宮澤賢治

2013年11月03日

かぐはしい南の風は
かげろふと青い雲滃(おう)を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の班も燃える

賢治のうた

冒頭にあげたのは、私が中学1年生になったばかりのときに手にした『賢治のうた』(草野心平編著)のトビラにある「北上山地の春」という作品の一部です。

思えば、いまも座右に置かれている宮沢賢治の一冊の文庫本から、私の「詩」との長いつきあいがはじまりました。

『賢治のうた』の中でも、とりわけ深いところで私の心に共鳴したのが「春と修羅・序」でした。当時、賢治の「序」を真似て、次のような詩を作りました。

   序

目的は
己の表面を安全な殻で保ち
その内部において自己の存在と
知性の限定にある現在の時間で
世界という存在の絶対的真理をつかむこと
それは数は宇宙を支配する
という形態で表面から投下される
だが
唯一の成功が真の無限と偶然の虚像という
命題であるごとく
この日生と死のぎりぎりの空間に挑む
修羅に転じる

(昭和50年11月3日)

私にとっての「序」を記したこの「昭和50年11月3日」から、早いもので今日でちょうど38年。そんな日に、きわめて地味なブログを始めることにしました。

このブログは、近年あまり関心がもたれなくなってきた「詩」を少しずつ読み、詩とは何かということを私なりに考えていくために作りました。

私のいう詩というのは、明治期の近代化とともに作られるようになった新体詩(近代詩)を中心に、短歌や俳句、漢詩、さらには古今東西さまざまな世界で「詩」と呼ばれてきている言葉の集合体のことを指しています。

逆に、詩とは何か、ということがよくわからないので、なんとなく掬い取ってみたくて、50歳を過ぎたいまも、才もないのに飽きることなく、あれ、これ、読みつづけているといったほうが当たっているのかもしれません。

迷い、ためらい、あっちへ手を出し、またこっちへ戻ってと、これまでの人生のように紆余曲折を重ねながら、それでも、生あるかぎり詩への旅を楽しみつづけていくことになりそうです。

このブログが、そんな私の最後の「旅」の道標であり、記録になれば、と考えています。


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2013年12月15日

出会い① 農芸化学

そもそも私が「詩」なるものに興味を抱きはじめたのは、中学1年生12歳のとき、「宮澤賢治」との出会いがきっかけでした。

理系の大学を出て科学関連の仕事をしてきましたが、中1以来半世紀近く、草野心平編の『賢治のうた』は常に私の座右にあり、俳句、短歌、漢詩を含めて「詩」は私には欠かせないものでありつづけてきました。

このブログは、賢治をきっかけに現在まで、そして私が死の寸前まで読み続けていくであろう詩の「読書ノート」です。

私のほかのブログや雑誌、同人誌、新聞などに発表したものも含めて、思うがままに書きすすめていきたいと思っています。まずは、賢治との出会いからはじめます。

賢治の詩が科学と密接な関係を持っているのと同じように、私にとっての「詩」も、常に「科学」への興味とともにありました。

試験管

父が山の治山や砂防関係の仕事をしていたので、家には、地質や土壌学関係の本や資料がたくさんありました。そんな影響か子どものころは漠然と、地質学者になりたい、という希望を抱いていました。

小学校のとき読んだ伝記には、賢治は農芸化学や土壌学の専門家でもあって、病弱な体にもかかわらず、東北の貧しい農村を変えるために努力したというような“偉人伝”が載っていました。それに私は、痛く感動した覚えがあります。

土壌学というのは、土の研究をするんだろうなと小学生でもなんとなく想像がつきましたが、“農芸化学”というのはどういったシロモノなのか皆目わかりませんでした。中学へ行けば、そういう勉強もできるかもしれないと期待していました。

中学へ入るとさっそく、“農芸化学”というシロモノの勉強がやれそうな「化学部」というサークルに入りました。そこで熱中することになったリンゴの研究が、いまから思えば私の最初の“賢治体験”だったように思われます。

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2013年12月16日

出会い② リンゴの研究

私は、長野県生まれの長野県育ち。長野県ではいろんな農産物が取れますが、中でもよく知られているのが青森県に次いで生産量の多いリンゴです。

賢治が、花巻の農家を豊かにしたいと考えたように、中学生が無謀にも、地元の農家のために美味しいリンゴを作るにはどうしたらいいか研究しようと思ったのです。

以前、田中康夫元長野県知事による浅川ダムの脱ダム宣言で一時話題になりましたが、飯縄山麓から長野市の盆地に浅川という川が流れています。この浅川の流域にリンゴ畑がひろがっていて主要な産地になっています。

ところが、同じ川の流域で作っているリンゴなのに、場所によって甘いのと酸っぱいののバラツキがかなりある。それは、どうしてなのか。

そう思って調べていくと、どうも土壌中の水のPH(水素イオン濃度)がかかわっているらしいのです。

すなわち、土の中の水のアルカリ性が強くなれば、リンゴの糖度が増える傾向にあることが分かってきたのです。

それを検証してみようと、仲間たちと4人のグループを作って本格的に調べてみることにしました。

そんなことをしている間に、賢治が盛岡高等農林学校(いまの岩手大学)で勉強していた「農芸化学」というのは、こんな感じのものなのかと、何となく分かってきたような気がしたのです。

果物の糖度や酸度、土壌の成分、水質など化学的な性質を調べることによって、よりよい農作物をつくるのに役立てる学問なんだな、と。

こんなふうに、中学生時代、個人的には賢治に憧れて、仲間たちとはじめたリンゴの研究。それについて紹介してくれた読売新聞の記事(昭和49年10月17日長野版)があるので、以下、引用しておきます。

リンゴ

松井君ら四人が、この研究に熱中したのは、本県特産のリンゴが、場所によって甘いのとすっぱいのがあるのはなぜだろう――という素朴な疑問からだった。

研究の結果、「リンゴの糖度は、土壌中の水のPH(水素イオン濃度)が増せば(アルカリ性が強くなれば)増す傾向にある」という仮説を立てられるまでになった。これは、浅川流域で栽培されているリンゴの甘さはアルカリ性の高低に比例する――という新説であるわけだ。

もし、これが今後の研究で裏付けられた場合は、単なる研究成果にとどまらず、リンゴ栽培農家にとっても画期的な発見となり、地元産業の発展に直接貢献することになる。

研究は、リーダーの松井潤君を中心に北島至、西沢秀一、柳沢聡の四君が三年がかりでまとめた。改良品種の「スターキングデリシャス」を材料に、夏休みも返上して対照実験に取り組んだ。

途中「川の水の水質とリンゴの糖度は関係ないね」「やってもムダだよ」と多くの農業関係者に言われたが、四人はくじけなかった。

土壌検査では、リンゴの木の根本から採取した土をビニール袋に詰めて運ぶ運搬作業を、約二百回にわたって繰り返し、リンゴは延べで二百個も糖分を検査した。

また、土壌のPHを変えるため、自転車の荷台に、水溶液を満載したタンクを積んだが、バランスを失ってひっくり返すという失敗も再三あった。

ともかく、三年間の研究で、苦労話は尽きない。研究を指導した橋爪衆司教諭は「四人の粘り強さには感心した。その意味でこの研究は、全く努力の結晶です」と賛辞を惜しまない。

研究や実験の結果は、約五十枚の表やグラフにびっしり書き込み、まとめた。しかし、四人が「仮説は実験的に明らかに出来た」という強い確信をもったのは、五十人のクラスメートを対象に行った「味覚実験」だった。

アルカリ度の高い土壌で生産したリンゴを味わってもらったところ、五十人全員が、「甘く、おいしい」と答えた。

この評価は「土壌中のPHとリンゴの糖度との関係を、客観的に立証する貴重なデータ」ともいえるもので、四人はこの時「実験は成功。仮説が裏付けられた」と思ったという。

松井君ら四人は、研究発表の最後に「私たちの研究によって得られた成果が、今後、リンゴ栽培の向上につながるキッカケになればうれしい」と話しているが「研究はまだ終わった訳ではない」とも言う。

「リンゴの甘みとアルカリ濃度の関係をさらに明確なものにしたい」「水酸化カリウムや硝酸との関係も追求したい」――など、残された課題は多い。

中学生なりに、地域の農業の役に立ちたいという、賢治の精神につながる純な思いだけはありました。

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2013年12月17日

出会い③ 農家

「リンゴ」の研究は、農家のかたにリンゴの木を数本お借りして、実際のリンゴの木を使ってやりました。

花

春、花が咲くころ=写真、wiki=から、収穫が終わるまで、毎日のようにリンゴ畑に出かけていって薬品をまいたり、細かい観察をつづけました。

リンゴが実って研究も忙しくなると、農家の人は「お腹が空いたら、木から取って食べてもいいよ」と親切に言ってくれました。

ある日、幹の根元に、リンゴがいくつかそろえて置いてあったことがあります。

「木から取って食べてもいい」といわれていたので、無性に腹が減っていたので、農家の人がそろえて置いてあったのを無断で食べてしまいました。

学校へ帰って先生にそのことを話すと、顔を真っ赤にして怒られました。

「何か必要があって取っておいてあったのかもしれない。木から取っていいというのと、ぜんぜん違うことがわからないのか」

丹精して育てた、生活を支えているたいせつな商品である果物。ちょっとしたことで農家との信頼関係が崩れて研究どころでは無くなることだってある。

そのあたりの微妙なところが、全くわかっていなかったのです。幸い、農家へ謝罪に行ったら快く許してもらえてホッとしました。

そうした農家とのやり取りもあって、裕福な質屋の長男として生まれ、頭では農業を学んでいても実際の貧しくて厳しい農民の現実を体験したことがなかった賢治が、教師をやめて農業の現場へ飛び込んで行こうとしたときにぶちあたった大きなカベのようなものが、子供なりに少しわかったような気がしたのでした。

リンゴの研究をする中で、賢治への興味を深めていった私は、賢治の詩集や童話、解説書などをあれこれ読むようになりました。いけないことですが、学校の図書館から借りたまんま、いまだ返していない本も何冊かあります。

いちばん最初に買った賢治の詩集で、いまもいつも机の隅に置いているのが、社会思想社の現代教養文庫の『賢治のうた』です。草野心平編著。モノクロが主ですが、たくさんの写真が掲載されていて、どれも刺激的でした。

読んでいく中で、賢治の詩や童話のいろんな場面で「リンゴ」が、いろんな色を放ちながら登場してくることを発見しました。私たちと同じように、賢治はリンゴが好きだったんだな、と妙に嬉しくなった記憶があります。

賢治とリンゴについては、あらためてじっくり研究してみたいと思っています。

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2013年12月18日

出会い④ アインシュタイン

理系少年だった私はそのころ、アインシュタイン=写真、wiki=の相対性理論だとか、量子論だとかに興味を持ちはじめていました。当然、中学生にきちんと理解できるシロモノではありませんでしたが。

詩集『春と修羅』の「序」の最後の連には――

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

草野心平の註には、「*第四次延長―四次元空間、時空世界。三次元の物理的空間に第四次元として時間の軸を考えたもの。」とありました。

賢治の詩は、相対性理論的な時空を飲み込んで書かれているのか!理系少年に与えた衝撃には、ただならぬものがありました。

中学生の私の眼には、いつも、アインシュタインと宮沢賢治がダブって映っていました。相対性理論を知るには、ユークリッド幾何学から始まり、非ユークリッドやリーマン幾何学などを勉強しなければならないと何かで読んで、無謀にも、中沢貞治さんの『いろいろな幾何』など数学書に挑戦したりもしました。

アインシュタイン

リーマン幾何では平行線が2点で交わる。アインシュタインによれば時空は曲がっていて、宇宙はリーマン幾何のように2点で交わるんだ。なんとなくわかった気になっていました。

「銀河鉄道」も、「どこまでもゆき」の両極点で交わる曲がった時空に設えられたレールを走っているのではないか。そんなイメージを抱いて有頂天になったこともありました。

たまたま中学の3年間教わった国語の先生が、大学の卒論で宮沢賢治を研究した人でした。その影響もあって、リンゴの研究の日誌のかたわらなどにメモしていた詩を見てもらうようになりました。

最初に書いた詩は、人間の体を「橋」にたとえた、それなりの“自信作”だったはずですが、よく覚えていません。ただし、その国語の先生の詩はいくつか、記憶にしっかり残っています。その一つがこれです。

  飛翔  

          東川澄雄
         
鳴いて飛ぶ
鳥は いくつか
山脈をこえた
白き空間に
せわしない羽音を残して
一万フィートの山々

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2013年12月19日

出会い⑤ わら半紙のメモ

中学や高校のときに書いたものなどは、今から考えると実に悔いを残すのですが、たび重なる転勤の最中にほとんどは捨ててしまいました。数年前、ノートを整理していて、ほんの断片的にですが見つかりました。茶色くなったノートや切れ端やわら半紙に書かれたメモのようなものです。なかには、当時の執着ぶりを反映しているのか、宮沢賢治に関わるものもけっこうありました。たとえば、次のようなメモも。

●賢治の詩集『春と修羅』は、世界の心象派の作品の中で超絶していることは、いまはもはやまぎれもない。心象詩派などという類別は、文学史の中にないとひとはいうだろう。ないのはこれまでの史家の見方がかたよっていたからで心象的な作品はもっぱら象徴詩のわくの中でしかあつかわれていなかった。だがそれ以後の心理学(むしろ心霊学と云うべきだろう)や実存哲学(それは西欧思想の東洋への屈服である)の進展によって、むしろ賢治によっていい出された「心象」というわくの中に、「象徴」が包含されるべきだという傾向がいまや世界的に顕著である。英語ではさしあたりvisionist(幻を見る人)がそれにあてられるであろう。もはやimagination(想像)などというわくではない。

賢治のうた

どこかの本にあったものを写したのか、自分の考えも入っているのか、分かりません。いっしょに、「象徴詩」「象徴主義」「象徴派」などについてのメモ書きもありました。子供ながら、「賢治と象徴主義」みないなものになんとなく興味を抱いたことがあったのかもしれません。ほかにも――

●(しかし、書きなおす代りに結論の言葉をかりよう。)賢治は「全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず」にそのたまらない内部心象を言葉にしたのだ。それがすなわち賢治の詩なのである。」(「賢治のうた」より草野心平)

●セザンヌは文化の中心巴里(パリ)から遠く離れた片田舎エクスにひきこもって一人で絵画に熱中してゐた。その片田舎の一老爺の仕事が、世界の新しい芸術に一つの重大な指針を与へるほど進んでゐたのは、彼が内に芸術の一宇宙を深く蔵して居り、その宇宙に向って絶え間無く猛進したからのことである。内にコスモスを持つ者は、世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的な存在から脱する。内にコスモスを持たないものはどんな文化の中心に居ても常に一地方的な存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮沢賢治は希に見るこのコスモスの所有者であった。彼の謂ふ所のイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。(コスモスの所有者宮沢賢治)

●宮沢賢治は大正13年に『春と修羅』を出版したが、彼の名は一向一般的にならなかった。……わずかに高村光太郎を尊敬し、草野心平の編集した『銅鑼』に名をつらねたほどのことだった。

●彼は自身の欲望を極度に抑制して農に従い、郷土の福祉につくしたが、人間に対し、また宇宙に対して絶望の念を抱かず、懐疑的にならず、近代の諸悪や諸病と全く無縁だった。その詩も明るく健康的で、肯定的な人生観を含んでいる。

●「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ。ここにわれらの不断の潔く楽しい創造がある」「詩は裸身にて理論の至り得ぬ堺を探り来る。このことは決死のわざなり。イデオロギー下に詩をなすは、直感粗雑の理論に屈したるなり」と信じた。彼はこの信念に生き、この信念に殉じた。彼のこのような生そのものの息吹が、脈動が、彼の詩であった。

●その宗教心(法華教信仰)に基礎を置く宇宙的感覚、その教養から生まれた地学的感性や自然把握に特色があるが、彼の夢と映像(イメージ)はこんこんとつきることなくわき出て、自然と合体し、宇宙と有機的に一つとなった表現をなしている。

●一体に彼の詩には長いものが多く、またそれがすぐれている。それは細部の美しさよりも内面的な重量感や、雄渾な気格によって人を圧倒する作風であることを証している。彼の感覚は奇異で語彙は異様である。

