざめしは何故か
フランス人は来ずこゝへ
あるは寒さをいとひてか
サァ、チャイルドよ弱りても
敵を恐るとな思ひそ
気色あしきはつれなくも
わかれし妻を思ひてぞ

  その七

君か族のすみたまふ
浜辺にちかきわがとまや
ちゝは何処と子等は問ふ
妻の答はいかにぞや
といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

  その八

こゝろ卑しき女郎花
あだし人をや招くらむ
きのふ涙にまだぬれし
たもとも今日は乾くらん
泣かぬ我身ぞあはれなる
かくまでさぴしき人や誰
われを泣かせんばかりなる
人のなきこそかなしけれ

  その九

汐路にまよふ舟一葉
身の行末もさだまらず
わが為に人なげかねば
人のためにもわれなかず
あだし主人の飼ふ日まで
声かしましく吠ゆれども
むかしの主の音をせで
帰らば噛まんわが犬も

  その十

舟よいましを頼みては
わが恐るべき波ぞなき
故里ならぬ国ならば
いつこもよしと極みなき
海に泛びぬ里遠み
陸に上らば木がくれし
むろにや入らん山深み
わが故里よいねよかし

バイロン

これまで見てきた「いねよかし」の原詩は、イギリス・ロマン派の詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon,6th Baron Byron、1788-1824)=写真、wiki=の「チャイルド・ハロルドの巡礼(Childe Harold's Pilgrimage)」(1817)の一節です。

バイロンは、偽善に満ちた社会への痛烈な反抗で「リベラリズムの比類ない布教者」(ハイネ)とされ、強烈な自我の英雄詩人の原型をつくり、19世紀のヨーロッパに広範な影響を与えました。

1798年に大伯父から男爵の位を継いで、ハロー校、ケンブリッジ大学で教育を受け、その激しい情熱を、読書、水泳、恋愛、詩にそそぎました。熱狂と倦怠、恍惚と憂鬱、高貴と卑俗の間に揺れ動く詩人の気質が、そのままバイロンの詩に反映している、とされます。

『チャイルド・ハロルドの巡礼』は、1812~18年に刊行された4巻からなる長詩。大陸各地の風物や歴史的、文学的連想などが、多情多感な旅人の胸中に呼起す反応を主題とした旅行記です。

1、2巻はスペイン、ポルトガル、アルバニア、ギリシアの旅を描き、一夜にして当代の最も高名な詩人となった言うほどの好評を博しました。 

16年にはスイス、アルプスにいたる旅を扱った第3巻を発表。第4巻は、イタリアを舞台としています。主人公のチャイルド・ハロルドは作者の分身と考えられ、第4巻では仮面を脱いで一人称で語っています。

日本近代文学大系の補注には、次のように記されています。

〈落合直文がこの詩に興味をいだき、かつこのように見事な翻訳をものし得た動機、背景として、彼が「わが国の歌は情歌のみ多く、叙事歌の少き、これ大いなる欠点なり」という考えを平生抱いており、井上哲治郎の漢詩に基づいた名作『孝女白菊の歌』を先年から(明治21年2月―22年5月)発表していたことにもうかがわれるように、常々「物語詩」(Ballade)に対する関心が深かったことが考えられる。

『チャイルド・ハロルドの巡礼』前篇は、英語原文の版本(Tauchnitz版バイロン全集、全5巻)によってこのとき鴎外の手元にあったのだが、全篇はいかにも長すぎるし、鴎外が得意とするドイツ語の、しかも冒頭部分の一まとまりだけをハイネの秀訳によって伝えているこの底本はひとり直文がいだいていたのみならず、明治21年から22年にかけて、佐々木弘綱、佐々木信綱、山田美妙、海上胤平その他の間で、しきりに長歌の改良をめぐる論議が取り交わされ、いわば時世の要求の一つでもあった。

それらは畢竟、新体詩のあり方を模索していた当時の文界の懸案に対する国学者系統からの反応であった。落合直文もそうした国学者たちの空気の中に居たに違いなく、ただ鴎外と結んだことが、彼にこの成功をもたらしたのだとは言えるであろう。〉


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2019年05月02日

「いねよかし」⑯(『於母影』23)

「いねよかし」のつづき、きょうは、バイロンの原詩をあげておきます。

1.

