高見順

2018年12月10日

「死者の爪」(『死の淵より』Ⅰ)

きょうから高見順(たかみじゅん、1907-1965)の晩年の詩集『死の淵より』の作品を一日一篇ずつ眺めていきたいと思います。きょうは、詩集冒頭の短詩「死者の爪」です。

   死者の爪

つめたい煉瓦(れんが)の上に
蔦(つた)がのびる
夜の底に
時間が重くつもり
死者の爪がのびる

爪

凝縮された言葉が、冴えた、透明な響きを放ちながら、「死」という代物を捕捉しようとしているように思われます。

実際に「死者の爪がのびる」ということがあるという話を、聞くことがあります。しかし、実際には伸びているわけではなく、伸びているように見えるだけ。

死んで体から水分が失われて乾燥すると、肌など柔らかい組織が縮むので、爪が目立つようになり、あたかも伸びたように見えるのだそうです。

でも、「夜の底に」「つも」る「時間」の「重」みで「死者の爪がのびる」感じ、確かに伝わってきます。

『死の淵より』は、高見順が亡くなる前の年の1964(昭和39)年に講談社から出版されました。『樹木派』(1950)、『高見順詩集』(1953)、『わが埋葬』(1963)に続く4冊目の詩集です。

「昭和三十九年六月十七日、再入院の前日」という日付が入った詩集の前文には、次のように記されています。
〈食道ガンの手術は去年の十月九日のことだから早くも八ヵ月たった。この八ヵ月の間に私が書きえたものの、これがすべてである。まだ小説は書けない。気力の持続が不可能だからである。

詩なら書ける――と言うと詩はラクなようだが、ほんとは詩のほうが気力を要する。しかし持続の時間がすくなくてすむのがありがたい。

二三行書いて、あるいは素描的なものを一応書いておいて、二三日おき、時には二三週間、二三ヵ月おいて、また書きつゞけるという工合にして書いた。

千葉大の中山外科から十一月末に退院した。手術後の病室で書かれた形の詩をこのⅠに集めた。形のというのは病室で実際に書いた詩ではないからだ。手術直後にとうてい書けるものではない。

気息えんえんたる状態のなかでそれは無理だ。しかし枕もとのノートに鉛筆でメモを取った。それをもとにして退院後書いたのが、これらの詩である。そこでやはり病室での詩ということにした。

肋膜の癒着もあったせいか、手術はよほどヘビイなものだったらしく三時間近くかかった。爪にガクンとあとが残り、それが爪がのびるとともに消えるのに半年近くかかった。詩が書けはじめたのは(さきに退院後と書いたが実際は)その半年すこし前のことである。

「死の淵より」という題の詩をひとつ書こうと思ったのだが、できなかった。できたら、それを全体の詩群の題にしようと思っていた。それはできなかったのだが、全体の題に残すことにした。〉


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2018年12月11日

「三階の窓」(『死の淵より』Ⅰ)

『死の淵より』、きょうは各8行、4連からなる「三階の窓」という詩です。

  三階の窓

窓のそばの大木の枝に
カラスがいっぱい集まってきた
があがあと口々に喚わめき立てる
あっち行けとおれは手を振って追い立てたが
真黒な鳥どもはびくともしない
不吉な鳥どもはふえる一方だ
おれの部屋は二階だった
カラスどもは一斉せいに三階の窓をのぞいている

何事かがはじまろうとしている
カラスどもは鋭いクチバシを三階の部屋に向けている
それは従軍カメラマンの部屋だった
前線からその朝くたくたになって帰って
ぐっすり寝こんでいるはずだった
戦争中のラングーンのことだ
どうかしたのだろうか
おれは三階へ行ってみた

カメラマンはベッドで死んでいたのだ
死と同時に集まってきたのは
枝に鈴なりのカラスだけではなかった
アリもまたえんえんたる列を作って
地面から壁をのぼり三階の窓から部屋に忍びこみ
床からベッドに匍いあがり
死んだカメラマンの眼をめがけて
アリの大群が殺到していた

おれは悲鳴をあげて逃げ出した
そんなように逃げ出せない死におれはいま直面している
さいわいここはおれが死んでも
おれの眼玉をアリに襲われることはない
いやなカラスも集まってはこない
しかし死はこの場合も
終りではなく はじまりなのだ
なにかがはじまるのである

カラス

詩人は、「窓のそばの大木の枝」に「いっぱい集まってきた」カラスに対して、「不吉な鳥ども」と言い放っています。

古来、日本ではカラスは霊魂を運ぶ霊鳥とされ、「烏鳴きが悪いと人が死ぬ」という伝承があり、カラスが騒いだり異様な声で鳴くとその近所に死人があると信じられました。

また、柿を収穫するとき、翌年、カラスが柿の木に宿る霊魂を連れて帰ってくると考えられ、カラスのために最後の実を残す風習があったともいわれます。「月夜烏は火に祟る」と言われ、夜のカラスの鳴き声が火災の前兆とされる俗信もありました。

カラスは熊野三山の御使いでもあります。熊野神社などから出す牛王宝印の紙面は、カラスの群れが奇妙な文字を形作っています。これを使った起請を破ると、熊野でカラスが3羽死に、その人には天罰が下るといいます。「誓紙書くたび三羽づつ、熊野で烏が死んだげな」という小唄もあるそうですです。

イギリスでは、アーサー王が魔法をかけられてワタリガラスに姿を変えられたと伝えられます。このことからワタリガラスを傷付けることは、アーサー王(さらに英国王室)に対する反逆とも言われ、不吉なことを招くとされています。

ギリシア神話では太陽神アポロンに仕えていました。色は白銀で美しい声を持ち、人の言葉も話すことができる賢い鳥でした。しかし、ある時にカラスは、天界のアポロンと離れて地上で暮らす妻コロニスが、人間の男であるイスキュスと親しくしているとアポロンに密告しました。アポロンは嫉妬し、怒り、天界から弓で矢を放ち、コロニスを射抜いてしまいました。

死ぬ間際に「あなたの子を身ごもっている」と告げたコロニスの言葉に、我に返ったアポロンは後悔し、きっかけを作ったカラスに行き場の無い怒りをぶつけ、その美しい羽の色と美声と人語を奪った。カラスは天界を追放され、喪に服すかのように羽は漆黒に変わり、声も潰れて、言葉を話すどころか、醜い鳴き声を発することしかできなくなったとされます。

このようにカラスは、知能が高い面がこうかつなな印象を与えたり、食性の一面である腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、さまざまな物語における悪魔や魔女の使いや化身のように、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。逆に、神話や伝承にあるように、古来から世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」としてあがめられてきた生き物でもあるのです。

「カラスどもは鋭いクチバシを三階の部屋に向けてい」ます。そこは「従軍カメラマンの部屋」でした。

この時代に「従軍カメラマン」といえば、ベトナム戦争のことでしょう。第2次世界大戦後の冷戦下、インドシナ半島の旧フランス植民地で起きたこの戦争は、親米のベトナム共和国(南ベトナム)の独裁政権打倒をめざして1960年12月、南ベトナム解放民族戦線が結成され、共産主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が支援しました。

米軍は65年2月から国境を越えて北ベトナムに大規模な空爆(北爆)を開始。73年1月に米軍の撤退を主内容とするパリ協定が調印され、南ベトナム政府は75年4月に無条件降伏しました。ベトナム人の犠牲者は軍民合わせて120万~170万人と推計されています。

この詩が作られたのは、ベトナム戦争で、カメラマンなど報道関係者に多くの犠牲者が出た時代でした。たとえば、沢田教一(1936-1970)は 1966年年にベトナム人母子を撮影した「安全への逃避」でピュリッツァー賞を受賞しましたが、1970年10月28日にプノンペン南方でゲリラに銃撃され、死亡しています。

「アリ」の食性は多様に分化していますが、キバハリアリやハリアリなどの下等なアリ類はほとんど肉食です。昆虫の幼虫、ミミズ、小動物の死骸など餌はいろいろあります。高等なアリの多くは雑食性で、動物性食物のほかに花や葉の蜜腺の分泌物、アブラムシやカイガラムシなどの分泌する甘露など多くのものが加わります。

「死んだカメラマンの眼をめがけて/アリの大群が殺到してい」るのに、「悲鳴をあげて逃げ出し」てきた「おれ」。確かに「アリに襲われること」も「いやなカラスも集まってはこない」。しかし、決して「逃げ出せない死」に直面しています。「おれ」は、「死」の確実な「はじまり」を痛切に感じているのです。


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2018年12月12日

「ぼくの笛」(『死の淵より』Ⅰ)

『死の淵より』、きょうは「ぼくの笛」という8行の絶唱です。

   ぼくの笛

烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる

気管

わたしたちののどは、食事を取るときには食べ物の通り道となり、呼吸する際は空気の通り道となります。

この仕分けをしているのが喉(こう)頭です。喉頭は気管の入り口にあり、喉頭蓋や声帯をもっています。喉頭蓋や声帯は呼吸をしているときは開いていて、物をのみこむときにはかたく閉じて食物が喉頭や気管へ入いらないように防ぐ役目をしています。

また、声帯は、発声のときには適度な強さで閉じて、吐く息によって振動しながら声を出します。つまり喉頭は、呼吸をする、物をのみこむ、声を出すという3つの大きな働きをしているのです。

喉頭に続いて気管が始まり、食道の前を垂直に下がって第4~6胸椎の高さで左右に分れて気管支となります。左右の主気管支はさらに細気管支に分れ、肺胞に連なります。気管支内面の粘膜は線毛上皮でおおわれ、線毛運動によって鼻から吸込んだ空気中の異物を排出します。

喉頭癌などで喉頭全摘出術を受けた無喉頭の人は普通の発声ができなくなるので、発声に使うため空気を食道を経て胃内に飲み込み、その空気を咽頭から口腔へと逆流させて、その際に食道起始部が振動して出る音を音声として用いる食道発声を行います。

しかし、食道癌の手術を受けた「ぼく」はというと、手術で、がんを含めて食道およびリンパ節を含む周囲の組織を切除してしまったと考えられます。食道を切除した後には食物の通る新しい道が再建はされますが、「食道が吹きちぎられた」状態になったからには、気管だけが宙ぶらりんになったことになります。

のどから空気の通り道だけが残って「気管支が笛になって/ピューピューと鳴って」いるといいます。食道発声が上達すると、言葉をうまく出せるようになりますが、気管の用い方が上手になると「ピューヒョロヒョロとおどけ」た鳴り方をさせることができるのでしょうか。

でも、せっかく「じょうずになって」出したこの音ですが、「かえってぼくを寂しがらせ」てしまう切ないもののようです。


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2018年12月13日

「帰る旅」(『死の淵より』Ⅰ)

高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「帰る旅」とい作品です。

  帰る旅

帰れるから
旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつかは戻れるからである
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり
どこにもあるコケシの店をのぞいて
おみやげを探したりする

この旅は
自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を

大地へ帰る死を悲しんではいけない
肉体とともに精神も
わが家へ帰れるのである
ともすれば悲しみがちだった精神も
おだやかに地下で眠れるのである
ときにセミの幼虫に眠りを破られても
地上のそのはかない生命を思えば許せるのである

古人は人生をうたかたのごとしと言った
川を行く舟がえがくみなわを
人生と見た昔の歌人もいた
はかなさを彼らは悲しみながら
口に出して言う以上同時にそれを楽しんだに違いない
私もこういう詩を書いて
はかない旅を楽しみたいのである

土壌

詩人は、癌との闘病生活を「自然へ帰る旅であ」り「土に戻れる」旅だと位置づけています。そして「帰れるから/旅は楽しいのであり」さらには死という「帰るところのある旅だから/楽しくなくてはならない」と言い聞かしているようです。

「死」いう概念は、生物の個体、器官、組織、細胞など、さまざまのレベルで考えられています。

プラトンでは死は魂を肉体から解放するものであり、プロチノスはそれゆえに死を善としました。

信仰のうえでも、肉体的な存在と精神的な存在を区別しようと試み、死に続く人体の分解にもかかわらず、死を経験してもその人の何かは生延びると考えられています。

聖書では「神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に息を吹き入れられた。すると、人は生きた魂になった」(創世記2:7)としたうえで、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」(創世記3:19)と、こうした肉体の死の一方で、永遠の生命たる神からの離反としての魂の死もいわれます。

詩人は信仰の死よりも、ドライでやや唯物論的に死を考えて(ようと)しているようです。肉体と精神を区別せず「大地へ帰る死を悲しんではいけない/肉体とともに精神も/わが家へ帰れる」といいます。

科学的にとらえれば、自然から生命が生まれた以上、好むと好まざるとにかかわらず、死は生命サイクルの一部に組み込まれています。死とともに人体を土へと徐々に戻していく複雑なプロセスが始まります。

化学的に「分解」を重ねていく過程で、私たちの生体構造は、単純な有機物や無機物に転換され、植物や動物がそれらを利用できるようになっていくのです。

「古人は人生をうたかたのごとしと言った」というのは、鴨長明『方丈記』の有名な冒頭の部分「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。

「川を行く舟がえがくみなわを/人生と見た昔の歌人」とは、「巻向(まきむく)の山辺とよみて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人われは(巻向の山辺を、どうどうと音を立てて勢いよく水が流れ行くが、人生なんて川の流れに出来る水の泡のように、はかないものよ)」(万葉集・巻7)と歌った柿本人麻呂のことでしょうか。

人生という「はかない旅を楽し」む。そんな詩人であろうとする懸命な思いがつたわってきます。


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2018年12月14日

「汽車は二度と来ない」(『死の淵より』Ⅰ)

 高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「汽車は二度と来ない」という21行の作品です。

   汽車は二度と来ない

わずかばかりの黙りこくった客を
ぬぐい去るように全部乗せて
暗い汽車は出て行った
すでに売店は片づけられ
ツバメの巣さえからっぽの
がらんとした夜のプラットホーム
電灯が消え
駅員ものこらず姿を消した
なぜか私ひとりがそこにいる
乾いた風が吹いてきて
まっくらなホームのほこりが舞いあがる
汽車はもう二度と来ないのだ
いくら待ってもむだなのだ
永久に来ないのだ
それを私は知っている
知っていて立ち去れない
死を知っておく必要があるのだ
死よりもいやな空虚のなかに私は立っている
レールが刃物のように光っている
しかし汽車はもはや来ないのであるから
レールに身を投げて死ぬことはできない

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前の詩「帰る旅」で、「この旅は/自然へ帰る旅である/帰るところのある旅だから/楽しくなくてはならないのだ/もうじき土に戻れるのだ」と歌いましたが、ここでは旅に出ようにも、「暗い汽車は出て行っ」たまま「もう二度と来」ません。

「ツバメの巣さえからっぽの/がらんとした夜のプラットホーム」に、「私ひとり」が取り残されています。

「永久に来ない」ことを「私は知っている」のに、「知っていて立ち去れない」のだといいます。

「死を知っておく必要がある」という宿命から、「死よりもいやな空虚」である「夜のプラットホーム」に「私は立ってい」なければならないのでしょうか。

「私」にとっての「死」というのは、「土に戻」こと。とすれば、「自然へ帰る旅」のための「汽車はもはや来ないの」だから「レールに身を投げ」たところで「死ぬことはできない」ということになります。

高見順は1963(昭和38)年10月に食道癌と診断されて千葉大学附属病院に入院しました。同9日に手術を受けて、11月末に退院しています。

この詩は、この間に手術後の病室で、枕もとのノートに鉛筆で書き込んだメモをもとに退院後に書かれたものの一篇です。

高度経済成長のこの時代、ビジネス客や観光客が増え、大量の物資が国内を動くようになって鉄道は増え続ける旅客や貨物を運ぶために輸送力の強化が続けられ、新型車両が次々と投入されました。1964年完成を目ざし「時速200 kmを超える定期列車」すなわち新幹線の開発も進められていました。

1959年(昭和34年)に答申された「動力近代化計画」では、「昭和35年度から50年度までに主要線区5000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行い、蒸気機関車の運転を全廃すべきである」とされています。

こうした流れのなか、1948年にE10形5両が製造されたのを最後に、国鉄における蒸気機関車製造は終了。次第に数を減らした汽車は1974年11月に本州から、1975年3月に九州からと、相次いで姿を消してゆきました。

蒸気機関車が引っ張る「汽車はもはや来ない」時代も、到来していたのです。


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2018年12月15日

「死の扉」(『死の淵より』Ⅰ)

高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「死の扉」という1行詩です。

  死の扉

いつ見てもしまっていた枝折戸(しおりど)が草ぼうぼうのなかに開かれている 屍臭がする


枝折戸

「枝折戸」=写真=は、竹や木の枝を折って作った簡素な開き戸のこと。とくに庭園内の見切り、内外露地の境に設けられる木戸をいいます。

本来、木の枝を折ってつくった粗末な開き戸を意味しましたが、今日では和風庭園などで風雅を求めて用いられ、茶庭では、露地門として使われることが多くなっています。

折り曲げた青竹を框(かまち)として、これに割り竹で両面から菱目(ひしめ)模様に組み上げて、前後の重なりを蕨縄(わらびなわ)で結び付けてつくります。

高見順は1963(昭和38)年10月5日に、食道癌を治療するため、千葉市亥鼻の千葉大学附属病院に入院ました。同9日に手術を受け、11月28日まで2カ月弱、ここで入院生活を送っています。

亥鼻は、1126年に千葉常胤の父・常重が居館を構えた千葉発祥の地。病院の近くには、豊かな緑につつまれて、日本庭園や茶店のある歴史公園もあります。

入院時の日記のノートには、次のような詩の断片も記されています。

  落ち葉
  ふり積るやうに
  私のためいき
  積つて――
  風に吹かれて
  道に出て
  人にふまれてゐる


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2018年12月16日

「泣きわめけ」(『死の淵より』Ⅰ)

高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「泣きわめけ」という5行の詩です。

  泣きわめけ

泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣いていないで
膿盆(のうぼん)の血だらけのガーゼよ
そして私の心よ

膿盆

外づらは平静を装いながらも、ひそかに「うずくまって小さくなって泣いてい」る「私の心」に、「泣け 泣きわめけ/大声でわめくがいい」と、発破をかけています。

「膿盆」は、外科的処置や手術のときに用いる扁平でそら豆形の容器。この詩にあるように使用ずみのガーゼや切除・摘出した臓器組織などを入れます。

くぼみのあるそら豆のような形をしているのは、嘔吐する際にそのくぼみの部分を顔に当てるなど、体に密着させやすくし、液体がこぼれないようにするためです。

ここに出てくる膿盆の材質は金属(ステンレス)製でしょうが、最近はプラスチック製や、ディスポーザブル(使い捨て)な紙製のものもあります。

入院中のノートには、次のような詩の断片もありました。

人はなぜ
死をおそれるのか
死ぬのをいやがるのか
そんなに生が楽しいのか
生きてゐることが いいことなのか
苦しみにみちた生なのに
わたしもなぜ
死を 恐れねばならぬのか

死を 空想
想像
創造

しかし
このとき ガンが    
     はじまつてゐたのだ


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2018年12月17日

「赤い実」(『死の淵より』Ⅰ)

高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「赤い実」。きのうと同じく5行の短い詩で、「赤い風景画」1と記されています。

  赤い実

不眠の
樹木の充血
患者の苦しみの
はじまる暁
赤いザクロの実が割れる

(「赤い風景画」1)

ザクロ

「樹木」が生育すれば、それによって地面は覆われ、多くの生命を支える環境を作り出します。樹木はまた、果実や木の実の重要な供給源でもあります。二酸化炭素を取り入れ、酸素を放出することによって、空気を浄化する手助けもします。

根は水を蓄え、洪水を防ぎ、土壌を浸食から守ります。また、樹木は生産物を多量に蓄え、休むことなく、さまざまな動物にすみかと食物を提供しつづける極めて特異な生産者といえるでしょう。

詩人は、そうした「樹木」(それは有機体としての人間の体でもあるのかもしれません)が、「充血」するのを見つめ、体感しています。それは「赤いザクロの実が割れる」のに象徴されるものなのでしょうか。

「ザクロ」は、ザクロ科の落葉小高木。なめらかで光沢のある楕円形の葉をもち、初夏に鮮紅色の花をつけます。果実は花托の発達したもので、球状で、果皮は厚く、中に薄い隔膜で仕切られた6個の子室があり、多数の種子が隔膜に沿って配列しています。

秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂けて、赤く透明な多汁性の果肉の粒(外種皮)が数知れず現れます。外種皮は甘酸っぱく特殊な風味があり、生食用とするほか、グレナディンなどの清涼飲料としています。

原産地はイラン。日本へは平安時代に中国を経て入ったと推定されています。花木として重んぜられ、花のほか果実も熟して割れる美しさを観賞してきました。また、根や茎の皮、果皮を薬用としてきました。

右手にザクロを持つ鬼子母神像は、釈迦が訶梨帝母(かりていも)にザクロを与え、人の子のかわりにその実を食べよと戒めたという仏教説話が伝わったもの。このため、ザクロは人肉の味がするとして、昔は好まれなかったようです。

仏典には降魔の威力をもつとあります。また、初期のキリスト教美術では、エデンの園の生命の木として描かれています。


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2018年12月18日

「突堤の流血」(『死の淵より』Ⅰ)

詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「突堤の流血」という作品です。2連11行。昨日の「赤い実」の「1」につづき「赤い風景画」2という傍題があります。

  突堤の流血

突堤の
しぶきの白くあがる尖端の
灰色のコンクリートにこびりついた
アミーバ状の血

寄せてはくだける波も
それがいくら努力しても
そこを洗うことはできない
そこに流された血は
そこでなまぐさく乾かされる
波にかこまれながら
ゆっくりと乾かされねばならぬ

(「赤い風景画」2)

突堤の

「突堤」(jetty)は、海岸と直行方向に沖合に向けて設けられる堤防状の構造物ですが、技術用語としては二つの意味をもちます。

一つは、海岸侵食対策に用いられる構造物のこと。突堤群として用いられ、捨石や消波ブロックを堤防状に築いた透過式のものと、長方形のコンクリートブロック、ケーソン、矢板などを堤防状に用いた不透過式のものがあります。

いずれも汀線から海側へ数十メートル突き出し、間隔はその長さと同じか2倍程度。突堤の高さは水面より1メートル程度高くし、海岸線へ斜めに入射する波に対して、沿岸方向に移動しようとする砂を阻止し、海浜の侵食を防止する役目をします。

二つ目は、港湾の埠頭の一形式である突堤式埠頭をいうのに使います。これは陸岸から海中へ幅150~300メートル、長さ数百メートルの埠頭を突出させ、これに船舶の係留施設、倉庫、上屋などを配置した埠頭形状の大規模なものです。

どちらの「突堤」を思い浮かべてのイメージかはわかりませんが、海岸侵食を防ぐため「寄せてはくだける波」に打たれながらも踏ん張る「灰色のコンクリート」のほうがしっくりするように思われます。

「アミーバ」(アメーバ)は、単細胞で基本的に鞭毛や繊毛を持たず、仮足で運動する原生生物の総称です。典型的なアメーバは、幅広い仮足を持ち、大型のものは1mmを越えますが、多くは10-100μm程度。