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2013年12月20日

出会い⑥ やまなし

中学のとき藁半紙に書いたメモのなかに、賢治について、次のように記した記述もありました。

「宗教心を基とした広い心、大宇宙的な感覚の持ち主で、科学的用語、訛語を巧みに駆使して、格調高い四百あまりの詩を残した。また芸術的香気にあふれた約百編の童話、八百首の短歌の作家としても知られる」

やまなし

私がはじめて接した賢治の作品は、小学校で読んだ「やまなし」でした。

二疋ひきの蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』

とつづく不思議な童話です。これを読んだイメージをもとにして、小学生のとき奇妙な絵を描いたのを覚えています。

中学のときは、これまで書いてきたように賢治のサイエンスと詩に興味が集中していました。それは私自身の初めての“サイエンス体験”、“詩体験”とも直結していました。

高校へ入って、賢治は、童話作家、詩人であるだけでなく、「八百首の短歌」を残した歌人でもあったということを認識しました。

高校の図書館に刊行ごとに並んでいった『校本・宮澤賢治全集』。全巻読破を目指して読み始めたこの全集の第1巻が短歌から始まっていたことによります。

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2013年12月21日

出会い⑦ 校本全集

宮沢賢治に憧れて、私が中学3年間仲間たちと懸命に取り組んだ「リンゴの研究」は、幸い“科学の甲子園”ともいわれる日本学生科学賞の文部大臣賞に選ばれました。

審査委員長の茅誠司さんから「永年研究を継続した地道な努力と、地元の産業に目を向けた地域に密着した研究態度は賞賛に値する」と誉められて、賢治がやろうとしたようなことが少しはできたのかな、とうれしかった記憶があります。

高校へ入ると、リンゴの研究のこともあって理系に進学するコースを選び、文学に対する興味からは離れていきました。中学の時とちがって私の高校時代は、やりたいことが見つからず宙ぶらりんな3年間でした。

ただ家の自室に、賢治の「春と修羅」などの詩を模造紙に書き込んで張り巡らし、ムシャクシャするとそれらをがなるように読み上げて、気を紛らしていました。

私の中学・高校時代は、『校本宮沢賢治全集』全14巻(筑摩書房、1973.5~1977.10)が刊行された時期とちょうど重なっています。

校本全

高校の図書館へ行くと、刊行になったものから順に「校本」が、本棚に並べられていきました。全部読み通そうと思い立って、放課後になると、ときおり図書館へ出かけては一人で読んでいました。

そんな高校生時代、『校本全集』を読み始めたころの賢治の短歌を写したわら半紙のメモが残っていました。

和歌
明治四十二年四月より
明治四十二年四月十二日
盛岡中学校寄宿舎に入る
父に伴はれたり 
舎監室にて父大なる銀時計を出して一時なり呟けり

と最初にあって、短歌がいくつか続いています。旧制中学校は、中学校令(明治32年2月7日勅令第28号)に基づいて、各道府県に一校以上設置された。尋常小学校を卒業しているが入学資格で、修業年限は5年間でした。

作ったのは賢治が12歳のとき。さすがに、私がこの年のときには到底できなかっただろうしっかりした作品です。

中の字の徽章を買ふとつれだちてなまあたたかき風に出でたり

父よ父よなどて舎監の前にしてかのとき銀の時計を捲きし

藍いろに点などうちし鉛筆を銀茂よわれはなどほしからん

公園の円き岩べに蛭石とわれらひろへばぼんやりぬくし

のろぎ山のろぎをとればいただきに黒雲を追ふその風ぬるし

のろぎとは、盛岡市の西方、毒ヶ森と南昌山の間にあるノロキ山(742m)のことでしょうか? 地元には、のろぎ山に雲がかかると雨が降るという言い伝えがあるようです。

「のろぎ」は、滑石の一種、蝋石(ろうせき)の方言。蝋石は安山岩や頁岩、砂岩が変形したもので、脂質感があり、白または銀白色。昔は小学生の重要な文房具で、石板にのろぎで字を書いたのだそうです。

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2013年12月22日

出会い⑧ ホーゲー

賢治が入った盛岡中学校(旧制)は、いまの県立盛岡第一高校。いま見ている短歌を作っていたころ、賢治は学校の寄宿舎にいました。

盛岡一高には、いまも「自彊(じきょう)寮」と呼ばれる寄宿舎(男子用)があるそうです。宮沢賢治も入寮していた旧制盛岡中学の寄宿舎名を受け継いでいるとか。

それでは、私の高校時代のわら半紙に書かれていた賢治の短歌のメモの続きです。前回見た「のろぎ山」の歌から。

のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそはれにけり

きしきしと引上げを押しむらさきの石油をみたす五つのラムプ

タオルにてぬぐひ終れば台ラムプ石油ひかりてみななまめかし 

うすあかき夕ぐれぞらに引きあげのラッパさびしく消えて行くなり

あざむかれ木村雄治は重曹をインクの瓶に入れられにけり

ホーゲーと焼かれたるまま岩山は青竹いろの夏となりけり

鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙(メノウ)のかけらひろひ来りぬ
  

●木村雄治は、盛岡中学での賢治の同期生。三年のときに落第し、卒業しなかったそうです。

●「ホーゲー」は「奉迎」のこと。歌を作った前の年の1908年、皇太子(大正天皇)の行啓があり、盛岡市の東の岩山に「ホーゲー」の4字をかがり火であらわしたとのこと。

さらに、わら半紙メモに書かれていた賢治の短歌の続きは――

(明治四十四年一月より)

柳澤
こゆれば山の裾野にて
けはしき雲の流るるを
海鼠(ナマコ)のにほひいちじるく
きみかげさうの花さけば
馬は黒藻に飾られぬ

●「柳澤」は、岩手県滝沢村の一集落。世帯数約180。かつては岩手山登山の表口だった。岩手山神社。賢治はしばしば訪れています。

み裾野は雲低く垂れすずらんの
白き花咲き はなち駒あり

這ひ松の雲につらなる山上の
たひらにそらよいま白み行く

這ひ松の
なだらを行きて
息はける
阿部のたかしは
がま仙に肖(に)る

●「阿部のたかし」は、阿部孝(1895~1986)。賢治と盛岡中学の同期生。旧制一高、東京帝大文科(英文学専攻)へ進み、高知大学文理学部教授、学長をつとめています。1919(大正8)年1月ごろ、東京帝大在学中で、谷中墓地近くに下宿していた阿部を訪れた賢治は、阿部の蔵書だった萩原朔太郎の『月に吠える』を手にして「ふしぎな詩だなあ」と感想をもらしたといわれます。

さすらひの楽師は町のはづれとてまなこむなしくけしの茎噛む

冬となり梢(うれ)みな黝む丘の辺に
夕日をあびて白き家建てり

すでに見た「明治四十二年四月より」に、「ホーゲーと焼かれたるまま岩山は青竹色の夏となりけり」がありましたが、ここにもホーゲーの歌があります。

  ホーゲー

岩山の
まっ青の草に雲たたみ
三角標も
見えわかぬなり

雲くらく東に畳み
岩山の
三角標も見えわかぬなり

前の「岩山の」の歌が第一形態で、「雲くらく」のほうが最終形態のようです。

三角点

『銀河鉄道の夜』では、車窓から何百という大小さまざまな「三角標」が、夜空の星座のかたちに並んで見えてきます。この時代、全国的に三角測量が行われていました。三角点の上には遠くから見えるように高覘標(こうてんびょう)=写真=という高い櫓が立てられました。これを「三角標」といっているのでしょうか。

ホーゲーは「奉迎」のなまり。明治四十一年、皇太子(後の大正天皇)が盛岡を訪れ、岩手公園の東3キロ地点の岩山の草地でこの4文字をかたどって篝火が焚かれました。

花巻町花城小学校の6年生だった賢治はこの日、引率されて盛岡に行っている。3年後にもこんな短歌を残しているのだから、「奉迎」の印象は、賢治の心の中に焼きついていたのでしょう。

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2013年12月23日

出会い⑨ 中尊寺

私の昔のわら半紙メモにあった、賢治の盛岡中学時代の短歌の続きです。

小岩井の育牛長の
一人子と
この一冬は
机ならぶる

●有名な小岩井農場を賢治が訪れたのは、1910(明治43)年、盛岡中学2年生の秋、遠足で岩手山に登った帰りに立ち寄ったのが最初とされています。このころ寮の同室に武安丈夫くんという育牛部技士(武安陽吉)の息子がいた。育牛長ではなかったようですが。

臥してありし
丘にちらばる白き花
黎明のそらのひかりに見出でし

鉄砲が
つめたくなりて
みなみぞら
あまりにしげく
星 流れたり

鉄砲を
胸にいだきて
もそもそと
菓子を食へるは
吉野なるらん

●1911(明治44)年9月30日、盛岡中学3年だった賢治は一本木野での発火(空砲射撃)演習に加わりました。同地に野営したときの体験をもとに作ったのでしょう。いまでは考えられないことですが、当時の旧制中学の3年以上は、銃をもって軍事教練をしていたのです。

ひがしぞら
かがやきませど丘はなほ
うめばちさうの夢をたもちつ

ひとびとに
おくれてひとり
たけたかき
橘川先生野を過ぎりけり

追ひつきおじぎをすれば
ふりむける
先生の眼はヨハネのごとし

●「橘川先生」は、盛岡中学の国語教諭の橘川真一郎。賢治が5年生のときの担任でした。

家三むね
波だちどよむかれ蘆の
なかにひそみぬうす陽のはざま

新らしく買ひしばかりの外套を
その児来りて貸し行きにけり

午なれば山縣舎監千田舎監
佐々木舎監も
帰り来るなり

●寄宿している学生の生活指導や監督をする舎監。というと私は「父よ父よなどて舎監の前にして大なる銀の時計を捲きし」をすぐに思い出します。

賢治が実家の花巻から離れて寄宿舎生活をはじめる際、父・政次郎は、入学式の前に、上にあげた「佐々木舎監も」の舎監、佐々木経造氏にあいさつに行きます。

そのとき父が、高価な銀時計を出して竜頭を巻いた。賢治には、その印象が強く残り、後から思い出した短歌です。ここにも、賢治の父や家業に対する反発の気持がうかがえます。

1913(大正2)年1月、寄宿舎の舎監排斥運動起こります。結果、4年生だった賢治を含め4、5年生全員が退寮処分となります。賢治はその後、清養院(曹洞宗)、徳玄寺(浄土真宗)と下宿先を変えて行きます。

中尊寺
青葉に曇る夕暮の
そらふるはして青き鐘鳴る

●賢治は、1912年5月、盛岡中学の修学旅行で平泉を訪ねています。「青き鐘」は平和と非戦を願う鐘。ふつうは突かれることはありませんが、先の東日本大震災の犠牲者の冥福を祈って特別に突かれたそうです。

中尊寺

宮沢賢治の詩碑=写真=が、中尊寺の金色堂の前に立っています。「中尊寺」という文語詩です。

  中尊寺
          
七重の舎利の小塔に
蓋(がい)なすや緑の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼して没(き)ゆる

「七重の舎利の小塔」とは、金色堂。ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとする。「銀のかたびら」を身にまとって、宝物を盗むつもりだったのでしょうが、なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、そのまま礼をして去っていった、という話。

これは賢治の創作のようです。「大盗」の正体については、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝を象徴しているという説もあるそうです。なるほど、という感もします。

にせものの像を指し
さりげなく
そらごといへば
いよよさびしき

桃青の
夏草の碑はみな月の
青き反射のなかにねむりき

●「桃青」は松尾芭蕉の俳号。「夏草の碑」は、あの「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑のことでしょう。

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2013年12月24日

出会い⑩ 阿修羅

私の中学・高校時代の焼けたわら半紙メモにある賢治の短歌の続きです。

まぼろしとうつつとわかずなみがしら
きほひ寄するをあやしみゐたり

1912(明治45)年、賢治は旧制盛岡中学の修学旅行で、旧北上川を蒸気船で下りました。そして太平洋にそそぐ河口の港町、石巻で、生まれて初めて海を目にします。

これは、そのときに作った一首です。この歌をもとにして、後に次のような文語詩も作っています。

われらひとしく丘に立ち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる塩の水
海とはおのもさとれども
伝へてきゝしそのものと
あまりにたがふこゝちして
たゞうつゝなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒えの
うろこの国の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき

その詩碑が、石巻市南部の“日和ヶ丘”という小高い丘の上にあります。

賢治が初めて海を見てから100年、この地を襲った3・11東日本大震災のことを思うと、これらの歌や詩からはまた別の響きが聞こえてくるように思われてきます。それがまた、詩歌の魅力でもあります。

河岸の杉のならびはふくろふの
声に覚ゆるなつかしさもつ

海ははじめてでも、北上川は、賢治が子どものころから親しみ、愛した川です。北上川と猿ヶ石川の合流する西岸に、イギリスの海岸のような地層が見られることから賢治が「イギリス海岸」と名づけたことは、よく知られています。

私が中学の修学旅行のとき、何か書いていたのか。私の場合は新制中学の3年(14歳)の京都・奈良への旅でした。そのころ私に、短歌の心得はありません。修学旅行の体験から詩らしきものを書いた覚えはありますが、どこかへやってしまって残っていません。

阿修羅

今度の年末年始の帰郷で、昔の資料を掘り返していたら、中学の修学旅行の直後に書いた次のような文章がでてきました。
「あの二つの目は何を見つめていたのだろう」。ぼくは興福寺の阿修羅像を見てからそのような疑問に問われた。

三面の顔と六本の手から成り立つ仏像ではあるが、不思議に正面の一体だけが顔を見ても手を見ても、妙に人間的表情を、多分に発揮していた。

どういうかは分からないが、正面から見ても後方から見ても阿修羅像は別に気味悪く思えないどころか非常に感じがよかった。

あの正面の二つの目には何か悲しい雰囲気が感じられた。恐怖に戦くといった感じではなかったが、それだけにあの眉のひそめと合成すると、不思議に己の心の中に吸収されるような神秘感にさらされた。

それだけにあの目は唯の悲しさではないように思われた。それに、胸の前にすうっと合わさる細い腕が、なおさらそのような感じを強くした。あの六つの瞳は何か強く圧縮されたものから脱出しようとする瞳ではないのだろうか。

しかし、左右の四つには、その様な感情を大胆に発揮しているだけで「意志」がうかがわれない。が、前面の目には「意志」がありありと見うけられた。

仏様にすがって何とか脱出しようとする意志、それがあの悲しそうな瞳にあらわれていたのではないだろうか。
繰り返し読んで暗唱していた賢治の詩「春と修羅」や、愛読していた青江舜二郎著『宮沢賢治―修羅に生きる』などの影響で、当時の私はいつも賢治と「修羅」、賢治と「阿修羅像」を二重写しにしていました。

子どもなりに、阿修羅の中に賢治を見ようとしていたのかもしれません。

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2013年12月25日

出会い⑪ 新校本

私の中学・高校時代のわら半紙メモは、大部分はもう紛失してしまっています。でも、これまでに見た何首かをはじめ、残っていた賢治の短歌についてのメモをいま読み返してみても、当時、私なりに相当に賢治に傾倒していたことはどうも確かなようです。

賢治の『春と修羅(第1集)』の「序」の最後の行「第四次延長のなかで主張されます」の「第四次延長」について、私の座右の書『賢治のうた』(草野心平編著)には、「四次元空間、時空世界。三次元の物理的空間に第四次元として時間の軸を考えたもの」という註があります。

これに触発されて当時、私は次第に「4次元空間」なるものをきちんと知りたくなっていきました。相対性理論をきちんと勉強したい。そのためにはリーマン幾何など数学をきちんとやっておく必要がある。というふうに考えていって、高校を卒業後は、大学の理学部で数学を勉強することにしました。

宮沢賢治研究の金字塔といわれた『校本宮澤賢治全集』(全14巻)が筑摩書房から刊行されたのは、1973年5月から1977年10月にかけてのことです。それは、わたしの中学生から高校生の時期と重なっています。以前も書きましたが、私は高校のとき、刊行のたびに図書館の本棚に並んでいくのを見つめながら、校本全集を読んでいました。