"Adieu, adieu! my native shore
Fades o'er the waters blue;
The night-winds sigh, the breakers roar,
And shrieks the wild sea-mew.
Yon Sun that sets upon the sea
We follow in his flight;
Farewell awhile to him and thee,
My native Land—Good Night!

2.

"A few short hours and He will rise
To give the Morrow birth;
And I shall hail the main and skies,
But not my mother Earth.
Deserted is my own good Hall,
Its hearth is desolate;
Wild weeds are gathering on the wall;
My Dog howls at the gate.

3.

"Come hither, hither, my little page!
Why dost thou weep and wail?
Or dost thou dread the billows' rage,
Or tremble at the gale?
But dash the tear-drop from thine eye;
Our ship is swift and strong:
Our fleetest falcon scarce can fly
More merrily along."

4.

"Let winds be shrill, let waves roll high,
I fear not wave nor wind:
Yet marvel not, Sir Childe, that I
Am sorrowful in mind;
For I have from my father gone,
A mother whom I love,
And have no friend, save these alone,
But thee—and One above.

5.

'My father blessed me fervently,
Yet did not much complain;
But sorely will my mother sigh
Till I come back again.'—
"Enough, enough, my little lad!
Such tears become thine eye;
If I thy guileless bosom had,
Mine own would not be dry.

6.

"Come hither, hither, my staunch yeoman,
Why dost thou look so pale?
Or dost thou dread a French foeman?
Or shiver at the gale?"—
'Deem'st thou I tremble for my life?
Sir Childe, I'm not so weak;
But thinking on an absent wife
Will blanch a faithful cheek.

7.

'My spouse and boys dwell near thy hall,
Along the bordering Lake,
And when they on their father call,
What answer shall she make?'—
"Enough, enough, my yeoman good,
Thy grief let none gainsay;
But I, who am of lighter mood,
Will laugh to flee away.

8.

"For who would trust the seeming sighs
Of wife or paramour?
Fresh feeres will dry the bright blue eyes
We late saw streaming o'er.
For pleasures past I do not grieve,
Nor perils gathering near;
My greatest grief is that I leave
No thing that claims a tear.

9.

"And now I'm in the world alone,
Upon the wide, wide sea:
But why should I for others groan,
When none will sigh for me?
Perchance my Dog will whine in vain,
Till fed by stranger hands;
But long ere I come back again,
He'd tear me where he stands.

10.

"With thee, my bark, I'll swiftly go
Athwart the foaming brine;
Nor care what land thou bear'st me to,
So not again to mine.
Welcome, welcome, ye dark-blue waves!
And when you fail my sight,
Welcome, ye deserts, and ye caves!
My native Land—Good Night!"

大和田

「いねよかし」の原詩は、上にあげた、バイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴(Childe Harold's Pilgrimage)』第1巻の13節と14節の間に挿入された抒情詩です。

この抒情詩だけを取って「Childe Harold's Good Night
(チャイルド・ハロルドの告別)」と、独立した作品として読まれることもあります。

落合直文が訳出するの際、直接用いたのはハインリッヒ・ハイネの独訳(ハインリッヒ・ラウベ編『ハイネ全集』)とされていますが、これまで見てきたように、バイロンの英語の原詩もかなりの部分参照していとようです。

バイロンの原詩は、各連8行10連の長詩で、抑揚格を基本とする8音節と6音節の行を交互に配し、各連ともababcdcdの脚韻を踏んでいます。ハイネの訳も、基本的に同じです。

直文の訳詩は、いわば「韻」訳。原作の抑揚や音節の数にはこだわらず、脚韻だけを踏襲する七五調の文語詩になっています。それに、和歌的な想像力によって付加・改変が施されてます。

