ヘルダーリン

2018年06月06日

ヘルダーリン「人生行路」① Lebenslauf

きょうから、後の思想家や哲学者にも大きな影響を及ぼしたドイツの詩人、フリードリヒ・ヘルダーリン (Johann Christian Friedrich Hölderlin、1770-1843)=写真、wiki=の「Lebenslauf」という詩を読んでいきます。

Lebenslauf

Größers wolltest auch du, aber die Liebe zwingt
All uns nieder; das Laid beuget gewaltiger;
Doch es kehret umsonst nicht
Unser Bogen, woher er kommt.

Aufwärts oder hinab! herrschet in heil’ger Nacht,
Wo die stumme Natur werdende Tage sinnt,
Herrscht im schiefesten Orkus
Nicht ein Grades, ein Recht noch auch?

Diß erfuhr ich. Denn nie, sterblichen Meistern gleich
Habt ihr Himmlischen, ihr Alleserhaltenden,
Daß ich wüßte, mit Vorsicht
Mich des ebenen Pfads geführt.

Alles prüfe der Mensch, sagen die Himmlischen,
Daß er, kräftig genährt, danken für Alles lern’,
Und verstehe die Freiheit,
Aufzubrechen, wohin er will.

hoelderlin

「Lebenslauf」は、木村・相良・独和辞典では、「人生行路」と訳されています。以下は、私の粗訳です。

人生行路

もっと崇高なるものを欲してお前はまた上ろうとした。しかし愛は
私たちすべてをひき下ろす。憂いはもっと強く道を撓(たわ)める
とはいえわれらの生の穹窿(きゅうりゅう)が
その発祥の地へと向かうのも無駄ではない

上るのか、下るのか! 自然が黙黙とあしたを瞑想する
聖なる夜を支配しているのは
ゆがみきった冥界を支配しているのは
真っ直ぐなもの、正しきもの、でもあるのではないのか?

私は学びとった。というのは
万物を養うおんみら天の神々は
私の知る限り、この世の師のように心して
平坦な道へと私を導かせることはなかったのだ

神はいう。人間はあらゆることを試みよと
力のこもった滋養を得て、万物に感謝することを学べと
そして自由を解せよと
おのが欲するままに拓かれる自由を


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2018年06月07日

ヘルダーリン「人生行路」② オード

「Lebenslauf」は、1800年夏、ヘルダーリンが30歳のときに作られたオード(頌詩)です。

オードの語源はギリシア語の aeidein (歌う) 、もともとギリシア語で歌をあらわし、悲劇のなかの合唱の一種を指す言葉でしたが、抒情詩について用いられると、威厳にみちて、崇高な、かつ高揚した思想感情をあらわす歌を意味し、しばしば「おんみ」に呼びかけます。

対象と、距離感を保つとともに、けだかさに感動した心情を表現します。たいてい有節無韻で、厳しい形式に制約され、しばられたパトス(感情的・熱情的な精神)の様式をもちます。ギリシアのピンダロス=写真、wiki=のオードは、音楽と踊りに合せて歌われる合唱隊歌として構想されました。

Pindar

左回りに回るときの第1の連が strophe、次にその逆に右に回りながら反復される第2の連が antistrophe、さらに両者を締めくくる別の形式の連が epode、これらの3部から成り、それが反復されます。

ラテン文学ではオードはホラチウスと結びつきます。彼はアルカイオスやサッフォーを通して、ピンダロスほど複雑でない抒情詩形からこの形式をつくり上げました。彼のより単純な形式のオードは、ピンダロスの公的、熱烈、壮麗に対して、私的、静的、瞑想的、普遍的で、聴衆ではなく読者を念頭においています。

近代のオードは、ホラチウスの瞑想的性格と、ピンダロスの記念的性格を遺産として受継いで、より自由な形をとっていますが、しばしばみられる精巧で複雑な形式は、究極的にはピンダロスの3部構造に由来します。