校本全集の特色をひき継ぎながら、その後の新発見資料・研究成果を踏まえて、全面的な本文決定、校訂作業をやり直したのが【新】校本宮澤賢治全集です。1995年5月22日に第8巻の「童話Ⅰ」にはじまり、14年後の2009年3月2日に刊行された、3万項目を超える索引、未収録の詩篇草稿、手帳断片、書簡、絵画などの補遺や新発見資料を収録した「[別巻]補遺・索引」で、全19冊が完結しました。

編纂校訂は、宮澤清六、天沢退二郎、入沢康夫、奥田弘、栗原敦、杉浦静。「【新】校本」のいちばんの特徴は、1巻が「本文」と「校異」の2冊に分かれているところでしょう。たえず変化、解体、転生する多くの初期形や先駆形を「本文」に掲載し、推敲異文のすべてを「校異」に記録している、あまり類例のない斬新な体裁をとっています。

「【新】校本」が完結する直前の、2008年1月10日付朝日新聞朝刊(北海道総合)の新年連載、先人からの伝言⑧「宮沢賢治 銀河鉄道の夢運ぶ」という記事を、たまたま私は書くことになりました。このとき、久々に賢治に再会した懐かしい気持ちになったのを覚えています。

新校本

遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった

 「札幌市」と題する賢治のこの詩の舞台は、札幌・大通西6丁目の大通公園らしい。そこに険しくそそり立つ石碑には、「開拓紀念碑」と刻まれている。
 「紀念」という漢字は、日本ではあまり使われない。詩も、碑と同じ「紀」になっていることなどから、この碑が「札幌市」の舞台だった可能性が高いというのだ。
 碑の裏には明治19(1886)年9月とある。賢治が見ていたとしても、おかしくはない。
   □   □
 旭川工業高等専門学校で哲学や文学を教えている石本裕之教授(49)は、賢治と北海道のかかわりを調べてきた。この詩について石本さんは、賢治が1923(大正12)年7~8月、北海道や樺太(サハリン)などに出かけた北方への旅の体験をもとに作られたとみる。前年、最愛の妹トシが亡くなっている。「青い神話に変へ」たのは「トシの死」。その痛切な悲しみをうたったと石本さんは解釈する。
   □   □
 賢治は、23年を含めて生涯に3度、北海道を訪れている。「札幌市」をはじめ「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」「旭川」など北海道に関係する詩は多い。よく知られた「風の又三郎」も、北海道からの転校生だ。だが、「賢治の北海道」が本格的に研究されるようになるのは、生誕100年を前にした90年代になってからで、それまであまり注目されなかった。
 23年夏の旅を中心に作られたオホーツク挽歌詩群と呼ばれる一連の詩は夜汽車の中で書かれた作品に始まり、代表作の「銀河鉄道の夜」とイメージが重なる。サハリンには「銀河鉄道の夜」に出てくる「白鳥の停車場」を連想させる白鳥湖もある。「いまや銀河鉄道の夜のモデルは、オホーツク挽歌の旅だというのは完全に定説になった」と石本さんはいう。
   □   □
 網走支庁大空町にある二つの図書館長をしている松岡義和さん(69)は「悔しくて、悔しくて」、最後の「銀河鉄道」には乗らずに見送った。
 06年まで北見市と十勝支庁池田町の140キロを結んでいた「ふるさと銀河線」は、松岡さんにとって賢治の「銀河鉄道」に重なる。子どものころからの鉄道好き。まだ国鉄のころ、高校まで毎日通学した。
 銀河線の中で、「銀河鉄道の夜」など愛する賢治作品を朗読したり、沿線で満天の星を観賞したりする催しを、仲間たちとしばしば開いた。「レールは東京にだってつながっている。鉄道は勇気を与えてくれました。そして賢治は夢を持ってきてくれました」
 廃止後も「銀河鉄道」への夢をあきらめない町もある。陸別町では、残された列車や線路を使い「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」を開業しようと準備する。中心になる同町商工会によれば「残された車両6両などを使って、旧陸別駅構内の約500メートルで体験乗車や体験運転をするところ」から始める。
 ささやかな再出発は「今年4月から」が目標だ。(松井潤)

 ◆ビュウティフル サッポロ
 1924(大正13)年に賢治は、花巻農学校の修学旅行に同行して北海道を訪れる。5月20日、札幌駅前の旅館に宿を取り、北大の植物園を訪れ、夜は希望者を引率して中島公園へ出かける。ボートに乗り、公園音楽堂で合唱し、狸小路の夜店を見る。そのときの印象が「『ビュウティフル サッポロ』の真価は夜に入りて更に発揮せられたり」と、旅行後書かれた「修学旅行復命書」にある。北海道で繰り広げられる近代的な農業や新しい街づくりに賢治は、東北の貧しい農村にはない「理想」を見ていたのかもしれない。

 ■宮沢賢治の略歴
1896年8月 現在の岩手県花巻市に生まれる
1913年5月 盛岡中学(現・盛岡一高)の修学旅行で北海道へ
 22年11月 妹トシ死去
 23年7月末から 函館、旭川、稚内、樺太などを旅行
 24年 5月 花巻農学校(現・花巻農業高)の修学旅行の引率で、小樽、札幌、苫小牧などへ。この年、「春と修羅」と「注文の多い料理店」を出版
 26年   花巻農学校を依願退職し農村での独居自炊生活に入る
 33年9月 死去
この記事を書いてから年月がだいぶたちましたが、いつか「全集」をきちんと読もうと思いながら仕事など忙しさにかまけて、いまだ賢治の文学ときちんと向かい合うことのないまま年を重ねてきました。しかし、全集読破の夢はいまだにあきらめてはいません。

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2014年01月03日

「春と修羅・序」① 因果交流電燈

きょうから再び賢治に戻って、【新】校本宮澤賢治全集第2巻(本文篇)にそって、断続的にこれから少しずつ、賢治の詩を読んでいこうと思います。まずは、生前に出版された唯一の詩集『春と修羅』(第1集)から。

心象スケッチ『春と修羅』(大正11、12年)は、1922~23年に作られた69編と、最初に置かれた「序」からなっています。「序」には、大正13(1924)年1月20日の日付があります。次にあげるのは、冒頭の1~2連です。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです

電燈

エジソンによって、電球が発明され、電気事業が一般の家庭にも供給されりようになるのは19世紀後半のこと。岩手県内で最初の電気会社は1905年の盛岡電気、花巻で初めて電灯が灯るのは1912年の花巻電気会社によるものでした。

それまでの石油ランプに代わって、東北の一般庶民まで電燈の恩恵に浴するようになるのは、電気会社が出来てからかなり経った大正の終盤になってからのことでしょう。“新しがり屋”の賢治らしく、電燈という生活に入ってきたばかりの、まさに文明の最先端にある素材を使って「有機交流電燈」という言葉で織り込んだわけです。

  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける

それは、揺れる心とともにある内面の意識と、電灯が点す外側の世界との対応と結びつきをうかがわせます。「わたくし」という実存の「現象」は、風景や人々といっしょに忙しく明滅しながらも、確かにともりつづける電燈の照明なのです。

とともに私には、こうした賢治の言葉から、当時生まれつつあった量子力学や相対論など新しい科学の息吹も感じるのです。

物理学の世界では“奇跡の年”ともいわれる1905年。アインシュタインは特殊相対性理論などとともに、光量子仮説を発表しています。光や電波のような電磁波にも、波としての性質とともに粒子としての特徴があることが示されたのです。

『春と修羅』の詩が作られていた1922年。11月17日から43日間にわたって、アインシュタインが来日しています。東北大学での講演もありました。

賢治の天性の言葉は、形成されつつある新しい物質観や時間の考え方をどこか敏感に捉えていたように思えます。

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2014年01月04日

「春と修羅・序」② 宇宙塵

「序」の3連目は、次のようになっています。

 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから) 

宇宙塵

子どものときに初めて「序」の朗読を聞いたとき、「宇宙塵」=写真=を「宇宙人」と勘違いしました。これはSFの話なのか、と奇妙に思ったお覚えがあります。

宇宙塵というのは、星間物質の一種で、宇宙空間に分布する固体の微粒子のこと。すい星などからはき出され,地球に突入して流星となるような物質を指すこともあります。

19世紀以来,深海底に堆積している土の中から発見された直径数十ミクロン(1000分の1ミリ)程度の球状の塵が宇宙起源のものと考えられ、宇宙塵と呼ばれるようになりました。

宇宙塵は、1立方メートルの空間に一粒あるかどうかというくらい少ないそうです。だから、たとえ人や海胆の体内に入っていったとしても、「食べる」という感触はないかもしれません。

でも、宇宙は広大です。いくら密度が希薄でも、長い時間がたてば十分な質量を持った暗黒星雲のような物体になることもあると考えられます。とすれな「銀河が宇宙塵を食べる」という表現が、みょうに真に迫ってくる気がします。

賢治は、宇宙塵の研究をリードしていたスウェーデンの科学者、アレニウスから大きな影響を受けていました。

「本体論」というのは、オントロギー。つまり、存在しているということは何を意味するかを究めていく、アリストテレス以来、形而上学の基礎になっている「存在論」のこと。

確かに、宇宙の新たな見方がパラダイムが生まれつつあった時代の存在論を考えるのに、「宇宙塵をたべながら」というのはピッタリはまりそうな気もしてきました。


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2014年01月05日

「春と修羅・序」③ 沖積世

きょうは「序」の第4連目です。27行の長い連ですが、未来を含めた地質学的なタイムスケールで眺めながら何度も読んでいくと、少しずつ分かってくる気がします。

  けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
     (あるひは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないとして感ずることは
  傾向としてはあり得ます
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
  記録や歴史、あるひは地史といふものも
  それのいろいろの論料〈データ〉といっしょに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  おそらくこれから二千年もたったころは
  それ相当のちがった地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるひは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

白亜紀

沖積世は、地質学の区分のうちで最も新しい時代(世)のことです。もともとヨーロッパで、この時代の地層がノアの洪水以降にできたと信じられて名づけられて区分によっていたため、科学的に厳密に定義しなおされたうえで、近年では「完新世」と呼ばれています。

これまでの最後の氷河期が終わる約1万年前から近未来も含めた現在までを指します。ヨーロッパの氷床が消えて地球全体が温暖化して氷河が後退。いまの人類の直接の祖先であるヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)が世界に広がって文明を築いていった時代です。

氷窒素は、窒素の固形化した気体のことらしい。斎藤文一著『宮沢賢治とその展開』によると、1924年に出されたオスロ大学のラース・ヴェガードの論文「固形化された気体(窒素)から発する光と宇宙現象」が、「気圏のいちばんの上層/きらびやかな氷窒素のあたりから」の発想と同じものだとか。機会を見て、この本を読んでみたいと思います。

白亜紀というのは、いまの地質の区分では、約1億4000万年前から6500万年前まで。恐竜が栄えた時代です。そんな白亜紀の地層面から「透明な人類の巨大な足跡」を発見するなんて、心がおどるのは私だけでしょうか。

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2014年01月06日

「春と修羅・序」④ 第四次延長

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

4

さて「序」の最終連はこの3行です。その1行目をみると、これまで読んできた「序」の4つの連で語られてきたことは「命題」と位置づけられるということになります。

すなわち、これらの文の内容や意味は、それが真か偽か、どちらかを判定することができる性質のもの、というわけです。

そして、これらの命題は「心象や時間それ自身の性質」であり、「第四次延長のなか」で主張される、といっているのです。では、これらの命題が主張される「第四次延長のなか」とは何なのでしょう。

【新】校本全集の「校異篇」によると、この最終連2行目にでてくる「時間」を「気?」と直しかけて中止しています。

  心象や気それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

となっていたかもしれないというわけです。さらに「第四次延長のなかで主張されます」という最終行には、いったん、

  以下スケッチの各項は
  四次構造にしたがひます

の2行が追加されています。そうした後で、この2行が赤鉛筆で削られています。ということは、「第四次延長のなか」というのは「四次構造にしたが」って、ということになるのでしょうか。

とすれば、私の座右の書『賢治のうた』の草野心平の註にある「四次元空間、時空世界。三次元の物理的空間に第四次元として時間の軸を考えたもの」というような、「第四次延長」は「時間」を指しているという通常の見方はグラついてくるように思われてきます。


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2014年01月07日

「春と修羅・序」⑤ アインシュタイン・ショック

「序」の最後の一行に出てくる「第四次延長」や、書き加えてから消した「四次構造」について、もう少し考えてみましょう。

賢治が「序」を書いた約1年後の1925(大正14)年2月9日の森佐一あての手紙には次のようあります。

〈前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。

私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考えを主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としてさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。

あの篇々がいゝも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした〉

科学史家の金子務は『アインシュタイン・ショック』で〈賢治の序詩や手紙から見て、第四次延長」や「四次構造」というキーワードを「歴史や宗教の位置を変換」する梃子(てこ)とした〉として、ベルクソン哲学と賢治との内的関係に照明をあてた小野隆祥の見解に注目しています。

小野は、賢治の「心象スケッチ」がベルクソン=<strong>写真</strong>、wikiから=の『形而上学序論』の中の「心像(イマージュ)」や「スケッチ」に発想源があった、と指摘するのだというのです。

小野隆祥は、京都学派の西田・田辺門下の哲学者で、賢治の母校、盛岡高等農林の教師も務めていた人だそうです。

ベルクソンのオックスフォード講演「変化の知覚」(綿田義富訳)の中に次のような一節があります。

〈哲学に於けるや、吾人は、現在を過去から決して分離しない習慣を附ける事が出来る。哲学によつて、一切の事物は深遠となる。

いや深遠だけではない。空間は三方面あるが、哲学によっては、更にその上に、第四方面を加へる事ができる。

といふ意味は、哲学によつて先在知識が、現在知覚と緊密に包含し、又、間近の将来が、一部分現在に於いて、自ら顕示する事を得る、と云ふ事である。〉

小野はこの記述に注目し、文中の「第四方面」が、賢治の関心が深い仏教学者木村泰賢の『原始仏教思想論』で(死後転生する場面が空間的・半物質的霊魂ではなく)「第四階の範囲に属す」という形に転用され、こうした「第四階」「第四方面」が賢治にとっての「第四次延長」になったという仮説を、文献的に追究しているというのです。

小野によれば――

〈賢治の「心象スケッチ」は現在の瞬間瞬間を感ずるまま捉えるのが特色であるが、また賢治の刹那滅の意識によくマッチするものでもあった。刹那をも永遠をも把握できるのが心象スケッチであった。

そういうことから、賢治がベルグソンのいう「空間の第四方面」や「生と運動との永久」の観念に同感して、それを自分なりに「第四次延長」と表現したことは十分に想像できる。

つまり「第四次延長」は単に時間的長さではなくて、世界の深さであり、生動する深さであろう。あるいは過去・現在・未来が一体的に融合発展するベルグソン的な持続であろう。〉(「宮沢賢治作品の心理学的研究」)

すなわち、「第四次延長」というのは単に時間的長さではなく、「ベルグソン的な持続」だというわけです。

「持続」というのは、ベルクソンの哲学の主要な考え方のひとつで、間断ない意識の流れのことを意味しています。

たとえば、ある音楽に聞き入っているときの意識の流れは逆向きにしたり、切り刻んだりすることはできません。言葉や概念から離れて聞き入ったりしていると、そこに意識が直接与える流れを感じます。

その流れは、計ることが出来ず、戻ることもなく連続している。止めようがなく自発的に生まれてきます。

ざっというと、こういうあたりをベルクソンは「純粋持続」と呼んでいるようです。純粋持続は、幾何学によったり、空間として表現したりすることができるものではありません。

ですから、アインシュタインの特殊相対性理論を定式化する枠組みとして用いられる、通常の3次元の空間に1次元の時間を組み合わさせて時空を表現する4次元世界(ミンコフスキー空間)と、「過去・現在・未来が一体的に融合発展」するベルクソン的な持続というのとは、どうも異質なように思われます。

それでは「序」の最後に置かれた賢治のキーワード、「第四次延長」というのはミンコフスキー空間のことなのでしょうか、ベルクソン的な持続的な世界なのでしょうか。

これまでだけでも、十分にややこしい理屈ばかりで申し訳ありませんが、金子務の労作『アインシュタイン・ショック』にそって次回、もう少しだけ探ってみましょう。

ショック

金子務は『アインシュタイン・ショック(第Ⅱ部)』の中で、アインシュタインとベルクソンの思想的関係を底辺に置き、宮沢賢治を頂点とする「三角形」を想定。アインシュタインと賢治の「辺」、ベルクソンと賢治の「辺」のどちらがより賢治を支えているかを眺める興味深い視点で「第四次延長」や「四次構造」について考察しています。

