リルケ

2014年01月14日

「初期のアポロ」㊤ ロダンの影響

きょうからちょっと、私の好きな、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1926)のソネット「初期のアポロ(Früher Apollo)」を読むことにしましょう。まずは、私の粗訳です。

Früher Apollo

Wenn manches Mal durch das noch unbelaubte
Gezweig ein Morgen durchsieht, der schon ganz
im Frühling ist: so ist in seinem Haupte
nichts was verhindern könnte, daß der Glanz

aller Gedichte uns fast tödlich träfe,
denn noch kein Schatten ist in seinem Schaun,
zu kühl für Lorbeer ist noch seine Schläfe
und erst später wird aus Augenbraun

hoch stämmig sich der Rosengarten heben,
aus welchem Blätter, einzeln, ausgelöst
hintreiben werden auf des Mundes Beben,

der jetzt noch still ist, nie gebraucht und blinkend
und nur mit seinem Lächeln etwas trinkend
als würde ihm sein Singen eingeflößt.

初期のアポロ

いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの

薔薇の園から幹が高く伸びいでて
葉は一まい一まい解き放たれ
震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

Früher Apollo(初期のアポロ)は、1907年に出た『新詩集(Neue Gedichte Erster Teil)』に収められているソネットです。

5脚のヤンブスで、11音節と10音節の詩行が交互に連なっています。脚韻は、abab、cdcd……。伝統的な抱擁韻などとは異なります。

リルケは、1908年には『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』という姉妹編も出しています。いずれの詩集もロダンの影響を強く受け、対象を手作業を通して造形することを目指しました。

詩行、詩節のまたぎによる自由なリズム。定型から離れようとする危うさ。比喩表現に抒情性は消え、事物的、彫刻家的な目で言葉が発せられています。意味の集積点としての対象とは何か、といったあたりに迫る巧みな比喩を使っていると思います。

アポロ

リルケは、古代のアポロ像=写真、wiki=の断片を博物館で見て、その素朴で圧倒的な芸術に打たれて作ったのでしょう。

アポロは、ギリシア神話に登場する男神です。オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子。詩歌や音楽などの芸能、芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神で光明の神でもあります。

「イーリアス」ではギリシア兵を次々と倒した、冷酷さ、残忍さも持つ「遠矢の神」とされています。疫病の矢を放ち、男を頓死させた神であるとともに、病を払う治療神でもありました。

古典ギリシアでは理想の青年像とも考えられ、ヘーリオス(太陽)と同一視されることもあります。ニーチェは、理性をつかさどる神とし、ディオニューソスと対照的な存在と考えていました。

ある日、アポロはエロス(キューピット)が弓矢で遊んでいるのを見て、子供がそんなものをおもちゃにしてはいけない、とからかいました。エロスは、それに怒って、金の矢をアポロに放ちます。そして、鉛の矢を川の神の娘ダフネに射たのです。

金の矢は恋に陥る矢で、鉛の矢は恋を拒む矢。2本の矢が、2人の胸にささった瞬間から、アポロンはダフネを恋し、ダフネはアポロンを拒否するようになりました。アポロはダフネを追いかけ、ダフネはどこまでも逃げます。

ダフネは父親の川の神のところへ駆け込み、言いました。「助けてください。私の姿を変えてください」。すると彼女の姿が変化して、足元から月桂樹の木になっていました。アポロは、ダフネへの愛の記念に、ダフネの月桂樹の葉で冠を作り、生涯それを頭にかぶりました。

いわゆる「アポロとダフネの物語」です。

harutoshura at 02:14|PermalinkComments(0)

2014年01月15日

「初期のアポロ」㊦ 事物詩

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~1926年12月29日)=写真、wiki=はプラハ生まれ。プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表していました。

当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を作っていましたが、ロシアへの旅行での精神的な経験を経て、『形象詩集』、『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだします。

リルケ

1902年からオーギュスト・ロダンと交流。ロダンの芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表します。

「Früher Apollo(初期のアポロ)」も、そんな「事物詩」として位置づけられます。パリでの生活していたちょうどそのころ、有名な『マルテの手記』を執筆しています。

リルケは1898年、イタリア旅行中に、フィレンツェで画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合います。そして、1900年8月、フォーゲラーが住んでいた北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに滞在することになりました。

1901年4月、リルケはこの滞在で知り合った女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚。隣村のヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えました。同年12月に娘が生まれていますが、父からの援助が断ち切られて生活難に陥ります。

それを打開しようと1902年8月、リルケは『ロダン論』の仕事のためパリに渡ります。そして、翌9月に「地獄の門」、「考える人」などで知られるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840~1917)に会います。

妻のクララもパリに渡ってロダンに師事しましたが、貧しさのため夫妻は同居できませんでした。リルケは図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けていきます。

ロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事はリルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」をはじめ対象を言葉によって内側から形作る作風に向かわせることになったのです。

パリの現実と深い孤独。「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」といっています。

リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地で講演旅行をしました。その後、誤解がもとで不和となりましたが、ロダンに対する尊敬は終生変わりませんでした。

    初期のアポロ

  いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
  すっかり春めいた朝が見とおせるように
  アポロのこうべには何ひとつ
  妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

  ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
  その目を凝らすところには いまだ影はなく
  月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
  そして 時がたてば眉のあたりの

  薔薇の園から幹が高く伸びいでて
  葉は一まい一まい解き放たれ 
  震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

  くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
  ただほほ笑みながら何かをすすっている
  自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

リルケは『ロダン論』の中で、次のように記しています。

「彼は第一印象を正しいとせず、第二印象もまたその後のどの印象も正しいとしない。彼は観察し、書きとめる。彼は言うに値しない動きでも書きとめる。回転や半回転、40の短縮や80のプロフィールを書きとめる。

……彼は人間の顔を、彼自身参加している舞台のように体験する。彼はその直中にいて、そこに生じるもので彼が無関心であるものは一つもないし、何ものも彼の目を逃れられない。彼は当事者に何も語らせない。

彼は自分が眼にするもの以外何も知ろうなどと思わないのである。しかし彼は一切を見る。……この創作方法は生を構成する数百もの要素の強烈な集約へ導くのである。」

「だが我々が目前に持ち、知り、解釈し、説明するものすべては表面なのではないか。また我々が精神と呼び、心と呼び、愛と呼ぶもの、それは一切近い顔の上のわずかな表面に起こる微かな変化にすぎないのではないか」

また戸口日出夫は「新詩集におけるリルケの詩作」で次のように指摘しています。

「詩人はそこで素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った芸術事物へ造型した。

その過程は対象物を契機として主体の感覚自体が、精神自体が練磨され、純化されていく形に他ならない。

かくて事物は精神により隅々まで透過され、深く主体化される。こうなるとリルケが何を作ろうが、それは彼独自のものとなる。

この芸術の内的論理に従った第二の自然の組織化を詩人は“ Ding-Werdung ” (事物の自己実現)と呼ぶのである。」

harutoshura at 04:09|PermalinkComments(0)