きのう訳したヘルダーリンの「Lebenslauf」も、箴言風な緊張した詩語を用いて、人生行路を展望しています。

ヘルダーリンは、同じ「Lebenslauf」という題の4行の詩を1798年7、8月までに作っています。

Hoch auf strebte mein Geist, aber die Liebe zog
Schön ihn nieder; das Leid beugt ihn gewaltiger;
So durchlauf ich des Lebens
Bogen und kehre, woher ich kam.
(たかぶり勢う精神。巧みにそれを引き下す
愛。あらけなく押しひしぐ苦悩。
こうして私は一巡する 生の弧線を
そして戻る 私の由来する源へ。=川村二郎訳)

これが原型となって第1節が作られたと思われますが、主語の「ich(私)」が消えて「du(きみ)」「all us(私たちすべて)」「unser(私たち)」となり、主体の広がりを見せています。

この詩人の内在する張り詰めた律動を表現するには、シラーの影響下にある思想的な平板な韻律形式の詩ではなく、古いオードが必要となってきました。

ヘルダーリンは1、2節の短章としてうたわれていた最初の「Lebenslauf」のような作品を拡げ、十分な重みをもつ詩として再構築していったようです。


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2018年06月08日

ヘルダーリン「人生行路」③ 精神病

ヘルダーリン(Friedrich Hlderlin、1770-1843)は、ドイツの詩人。1770年3月20日、シュワーベン地方の聖職者(プロテスタント)の家系に生まれました。

早くから聖職者コースの教育を受け、1788~93年、チュービンゲン神学校(大学神学寮)で学びます。このときヘーゲルやシェリングと親交があり、相互に影響しあいました。

しかし彼は牧師の職を拒み、最初はシラーの世話で家庭教師になり、詩人への道を進みました。

1796~98年、フランクフルトの銀行家のもとで家庭教師をしていた際、教え子の母ズゼッテ(作品ではディオティーマとなる)に対する精神的な愛が、多くの詩作の契機となりました。

この家を去ってから1800年5月まで、友人を頼ってホンブルクにいましたが、やがてまた転々と家庭教師をするようになります。

1802年6月、ボルドーから帰郷すると、最初の異常な行動の徴候が現れます。それと前後して、ズゼッテが病死しています。06年以後、精神病者として暗い後半生を送ることになりますが、この間も、50編近くの詩が残されています。

彼に対する評価は、生前も死後もそれほどではなかったが、20世紀に入ってからしだいに高まり、時代を先取りした独自の詩人として、最高級のランクを受けるようになりました。

Hyperion

作品には小説『ヒュペーリオン』(1797~99)=写真、wiki=、戯曲(劇詩)『エンペドクレスの死』(1798~99)のほか、多くの叙情詩、ほかに詩作に関する哲学的な論文や、ギリシア文学(ソフォクレス、ピンダロス)のドイツ語訳があります。

初期の詩はクロプシュトック、シラーの影響が濃く、古代ギリシアの理想を改革的な新時代の理想としてたたえた讃歌が多くみらえます。『ヒュペーリオン』も、当時学生の心をとらえていた哲学(カント、フィヒテ)、ギリシア古典、フランス革命などがモチベーションとなって生まれました。

『エンペドクレスの死』が集中的に執筆されたのは1798~99年ですが、改稿を重ねたすえ、結局未完に終わっています。自らエトナの火口に身を投げた主人公の死は、時代が要求した犠牲の死とされ、作者のキリストへの接近がみられます。

いま読んでいる「Lebenslauf(人生行路)」をはじめ中期から後期の詩は、古代ギリシアの厳格な韻律を用いたオード(頌歌=しょうか)、エレジー(悲歌)形式が多く、やがてそれに自由韻律の讃歌が加わります。

彼の詩は、きわめて思想性の高く、ハイデッガーは彼のことを「詩人の詩人」と称しました。詩人の使命、詩作の本質をテーマにする詩人という意味です。神を失った時代に神聖なものを再建することがヘルダーリンの使命でした。