詳細はこの本を読んでいただくとして、ここでは、これから『春と修羅』を読んでいくうえで参考になりそうな金子の結論的な部分を抜き出して、ひとまず「序」を終え、詩集の詩を読み始めたいと思います。

以下は、『アインシュタイン・ショック(第Ⅱ部)』からの抜粋です。

賢治は、ミンコフスキー=アインシュタイン的四次元時空(世界)という存在の理法に透けて見える仏性、絶対者との合一を希求したが、それを詩人として表現する実践の場においては、持続するベルグソン的な自己を梃子とする心象スケッチを綴ることしかあり得なかった。

〈アインシュタインかベルグソンか、という二者択一の争点は、賢治にとっては表現されるべき世界と表現すべき方法という世界と方法、在るものと見えるもの(動くもの)の相補的関係に解消され、融合していったのではないかと考えられる。

賢治が「すべてこれらの命題は/心象や時間それ自身の性質として/第四次延長の中で主張されます」という時、「これらの命題」は、『春と修羅』の各詩篇であり、これらが固有の言葉の彩りと配列を持つ、すなわち固有のイメージ空間を作る心象スケッチなのである。

それらは外部にあるのではなく、修羅と自覚した賢治自身の内なる目に、心の目に映る心象なのであり、それを展開して、紙に筆で表現することを、つまり、詩作という実践活動を、永遠の相の下に第四次延長で主張する、といったのであろう。

そして、赤鉛筆で消された元の文章にあるように、これらの詩篇の固有なイメージ空間が、さらに共通な言葉にいわばローレンツ変換されること(相対性原理の要請)によって、全体が四次元的イメージ連続体として、「不滅の四次の芸術」として、消えることなき絶対の作品に化することを自負したのに違いない。

それをのちにまた消したのは、一時的にそれだけの自信が揺らいだためであったろう。〉


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2014年01月08日

「屈折率」㊤  こつちのひとつ

きょうから、『春と修羅』の中の冒頭、「屈折率」を読むことにしましょう。9行だけの短い詩です。

     屈折率

  七つ森のこつちのひとつが
  水の中よりもつと明るく
  そしてたいへん巨きいのに
  わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
  このでこぼこの雪をふみ
  向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
  陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに
      (またアラツディン 洋燈〈ラムプ〉とり)
  急がなければならないのか

七ツ森

『宮澤賢治語彙辞典』には、この詩について次のように解説しています。

〈現実の生活を屈折率によって明るく見える「こつちの」森にたとえ、自らに課した未来の人生を「向ふ」の亜鉛の雲にたとえ、「陰気な郵便脚夫のやうに/(またアラツディン 洋燈とり)/急がなければならないのか」と、内面的決意を視覚化した作品となっている。この場合の屈折率は、蜃気楼と同様、現実から遠いことの象徴である。〉

「七つ森」は、盛岡市の西方、雫石町との境の近くにある。大森(沼森)、石倉森、鉢森、稗糠(ひえぬか)森(貝ノ森)、勘十郎森、貝立(かいだち)森、三角(みかどの)森の七つの山からなります。

いわゆる“秋田街道”沿いにあり、小岩井駅から南西約1キロほど。高さは300メートル前後。ダムの建設や採石などのために、いまでは賢治のころとは景観はずいぶん変わってきているようです。

ためしに、行分けをしないでカッコの部分を外し、現代の平叙文の表記にして「屈折率」を眺め直してみることにしましょう。

〈七つ森のこっちのひとつが、水の中よりもっと明るく、そしてたいへん大きいのに、
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ、このでこぼこの雪をふみ、向こうの縮れた亜鉛の雲へ、陰気な郵便脚夫のやうに、急がなければならないのか。〉

このように、カッコの行を除けば、ひとつの文で構成されている詩といえます。

前半は従属節。七つ森のことを述べて、「おおきいのに」と逆接でつながっていきます。七つの森の一つが非常に大きくて、それは、水の中よりもっと明るい。

水の中は外界より暗い感じもしますが、詩人には「水の中は明るい」という認識がある。それは、水のなかに射した、屈折光による明るさなのでしょうか。

そうした水の中よりも、七つ森の「こっち」のひとつは、もっと明るい。やや不思議な感じもしますが、魅力的な比較になっています。

さて、後半は主節です。これからの歩みについて述べ、最後に自問しています。「わたくし」は、「でこぼこ凍ったみち」を、「でこぼこの雪」を、ふんでゆく。

どっちに歩みを進めていくかというと「向こうの縮れた亜鉛の雲」、すなわち目的地は「向こう」にある「亜鉛の雲」ということになります。

その歩みは、のんびりあちこち寄り道をして、というわけにはいかないようです。「陰気な郵便脚夫」ということは、下のほうでも向いて行き会う人と言葉も交わさずに歩くイメージでしょうか。

ただし、配達時間に間に合うように急ぐ必要に迫られている、ということになります。

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2014年01月09日

「屈折率」㊥ 兄のトランク

「屈折率」を読み解くうえで、私にとってもっともわかりやすく、納得できたなと思えた解説は、賢治の弟、宮沢静六著『兄のトランク』の中にありました。

それは、これから『春と修羅』を読んでいくうえでの道しるべにもなると思いますので、少し長くなりますが、ここで引用させていただきたいと思います。

トランク

〈黒い外套の襟を立て、ガッチリ広い肩をして、深く深くうなだれ、またときどき立ちどまってあたりを見ながら、岩手山の方へ歩いて行く、二十七歳の『春と修羅』の著者を考えよう。
     *
大正十一年一月六日の小岩井農場には、三、四尺も雪がつもり、農場行の橇は粉雪を吹き上げながら走ったろう。

そのときブリキ色の雲の切れ目から、棒のような光線が、七つ森の中の一番近くを黄金いろに照らした。

七つ森というのは、丁度同じ位の大きさの森が七つならんでいるのだが、こんな風に明るい光線があたれば、その森だけが特別に巨きく見えて来る。もちろん此れは我々の眼の水晶体が短焦点のレンズに切替えられる為であろう。

ところがこんどはそこらの景色が、丁度水の底のように見えて来て、光線も変に屈折して輝いて来たようだ。

手帳を握って、彼は次々不思議なことを考えながら七つ森を見ている。

(空気の屈折率は、真空に対してさえ殆ど絶対に近いと思うから、あんな風に光が屈折することはない筈だ。

然し雲の裂け目を通過するとき、上層と下層の空気の密度があんまり違って来れば、あんな風に屈折することもあるのだろうか。

それともおれの目だけにそう見えるのか。

あるいは、雲が特別に不思議な状態で、例えばあのブリキ色をした雲の中に、酵母のようなこまかな吹雪の粒がたくさん入っていて、雲それ自身がプリズムのように、光線に特別な変化を与えるということも一応は考えられる。)

そんな風なことを考えながら七つ森の方を見ていたが、やがて、きくっと首をまげ、大きな字で手帳へこんな詩を書きつける。

  七つ森のこつちのひとつが
  水の中よりもつと明るく
  そしてたいへん巨きいのに
  わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
  このでこぼこの雪をふみ
  向ふの縮れた亜鉛の雲へ
  陰気な郵便脚夫のやうに

そこまで書いたとき、その棒のような光線はいよいよ不思議にゆがんで屈折し、ギラギラ輝いて無数の色に分散し、その辺がまるで躍り上るように見えて来た。

ほんとうにその吹雪の入った雲を、七つ森の上に装着した巨大なダイヤモンドのプリズムであると考えなければならなくなったのである。

驚いて彼は見ていたが、このような景色をたしかにどこかで前に見たことがあったと思い、やがてはっきりそれを思い出したのであった。

それはあの「宝石探検者(シンドバツト)の舟」や「アリババと四十人の盗賊」の話、アラビアン夜話(ナイト)の国のなかに違いなかった。

  アラツデイン 洋燈(ラムプ)とり

と手帳へ大きな字で、そして今までの詩より少し下げて書く。

そんなときはもはや、彼の頭のなかに、その「千夜一夜物語」中の傑作が一度に鮮かに浮んで来るのである。〉


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2014年01月10日

「屈折率」㊦ アラジン

ブリキ色の雲の切れ目から、七つ森の中の一番近くを黄金色に射した棒のような光線。それは、不思議にゆがんで屈折し、ギラギラ輝いて無数の色に分散し、あたりが躍り上がるように見えてきた。

そして、その雲を、七つ森の上に設えた巨大なプリズムと思えてくる。このような景色をどこかで見たことがある。千夜一夜物語の『アラジンと魔法のランプ』が、賢治の頭の中に浮かんできた。

アラジン少年は、叔父をかたる魔法使いにそそのかされて、穴倉のにある魔法のランプを手にする。ランプを擦ると魔神があらわれた。魔神はランプを擦った人の願いを叶える力があり、アラジンはその力で大金持ちになり、王女と結婚する。だが魔法使いがランプを奪い取り、アラジンの御殿ごと王女連れ去ってしまう。しかしアラジンは指輪の魔神の力をなどによってランプを取り返す。

子どものころ読んだ『アラジンと魔法のランプ』はだいたいこんな話だったと思います。賢治の頭の中にあったこの物語のどんな光景が、七つ森の雲のプリズムと重なったのでしょうか。それはともかく、以下、宮沢清六『兄のトランク』から昨日の続きを引用しておきます。

〈彼がこれらの譚の思い出に要る時間がまたほんの一寸の間なのだ。

先刻手帳へ「陰気な郵便脚夫のやうに」と書いたときから、彼の持っている時計の秒針は二秒とも経(す)ぎていないのに、彼の気持の方は、何時間もの間、アラッディンの譚や、その物語からすぐやって来るアラビアン・ナイトへの連想や、その夜話の英訳書にある綺麗な三色版の挿画や、続いてその物語を主題とした、リムスキー・コルサコフの四つの交響曲「シエラザード」のことなどまで走馬燈のように思い出すのである。

さて今彼が計画し、前人未踏の自信に満ちて、これから書こうと思っている心象スケッチという難事業について、第一の難関は、この一度に飛躍し、無軌道に奔翔する心象の明滅を、どんな風にして詩に書き表すかという問題である。

勿論、彼は此の頃、心理的に考えた時間という概念が、秒針の歩みをダイヤルの面の距離で表わした時計の時間と、全然別個のものであることは知り過ぎる程知っているのであるから、尚更実に当惑して了うのである。

何故ならば、今の二秒間の考えを、若しも仮に全部書き取ることに成功したならば、此の詩の中へ数冊の詩集や、童話集のようなものや、音曲集の類まで入れなければならないし、これを克明に書かないことは、心象スケッチとして甚だ杜撰なものになると考えるのである。

(彼は此の問題と今一度、真正面から格闘する為に、同年五月二十一日にも小岩井農場に来て詩を書いた。その時に出来たのが、この「屈折率」にもなかったような実に克明な心象スケッチ「小岩井農場パート一、二、三、四、五、六、七、八」の各詩篇であり、春と修羅の初期に於ける克明な心理記録絵巻である。)

そこで、彼はいろいろ考えた末、此の〝アラツデイン 洋燈とり〟という言葉を括弧で括り、三行だけ下げる方式によってこの飛躍した心理記録に変え、残念ながら此の日はこれで我慢しなければならなかった。〉

賢治が「アラツデイン 洋燈(ラムプ)とり」と丸カッコでくくり、3字下げにしたのは、歩いていてぶつかった自然の景色から、賢治の頭の中に瞬間的に連想されたこの物語の光景をとりあえず書き留めたメモだった、というのが清六さんの分析ということでしょうか。

実に面白く、さすがに説得力があります。賢治の詩におけるカッコの使い方には常々関心がありましたが、「屈折率」においては、このときの「飛躍した心理記録」としてこうした表現形態を取ったということになります。

そして、「屈折率」で“さわり”にとどめた心象スケッチは、「小岩井農場」=写真=という克明な心象記録絵巻として展開されるというこんとになります。そのあたりは「小岩井農場」を読んだときに、あらためて検討し直しましょう。

屈折率2

ここでは、とりあえず「屈折率」についての清六さんの解説を以下、最後まで引用するだけにとどめ、次の詩を読み進むことにします。では、『兄のトランク』からの引用の続きの終わりの部分です。

〈今や太陽光線の屈折は最高点に達し、その不思議極まるスペクトルの作用は怪奇を極め、煌めく無数の虹はその辺を此の世のものとは思えない程に照らし、彼も全く躍り上る様である。

従って二十七歳の若い彼の心象までが、多少屈折し誇張されるのは当然であろう。

(アラッディンの洋燈というのは、ジョバンニの切符であり、宝珠「貝の火」であり、竜と詩人の「陀羅尼珠」であり、そしてナモサダルマプフンダリーカサスートラである。

この洋燈を持つものこそ、アラッディンになれるのである。)

という考えがひらめき、今括弧で括った言葉の上に〝また〟という二字が書き入れられ、

   (またアラツデイン 洋燈とり)

となるのである。

このように書かれている間に、七つ森の上のブリキ色の雲はどんどん大きく拡がって来て、太陽もぼんやりと霞んでしまい、寒い風といっしょにその辺がうすぐらくなって、たったいまのあの飛躍した幻想などは、遠い昔の夢の中のように消えてしまう。そこは淋しく平凡な、さっきの小岩井農場の冬野原である。

それにもう、酵母のような粉雪が少しずつ飛んで来て、七つ森もぼんやり霞んでしまう。そこで彼はまた前のように黒いオーバの襟を立て、深くうなだれながら、岩手山の方へ向ってあるき出し、手帳の詩の最後に、

急がなければならないのか

と書き、凍えた手でその詩の題を「屈折率」と記すのである。〉 

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2014年01月11日

「くらかけ山の雪」

賢治の『春と修羅』のつづき、きょうは「くらかけ山の雪」です。

   くらかけ山の雪

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝〈くす〉んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにあんな酵母〈かうぼ〉のふうの
朧〈おぼ〉ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです
   (ひとつの古風〈こふう〉な信仰です)

くらかけ

私の座右の書、草野心平編『賢治のうた』には、「序」の後に「屈折率」を省略して「くらかけ山の雪」が載っています。解説はありませんが、詩の下にモノクロの写真が一枚。壮大な岩手山の右側の裾の手前に、コブのように山が一つ見えます。写真の説明には「岩手山とくらかけ山(右手前)」。どうも、この小さな山が「くらかけ山」のようです。

鞍掛山=写真=は、岩手山南東に位置する標高897メートルの山。2041メートルの岩手山に比べるとやはり、かなり低い。小岩井農場や柳沢方面から見ると、東岩手山の手前に見える。岩手山の寄生火山と言われているようです。

賢治の「国立公園候補地に関する意見」(1925.5.11)という詩には、鞍掛山について次のように書かれています。

いったいこゝをどういふわけで
国立公園候補地に
みんなが運動せんのですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山ぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwateとでも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな

これにも見られるように、この小さなくらかけ山を賢治は寄生火山どころか、岩手山よりもむしろ古い火山と見ていたようです。

   (ひとつの古風〈こふう〉な信仰です)

という表現も、「古い山」であるという認識が根底にあるからでしょう。低くて小さな山だけれども、それだけの信頼感がある。だから、「たよりになるのは」「ほのかなのぞみを送るのは」くらかけ山の雪、というところにつながるのでしょうか。

「くらかけ山の雪」についても、宮沢清六『兄のトランク』にあった「残された詩集と童話の中から、その日の軌跡と見るべき切断面」を拾い集めたという文章の一部から、おおよそをつかんでみましょう。以下は『兄のトランク』からの抜粋です。

〈ゆきがかたくはなかつたやうだ、なぜならそりはゆきをあげた、たしかに酵母のちんでんを、冴えた気流に吹きあげた。

東の遠くの海の方で、空の仕掛けを外したやうな、ちひさなカタツといふ音が聞え、いつかまつしろな鏡に変つてしまつた太陽の面を、なにかちひさなものがどんどんよこ切つて行くやう。

