フォンターネ

2018年03月11日

「ジョン・メイナード」① 船火事

きょうから、19世紀のドイツの作家・詩人、ハインリヒ・テオドール・フォンターネ(Theodor Fontane、1819-1898)=写真、wiki=が、汽船の火災を素材に作った「ジョン・メイナード(John Maynard)」という詩を読んでいきたいと思います。

まずは、私の粗訳と、原文を記しておきます。

   ジョン・メイナード 

ジョン・メイナード!
「ジョン・メイナードってだれ?」
「ジョン・メイナードは、わたしたちの操舵手
岸着するまで舵を掴んで離さずに
私たちを救ってくれた栄誉をにない
私たちのために死んだ、敬愛し報いるべきひと
ジョン・メイナード」

“ツバメ号”はエリー湖のうえをはしり
船首には雪片の舞うようにしぶき泡立つ
デトロイトからバファローへとはしる――
けれどこころは気ままに快活に
子どもや女性づれの旅行者たちは
黄昏時の薄明のなかにもう岸辺を見つめ
おしゃべりしながらジョン・メイナードの
そばに歩み寄って「あとどれくらいですか、操舵手さん?」
かれは前方を見つめ、そしてあたりを見まわして
「もう30分……、半時間です」

だれもが快活で、だれもが屈託ない――
そのとき船蔵からこちらへ叫喚のような声
「火事だ!」そう叫んだのだった
船室やハッチからもうもうと煙が噴き出す
もうもうと煙、そこには炎々燃え盛る光輝
なのにまだバファローまで20分

そして旅客たちはごった返し
遣出へと殺到する
前方の遣出にはまだ空気と灯りがある
けれど操舵室には火煙たち込め悲嘆の
声がつんざいている。「どこにいるんだ?どこに?」
なのにまだバファローまで15分――

すきま風激しくもうもうたる煙の雲は籠りきり
船長は舵のほうを探ってみるが
操舵手の姿はもう見えない
それで伝声管を通して問いかける
「だいじょうぶか、ジョン・メイナード?」
「はい船長、私はだいじょうぶです」
「岸辺にあげろ!岸壁につけるんだ!」
「それまで、しのぎます」
乗組員たちは声を張り上げる。「もちこたえるんだ!お~!」
なのにまだバファローまで10分――

「だいじょうぶか、ジョン・メイナード?」。答えはある
息たえだえの声で。「はい、船長、もちこたえます!」
そして砕ける波のなか、崖なのか、岩なのか
その真っただ中にかれは“ツバメ号”を突進させる
救命するには、これしかありはしない
助かった。バファローの浜だ!

船は破壊する。火はくすぶりながら燃えている。
全員が救出。でも一人だけ足りない。

鐘という鐘が鳴り響く。教会から礼拝堂から
それらの音は天に向ってふくれあがる。
鳴り響く鐘のほかの音すべてを町はのみ込んでいる
きょうの礼拝はただ一人のため
一万人、いいやそれ以上が随う
葬列の人びと。だれの目にも涙

花々のなかに棺はおろされ
墓は花で埋め尽くされる
そして大理石の墓標には金色の文字で
町じゅうの感謝のことばが刻まれる
 「ここにジョン・メイナード永眠す! 煙と火の海のなか
 しっかと舵を握ってはなさずに
 私たちを救ってくれた栄誉をにない
 私たちのために死んだ、敬愛し報いるべきひと
 ジョン・メイナード」

フォンターネ

   John Maynard

John Maynard!
"Wer ist John Maynard?"
"John Maynard war unser Steuermann,
aushielt er, bis er das Ufer gewann,
er hat uns gerettet, er trägt die Kron',
er starb für uns, unsre Liebe sein Lohn.
John Maynard."

Die "Schwalbe" fliegt über den Erie-See,
Gischt schäumt um den Bug wie Flocken von Schnee;
von Detroit fliegt sie nach Buffalo -
die Herzen aber sind frei und froh,
und die Passagiere mit Kindern und Fraun
im Dämmerlicht schon das Ufer schaun,
und plaudernd an John Maynard heran
tritt alles: "Wie weit noch, Steuermann?"
Der schaut nach vorn und schaut in die Rund:
"Noch dreißig Minuten ... Halbe Stund."