きのう見たように原作者のバイロンは、地中海地方の旅行を素材にした自伝的長編であるこの『チャイルド・ハロルドの遍歴』によって、一躍時代の脚光をあびました。政界や社交界にも進出しましたが、やがて母国を去り、義勇軍を募って参加したギリシア独立戦争のさなかに病没しています。

バイロンは、日本の近代文学にも大きな影響を与えました。すでに明治10年代には自由の詩人として書生たちに知られ、以前見たように大和田建樹は明治19年4月の『書生唱歌』に「バイロン氏の青海原」という訳詩を発表してます。

大和田建樹(1910-1857)=写真=は、伊予(愛媛)宇和島に生まれ、広島外国語学校卒業後、明治13(1880)年に上京し、ほとんど独学で国文学を研究。帝大文科大古典講習科講師、高等師範学校教授などを歴任しました。詞華集『詩人の春』(1887)などで文名をあげ、『鉄道唱歌』(1900)をはじめ、多くの唱歌集を刊行しました。

当時の青春群像を描いた島崎藤村の『春』(明治41年)にも、主人公たちがこの詩を英語で口ずさむ一節があります。また、土井晩翠にも訳詩「チャイルド・ハロウドの巡礼」(大正13年5月)があります。

独訳をしたハイネ(Christian Johann Heinrich Heine、 1797-1856)は、自ら「バイロンのいとこ」と称し、「彼は私が血縁と感じている唯一の人間であった」と回想しています。

ハイネが訳したバイロンの詩は『詩集』(1821年)に一括して収録されました。そのあとがきには「1821年11月20日、ベルリンにて」とあり、「Childe Harold's Good Night」にあたる部分などの翻訳について、「昨年初めて稿成ったものであり、私が英詩はいかにドイツ語に訳すべきものかと考えていることの見本として示すに足りよう」と自信のほどを示しています。


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2019年05月03日

「いねよかし」⑰(『於母影』24)

「いねよかし」を作ったと考えられる落合直文について、もう少し詳しく見ておきましょう。

阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれ
いずこの寺の鐘ならむ、諸行無常とつげわたる
をりしもひとり門を出て、父を待つなる少女あり。
年は十四の春あさく、色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわからねども、末たのもしく見えにけり
父は先つ日遊猟(かり)にいで、今猶おとずれなしとかや
軒に落ちくる木の葉にも、かけひの水のひびきにも、
父やかへるとうたがわれ、夜な夜なねむるひまもなし
わきて雨ふるさ夜中は、庭の芭蕉の音しげく、
鳴くなる虫のこえごえに、いとどあわれを添えにけり
かかるさびしき夜半なれば、ひとりおもいにたえざらむ
菅の小笠に杖とりて、いでゆるさまぞあはれなる

孝女

この詩は、井上哲次郎の漢詩「孝女白菊詩」に刺激を受けた落合直文が、新体詩形式に書き換えて、明治21(1888)年から翌22年にかけて「東洋学会雑誌」に発表「孝女白菊の歌」の一部です。

西南戦争(明治10年)のころ、熊本県・阿蘇の白菊の群生地で拾われ育てられた「白菊」という名前の少女が、行方知れずの父を求め旅に出る話です。

その作品は大きな評判となり、全国の少年少女に愛唱されました。また、作り話にもかかわらず、熊本県・南阿蘇村には「孝女白菊の碑」も建てられました=写真

ドイツの詩人カール・フローレンツによって1895年に「Weiss Aster」の題で独訳、3年後には英国のアーサー・ロイドにより「White Aster」として英訳され、世界的に知られてもいます。

「いねよかし」と同じように「孝女白菊の歌」も、平易な現代語を求めるよりもむしろ、典雅なしらべと陰影に富んだ古典語を尊重し、それを土台に新体詩を作ろうとしていたことがうかがえます。