風はだんだん強くなり、足もとの雪はさらさらうしろへ流れ、間もなく向ふの林に、パツと白いけむりのやうなものが立つたとともふと、もうすつかり灰色に暗くなる。

丘の稜はあつちもこつちも、みんな一度に、軋るやうに切るやうに鳴り出す。

そんなはげしい風や雪の声の間から、すきとほるやうな泣声が、ちらつと聞える。

そんなことでだまされてはいけない、ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる、それにだいいちさつきからの考へやうが、まるでそつくり銅版刷だ。

おれはなにをびくびくしてゐるのだ、どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは、ひとはみんなきつと斯ういふことになる。

ひゆう、ひゆう、ひゆう、ひゆひゆう。
さあ降らすんだよ。飛ばすんだよ。飛ばすんだよ。

雪童子は顔に血の気もなく、きちつと唇をかんで、つづけざまにせはしく革むちをならして行つたり来たりし、雪婆んごの叫ぶ声、雪狼の息の声、もう丘だか雪けむりだか空だかもわからない。

さあはつきり眼をあいて、たれにも見え、明確に物理学の法則にしたがふ、これら実在の現象のなかからあたらしくやりなほせ。

この不可思議な大きな心象宙宇のなかで、もしも正しいねがひに燃えて、じぶんとひとと万象といつしよに、まことの福祉に至らうとするならば……。

もうけつして淋しくはない、なんべんさびしくないといつたところで、またさびしくなるのはきまつてゐる、けれどもここはこれでいいのだ、すべてさびしさと非傷を焚いてひとは透明な軌道をすすむ。

風がだんだん静まり、そこらが少しほつとしたやうになつて来る。

岩手山も見えないし、七つ森も見えないし、どこをどんな風に歩いたかも、方角がどうなつてゐるのかもわからない。

それに野はらもはやしも、ぽしやぽしやしたり黝〈くす〉んだり、すこしもあてにならない。
それではあてになるのはなんだ!
たよりになるのはなんだ!
たよりなるのは……。

     *

そのとき、突然雲のさけめから、一閃、不思議に屈折した太陽光線が、紫水晶の棒のように落ちて来て、向うに真白くきらきらした山が浮き出して来る。
「くらかけ山だ!」
と雷に打たれたように、彼は躍り上ってしまう。
この一瞬の、この一閃光の、その刹那の思いこそは、(或いは修羅の十億年)一切であった。〉

ところで、「くらかけ山の雪」で、「まことにあんな酵母のふうの」とある「酵母」は、子嚢菌類に属する菌類で、アルコール酵母やパン酵母などは、食生活に欠かせない。白い円や雲の形をしているところから、賢治の場合、雲や雪、吹雪に見立てたりしています。

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2014年01月12日

「日輪と太市」

    日輪と太市

  日は今日は小さな天の銀盤で
  雲がその面〈めん〉を
  どんどん侵しかけてゐる
  吹雪〈ふき〉も光りだしたので
  太市は毛布〈けっと〉の赤いズボンをはいた

「くらかけ山の雪」の次に出てくる「日輪と太市」は、1922年1月9日の日付があります。稗貫農学校の教師になったばかりの25歳のときの作品です。

層雲

賢治は、層雲=写真=や霧のかかった太陽を「銀の盤」と表現しました。確かに層雲の底は灰色をしていて、細氷や霧雪を降らします。

「太市」は、原子朗によれば、賢治が花巻川口小学校の3、4年時に、担任の八木英三が半年がかりで読んで聞かせた、五来素川訳の『まだ見ぬ親』の主人公名「太一」に由来するそうです。

この本は、マロの『家なき子』の大胆な本邦初訳で、主人公のレミを太一にしたほか、育ての母を「お文どん」にするなど、登場人物を日本名に変えているとか。聞いて感動した賢治に「太一」のイメージが焼き付いていたのでしょうか。

「けっと」は当時、外套の代わりにはおったりしていたようです。中でも、1900年ごろから「赤けっと」をまとうことが流行していたようです。「けっと」の「赤いズボン」というのですから、相当にハイカラなのか、それとも、おのぼりさん的な感じに受け取るべきなのでしょうか。

いずれにしても、上から覆う灰色の「銀の盤」、そこに吹雪が光り出し、ハヤリの「赤いけっと」が加わる。色彩のコントラストが、なかなか鮮やかです。

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2014年01月13日

「丘の眩惑」

「日輪と太市」の次の詩「丘の眩惑」には、1922年1月12日の日付があります。

  丘の眩惑

ひとかけらづつきれいにひかりながら
そらから雪はしづんでくる
電〈でん〉しんばしらの影の藍青〈インデイゴ〉や
ぎらぎらの丘の照りかへし

  あそこの農夫の合羽〈かっぱ〉のはじが
  どこかの風に鋭く截りとられて来たことは
  一千八百十年代〈だい〉の
  佐野喜の木版に相当する

野はらのはてはシベリヤの天末まつ
土耳古玉製〈ぎょくせい〉玲瓏〈れいらう〉のつぎ目も光り
    (お日さまは
     そらの遠くで白い火を
     どしどしお焚きなさいます)

笹の雪が
燃え落ちる、燃え落ちる

インディゴ

インディゴ(Indigo)=写真=は、青藍の色を出す染料、または顔料や絵の具としても用いられます。いま最もなじみがあるのは、青いジーンズの染色でしょう。繊維に強く定着しないため、着古したり洗濯を繰り返すうちに徐々に染料が落ちていきます。

天然インディゴの大部分は熱帯植物のコマツナギ属 (Indigofera) から得られます。インディゴ染色の最も古い中心地はインドであったとされます。ローマ人はインディゴを顔料、医療用、化粧品として用いていました。アラブの商人によってインドから地中海に輸入されました。エジプト古王朝時代の亜麻布にも見られるそうです。

日本ではかつてタデ科の蓼藍が使われていました。が、綿の輸入と栽培を行うようになった江戸時代、綿の繊維をアイ以外で染めるのは困難だったためアイが重要になりました。アイは、青い海や自然が思い起こされ、浴衣の色としても、日本人に欠かせないものになっています。

ここに出てくる「佐野喜の木版」というのは、広重の浮世絵かなにかを連想しているということなのでしょうか。農夫の合羽のはじが風で「截りとられ」たワンショットが、広重などの浮世絵のどれかにぴったり「相当」するというのは、なんとなく分かる気がしてきます。

それにしても「笹の雪」が「燃え落ちる」というのは美しい表現です。以下、詩の中の言葉をざっと検討しておきましょう。

●佐野喜兵衛は江戸時代後期の版元。
文政-天保(てんぽう)(1818-44)のころの草双紙(くさぞうし),人情本,版画などの出版元。江戸芝にすみ,喜鶴(きかく)堂の屋号で「佐野喜(さのき)」と称した。
広重の「江戸名所」「花鳥大短冊」などを出版した。

●土耳古(トルコ)玉=写真、WIKIから
タキス。一般的にはトルコ石といわれる、青から緑色の不透明な鉱物。化学的には水酸化銅アルミニウム燐酸塩。
数千年の昔から装飾品とされてきた。大プリニウスの『博物誌』に「カッライス(callais)」として登場する宝石が現在のトルコ石の古名に当たるという。古フランス語で「トルコの」を表す形容詞だった"turquoise"が、青の色みの一つを表すようにもなった。
現在のイラン周辺は、2000年来トルコ石の主要な産地として知られ、9世紀以来、トルコ系王朝が興亡を繰り返したホラーサーンに最も古い鉱脈があった。最初にヨーロッパに認識された「トルコ石」がトルコ人の国のものであったわけだ。
ペルシャの詩人はトルコ石の色を雲のない夏空にたとえたが、賢治も晴れ上がった青空の比喩に使っている。

●玲瓏
本来は、玉などが美しく透明に輝く様子をいうが、賢治はしばしば半透明な様子を表現するのに用いている。

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2014年01月16日

「カーバイト倉庫」

ここで再び賢治の『春と修羅』にもどり、次は「丘の幻惑」と同じ1923・1・12の日付がある「カーバイト倉庫」です。

  カーバイト倉庫

まちなみのなつかしい灯とおもつて
いそいでわたくしは雪と蛇紋岩〈サーベンタイン〉との
山峡〈さんけふ〉をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてつめたい電燈です
  (薄明〈はくめい〉どきのみぞれにぬれたのだから
   巻烟草に一本火をつけるがいい)
これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない

炭化カルシウム

「カーバイト倉庫」は、岩手軽便鉄道(いまの釜石線)の岩根橋駅近くにあった工場。1919(大正8)年に盛岡電気工業が水力発電所付近に建設し、その電力を利用した。

カーバイト(炭化カルシウム)=写真、wiki=はアンモニア、アセチレンガス、石灰窒素などの原料。石灰窒素は化学肥料として使われるが、この固定には大量の電気が必要になった。

カーバイト製造は日本の電熱利用化学工業の濫觴で、農業の近代化のシンボルとして賢治は関心を寄せていたようだ。

「蛇紋岩」(じゃもんがん)は、かんらん岩などが水と反応して蛇紋岩化作用を受けることによって生成される岩石で、表面に蛇のような紋様が見られることから命名された。

風化作用を受けやすく、もろくて崩れやすい性質がある。そのため、蛇紋岩で形成された山岳では、滑落事故が起こりやすい。

岩石の表面は、スメクタイトなどの粘土鉱物を含み滑らかな平らになっていることが多く、断層などの滑り面には鏡のような光沢ができることもあります。

蛇紋岩の美しいものは貴蛇紋石の名で細工物にされる。

北上山地の蛇紋岩は①盛岡を起点として早池峰山を通るもの②日詰から岩根橋、種山ヶ原の南、五輪峠へと延びるもの③日詰と気仙沼を結ぶほぼ直線的な構造線に沿うものの三つの帯に多い。詩にうたわれているのは②のことか。

「擦過」は、かすること。幻覚的、視覚的、触覚的な感覚表現として、賢治の作品の中でよく登場する。

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2014年01月17日

「コバルト山地」

次の詩は「コバルト山地」です。

  コバルト山地

コバルト山地の氷霧のなかで
あやしい朝の火が燃えてゐます
毛無森(けなしのもり)のきり跡あたりの見当です
たしかにせいしんてきの白い火が
水より強くどしどしどしどし燃えてゐます

北上山地

コバルトは、鉄に似た灰白色の金属。ドイツ語で地の妖精を意味するコーボルトに由来する。コバルト鉱物は冶金が難しいため、コーボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけたものと考えられていた。

合金やメッキに用いられる。酸化コバルトは、ガラスなどを青色に着色する原料として使われる。その群青色は、空の色の比喩として用いられることが多い。

コバルト山地は北上山地=写真、wiki=のことで、早朝の北上山地の山肌の色を表現したようだ。

氷霧(ひょうむ)は、気温が低いとき、水蒸気が凝結して微細な氷の結晶となって、霧のように立ちこめて視界をさえぎる。

毛無森は、北海道から東北にかけて円山型の山に多く付けられている。「毛無」は、アイヌ語のケナシの当て字。木が無いのではなく、木がよく茂った山を意味するといわれる。

岩手県に、毛無森は四カ所ある。コバルト山地が北上山地と考えられるところからすると、早池峰連山から西へ続く尾根筋にある、北上山地の一峰(1424メートル)だろうか。


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2014年01月18日

「ぬすびと」

次は1922年3月2日の日付がある「ぬすびと」です。

   ぬすびと

青じろい骸骨星座のよあけがた
凍えた泥の乱反射をわたり
店さきにひとつ置かれた
提婆〈だいば〉のかめをぬすんだもの
にはかにもその長く黒い脚をやめ
二つの耳に二つの手をあて
電線のオルゴールを聴く

電線

「骸骨星座」という星座があるわけではないようだ。3月2日の夜明けに見えるのは夏の星座。一等星など明るい星座が目立つ。明け方の薄暗い空に、こうした明るい星々が残っている状態を、骸骨にたとえたのでしょうか。

提婆は、梵語のデーバ(deva)の音写。天、天神のことをいう。だから「天の神のものである大切なかめ」というようにニュアンスか。

宮沢家が保存している『春と修羅』には、「青磁のかめ」と書き直されているそうです。

「電線」が連なっている姿はたしかに「オルゴール」のようでもあり、「電線」という弦が弾かれて音楽が聞こえて来そうでもあります。

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2014年01月19日

「恋と病熱」

次は、1922年3・20の日付がついた「恋と病熱」です。


恋と病熱

けふはぼくのたましひは疾み
烏〈からす〉さへ正視ができない
 あいつはちやうどいまごろから
 つめたい青銅〈ブロンヅ〉の病室で
 透明薔薇〈ばら〉の火に燃される
ほんたうに けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない

透明バラ

「たましひは疾み」というのは、恋か?。相手は、この詩を書いたころ出会ったとみられる、農学校の生徒の姉で看護師の卵だった沢田キヌだろうか?

彼女が盛岡市の日赤病院で働いていたころ、賢治は盛んにラブレターを送ったが、キヌの父親に「もう近づかないでくれ」といわれて、結局「片思い」に終わったようだ。

賢治は、熱をあらわすときに「透明薔薇」という表現をしばしば使う。異常が高温に耐えている妹への愛情から、病床で苦しむ妹が透明薔薇に昇華されているのか。その後、賢治自身が熱に侵される作品も書かれる。


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2014年01月20日

「春と修羅」① 波打つかたち

いよいよ「春と修羅」に入ります。「1922・4・8」の日付があります。

賢治の詩のうち「文語詩篇」を除くすべての作品が、『春と修羅』(第1集、第2集、第3集、第4集)のなかにおさまるようになっています。ホイットマンの『草の葉』と似ています。

そのなかで「春と修羅」というタイトルが付いた詩はこれだけです。

仏教では、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上を六道といいます。

11世紀ごろ国内では、六道の各々に配当された六地蔵があちこちに祀られ、庶民から信仰されました=写真

六道

六道の中で、人間と畜生の間に位置づけられるのが修羅です。賢治は、自らを修羅と感じるところから出発します。

2連構成。一連目の中ほどは大きく波を打つかたちの配列になっています。

   春と修羅

      (mental sketch modified)

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲〈てんごく〉模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾〈つばき〉し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路〈めぢ〉をかぎり
れいろうの天の海には
 聖玻璃〈せいはり〉の風が行き交ひ
  ZYPRESSEN 春のいちれつ
   くろぐろと光素〈エーテル〉を吸ひ
    その暗い脚並からは
     天山の雪の稜さへひかるのに
     (かげろふの波と白い偏光)
     まことのことばはうしなはれ
    雲はちぎれてそらをとぶ
   ああかがやきの四月の底を
  はぎしり燃えてゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ
 (玉髄の雲がながれて
  どこで啼くその春の鳥)
 日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
      その枝はかなしくしげり
     すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
   ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

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2014年01月21日

「春と修羅」② 琥珀

「春と修羅」を、最初のほうから少しずつ見ていきましょう。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲〈てんごく〉模様

「はいいろはがね」は、灰色鋼。いらいらした憂鬱な心模様を表現しているのでしょう。

あけびは、山地に自生する落葉つる性の低木。茎はつるになっています。「あけびのつる」はいろんなものに巻き付いて、古くなると木質化します。ここでは「くも」にからまるイメージ。

葉は5つの楕円形の小葉が掌状につく複葉で、互生。4 - 5月に紫色の小花をつけます。実は熟すと縦の割れて、甘い果実がみえる。「開け実」から名前がつきました。

のばらは、茎が2メートルくらいでトゲがあります。初夏に2センチくらいの白い花をたくさんつける。実は赤色球形で薬用になります。

諂曲〈てんごく〉というのは、自分の意志を曲げて他の人に媚びへつらうことをさしています。賢治が自分の心象をかたちにしたものが「諂曲模様」なのでしょう。

日蓮の『観心本尊抄』には、「数ば他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平かに、或時は貪り現じ、或時は癡(おろか)現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡なるは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり」とあります。

日蓮は、諂曲を修羅の特性ととらえているわけです。これを賢治は現実の「模様」としてイメージしています。
 
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾〈つばき〉し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

コハク

「琥珀」(コハク、Amber)=写真=は、白亜紀や第三紀の木の樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月のあいだに化石化したもの。「琥」の文字は、中国で虎が死後に石になったものだと信じられていたことに由来するといいます。

鉱物に匹敵する硬度をもつ。黄色を帯びたあめ色のものが多く、不透明のものから半透明のものまである。バルト海沿岸で多く産出するため、ヨーロッパでは古くから知られ、宝飾品として珍重されてきました。