Alle Herzen sind froh, alle Herzen sind frei -
da klingt's aus dem Schiffsraum her wie Schrei,
"Feuer!" war es, was da klang,
ein Qualm aus Kajüt und Luke drang,
ein Qualm, dann Flammen lichterloh,
und noch zwanzig Minuten bis Buffalo.

Und die Passagiere, bunt gemengt,
am Bugspriet stehn sie zusammengedrängt,
am Bugspriet vorn ist noch Luft und Licht,
am Steuer aber lagert sich´s dicht,
und ein Jammern wird laut: "Wo sind wir? wo?"
Und noch fünfzehn Minuten bis Buffalo. -

Der Zugwind wächst, doch die Qualmwolke steht,
der Kapitän nach dem Steuer späht,
er sieht nicht mehr seinen Steuermann,
aber durchs Sprachrohr fragt er an:
"Noch da, John Maynard?"
"Ja,Herr. Ich bin."
"Auf den Strand! In die Brandung!"
"Ich halte drauf hin."
Und das Schiffsvolk jubelt: "Halt aus! Hallo!"
Und noch zehn Minuten bis Buffalo. - -

"Noch da, John Maynard?" Und Antwort schallt's
mit ersterbender Stimme: "Ja, Herr, ich halt's!"
Und in die Brandung, was Klippe, was Stein,
jagt er die "Schwalbe" mitten hinein.
Soll Rettung kommen, so kommt sie nur so.
Rettung: der Strand von Buffalo!

Das Schiff geborsten. Das Feuer verschwelt.
Gerettet alle. Nur einer fehlt!

Alle Glocken gehn; ihre Töne schwell'n
himmelan aus Kirchen und Kapell'n,
ein Klingen und Läuten, sonst schweigt die Stadt,
ein Dienst nur, den sie heute hat:
Zehntausend folgen oder mehr,
und kein Aug' im Zuge, das tränenleer.

Sie lassen den Sarg in Blumen hinab,
mit Blumen schließen sie das Grab,
und mit goldner Schrift in den Marmorstein
schreibt die Stadt ihren Dankspruch ein:
"Hier ruht John Maynard! In Qualm und Brand
hielt er das Steuer fest in der Hand,
er hat uns gerettet, er trägt die Kron,
er starb für uns, unsre Liebe sein Lohn.
John Maynard."


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2018年03月12日

「ジョン・メイナード」② バラード

きのうから読み始めた「ジョン・メイナード」は、ドイツの詩人テオドール・フォンターネ(Theodor Fontane、1819-1898)が1885年の春から夏にかけて創作された「一ダースのバラード」の一つです。

 バラード(Ballade)は「譚詩」と訳される、短い、叙事的あるいは抒情的な詩で、圧縮された詩のなかに劇的で効果的な筋書を含んでいます。それは、ときに恐怖に満ちた暗い内容をもっていますが、民謡風に仕立てられるのが常です。

ロマンチックな内容で、ときには「ロマンツェ」と呼ばれますが、その境界は明確ではありません。バラードは中世末期から16世紀にかけての民謡に多くみられ、18世紀のヘルダーによる収集を経て、実作も試みられました。

近代バラードはビュルガー、ゲーテ、シラーによって完成され、19世紀のウィーラント、ドロステ=ヒュルスホフ、C.F.マイアー、フォンターネ、リリエンクローンに受継がれました。

「ジョン・メイナード」は、1841年夏、北アメリカのエリー湖=写真、wiki=で実際に起きた船火事を題材にしています。全9節、7、10、6、6、10、6、2、6、9行の62行。

基本的には対韻によって物語形式に適したリズムを作っていますが、英雄讃歌に多い8行、4行詩節とは違って自由詩節になっています。

内容は、次のように、古典的バラードの筋の展開によっています。

①筋を導入する前提(Exposition) 操舵手メイナードの提示と航海風景(第1~2節)