当時の直文について、門下の金子薫園は次のように記しています。

「先生の兵営生活は明治十七年の春から二十年の春に亘つた。陸軍医務局付の看護卒となつて衛戍病院に勤務した。比較的閑散な位置にあったので、先生は此の間に異常な努力で国語国文の研究に当られた。古典科在学の人々と同じ位の力を此の間に養われたと云ふ」(「落合直文の国文詩歌に於ける新運動)」『早稲田文学』大正14・6)

文久元(1861)年11月22日、陸前国(宮城県)伊達家の重臣鮎貝(あゆかい)家に生まれた直文は、11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学んでいます。

明治7(1874)年には、国学者・落合直亮の養子となり、養父の転任で伊勢に移り、神宮教院に学びました。1881年に上京。翌年には東京大学文科大学古典講習科に入学しますが、1884年には中退して入営、3年間の軍務をつとめたのです。

大学をやめて軍務にあっても、「国語国文」への研究意欲は決して衰えることはなかったのです。そして直文は、1888(明治21)年、伊勢神宮教院時代の師であった松野勇雄に招かれ皇典講究所(現・國學院大學)の教師となり、教育者・国文学者としての道を歩んでいくことになります。

ちょうどこんな時期に「孝女白菊の歌」が作られ、続いて「いねよかし」が発表されることになったのです。


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2019年05月04日

「いねよかし」⑱(『於母影』25)

「いねよかし」で、古語を自在に駆使した直文。それが具体的にどのようなものだったか。きょうは、冒頭の4行を例に検討してみます。

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり

紀貫之

「けさたちいでし」のところは、原詩は「Adieu,adieu!(さらば、さらば!)」、独訳でも同義の「Leb wohl! leb wohl!」となっていて、訳詩との間にどちらも意味的なつながりを見出せません。

慶応義塾大学国文学研究会の『森鴎外・於母影研究』では「直文の古典的イメージ・発想の世界を探照することによって、この問題を考えるべき」として、次のように分析しています。以下は、その引用です。

第一に〈けさ〉の語に着目しよう。もちろん、三行目の〈夜嵐〉等によって知られる現在の時と対照をなすように出発の時を表わす〈けさ〉を設定し、その間の時間的経過を黙示するという技巧的な意図もあろう。

しかし、交通手段のさほど発達していなかった時代の旅を想定するならば、夜が明けると同時に出発するのはごく当然のことだったのである。

これがいわゆる〈朝立ち〉である。「いねよかし」がもともと旅の詩であったことを考えると、〈けさ〉の設定にはこのような古典的発想が大きく関与していたと思われるのである。

次に〈たちいでし〉の部分について考えてみよう。そもそも、日本古来の旅の文学においては、その発端としての旅立ち、すなわち門出がきわめて重要な位置を占めてきた。

このことは、『土佐日記』以来の紀行文学をみれば明らかである。民俗学的にも、これは重要な儀式であった。この点をふまえるとき興味をひくのは、次のような謡曲の詞章である。

(A)けふ出(い)でて いつ帰るべき古里(ふるさと)と、思へばなほもいとどしく(『夜討曾我』)

(B)相模(さがみ)の國を立(た)ち出(い)でて、相模の國を立ち出でて、たれに行(ゆ)くへを遠江(とおとおみ)、げに遠(とお)き江(え)に旅舟(たびぶね)の。(『景清』)

両者とも曲のはじめの部分にある旅の記述であるが、「いねよかし」に類似した旅の出発が謡われているのである。

詳述する余裕はないが、このように旅の文学の冒頭において旅人の日常的世界(家や故郷)からの出発が明確に示されることの背景には、日本に古来からる門出の発想が存していると考えられるのである。

さて、次行の〈青海原〉に考察を移そう。この語は確かに原詩のthe waters blue(青い海)や独訳のblauen Meer(同義)の適切な訳語である。

しかし、直文の古典的イメージ・発想の世界においては、また特別の意義をもっているように思われる。これを明らかにするために、まず平安時代の和歌にその用例を探ってみよう。すると我々は次のような歌を見出す。

あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも

この歌は、日本古来の旅の文学の代表として既にその名を掲げた、紀貫之の『土佐日記』承平五年一月二〇日の条に、阿倍仲麿の作として記されているものである。この歌の原形は、『古今集』巻九・羇旅歌冒頭にあるごとく、