賢治は、早くから岩手県久慈郊外の大川目の第三紀層から産出される琥珀に親しんでいた。この地方では「薫陸(くんろく)」とも呼ばれています。

「気層」は、大気の層のこと。等圧面に対して大気は水平に層をなしているとかつては考えられていた。天を層状に考えるという点では、宇宙は四つの段階を一周期として永遠に変化するとされるインドの段階宇宙観と似たところがあります。

気層の「底」というとらえかたは、こうした段階宇宙観の影響を受けているようです。


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2014年01月22日

「春と修羅」③ ZYPRESSEN

詩「春と修羅」のつづきです。

(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路〈めぢ〉をかぎり
れいろうの天の海には
 聖玻璃〈せいはり〉の風が行き交ひ
  ZYPRESSEN 春のいちれつ

「眼路」は、目で見通せる範囲。眼界。眺むれど目路にも霧の立ちぬれば心やりなる月をだに見ず(和泉式部集)

「れいろう」(玲瓏)は、基本的に、玉などが、美しく透き通り、曇り無く輝くさまをいうが、賢治はよく半透明な様子にも用いています。

「聖玻璃」は、ガラスの古称の玻璃に「聖」をかぶせて、教会の飾り窓をイメージした造語のようだ。山村暮鳥の詩集に『聖三稜玻璃』(1915)があります。

zypressen

ZYPRESSENは、ドイツ語のZYPRESSE=写真=の複数形。イトスギ(糸杉)のこと。地中海沿岸地方原産のヒノキ科の針葉樹で、サイプレス、セイヨウヒノキ(西洋檜)ともいいます。

枝はあまり広がらずに幹が高なり、細くて高い樹冠をなし、世界の各地で公園樹や造園樹として重用されている。

イギリスの邸宅ではドアがイトスギで作られる。きれいな円錐形になるためクリスマスツリーに使われる一方、死の象徴として墓地によく植えられる。

イエス・キリストが磔にされた十字架は、イトスギ製という伝説がある。ギリシア神話では、美少年キュパリッソスがイトスギに姿を変えられた、とされる。

花言葉は死、哀悼、絶望。古代エジプトや古代ローマでは神聖な木として崇拝されていた。フィンセント・ファン・ゴッホがよく絵画の題材にしたことでも知られる。

ZYPRESSENを使っているのは、ヨーロッパ種のイトスギを賢治がイメージしているのだろう。ZYPRESSENの繰り返しは心象のリズムを刻み、超現実的なシンボルとしての性格をもっているようです。

   くろぐろと光素〈エーテル〉を吸ひ
    その暗い脚並からは
     天山の雪の稜さへひかるのに
     (かげろふの波と白い偏光)
     まことのことばはうしなはれ
    雲はちぎれてそらをとぶ

「天山」は天山山脈のことを思い描いているのか。中央アジア、タクラマカン砂漠の北及び西のカザフスタン、キルギス、中国の国境地帯にある山脈。南はパミール高原につながります。

最高峰はポベーダ山(7,439 m)。次に高いのはハン・テングリ(7,010 m)でカザフスタンとキルギスの国境にある。トルガルト峠(3,752 m)がキルギスと新疆ウイグル自治区の境界に位置しています。

天山山脈を源流としてシルダリヤ川、タリム川などが流れる。2013年、6月の世界遺産委員会で、キルギスとの国境の山、ポベーダ山も含めてUNESCOの世界遺産に登録されますた。

「光素(エーテル)」 は、主に19世紀までの物理学で、光が伝わるのに必要だと思われた媒質を表しています。光の波動説では、惑星などの運動を妨害しないエーテルという極めて小さな物質が宇宙に充満していると想定されていました。後に光の電磁波説では物質ではなく媒質と考えられ、アインシュタインの相対性理論で完全に否定されます。

エーテルの語源はギリシア語のアイテール (αιθ?ρ)。アイテールの原義は「燃やす」または「輝く」で、古代ギリシア以来、天空を満たす物質を指して用いられました。

エーテルは賢治の宇宙観を支える重要な概念です。賢治が使う「虚空」や「真空」はエーテルや電子が満ちた空間、すなわち勢力(エネルギー)を伝播しうる空間です。

賢治は、外界を内在化するために、外界の情報としての光とその伝播を媒介するエーテルに大きな関心を持っていました。エーテルは、精神の最小粒子のモナドと重なったようです。

「かげろう」(陽炎)は、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象。晴れて日射が強く、風があまり強くない日に、道路のアスファルト、自動車の屋根部分のうえなどに立ち昇る、もやもやとしたゆらめき。蜃気楼の意味でこの言葉を使うこともあります。

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2014年01月23日

「春と修羅」④ 日輪青く

詩「春と修羅」のつづきを読んできます。

  ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(玉髄の雲がながれて
 どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
  修羅は樹林に交響し
   陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
     その枝はかなしくしげり
    すべて二重の風景を
   喪神の森の梢から
  ひらめいてとびたつからす
  (気層いよいよすみわたり
   ひのきもしんと天に立つころ)

玉髄

「玉髄」=写真、wiki=は、石英の非常に細かい結晶が網目状に集まり、緻密に固まった鉱物。屈折率1・54で、不透明。美しいものは宝石として、飾り石や数珠などの装飾品、高級な食器などに加工されて利用される。赤っぽい紅玉髄(カーネリアン)、緑色の緑玉髄、縞状模様ぼめのう(アゲート)、不純物を多く含み不透明な碧玉(ジャスパー) など含まれる物資によっていろんな色がある。

石器時代には、石器の素材として珍重され、江戸時代には火打石としても用いられた。賢治は、少年時代から鬼越山や滝沢の玉随に親しんでいて、雲の喩えによく使っています。

「日輪」は太陽、天日。「天の椀」は、天を穹窿 (きゅうりゅう、ドーム)に見立てた比喩。椀は、中をえぐり取った木の器。

「喪神」は入神の逆で、正気を失ってぼんやりしている放心状態をいう。賢治の場合はより神秘的で、修羅意識にかかわる心象のイメージとして使っている。ここでは、生気のないほの白い日輪の射す森をいっているのでしょうか。

地上と空との接点の役割を「梢」がになっています。「からす」はハシブトガラスか。


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2014年01月24日

「春と修羅」⑤ けら

きょうは、一連目の最後の部分です。

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

蓑

「けら」は、東北の方言で蓑(みの)=写真、wiki=。語源は、農夫たちの着た姿が昆虫の螻蛄に似ているからとも、材料の「毛わら」の訛りからとも言われる。蓑と違って裾を編み放しにせず、切りそろえて、裏をござ編みにしたものを言うこともある。材料は藁や湿地に生えるクゴ、マダ(シナノキ)、ブドウの樹皮などが用いられた。

「気圏」は地表上、大気の存在する範囲のこと。ロケット観測で、上空700kmぐらいまでの気温、気圧、密度などの垂直分布がわかっている。地上20kmまでに大気の95%が存在している。

賢治は気圏を海の中のイメージでとらえていた。自らを海底に住むとされる修羅に喩えているのが関係している。気圏=水溶液という科学的宇宙観を記したとも考えられる。コロイド溶液を使った描写が多く、生物体がコロイドでできていることから、宇宙と生物とのコロイド的共通性が念頭にあったらしい。

気圏は、賢治の天上世界への憧憬と海中生物から陸上爬虫類、さらに鳥類へという進化論をふまえた生物学的時間軸と強く結びついていた。

「まこと」は、コト(言・事)に接頭辞の真(マ)がついたもの。日本の古代文化、文学のキーワードである「まこと」は、真事=真言、すなわち純一な事と言の等質、等価を信じるところに「まこと」があり、言霊もそこに発生した。

仏教ではmantraの漢訳として「真言」をあてて、仏のいつわりのない真実の言葉のことをいう。賢治の作品中では、苦悩に裏打ちされ「修羅」の意識とも対立する、存在の永遠性を保証する意志の力として、仏教的な求道の力として描かれています。 


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2014年01月25日

「春と修羅」⑥ 微塵

最後は、「春と修羅」を締めくくる2連目の6行です。

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

微塵

みじん(微塵)は量を表す仏教語。物質を最も微細な点まで分割したものを極微と呼ぶ。一極微を中心に上下、四方、合わせて七つの極微が集まったものが微塵。人間の目には見えないが天人や菩薩の目には見えるとされる。極微は原子、微塵は分子といったところだ。微塵を物質の最小単位として極微と同義に用いることもある。

〈仏教的ヒュマニティと禁欲的大乗精神が彼の詩全体を貫く根幹をなしている。そして「このからだそらのみじんにちらばれ」は「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という彼の生活を通じての希望の象徴的表現、その最初の言葉がこれである〉と、草野心平(『賢治のうた』)。

「いてふ」(公孫樹)は、中国原産。高さ30メートルにもなる。雌雄異株で春、黄緑の花をつけ、実は銀杏として食用。

「春と修羅」は全52行。46行までの前半部と6行の後半の2部構成。生命と世界の本質である明るい4月の自然に合一することができぬひとりの修羅として「まことのことば」を失い、怒り、悲しみ、涙する「おれ」の独白で貫かれています。

栗原敦は、〈いずれにせよ、「まことのことばはうしなはれ」、「まことのことばはここにな」いがゆえに、「修羅のなみだはつちにふる」のである。罪人の自覚にも似たこの「かなしみ」を解き放つ道は、宇宙の微塵にちらばる捨身の祈り以外にない、そのように彼は考えている。〉(『文学探訪・宮沢賢治』)といいます。


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2014年01月26日

「春光呪詛」

「春と修羅」の次の詩「春光呪咀」には、1922・4・10の日付があります。

  春光呪咀

いつたいそいつはなんのざまだ
どういふことかわかつてゐるか
髪がくろくてながく
しんとくちをつぐむ
ただそれつきりのことだ
  春は草穂に呆(ぼう)け
  うつくしさは消えるぞ
    (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
頬がうすあかく瞳の茶いろ
ただそれつきりのことだ
       (おおこのにがさ青さつめたさ)

春

稗貫農学校の教諭になって、初めての入学式も終わり、春もたけなわ。そんなときに、神仏や悪霊などに祈願して災いが及ぶようにのろう「呪詛」というのは、なんとも物騒な題名です。

賢治は25歳。「髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ」、「頬がうすあかく瞳の茶いろ」の女性に、胸を焦がすような恋をしているのでしょう。

そうしたつきあげてくる恋慕の情、欲望を「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか」と、懸命に打ち消そうとするいじらしい姿が浮かぶようです。

そして「ただそれつきりのことだ」と、自らを説得し、念を押すように繰り返す。春の暖かな陽射しを呪うほどに嫌忌しなければならない。それほど賢治にとって春は特別な季節なのでしょう。

「場内がしんとした」というように、静かで、声や音が聞こえないさまを表す副詞として使われるのがふつうの「しんと」。それが、ここでは「しんとくちをつぐむ」と、女性の清楚な所作をうまく修飾する表現として使われていて、新鮮です。

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2014年01月27日

「有明」㊤ 散乱のひかり

「春日呪詛」の次は、私の好きな「有明」です。日付は1922・4・13となっています。

有明

起伏の雪は
あかるい桃の漿(しる)をそそがれ
青ぞらにとけのこる月は
やさしく天に咽喉(のど)を鳴らし
もいちど散乱のひかりを呑む
  (波羅僧羯諦〈ハラサムギヤテイ〉菩提〈ボージユ〉薩婆訶〈ソハカ〉)

真空

以下、栗原敦著『文学探訪・宮沢賢治』を参考に、この詩を眺めてみましょう。

「有明」は、明けがた、月がありながら夜が明けてくるころ。この詩の日付、1922年4月13日の月齢は16日、ほぼ満月といっていい。

前の夜、夕刻に東から昇った円い月が、夜明けに西空に傾いて、明るくなっていく青空に消えていく景色が目に浮かびます。

日が昇る前、すでに明るい東空に照らされて春の野にまだ残っている「起伏の雪」は、「あかるい桃の漿をそそがれ」たように輝いて、「青ぞらにとけのこる月」が、あたりに「散乱」する「ひかり」を「やさしく天に咽喉を鳴らし」て「呑む」かのようだという。

「月」を擬人化しているわけだ。大空と野原の起伏、一面を包むひかりの生命観。月のしぐさである「やさしく」と、消える前の最後の味わいを楽しむかのような「もいちど」が効いています。

harutoshura at 22:18|PermalinkComments(0)

2014年01月28日

「有明」㊦ 般若心経

   きのうに続いてもう一度「有明」を読んでおきましょう。

起伏の雪は
あかるい桃の漿(しる)をそそがれ
青ぞらにとけのこる月は
やさしく天に咽喉(のど)を鳴らし
もいちど散乱のひかりを呑む
  (波羅僧羯諦〈ハラサムギヤテイ〉菩提〈ボージユ〉薩婆訶〈ソハカ〉)

般若

最後にある「波羅僧羯諦菩提薩婆訶〈ハラサムギヤテイボージユソハカ〉」は、大乗仏教の根本思想である空の理法を簡潔に説いた教典『般若心経』=写真=の末尾に置かれた祈りの言葉で、「すべて彼岸へ行った者よ、悟った者よ、幸いなれ」といった意味です。

賢治は「いまはいざ/僧堂に入らん/あかつきの般若心経/夜の普門品」という歌を作っています。

月が主体になっているが、実際に賢治自身、寄宿舎の舎監室か宿直室ででも夜を明かし、青空にのこる月が「やさしく天に咽喉を鳴らし/もいちど散乱のひかりを呑む」ように思える光景を目撃したのでしょうか。

栗原敦は「自我と外界の境が取り払われ、宇宙と自分が解け合って輝く恍惚の境地、自我が壊れたのではなく、認識の主体である明瞭な自意識は保たれながら、汚れが払われた輝きの世界と融合し至上の喜びを感じている状態として、この純粋至高体験が味わわれていた。

これこそが世界の〈まこと〉を信じさせるもの、〈まことの世界〉をのぞき見た体験として受け止められた。仏教的なことばを用いれば、法界成仏の実感をこれによって確証したということであろうか。

これこそは、迷妄を離れた者、彼岸に行った者、悟れる者の世界だと認識する時、自ずから最後に『般若心経』末尾の祈りの言葉が引き出されることになったのであった」としています。


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2014年01月29日

「谷」

「有明」の次は、「1922・4・20」の日付のある9行の詩です。

  谷

ひかりの澱
三角ばたけのうしろ
かれ草層の上で
わたくしの見ましたのは
顔いつぱいに赤い点うち
硝子様(やう)鋼青のことばをつかつて
しきりに歪み合ひながら
何か相談をやつてゐた
三人の妖女たちです

谷

「澱」は「おり」。「よどみ」と読むこともある。
液体の中に混ざっている細かい固形物が下のほうに沈殿したもの。どんよりと濁ったり、水などの流れが滞って淀むことをいう。

賢治は、重苦しい都会の光や空気、山麓をおおう雲の形容などに用いることが多い。この場合、光が滞って淀んでいるように見えたのか。

「鋼青」は、詩人の造語。『銀河鉄道の夜』には「濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新しく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐすきっと立ったのです」。鋼を加熱加工して表面にできる酸化被膜の色をイメージすればいいのか。

賢治の詩について中原中也は、1934年に書いた文章で「主調色は青であり、あけぼのの空色であり、彼自身を讃ぶべき語を以ってすれば、鋼青である」と評した。

「三人の妖女たち」には、シェークスピアの『マクベス』が頭にあってか。マクベスと同僚のバンクォウは、3人の妖女と出会い、「マクベスは将来王になる」、「バンクォウの子孫は代々王になる」と告げられる。これを機にマクベスは王になるため、悪の道へはまっていく。

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2014年01月30日

「陽ざしとかれくさ」

「谷」のつぎにくるのは、「陽ざしとかれくさ」(一九二二、四、二三)です。

  陽ざしとかれくさ

    どこからかチーゼルが刺し
    光(くわう)パラフヰンの 蒼いもや
    わをかく わを描く からす
    烏の軋り……からす器械……
(これはかはりますか)
(かはります)
(これはかはりますか)
(かはります)
(これはどうですか)
(かはりません)
(そんなら おい ここに
 雲の棘をもつて来い はやく)
(いゝえ かはります かはります)
    ………………………刺し
    光パラフヰンの蒼いもや
    わをかく わを描く からす
    からすの軋り……からす機関