②物語の進行に伴う葛藤(Konflikt) 船からの出火と迫って来る危機(第3~5節)

③大詰(Katastrophe) 最後の交信、接岸、船の破壊と遭難、遭難と墓碑銘

エリー湖

以下、気になるところを箇条書きにしてみます。

・冒頭、「夜の風をきり馬で駆け行くのは誰だ?」で始まる『魔王』(Wer reitet so spät durch Nacht und Wind?/Es ist der Vater mit seinem Kind;/Er hat den Knaben wohl in dem Arm,/Er faßt ihn sicher, er hält ihn warm.)のように主人公を提示している。

・第1節の終りの3行と最終節最後の3行は同じ詩句。最終節が第1節へとつながる円環構造、“メビウスの輪”構造をとっている。

・詩の冒頭で問うた人物に対する「予示」→「墓碑銘」。前と後のワクを過去・完了、そのあいだは現在形が主で、「klingt→klang」とときおり過去形を交えて異化しているようだ。

・イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズのような偉人というわけではない、無名の乗組員である「ジョン・メイナード」という固有名詞が繰り返され、リフレインになっている。

・第2節は、「Schwalbe」「schäumt」「Schnee」「schon」「schaun」「schaut」など「sch」の頭韻が目立つ。「Schiff(船)」の疾走を表しているように思われます。

・それに代わって第3節は、「Alle」「klingt's」「klang」「Qualm」「Luke」「Flammen」「lichterloh」と「l」の音が目立ちます。

・第3節「und noch zwanzig Minuten bis Buffalo.」、第4節「Und noch fünfzehn Minuten bis Buffalo. 」、第5節「Und noch zehn Minuten bis Buffalo. 」と、「バファローまで**分」のリフレイン。

・第7節の破局「Das Schiff geborsten. Das Feuer verschwelt./Gerettet alle. Nur einer fehlt!」では、対岸から眺める視点から「geborsten」「verschwelt」「Gerettet」の事態の転換を示す三つの過去分詞を用いています。

・隣人愛と自己犠牲。誠実に職務を遂行したことによって他の乗員、乗客を船火事から救った一人の操舵手の姿と、その死を悼み、手厚く弔う人々の感謝と敬愛の念を謳ったバラードです。
・イエス・キリストは人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かった、とされ、「ヨハネによる福音書」(15章13節)には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とあります。


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2018年03月13日

「ジョン・メイナード」③ 操舵手

「ジョン・メイナード」の題材になった汽船の火災は実際にはどのようなものだったのか。藤田賢『フォンターネの詩』、Marvin A.Rapp、Wikiなどによると、次のような経過をたどったようです。

8月9日、デトロイト経由シカゴ行きエリー(Erie)号がバファローから出航。出航後間もない夜の8時ごろ、エリー市の近くで塗装用テレピン油の入った瓶がボイラー室の上の床で熱せられて発火。

強風に煽られてたちまち船は煙と炎に包まれ、数分後から焼死や窒息による死者が多数出る。水中に飛び込んだ人たちも多くが溺死。

乗員乗客約二百数十人のうちわずか27人が10時ころやってきた船に救助された。その中に船長と2人の操舵手がいて、操舵手の1人は数日後に火傷がもとで死亡。もう1人はその後アル中になって1900年に救貧院で死ぬ。

事故当時勤務中だったもう一人の操舵手ルーサー・フラーと蒸気機関を動かし続けた二等機関士ジョン・アレンは焼死した。フラーは地元出身で、「焼死するまで部署を守っていた」と船長が事故調査委員会に証言した。

フラーは大火傷をを負ったが沈没前に脱出してジェームズ・ラファティという偽名で犯罪を犯すなどして、1900年にアル中患者として救貧院で死んだとの証言もある。

220px-John_Bartholomew_Gough

この遭難事件についてドイツでは、当時ライプツィヒの薬局に勤務していたフォンターネが愛読していた『Die Eisenbahn(鉄道)』誌の「Nr.46 10月16日」に掲載。