移動の際は細胞内の原形質流動により進行方向へ細胞質が流れるに従って、その形を変えるようにして動きます。この運動をアメーバ運動といいます。細胞体は透明で、体内には多数の顆粒が見え、特に内部の層では運動にしたがってそれらが流動するのが見られます。

アメーバは原形質流動によって移動し、そのため外見が変わり続けるため、「一生の内で二度と同じ形を取らない」と言われることもありますが、まったくの不定形ではなく、楕円形とかナメクジ状とか、おおよその形は属や種によって決まっているようです。

アメーバは、とにかく変幻自在で不定形の生物と認められているため、この詩のようにしばしば不定型なものに対してアメーバ状などと呼ばれます。

「血」は、動物の体内を循環する体液で、普通、血管内を流れます。赤血球、白血球、血小板の細胞成分と、血漿と呼ばれる液体部分から成り、血液全体の45%が細胞成分で、残り55%が血漿成分。赤い色は赤血球中に含まれるヘモグロビンによります。

心臓を中心に絶えず流動し、体の各部に酸素や栄養を補給し、体の各部でできた老廃物を運び出す役割をもち、体温の調節もします。体外で血液を放置すると、固形物(血餅)と液体(血清)とに分かれ、自然に固まります(血液凝固)。

詩人は、「突堤」のコンクリートにこびりついた血液を「洗うことはできない」といいます。「波にかこまれ」つつも「なまぐさく」「ゆっくりと乾かされねばなら」ないのです。それは、もはや不治の病におかされたわが身体を癒すことの困難さを表現しているように思われます。


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2018年12月19日

「渇水期」(『死の淵より』Ⅰ)

詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「渇水期」という9行の作品です。「赤い風景画」3という傍題があります。

  渇水期

水のない河床へ降りて行こう
水で洗ってもよごれの落ちない
この悲しみを捨てに行こう
水が涸れて乾ききった石の間に
何か赤いものが見える
花ではない もっと激烈なものだが
すごく澄んで清らかな色だ
手あかのついた悲しみを
あすこに捨ててこよう

(「赤い風景画」3)

リボン

食道を切除する手術後、高見順が最も苦しめられたのが人工食道だったようです。昭和38(1963)年11月6日の日記には「これから半年、ゴム管生活かと思うと、うんざり」とあります。

また、この「ゴム管生活」について秋子夫人は次のような注記を記しています。

〈「ゴム管生活」とは「人工食道」を取ったりはずしたりの生活で、そのわずらわしさに「うんざり」と思ったのだろうが、その実態は、「うんざり」等という生やさしいものではなく、しかも半年どころでは済まずに、日を追ってどんなに大変なものかが分ってきた。〉

食道癌の手術における食道再建は、いまも煩雑でなかなか困難なようです。通常は、胃か腸が代用食道に用いられますが、侵襲が大きくなって患者の負担が大きいので代用としての人工食道が発案されました。

1960年代には様々な材料の人工食道が開発され、大学病院に入院していた順も当時最先端のものを用いていたのでしょう。しかし、人工食道のゴム管が洩れたり、はずれたりといったことがよくあったようです。

また、無菌的な環境にある人工心臓とちがって、人工食道など消化器系の人工内臓では、中身が細菌に溢れた食物や糞便であるので感染のリスクが高く、近年、再生医療の発展で見直されるようになるまでは、けっきょく思うような効果を上げることはできませんでした。

「ゴム管生活かと思うと、うんざり」とあった11月6日の日記ノートの末尾には、次のような未定稿の詩が書きこまれています。

   漂ふリボン

リボンが漂つてゐる
私の病室に贈られてきた花束の
リボンが花から離れて
漂つてゐる

華やかな 漂ひながら
清らかに 形は崩さない

さまざまの病ひが
どうして私に
興味を持つ

私は
ゴルフにも   にも
興味を持たないのに

あたしが
またも
ちぎれて
風に吹かれて

稲妻のやうに
痛みが
胸の内部を貫く

「何か赤いものが見える/花ではない もっと激烈なものだが/すごく澄んで清らかな色だ」という「赤いもの」とは、日記にある「リボン」のようにも思われてきます。


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2018年12月20日

「不思議なサーカス」(『死の淵より』Ⅰ)

詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「不思議なサーカス」。各10行8連からなる作品です。

   不思議なサーカス

病室へ来る見舞い客は
だれでも、口のところに口があり
鼻のところに鼻があり
眼のところに二つの眼がある
当り前とは言え不思議である
悲しみとのつきあいに私はあきた
当り前すぎるつきあいがいやになった
そのためこんな当り前でないことを考えるのか
人間の顔はどうしてこうみんな当り前なのだ
眼が一つで口が二つの人間はいないのか

当り前でない死 あるいは殺人
不思議でない殺人 あるいは死が
今どこかで行われていることを考える
私のガンはそのいずれに属するか
私という人間が死ぬのに不思議はないが
私のガンは当り前でない殺人とも考えられる
私もさんざいろんなことをしてきたが殺人は
不思議でないそれも当り前でないそれもいずれもしていない
人を殺すことのできなかった私だから
むしろ不当に殺されねばならぬのか

私に人殺しはできぬ
しかし自分を殺すことはできそうだ
ほとんどあらゆることをしてきた私も
自殺だけはまだしていない
自殺の楽しみがまだ残されている
どういうふうに自殺したらいいか
あれこれ考える楽しみ
不思議な楽しみに私はいま熱中している
当り前でない楽しみだが
私にとっては不思議でない楽しみだ

病室の窓にわたした綱に
悲しみが
ほし物バサミでつるされている
なんべんも洗濯された洗いざらしの悲しみが
ガーゼと一緒にゆれている
ガーゼよりももっと私の血を吸った悲しみ
私はいま手に入れたばかりの楽しみを
あの悲しみのように手離すことを
ここしばらくは決してすまい
それは手離しがたい楽しみだからでもある

あらゆることをしてきた私は
いろいろの楽しみの思い出がある
玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか
あれは今から思うと悲しみを買いに行ったようなものだ
楽しみと思っていたものがすべて
実は悲しみだったとも考えられる
今度こそほんとの楽しみだ
自殺を考えることが
悲しみでなくほんとの楽しみであるようにするために
不思議な自殺法をあれこれと考えよう

私の友人は何人かすでに自殺している
思想に破れ首つりをした友人小沢
私たちの心を暗くした悲惨な自殺だった
奇型みたいに頭でっかちの男だった
自分の独特さ非凡さを誇るために
ひとのできない自殺をしてみせた友人久木村
軍人の息子でびっこだった
これは惨めな自殺でなかったとは言え
自殺の方法は独特ではなかった
独特でなくてもせめて不思議な方法はないか

窓ガラスをぶちこわし
黒いカラスの群を呼び入れようか
鞭を鳴らして実験用の犬どもを
サーカスの白い馬のように
窓をくぐらせこの部屋に闖入させようか
もはや鞭をして私自身を鞭打つことに使わせてはならぬ
狂乱の犬をぞくぞくと走りこませ
屍肉をついばむカラスと一緒に
私の自殺と一見関係がないような
不思議なサーカスをやらせたら面白いが

人生がすでに不思議なサーカスだ
人生のサーカスは誰の場合もすべて
不思議な人生でも当り前の人生でも死をもって閉じられる
そこにサーカスのような拍手はない
不思議な自殺で私は拍手をもとめようとしているのか
当り前でない死を自分でそうして慰めようとしているのか
耳が左右二つでもそれで人間の耳であるように
殺人といえどもその死はすべてひとつの当り前の死なのだ
当り前の死になってしまう前に
せめて自殺の楽しみをひとりで楽しまねばならぬ

玉ノ井

高見順の『闘病日誌』を見ていると、売れっ子作家らしく、友人や編集者らがひっきりなしに手術後の病室を訪れていたことが分かります。たとえば、昭和38年11月13日の日記には――

 ラジオの選挙演説を聞いてうとうと。
 11時半 はじめて朝食。
 洋(水谷洋)ちゃん来る。洋ちゃんと玄関まで(ついでに散歩)。
 浣腸――室内で大便。
 おそい昼食、すこし。疲れて昼寝。

 「岩波」竹田、海老原(Delicatessen)。田辺茂一(とめても、病室でタバコをのむ)。

 夜、松岡洋子。
 客疲れで食欲喪失。
 9時半、ムリにスープ(「吉田」のおばさん持参の五目鍋)、牛乳、パンちょっと。あとで苦しむ。

などとあります。こうした「見舞い客」たちと顔を合わせているなか、「悲しみとのつきあいに私はあきた/当り前すぎるつきあいがいやになった」と嘆きます。そして「当り前でない死」へと考えが及んでいきます。

高見順は、詩を書くことは「死」との駆け引きだ、と考えていました。詩を通して「自殺を考え」「楽し」むということは、死から免れようという切実な思いの裏返しなのかもしれません。

「玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか」いある「玉の井」=写真=は、東京都墨田区東向島五丁目へんにあった銘酒屋形式の私娼(ししょう)街のことです。

浅草十二階下の私娼街が1918(大正7)年ごろに移転させられたものを中心に発展。抱え女は一軒に2人以内が原則、通勤女や女主人の売春もあったようです。

強制売春だけでなく前借金のない女も40%前後いて、高級とはいえないものの特有の雰囲気をもつ私娼街でした。迷路のような路地続きに掲げられた「通りぬけられます」の表示や、永井荷風著『東綺譚』の舞台としても知られています。

高見順は、その代表作の一つでもある小説『いやな感じ』の舞台を戦前の玉の井に設定し、1927(昭和2)年、その私娼街へ行くところから物語をはじめています。


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2018年12月21日

「魂よ」(『死の淵より』Ⅰ)

詩集『死の淵より』のつづき、きょうはⅠ部の最後の作品。「魂よ」と訴えかけます。

  魂よ

魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分った
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう
第一 魂のほうがこの世間では高く売れる
食道はこっちから金をつけて人手に渡した
魂よ
生は爆発する火山の熔岩のごとくであれ
おまえはかねて私にそう言っていた
感動した私はおまえのその言葉にしたがった
おまえの言葉を今でも私は間違いだとは思わないが
あるときほんとの熔岩の噴出にぶつかったら
おまえはすでに冷たく凝固した熔岩の
安全なすきまにその身を隠して
私がいくら呼んでも出てこなかった
私はひどい火傷やけどを負った
おまえは私を助けに来てはくれなかった
幾度かそうした眼に私は会ったものだ
魂よ
わが食道はおまえのように私を苦しめはしなかった
私の言うことに黙ってしたがってきた
おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった
卑怯とも違うがおまえは言うこととすることとが違うのだ
それを指摘するとおまえは肉体と違って魂は
言うことがすなわち行為なのであって
矛盾は元来ないのだとうまいことを言う
そう言うおまえは食道がガンになっても
ガンからも元来まぬかれている
魂とは全く結構な身分だ
食道は私を忠実に養ってくれたが
おまえは口さきで生命を云々するだけだった
魂よ
おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
行為だけの世界に連れて来たい
そして魂をガンにして苦しめてやりたい
そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう

食道

「食道」(Esophagus)は、消化管の一部で、口腔、咽頭に続き、食物が胃に送り込まれるときに通過する臓器です。長さ25センチほど、太さ2から3センチの筒状をしています。

文字通り「食べ物の通る道」。口から入った食べ物を胃まで送る働きをしていて、消化活動はしていません。食道の筒の壁は、粘膜上皮、粘膜固有層、粘膜筋板、粘膜下層、筋層と、幾層もの構造でできています。

一番壁の内側にある粘膜は「重層扁平上皮」という組織で覆われています。この一番内側の粘膜から、食道癌が発生します。日本人の食道がんの90%以上がこのタイプの「扁平上皮癌」であり、60~70歳の男性に多く発病します。

全体は、頸部(けいぶ)、胸部、腹部の3つに区分されます。長さ5センチほどの頸部(第6頸椎)で喉頭の後ろ側で始まり、胸部(15~18センチ)では気管支、大動脈弓などの後ろを通り、横隔膜(食道裂孔)を突き抜けて腹部(2~3センチ)に至り、横隔膜の下(第11胸椎)で胃の噴門とつながっています。

口から飲み込まれて食道に入った物は、液体状の物は数秒程度で、固体状の物でも狭窄部にひっかかるようなことが無ければ数十秒もあれば食道を通過して胃へと送り込まれる。

食道には3箇所の生理的狭窄部があります。咽頭との接合部、気管支の後ろを通る部位、そして横隔膜を抜ける部位で、食物がよく詰まるのはこれらの箇所です。また、胃との接続部分である噴門部とともに、これらの狭窄部が食道ガンの好発部位として知られています。

粘膜のすぐ下層には多数の食道腺があり、粘膜の表面に粘液を分泌して食物の通りをよくするはたらきがあります。筋層は2層構造で、内側は輪走筋、外側は縦走筋に相当します。筋線維はいずれも斜めに走っていて、これらが順に収縮することで食物を胃に送り出すような動き(蠕動運動)をしています。

長い管状器官のため食道に分布する血管は、下甲状腺動脈、大動脈、左胃動脈などいろいろな動脈から枝を受けています。静脈では、食道胸部以下は奇静脈系(胸腔の後壁で脊柱の右側を上行する静脈系)に入るとともに左胃静脈ともつながっています。

食道への神経は迷走神経(副交感神経)と交感神経が分布して、食道神経叢を形成しています。副交感神経の場合は、食道の筋運動や分泌作用をつかさどり、交感神経は血管運動性と考えられます。

食道の病気の80%近くが、高見順を死へと追い込んだ食道癌です。手術で、自分の体の一部であった「食道が失われた今」、魂よりも「食道のほうが/私にとってはずっと貴重だった」ことが「はっきり分った」と詩人はいいます。

生か死かの土壇場にあっては、「魂」なぞという「口さきばかり」の精神的なものではなく、自分を成り立たせている物質的な存在、「行為だけの世界」のほうがものをいうと思えてくる。そして、デカルトの精神と物質の二元論ではありませんが、精神か物質と問われたら「魂を売り渡していたろう」というのです。

なぜかといえば、食道は「私の言うことに黙ってしたがってきた/おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった」から。

「魂をガンにして苦しめてやりたい」というのは、少々ヤケッパチのようではありますが、やり場のない思いをこんなふうに言い放てるのも詩の力なのでしょう。


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2018年12月22日

「青春の健在」(『死の淵より』Ⅱ)

詩集『死の淵より』のつづき、きょうからⅡ部に入ります。最初に出てくるのは「青春の健在」という38行の作品です。

  青春の健在

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者たちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ
さようなら
君たちともう二度と会えないだろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ

レコード製造

Ⅱ部には、次のような前書きがあります。

〈ここの詩は入院直前および手術直前に属するもので、本当はⅠの前に掲げるべきものである。順序が逆なのだが、それをなぜⅠの次にしたか、自分でもよくわからない。自分の気持としてそうしたかったからだが、詩のできがⅠのほうがいいと思えるのでそれをさきに見てもらいたいという虚栄心からかもしれぬ。

「みつめる」「黒板」「小石」「愚かな涙」「望まない」などは当時ほとんど即興的に書き流したままの詩で、のちの手入れがほどこされてないので、発表のはばかられる稚拙と自分で気がさしているのかもしれぬ。

「青春の健在」「電車の窓の外は」などは車中でのメモにもとづいて、のちに書いたものである。これは当時の偽らざる実感で、死の恐怖が心に迫ってきたのはあとからのことである。〉

これまでにも見たように、高見順は昭和38年10月5日、食道癌の手術のため、千葉大学附属病院に入院しています。

入院の日の朝について、日記には〈十月五日 七時四十分発電車で上京。東京駅降車口で『朝日ジャーナル』茂木(もてぎ)さんと落ち合う。「朝日」の車で千葉へ。稲毛海岸で、持参の松茸メシ(おにぎり)を食べる。今朝は検査があるかもしれないとは思ったが――。〉とあります。

順は、昭和18(1943)年から北鎌倉に住んでいましたので、鎌倉から東京駅へ行く途中で「電車が川崎駅にとま」った際の「ホーム」の様子に「当時の偽らざる実感」を折りまぜて描いたのがこの作品ということになりそうです。

順は、1930年に東大を卒業したあと、同年秋から1936年までコロムビア・レコード会社教育部に勤務していました。同社は、1910年に日本蓄音機商会として発足、レコード製造ばかりでなく国産初の蓄音機「ニッポノホン」の製造・販売もして、日本の音楽産業の先駆けの役目を担いました。

いまは無き川崎工場=写真=は1928年に完成。レコード全盛期には、専属歌手だった美空ひばりをはじめ、数々の昭和のヒット曲がプレスされ、全国に出荷されました。また、順が入社した直後の1931年には、同工場に音符印のネオンサインが据え付けられ、車窓からの名物となったのでした。

一方、この工場で働いていた時期は、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたり、離婚したり、芥川賞候補になったりと、順の人生の中でもとりわけ波乱に満ちた「季節」だったのです。

癌病棟へ向かうこの日、20代のときいつも乗り降りしていた川崎駅の雑踏を目にして、「私の青春がいまホームにあふれている」という感慨を抱きます。そんな詩人はといえば、「死へともう出発だ」という心境で、頭のなかが張り詰めた状態に置かれているのです。

それは、「いつも元気」であり、またそうでなければならない「青春」との、また、その思い出との永遠の別れの瞬間のように思えてならなかったのでしょう。


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2018年12月23日

「電車の窓の外は」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』のつづき、きょうも病院へと向かう電車の車窓の風景と詩人の切実な心境がつづられます。

  電車の窓の外は

電車の窓の外は
光りにみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死なねばならぬ
だのにこの世は実にしあわせそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸がつまって涙が出そうになる
団地のアパートのひとつひとつの窓に
ふりそそぐ暖い日ざし
楽しくさえずりながら
飛び交うスズメの群
光る風
喜ぶ川面(かわも)
微笑のようなそのさざなみ
かなたの京浜工場地帯の
高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり
電車の窓から見えるこれらすべては
生命あるもののごとくに
生きている
力にみち
生命にかがやいて見える
線路脇の道を
足ばやに行く出勤の人たちよ
おはよう諸君
みんな元気で働いている
安心だ 君たちがいれば大丈夫だ
さようなら
あとを頼むぜ
じゃ元気で――

京浜

高見順が罹った食道がんは、食道内腔のもっとも表層の粘膜上皮から発生するものですが、がん細胞の組織形態によって、扁平上皮がん、腺がんなどに分類されますが、日本では扁平上皮がんが大部分を占めています。

発がん要因としては、現在、遺伝的・体質的なものよりは、環境中の刺激因子のかかわりのほうが大きいと考えられています。

食道がんは、時間とともに粘膜上皮から粘膜内、粘膜下層、筋層、外膜(がいまく)へと浸潤して増殖し、その過程でリンパ節転移、臓器転移をおこすと考えられています。
外膜を越えると、縦隔内臓器である気管や大動脈などへも浸潤します。

治療や予後の面から考えると、食道がんは粘膜がん、粘膜下層(表在)がん、進行がんと分けて考えるのが合理的です。リンパ節転移は、粘膜がんではほとんどありませんが、表在がんでは40%前後のリンパ節転移が認められ、進行がんでは70%を超えます。

粘膜がんや表在がんの段階では自覚症状はほとんど見られません。が、進行がんになると、飲み込みにくい(嚥下障害)、つかえ感、しみる感、さらに胸骨の後ろ側が痛むなどの症状が出てきます。このような期間が平均2カ月ほど続きます。

順は、昭和38年9月16日の日記に「食事のとき、何か食道につっかえる感じがする」と記しています。

また埴谷雄高は、この年の晩夏に開かれた大杉栄講演会での出来事として次のように記しています(「癌とそうめん」)。

〈ところで、高見順と岡本潤が熱心に話しこんでいたのは、アナキズムに関する話題ではなく、食物が咽喉につかえるということについてであった。そこで、私もまた同じだと向かい側から言った。
「えっ、埴谷君も咽喉につっかえるの?」
と、高見順は不意に顔色を輝かせながら、こうみんな同じ症状を共通にもっているなら、不安な事態ではあるまいといった安堵もこもった調子で訊いた。〉

このような違和感を感じていた直後の10月3日、千葉医大附属病院で検査で、食道ガンと診断されたのです。

このように何かがつっかえるという自覚症状があったことからすると、進行がんだったと考えられます。10月9日に手術。その後、翌39年7月に第2回目。がんは食道から胃に転移して、同年12月に第3回、昭和40年3月に第4回と、順は3年間に4回の手術を受けたことになります。

当時、食道がんの手術は極めて難しく、一般の病院ではなかなか実施できませんでした。そんな中で、順が入院した千葉大学中山外科は、食道がん手術のエキスパートがたくさんいて、国内だけでなく、米国などからも多くの患者がやってきていたそうです。

とはいえ、食道の進行がんの手術成績は、5年生存率(術後5年間生きている割合)がいまでも45%程度。当時は、手術死亡率が1割にも達していたという時代ですから、まさに「死の病」でした。

「この世が/人間も自然も/幸福にみちみちている/だのに私は死なねばならぬ」といった無念さが、率直な言葉で表されています。

「京浜工業地帯」=写真、wiki=は、1960年ころまでは、東京から川崎、横浜に至る一帯に限られていましたが、その後、経済の高度成長の波とともに縁辺地域へと拡大し、その範囲は現在東京都心から半径約50km、東京、神奈川、埼玉、千葉など1都4県に及ぶ日本最大の工業地帯へと躍進しました。こうした工業地域の拡大とともに、大気汚染、騒音などの公害が社会問題となるのもこのころです。

こうした京浜工場地帯の「高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり」も、癌病棟という死出の旅へと向かう心境の詩人にとっては「生命あるもののごとくに/生きている/力にみち/生命にかがやいて見える」のです。


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2018年12月24日

「生と死の境には」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』のつづき、きょうは「生と死の境には」という16行の作品です。ビルマ戦の従軍体験から「生と死の境」について探ります。

  生と死の境には

生と死の境には
なにがあるのだろう
たとえば国と国の境は
戦争中にタイとビルマの国境の
ジャングルを越した時に見たけれど
そこには別になにもなかった
境界線などひいてなかった
赤道直下の海を通った時も
標識のごとき特別なものは見られなかった
否 そこには美しい濃紺の海があった
泰緬(たいめん)国境には美しい空があった
スコールのあとその空には美しい虹がかかった
生死の境にも美しい虹のごときものがかかっているのではないか
たとえ私の周囲が
そして私自身が
荒(あ)れはてたジャングルだとしても

虹
*スコールの後の虹(wiki)

全集別巻の年譜によると、高見順は34歳だった1941(昭和16)年、徴用令により陸軍報道班員としてビルマ派遣軍に配属され、12月8日には、香港沖の洋上で太平洋戦争勃発を知ります。

翌1942年は、タイのバンコクで新年を迎えています。3月にはラングーン攻略の第一線部隊に配属され、ラングーン近郊で英軍の戦車に包囲され、あやうく一命をとりとめます。このとき、肌身はなさず持っていた小型の日記ノートを紛失しました。