チーゼル

「チーゼル」(teasel)=写真、wiki=は、マツムシソウ科のラシャカキソウ(羅紗掻草)。オニナベナとも呼ばれる。ヨーロッパ原産の2年草で、太く直立する茎は1・5~2メートル。茎や葉裏にも棘があり、秋に薄紫色の小さな花を密生した頭状花序をつける。

花や果実の毛は乾燥すると堅くなり、先が鉤状に曲がっているのでラシャ生地や毛糸を掻いて起毛に用いるので、ラシャカキソウの名がついている。

枯れ草となった原っぱに寝ころんででもいて、からだのどこかをチーゼルの棘がちくりと刺したのだろうか。

「パラフヰン」(paraffine)は、常温固体のメタン系炭化水素。白色半透明蝋状で臭いはなく、蝋燭や軟膏の基剤として用いる。賢治の場合、蝋の色のイメージで、霧、雲、もやの形容に使うことが多い。

「からす**」というのは、「烏猫」「烏揚羽」「烏石」のように、物の名に冠して黒い意味を表す。「からす器械」「からす機関」というと、黒い、蒸気機関や汽車をイメージさせる。

烏が鳴く「軋り」を、「からす器械」「からす機関」と「……」で結んで並べて表記してあると、その声が、かたちをなし、実体としてつたわってくる。

(これはかはりますか)(かはります)、(これはどうですか)(かはりません)。そんななか、空からは2人の不思議な会話が聞こえてくる。それは、賢治の心の中でささやかれているのかもしれない。

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2014年01月31日

「雲の信号」

次は、なにか爽快な気分にさせてくれる「雲の信号」です。

   雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしやう)だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲(かゝ)げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる

753

「岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなわち一つの山である」と「楢ノ木大学士の野宿」にある。「岩頸」は、火口内のマグマが硬くなってできた形成物。

火山が侵食によって削られて、筒の柱のような特有のかたちの地形になる。その下にはマグマ溜まりがあって、その圧力で火山爆発を起こすこともある。

岩手県の岩頸の山としては、盛岡市市街地の西方、雫石町と矢巾町との境にある南昌山(標高848.0m)=写真=がよく知られている。特徴的な椀状をしていて、赤林山、箱ヶ森、毒ヶ森と並ぶ連山。竜神の山として地元の信仰を集めている。

「岩鐘」は、岩頸に語呂を合わせて賢治が作った言葉のようだ。火山で噴出した粘り気の強い溶岩が、釣鐘状に固まったトロイデ(鐘状火山)のことと考えられている。

「四本杉(しほんすぎ)」は、旧花巻農学校(現花巻文化会館)の北の地名。花巻駅から西へ1キロ。4株の大きな杉があったことから名付けられた。

雁(がん、かり)はカモ目カモ科の水鳥。日本列島へは、マガン、ヒシクイなどが冬鳥としてやってきて、東北地方の伊豆沼・内沼周辺などで越冬する。

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2014年02月01日

「風景」

次は、「風景」(1922・5・12)です。

   風景

雲はたよりないカルボン酸
さくらは咲いて日にひかり
また風が来てくさを吹けば
截られたたらの木もふるふ
 さつきはすなつちに廐肥(きうひ)をまぶし
   (いま青ガラスの模型の底になつてゐる)
ひばりのダムダム弾(だん)がいきなりそらに飛びだせば
  風は青い喪神をふき
  黄金の草 ゆするゆする
    雲はたよりないカルボン酸
    さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ

たらのき

「カルボン酸」は、酢酸、シュウ酸、脂肪酸などカルボキシル基(親水性)を有する化合物の総称。脂肪酸は、炭化水素鎖の末端の水素1個が、カルボキシル基で置換された構造をもつカルボン酸。カルボン酸とアルコールの反応によってエステルができる。

賢治はカルボン酸や脂肪酸を雲の形容に用いるが、それは長鎖脂肪酸の白蝋色から雲を連想したという見方や化学構造式が雲の形に似ているからという説がある。

「たらの木」=写真、wiki=は、ウコギ科の落葉低木。高さ2~5メートル。花巻での方言ではタラボウともいう。あまり枝分かれせずにまっすぐに立ち、葉は先端に集中する。樹皮には幹から垂直に伸びる棘がある。

葉は50-100cmにも達する大きなもので、草質でつやはない。葉柄は長さ15-30cmで基部がふくらむ。小葉は卵形~楕円形で長さ5-12cmで裏は白を帯びる。

夏に小さな白い花を複総状につける花序を一つの枝先に複数つける。秋には黒い実がなる。新芽を「たらのめ」「タランボ」などと呼び、天ぷらなどに調理される。茎はすりこぎになる。

分類上は幹に棘が少なく、葉裏に毛が多くて白くないものをメダラ var. cansecens (Fr. et Sav.) Nakai といい、むしろこちらの方が普通とのことである。現実的には両者混同されていると見るのが妥当であろう。
秋に

「廐肥」は、「きゅうひ」。「うまやごえ」「こやし」「こえ」と読むこともある。家畜などの糞尿と、藁などを混ぜて腐らせた肥料で、四角く束にして保存したり運んだりする。

「ダムダム弾」は小銃の弾。命中すると破裂して傷口を広げるので、1907年の第2回ハーグ会議で使用禁止になった。ダムダム(dumdum)は、イギリスがインドのダムダム造兵廠でつくったことから付いたとされる。

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2014年02月02日

「習作」

次は、「1922・5・14」の日付がある「習作」です。

習作

キンキン光る
西班尼(すぱにあ)製です
  (つめくさ つめくさ)
こんな舶来の草地でなら
黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい
と ┃ また鞭をもち赤い上着を着てもいい
ら ┃ ふくふくしてあたたかだ
よ ┃ 野ばらが咲いてゐる 白い花
と ┃ 秋には熟したいちごにもなり
す ┃ 硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ
れ ┃  立ちどまりたいが立ちどまらない
ば ┃ とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ
そ ┃ みきは黒くて黒檀(こくたん)まがひ
の ┃  (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
手 ┃ このやぶはずゐぶんよく据ゑつけられてゐると
か ┃ かんがへたのはすぐこの上だ
ら ┃ じつさい岩のやうに
こ ┃ 船のやうに
と ┃ 据ゑつけられてゐたのだから
り ┃ ……仕方ない
は ┃ ほうこの麦の間に何を播いたんだ
そ ┃ すぎなだ
ら ┃ すぎなを麦の間作ですか
へ ┃ 柘植(つげ)さんが
と ┃ ひやかしに云つてゐるやうな
ん ┃ そんな口調(くちやう)がちやんとひとり
で ┃ 私の中に棲んでゐる
行 ┃ 和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて
く ┃ さうだ

黒檀

「西班尼(スパニア)」はスペインのこと。漢字で書く場合、ふつうは「西班牙」が使われる。英語読みで近年はスペインと呼んでいるが、スペイン語では「エスパニャ」。

「黒檀(こくたん)」=写真=はカキノキ科カキノキ属の熱帯性の常緑高木。原産はインド南部からスリランカ。柿に似た葉や丸い実をつけるが、幹は直立して樹皮が黒い。中身の材質も黒くて堅く、きめが細かく磨くと光沢が出るので装飾家具や楽器に用いられる。「みきは黒くて黒檀まがひ」は野ばらのイメージ。

「柘植さん」は、柘植六郎。賢治が教えを受けた盛岡高等農林の教授で、園芸などを専門にした。

「和賀」は岩手県中西部の地域で、秋田県との県境の1000メートル級の山々が連なる和賀山塊や国内最大級のブナの巨木のある原生林などで知られる。かつては多くの鉱山があって賑わい、賢治はひんぱんに出かけている。かつては和賀軽便軌道が敷設され、軌道と道路の両側に松並木が植えられていたようだ。

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」は、北原白秋作詞、中山晋平作曲の「恋の歌」の一部。1919(大正8)年の元日から有楽座で公演された「カルメン」の劇中歌のひとつ。カルメン役の松井須磨子は、5日目の舞台を済ませた後、島村抱月のあとを追って自殺した。

この「習作」では、縦書きの詩行の上に、横書きでこの文が並んでいて、歩行スケッチの大胆な試みと考えられる。

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2014年02月03日

「休息」

次は、「1922・5・14」の日付のある「休息」です。

  休息

そのきらびやかな空間の
上部にはきんぽうげが咲き
 (上等の butter-cup〈バツタカツプ〉ですが
  牛酪〈バター〉よりは硫黄と蜜とです)
下にはつめくさや芹がある
ぶりき細工のとんぼが飛び
雨はぱちぱち鳴つてゐる
 (よしきりはなく なく
  それにぐみの木だつてあるのだ)
からだを草に投げだせば
雲には白いとこも黒いとこもあつて
みんなぎらぎら湧いてゐる
帽子をとつて投げつければ黒いきのこしやつぽ
ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く
あくびをすれば
そらにも悪魔がでて来てひかる
 このかれくさはやはらかだ
 もう極上のクツシヨンだ
雲はみんなむしられて
青ぞらは巨きな網の目になつた
それが底びかりする鉱物板だ
 よしきりはひつきりなしにやり
 ひでりはパチパチ降つてくる

バターカップ

「きんぽうげ」の初夏に咲く黄色いカップ形の花を、英名で「butter-cup〈バツタカツプ〉」=写真、wiki=という。キンポウゲは、田畑や小川べりなどに生えているキンポウゲ科キンポウゲ属の黄色い花で、植物分類学的には、ウマノアシガタ、タガラシ、キツネノボタンなどをいう。

「牛酪〈バター〉」はバターの福沢諭吉の訳。ヨーロッパで食品として一般化したのは、13世紀ごろ。日本では「白牛酪」というバターに近いものが江戸末期につくられたが、本格的に製造されたのは1873(明治6)年から。西洋料理やパン食の普及とともに受け入れられるようになった。

「牛酪〈バター〉よりは硫黄と蜜とです」とあるように、賢治は色彩的な比喩によく用いた。

「しやつぽ」は、フランス語の帽子「chapeau」による。日本で帽子が一般普及するようになったのは明治に入ってからで、洋装の普及や断髪の流行と密接に関係する。1871(明治4)年に散髪廃刀令が出ると、帽子の買い占めも起きたという。

このころから帽子のことをしゃれた言い回しとして「シャッポ」と呼ぶようになった。いまでも「シャッポを脱ぐ」という言葉が残っている。礼服用の高帽子(シルクハット)、軍隊や警察、鉄道、郵便などの制帽である平帽子(ケップ)、一般にかぶる丸帽子などがある。「きのこしやつぽ」はキノコに似ている帽子か。

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2014年02月04日

「おきなぐさ」

次に読む詩は「1922・5・17」の日付がある「おきなぐさ」です。

     おきなぐさ

風はそらを吹き
そのなごりは草をふく
おきなぐさ冠毛〈くわんもう〉の質直〈しつぢき〉
松とくるみは宙に立ち
  (どこのくるみの木にも
   いまみな金〈きん〉のあかごがぶらさがる)
ああ黒のしやつぽのかなしさ
おきなぐさのはなをのせれば
幾きれうかぶ光酸〈くわうさん〉の雲

おきな草

「おきなぐさ」=写真、wiki=は、キンポウゲ科の多年草。根茎は直立し、太い根があり、根生葉を叢生する。春、内側が茶色の花がやや下向きに咲く。全体が白毛におおわれている。白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭にたとえ、翁草(オキナグサ)という。山地の日当たりのよい草原や河川の堤防などに生育する。花が、能楽の善界で大天狗善界のかぶる赤熊に似ているため別名に「善界草」など。うずのしゅげ、うずのひげ、おばがしら、ちごちごなどの地方名もある。

賢治には「うずのしゅげを知っていますか。うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。そんならうずのしゅげとはなんのことかと言われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。それはたとえば私どもの方で、ねこやなぎの花芽をべんべろと言いますが、そのべんべろがなんのことかわかったようなわからないような気がするのと全くおなじです。」ではじまる美しい童話「おきなぐさ」もある。

「冠毛」は、萼の裂片が変形したもので、子房の先端に毛状に着き、風で種子が遠くまで飛んでいく。「質直」は通常、地味でまじめ、質朴なさまをいう。

「光酸」は、光の酸、あるいは光が燦々としている意か。賢治の造語で、輝きふりそそぐ光がものをまぶしく照らし、瞬間、光に溶けるように見える状態を“酸化”のようにとらえて感覚的に表したように思われる。

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2014年02月05日

「かはばた」

次は「かはばた」という題の短い詩。「1922・5・17」の日付があります。

  かはばた

かはばたで鳥もゐないし
(われわれのしよふ燕麦(オート)の種子(たね)は)
風の中からせきばらひ
おきなぐさは伴奏をつゞけ
光のなかの二人の子

エンバク

鳥もいない川べり、光の中を歩いてゆく子ども二人。しょっている燕麦(エンバク)=写真、wiki=とは、イネ科カラスムギ属の穀物。1~2年草。カラスムギ、オートムギ、オーツ麦、オート、マカラスムギとも呼ばれる。

家畜飼料になるほか、子実はアルコールや味噌の原料に用いられ、オートミールとして食用される。秋蒔きと春蒔きとに分かれる。ライムギと異なり、冷涼を好むが耐寒性は高くないため、寒冷地では凍害を受け冬を越せないことが多い。そのため、温暖な土地では秋蒔き、寒冷地では春蒔きを行うことが通例である。

コムギやオオムギ畑の雑草だったエンバクが約 5000 年前に中央ヨーロッパで作物化。鉄器時代に本格的に栽培されるようになった。中世、三圃式農業が確立すると、エンバクはオオムギとともに1年目の春耕地に蒔かれ、主に飼料用として利用された。

馬の飼料用が中心で、食用とするのはスコットランドなどに限られた。18世紀に入るとスコットランドで肉の消費量の急減とともにエンバクの消費量が急増した。1870年代にエンバクを工業的にフレーク化する技術が開発されると、食品会社がオートミールの大量生産に乗り出し、19世紀末以降アメリカで急速に普及した。

種子は飼料または食用として、藁は飼料として利用される。畑で生育中のエンバクをそのまま土壌に鋤きこみ、緑肥としても利用される。食用とする場合、エンバクは利用しやすいよう押し麦や引き割り麦とするか製粉される。脱穀し乾燥させて粒を加熱してローラーをかけるとフレークとなる。

穀物食品の中ではミネラル、タンパク質、食物繊維を最も豊かだが、グルテンを含まないため小麦ほどパンの原料には向かない。 オートミールに玄米や麦などを混ぜ、蜂蜜や油を混ぜて焼き、ドライフルーツを混ぜてできあがったのがグラノーラ。

日本には明治時代初期に導入され、特に北海道において栽培された。日本では馬の飼料、特に軍馬の飼料として栽培が奨励されたため、戦前には栽培面積が10万ヘクタールを割り込むことはなく、第二次世界大戦中の1940年から1944年にかけては131080ヘクタールを数え最高を記録した。

現在、日本においては北海道で生産され、国内向けのオートミール用に出荷されている。ほかに各地で栽培されているが、輪作の一環として飼料用や緑肥用とされるのがほとんどで、食用としての収穫はほとんどない。

イングランドでは小麦は食用、燕麦は飼料用のイメージが強かったが、スコットランドでは、エンバクは主食としての地位を確立していた。スコットランド人嫌いの詩人・批評家サミュエル・ジョンソンが同時代の辞書に残した燕麦の有名な定義がある。

Oats : A grain, which in England is generally given to horses, but in Scotland appears to support the people. (燕麦:穀物の一種で、イングランドでは馬を養い、スコットランドでは人を養う)

これにスコットランド人が激怒したが、サミュエル・ジョンソンの弟子でもあったジェイムズ・ボズウェルは、ユーモアを込めて次のように反論したという。

Which is why England is known for its horses and Scotland for its men.(そのため、イングランドはその産する馬によって名高く、スコットランドは人材において名高い)

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2014年02月06日

「真空溶媒」① 光冠

次は、250行近くある長編詩「真空溶媒」(1922・5・18)。最初から少しずつ言葉を追って、見ていくことにします。

  真空溶媒

     (Eine Phantasie im Morgen)