W.ランゲ・アイヒバウムの『ヘルダリン』には、「Lebenslauf」を作ったころのヘルダーリンについて次のように記されています。

〈1798年の秋に、以前の大学時代の友人のホンブルクの参事官シンクレアを頼ってその世話を受けることになった。しかしここでは気位が高くてシンクレアから何か受取ろうとはせず、主としてフランクフルト時代の貯えで生活した。自分の望みにもいくらか沿うようなきちんとした社会的地位を築くためにホルンブルクから渡りをつけようとしたことは皆失敗してしまった。シンクレアも本気で面倒をみられなくなった(みたくなくなったのかもしれない)。

1800年の5月まで彼はこういう生活を持ちこたえた。そして30歳になって、ニュルティンゲンの家族の許に戻ったが、生計の道もなく職業もない身であった。肉体的にもみじめな、痩せた様子をしているばかりでなく、もともと穏やかなヘルダリンは精神的にもひどくいらいらしているのが見られた。家では意気消沈した気持になってしまったに違いないことは、想像に難くない。この年の6月に友人の実業家ランダウアーにシュトットガルトに招待を受けた。個人教授(哲学など)によって彼はここで生計を立てようとした。〉


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2018年06月09日

ヘルダーリン「人生行路」④ 愛は勝つ

「Lebenslauf」の第1節は、次のような4行からなっています。

Größers wolltest auch du, aber die Liebe zwingt
All uns nieder; das Laid beuget gewaltiger;
Doch es kehret umsonst nicht
Unser Bogen, woher er kommt.
もっと崇高なるものを欲してお前はまた上ろうとした。しかし愛は
私たちすべてをひき下ろす。憂いはもっと強く道を撓(たわ)める
とはいえわれらの生の穹窿(きゅうりゅう)が
その発祥の地へと向かうのも無駄ではない

Virgil

ヘルダーリンは、冒頭で、愛の力の大きさについて言及しているのです。私などは、四半世紀前にKANの「愛は勝つ」という歌が大ヒットしたのが思いだされますが、ここの詩句の下敷きになっているのは、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『牧歌』のようです。

ウェルギリウスの『牧歌』の中の、愛する女性リュコーリスを失ったガッルスの嘆きの言葉に次のような部分があります。

しかし、森の精たちも、詩も、もはやおれを
楽しませはしない。森よ、やはり去ってくれ。
おれがどんなに苦しんでも、恋の神は動かせない。
たとえおれが冬のさなかに、ヘブルス川の水を飲み、
みぞれ降る冬のトラキアに身をさらそうとも、
たとえ高い楡の木が、芯まで乾いて枯れる時期に、
蟹座には行った太陽の下で、エチオピア人の羊を一心に追おうとも。
愛はすべてを征服する。だからおれも、屈しよう。

=河津千代訳『牧歌・農耕詩』(未来社、1981)

ラテン語だと、愛は勝つ、は「Omnia vincit Amor(オムニア・ウィンキト・アモル)」。愛の神はすべてを打ち負かすことができる、といった意味あいをもつようです。

ウェルギリウス(前70-前19)は、自然と信仰をうたい、ローマの世界支配の偉大さを明らかにしようとした叙事詩人です。クレモナ、ミラノで基礎教育を受けてからローマに出て、哲学、医学、修辞学を修めました。

やがて独自の詩作に進み、文芸保護者マエケナスの知遇を得てアウグスツス帝に紹介され、ホラチウスらとともにラテン文学の黄金時代を築きました。『詩選』(10編、前42~37)、『農耕詩』 (4巻、前30) を発表。

残りの生涯を英雄叙事詩『アエネイス(Aeneis)』 (12巻)にかけ、その完成のためギリシアへの旅に出かけましたが、途中熱病にかかって引き返す途上で死に作品は未完に終りました。

精妙、華麗な措辞、荘重なリズムはラテン六脚詩の頂点をきわめたものとされますが、人柄は寡黙で、控え目、詩文の心得などないように訥々と語ったと伝えられているそうです。