約1年間のビルマ滞在中には、現地から従軍記などを送る一方、ビルマ作家協会結成に尽力、ビルマの作家ウ・ラー、ザワナらと親交を結んでいます。翌1943年1月に帰還しています。

「戦争中にタイとビルマの国境の/ジャングルを越した時に見た」というのは、このラングーン攻略の第一線部隊に配属され、まさに死地に赴いて足を踏み入れたときのことが念頭に置かれているのでしょう。

そんな「国と国の境」と「生死の境」が交差する死地を思い起こしても「境界線などひいてなかった」と詩人はいいます。

ビルマの戦いは、太平洋戦争の局面の1つで、1941年の開戦直後から始まり1945年の終戦直前まで続きました。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦いました。

ビルマは19世紀以来、イギリスが植民地支配していました。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく日本軍は、アメリカ、イギリス、ソ連などが蒋介石の率いる国民政府に軍需品や石油などの支援物資を送り込んでいた「援蒋ルート」の遮断などを目的に、ビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧しました。

太平洋戦争開戦と同時に、第33師団と第55師団を基幹とする日本軍第15軍がタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手します。まず宇野支隊がビルマ領最南端のビクトリアポイントを12月15日に占領。日本軍の特務機関である南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始し、12月28日にビルマ独立義勇軍(BIA)が宣誓式を行っています。

タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈でしたが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取りました。沖支隊は1942年1月4日に国境を越えてタボイへ、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメンへ向かいました。

BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていませんでしたが、BIAやビルマ国民の協力で、国境を越えることができたそうです。そうした日本軍の隊列の中に高見順も居たのでしょう。

連合国軍は一旦は退却しましたが、1943年末以降、本格的反攻に転じます。日本軍はインパール作戦で機先を制しようと試みましたが失敗、連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回しました。日本人戦没者は18万名に達しています。

現在はミャンマーとなっているビルマ(漢字表記で「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接しています。南北約2000キロ、東西約1000キロ、国土面積は68万平方キロです。

気候は熱帯モンスーン気候で、5月中旬から10月までは雨季。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量5000ミリに達する世界一の多雨地帯で、河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となります。

10月末から5月までは乾季で、乾燥して草木は枯れます。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくありません。乾季には地面が固まって車両の通行は容易ですが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなくなったといいます。

ビルマの気候は稲作に適し、コメの年産は700万トンに達していました。ですから日本軍は、食糧調達を円滑に行うことができたはずですが、戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが従軍記や回想録から知られます。

「泰緬(たいめん)」の「泰」はタイ。「緬」は、「緬甸(めんでん)」すなわちビルマ、いまのミャンマーの略です。

「スコール」は、突然吹き出す強い風のこと。ふつう数分間続き、突然やみます。この突然の烈風は大気の不安定により起こり、しばしば、雷鳴、雷光、激しい降雨を伴うことがあります。ここでは、こうした熱帯地方の驟雨(しゅうう)の意味として用いられているようです。

「私の周囲が/そして私自身が」死と隣り合わせの戦地である「泰緬国境」の「荒れはてたジャングルだとしても」そこには「美しい空があった/スコールのあとその空には美しい虹がかかった」として「生死の境にも美しい虹のごときものがかかっているのではないか」と、これまでの作品と違ってこの詩からは、ほんわかと「希望」の香りがただよってきます。


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2018年12月25日

「みつめる」(『死の淵より』Ⅱ)

高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「みつめる」。7行だけですが、味わい深い作品です。

  みつめる

犬が飼い主をみつめる
ひたむきな眼を思う
思うだけで
僕の眼に涙が浮ぶ
深夜の病室で
僕も眼をすえて
何かをみつめる

犬

前書きの「ここの詩は入院直前および手術直前に属するもの」からすれば、「深夜の病室で」というのは、入院した昭和38年10月5日から手術前日の10月8日までのいずれかと推測することが出来ます。日記から、この間の夜の様子の記述を拾ってみると――

【10月5日】

「X線所見」というのを見て、がっかりと言うか、なんと言うか――。「撮影部位」に、食道、胃、胸と書いてある。図が描いてある。それを私はガンが食道と胃と胸の三箇所にあるものと解釈する。

病院に帰り、夕食(おでん、ヒキ肉、丼メシ)をちょっと取り、そのまま寝る。六時から翌朝まで。

【10月6日】

雨。
犬がないている。たくさんの犬のなき声――。朝もこのなき声が耳について困った。病院の実験用の犬ではないか。殺される犬ではないか。幼い声のもあった。かぼそい、哀れななき声――。
池島信平君、見舞いに来てくれる。中山教授、ひと足ちがいで帰宅。
橋爪について語る。

便所に行く。大便が出ないで苦しむ。
タバコをとめられる。
麻酔の先生が見える。いれかわり立ちかわり、いろんな先生が来て、応接にいとまなしの感。
夜食。空腹なれど食欲なし。疲れのためか。シュークリームを食う。
池島君から電話――。
カンチョウ、便所へ行く。出なくて出なくて大苦しみ。

死を思うべきか。
生を――たすかるかもしれんと思うべきか。
ガンは常識としてはたすからない。だからかえって、僥倖を思う。

【10月7日】

よく寝た。

【10月8日】

手術前夜なり。
死んでたまるか。
二三日前はむしろ死を甘く考えていたが。

「深夜の病室で/僕も眼をすえて/何かをみつめる」ことができたのは、入院2日目の10月6日であった可能性が高そうです。

この作品について吉野弘は次のように「鑑賞」しています(『現代詩鑑賞講座 第8巻 歴程派の人びと』)。

「この詩集のほとんどの作品を通じ、作者は苦悩や恐れを、自分との距離を失して直接的にパセティックに語っている。それは、そういうものであるに違いない、誰が死を間近かに感じながら、自己の感情に距離を置くことができよう。

そうした感想をいだかせるこの詩集の作品の中でこれは、語らずにじっと耐えている。眼の光だけがある。ほかは全部、闇に没し去り、わずかに頬のあたりをかすかな光が浮き彫りしている。十分なイメージだ。

飼主をみつめる犬の眼、ひたむきな眼。あの眼は飼主から、飼主のもっている以上の愛と憐憫をひき出す。

飼犬が、死をかすかに予感しながら、救いを主に求めている。全幅の信頼を主に向けて。飼主の取るに足りない力を救いの力と信じて――。主は己の無力を悲しみながら、犬の哀願する眼の中を見返している。

詩人は今、こうした飼犬の位置にいる。深夜、眼をすえて、何かを見つめている。主をもったことのない私が、何かを見つめている。誰も私の死を救うことはできない。

それなのに、私は、主を見つめる犬のように、何かをじっと見すえる。私の眼を見て、無力を恥じている主のようなお方が、どこかにいらっしゃるのだろうか」。


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2018年12月26日

「小石」(『死の淵より』Ⅱ)

高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「小石」。5行だけの即興的な作品です。

  小石

蹴らないでくれ
眠らせてほしい
もうここで
ただひたすら
眠らせてくれ

小石

「小石」というタイトルと書き出しの「蹴らないでくれ」という訴えからすると、バンバンと体内や心の中に小石を投げつけられるような激しい痛みに耐えられず、「眠らせてくれ」と叫んでいるのでしょうか。

それとも、詩人自身を弱くて孤独な傷つきやすい「小石」ととらえて、そんな「小石」でしかない自分を襲う死神のようなものに対して「蹴らないでくれ/眠らせてほしい」と訴えているのでしょうか。

Ⅱの前書きによれば「ここの詩は入院直前および手術直前に属するもので」あるとしたうえで、この「小石」などの作品については「当時ほとんど即興的に書き流したままの詩で、のちの手入れがほどこされてないので、発表のはばかられる稚拙と自分で気がさしているのかもしれぬ」としています。

食道癌には、初期症状といえる症状はほとんど無く、腫瘍ができた場所の胸痛や胸部違和感が起こることがある程度だといいます。ですから入院直前や手術直前に眠れない、「蹴ら」れるような痛みというのは考えにくくそうです。とすると、眠れないのは、心の痛み、気持の動揺による可能性が高そうです。

山本健吉によれば、高見順は外界が絶えず脅迫する力として現れる、孤高ならぬ「孤卑」と呼んでもいい、「弱者の孤独」たる意識をもっていたと見ています。

高見順は1907年、福井県知事・阪本釤之助の非嫡出子として生まれています。母・高間古代(コヨ)は、阪本が視察のときに夜伽を務めた女性でした。

実父と一度も会うことなく、東京にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からの手当てだけでは足りず、母が針仕事で生計を立てたといいます。

「氏は出生において、すでに社会における被害者であった。「私生児」という称呼は、ノルマルな家庭関係、従ってまた社会関係の中に、はじめから自分を組み込むことができなかったということである。人間関係のなかに自分を仲間入りさせることは、始めから自分を弱者として、恥ずべき存在として、その中に組み込むことことであった。

氏は悪童の仲間に、平等の意識を以て這入ることができない。社会から突き放された存在として、氏が自分を意識してから、外界は絶えず氏を脅迫する力として現れた。氏の強迫観念は、氏の孤独の意識を育て上げた。それは岡本氏が自分をその中に閉ざしたような、俗悪からの断絶による高貴な孤独ではない。

逆に、羞恥からの、怯懦からの、インフェリオリティ・コンプレックスからの、弱者の孤独であった。「孤高」でなく、こういうこう言葉が許されるとすれば、「孤卑」であった。」(山本健吉「東京のヘドを吐く作家――高見順の人と作品――)

とすれば、「小石」を詩人自身と考えてもまんざらおかしくはなさそうです。


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2018年12月27日

「愚かな涙」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』のつづき、きょうは「愚かな涙」。きのうのよりもさらに短い4行だけの作品です。

  愚かな涙

耳へ
愚かな涙よ
まぎれこむな
それとも耳から心へ行こうとしているのか

涙
*wiki

この作品について吉野弘は次のように「鑑賞」しています。

〈直接、感情に訴えるようなことばが全くないので、見すごされそうな作品だが、声をもたない涙が耳に悲しみを訴えにゆく、というふうに読むと、なんとも哀切な作品であることがわかる。

ベッドに仰向けに寝ていると、涙がわいてきて、目尻から耳へ、一気にすーっと糸をひいて走ってゆく。愚かな涙よ、響きを、耳に聞いてもらいたいのか。お前には声がないではないか。

涙よ、お前の嘆きが心に届いていないとでも思っているのか。だから耳を通して心に、嘆きを伝えにゆきたいのか。愚かな涙よ。涙も耳も心も、みんな私のものだ。悲しみをじっと耐えているのは、この私だ。

なんてすばらしい「悲しみの歌」だろう。涙を即物的に扱って、こんな哀切な歌を書いた詩人は、そんなに多くはないだろう。〉(『現代詩鑑賞講座 第8巻 歴程派の人々』)

「涙」は、科学的には、目の涙腺から分泌される体液のことをいいます。眼球の保護が主な役目ですが、感情によってひき起こされる涙、すなわち涙の情動性分泌というケースがあります。

こうした、感情によって涙を流すというのは、自律神経の働きによる人間特有の生理反応で、他の動物にはない現象と考えられています。

涙の組成は約98%は水で、少量のタンパク質(アルブミン、グロブリン、リゾチーム)、食塩、リン酸塩などを含んでいます。

涙の分泌は顔面神経と交感神経に支配される複雑な機構によって、悲しいとき、感激したときなど感情が激しく動くと多量に分泌され、涙点から吸収しきれずにまぶたからあふれ出ることになるのです。

感情が高ぶると人間はどうして涙を流すのでしょう。

涙をさそう映画を見せて収集した涙とタマネギをむかせて収集した涙の成分比較をすると、感情による涙は刺激による涙より、より高濃度のタンパク質を含んでいたことなどから、涙は感情的緊張によって生じた化学物質を体外に除去する役割があると考える研究者もいるとか。

いずれにしても「愚かな涙」は、人間だけが流すことができるのです。


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2018年12月28日

「望まない」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』のつづき、きょうは「望まない」。3連10行の自らの気持ちを率直にうたった作品です。

   望まない

たえず何かを
望んでばかりいた私だが
もう何も望まない

望むのが私の生きがいだった
このごろは若い時分とちがって
望めないものを望むのはやめて
望めそうなものを望んでいた

だが今はその望みもすてた
もう何も望まない
すなわち死も望まない

高見順

「死」も含めて何も「望まない」と宣言しています。なんと、10行の詩の中に「望」という漢字が行数と同じ10個も出てきます。

ところで、「たえず何かを/望んでばかりいた」「望むのが私の生きがいだった」という高見順はどういう生涯を送ったのでしょう。

日本近代文学館の「高見順という時代―没後50年―」の展示資料などを参考に、このあたりでその人生を振り返っておくことにしましょう。

「おれは荒磯の生まれなのだ」(詩「荒磯」)というように、生まれたのは日本海に面した漁港の町。近くに東尋坊の絶壁がある福井県の三国です。明治40(1907)年生まれ、あるいは明治39年とも言われます。本名は「高間義雄」ですが、高等学校のころ「高間芳雄」と改名しています。

高見順は自分の父親について「私を彼女に生ませた、彼女の夫ではない私の父親」(「私生児」)といっています。父親はそのころ福井県知事だった阪本釤之助。知事として何度か三国町を訪れるうち、この地で評判の美人だった高間古代こよと結ばれ、高見順が生まれました。

その翌年、高間古代は老母と幼い息子とともに三国町から東京市麻布区(現在の港区)に移り住んみます。和裁の仕事で生計を立てつつ、一人息子を厳しく育て上げました。後年、順は「私は父親が欲しかつた」(『わが胸の底のここには』)とも記していますが、生涯一度も父親と顔を合わせたことはありませんでした。

順は高等学校時代、ダダイズムを初めとする欧州前衛芸術運動の影響を受けて、同人誌「廻転時代」を発刊。東京帝国大学英文学科に進学後、「高見順」のペンネームで小説を書き始め、プロレタリア文学の担い手として「大学左派」「左翼芸術」等の雑誌を舞台に活動しました。

卒業してコロムビア・レコードに就職した後も非合法運動を続けますが、検挙され、拘留中に妻に裏切られる事件なども重なって、虚無にさいなまれることになります。やがて転向するに至り、昭和8年(1933)、新田潤、渋川驍らと「日暦」を創刊。その活動は、転向作家たちの拠点となった雑誌「人民文庫」へとつながっていきます。

この時期、左翼崩れの若者たちの悲哀を綴った「故旧忘れ得べき」を発表。これが第一回芥川賞候補になり、一躍文壇の注目を集めました。この作品は「書き手」が直接顔を出して小説の進行を解説していく特異な文体で知られています。

昭和11年のエッセイ「描写のうしろに寝てゐられない」は、写実的に「描く」ことをめざす旧来のリアリズム文学への反逆の宣言ともいえるものでした。ダダイズム、マルキシズムなど西洋の最新思潮をくぐり抜けた末に順は、ポストモダンの旗手として、江戸戯作の伝統にも通じる豊かな語りの文体を再生してみせたのです。

昭和13(1938)年の春、高見順は浅草田島町に仕事部屋を借ります。ここで書かれたのが『如何なる星の下に』で、改造社の「文芸」に連載されましたが、文芸雑誌には珍しく挿絵入りの連載となり、単行本にもその絵がそのまま使われました(挿絵・装幀は三雲祥之助)。山の手に育った高見順にとって浅草は新鮮な土地だったようです。

さかのぼって昭和9年の短篇「世相」に、すでに浅草の17歳の踊り子に心惹かれる男が登場しています。「如何なる星の下に」の「私」も17歳の踊り子「小柳雅子」のことを「いいなア」と思う。「十七歳のその可憐な脆美スレンダーな肉体」をしきりに思い、「小柳雅子への慕情」という言い方も使われていたが、「慕情」ということばは高見順の造語と言われます。

高見順が浅草に部屋を借りていたのは1年ほどだった。昭和16年(1941)1月に高見順は、画家の三雲祥之助とともにジャワ(現、インドネシア)へと旅をしています。戦時色が強まるとともに表現者への統制が強まり、思想犯保護観察法の監視対象となっていた高見の周辺は一層息苦しくなっていました。

意気込んで創刊した「新風」も、軍部からの圧力で、創刊号だけでおわっています。旅は、こうした行き詰まりを打破したいという願いから計画。前年12月に幼い一人娘由紀子を喪ったばかりで、傷心の旅立ちでした。のちに刊行される膨大な日記は、この旅から執筆が始まっています。

ここでの異文化体験に触発されて、帰国後「文学非力説」を書きます。「文学非力説」は、国策文学を求める流れに一石を投ずることになった一方で、文学を軽んずるものだと憤る者、時局に非協力的だと批判する者などもあり、さまざまな反論が寄せられました。

昭和16年11月に徴用令を受けます。太平洋戦争が始まって危険も増したビルマ(現、ミャンマー)に配属され、陸軍報道班員として報告文を書き続ける一方、ビルマの現状や伝統文化、民俗に関心を寄せています。

昭和18年1月に帰国しますが、昭和19年6月から12月まで、再び陸軍報道班員となって中国に赴いています。滞在中には、南京で開催された第3回大東亜文学者大会に、日本代表として参加しました。

戦争中の過労がたたって、戦後、順は胃潰瘍、胸部疾患、神経症など、病床生活を余儀なくされました。病がいえると、自身の体験した「昭和」を見直そうと、文壇史『昭和文学盛衰史』(昭和33)や代表作『いやな感じ』(昭和38)を刊行しました。食道がんにかかったのは、さらなる連作小説を構想している最中のことでした。

昭和初期、社会主義と前衛芸術の運動が盛行した時期から書き出される『昭和文学盛衰史』は、文学・作家・思想について、豊富な資料と経験を駆使してとらえ、文学研究を志す者にとっての必読書ともなりました。

『いやな感じ』は、アナーキストでテロリストの青年の物語。主人公は昭和初期、社会改革の夢を抱いてアナーキズムに引かれますが、実際は「リャク」(有産者からの略奪)で生きています。

時代は第二次上海事変(昭和12)へと突入。上海では、軍人、政商・右翼・アナーキストが暗躍中でしたが、上海に渡った主人公もまた、無意味な殺人を犯し、「いやな感じ」(自己嫌悪)におちいります。作者のモチーフは「小説による現代史」を書くことだったとされています。


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2018年12月29日

「花」(『死の淵より』Ⅱ)

高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「花」。見舞いの花についての率直な思いを記しています。

  花

カトレアだとか
すてきなバラだとか
すばらしい見舞いの花がいっぱいです
せっかくのご好意に
ケチをつけるようで申しわけありませんが
人間で言えば庶民の
ごくありきたりの でも けなげな花
甘やかされず媚びられず
自分ひとりで生きている花に僕は会いたい
つまり僕は僕の友人に会いたいのです
すなわち僕は僕の大事な一部に会いたいのです

カトレア

「カトレア」(Cattleya)=写真、wiki=は、中央アメリカ、南アメリカ原産のラン科の1属。自生地では、樹木の枝に着生して気根を出します。極めて大輪で派手な花を咲かせ、洋ランのなかでもっとも華麗で、「洋ランの女王」とも呼ばれています。

属名は、イギリスの植物愛好家のカトレイ(William Cattley)の名にちなんでいます。彼が、南米から送ってもらった植物の梱包材として使われていたこの着生植物に興味を持ち、栽培してみたところ予想もしなかった見事な花をつけた。そのため、植物学者ジョン・リンドリーが記載して献名したという逸話も残っています。

和名は、牧野富太郎が、花の美しさを日の出に見立て「ヒノデラン」としています。花色は白、桃、紅、朱赤、紫紅、橙黄、黄などとさまざまで、径15~18センチの大輪花を3個以上つけるものもあります。春咲きから冬咲き種まで、二季咲き種もあり、一年中花がみられます。

栽培するには冬に最低10℃を保つ場所が必要で、生育期は春から初秋まで。この間寒冷紗(かんれいしゃ)下に株を置いて、水やりと施肥を適度に行ない、春に出た芽を大きくすると、初秋ころから花芽が見え出します。

カトレアの花をより美しくするため、この属や近縁属との属間交配が盛んに行われてきました。一般にそれらすべてをまとめてカトレアと呼んでいて、その名を冠する植物の幅はますます広まってきています。

こうしたカトレアに、詩人は「甘やかされず媚びられず/自分ひとりで生きている花」とは正反対のイメージを持っているようです。

美しい花をつけ、香料の原料ともなる「バラ」は、バラ科バラ属「Rosa」の落葉、あるいは常緑の低木やつる性植物から育成されたもの。約200種の野生種が知られ、多くの観賞用園芸品種が生まれています。

品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産で、バラの自生地として日本は世界的に知られています。

江戸時代初期には仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰りました。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれています。

与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残していますが、江戸時代には職分を問わず園芸が流行り、コウシンバラ、モッコウバラなどが栽培されました。

明治維新を迎えると、明治政府は「ラ・フランス」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させました。馥郁とした香りを嗅ごうと見物客が詰めかけたので、株には金網の柵がかけられたといいます。

当時はまだバラは西洋の「高嶺の花」でしたが、大正から昭和のころには一般家庭にも普及し、宮沢賢治は「グリュース・アン・テプリッツ(日光)」を愛好しています。戦争直後の1948年には銀座でバラの展示会が開かれ、1949年の横浜での展示会ではアメリカから花を空輸して展示用の花がそろえられました。鳩山一郎や吉田茂らのバラの愛好は、戦後日本でのバラ普及に大いに貢献しました。

この作品が書かれたのは、日本でも品種改良が行われ、戦後の高度成長の波に乗ってバラが嗜好品として庶民にも普及していった時代のこと。とはいえ、花の観賞を楽しむことができるのは、やはり庭を持つ比較的裕福な家庭に限られていました。「庶民の/ごくありきたりの でも けなげな花」とは到底言えないものだったのです。


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2018年12月30日

「夢に舟あり」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』Ⅱのつづき、きょうは「夢に舟あり」です。文語調で、各4行2連から成っています。

  夢に舟あり

夢に舟あり
純白の帆なり
美しいかな
涙あふれる

風吹き来り波立ちて
そが美しき舟
波間に傾き没すると見えつつ
夢の外へと去りゆくをいかんせん

三国町

先日見たように、高見順が生まれたのは、日本海に面した漁港の町、福井県・三国=写真、wiki=でした。

三国は、福井県の北西部、九頭竜川の河口周辺に位置しています。かつては北前船の拠点として栄え、いまは越前がにやアマエビ漁、東尋坊などの名勝で知られています。

アマエビは日本海中央まで出て底引き網漁が行われ、ズワイガニ、カレイ、ハタハタなどの沿岸漁業も盛ん。

海岸付近では、サザエ、ワカメ、ウニ、アワビなどの素潜り漁も行われていますが、冬に5メートルを越す高波が押し寄せるため定置網漁や養殖は行われていません。

まさに「荒磯の生まれ」の順は、母胎ににいるときから「波」とともにあったのでしょう。「舟」とは自身の生命、「純白の帆」は生命の放つ輝きを指しているようにも思えます。