融銅はまだ眩〈くら〉めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなつたり陰〈かげ〉つたり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさつきからゆれてゐる
おれは新らしくてパリパリの
銀杏〈いてふ〉なみきをくぐつてゆく
その一本の水平なえだに
りつぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはつて
そらをすきとほしてぶらさがつてゐる
けれどもこれはもちろん
そんなにふしぎなことでもない
おれはやつぱり口笛をふいて
大またにあるいてゆくだけだ

光冠

溶媒とは、物質を溶かす液体のこと。工業では溶剤と呼ばれることも多い。水のほか、アルコールやアセトン、ヘキサンのような有機物も多く用いられる。賢治はこれに「真空」を付けて、大気の透明感や絶対温度の感覚を与えている。

「真空溶媒」は気圏の大気そのものの比喩として使われる。「Eine Phantasie im Morgen」とは、ドイツ語で「朝の夢想」といった意味。

「融銅」はどろどろに熱に溶けている銅。ぎらつく太陽にたとえられる。「ハロウ」は、青白い光の円盤が見える光冠=写真、wiki=のように、大気中の水蒸気による光の屈折作用が作り出すもの。「白いハロウも燃えたたず」とは、雲に遮られて太陽がおぼろに光っている様子か。

賢治は「硝子(ガラス)」を光るものや透明なものの比喩に用いている。大正時代には国内でガラスの自給ができるようになり、都市の一般家庭にも窓ガラスやガラス戸が普及するようになっていた。

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2014年02月07日

「真空溶媒」② チモシー

 「真空溶媒」のつづきを読んでいきます。

いてふの葉ならみんな青い
冴えかへつてふるへてゐる
いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき
白い輝雲〈きうん〉のあちこちが切れて
あの永久の海蒼〈かいさう〉がのぞきでてゐる
それから新鮮なそらの海鼠〈なまこ〉の匂
ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた
こんなににはかに木がなくなつて
眩ゆい芝生〈しばふ〉がいつぱいいつぱいにひらけるのは
さうとも 銀杏並樹〈いてふなみき〉なら
もう二哩もうしろになり
野の緑青〈ろくしやう〉の縞のなかで
あさの練兵をやつてゐる

チモシー

「銀杏」(いてふ、Ginkgo biloba)は、イチョウ科の落葉高木。イチョウ綱の中で唯一の現存している種なので、生きた化石と呼ばれる。実を「ぎんなん」と呼ぶが、これは「銀杏」の唐音読み「ぎん・あん」からきている。1819年には、ゲーテが『西東詩集』のなかで Ginkgo の名を用いている。

中国原産の落葉高木。高さは20~30m。葉は扇形で葉脈が付け根から先端まで伸びている。葉の中央部が浅く割れている。原始的な平行脈を持ち、二又分枝する。雌雄異株であるため、雄株と雌株があり、実は雌株にのみになる。

4~5月に新芽が伸びた後に雌花、雄花とも開花する。実が結実するには雄株の花粉による受粉が必要だ。種子は11月ごろ熟成すると、果肉は軟化しカルボン酸類特有の臭気を発する。アヒルの足のような形の葉は、秋には黄色く黄葉し落葉する。 

alcohol(アルコール)瓶は、酒精(エタノール)あるいは木精(メタノール)の入ったびん、「輝雲」は、光が四方に広がってかがやかしい雲のことか。

「海蒼」とは、牧草として栽培されるイネ科の多年草チモシー=写真=の葉の緑色をさす。チモシーの和名はオオアワガエリ。ヨーロッパ原産だが、牧草としてはアメリカで広まり、日本には明治初期に北海道に導入された。北海道や東北地方を中心に栽培。道端や空地に野生化している。草丈は50cm~1m。晩春から初夏に円柱状の穂を出す。

「海鼠〈なまこ〉」は、棘皮動物門のうち、体が細長く口が水平に向くなどの特徴を共有する一群。不活発な動物で、海底をゆっくりと這っている。多くのナマコがデトリタス(海底に堆積した有機物)を餌とし、触手で集めて食べる。

敵の攻撃を受けると内臓を放出するものがある。熱帯性のナマコの多くはキュビエ器官という白い糸状の組織を持ち、刺激を受けると肛門から吐き出す。キュビエ器官は動物の体表にねばねばと張り付いて行動を邪魔する。マナマコなどキュビエ器官を持たないナマコは、腸管を肛門や口から放出する。

「緑青(ろくしょう)」は、銅が酸化されることでできる青緑色の錆。銅合金の着色に使用されたり、銅板の表面に皮膜を作り内部の腐食を防ぐ効果や抗菌力がある。賢治作品では、顔料の緑青をいう。


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2014年02月08日

「真空溶媒」③ ゾンネンタール

 「真空溶媒」のつづきを読んでいきます。

うらうら湧きあがる昧爽〈まいさう〉のよろこび
氷ひばりも啼いてゐる
そのすきとほつたきれいななみは
そらのぜんたいにさへ
かなりの影〈えい〉きやうをあたへるのだ
すなはち雲がだんだんあをい虚空に融けて
たうとういまは
ころころまるめられたパラフヰンの団子〈だんご〉になつて
ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ
地平線はしきりにゆすれ
むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が
うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて
あるいてゐることはじつに明らかだ
(やあ こんにちは)
(いや いゝおてんきですな)
(どちらへ ごさんぽですか
  なるほど ふんふん ときにさくじつ
  ゾンネンタールが没〈な〉くなつたさうですが
  おききでしたか)
 (いゝえ ちつとも
  ゾンネンタールと はてな)
 (りんごが中〈あた〉つたのださうです)
 (りんご、ああ、なるほど
  それはあすこにみえるりんごでせう)

ゾンネンタール

「昧爽」は、夜明けのころの薄明時、黎明のこと。賢治は「まだき」とルビをふることもある。昧は暗い、爽は明るいという意味。昧旦ともいう。

「ひばり」は、春を告げる鳥として古来より洋の東西を問わず親しまれている。永き日を囀り足らぬひばりかな(松尾芭蕉)。

賢治の作品の中に出てくる鳥の中で最も登場頻度が多い。特に、鳴き声の表現がユニーク。早春の鳴き声を「氷ひばり」と表現している。

「虚空」は大空、空中の意味が一般できだが、賢治の場合、エーテルの充満する自然界の空間、またはその原理の意味に用いる。

「パラフヰン」は、霧、雲、もやの形容として用いられることが多く、蝋の色の感覚が生かされている。

「ゾンネンタール」は、架空の人名。そのまま訳すと、ドイツ語で「太陽(ゾンネン)の谷(タール)」ということになる。ある種の不気味な人物として登場する。

ネアンデルタール人にヒントを得たという説や、オーストリアの俳優の名(Adolf von Sonnenthal、1834~1909)=写真、wiki=からきているという説がある。賢治は、より進化の前段階にあるものに怖れを抱いていた。


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2014年02月09日

「真空溶媒」④ 金いろの苹果

「真空溶媒」のつづきです。金いろの苹果の木が登場します。

はるかに湛〈たた〉へる花紺青の地面から
その金いろの苹果〈りんご〉の樹が
もくりもくりと延びだしてゐる
 (金皮のまゝたべたのです)
 (そいつはおきのどくでした
  はやく王水をのませたらよかつたでせう)
 (王水、口をわつてですか
  ふんふん、なるほど)
 (いや王水はいけません
  やつぱりいけません
  死ぬよりしかたなかつたでせう
  うんめいですな
  せつりですな
  あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)
 (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるゐで)
いつたいなにをふざけてゐるのだ
みろ、その馬ぐらゐあつた白犬が
はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて
いまではやつと南京鼠〈なんきんねずみ〉のくらゐにしか見えない
 (あ、わたくしの犬がにげました)
 (追ひかけてもだめでせう)
 (いや、あれは高価〈たか〉いのです
  おさへなくてはなりません
  さよなら)

golden_apple

「花紺青」(はなこんじょう)はふつう、スマルトの色のことをいう。スマルトは、コバルトを用いて着色した水晶末を粉末にしたガラス質の人造顔料で、最古のコバルト系顔料といわれている。ヨーロッパで、高価で希少な天然群青や天然ウルトラマリンの代用として用いられた。日本でも、江戸時代に輸入され使用されていたが、人工ウルトラマリンやコバルトブルーの登場で19世紀ころからあまり使われなくなった。

紺青は、一般的に紫色を帯びた暗い青色のこと。色名はフェロシアン化第二鉄を主成分とする人工顔料紺青に由来し、プルシアンブルーと呼ばれるのも同じ色。古来から金青(こんじょう)とよばれる別の物質もある。岩群青だ。平安時代初期に記された『続日本紀』に既に「金青」の名前が見られる。これは、プルシアンブルーに比べて赤味の強い青になる。この天然顔料である紺青と、人工的に作られたプルシアンブルーを区別するために、前者を岩紺青、後者を花紺青(はなこんじょう)と称することがある。

「苹果〈りんご〉」は、前に出たときには「りんご」と平仮名書きだった。リンゴは賢治の作品の中におびただしく出てくる。漢字で書く場合、苹果か林檎だが、苹果のほうが目立つ。もともと、明治に入って本格的に栽培されるようになった西洋リンゴを苹果、昔から日本あった小さめの実の和リンゴを林檎と表記した。

「王水」は、濃塩酸と濃硝酸とを3:1の体積比で混合してできる橙赤色の液体。通常の酸には溶けない金や白金などの貴金属も溶かす。腐食性が非常に強いため、人体にとっては非常に有害だ。

「南京鼠」はハツカネズミの一種。中国産のものの改良種。頭胴長約7センチメートル。尾は約6センチメートル。普通は全身白色で、目が赤い。

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2014年02月10日

「真空溶媒」⑤ 鱗木

 「真空溶媒」のつづきを読んでいきます。

苹果〈りんご〉の樹がむやみにふえた
おまけにのびた
おれなどは石炭紀の鱗木〈りんぼく〉のしたの
ただいつぴきの蟻でしかない
犬も紳士もよくはしつたもんだ
東のそらが苹果林〈りんごばやし〉のあしなみに
いつぱい琥珀をはつてゐる
そこからかすかな苦扁桃〈くへんたう〉の匂がくる
すつかり荒〈す〉さんだひるまになつた
どうだこの天頂〈ちやう〉の遠いこと
このものすごいそらのふち
愉快な雲雀〈ひばり〉もとうに吸ひこまれてしまつた
かあいさうにその無窮遠〈むきゆうゑん〉の
つめたい板の間《ま》にへたばつて
瘠せた肩をぷるぷるしてるにちがひない

リンボク

「石炭紀」は、地質時代の区分のひとつ。古生代の後半で、3億5920万年前から2億9900万年前までの時期。この地層から石炭を産するのは当時、大きな森林が形成されていたことの傍証となる。

陸上では、シダ植物が発達し、昆虫や両生類が栄えた。この時代、両生類から陸上生活に適応した有羊膜類が出現し、やがて二つの大きなグループが分岐した。竜弓類(鳥類を含む爬虫類へとつながる系統)と単弓類(哺乳類へと繋がる系統)である。

当時の爬虫類ではヒロノムスなどが知られている。また、パレオディクティオプテラやゴキブリの祖先プロトファスマなど翅を持った昆虫が初めて出現した。これらは史上初めて空へ進出した生物だ。

デボン紀から引き続いて節足動物、昆虫の巨大化も著しく、全長60cmもある巨大なウミサソリや翼長70cmの巨大トンボ、全長2mの巨大ムカデなどが見つかっている。これらの節足動物は陸上進出を果たした両生類や有羊膜類の貴重な蛋白源になったといわれている。末には数百万年に渡る氷河期が到来し多くの生物が死滅した。

巨大なシダ類が繁栄し、中でもリンボクは直径2m、高さ38mのものも存在し、こうしたシダ類が、湿地帯に大森林を形成していた。年間を通して季節の変化はあまりなく、1年中湿潤な熱帯気候であったといわれる。

一方で南極では氷河が形成されるなど、寒冷化が進行しつつあった。森林の繁栄により、大気中の酸素濃度は35%に達したとされる。このことが動植物の大型化を可能にしたと考えられている。

賢治は修羅の立つ位置のひとつとして、石炭紀の森林をしばしばイメージした。石炭紀に両生類が栄え、それらが初めて声を出す動物となり、それは恋人を求めてのものであるという『科学体系』の説明の影響も見られる。

「鱗木」=写真、wiki=は、うろこ木とも呼ばれ、特に石炭紀に大森林を築いた化石シダ植物。高さ数十メートルの高木で、樹幹にウロコ状の模様がついていた。

「蟻」は、1億2500万年前、スズメバチの祖先から分化したと推定されている。4500-3800万年前のコハクでは含有割合が20-40%を占め、現存の亜科もほぼ出揃った。

「琥珀」は、木の樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化したもの。アリのような小型の昆虫は潰れやすくて化石になりにくいが、琥珀に内包され化石化したものが残っている。

「苦扁桃」は、バラ科の落葉低木。桃にいたアーモンドの一種で、種子の苦みからその名がついた。化粧品の原料や鎮咳(ちんがい)薬としても用いられる。 「無窮」は、果てしないこと。無限。永遠。


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2014年02月11日

「真空溶媒」⑥ リチウム

 きょうも「真空溶媒」のつづきです。  

もう冗談ではなくなつた
画かきどものすさまじい幽霊が
すばやくそこらをはせぬけるし
雲はみんなリチウムの紅い焔をあげる
それからけはしいひかりのゆきき
くさはみな褐藻類にかはられた
こここそわびしい雲の焼け野原
風のヂグザグや黄いろの渦
そらがせはしくひるがへる
なんといふとげとげしたさびしさだ
 (どうなさいました 牧師さん)
あんまりせいが高すぎるよ
 (ご病気ですか
  たいへんお顔いろがわるいやうです)
(いやありがたう
  べつだんどうもありません
  あなたはどなたですか)
(わたくしは保安掛りです)
いやに四かくな背〈はい〉嚢だ
そのなかに苦味丁幾〈くみちんき〉や硼酸〈はうさん〉や
いろいろはひつてゐるんだな
 (さうですか
  今日なんかおつとめも大へんでせう)
 (ありがたう
  いま途中で行き倒〈だふ〉れがありましてな)
 (どんなひとですか)
 (りつぱな紳士です)
 (はなのあかいひとでせう)
 (さうです)
 (犬はつかまつてゐましたか)
 (臨終〈りんじゆう〉にさういつてゐましたがね
  犬はもう十五哩もむかふでせう
  じつにいゝ犬でした)
 (ではあのひとはもう死にましたか)
 (いゝえ露がおりればなほります
  まあちよつと黄いろな時間だけの仮死〈かし〉ですな
  ううひどい風だ まゐつちまふ)

リチウム

「リチウム」は、アルカリ金属元素の一つ。白銀色の軟らかい元素で、あり全ての金属元素の中で最も軽く、比熱容量は全固体元素中で最も高い。

リチウムは地球上に広く分布しているが、反応性が高く、単体としては存在していない。地殻中で25番目に多く存在する元素で、火成岩や塩湖かん水中に多く含まれる。リチウムの埋蔵量の多くはアンデス山脈沿いに偏在し、最大の産出国はチリ。

炎色反応でリチウムやその化合物は深紅色の炎色を呈する=写真、wiki。主な輝線は波長670.8 ナノメートルの赤色のスペクトル線で、ほかに610.4 ナノメートル(橙色)、460.3 ナノメートル(青色)などにスペクトル線が見られる。

「褐藻類」は、コンブやワカメなど海産の多細胞藻類を中心とする生物群。褐色をしているのでその名がある。ワカメも、湯通しするまでは褐色をしている。糸状、葉状、樹枝状などさまざまな構造のものがあり、生殖器や分裂組織などが分化するものもある。海藻の中では最もよく発達した藻体を形成し、大きいものは数十メートルになる。

「背嚢」は背に負う方形のかばん。皮やズックで作られる。もともと軍隊で使われていたが、一般にも学生らが広く用いている。

「苦味丁幾」は、リンドウの根や橙皮をアルコールに浸し、圧搾ろ過した澄明黄褐色をした苦い味の健胃剤。

「硼酸」は、無色無臭の光沢をもった結晶で、温水に溶け、うがい薬や防腐剤、消毒剤に用いる。

「哩」(マイル)ヤードポンド法の距離の単位。1マイルは1760ヤードで、約1.609キロ。記号mil。「十五哩」ということは、約24キロ。


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