事件の4年後、アメリカの日刊紙『The Buffalo Commercial Advertiser(バッファロー商業新聞)』には、無記名で「The Helmsman of Lake Erie(エリー湖の操舵手)」と題する物語が掲載され、死んだ操舵手の名が「ジョン・メイナード」とされている。

この物語のあらすじは、汽船“Jersey号”が5月のある朝バファローを出港する。実直で敬虔なジョン・メイナードが舵をとっている。最初の寄港地エリーの手前で船長は出火を知り、消火に努める。火災の原因は麻くずの束に火花が落ちたためとされる。乗客の問いに操舵手は岸まで約7マイル、40分の行程と答える。火煙は広がり、岸から1マイルのところで救助に来たボートで皆脱出を計る。「もう5分もちこたえられるか」「やってみます船長」。最後まで舵を握ったメイナードは絶命する。

ジョン・メイナードは、バファローの名士の名(Robert Maynard)と二等機関士ジョン・アレンから取られたのか?

米国の演説家John Bartholomew Gough (1817-1886)=写真、wiki=は、1866年に『エリー湖の操舵手』を子供向けの講話に翻案した『The Pilot(操舵手)』を発表。「伝音管」が登場、デトロイト発バファロー行きとなっている。

1868年に、米国の社会福祉事業家ホレイショ・アルジャー2世が、8行12節の英語のバラード「John Maynard」を発表。講演集などに数十年間繰り返し転載された。

これらの創作に見られない、フォンターネの独自の創作、構成になっているのが結末の2節、主人公の葬列・埋葬の場面である。


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2018年03月14日

「ジョン・メイナード」④ 蒸気船

 「ジョン・メイナード」の後半、船火事が起きた描写をあらためて眺めておきましょう。 

だれもが快活で、だれもが屈託ない――
そのとき船蔵からこちらへ叫喚のような声
「火事だ!」そう叫んだのだった
船室やハッチからもうもうと煙が噴き出す
もうもうと煙、そこには炎々燃え盛る光輝
なのにまだバファローまで20分

そして旅客たちはごった返し
遣出へと殺到する
前方の遣出にはまだ空気と灯りがある
けれど操舵室には火煙たち込め悲嘆の
声がつんざいている。「どこにいるんだ?どこに?」
なのにまだバファローまで15分――

すきま風激しくもうもうたる煙の雲は籠りきり
船長は舵のほうを探ってみるが
操舵手の姿はもう見えない
それで伝声管を通して問いかける
「だいじょうぶか、ジョン・メイナード?」
「はい船長、私はだいじょうぶです」
「岸辺にあげろ!岸壁につけるんだ!」
「それまで、しのぎます」
乗組員たちは声を張り上げる。「もちこたえるんだ!お~!」
なのにまだバファローまで10分――

「だいじょうぶか、ジョン・メイナード?」。答えはある
息たえだえの声で。「はい、船長、もちこたえます!」
そして砕ける波のなか、崖なのか、岩なのか
その真っただ中にかれは“ツバメ号”を突進させる
救命するには、これしかありはしない
助かった。バファローの浜だ!

船は破壊する。火はくすぶりながら燃えている。
全員が救出。でも一人だけ足りない。

鐘という鐘が鳴り響く。教会から礼拝堂から
それらの音は天に向ってふくれあがる。
鳴り響く鐘のほかの音すべてを町はのみ込んでいる
きょうの礼拝はただ一人のため
一万人、いいやそれ以上が随う
葬列の人びと。だれの目にも涙

花々のなかに棺はおろされ
墓は花で埋め尽くされる
そして大理石の墓標には金色の文字で
町じゅうの感謝のことばが刻まれる
 「ここにジョン・メイナード永眠す! 煙と火の海のなか
 しっかと舵を握ってはなさずに
 私たちを救ってくれた栄誉をにない
 私たちのために死んだ、敬愛し報いるべきひと
 ジョン・メイナード」

Titanic

実際にこの蒸気船の火事が起こったのは、1841年夏、北アメリカのエリー湖でのことです。蒸気機関は、ボイラーで発生した蒸気のもつ熱エネルギーを機械的仕事に変換する熱機関で、イギリスのエンジニア、ジェームズ・ワット(1736-1819)は、1769年に新方式の蒸気機関を開発しました。