この詩の中に「舟」や「波」は出て来ても、「海」は出て来ません。『死の淵より』が発表されるより10年以上前の昭和23年6月に作られた「目に見えない海」という詩に次のように記されています。

しかし僕の気にしてゐる海は
遠くの目に見えない海か
近くの目に見える海か

病んでゐて
僕に海は見られない
見られなくても僕が問題にする海は
目に見えない海に他ならぬ
といふことを告白せねばならぬ

見られないしまた目に見えない海は
いま何をしてゐるだらう
見られなくても目に見えるものだけを
僕等は信用する
僕もさういふものを
問題にし 気にしてゐるとき
裏山の木々が
目に見えぬ風に
不安な音を立ててゐる

「夢に舟あり」の海も、きっと「目に見えない海」であり、また「見られなくても目に見える」海なのでしょう。

また、昭和25年11月に出版された『詩集 樹木派』には、こんな詩もあります。

   波

嵐が来た 窓の外に
崖の木々が 怒涛のやうだ
さうだ 木々の葉は 地上の波なのだ
波が海の葉であるやうに

おゝ 波の葉よ
木を育てる者が葉であるやうに
海を育てる者は波なのだ

嵐が迫る 窓の中にも
さうだ 海は常に 嵐の中にゐるのだ
人が常に 嵐の中にゐるやうに

おゝ 嵐に揺れる葉よ
常に苦しんでゐる波よ

おゝ 人間の中にある葉よ波よ
海を育てる者は波であるやうに
人間を育てる者は
人間の中の波なのだ

「風吹き来り波立」っているのは、「地上の波」である「木々の葉」ともとれますし、また「人間の中の波」でもあるのでしょう。


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2018年12月31日

「黒板」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』Ⅱのつづき、大晦日は「黒板」という15行の作品でしめくくります。

  黒板

病室の窓の
白いカーテンに
午後の陽がさして
教室のようだ
中学生の時分
私の好きだった若い英語教師が
黒板消しでチョークの字を
きれいに消して
リーダーを小脇に
午後の陽を肩さきに受けて
じゃ諸君と教室を出て行った
ちょうどあのように
私も人生を去りたい
すべてをさっと消して
じゃ諸君と言って

黒板けし

先日見たように私生児として生を受けた高見順は、1908(明治41)年、父の東京転任の後を追って、母、祖母とともに東京市麻生区竹谷町に移住します。母は、裁縫の賃仕事をして生計を立てていました。

1913(大正2)年には麻生区本村小学校に入学、10月には新築の東町小学校に転校。常に、浅黄の半襟をかけ、異様なほど身なりのきちんとした、作文の抜群にうまい、おとなしい優等生だったといいます。

当時、近くに河東碧梧桐門下の俳人岡本癖三酔がいて、俳句の手ほどきを受けています。俳号は「水馬」(みずすましの意)。岡本宅での読書体験も、その後の人生に大きな意味を持ったようです。

1919(大正8)年、東京府立第一中学校に入学します。いまの都立日比谷高校の前身にあたります。

「中学生の時分」には、全集の年譜によると、『白樺』派のヒューマニズムに強く惹かれ、武者小路実篤、有島武郎等を愛読。同級の刑部人に大杉栄をすすめられ、同級生と回覧雑誌、校友会雑誌の編集等にもたずさわる。また、賀川豊彦、倉田百三、とくにストリンドベルヒ全集を耽読していました。

「黒板」は、日本には明治の初めにアメリカを経由して持ち込まれました。大学南校(現在の東京大学)の教師だったアメリカ人のスコットが、当時のアメリカで実践されていた学校教育のシステムを伝授しようと、教科書や教育機器を取り寄せた中に黒板・チョークがあったそうです。

当初は1.5メートル×0.9メートルほどのスタンド型でしたが、大正時代に入ると生徒の自主性を養うため生徒にも黒板に筆記させようという考え方が生まれて次第に黒板は大型化し、教室の正面と背面に固定されるようになりました。

1874~1876年には、国産初の黒板が製造され、全国で利用されるようになります。当初の黒板は、石粉とススを漆で練って地板にヘラ付け、砥石で砥ぎ柿シブで仕上げられたものだったそうです。

黒板はもともと仏壇屋や漆工芸屋などが作っていましたが、大正初期になると黒板専業メーカーが出現し、その技術の高さから朝鮮や満州など海外にも多く知られるようになりました。

柔らかい書き味が特徴で広く使われてきている純木製の黒板は、以前の素材は杉板でしたが、反りや耐久性の問題から昭和30年には全てベニヤ板に変わりました。また、1954年にJIS規定により、塗面は黒から緑に変わりました。

黒板にチョークで書かれた字や絵を消す「黒板消し」は、一般的に、直方体の形をしていて、表は合成樹脂または木の板、革など。裏はコーデュロイなどの布で、その中には柔軟性のあるスポンジが入っていて、多少黒板がへこんでいても対応できるようになっています。

表の部分を持って裏の布の部分で黒板を拭きますが、持つ部分にはふつうベルトのようなもの(バンド)がついています。

さっそうとした「若い英語教師が/黒板消しで」その日うり広げられた授業の展開を物語る「チョークの字を/きれいに消して」教科書「を小脇に/午後の陽を肩さきに受けて」さっそうと出て行く。

人生の「すべてをさっと」きれいさっぱり、後腐れなく「消して/じゃ諸君と言って」すがすがしく「人生を去」っていく。確かにそれは、癌との闘いに苦しみあえぎながら未練を残して迎えるのと対極にある「死」にちがいありません。


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2019年01月01日

「文士というサムライ」(『死の淵より』Ⅱ)

あけましておめでとうございます。2013年11月にはじめたこのブログ。“引っ越し”や構成の変更などいろいろと手を加えましたが、まもなく通算2000回を迎えるところまで来ました。今年もひきつづき、どうかよろしくお願いいたします。

昨年末から読んでいる高見順『死の淵より』Ⅱのつづき、元日のきょうは「文士というサムライ」というなかなか勇ましい25行の作品です。

  文士というサムライ

豪傑という者がいたと
中野重治は詩に書いて
むかしの豪傑をたたえた
余もまた豪傑を礼讃する
余は左様 豪傑にあらず
されど文士というサムライなれば
この期(ご)に及んで
ジタバタ卑怯未練の振舞いはできぬ
さあ来い 者ども
いざ参れ 死の手下ども
殺したくば殺せ 切りたくば切れ
いさぎよく切られてやらあ
余は剣豪小説の主人公のごとくに
汝らをエイヤアと退治(たいじ)ることはできぬ
逆に悪玉(あくだま)のようにバッサリと切られるであろう
そのいさぎよさを貴しとする
ただし切られても切られても
註文通りには死なないで
ハッタと汝らをにらみつけてくれよう
死神よ 汝のすることなすことを
余は執念(しゅうね)く見つづけるであろう
ここがむずかしいところだ
ただのサムライと違う文士の文士たるゆえんである
ざまア見ろ
これは汝でなく余が言うのである

中野重治

「豪傑という者がいたと/中野重治は詩に書いて/むかしの豪傑をたたえた」というのは中野重治=写真、wiki=の次にあげる「豪傑」という題の詩をいっています。

むかし豪傑というものがいた
彼は書物を読み
嘘をつかず
みなりを気にせず
わざをみがくために飯を食わなかった
うしろ指をさされると腹を切った
恥ずかしい心が生じると腹を切った
かいしゃくは友達にしてもらった
彼は銭をためるかわりにためなかった
つらいというかわりに敵を殺した
恩を感じると胸のなかにたたんでおいて
あとでその人のために敵を殺した
いくらでも殺した
それからおのれも死んだ
生きのびたものはみな白髪になった
しわがふかく眉毛がながく
そして声がまだ遠くまで聞こえた
彼は心を鍛えるために自分の心臓をふいごにした
そして種族の重いひき臼をしずかにまわした
重いひき臼をしずかにまわし
そしてやがて死んだ
そして人は 死んだ豪傑を 天の星から見わけることができなかった

中野重治(1902-1979)は、高見と同じ福井県の出身。第四高等学校を経て、1927年に東京大学独文科を卒業。在学中から室生犀星の影響を受けて短歌や詩への関心を深め、また林房雄らとの交友でマルクス主義に接近しました。

26年に堀辰雄、窪川鶴次郎らと詩誌『驢馬 (ろば) 』を創刊。『夜明け前のさよなら』 (1926)、『歌』(同) などを発表。 28年にはナップに参加し、検挙投獄、転向、執筆禁止などを経て、第2次世界大戦後は民主主義文学者の結集に努め、新日本文学会の発起人となりました。

1947~50年、日本共産党の参議院議員。 64年党の方針と対立して除名されました。『中野重治詩集』 (35)、小説『歌のわかれ』 (39)、『むらぎも』 (54)、『甲乙丙丁』 (65~69)、評論『斎藤茂吉ノオト』 (40~41)などの著作があります。

中野は高見との出会いについて、次のように記しています。「落合の作家同盟事務所でが最初だったと思うが、それならば1931年だったろうか。たしか彼はそのとき着物を着ていた。そのときまだ『大学左派』が出ていたか、それとももう高見は壺井繁治、三好十郎たちの『左翼芸術』にはいっていたかも私には正確でない」(「高見順をおもう」)。

高見は自らここで、武士ならぬ「文士というサムライ」といっています。「文士」とは、神皇正統記(1339-43)の中に「子孫はいまに文士にてぞつたはれる」とあるように、むかしは武士などとは違う「文官」のことをそう呼んでいたようですが、現在では文筆を職業とする人、作家、小説家のことを一般的にこう呼んでいます。

同時代の文学者たちは、高見順のことを「最後の文士」と呼んで、敬意を払っていました。文学は、それ自体が理論を、政治・革命性、社会性、哲学などを持ちます。高見は真摯に、時代ごとに姿を変え、文学を脅かすものに論駁しながら、自身の文学の思想を深めていきました。そうした「文学」のための真摯な戦いぶりが、そう呼ばせたのでしょう。

田辺茂一は高見を「権威に抵抗したが、同時に権威を大切にすることを知っていた、最初の文士だ」としています。

「権威に抵抗することは、比較的簡単だが、権威を大切にするという心がけは、高見と雖も、かなり晩年の円熟期に這入ってから、持つようになったのではあるまいか、とぼくは考える。

明治、大正、昭和と、つづいた権威への抵抗は、作家たちの独自の宿命で、一種の切り札でもあったが、もはや、そういう境域にだけは、いられなくなった。というよりは、作家意識をもう一段、高いところに置くべきだ、という考え方と同時に作家だけがひとり高し、の風は、井蛙的見解で、笑止の到りだ、という省慮が、自ずと、高見の内部に生れ、育った。このことが高見順を大きく成長させた」(「最初の文士」)。

「文士というサムライ」ならではの戦いぶりを、癌という病に対しても、執拗に見せつけることになったのです。

「余は剣豪小説の主人公のごとくに/汝らをエイヤアと退治ることはできぬ/逆に悪玉のようにバッサリと切られるであろう/そのいさぎよさを貴しとする/ただし切られても切られても/註文通りには死なないで/ハッタと汝らをにらみつけてくれよう/死神よ 汝のすることなすことを/余は執念く見つづけるであろう」。それこそが「ただのサムライと違う文士の文士たるゆえん」であったのです。

そうした戦いの果て、最後の見舞いに訪れた中野の前で、高見は満面の笑みを浮かべました。

〈「中野君……」。細い細い、低い低い、弱い弱い声で言って彼は手をのばした。このうえ痩せられぬところまで痩せてしまった彼の手と細ながい指とを私はにぎった。肘からさきの二本の骨がほとんど丸見えになっている長い前腕、それをそうやったまま高見はほんとにうれしそうに笑顔をした。〉(「高見順をおもう」)

中野は「死との、特にガンによる死とのたたかいぶりで高見はほんとうに文学者としてのねばり強さを見せた。高見は、その完結が死である姿での手本を私たちに残した。これは私たちすべてに残されている」(同)と記しています。


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2019年01月02日

「ハヤクオイデヨ」(『死の淵より』Ⅱ)

高見順『死の淵より』Ⅱのつづき、きょうはカタカナだけで書かれた「ハヤクオイデヨ」という作品です。

  ハヤクオイデヨ

オジサン ハヤクオイデヨ
イッショニ アソボウヨ
タケリンヤ クラサンナンゾガ
イナイカラ ツマンナイカナ
デモ ココニハ ニンゲンハ イナインダ
ボクカイ?
クレバ ワカルヨ
ニンゲンナゾ イナイホウガ
ウルサクナクテ ズットイイヨ
オジサンノスキナ オケラガマッテルヨ
テントウムシヤ カナブンブンモ イッパイイルヨ
シンデテモ ミンナ ピンピンシテイル
ハヤクオイデヨ オジサン

武田

「ハヤクオイデヨ」というのは天からの声なのでしょうか。でも、先に逝ったはずの「タケリンヤ クラサンナンゾ」は「イナイ」といいます。しかし、代わりに「オジサンノスキナ オケラ」や「テントウムシヤ カナブンブンモ イッパイイ」て「シンデテモ ミンナ ピンピンシテイル」楽園のようです。

「タケリン」は、小説家・武田麟太郎(1904―1946)=写真、wiki=のこと。旧制三高を経て東京帝国大学仏文科に進みました。その間に同人雑誌『真昼』を創刊。藤沢桓夫らの『辻馬車』に参加しました。

1928年7月には東大の左翼系同人誌が結集して『大学左派』が創刊されていますが、ここに高見順らとともに同人として作品を発表しています。

このころから帝大セツルメントの仕事をするなど組合運動にも加わり、その体験を生かして『暴力』(1929)などプロレタリア文学作品を書きます。

また、一方でその政治主義的偏向から脱出しようとして『日本三文オペラ』(1932)のような庶民的な視点で当時の風俗を描いたいわゆる「市井事もの」の筆をとりました。

1933年(昭和8)には川端康成、小林秀雄らと『文学界』創刊に参加。『銀座八丁』(1934)、『下界の眺め』(1935~36)など新聞連載の形で当時の風俗を描き出しています。

1936年には『人民文庫』を創刊し、「日本浪曼派」の詩精神に対抗して散文精神を主張します。この執筆グループには高見順も加わり、高見に「故旧忘れ得べき」の続編を連載することを進めるなどしています。

太平洋戦争中には、徴用作家としてジャワへ行きました。武田の小説は志賀直哉、横光利一、プロレタリア文学、西鶴などの影響を受けましたが、庶民的視点によって庶民を描くという点では終始変わりませんでした。

1946年3月31日、仮寓先の片瀬で、肝硬変により急逝します。高見はその臨終に立ち会っています。

一方、「クラサン」というのは詩人の倉橋弥一(1906-1945)のことです。東京生まれで、川路柳虹の指導をうけて『炬火』に詩作を発表。のちに『詩篇』『詩作時代』を創刊しました。

詩集『訪問』『鉄』(共同詩集)、小説『孤島の日本大工』などがあります。倉橋は、高見らとつるんでよく浅草通いをしていたようです。

「オケラ」は、ケラ(螻蛄)のこと。ケラ科の昆虫で、地表近い地中にトンネルを掘り,その中で生活します。前脚は、土を掘るため、モグラの前脚のようにシャベル状に特化しているのが特徴。

雄は小さな前翅を振動させてジージーと低い音で鳴きます。全体が茶褐色で,体長3センチほど。頭は小さく、筒状で大きい前胸背板にすっぽりとはまっています。

鳥が好んで食べることから、江戸時代は江戸城大奥で愛玩用に飼育されている小鳥の餌として、江戸近郊の農村にケラの採集と納入が課せられていました。幼虫・成虫に産卵し捕食寄生する寄生バチや、麻酔して産卵する狩蜂もいます。

「カナブンブン」(金蚉蚉)は、カナブンのこと。体長25ミリ前後。コガネムシ科の昆虫で、夏、ブーンと羽音をたててクヌギなどの樹液に集まることで知られています。

モモなどの果実にも飛来し汁を吸います。体は銅色で、銅緑色でエナメルのような光沢があります。成虫は夏、朽木や腐葉土中に産卵し、幼虫はそれらの腐植質を食べて育ちます。


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2019年01月03日

「巻貝の奥深く」(『死の淵より』Ⅱ)

『死の淵より』Ⅱのつづき、きょうは「巻貝の奥深く」。1字アケで9つに分けた散文的な作品です。

  巻貝の奥深く

巻貝の白い螺旋(らせん)形の内部の つやつや光ったすべすべしたひやっこい奥深くに ヤドカリのようにもぐりこんで じっと寝ていたい 誰が訪ねてきても蓋(ふた)をあけないで眠りつづけ こっそり真珠を抱いて できたらそのままちぢこまって死にたい 蓋をきつくしめて 奥に真珠が隠されていることを誰にも知らせないで

巻貝

友人や編集者たちがひっきりなしに見舞いに訪れる入院中の率直な思いを、貝にたくして素直に述べています。

散文詩?。いや一字アケを8つはさんで、①「巻貝」に「ヤドカリのようにもぐりこんで じっと寝ていたい」②「蓋をあけないで眠りつづけ こっそり真珠を抱いて」「そのままちぢこまって死にたい」という2つの願望を述べた散文ともとれます。

「巻貝」は、腹足綱に分類される軟体動物の総称で、とくに螺旋状に巻いた貝殻を指します。腹足綱の多くは螺旋状に巻いた殻を持ちますが、カサガイのように笠状のものや、アメフラシ、ウミウシ、ナメクジ類など殻が退化してしまったものもあります。

動物の多くは左右対称か点対称ですが、巻貝は対称ではありません。しかし、殻の渦巻きは、銀河系の渦巻構造のように、美しい対数螺旋を描いています。

巻貝の巻く方向は種によって決まっているのが普通で、9割の種が右巻き言われています。また、左巻きの種のうち9割が陸生や淡水性だそうです。

甲殻類の「ヤドカリ」は、このような巻貝の空殻に入って生活し、成長に伴って大きな貝殻に引っ越しながら生きています。このため腹部の外骨格が退化して柔軟になり、付属肢も多くは退化の途上にあると考えられています。

第1胸脚は大きなはさみ脚を形成し、続く2対の歩脚は大きく、あとの2対は小さい。海岸でふつうに見られるホンヤドカリ(甲長1センチ)、日本特産のヤマトホンヤドカリ(2.5センチ)、イソギンチャクと共生するソメンヤドカリ(4.5センチ)などたくさんの種類があります。

「真珠」は、巻貝ではなく、主にアコヤガイ、クロチョウガイなどの二枚貝の体内に生ずる球状のかたまり。白、黄、ピンク、淡青、黒などの色があり,装身具として古代から世界各地で用いられてきました。

真珠がどのようにしてできるかは大きく分けて、体外から侵入た異物が核となってできるというのと、貝殻を形成する外套膜の上皮細胞が分離して体内の結合組織の中に侵入するのが成因とする、二つ説に分けられるようです。

いずれの説をとるにしても、真珠の生成された場所には薄い上皮細胞からなる「真珠袋」という組織があることがわかってきました。この真珠袋の上皮細胞から分泌されたものの層によって、形成されたと考えられます。外套膜が貝殻を形成するのと同じような原理で、真珠は形成されているのです。


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2019年01月04日

「荒磯」(『死の淵より』Ⅱ)

きょうは『死の淵より』Ⅱの最後の作品「荒磯」です。きっちり各4行、全6連の構成になっています。

   荒磯

ほの暗い暁の
目ざめはおれに
おれの誕生を思わせる
祝福されない誕生を

喜ばれない
迎えられない
私生子の
ひっそりとした誕生

死ぬときも
ひとしくひっそりと
この世を去ろう
妻ひとりに静かにみとられて

だがしーんとしたそのとき
海が岸に身を打ちつけて
くだける波で
おれの死を悲しんでくれるだろう

おれは荒磯(ありそ)の生れなのだ
おれが生れた冬の朝
黒い日本海ははげしく荒れていたのだ
怒濤に雪が横なぐりに吹きつけていたのだ

おれが死ぬときもきっと
どどんどどんととどろく波音が
おれの誕生のときと同じように
おれの枕もとを訪れてくれるのだ

文学碑

この作品は、高見順の出身地、福井県三国町(現在の坂井市)東尋坊の松林の一角に建っている高見順文学碑=写真=の碑文に取られています。

この作品などの詩稿は、A5判のノートに万年筆で書かれていて、「下書きノート」と「清書ノート」の二種類ありました。

「下書きノート」の表紙には縦書きで「臥床詩稿 昭和38年」と万年筆で走り書きされ、「清書ノート」の表紙も同様の走り書きがあったほか、右下に「39年5月→」と記されていました。

また、二冊とも、作品の書き始めのページの右下の余白に、執筆した日と考えられる日付が記されていたそうです。これらのノートを読んだ広部英一は、次のように記しています。

〈この日付によると「荒磯」は昭和39年5月19日に第一稿が下書きされ、翌日の5月20日に第一稿に手を加えた第二稿が出来上がっていることがわかる。第二稿は第一稿のすぐつぎの頁に下書きされている。

“荒磯”という題名も第一稿は無題で、第二稿にいたってつけられている。この第二稿でほとんど「荒磯」は完成し、「清書ノート」の「荒磯」の日付は昭和39年5月21日となっている。

つまり「荒磯」は昭和39年5月の19日・20日・21日の三日間をかけて執筆された詩作品とみられるのである。

高見順にとって、この「荒磯」が完成した昭和39年の5月の日々は、食道ガンの第1回目の手術を受けた昭和38年10月9日から約7カ月後、第2回目の手術を受けるために再入院した昭和39年6月17日の約1カ月前である。

「二三行書いて、あるいは素描的なものを一応書いておいて、二三日おき、時には二三週間、二三カ月おいて、また書きつづけるという工合にして書いた」と高見順は詩集『死の淵より』の自注で述べているが、この「荒磯」は例外らしく、書き始めてから書き上げるまでの三日間、この一編の完成に間をおくことなく全精力を集中したものと思われる。

ほとんど判読不可能な第二稿の筆蹟が、このことを証明する。定稿「荒磯」の7行目「私生子の」が第一稿になく、第二稿で挿入された1行である事実を知ったことだけでも私のこころはふるえてやまないのである。〉(「「荒磯」執筆の三日間」)

「喜ばれない/迎えられない/私生子の/ひっそりとした誕生」の「私生子」については、これまで何度か紹介してみましたが、その「ひっそりとした誕生」は具体的にどのようないきさつで成されたものなのか。高間新助「高見順出生当時の三国」から引用しておきます。

「頃は明治39年5月のなかばであった。時の福井県知事阪本釤之助は、国鉄三国支線誘致と九頭竜川堤防築造など公務をおびて三国町をおとずれた。三国大門町にあった郡役所へである。

当時の郡役所は唯称寺近くの高台にあった。時の内閣は西園寺公望、衆議院議長は杉田定一、枢密院議長が山形有朋の時代、郷土では、坂井郡長が並木立弥、三国町長は牧野巌であった。