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2018年06月10日

ヘルダーリン「人生行路」⑤ ヘラクレイトス

Größers wolltest auch du, aber die Liebe zwingt
All uns nieder; das Laid beuget gewaltiger;
Doch es kehret umsonst nicht
Unser Bogen, woher er kommt.
もっと崇高なるものを欲してお前はまた上ろうとした。しかし愛は
私たちすべてをひき下ろす。憂いはもっと強く道を撓(たわ)める
とはいえわれらの生の穹窿(きゅうりゅう)が
その発祥の地へと向かうのも無駄ではない

Aufwärts oder hinab! herrschet in heil’ger Nacht,
Wo die stumme Natur werdende Tage sinnt,
Herrscht im schiefesten Orkus
Nicht ein Grades, ein Recht noch auch?
上るのか、下るのか! 自然が黙黙とあしたを瞑想する
聖なる夜を支配しているのは
ゆがみきった冥界を支配しているのは
真っ直ぐなもの、正しきもの、でもあるのではないのか?

「Lebenslauf」の前半第2節は、「上ろうとした」ところを「ひき下ろす」、「上るのか、下るのか」というような、上下の運動が取り上げられています。

これは、古代ギリシアの哲学者、ヘラクレイトス(Herakleitos、前540ころ―?)=写真、wiki=の思想に拠っているようです。

ヘラクレイトス

ヘラクレイトスは、小アジアのイオニア地方の町エフェソスの王家に生まれとぃます。高邁であったが傲岸な性格で、同時代のエフェソス市民をはじめホメロス、ヘシオドス、ピタゴラス、クセノファネスといった詩人や哲学者を痛罵したと伝えられています。

『ペリ・フュセオース(自然について)』とよばれる著作は、宇宙、政治、神を扱う3部に分かれていたといわれますが、散逸して、残っているのは断片ばかり。宇宙には相反するものの争覇があって、あらゆるものはこうした争覇から生じる。したがって、「戦いは万物の父、万物の王」である。

しかし、こうした争覇のうちに秘められた調和、「反発的調和」(パリントロポス・ハルモニエー)をみいだすことができる。これが世界を支配するロゴス(理法)であって、こうしたロゴスの象徴として火が想定される、と考えていました。

火は転化して水となり、水は土となる(下り道)。土は水となり、そして水は火にかえる(上り道)が、「上り道も下り道も一つであって同じものである」。二つの道は相反しているものの、全体としては調和が保たれており、この世界は「つねに活きる火としてほどよく燃えながら、いつもあったし、あるし、あるであろう」と説いています。


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2018年06月11日

ヘルダーリン「人生行路」⑥ アスクレピアーデス風

「オーデ」は、もともとギリシア語で歌をあらわし、悲劇のなかの合唱の一種を指すことばですが、抒情詩について用いられると、威厳にみちて、崇高な、かつ高揚した思想感情をあらわす歌を意味し、しばしば「おんみ」に呼びかけます。

対象との、冷たい距離と同時に、けだかさに感動した心情を表現し、きびしい形式に制約され、たいていは有節無韻で、ディテュランポスやヒュムネとは対照的に、しばられたパトスの様式をもつといえるでしょう。神、国家、自然、芸術、真理、友情、愛などが、それにふさわしい高い調子で歌われます。

Klopstock

生野幸吉によれば、ドイツではフランスのオーデを手本にしてバロック時代に始まったが、その頂点を形造ったのは、クロプシュトック=写真、wiki=でした。彼のオーデは熱狂的で、偉大なものを歌うその高揚や崇高の様式は、しばしばヒュムネ(頌歌)風の調子に移行します。

彼はのちには、古典を離れて、自分流のオーデの形式を創ることに腐心しました。若きゲーテやシラーにもシュトゥルム・ウント・ドラング的なオーデがありますが、彼らは古代の形式は採りませんでした。やがてヘルダーリンにおいてオーデは第二の頂点に達することになります。

ヘルダーリンにおいては、古代の形式の厳格な踏襲によって、神話的、対話的、悲劇的なオードがうまれ、現実と理念との間の、また、ギリシアへの憧憬と孤独との間の精神的緊張を担うにふさわしい形式となります。