天の原ふりさけみれば春日なるみ笠の山にいでし月かも

というものである。これは周知のごとく、仲麿が中国から帰国の旅に出ようとしたときの門出の歌である。貫之はこの歌を自らがおかれた海路の旅という状況にあわせて改変したと考えられている。

このような例歌の存在をふまえ、しかも既に述べたごとき直文の古典的教養の範囲内に『土佐日記』が入るものとするならば、〈青海原〉の訳語を用いる直文の古典的イメージ・発想の世界において、海路の旅を中心とする『土佐日記』の内容が意識されていたと考えることも可能であろう。

ちなみに『土佐日記』では、停泊していた港から出帆するとき

九日のつとめて、おほみなとよりなはのとまりをおはんとて、こぎいでけり。
十一日。あかつきにふねをいだして、むろつをおふ。

というような興味深い記述も見出されるのである。これは、まさに海路の旅における〈朝立ち〉である。


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2019年05月05日

「いねよかし」⑲(『於母影』26)

「いねよかし」に見られる直文の古文の用いかたについて、きょうは、『森鴎外・於母影研究』に基づいて、次にあげる「その七」の後半4行を検討します。

といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

大伴家持

この2行目で、直文は注目すべき改変が行われています。ここは、故郷に残してきた妻子が心配だとこたえながらも「泣かぬ」従僕に対して、ハロルドが、そのように泣かずにいるのはお前にふさわしい男らしい態度だと称揚する部分です。

しかし、原詩や独訳と比べると、内容が大幅に違っています。この部分は、原詩では「Thy grief let none gainsay(お前の悲しみを誰がとがめだてしようか)」、独訳でもほとんど同様に「Man ehre deinen Schmerz(お前の悲しみには敬意を表す)」となっています。

すなわち、原詩や独訳では、ハロルドは従僕の妻子と別れた悲しみに十分理解を示しているものの、決して彼の男らしい態度を称揚してはいないのです。

一方、直文の訳詩では、従僕の悲しみは背後へと押しやられ、その悲しみに耐える「猛き身」が前面に押し出されてきています。この改変の背後には、単なる意訳の域をこえた直文の「古典的想像力の発動」があったと考えられるといいます。

「いねよかし」冒頭の「けさたちいでし故里は/青海原にかくれけり」にあった「青海原」は、『土佐日記』よりも前の『万葉集』にも見られます。

青海原風波なびき行くさ来さ障(つつ)むことなく船は早けむ

これは、『万葉集』巻20にある大伴家持=写真=の歌です。詞書の「渤海大使小野田守朝臣に餞(うまのはなむけ)する宴(うたげ)の歌」からも知られるように、これもまた海路の旅に出る人への餞別の歌となっているのです。

「その七」の「とつ国」が万葉語であることからも、直文の古典的想像力の領域は、『土佐日記』からさらに『万葉集』の世界へと重層的に広がっていると考えることができそうです。

大君の 命畏(みことかしこ)み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫(ますらを)の 情(こころ)振り起し とり装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平けく われは斎(いは)はむ 好去(まさき)くて 早還(かへ)り来と

これは、『万葉集』巻20にある「防人の情に為りて思を陳(の)べて作る歌一首」と詞書の付された家持の長歌の冒頭です。

妻と別れるのは悲しいが、「丈夫」すなわち猛き男子の心意気で雄々しくふるまうという箇所が注目されます。この「丈夫」的な男性像は、巻20の防人歌だけでも数多く見ることができます。

このイメージは「泣かぬ我しもべ」を「猛き身」にふさわしいと称揚する直文の発想の根幹にあったと考えられるのです。

「その七」において、原詩・独訳と大きくかけ離れた訳出がされたのは、決して偶然的なものではなく、直文の内部では「丈夫」讃美の発想から導かれる必然的な改変だったと考えることができるのです。


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2019年05月06日

「いねよかし」⑳(『於母影』27)