北陸線が明治29年に開通してからは、港の勢いとみに振わず、三国としては是が非でも国鉄三国支線の開通を促し、北海道ならびに対岸沿海州や、朝鮮、樺太に販路を求めようとした時であった。

すでに明治31年に三国町は鉄道敷設を陳情していたし、町民に動かされて福井県会が内務大臣に三国支線敷設の建議書を出している。

しかし日露戦争による国家財政の窮迫は、実現を一層困難なものにしていたが、一方杉田定一の活躍により九頭竜川の大造堤国営工事は本格的に着手されていた。知事阪本釤之助は、この時が三国への初巡視ではなかった。

すでにそれまでに二、三度三国町をおとづれている。なぜならば、彼は明治35年2月8日東京府の書記官から福井県知事に転出し、明治40年12月27日鹿児島県知事に転任まで、6カ年も本県に在任したのだったから。

謂わば彼は日露戦争当時の知事として思い出の人というべきことにもなる。当時知事が三国へ赴くには、福井から九頭竜川の東沿岸ぞいに、曲りくねった田畑の中の旧三国街道を、昔なつかしい金車の人力車(2人びきで3、4台続いて来た)でガタガタゆられながら列をなして三国へ這入ったのである。

車上の阪本釤之助は、紋付羽織袴、山高帽にステッキといういでたちであった。道筋の布施田新―正善―定広あたりにさしかかると、九頭竜川の築堤工事中の人夫たちが、トロッコ(土車)を押す手をやめて続く人力の行列を不思議そうに眺めていたという。

郡役所で出迎えられた多くの代表者や有志たちとの所定の会議がすみ、実業女学校の敷地や、波止場の巡視などおわると、当時の習はしとして、三国町平木の開明楼で、歓迎の宴がもたれたのである。

開明楼はその頃、今の三国東宝の場所にあって、当時は県内有数の料亭の一つであった。福井の五岳楼と並んで三国での主な宴会がここに当てられたという。

なる程、九頭竜川河口の高台にあり、座敷からは、出入りの船や、三里浜の砂丘や松並木、対岸三国新保の家並み、さては細長い新保橋(当時は粗末な木橋)や波止場近くなど、三国の下町情緒は手に取るように眺められた。

加えて青葉若葉の薫る5月、四方の賑わいを呼ぶ三国祭の前のこととて、それぞれの町内には、名物出し人形(山車)が屋上高くそびえ立ち、町はあげておどりや、はやし、笛、太鼓のけいこにはしゃいでいた。

経済的に疲弊していたとはいえ、この港町にも日露戦争の戦勝気分は未だ醒めやらぬ時であった。

新保橋の両たもと、夕暮の街並みには、青白く瓦斯燈がともり、下町には芸者の行き来も目にとまる灯ともし頃、開明楼の広間では、お酌の女たちの一群にまじって一きわ美しく、高見の母コヨも素人娘ので知事のお酌に出されたのである。

しかしコヨはこれが知事との初対面ではなかったのである。前の巡視の折にも一度知事の座敷に出る機会があり、阪本氏の眼にとまっている。

しかもこの時は特に名指しがあって、コヨが呼ばれ仲介の労は森田氏や、開明楼に勤めていた親戚にあたる芸者、田辺さくが取ったという。

いずれにしても、こうしたいきさつから、当時田舎おいらんとまでいわれ道行く人が振り返った町娘コヨと知事の交遊が生まれた事に相違がない。時にコヨは29歳(数え年)であった」。

知事阪本釤之助の三国町巡視の翌年、明治40年2月18日にコヨは高見順を出生しています。この朝、黒い日本海はものすごく荒れていたといいます。まさに荒れ狂う「荒磯」での「私生子の/ひっそりとした誕生」だったのです。


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2019年01月05日

「陽気な鬼」(『死の淵より』Ⅲ)

きょうから高見順『死の淵より』の第Ⅲ部に入ります。Ⅲの最初の作品は、各4行、全7連構成の「陽気な鬼」です。

  陽気な鬼

茶碗のふちを箸でたたくな
餓鬼(がき)がやってくる
大事なごはんを餓鬼に食われる
幼児の私に祖母が言った

食後静かに横たわった
今は年老いた私のところへ
奇妙な鬼どもがやってきた
なんの物音も立てはしなかったのに

外には雪が降っている
雪に足跡を残さず
足も濡らさずに庭から
私の部屋にはいってきた

小肥りした鬼どもは
顔の色艶もよく餓えてなどいない
きっと私なんかよりずっといい暮らしをしているのだ
病み衰えた私のほうが餓鬼のようだ

何をしに来たのだろう
私を慰めに来たのか
こんな陽気な鬼のほうが
骨と皮の餓鬼よりむしろ気味が悪い

私のベッドのまわりでツイストをはじめた
箸で私の肋骨をシロホンがわりにたたいて
音が悪いと
食道のない私の胸に耳を当てたりした

するうちなににおびえたのか
鬼どもは一斉にキャーッと叫んで
部屋からあたふたと飛び出した
否 私から一目散に逃げ出した

餓鬼

『死の淵より』Ⅲには次のような前文が付いています。

〈自宅に帰ってからの詩である。はじめはベッドに寝たきりだったが、だんだん庭に出たり近くを散歩するようになった。気持や考えもすこしずつまた変ってきた。一方、心境の明暗の度合いのはげしくなったところもあり、自己から離れた詩の書ける時もあった。

安東次男は詩は老年の文学であると書いていた。私にとって詩は正に老年の文学である。私の詩の実際は、安東次男の言う老年の文学とは違うかもしれぬが、詩が青春の文学だけでないのは、私のためにも詩のためにも仕合わせである。

ごく若い頃に私も詩を書いたが、小説を書きはじめるようになってから、ふっつりやめた。散文精神に有害であり有毒であると思ったからだが、やがてその間違いに気づき四十になってからふたたび自己流の詩作に戻り、今日に至っている。正に老年の文学である。〉

1963(昭和38)年10月5日、千葉大学附属病院に入院した高見順は、最初の手術を済ませて、11月28日の夜に退院しました。退院後、自宅療養をしながら懸命に『死の淵より』に関係する詩作などに取り組みました。

自宅へ帰ってからも、しばしば医師が診療に訪れています。たとえば退院翌月、12月10日の日記には「秋山先生来診、ゴム管を新しいプラスチックに変える。ためしに食事、洩らない」とあります。これには、秋子夫人が次のような注を付けています。

〈「食道癌の手術」は、単に病巣を除去しただけで成功したとはいえない。切り残された食道と胃の縫合手術が終って、初めて済んだ、成功したということになる。その縫合手術を受ける迄の半年から一年間の、患者の耐えねばならぬ毎日の不便さ、不快さ、惨めさ――。

生命に関わることではないから我慢せよと言われ、言われた方でもその通りだと納得し、こういうものだと諦めて耐えている。高見を含めた大ぜいの患者たち。そこへ、いくらかでも快適に過ごせるような、工合のいい人工食道を試作してみようという秋山先生の出現は実に有り難いことだった。〉

仏教では、最高の境界である仏から最下位の地獄までを十位に分かち、「餓鬼」はその下から2番目の悪趣(悪い境界)の住人とされています。絶えず飢えと渇きに苦しみ、その姿は咽は針のごとく細く、腹は山谷のごとくに膨れているなどと形容されます。

食べ物を口に近づけるとすべて炎となり、口に入れることはできないのです。天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄を六道と言って、行いの善悪によって六道の中で生死を繰り返すのが輪廻です。

「茶碗のふちを箸でたたくな/餓鬼がやってくる」という「祖母」の教えは、絶えず飢えや渇きのなかにある餓鬼に基づく、なんらかの言い伝えによるのでしょう。

この作品の餓鬼の到来とは、縫合手術を受けるまで日々耐えねばならない不快さや惨めさがもたらす患者の幻影でしょうか。それとも、毎日のようにお見舞いに訪れる人々が、見た目以上に苦しい日々を送る患者には、餓鬼のように感じらっれたのでしょうか。

「シロホン」(Xylophone)は、木製の音板をもつ鍵盤打楽器。いわゆる木琴のことです。木製の音板を、ピアノの鍵盤と同様の順番に並べた打楽器であり、体鳴楽器に分類されます。

音域は、中央ハの完全4度上の「ヘ (F)」 から3オクターブ半。マレット(枹・ばち)で叩いて演奏しますが、木、ゴム、プラスチックなど、打部の材質によって音色に変化を求めることができます。


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2019年01月06日

「黒くしめった」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』の第Ⅲ部。きょうの詩は「黒くしめった」。ベッドの上にスッポンが現れる9行の作品です。

  黒くしめった

黒くしめった雲の影が芝生をよぎった
そのとき私の眼の前を
スッポンのごときものがよこぎった
それはなぜスッポンであらねばならぬのか
間もなく室内のベッドの上の私の胸の上を
差すはずのない雲の影がゆっくりとよぎった
みるみる私は萎(な)えて行った
あれはやっぱりスッポンだったのだ
直ちに首をちょん切られ血をしぼられるスッポンだったのだ

スッポン
*「井寺スッポン養殖場」のサイトから借用

高見順は、見舞いの品に何がいいと鐘紡の社長に聞かれて、滋養にいいすっぽんスープを所望したのを機に、見舞客からすっぽんスープがたびたび届けられるようになったといいます。

スッポンは、確かに、気力や血液を増加させる強壮食材として、病み上がりや精力減退、貧血などに有効といわれます。

リノール酸や各種のビタミン類が豊富に含まれ、血中コレステロール値や血圧を下げるので、動脈硬化や心筋梗塞、高血圧、心臓病、神経痛などの予防、赤血球の産生に働く神経系を正常に保たせるのにも有効だそうです。

ただし、過剰摂取すると弊害を起こすこともあるとか。「私の眼の前を/スッポンのごときものがよこぎ」った。それは、すっぽんスープがあまりにたびたび届けられるので、食傷気味になっていた患者の見た幻影でしょうか。

スッポンは、北海道を除く日本全土、朝鮮半島、中国、インドシナ半島東部などの河川に生息します。長さ20~40センチほどの柔らかく平たい甲羅をもち、四肢の水かきが発達し、首は細長く吻部は管状になっています。

ほかのカメと違って、甲羅表面が角質化していないので軟らかく、それが、英語の「Soft-shelled turtle(柔らかい甲羅を持つカメ)」の由来にもなっています。甲羅の性質のため、ほかのカメよりも体重が軽いのが特徴です。

幼体は腹甲が赤みがかって黒い斑紋があり、成体の腹甲は白やクリーム色。身体に触られると自己防衛のために噛みつこうとします。顎の力が強いので噛みついた後、そのままの状態で首を甲の内側に引っ込めようとします。

鼻と首が長く鼻先をシュノーケルのように水上へ出すことで呼吸できるため、上陸して歩行することは滅多にありません。しかし、皮膚病に弱いため、たまに護岸などで甲羅干しをしている姿がみかけられるようです。

スッポンは脂がかなり多いわりにはあっさりとした味をしています。肉だけでなく内臓も食用とされ、生き血は清酒やワインで薄めたり、あるいはそのまま飲まれます。美味しい出汁がでるため、日本酒とすっぽんで拵えたスープや雑炊、吸い物は高級料理。

甲羅や爪、膀胱、胆嚢以外はすべて食べられ、解体することを「四つ解き」と呼ばれることもあるそうです。専門店では食前酒として、すっぽんの活血を日本酒等のアルコールで割ったものを供します。

北陸地方の奇談集『北越奇談』には、江戸時代、大繁盛していたスッポン屋の主人が寝床で無数のスッポンの霊に苦しめられる話もあります。いつもスッポンを食べていた男がこの霊に取り憑かれ、顔や手足がスッポンのような形になってしまったという話も残っているそうです。

古書『怪談旅之曙』によれば、ある百姓がスッポンを売って暮らしていたところ、執念深いスッポンの怨霊が身長十丈の妖怪・高入道となって現れたとか。また、その百姓のもとに生まれた子は、スッポンのように上唇が尖り、目が丸く鋭く、手足に水かきがあったという逸話も。

「直ちに首をちょん切られ血をしぼられ」たスッポンの怨霊が、「身長十丈の妖怪・高入道」となって、高級なすっぽんスープに明け暮れる詩人の前に立ち現れたのかもしれません。


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2019年01月07日

「円空が仏像を刻んだように」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲ。きょうは「円空が仏像を刻んだように」という12行の作品です。

  円空が仏像を刻んだように

円空が仏像を刻(きざ)んだように
詩をつくりたい
ヒラリアにかかったナナ(犬)が
くんくんと泣きつづけるように
わたしも詩で訴えたい
カタバミがいつの間にかいちめんに
黄色い花をつけているように
わたしもいっぱい詩を咲かせたい
飛ぶ鳥が空から小さな糞(ふん)を落とすように
無造作に詩を書きたい
時にはあの出航の銅鑼(どら)のように
詩をわめき散らしたい

連合
*円空連合のサイトから借用

「つくりたい」「訴えたい」「咲かせたい」「書きたい」「散らしたい」という五つの願望が、次々につづられていきます。

不治の病の床にある詩人が、そこで発しようとしている言葉のありよう、想いや意気込みがが切々と伝わってきます。

円空(1632―1695)は、江戸初期の僧侶。美濃国竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)生まれ。若くして仏門に入り、天台僧として修験道を学んだともいわれますが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったようです。

諸国遍歴の旅を続け、北海道から、四国、中国まで、その足跡は、ほぼ日本全土に及んだようです。1695(元禄8)年に故郷の美濃へ帰り、自らが中興した弥勒寺で同年7月に没しました。

円空は、遊行しながら一生に12万体を彫る大願を立てたと伝えられ、5000体余が発見されているそうです。名古屋荒子観音寺の3.5メートル余の仁王像から2、3センチの木端(こっぱ)仏まで、像種や大きさはさまざまです。

丸木を四分、八分したくさび形の、荒くノミを入れただけの材からつくりあげることが多く、原材による制約をそのまま利用し、またノミのあとをそのままに残すというように、大胆直截な輪郭や線条によって彫像をつくりあげました。

一見稚拙にも見えますが、熱烈な信仰心を反映して、作風が形式化した当時の職業仏師たちの作に比べ、素朴さと力強さを備えた新鮮な魅力が心を打ちます。

「ヒラリア」は、フィラリア(filaria)、ふつう糸状虫類と言われる寄生虫の総称です。脊椎動物の循環器、体腔、筋肉などに寄生し、体は糸状で細長く、雄は雌より小さいのが特徴。発育中に中間宿主として、吸血昆虫類が必要になります。

この詩では「ナナ(犬)」がかかったといっていますから、トウゴウヤブカなどを介してイヌの心臓に寄生するイヌのフィラリア、「イヌ糸状虫」のことを指しているのでしょう。

イヌ糸状虫の成虫はそうめんのように細長く、雄の体長12~18センチ、雌25~30センチ。イヌの右心室に寄生しますが、まれにヒトの肺から幼若虫が摘出される症例などもあります。

雌は、血液中にミクロフィラリアとよばれる幼虫を産みます。ミクロフィラリアは体長約0.25ミリで、夜間に末梢血管に現れ、トウゴウヤブカなどのカに吸われて発育したのち、再びカがイヌを吸血するときイヌの体内に入り、皮下組織や筋膜下などでいったん発育してから静脈を経て右心室へ移って成虫になります。

成虫の寄生によって血液循環障害、それに続く肝硬変、腹水などをおこし、朝夕の冷気にあたったり急激な運動をすると発作性の咳(せき)をします。イヌの体内に入った糸状虫の幼虫をマクロライド系薬剤を用いて殺滅する対策が取られるようになってから、感染は著しく減少するようになりました。

「カタバミ」は、庭や道端にしばしば見られるカタバミ科の多年草。和名の傍喰(かたばみ)は、葉の一端がかじられたようだから、こう呼ばれるようになったともいわれます。根は太めで、根の際から数本の茎が分かれて地上をはいます。

葉は、倒心臓形の3枚の小葉からなる掌状複葉で、長い柄があります。小葉は昼は開き、夜には閉じます。春から秋にかけて葉のわきから花茎を伸ばし、先のほうに1~8個の花をつけます。花は黄色い5枚の花弁が放射相称に並びます。

「飛ぶ鳥が空から小さな糞を落とす」ということは、ふつうにあるようです。鳥にとっては、食べたら出る、というそれだけのごく自然な行為なのでしょう。空を飛ぶには体が軽いほうがいいから、いつでも食べたら次々に出すことができるような体の構造になっていると言えるのかもしれません。

そんなごく自然な生理現象のように「無造作に詩を書きたい」と、この詩人は言っているのです。


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2019年01月08日

「洗えと言う」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき。きょうは「洗えと言う」という各5行2連、「けだもの」について書かれた10行の作品です。

   洗えと言う

洗えと言う
くさい息をふっかけて
けだものが
毛もくじゃらのノミだらけの足を出して
人間のおれに命令する

よろしい
やってやる
なんでも言うことをきいてやる
そのかわり けだものよ
おれもたけだけしいけだものにしてくれ

獣

ここでいう「けだもの」とは、一体どういうものなのでしょう。一般に、けだもの(獣)とは、体全体が毛に覆われた四足の哺乳動物の総称をいいます。また、狭義には家畜をさし、「畜」の字をあてます。

語源については、『古事記伝』や『箋注和名抄』ではケツモノ(毛物)から、『日本釈名』ではケナルモノ(毛生物)から、とする説が取られています。

人間のもっている理性や情緒に欠ける動物という意味合いから転じて、人間的な義理や人情のない人をあざけり、ののしって呼んだり、他人を卑しめる人でなしの意で「けだもの」という言葉を用いることもあります。

こうした、人間が内面に抱えている「けだもの」について、高見は次にあげる「心のけだもの」という詩を作っています。

 けだものよ
 眠りから早くさめて
 兇暴に駆けめぐれ
 私の心のなかのけだものよ
 おまえの猟場を駆けめぐれ
 死の影の下で眠りこけている間に
 たちまちそこが占領されたようだ
 ほかの獣(けもの)に
 死となんらかかわりのない獣たちに
 おまえのナワ張りは荒らされてしまった

癌や肉腫のことを、悪性新生物といいます。細菌やウイルスのように外から侵入してくるものではなく、その人本来の細胞が変化して、体内から発生した“新生物”。そういう意味で癌は、自らを形づくる細胞が生み出した「けだもの」と言ってもいいのかもしれません。

正常な細胞はその場にふさわしい形をとり、しかも適当な大きさになれば増殖が止まるようになっています。しかし癌細胞という「けだもの」は、その場にふさわしい形をとらず、無制限に増殖し、大きくなっていきます。

また、細胞間の結合が弱く、細胞が単体でリンパ管、血管の中へこぼれ落ちやすいのも特徴です。こぼれ落ちた細胞は、ほかの場所に流れていって、そこでまた増殖をはじめます。こうした悪性新生物の転移によって、正常な臓器の働きは阻害され、生命が脅かすことになるのです。

さらに、詩の中の「けだもの」は「毛もくじゃらのノミだらけの足を出して」「おれに命令する」といいます。詩人の自由を奪おうとする「けだもの」は、「ノミ」という昆虫をも抱え込んでいるのです。

私は、ここに出てくる「ノミ」から、高見の詩集『樹木派』にある「急ぐ虫」という題の6行だけの短い詩を思い出しました。

 掌に
 小虫をのせ
 あるかせる

 その急ぎ足を
 悲しむ
 人生に似てゐる


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2019年01月09日

「庭で(一)」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは「庭で(一)」。三つの短詩から成っています。

  庭で(一)

  一

  草の実

小さな祈りが葉のかげで実っている

   二

  祈り

それは宝石のように小さな函(はこ)にしまえる 小さな心にもしまえる

   三

  カエデの赤い芽

空をめざす小さな赤い手の群(むれ) 祈りと知らない祈りの姿は美しい

もみじ

昭和38年11月28日に千葉大学附属病院を退院して、北鎌倉の自宅で療養生活をしていた高見順は、午前中の日光浴を日課のようにしていて、気が向けば庭に出て、横臥椅子に横たわっていたようです。

例えば退院した翌月の12月の日記には――

●12月8日 晴

午前中、日光浴(雲があってなかなかうまくゆかぬ)。12時から晴、3時まで庭に出て横臥椅子。
九官鳥、コンバンワ、ホーホケキョー。
一日、日光浴のための一日だった感じ。

●12月9日

モミジ。身体に力がついたら、写生したいと思ったモミジ――下は緑だった。この二三日で、下まで赤くなった。
カナリヤ、場所が違うとさえずらぬ。

●12月10日

くもり。オートミール、ハムエッグ。
日光浴できぬ。くもりのため早速、脇腹いたむ。

●12月13日

小津安二郎、ガンで死。
快晴。10時―2時、日光浴。庭の横臥椅子。足、背中、清拭。

などとあります。退院後初めて外に散歩に出ることができたのは、12月16日のことだったそうなので、日光浴や庭歩きが外気に触れる数少ない機会だったわけです。

この詩は、退院直後の体が思うにまかせぬ中で、このように自宅から庭を見つめるなかから生まれたのでしょう。

「カエデ」は、カエデ科カエデ属の総称で、モミジともいいますが、これは紅葉するという意味の動詞「もみず」の名詞化したもの。秋に紅葉する植物の代表であるカエデ類をさすようになりました。

植物分類上はカエデとモミジはともにカエデ属樹木を表す同義語ですが、園芸界ではイロハモミジ、オオモミジ、ハウチワカエデなどイロハモミジ系のものをモミジといい、それ以外のイタヤカエデ、ウリハダカエデなどをカエデとして区別する習慣があるそうです。


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2019年01月10日

「過去の空間」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは各4行9連から成る「過去の空間」です。

  過去の空間

手ですくった砂が
痩せ細った指のすきまから洩れるように
時間がざらざらと私からこぼれる
残りすくない大事な時間が

そのかわり私の前にいくら君が立ちはだかっても
死の世界にしては明るすぎる向うの景色が丸見えだ
そのかわり君が敵か味方か私にはわからないが
なぜ君は君の見ている景色を私に見せまいとするのか

たしかに死の世界ではないのだ
しかしそこに人はひとりも存在しない
かつては客が大勢いたらしいのに今は去って
そのかわりたくさんの盃(さかずき)がにぎやかに残されている

飲み残しの酒を今なおたたえた盃
その周囲にからの盃が倒れている
杯盤(はいばん)狼藉(ろうぜき)のわびしい華やかさ
ころがっている盃のほうが多いのだ

私にははっきりわかるのだが
からの盃は盃が倒れたので酒がからになったのではない
人がぞんぶんに飲みほしたのち盃を投げたのだ
乾盃のあと床にたたきつけられた盃もある

なぜあと片づけをしないのだろう
宴のはじめはさぞかし楽しかったにちがいない
楽しさがまだ消えやらず揺曳(ようえい)しているのを
その場に残すためそのままにしてあるのか