これはニューコメンの蒸気機関の効率の悪さに目をつけて改良したもので、復水器で蒸気を冷やす事でシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増しました。さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、フィードバックとしての調速機の利用による動作の安定などの改良をしています。

蒸気を原動力として推進機を動かし航行する船舶、蒸気船では、ロバート・フルトンが外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、1807年8月17日にハドソン川で乗客を乗せた試運転に成功しました。

ちなみに実物の蒸気船が日本を訪れたのは、1853年の黒船来航が初めて。1853年7月8日、浦賀沖に現れた4隻のアメリカ海軍の軍艦は、2隻の外輪蒸気フリゲート「サスケハナ」、「ミシシッピ」が、帆走スループの「サラトガ」、「プリマス」を曳航して江戸湾内へ侵入してきました。来航した黒船のうち2隻が蒸気船でした。

この詩の題材となった船火事は、黒船来航の12年前の産業革命の最中、蒸気機関が船を動かす動力源として定着しはじめたころの出来事でした。

蒸気船の導入が進むにつれて、海難事故が多発するようになります。主なものをあげると、次のようなものがあります。

・1840年1月13日、アメリカ合衆国のロングアイランド海峡で外輪船「Lexington」が火災により沈没。乗員・乗客143人中139人が死亡。

・1845年8月4日 イギリスのバーク(帆船)「カタラク(802トン)」が嵐に遭い、オーストラリア・バス海峡のキング島南西で岩に乗り上げて沈没。400人が死亡。

・1850年(嘉永3年)4月11日 オーストラリアクラレンスの捕鯨船イーモント号が北海道厚岸末広海岸において遭難し、地元民が乗組員32人を救助した。

・1852年2月26日 英軍の兵員とその家族を載せた軍隊輸送船(蒸気船)「Birkenhead」が南アフリカ西ケープ州の港からの出港直後、岩に衝突して沈没し、約450人が死亡。

・1854年9月27日 大西洋定期航路に就航していた側輪蒸気船「アークティック」が、ニューファンドランド島のケープレース沖で、フランスの鋼製蒸気船「ベスタ」と衝突後に沈没。乗員乗客合わせて534人のうち、女性と子供109人を含め約350人が死亡。

・1865年4月27日 アメリカ合衆国のミシシッピ川で就航していた貨客船「サルタナ」が過積載のためボイラーが爆発、火災を起こし沈没。多数乗船していた南北戦争帰還将兵など少なくとも1450人が死亡。

・1866年6月17日 イギリスの奴隷貿易船が、清の広東省からカリフォルニアに向う途中、沖縄県竹富島蔵元前の浜で座礁、溺死者114人、行方不明62人。

・1875年12月6日 客船「ドイッチュラント」(蒸気船)がテムズ川河口でブリザードに遭って砂州に座礁。100名以上が死亡。「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。

・1886年10月24日 英国商船「ノルマントン号」が和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人、中国人・インド人乗組員12人が死亡。英国人船員は全員生存し社会問題になる。

・1890年9月16日 和歌山県樫野埼灯台付近でトルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没。乗員約600人中、587人が死亡または行方不明となった。

・1898年7月4日 セーブル島沖でフランスの客船「ラ・ブルゴーニュ」と英国帆船「クロマーティシャイア」が衝突し「ラ・ブルゴーニュ」が沈没、549人が死亡。

・1904年6月15日 ニューヨーク・イースト川で遊覧船「ジェネラル・スローカム」が火災。犠牲者1031人。

・1912年(明治45年)4月14日 イギリス船籍客船「タイタニック」が処女航海中、氷山に衝突して沈没=写真、wiki。1517人が死亡。

新しい技術が導入されると、それが安定して使われるまでにしばしば、多くの犠牲を払わなくてはならなくなります。事故20世紀の後半に飛行機の墜落事故が頻発したように、19世紀半ばから20世紀にはじめにかけては蒸気船事故がたびたび大きな惨事をもたらしていたのです。