きょうは、これまで読んできた「いねよかし」の日本の近代文学史における意義について『新体詩抄』と比較しながら検討しておきましょう。

涼しき風に吹かれつヽ ありし昔の我父の
椅子にもたれてあるさまハ 実に心地克くありにける
その座をしめし腰掛の 堅く作れる臂掛に
よそぢの昔荒/\と 刻みのこせる我名前
猶あり/\とみゆるなり 柱に掛し古時計
元にかハらぬ其音色 聞きて轟く我胸に
満る思ハ猶切に はりさく如く堪がたし

新体詩

上にあげたのは、『於母影』の7年前、1882(明治15)年に刊行された、日本における最初の新体詩集とされている『新体詩抄』の最初の作品「ブルウムフ井-ルド氏兵士帰郷の詩」の冒頭部分です。

帰郷した兵士が昔のままのわが家の様子を見て、いまは亡き父を思い出している場面です。

「其言語ハ皆ナ平常用フル所ノモノヲ以テシ敢テ他国ノ語ヲ借ラズ又千年モ前ニ用ヒシ古語ヲ援カズ故ニ三尺ノ童子ト雖モ苟クモ其国語ヲ知ルモノハ詩歌ヲ解スルヲ得べシ」(矢田部良吉「グレー氏墳上感懐の詩」序言)とされるように、実に平易な用語が使われています。

たしかに、「三尺ノ童子」でも理解できる詩という『新体詩抄』の理念にかなうものといえるのでしょう。この詩集の中のほかの詩篇も、おおむねこのような傾向をもっていました。

しかし半面で、形式的には七五調を用いてはいるものの、韻律的な魅力に乏しく、イメージに深みのないことも否めません。用いる言葉にこうした足かせをしたからには、「いねよかし」に見られるような韻律的効果や陰影に富む豊穣なイメージの世界は望むべくもなかったのです。

一方で『新体詩抄』の目的は、「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ノ作ル所以ナリ」(井上哲次郎「玉の緒の歌」序言)とあるように「古歌」でも「漢詩」でもなく、「明治」という新しい時代にふさわしい「新体ノ詩」を創り出すことにありました。

これまで見てきたような直文の重層的な古典的イメージ・発想の世界は、こうした新時代にふさわしい「新体ノ詩」という問題への直文なりの答えだったと考えることができるのでしょう。

ただし、逆に見れば、『万葉集』など日本の古典世界の素養を背景とする想像力以外に、直文は「いねよかし」の訳詩を生み出す原動力を持ち合わせていなかった、ということがいえるのでしょう。

となれば、当然の成り行きとして『新体詩抄』の目指した「童子ト雖モ苟クモ其国語ヲ知ルモノ」すべてが解する詩ではありませんでした。

『森鴎外・於母影研究』では、こうした視点から「いぬよかし」の意義について、次のようにまとめています。

〈「いねよかし」の世界は、平易な現代の日本語とは隔絶した古典的語彙群によって支えられた美的な一世界だったのである。直文もそのことは十分承知していたはずである。

鷗外をはじめとする他の新声社の同人たちを知っていたはずである。だが、彼らはそれを敢て善しとし、「いねよかし」を『於母影』の巻頭に置いたのである。

とするならば、そこに我々は彼らの一つの詩的態度を読みとることができるのではないだろうか。それは、一言でいえば、『新体詩抄』的立場へのアンチテーゼであったように思われる。

詩抄の掲げた、平易な現代語の使用という目標は、確かに近代芸術としての詩のあるべき方向を示していた。だが、それは芸術的な完成度の低い作品しか生み出しえなかった。

新声社の若き詩人たちは、このような詩抄の問題提起に対して、古典語使用を背景とした優れて美的な詩的世界の創出をもって応えたのである。

もちろんそれは、詩抄の提起した本質的な問題に対する真正面からの解答であったとはいえない。とはいえ、彼らの達成なくしては、後にみられるような近代詩の発展がなかったであろうことも間違いなかろう。〉


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