最初はシラー風の思想詩でしたが、1798年以降は、厳格な古典形式、またはヘクサメーター、ディスティヒョンの形で書かれました。彼においても、クロプシュトックの場合と同じく、次第に自由律の傾向が強くなってゆくのは、ドイツの抒情詩に内在する根本的な衝動のうながしによるものと言えるでしょう。

ヘルダーリンののち、19世紀にいたるまで、オーデはすたれていましたが、20世紀に入ると、シュレーダーやヴァインヘーバーがすぐれてオーデを作りました。

古代の長短格はドイツ語では強弱に移しかえられます。古代ギリシアにはアルカイオス風、アスクレピアーデス風、サフォー風など、いくつかのオーデ形式がありますが、ヘルダーリンが用いたのは、前二者でした。前者は軽快に流れ、後者はより重く暗い。特に、後者に内在するコントラストは、テーマのコントラストを表現するのにふさわしいと考えていたようです。

■アルカイオス風オーデ

∪-∪-∪|-∪∪-∪-
∪-∪-∪|-∪∪-∪-
∪-∪-∪-∪-∪
-∪∪-∪∪-∪-∪
"Ehmals und jetzt"
In jüngern Tagen war ich des Morgens froh,
Des Abends weint ich; jetzt, da ich älter bin,
Beginn ich zweifelnd meinen Tag, doch
Heilig und heiter ist mir sein Ende.

■アスクレピアーデス風オーデ

-∪-∪∪-|-∪∪-∪-
-∪-∪∪-|-∪∪-∪∪
-∪-∪∪-∪
-∪-∪∪-∪-
"Lebenslauf"
Hoch auf strebte mein Geist, aber die Liebe zog
Schön ihn nieder; das Leid beugt ihn gewaltiger;
So durchlauf ich des Lebens
Bogen und kehre, woher ich kam.


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2018年06月12日

ヘルダーリン「人生行路」⑦ 拓かれる自由を

「Lebenslauf」の後半の2節は次のようになっています。

Diß erfuhr ich. Denn nie, sterblichen Meistern gleich
Habt ihr Himmlischen, ihr Alleserhaltenden,
Daß ich wüßte, mit Vorsicht
Mich des ebenen Pfads geführt.
私は学びとった。というのは
万物を養うおんみら天の神々は
私の知る限り、この世の師のように心して
平坦な道へと私を導かせることはなかったのだ

Alles prüfe der Mensch, sagen die Himmlischen,
Daß er, kräftig genährt, danken für Alles lern’,
Und verstehe die Freiheit,
Aufzubrechen, wohin er will.
神はいう。人間はあらゆることを試みよと
力のこもった滋養を得て、万物に感謝することを学べと
そして自由を解せよと
おのが欲するままに拓かれる自由を

人生

前半の2節で、「崇高なるものを欲して」上ろうとすると、「愛は私たちすべてをひき下ろす」というような「上るのか、下るのか!」という運動について語っていました。

が、後半2節では、この詩人の内在する張り詰めた律動を示す、箴言風で緊張した詩語を用いて、「万物に感謝することを学べ」「おのが欲するままに拓かれる自由を」などと、人生行路を展望しています。

それは、ヘルダーリンが「Lebenslauf」と同じ時期(1800~1801年にかけての冬)に書いた、次の「Brod und Wein(パンと葡萄酒)という作品と共通することを言っているように思われます。

Fest bleibt Eins; es sei um Mittag oder es gehe
  Bis in die Mitternacht, immer bestehet ein Maß,
Allen gemein, doch jeglichem auch ist eignes beschieden,
  Dahin gehet und kommt jeder, wohin er es kann.
(一つのことは確乎として定まっている、南の地においても、北の極みにおいても
万人に共通なひとつの尺度は つねに存している。
しかし それぞれの人間にはまたかれ固有のものが授けられている、
そして人はそれぞれ おのれの進みうるところへ進み 行ないうることを行なうのだ。=手塚富雄訳)


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