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2018年03月16日

「ジョン・メイナード」⑥ 晩成の作家

最後に、フォンターネ(Theodor Fontane、1819-1898)という作家について、その生涯をまとめておきます。

フォンターネは、プロイセンの首都ベルリンに近いノイルピンでフランス系亡命新教徒(ユグノー)の家に生まれました。

1836年に実務学校での教育を終え、父の生業を継ぐため薬剤師の修業を始めます。1839年、最初の短編小説『姉妹愛』(Geschwisterliebe)を発表。1840年秋からマクデブルクで薬局助手として働き、この時期に最初の詩が書かれました。

1843年にベルンハルト・フォン・レーペルから文学サークル「シュプレー・トンネル」に誘われ、1844年から65年まで同会の同人。

1844年4月1日から翌45年3月31日まで皇帝フランツ護衛兵第二歩兵連隊で1年志願の兵役を務め、伍長の階級になって正規に務めを終えます。

1847年3月、上級薬剤師の認定を受け、翌1848年には革命派としてベルリンでの暴動に参加して闘いました。

1849年9月30日、薬剤師としての仕事を完全に辞め、自由な文筆家として活動し続けようと決意。まず、民主主義急進派の「ドレスデン新聞」に政治的文章がいくつか発表され、同年、彼の最初の書籍『男たちと英雄たち 8編のプロイセンの歌』が出版されました。

1850年、エミーリエ・ルアーネ=クマーと結婚し、ベルリンのアパートに二人で暮らはじめた。が、フォンターネに定職がなかったため、当初は二人の生活は経済的に苦しいものだった。しかし翌年、彼は政府の情報局本部に採用されました。

Fontane
1883年のフォンターネ(wiki)

1852年、情報局特派員としてロンドンに行き、1855年から59年までそこで暮らした。この時期、彼は『イギリス通信』という特派員報告を書き、ラファエル前派という芸術運動をドイツの幅広い読者層にはじめて紹介する。ロンドンでの特派員報告を終えて帰国したが編集者としての職は見つからず、紀行文学に専念します。

1861年、紀行記に歴史やさまざまな物語が追加した『ルッピン伯爵領』を出版。翌年の第2版では『マルク・ブランデンブルク周遊記』としました。

1860年、エミーリエとの間に6人目の子どもが生まれた。この年、フォンターネは、オットー・フォン・ビスマルクが設立者グループに属していた、敬虔主義に基づく保守反動的な「新プロイセン新聞」(クロイツ新聞)の編集部に採用されました。

1887年、長男ゲオルクが虫垂炎のため亡くなり、彼に続く3人の息子も生まれてまもなく死亡。6人目の子どもは彼の唯一の娘で、名前をマルタといい、メータと呼ばれていました。

1870年年、休暇をとり、普仏戦争のさなかの戦場パリを見物。フランスでスパイの容疑で逮捕されるものの、ビスマルクが彼のために抗議し、釈放されています。

1874年から76年まで、妻とオーストリア、イタリア、スイスなどを旅行。旅を終えて、もう新聞には書かないと決心し、自由な作家として生活しようと考えた。彼の主要な小説の大部分は彼が60歳以降になって書かれました。

59歳になって長編歴史小説『嵐(あらし)の前』(1878)で小説家として登場。比較的短い『不貞の女』(1882)、『セシール』(1887)、『迷誤』(1888)、『スティーネ』(1890)、および長大な『ジェニー・トライベル夫人』(1892)、『エフィ・ブリースト』(1895)、『シュテヒリン湖』(1898)など、以後刊行された長短16編の小説は、大部分が作者と同時代、19世紀後半の社会と人間をとらえたもので、なかでもベルリンとその周辺を舞台とする作品が優れています。

しばしば男女関係の不均衡とその破綻(はたん)を扱いながら、貴族(ユンカー)、商工業者、庶民、インテリといった多彩な登場人物が交わす機知あふれる会話のなかで、プロイセン=ドイツの現実が抱える矛盾を重層的にえぐり出しているのが特徴とされています。

フォンターネは、1892年、重度の脳虚血をわずらい、1898年9月20日ベルリンで亡くなりました。


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