その楽しさはすでに過去のものだ
しかし時間が人とともに消え去っても
過去が今なお空間として存在している
私という存在のほかに私の人生が存在するように

楽しそうでほんとは惨憺たる過去の景色を
君は私の味方として私に見せまいとするのか
それとも私の敵として過去の楽しさすら拒みたいのか
君は私の過去とは別に存在する私の作品なのか

景色は次第に夕闇に包まれて行く
砂上に書かれた文字が崩れるように
すべての盃も姿を消して行き
時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる

盃

宇宙科学者たちは、巨大な望遠鏡で遠くを見ることによって過去を知ろうとしています。光が1年間に進む距離、すなわち1光年(約10の13乗キロメートル)先の宇宙を見ることは、1年前に発せられた宇宙の情報を見ることになります。

たとえば、現在地球で見えるアンドロメダ星雲は、230万光年の距離にあるので、実は230万年前のアンドロメダ星雲を見ていることになります。137億光年先の宇宙を見れば始まったばかりの宇宙を目にすることができることになるのです。

アインシュタイン以降、時間と空間はもはや独立ではなく不可分なもので、ミンコフスキー時空という一様な四次元空間としてあつかわれるようになりました。「しかし時間が人とともに消え去っても/過去が今なお空間として存在している」というのは、科学的にも理にかなっていることになります。

そんなふうにして詩人が見つめる「過去の空間」には、「たくさんの盃がにぎやかに残され」た「杯盤狼藉のわびしい華やかさ」のあとが広がっています。

「杯盤狼藉」の「杯盤」は、杯や皿などの食器のこと、「狼藉」は狼が寝るために敷いた草の散らかった様子のことから、酷く散らかっている様子のたとえです。

「杯盤狼藉」という言葉はもともと『史記』によるそうですが、 酒宴の後、杯や皿鉢などが席上に散乱しているさまをいいます。

「揺曳」は、ゆらゆらとゆれてなびくこと、響きなどがあとに長く尾をひくこと。また、雰囲気や感情などがあとまで長く残ることをいいます。

「盃」の多くは、中心がくぼんだ皿状・円筒状で、皿部分の下に小さな円筒の高台が付いています。材質は、木に漆を塗った漆器製、ガラス製、金属製、陶磁器製、「かわらけ」とも呼ばれる土器製のものもあります。

もちろん日常的に酒を飲むために使用されますが、神道の結婚式や神事の席、黒田節を舞うための道具、大相撲の賜杯や優勝トロフィー、勲章・褒章の副賞など、さまざまなかたちで用いられています。

高見順は、毎日出版文化賞(1959年)、新潮社文学賞(1963年)、野間文芸賞(1964年)、さらには死後、文化功労者が追贈されるなど、多くの栄誉を受けていますが、そうした人生の勲章も「ころがっている盃」の中に入っているのかもしれません。

「人がぞんぶんに飲みほしたのち盃を投げたのだ/乾盃のあと床にたたきつけられた盃もある」という、自らの人生で繰り広げられた「過去の宴」とは、いったい何だったというのでしょう。

死を前にした「私に見せまいとする」もう一人の自分らしき「君」に、詰め寄っていきます。死によって「過去の空間」はどうなってしまうのかをも、問うているようです。

が、答えはありません。ただ「砂上に書かれた文字が崩れるように/すべての盃も姿を消して行き/時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる」だけなのです。


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2019年01月11日

「車輪」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは5行だけの「車輪」という作品です。「赤い風景画」4という副題が付いています。

   車輪

日当りのいい
しあわせな場所で
車輪が赤く錆びて行く
小さい実がまだ熟さないまま枝から落ちたがっている
球根はますます埋没したがっている
(「赤い風景画」4)

車

ここではどういう「車輪」を、詩人はイメージしているのでしょうか。自動車、自転車、荷車、鉄道、トラクターなど、いろいろと考えられますが、「赤く錆びて行く」ということからすると、ゴムタイヤが付いていないもののように思えます。

私が単純にイメージするのは、任務を終えて静かに置き去られている、蒸気機関車かなにかの鉄道車輪です。

鉄道車両の車輪は、鋼鉄製のレール上を転動するため鋼鉄でつくられていて、レールから外れにくくするためのフランジとよばれる突起部分と、レールに接触する踏面、車軸と結合するボス部などで構成されています。

駆動システムと結合させて、駆動力を出す車輪を動輪、駆動力を出さない車輪は従輪と呼ばれています。蒸気機関車では、シリンダー中のピストン速度が遅く、リンク式の増速機構と直径1.7メートル程度の大きな動輪が使用されていました。

車輪には、外周の転動する部分(タイヤ)と中央のボス部およびそれを連絡する部分(輪心)が分離できるタイヤ付き車輪と、一体の鋳鋼または鋼鉄を圧延して製作した一体車輪があります。

タイヤ付き車輪はタイヤのみを交換できるため、蒸気機関車のように輪心にリンク機構を取り付ける駆動装置では経済的でしたが、リンク機構が使われなくなり、車輪の直径も小さくなった現在では、ほとんどの車両で一体車輪になっているそうです。

車輪は円筒形ではなく、円錐形を輪切りにしたような形をしていて、踏面についた傾斜により輪軸が線路の中心へ戻る機能を持っています。

ピラミッドの石材を丸い材木(ころ)を下に敷いて運搬したように、車輪のしくみを用いた運搬は古くから行われていました。車輪は最古の最重要な発明で、その起源は古代メソポタミアの紀元前5000年紀(ウバイド期)で使われていたろくろにさかのぼるという説もあります。

車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要でした。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすいためです。そのため平坦な道路がない国では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかったそうです。

初期の車輪は木製の円盤で、中心に車軸を通す穴がありました。19世紀に入ると蒸気機関車の発明とともに、その重さを支えるための鉄の車輪が発明され、鉄道などに用いられるようになります。そして1870年ごろ、空気入りのタイヤや針金スポークの車輪が発明されました。

車輪単体は機械とは言えませんが、軸や軸受と組み合わせることで輪軸という単純機械になります。車輪には文化的な意味もあります。チャクラ、転生、陰陽などといった、周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩として用いられてきた歴史もあるのです。

こうした歴史的、経済的意味をもち、そして、人生を支えてきた原動力という暗喩もあるであろう「車輪」が、その活躍してきたベクトルとは反対向きに「しあわせな場所で」「赤く錆びて行」きます。

「実がまだ熟さないまま枝から落ちたがっている」というのも、実用的に、食べる側の論理に逆らう意志のあらわれと考えることもできます。

冬や乾期のような生育に不適当な季節をしのぐため、植物体の一部が地下で養分を貯蔵し多肉化して、来たるべき季節を待つ「球根」にしても、そうした理に反して、「埋没したがっている」と詩人はいいます。

病床の中、自らも含めた、生み出して来ているものたちののなかにある「退化」への意志のようなものを感じ取っているようにも思われます。


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2019年01月12日

「血だらけの手」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは「血だらけの手」という2行詩です。きょうも赤い色が出てきます。

   血だらけの手

赤インキでよごれている手 過去の校正ばかりしている手

赤インキのかわりに彼はいま彼みずからの血を使っている

インク

思えば、作家の手というのは、一面「校正ばかりしている手」といえるのかもしれません。校正はふつう「赤インキ」を用います。文章の間違いを修正したり指摘したりすることを「赤を入れる」といいます。

たいていの作家は、原稿を書いている段階でも多かれ少なかれ推敲を重ね、誤りが少なく、よりよい文章を仕上げていきます。

さらに原稿が出来上がってからも、編集者や出版社の意向などで、校正を変えて書き直したり、削ったりということもあります。

入稿してからも、ゲラ刷りなどを読んで赤を入れます。ふつう、初校、再校、三校、著者校などと、チェックは繰り返し行います。

「赤インキ」には、意欲低下を招くなど脳に良くない作用を及ぼすという説もあるそうで、イギリスの教育界では、試験の採点に赤ペンが使用するのを見直すべきとする「赤ペン論争」が持ち上がったこともあるとか。

人の脳には、赤色を見ると行動を思いとどまらせる機能があることは実験で証明されています。意欲は脳内の側坐核と呼ばれる部分で生み出されていて、ここの働きが赤色で鈍り意欲が低下するのだとか。

だから、間違った行動をやめさせたいときは、赤色で注意を書くのが効果的ということになります。信号機の赤色が停止を意味するようになったのも、そんな脳の性質が背景にあったから。

大むかし、けがで出血したとき、意欲を出して動きまわると大量失血で死んでしまうので、赤い血を見たときは何も考えずじっとしている必要があったから、との説もあるようです。

そう考えて来ると、「赤インキ」と「みずからの血」のあいだには人類学的なつながりがあるのかもしれません。

高見順は晩年、ノイローゼに悩まされました。『闘病日記』にも、「詩も読めない、ノイローゼ気味」(昭和38年12月1日)、「ノイローゼ気味のため、順天堂の先生の来宅ことわる」(同4日)などと、「ノイローゼ」という言葉が頻出します。

「赤インキのかわりに彼はいま彼みずからの血を使っている」などというフレーズを読むと、その背景には、こうした「ノイローゼ」に苦しむ人間像が浮かんできます。平野謙は次のように記しています。

「本気とそうじゃないときの区別が、高見さん自身にもつきにくいようなところがあったのではないか。ことの軽重をしかと弁別する前に、その場の空気に同調してしまうようなところがあったと思う。

こう書くと、高見順はまるで軽佻浮薄な人物みたいにきこえるが、それは主として高見さんの性格的な鋭敏と複雑から発した属性にすぎないのである。

不必要なまでに気をつかうこと、先まわりして相手の気持を汲んでやること、その場の空気にあわせて、さも本気らしく語ってみせること、人々に応じて、それにふさわしい顔をこしらえること、などなどは、一口にいって都会人的といってもいい諸属性にほかならぬのだが、自分でももてあますような高見順の異常な鋭敏と複雑は、やはり単なる都会人をこえていた。

後年ノイローゼにならねばならぬような、内にくいこむ性格的なものが、そこにはあった。ポーズと本心との区別が自分でもつきにくくなったとき、所詮、その人はノイローゼにでもなるよりしょうがあるまい」(「高見順断片」)


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2019年01月13日

「耳のある自画像」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは「耳のある自画像」という21行の作品です。題名通り、ゴッホを扱っています。

  耳のある自画像

ピエールはピギャール広場で友人を刺した
近頃羽ぶりをきかせいばっていた友人を
二人はモンマルトルのやくざだった
ピエールは一躍男をあげた
同じときパリから離れた田舎のアルルで
ゴッホは自分の耳をかみそりで切りとった
友人のゴーギャンと口争いをして負けたのだ
ゴッホの傑作が一番生れたアルル時代のことだ
ピエールのようにゴーギャンを刺すことはできなかった
ピエールとちがって卑怯なめめしさだと笑われ
狂気のせいだとも診断されたが
ゴッホはやくざでなく画家だったのだ
のちにゴッホは片耳のない自分をみつめて自画像を描いた
卑怯な男ではなかった証拠だ
ゴッホの画は生涯に一度しか売れなかった
売れる画を描こうとしなかったのも卑怯でなかったせいだ
T君よ 君は好運だ
君の耳は健在だし
ノイローゼになってもゴッホのように死なないですんだし
小説を売って今日まで生きながらえることができた
さらに幸いなことに君はやくざのピエールでもなかった

自画
*ゴッホの自画像あ(1889年1月)wikiから

「ピエールはピギャール広場で友人を刺した/近頃羽ぶりをきかせいばっていた友人を/二人はモンマルトルのやくざだった」というのが、どういう事件だったのか、「やくざのピエール」が何者なのか、私にはまったく分かりません。

ただ、「ピギャール広場」というのは、モンマルトルの丘のふもとの歓楽街にある、18世紀の彫刻家ジャン=バティスト・ピガールに因んで名づけられたという広場。『プーシキン美術館展』に出品されたピエール・カリエ= ベルーズの1880-90 年代頃の作品「パリのピガール広場」を思い浮かべました。

パリの生活に疲れ果てたゴッホ(Vincent van Gogh、1853―1890)は1888年2月19日、療養と、新たな芸術活動の拠点づくりを目ざして、南仏プロヴァンスのアルルへ旅立ちます。いわゆる「アルル時代」のはじまりです。

この88年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期である。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは郵便夫ムーランとその家族の肖像など、色彩の強さ、筆触の表現力、構図の安定性など、ゴッホの独創的世界の確立されました。

画商の弟テオによる経済的支援の下、新しい“芸術村”の建設を夢みて「黄色い家」を借りてのことです。しかし、彼の呼びかけに応じて実際に来てくれたのは、パリで出会ったゴーギャンだけでした。

同年秋からゴーギャンとの共同生活が始まります。相互に刺激しあって少なからぬ影響を双方に与えあいますが、強烈な個性は互いに相いれず、ゴッホの精神的疾患への不安などからゴーギャンは共同生活を解消しようとするようになります。

ウィキペディアによれば、11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ファン・ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない」などと不満を述べている。

また、12月中旬、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です」と書き送り、一方のゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う」と書いているそうです。

そして12月23日、ついにゴッホの最初の発作がおこり、かみそりでゴーギャンに切りつけます。しかし果たされることはなく、けっきょく「黄色い家」に戻って自らの耳を切り落とす「耳切り事件」が起こったのでした。ゴッホは、切り落とした耳を、娼婦・ラシェルに渡しに行くという狂気的な行動をとります。

これについて、12月30日の地元紙は、次のように報じているといいます。

〈先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。〉――1888年12月30日付「ル・フォロム・レピュブリカン」

そして事件後、5カ月にわたり入退院を繰り返しながらも制作を続け、1889年5月までアルルで過ごしました。その後、ゴッホはサン・レミに移り、カトリック精神療養院に入院。さらにオーヴェールでの療養中、37歳のとき、拳銃で自殺しています。

ゴッホの絵は生前1枚しか売れなかったといわれます。それに対して高見順は晩年ノイローゼに苦しんだとはいえ、「耳は健在だし/ノイローゼになってもゴッホのように死なないですんだし/小説を売って今日まで生きながらえることができた」のです。現在では、その小説はほとんど読まれることはなくなってしまったようですが……。


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2019年01月14日

「明治期」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは「明治期」という1行だけの作品です。「旗行列」の一場面が象徴的に描かれています。

   明治期

旗行列の小学生が手に手に振っている日の丸の赤インキが雨ににじみ よそゆきのハカマのうしろに泥がいっぱいはねあがっていた

行列

「旗行列」というのは、たくさんの人が手に手に日の丸などの旗を持ち、行列して練り歩くこと。多く祝意を表わす時に行なわれました。

夜の提灯行列に対して、昼間の主役は「小学生が手に手に振っている日の丸」などの旗行列だったのでしょう。

1889(明治22)年の創刊から27年間にわたって518冊を刊行した日本初のグラフィック雑誌『風俗画報』の、日露戦争が始まった1904(明治37)年の「300号号外」には、「旗と言(いや)ア町内の旗行列(ハタギャウレツ)を明日直に遣らざアなるめへ」などとあります。

「鯉のぼり」「雀の学校」「春よこい」など多くの童謡を作った作曲家、弘田龍太郎は、中学1年生だった1905年、日露戦争の戦勝報告が入って町中を旗行列などが行われて太鼓やラッパの楽隊が行進すると、その曲を聴いてすらすらと譜面におこしたといいます。

明治38(1905)年8月末、日露講和会議(ポーツマス条約)の内容が報道されると、都市部を中心に、日露戦争講和反対運動が起こりました。世論は20億円の償金、沿海州の割地などを求める論調が強まっていたのです。

条約締結日の1905年9月5日、東京日比谷公園の国民大会に集まった民衆は、過大な講和条件への期待を裏切られ、多大な犠牲を生んだことへの不満を暴発させて、桂太郎内閣の御用新聞だった国民新聞社、内相官邸、警察署などを襲撃する日比谷焼打事件が起こります。

暴動は翌日まで続き、地方にも波及しました。軍隊が出動し戒厳令がしかれ、負傷者2000人、死者17人、被検束者2000人に及んだといいます。この民衆暴動を起こした大部分は職人、職工、車夫など都市下層民でした。

皮肉なことに、戦時中、戦勝を祝う旗行列や提灯行列に駆り出されて、人びとが日比谷公園に集まるようになっていたことも、この大事件を招く一因になったとも考えられています。


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2019年01月15日

「大正末期」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、「明治期」の次のきょうは「大正末期」という1行詩です。「テロ」の物騒な一場面が象徴的に描かれています。

   大正末期

少女の髪は火薬のにおいがして わがテロリストの手のスミレがしおれていた

ダイナマイト

「大正末期」の1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾一帯を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。死者・行方不明者は約10万5千人、建物の全半壊・焼失は約37万棟。

台風の影響で強風が吹き、東京や横浜で市街地が大火災となりました。隅田川近くにあった旧陸軍被服廠跡の広い空き地では、避難者の家財道具などが焼けて、集まった約4万人のうち約3万8千人が亡くなったといいます。

この関東大震災直後に敷かれた戒厳令のもと、在日朝鮮人が暴動を起こしたという流言に動かされた自警団や民衆が、東京・亀戸の一帯をはじめ、全国で数千人に及ぶ朝鮮人を虐殺したという悲惨な事件が起こりました。

時の内閣は9月7日に治安維持令を公布して人心の動揺を抑え、11月15日まで戒厳令を解除せず、東京、神奈川、埼玉、千葉の1府3県の人民の市民的・政治的自由を完全に剥奪したのです。

東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」などのデマが広がったが、デマの出どころの一部は警察や軍隊だったともいわれています。恐怖におののく民衆は、悪質なデマに惑わされて各地で自警団を組織し、多くの朝鮮人や中国人を虐殺したとされています。

陸軍や警察は、この混乱に乗じて社会主義者や先進的労働者の撲滅を企てます。いわゆる白色テロです。3日夜から4日未明(4日夜から5日未明との説も)にかけて、平沢計七、川合義虎ら労働者10人が軍隊に虐殺された亀戸事件、16日には無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻らが甘粕正彦憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が起こりました。

しかしこのようなに対する責任追及と批判の声は全体として弱く、吉野作造、三宅雪嶺ら少数にとどまりました。一方、財界人の間では、大震災は、ぜいたくと放縦に慣れ、危険思想に染まりつつある国民に対する天罰であるという「天譴(けん)論」が唱えられました。

同年12月27日には、第48帝国通常議会の開院式へ向う摂政宮裕仁親王の車が虎ノ門外においてテロリスト難波大助に狙撃されるという虎ノ門事件が起きています。弾丸は車の窓を射抜き入江為守侍従長が顔に負傷しました。

難波はその場で捕えられた。山口の名家に生れた難波は当時25歳。上京して、貧民窟の実情を見てテロリストとなり、関東大震災の渦中に大杉栄ら社会主義者や在日朝鮮人が残忍な虐殺、迫害を受けるのを見て、報復テロを決意したとされます。

この事件の責任を負って山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長正力松太郎は懲戒免職となり、難波は、死刑が宣告されました。

この当時は、新しい火薬類の発明、発見が相次いだ時代でもありました。スウェーデンのノーベルは、ニトログリセリンと珪藻土から、珪藻土ダイナマイトを発明(1866)し、黒色火薬よりはるかに威力のある実用的工業爆薬を世に出しました。さらに彼は1875年、現在のダイナマイトの原型であるブラスチングゼラチン、1887年にはダブルベース無煙火薬バリスタイトを発明しています。

高性能の発射薬である無煙火薬は、1884年、フランスのビエイユによって当時の陸軍大臣ブーランジェの名をとったB火薬として開発。1888年にはイギリスのアーベルとデュワーによってダブルベース無煙火薬コルダイトも発明されました。他にも、19世紀から20世紀にかけて、ピクリン酸、TNT(トリニトロトルエン)、RDX(ヘキソーゲン)、PETN(ペンスリット)、HMX(オクトーゲン)など、大量に使われるようになっていったのです。

そんな「火薬のにおい」とともに「テロリストの手のスミレがしおれていた」といいます。

「スミレ」は、古くから、「真実の恋」または「恋の真実」を表す花とされ、愛すべき女性にたとえられてきました。ナポレオン1世のスミレ好きは有名で、妻ジョセフィーヌの誕生日にはスミレを送っていたといわれます。

「スミレ」はバラ、ユリとならんで、聖母に捧げられる花の一つでもあります。これらの中でスミレは、「誠実」と「ひかえめ」を表しているのだとか。

詩人のなかの「テロリストの手」におかれた、このような性格をもつ「スミレ」は「しおれて」しまっていたといいます。


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2019年01月16日

「昭和期」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、明治、大正につづいて、きょうは「昭和期」という一行詩です。

  昭和期

姐(ねえ)さんはこう言ってました 芸は売っても 身は売らぬ あたしはオヒゲのお客に言いました 身は売っても 芸は売りません

新潟
*新潟芸妓(wikiから)

「芸は売っても 身は売らぬ」は、芸者の矜持を表わす言葉としてよく知られています。

男性客に対して性的サービスを中心とした接客で生計を立てていた遊女を抱える遊郭には、他にもいろんな職種の人が出入りしていました。

そのうち芸者は、唄や三味線、踊り、話芸などの芸事でもてなすプロでした。遊郭遊びでは、客が指名した花魁(おいらん)などが着くまでの場つなぎとして、芸者が呼ばれ、十八番の芸を披露して客を楽しませていました。

吉原など公営の遊郭があった時代には、遊女のほうが芸者よりもむしろ格が上だったそうです。ですから、芸者が色を売ることは遊女の仕事を奪う“職域侵犯”につながることになったわけです。

しかし、近代に至るまでは、芸者が体を売らないというのはあくまで建前で、実際は「転ぶ」つまり体を売るのは常識で、“職域侵犯”によるトラブルも少なくなかったようです。

「てめえ、このごろ無性に転ぶそうだ。あんまり転ぶな。評判が悪い」
「アア、もう、馬鹿を言わずと、もっときつく突いてくんなヨ。いっそいくよ」

江戸の浮世絵師、鳥居清長の『時籹(いまよう)十二鑑』には、客と深川芸者とのこんなやり取りも描かれているとか。

要するに、遊女はおおっぴらに客の男と寝て、芸者は隠れて客の男と寝る。金を受け取るのは遊女も芸者も同じだったというわけです。

明治維新の後、1872(明治5)年には娼妓(しょうぎ)解放令が出されて、公娼は解放されるかにみえました。しかし実際は、自由営業の娼妓に場所を貸す名目で遊廓は存続し、前借金、年季奉公によって拘束された売春が公然と行われ続けました。

娼妓と一線を画していた芸者の売春も一般化して、カフェーの女性従業員や料理屋の雇仲居(やとな)にも売春が広がりました。日本から当時の貿易の拠点、シンガポールなどへ売春に行った「からゆきさん」とよばれた売春婦もいました。

「芸は売っても 身は売らぬ」が現実化したのは、「昭和期」それも戦後になってからのことといえるのかもしれません。1956(昭和31)年5月には、公娼制度の禁止や街娼の取り締まりなどのため売春防止法が制定され「対償を受け、不特定の相手方と性交すること」が禁止されました。

これまで見てきたように高見順は、当時の福井県知事が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性との間に生まれました。それを思うと「あたしはオヒゲのお客に言いました 身は売っても 芸は売りません」というのは皮肉ともとれる、意味深なものを感じます。


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2019年01月17日

「讃歌」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは「讃歌」という2行の作品です。

  讃歌

あなたの頭上に飾られた讃歌がいまタンポポの種子のように飛び散って行く
春が来たからである

たんぽぽ

「讃歌」というと、「雪山讃歌」というように、一般にほめたたえる気持ちを表した歌をそう呼びますが、本来は神への語りかけの一形態で、古代讃歌の多くは供物、供犠を伴った祭儀的背景をもつもののようです。

自分たちの運命、苦楽が人間を超越した神や神々に依存すると考える古代の人間にとって、超越した存在に対して家庭や共同体で祭祀を行い、讃辞を示すのはごく自然なことだったのでしょう。

古代のオリエントやインドで神々に讃歌を捧げるのは、神を喜ばせ、神の歓心を買うことによって、自分たちを脅かす外敵から守り、豊作や家畜の増殖、子孫の繁栄、病気からの回復など、日常生活上の至福を得るためでした。

一方、『旧約聖書』に含まれている讃歌などでは、神の恵みに対する感謝として神をたたえています。神の人間に対する一般的な恩恵を描写するか、自分たちに対する特定の恵みを叙述するかによって「賛美の歌」と「感謝の歌」とに分かれますが、ともに讃歌であることに変わりはありません。

讃歌を口にする者の全存在が、その対象である神に依存していることの表白で、信仰告白でもあります。また「詩篇」第22篇のように、現実の窮状、見捨てられたことの悲嘆が、救済を求める神への切なる訴えとなり、訴えかけている神の讃美となることもあります。

讃歌の詩としての形式は、古代ギリシア以来、1行が六つ(ヘクサ)の韻脚からなるヘクサメトロスや、ヘクサメトロスと五脚韻句のペンタメトロスを交互に繰返すエレゲイアなどの形式を用いて、神の名前と祭祀名を羅列しながらその功業と特性をたたえる部分と、それに続く短い祈願の部分からできているのが普通です。

「ホメロス讃歌」は叙事詩の吟唱の序歌に用いられた文学的な讃歌で、職業的吟唱詩人によって祭礼の際に歌われました。また、ヘレニズム時代から帝政期には哲学的讃歌や呪術的内容のものもあり、やがてキリスト教の讃美歌に移行していきます。

キク科の多年草である「タンポポ」は、3~5月、中空の花茎の先に径3.5~5センチの黄色の頭花を1個つけます。頭花は舌状花からなり、朝開き夕方閉じます。花期後、花茎は地をはい、果実が熟すとふたたび直立して、パラシュート形の綿毛(冠毛)のある痩果、ここでいう「種子」が風によって散布されます。

綿毛の付いた種子が飛び始めるのは4月から6月の初旬ぐらい。綿毛はとても軽く、微風さえあれば、数百メートルまで飛び続けられるといいます。ヨーロッパには、綿毛を「愛される」「愛されない」と交互に吹いて、どちらが残るかで恋を占う遊びがあり、中国では綿毛を詰めて枕をつくったそうです。

タンポポは生命力のとても強い植物で、アスファルトの裂目から生えることもあります。「頭上に飾られた讃歌がいまタンポポの種子のように飛び散って行く」の「讃歌」からは健康や至福への想いが、「タンポポ」には生命力への期待感が込められているようにも感じられます。


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2019年01月18日

「巡礼」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは各10行5連からなる力作「巡礼」です。 

  巡礼

人工食道が私の胸の上を
地下鉄が地上を走るみたいに
あるいは都会の快適な高速道路のように
人工的な乾いた光りを放ちながら
のどから胃に架橋されている
夜はこれをはずして寝る
そうなると水を飲んでももはや胃へは行かない
だから時には胃袋に睡眠薬を直接入れる
口のほかに腹にもうひとつ口があるのだ
シュールリアリズムのごとくだがこれが私の現実である

私にまだ食道があった頃
東パキスタンのダッカからB・O・A・C機で
インドのカルカッタへ飛んだ
機上から見たガンジス河のデルタ地帯は
超現実派の画のように美しかった
太古から流れてやまない大河の
河口のさまざまな支流が地上に描く
怪奇でモダンな線
現実の存在とは思えぬさまざまな微妙な色
自然はひと知れずその内部にシュールリアリズムを蔵しているのだ

カルカッタから私はブッダガヤへ行った
釈迦がその木かげで悟りを開いた
菩提樹が今なおうっそうと繁っていた
その葉を一枚私はみやげにつんだ
チベットから歩いて来たという巡礼団がいた
暑いインドなのに黒衣をきつく身にまとっていた
黄色い衣(ころも)を着たビルマの僧侶もいた
私にはなつかしいヒナヤーナ僧の姿だ
私は戦争中ビルマに一年いた
しばしば私はラングーンのシュウェ・ダゴン・パゴダに詣でた

金色にかがやく仏塔の下で
大理石の仏像に合掌して眼をとじていると
暑さのためもうろうとなった頭が
日かげの風で眠けをもよおし
ノックアウトされたボクサーの昏睡に似た
一種の恍惚状態に陥ったものだ
暑熱がすごい破壊力を発揮しているそこの自然は
眼に見える現実としての諸行無常を私に示し
悟りとは違うあきらめが私の心に来た
蓮の花の美しさに同じ私の心が打たれたのもこの時だ

仏に捧げるその花はこの世のものと信じられぬ美しさだった
人工的な造花とは違う生命の美
しかも超現実の美を持っている
まさに極楽の花であり仏とともにあるべき花だ
それが地上に存在するのだ
涅槃(ねはん)がこの地上に実現したように
おおいま私は見る
涅槃を目ざして
私の人工食道の上をとぼとぼと渡って行く巡礼を
現実とも超現実ともわかちがたいその姿を私は私の胸に見る

ダコタ

「B・O・A・C」というのは、英国海外航空(British Overseas Airways Corporation)のこと。1939年から1974年までイギリスにあった国営航空会社で、現在のブリティッシュ・エアウェイズの前身にあたります。

第二次世界大戦開戦直後の1939年11月、戦時体制に入ったイギリス政府の民間航空政策により、英国領インド帝国や香港、シンガポールなど極東に点在するイギリスの植民地とオーストラリアなどの英連邦諸国、北アメリカ路線向けの航空会社として設立、戦時体制下の植民地支配に利用されました。

1941年12月の日英の開戦以降は、アジア各地のイギリス軍が次々に日本軍に敗北し、イギリスの植民地の多くが日本軍の占領下となったうえ、インド洋一帯の制海権も喪失、さらにオーストラリア北部も日本軍の爆撃を頻繁に受けるようになったため、英国領インドとオーストラリア、香港をシンガポール経由で結ぶ路線の運航も休止に追い込まれました。

また、本国から切り離されて、オーストラリア北部やアフリカ北部などの戦闘区域内を運航していた所有機の多くが、日本陸海軍機やドイツ空軍機により撃墜、地上破壊されているそうです。

「ヒナヤーナ」は、劣った(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)を意味する梵語「hīnayāna」 の訳語で、小乗仏教のこと。個人の解脱を目的とする教義を、大乗側が劣った乗り物として貶めて呼んだ言葉のようです。大乗仏教が成立してから、それまでの部派仏教を,自己一身の救いのみを目ざすものとして,軽んじて呼んだ呼称。

上座部と、それからの分派である説一切有部など20部派があります。現在、スリランカ、タイなど、東南アジア一帯の仏教はほとんど小乗で、中国などには説一切有部の系統が残っています。いずれの部派も、阿毘達磨(あびだつま)を中心とする比丘(びく)のみによる教団を組織しているそうです。

「シュウェ・ダゴン・パゴダ」=写真、wiki=は、ミャンマー最大の都市ヤンゴン(ラングーン)市街中心部の北にある、小高い丘の上に建つ寺院「Shwedagon Pagoda」のこと。高さ100メートル弱とミャンマー最大規模で、最も名高いパゴダ(仏塔)として同国のシンボル的存在になっています。

周囲433メートルの基底部を持つパゴダの最頂部には、76カラットのダイヤモンドを中心に総計5451個のダイヤモンド、2317個のルビー、サファイア、翡翠などの宝石が散りばめられているとか。

寺院の起源は、約2500年前、ある商人が釈迦の聖髪を奉納したことにさかのぼるといわれ、巨大なパゴダが、大小66個のパゴダに囲まれた姿はなかなかに壮観なようです。

井上靖は、この詩を読んだ時の印象について「高見氏のどの作品(小説をも含めて)にも覚えなかったほどの感動を受けた。これは『死の淵より』を無造作に開いた時、いきなり私の眼の中に飛び込んで来たものであった。私は病床に横たわってこの詩を頭の中で作っている高見氏の姿を眼に浮かべた」としてうえで、詩「巡礼」について次のように記しています。

「これについて説明を加えうる必要はないだろう。新しい形の詩ではないが、こうなると新しいも古いもない。いささかの厭味もなく率直にに死が謳われ、自分が語られ、悲しみも、諦めも、覚悟も、もとの形態を失って、風が渡るように凛々しくすがすがしい。

他の何篇かの詩も読んだが、これを読んでしまったあとでは、もうさして強い感銘はない。やはり死の淵に立った人のなまの感慨を託したものが多かった。私は「巡礼」一篇で高見氏の『死の淵より』に敬意を表した。

他の詩は「巡礼」を創るために必要な材料であったに違いなかったし、他の詩を創るために費やした時間は、この詩を生み出すために必要な時間であったのである。古来名詩集と言われるものも殆ど例外なく一、二篇の、多くても三、四篇の傑作を持っているに過ぎない。一篇の傑作があれば名詩集と言っていいだろう。

詩の傑作が生れるには偶然が大きく作用する。病床の高見氏をある朝幸運が訪れたのである。詩神は一生詩を書いた高見氏に祝福を送ったのである」(『詩の淵より』について)。



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2019年01月19日

「おれの食道に」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき、きょうは各8連からなる「おれの食道に」です。 「ガンに倒れ」た詩人の想いが「おれの血」へと向けられます。

  おれの食道に

おれの食道に
ガンをうえつけたやつは誰だ
おれをこの世にうえつけたやつ
父なる男とおれは会ったことがない
死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった
そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らないのも当然か
きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない
最大の敵だ その敵は誰だ

おれは一生の間おれ自身をおれの敵としてきた
おれはおれにとってもっとも憎むべき敵であり
もっとも戦うに値する敵であり
常に攻撃しつづけていたい敵であり
いくらやっつけてもやっつけきれない敵であった
倒しても倒しても刃向はむかってくる敵でもあった
その最大の敵がおれに最後の復讐をこころみるべく
おれにガンをうえつけたのか

おれがおれを敵として攻撃しつづけたのは
敵としてのおれがおれにとって一番攻撃しやすい敵だったからだ
どんな敵よりも攻撃するのに便利な敵だった
おれにはもっともいじめやすい敵であった
手ごたえがありしかも弱い敵だった
弱いくせに決して降参しない敵だった
どんなに打ちのめしても立ち直ってくるのはおれの敵がおれ自身だったからだ
チェーホフにとって彼の血が彼の敵だったように

アントン・チェーホフの内部に流れている祖先の農奴の血を彼は呪った
鞭でいくらぶちのめされても反抗することをしない
反抗を知らない卑屈な農奴の血から
チェーホフは一生をかけてのがれたいと書いた
おれもおれの血からのがれたかった
おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった
おれはおれ自身からのがれたかった
おれがおれを敵としたのはそのためだった

おれは今ガンに倒れ無念やる方ない
しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない
おれはもう充分戦ってきた
内部の敵たるおれ自身と戦うとともに
外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた
だから今おれはもう戦い疲れたというのではない
おれはこの人生を精一杯生きてきた
おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

兇暴だったにせよ だから愚かだったにもせよ
一所懸命に生きてきたおれを
今はそのまま静かに認めてやりたいのだ
あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ
あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う
それにもっと早く気づくべきだったが
気づくにはやはり今日までの時間が
あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと
あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと
今さらここで悔いるのでない
おれ自身を絶えず敵としてきたための
おれの人生のこの充実だったとも思う
充実感が今おれに自己肯定を与える
おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ
すなわちこのおれはおれとして死ぬほかはない

庭の樹木を見よ 松は松
桜は桜であるようにおれはおれなのだ
おれはおれ以外の者として生きられはしなかったのだ
おれなりに生きてきたおれは
樹木に自己嫌悪はないように
おれとしておれなりに死んで行くことに満足する
おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
安らかにおまえは眼をつぶるがいい

チェーホフ

1980年代くらいから「ガン」は遺伝子の病、と考えられるようになりました。人体はおよそ60兆個の細胞からできているとも言われますが、ガンは、普通の細胞から発生した異常な細胞のかたまりです。

けがをすれば増殖して傷口をふさぎ、傷が治れば増殖をやめる、というように正常な細胞は、体や周囲の状態に応じ、増えたり増えるのをやめたりします。しかし、がん細胞は、体からの命令を無視して勝手に増え続けます。そのため、周囲の組織が壊れたり、異常な増殖を起こしたりするのです。

このようなガン細胞は、正常な細胞の遺伝子に2個から10個程度の傷がつくことによって発生すると考えられています。これらの遺伝子の傷は一度に誘発されるのではなく、長い間に徐々につくられていきます。

遺伝子の傷の付き方には、細胞を増殖させるアクセルの役割をする遺伝子が、不必要なときも踏まれたままになるケース(ガン遺伝子の活性化)や、細胞増殖にブレーキとなる遺伝子が働かなくなるケース(がん抑制遺伝子の不活化)があることもわかっています。

高見順の時代には、まだ遺伝子うんぬんが叫ばれる時代ではありませんでしたが、「ガンをうえつけたやつは誰だ/おれをこの世にうえつけたやつ/父なる男」と、ガンについて、遺伝的に「うえつけ」られたものという意識が働いています。

これまで何度も見てきたように、私生児として生を受けた高見は、事実「父なる男とおれは会ったことがない/死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった」のであり、「そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らない」という嘆きも生まれてくることになります。


ロシアの作家「アントン・チェーホフ」(1860-1904)=写真、wiki=は、アゾフ海に面する港町タガンログで、父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの三男として生まれました。父方の祖父エゴールは農奴でしたが、領主に身代金を支払って一家の自由を獲得しています。

父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいましたが、破産してモスクワに夜逃げします。しかしチェーホフは、ひとり故郷に残り自活して中学を卒業。モスクワ大学医学部に入学して医学を学ぶかたわら、ユーモラスな小品を雑誌,新聞に書きまくって家族を養いました。

ふつう、中世の封建社会での農村の中核となった生産者階級を「農奴」といいます。農奴は奴隷と異なり、土地、耕作用具、役畜などの生産手段の保有と家族をもつことを認められましたが、転住、職業選択の自由を禁止され、強い人身的制約下におかれました。

農奴制は中世封建社会において典型的に発達し、荘園制の発展に伴って14世紀ころまで維持され、15~16世紀にかけて農民の蜂起が相次いで、近代市民社会成立とともに消滅しました。しかしロシアでは、1861年の農奴解放令発布まで存続することになりました。

1861年の農奴解放前夜には、ロシアの5000万余りの農民のうち、55%が国家農民で、残りの45%が地主に属する農奴だったと推定されています。農奴は地主の所有物とみなされ、家族ぐるみ、または家族と切りはなされて、売買の対象になりました。


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2019年01月20日

「庭で(二)」(『死の淵より』Ⅲ)

『死の淵より』Ⅲのつづき。以前「庭で(一)」を読みましたが、きょうは「庭で(二)」。詩人の眼は、庭の「草」に向けられています。

  庭で(二)

  草の一

天が今日は実に近い 手のとどきそうな近さだ 草もそれを知っている だから謙虚に葉末(はずえ)を垂らしている

  草の二

光よ
山へのぼって探しに行けぬ
光よ
草の葉の間にいてはくれぬか

  草の三

私はいま前後左右すべて生命にかこまれている 庭はなみなみと生命にみちあふれている 鳥の水あびのように私はいま草上で生命のゆあみをする

草

Ⅲ部の前文には「自宅に帰ってからの詩である。はじめはベッドに寝たきりだったが、だんだん庭に出たり近くを散歩するようになった。気持や考えもすこしずつまた変ってきた。一方、心境の明暗の度合いのはげしくなったところもあり、自己から離れた詩の書ける時もあった」とありました。

高見順は1963年11月に千葉大学附属病院を退院し、翌1964年6月に同病院へ再入院しています。「自宅に帰ってからの詩」であり、「なみなみと生命にみちあふれている」といった描写からみると1964年の春の庭の光景でしょうか。

高見順の自宅の様子につて、山本健吉は次のように書いています。

〈「最後の文士」高見順氏の邸宅は、北鎌倉の静かな一角にある。円覚寺に近い、ひっそりした谷戸である。北鎌倉の駅を降りて、歩いて五分ほどのところだが、そのあいだに二度も岩をくりぬいたトンネルをくぐらなければならぬ。

このあたり、昔の山内荘で、後の土佐の藩主の遠い先祖の一族郎党が蟠踞した一帯である。古い戦記物によく出てくるようだ。昔なら隠棲によいような住居だが、実はそれは、もっとも忙しい現代作家の仕事部屋である。《中略》

立樹で隠された庭のうしろは、傾斜地にになっているらしい。庭には竹を組んだ低い、便利な蒲団干場が作られていて、それが夫人のアイデアであることを物語っている。同行のX君が、この家の設計・装飾はすべて夫人の立案であると、ささやいた。

客間は一段低くなった洋間で、一段高い畳敷の座敷とのあいだを明けひろげ、共通に使えるようになっている。そして、座敷には紀貫之の軸物が、客間にはピカソのデッサンが掛かっている。〉(「高見順」)

「草」は、木の対語。木と違って地上部における成長には上限があって、木よりも小形、短命で、茎は木化せず柔らかい植物です。

草は、地理分布や茎の特徴などから、木よりも進化した生活型群とみられ、一般に、原始的な木から草が生まれたと考えられています。

草の進化を促したのは地球の低温化によると考えられ、樹木の成長抑制の結果、つる植物や低木といった生活型が生まれ、さらに生殖時期が早い原始的な多年生草本が生まれたようです。

草は、生育期間の長さによって短命草(エフェメラル)、一年草、二年草、多年草の区別があります。草は人間とのかかわりの強さから、とくに人為的な攪乱に適応的な雑草と、そうでない野草、その中間的な人里植物に区別されます。

この詩に出て来るのは、少なくとも単なる雑草ではなさそうです。太陽からの光は、常に上からきます。だから光合成をして生きている植物にとって、背が高いものは背が低いものより絶対的に有利のはず。にもかかわらず、草として生活する植物の種類は、樹木よりたくさんあります。

草は背が高くなれない代わりに生活の融通が利きます。植物体が小さい代わりに、生活時間が短く、一年草は1年以内に世代を終えることができため、攪乱を受けて、開いた場があれば、「葉末」すなわち葉の先を垂らしながら、素早く侵入し、世代を繰り返していくのです。


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2019年01月21日

「おそろしいものが」(『死の淵より』拾遺)

きょうから『死の淵より』の「拾遺」に入ります。最初の作品「おそろしいものが」は、病んでうなされているときの夢に出て来そうな光景です。

  おそろしいものが

おそろしいものが
背後から迫った
逃げると追いかけてきた
夢中で逃げているうちに
背後のものがおれのなかを通り抜けて
おれの前を去って行った
なんだろうそいつは
そいつはおれに追いかけられているかのように逃げて行く
おれに追いかけられるのを恐れるかのように駈けて行く
あいつはなんだろう
道ばたの人におれは聞いてみた
あれはなんでしょうか
あれは死だと総入れ歯の男が荘重に言った
キザなことを言うとおれは思った
死を知らぬ者にかぎって死を云々する
しかしおれだって死は知らぬのだ
おれは宿屋に入った 古いおれの常宿だ
お帰りなさいと白髪の番頭がびっくりしたように言った
帰ってきたのが意外なような声だ
女中もおれの蒼い顔を見て不気味そうに
どこへおいででしたと言った
おれはスリッパをぴたぴた言わせて廊下を歩いた
しめった地面をあいつが歩いて行った足音を思い出す
おれの部屋は遠く
永久にたどりつけないみたいだ
いやな臭いがする廊下でおれはつぶやく
あれは生だったのではないか

死
*wiki

高見順は「拾遺」の前文で、〈「死の淵より」拾遺は、「死の淵より」の下書きノートに書き残された詩篇である。何か意にみたないもの、のちにもっと手を加えたいものといった理由からはぶいたが、このまま陽の目をみることもなく、捨て去られそうなのでここに収めることにした。〉と記しています。

「おそろしい」「こわい」の用法について、辞書には次のようにありました。「草原で恐ろしい毒蛇にあい、怖かった」「彼の恐ろしい考えを知って、怖くなった」のように用いる。それぞれの「恐ろしい」「怖い」を入れ換えるのは不自然である。

「恐ろしい」は、「怖い」に比べて、より客観的に対象の危険性を表す。「怖い」は主観的な恐怖感を示す。「草原で恐ろしい蛇にあって」も「怖い」とは感じない場合もあるわけである。

「恐ろしい」は、「日曜の行楽地は恐ろしいばかりの人出だ」「習慣とは恐ろしいものだ」のように、程度がはなはだしいとか、驚くほどだ、ということを示す場合もある。この場合、「怖い」とはふつう言わない。「怖いほどの人出」と言えば、自分に危険が及びそうな、という主観的表現となる。

この詩にある「おそろしいもの」も、詩人は必ずしも怖いとは感じていないようです。むしろ「おそろしいもの」のほうが「おれに追いかけられるのを恐れ」ているというのです。「おそろしいもの」を何かよくは分からないけれども客観的な対象として見ています。

「おそろしいもの」を「死だと総入れ歯の男が荘重に言」う。それに対して「キザなことを言う」とおれは思います。「死を知らぬ者にかぎって死を云々する/しかしおれだって死は知らぬのだ」。経験的に問えば、生きているものはだれもが「死を知らぬ者」なのです。

「死」は、ふつう「生」に対置される概念としてとらえられます。医学的には、心拍動、呼吸運動および脳機能の永久的停止が明確になったとき、それらの境界線が引かれます。医療技術の進歩で、脳機能の回復見込みがまったくない患者を人工呼吸器で機械的に維持管理しうるケースが出てきたのに伴い、「脳死」という死の概念や判定基準も示されてきました。

医学がいくら進歩しても、人間はかならず死にます。しかし、この詩にもあるように、われわれは自分の死を直接に体験することはできません。ただ、他人の死の現象を通じて、死を間接的に考察できるにすぎなにのです。

私たちは死を免れることができないだけでなく、死がいつ訪れてくるかもだれにもわかりません。ただし、進行性の食道ガンに侵されたこの詩人には「死」が切迫したかたちでまじかに訪れ、それを十分すぎるほど意識しています。

「死」という「おそろしいもの」に対応するため人は、①中国の神仙説が不老長寿の霊薬である金丹を服用すれば不死になるとしたように現実の肉体的生命が無限に存続することを信じる②キリスト教の天国と地獄のように肉体は消滅しても霊魂は不滅であると信じる③禅の悟りの境地のように現在の行動に自己を集中することによって生死を超えた境地を体得する、などさまざまな処方をしてきました。

最後の文人、高見順にしても、「死」を怖れ、いろいろに心の処方箋を模索した人間のひとりだったのでしょう。そんな「おれは」「しめった地面をあいつが歩いて行った足音を思い出」しながら、「スリッパをぴたぴた言わせて」「永久にたどりつけないみたい」な廊下を歩いています。そして「あれは生だったのではないか」とふと気づきます。


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2019年01月22日

「この埋立地」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「この埋立地」という15行の作品です。

  この埋立地

この埋立地はいつまでも土が固まらない
いつまでもじくじくしていて
草も生えない
生き埋めにされた海の執念を
そこにみるおもいがする
たとえ泥んこのきたなさ醜さでも
しつこい執念は見事だ
雨あがりの一段とひどい泥濘の
今朝の埋立地に足跡がついている
危険な埋立地を歩いたやつがいる
その勇ましさも見事だ
なんの執念だろうか
がぼっと穴になって残っている足跡は
まっすぐ海に向っている
それはそのまま海のなかに消えている

マリーナ

「埋立地」は、土地として利用するために、海、川、湖沼などの水面に土砂を堆積して造成された陸地のことをいいます。埋立て用の土砂は、陸上の山などを掘削して得る場合と、水底の土砂をさらい上げて用いるケースがあります。

「埋立地」に「残っている足跡は/まっすぐ海に向っている」というのですから、この詩の「埋立地」は、後者による大規模な海水面の埋立てであることが予想されます。

この場合は、一般に、サンドポンプによって水底の土砂を水とともに吸入管から吸上げ、排送管で埋立て地域内に吐き出す工法がおもに採用されるそうです。

埋立て工事の難かしさは水深や土質と関係していて、浅海で少量の泥土を含む細砂の場合がよく、河川が流入する湾内が好適地だそうです。埋立てに伴って、漁業権の補償などが問題となるケースもあります。

高見順は、千葉大学附属病院を退院して北鎌倉の自宅に戻った後の1964(昭和39)年の1月6日から18日まで、七里ヶ浜の恵風園に入院しています。

「今朝の埋立地に足跡がついている/危険な埋立地を歩いたやつがいる」というのは、この際、七里ヶ浜で見た光景が下敷きになっている可能性があります。

鎌倉海岸の由比ヶ浜は、西側を坂ノ下の埋立地と突堤群によって、東側を逗子マリーナ=写真=に挟まれた長さ2.2キロのポケットビーチで、中央には滑川が流入している砂浜海岸になっています。

首都近郊のリゾート地として知られる逗子マリーナは、神奈川県逗子市小坪の相模湾沿いにある複合施設。敷地内にはヨットハーバーを中心に、分譲マンション、結婚式場、レストラン、スイミングプールなど建っています。

逗子マリーナの開発は、地中海のリゾート地をイメージしたマリーナとして、西武流通グループ(後のセゾングループ)によって行われました。敷地は逗子市小坪の岩礁を、鎌倉霊園造成工事の残土を用いて埋め立てることで造成され、1971(昭和46)年6月に開業しています。

高見が入院した昭和39年ころは、この逗子マリーナ地区などの埋立地工事に向けての準備が進められていた時期と考えることができます。

詩人はそうした「埋立地」に「生き埋めにされた海の執念」とともに、「まっすぐ海に向って」「がぼっと穴になって残っている足跡」に、とらえどころのない「執念」を見ています。

それは、人間という生物がもつ「生」への本源的な執着によるものかもしれません。


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2019年01月23日

「心のけだもの」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「心のけだもの」という10行の作品です。

  心のけだもの

けだものよ
眠りから早くさめて
兇暴に駆けめぐれ
私の心のなかのけだものよ
おまえの猟場を駆けめぐれ
死の影の下で眠りこけている間に
たちまちそこが占領されたようだ
ほかの獣(けもの)に
死となんらかかわりのない獣たちに
おまえのナワ張りは荒らされてしまった

恐竜

「ほかの獣」が「死となんらかかわりのない獣たち」とすれば、この「心のなかのけだもの」は、死となんらかのかかわりがあるということでしょう。

「けだもの」は、「私の心のなか」で何を求め、得ようとしているのでしょう。飢えや渇きを癒すことなのか。金や栄誉なのか。強さなのか平穏なのでしょうか。それとも「生」そのもの、いや「死」なのでしょうか。

「死の影の下で眠りこけている間に」、そんな「けだもの」の「ナワ張りは荒らされてしまった」といいます。

「死の影」という“大異変”が「心のなか」に起これば、そこの“生態系”が大きく狂ってしまうのは、ある意味、当然の現象といえるかもしれません。

いまから6600万年前、現在のメキシコ・ユカタン半島の海岸沿いに広がる沼地や針葉樹の森には、恐竜や巨大昆虫が、鳴き声や羽音を響かせて生命を謳歌していました。

そんな中をほんの束の間、まぶしい火の玉が空を横切った。一瞬ののち、時速6万4000キロの速さで地球に向かっていた小惑星が、TNT火薬100兆トン分を超える爆発を起こして激突しました。

衝突によって直径185キロを超えるクレーターができ、大量の岩を蒸発させ、連鎖的に地球規模の大災害が引き起こされます。生物のおよそ80パーセントが消滅し、恐竜もそのほとんどが姿を消しました。隕石衝突による恐竜絶滅の瞬間です。

最近は、隕石衝突で大気中に巻き上げられた大量の粉塵が、長期間にわたって日射を遮断し、生物を大量に死なせたという「衝突の冬」仮説は最近はあまり旗色がよくないようですが、地球史おけるこの大異変のような大きな「衝撃の冬」が、詩人の心のなかに起こっていたのです。


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2019年01月24日

「心の部屋」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「心の部屋」という7行だけの作品です。

  心の部屋

一生の間
一度も開(ひら)かれなかった
とざされたままの部屋が
おれの心のなかにある
今こそそれを開くときが来た
いや やはりそのままにしておこう
その部屋におれはおれを隠してきたのだ

部屋

「部屋」は、壁、間仕切り、襖、床、天井などで仕切られて、生活を営むなめなどに用いられる、空間のなかの隔てられた区画をいいます。

部屋の中が室内、外は室外。部屋がたくさんある豪邸もあれば、ワンルームマンションを棲み処としている人もいるでしょう。

部屋にはふつう出入りをするための扉があり、太陽の光や外気を中に取り込むための窓があります。

ここで言っているのは、そうした家の部屋ではなくて、心の「部屋」。しかも「一生の間/一度も開ひらかれなかった/とざされたままの部屋」だといいます。

ついに「それを開くときが来た」かと思えば、「やはりそのままにしておこう」と思い返し、悩んでいます。

「その部屋」はどういう部屋かといえば、「おれを隠してきた」部屋だといいます。ということは、隠してきた「おれ」がいるはずの「部屋」ということになります。

「一生の間/一度も開かれなかった」「おれ」の部屋に「おれ」が居るというのも何か矛盾するようですが、それは「心の部屋」の特殊事情もあるのでしょう。

読み方によっては、だれにも見せることなく一生隠しつづけてきた「おれ」の正体をさらけ出すことに、人生の土壇場に来ても躊躇している「おれ」というシロモノを述べているようにも思えてきます。

『死の淵より』より5年ほど前、昭和33年10月の『日本未來派』(No.84)に高見は、次にあげる「部屋に鍵をかけて」という詩を発表しています。

部屋に鍵をかけて
その朝 彼は街に出た
忙しい生活が彼を待つてゐた
彼はそれで充分幸福だつた
彼の部屋も彼の帰りを待つてゐる
部屋で彼を待つてゐるものは何か
夜になるとこの鍵で部屋をあける
彼はそれを随分くりかへしてきた
この鍵は彼には大切である
この鍵によつてひらかれるものは何か
その鍵を彼はポケツトにいれてゐる
その朝 彼は鍵をにぎりしめてゐた
鍵はあつく熱してゐた
彼に対してたしかに鍵は怒つてゐた
そこで彼は鍵を外にとり出した
心静かにぼとんと運河に落した
そしてきたない橋を渡つて行つた
その時橋は虹のやうに輝いてゐた
彼はもはや部屋には帰らなかつた

ここでは「彼」は、鍵を捨てて「部屋には帰らな」くすることで、「部屋で彼を待つてゐるもの」(それは隠してきた彼自身であるかもしれませんが)と決別しています。

一方、翌昭和34年1月1日の日本經濟新聞では、次の「窓」という作品を発表しています。

窓をあけよう
寒くてもあけよう
外界のきびしい風を知るために
心の窓をあけ放たう
おしやべりな客の煙草のけむりで
私の心の部屋はにごつてゐる

心の窓を開かう
眼は二つとも前を向いて
私の眼は未来を見るが
ひとつしかない私の心は
とかく過去へ向きたがる
未来へ向けて心の窓を開かう

窓をあけよう
暗い曇り日でもあけよう
たとえ光がささなくても
またたとへ遠い空間が見えなくても
時間の存在を見るために
私の心の窓をあけよう

ここでは、「窓をあけ」て「にごつてゐる」「心の部屋」を開放しようとする積極的な詩人の姿がうかがえます。


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2019年01月25日

「抜け毛」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「抜け毛」という9行の詩です。

  抜け毛

歩いて歩いて
川岸にやっとたどりついたら
頼みの橋が落ちていた
向う岸に渡れないということは
もはや逃げられないということだ
氾濫のあとの逆に水量の減った川のまんなか
ぽつんと立った橋脚に
毛髪がひっかかっている
あれは ひと目で分る 女の抜け毛だ

橋

人類が橋をつくるようになったのは、有史以前のはるか昔にさかのぼるようです。最初木を倒した丸太橋やツルやツタを利用した吊橋だったと考えられます。

現存する古代の橋で有名なのはローマ人の造った石造アーチ橋があげられます。ローマ帝国滅亡後は石造アーチ構法もしばらく衰退しますが、9世紀から16世紀にかけて、スペインのサン・マルチン橋(1212)、橋上に商店が並ぶイタリア・フィレンツェのベッキオ橋、ベネチアのリアルト階廊橋(1588~1592)など技術的に進んだ石造アーチ橋がたくさん架けられるようになりました。

石造アーチ技術は中国でも発達し、北京南西の盧溝橋(1192)のような美しい橋も残されました。19世紀になると石から鉄へ、そして鋼やコンクリートが用いられるようになり、大支間の架橋が可能となっていきました。

日本では、徳川家康が1603年に日本橋を架けて、ここを全国の里程の基点としたり、中国やオランダから技術が導入されて、九州に石造アーチ橋が数多く架けられました。が、本格的な橋梁は、明治に入って鉄製の橋が架けられてからになります。

関東大震災後の復興事業として東京の隅田川に、大橋梁が次々架けられるようになると日本の橋梁技術は世界的技術水準に達します。そして戦後、戦禍で失われた橋の復興やそれに引き続く交通網の整備拡充に伴い、膨大な数の橋が架設されていきました。

考えてみれば、人生というのは、いろんなところや人、目的に向けて「橋」をかけては、渡ったり、戻ってきたりすぐ日々と喩えることもできるかもしれません。

がんの手術を経て療養中の詩人は、「歩いて歩いて」そうした「橋」の、こちら側の「川岸にやっとたどりつい」てみたら、すでに「頼みの橋が落ちていた」といいます。

そして「向う岸に渡れないということは/もはや逃げられないということだ」と腹をくくろうとしているようです。が、「氾濫のあと」の橋桁が落っこちて、「ぽつんと」と残る「橋脚に/毛髪がひっかかっている」のを発見します。

それは「女の抜け毛だ」と「ひと目で分る」のだといいます。がんと「抜け毛」というと、抗がん剤の副作用が連想されます。が、抗がん剤は、放射線療法よりも新しく、発祥は20世紀半ばのことです。

日本で最初に登場するのは、1950年代に石館守三、吉田富三らによって生み出されたナイトロジェンマスタード‐N‐オキシド(ナイトロミン)で、白血病、ホジキン病、リンパ肉腫などの治療に用いられていきます。

1956年には、当時活発だった抗生物質の研究から抗癌性の抗生物質マイトマイシンが誕生。1963年には、放線菌の研究からブレオマイシンが見つかり、1968年に扁平上皮がん、悪性リンパ腫などの治療薬として認可されました。

高見順が食道がんになったのは、抗がん剤が使われはじめた時代ということになるわけですが、食道がんでよく用いられる5-FU(フルオロウラシル)の販売が始まったのが、この詩集が出版された後の1967年、シスプラチンが承認されたのが1983年、ということからすると、「毛髪がひっかかっている」イメージと抗がん剤との関係はなさそうです。

橋脚に「ひっかかっている」のは、やはり、この世への、あるいは、やり残したこと、思いきれない縁への執着ということになるのでしょうか。


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2019年01月26日

「執着」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「執着」。「ハナクソ」についての5行詩です。

   執着

ハナクソを丸めていると
なかなかこれが捨てられぬ
なんとなく取っておいた手紙のように
このつまらぬものが
生への執着のように捨てがたい

はな

「ハナクソ」すなわち鼻くそ(鼻糞)は、鼻水や鼻粘膜からの分泌物が鼻入口部で乾燥してできたもの。ほこりが混ざっていることもよくあります。

指でとろうとすると出血して血のついた痂皮(かさぶた)となることもあります。

風邪をひいた時の鼻糞は黄色くなりますが、これは白血球が風邪ウイルスと戦って死んだ残骸が鼻水として体外に出されたものだそうです。

濃い緑色をしているときは、好中球のペルオキシダーゼが産生されている証拠なので何らかの炎症を起こしている可能性が高いとか。

萎縮性鼻炎ではとくに量が多く悪臭を伴い、喫煙者の場合煙草の煙によって、黒く変色してしまう場合もあります。

東北弁など一部の方言では鼻こび(鼻の垢の意)とも呼ばれます。鼻の穴に指を入れて鼻くそを取り除く行為を、「鼻くそをほじる」ともいいます。

目くそ(目やに)は眼脂(ガンシ)、耳くそ(耳あか)は耳垢(ジコウ)、歯くそ(歯かす)は歯垢(シコウ)と、医学的な呼び方がありますが、鼻くそにはそうした正式な用語はどうもなさそうです。

顔にある他の器官に比べて、医学的にも「つまらぬもの」と見られているあかしといえるのかもしれません。

似た欠点を持つもの同士が自分を棚に上げて相手を笑うさまを「目糞鼻糞を笑う」といいます。

また、江戸時代の雑排に「いろいろにわびていなして鼻くそめ」というのがあります。いくじなし、無価値なものを「鼻くそ」にたとえて、人をののしっています。

一方で、俳諧「洛陽集」(1680)には、「涅槃。鼻屎(ハナクソ)や済度方便一掴」(友静)とあります。

こちらは、お釈迦さまの鼻くそ。涅槃会(ねはんえ)に釈迦に供えるあられ。正月の餠を細かく切って煎ったもの、豆を煎ったもの、小粒の団子などをいいます。「花供(はなぐ)」の変化したものともいわれます。

死が間近に迫ってきたときの、ともしびのような「生」。それが、「ハナクソ」のような「つまらぬもの」でさえ、愛おしく感じさせているのです。


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2019年01月27日

「砂」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「砂」という30行の作品です。

  砂

近くの円覚寺に本堂ができた
杖をついて見に行った
大正十二年の大地震で
旧本堂がこわれて以来
ずっと空地のままだった
終戦の年の冬 ひとげのないそこへ
ある朝散歩に行ったら
礎石の間の砂地から
チチチと小さな声が聞えてきた
かすかな声なのに だからかえって私の耳をとらえた
地面に白くおりた霜が朝日にとけて
砂が虫のように鳴いていたのだ
砂のささやきのようであり
つぶやかれた砂上の文字のようであった
再建された本堂の前でいま私は
異様で可憐なその音を思い出した
砂の空地だった方がよかったとも思う
同時に最近のある思い出がよみがえった
私がガンになる前のこと
安房鴨川の春のことだ
ある午後 浜辺を行くと
小鳥が砂の上をつんつんと飛びながら歩いていた
モミジのような足あとを
文字のように砂上に書きつらねた
たしかにそれは何事かを伝えんとする文字に相違ない
波音に消されて小鳥の声は聞えなかったが
円覚寺の砂の声が
小鳥の声として連想された
それほどこの小鳥にふさわしい声はない
二つは不思議に調和していた

仏殿

『闘病日記』の「昭和39年5月19日」には、次のような記述があります。

晴。
朝十一時、TBSテレビのニュース解説で小林庄一君が近代文学館のことを言う。
円覚寺へ散歩。

詩作。

相馬繁美君来る。赤い花のついたカニサボテン(鉢植え)持参。散歩の疲れでうとうと寝ていて、話しできず悪かった。サボテンは彼が挿木から丹精して作ったもの。花を咲かせるのに三年かかったという。

 「円覚寺」(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。臨済宗円覚寺派の大本山で、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺と号します。本尊は宝冠釈迦如来です。

1282年、鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。

高見が住んでいた北鎌倉のJR駅前に円覚寺の総門があります。かつて、夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られ、境内には現在も禅僧が修行をしている道場があります。

大正12年(1923年)の関東大震災によって、鎌倉市内の寺社建造物のほぼすべてが、何らかの被害を受けました。

建築物の被害は、全壊133堂宇、大破、倒壊、半壊、少破を含めると179堂宇の被害が記録されています。被災前に国宝に指定されて現在も引き続き指定を受けているのは、円覚寺舎利殿1堂だけです。

禅宗様式の七堂伽藍の中心に位置する、詩の中で「本堂」とされる仏殿=写真=も倒壊し、昭和39(1964)年、元亀4(1573)年の仏殿指図(設計図)に基づいてコンクリート造りで再建されました。

堂内には、本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像などが安置。天井画の「白龍図」は、前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いています。

この新しいお堂を、がんとの闘病のさなか「杖をついて見に行った」高見は、終戦の年、すなわち19年前の冬の朝、ひとげのない円覚寺へ「散歩に行った」ときの「砂のささやき」のことを思い出します。

「礎石の間の砂地から/チチチと小さな声が聞えてきた」ので、何かと思うと「地面に白くおりた霜が朝日にとけて/砂が虫のように鳴いていたのだ」というのです。それは「つぶやかれた砂上の文字のようで」もありました。

再建されたばかりのコンクリートの「本堂」の前でのこと。「砂の空地だった方がよかったとも思」っていると、「同時に最近のある」別の「思い出が」二重写しのように「調和して」「よみがえっ」てきました。

「ガンになる前」の「安房鴨川の春のこと」です。それは「文字のように砂上に書きつらね」られた、「小鳥が砂の上をつんつんと飛びながら歩いていた/モミジのような足あと」でした。

そして、いま死の病にあって、より研ぎ澄まされた詩人の感性は「たしかにそれは何事かを伝えんとする文字に相違ない」と確信するに至るのです。


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2019年01月28日

「水平線の顔」(『死の淵より』拾遺)

『死の淵より』拾遺のつづき、きょうは「水平線の顔」という、七里ヶ浜で作られた13行の作品です。

  水平線の顔

水平線から
顔がのぞいている
不気味な不可解な顔だが
私には分っている
知った顔ではないが
私が知らねばならぬ顔だ
夏の入道雲みたいに大きくはないが
そのようにあっけなく消えはせぬ
消えたと見えてまた顔を出す
私が死ぬのを待っているのか
それほど私もうぬぼれてはいないが
私が死ぬまでそれはのぞきつづけるだろう
ちょうど私の心から血が流れつづけるように

(七里ヶ浜K病院で)

江ノ電
*「江ノ電」のサイトから

1964(昭和39)年1月6日の日記に「快晴。午後、七里ヶ浜恵風園へ入院。窓下、江ノ電。その線路の向うが道路、道路の向うが海」とあります。

高見順は、この日、食道がん手術後の療養のため、鎌倉・七里ヶ浜の恵風園療養所(現・恵風園胃腸病院)へ入院しています。

日記にある通り、七里ヶ浜恵風園の窓のすぐ下には江ノ島電鉄が走り、線路の向こうには国道134号、さらにその向こうには海がはるかに広がっています。

国道134号は、神奈川県横須賀市から同県の大磯町まで、湘南の海岸線に沿って走っています。茅ヶ崎市浜須賀交差点と大磯町長者町交差点のあいだは、箱根駅伝のコースとしても有名です。

「水平線から/顔がのぞいている」というのは、冬空に凍りついたように動かずに浮かぶ凍雲(いてぐも)に、だれかの「顔」を重ねて見ているのでしょうか。

それは、「夏の入道雲みたいに大きくはないが/そのようにあっけなく消えはせぬ/消えたと見えてまた顔を出す」なかなかしつこい雲のようです。

結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断され、高見のように不治の病で床に伏す日々を送っていた正岡子規は、1898(明治31)年11月10日の『ほととぎす』第2巻第2号に、「雲」と題して次のように記しています。

○日本語にていふ雲の名は白雲、黒雲、青雲、天雲、天つ雲、雨雲、風雲、日和雲、早雲、八雲、八重雲、浮雲、あだ雲、山雲、八重山雲、薄雲、横雲、むら雲、一むら雲、ちぎれ雲、朝雲、夕雲、夕焼雲、夏雲、皐月雲、さみだれ雲、夕立雲、時雨雲、雪雲、鰯雲、豊旗雲、はたて雲、猪子雲、ありなし雲、水まさ雲、水取雲、等猶あるべし。山かつらは明方の横雲をいふ。曾根太郎、阿波太郎などいへるは雲の峰をいへる地方の名なるか。われこゝろみに綿雲、しき浪雲、苗代雲などいふ名をつく。猶外に名つけたき雲多し。(子規)

○月夜、雲を見る。月の位置と雲の形状と相待って奇を尽し変を極む。薄雲、月を過ぐ、白紗、玉を包むが如し。雲、嵯峨として、月、上に在り、朽根、玉を載するが如し。雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し。雲分れて二片となる、月、中間に在り、双龍、玉を争ふが如し。黒雲一塊、頭あり、脚あり、漸く大にして、半ば月を呑む、怪鬼の玉を盗むが如し。(子規)

○深山幽谷に在りて馬頭に生じ脚底に起る所の雲は変化が劇しいから誰も之を見て喜ぶ。併し平地に在りて晴天の雲を見て楽む人は少い。晴天の雲も変化するけれど平和的の変化であるから、心の平和な時には極めて面白く感ずる。若し心に煩悶がある時は雲なんか見て居らるゝもので無い。雲好きと菓物好きと集まつて一日話して見たい。(子規)

○春雲は綿の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く、晨雲は流るゝが如く、午雲は湧くが如く、暮雲ほ焼くが如し。(子規)

子規の「雲」から66年後、高見も病床にあって、水平線から「鉛の如く」ある「顔」をのぞき込んでいたのです。


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