「楚囚之詩・第一」③ 大阪事件「楚囚之詩・第一」⑤ 脚韻

2018年09月24日

「楚囚之詩・第一」④ 壮士

「楚囚之詩・第一」のつづき、きょうは冒頭の3~4行を詳しく見てみます。

余と生死を誓ひし壮士等の
   数多(あまた)あるうちに余は其首領なり、

壮士
*土佐民党の壮士 『憲政秘録 明治・大正・昭和』から

「壮士」は、明治期の職業的政治活動家。当初は民権運動家として、政府に対する建白や民衆に対する啓蒙などの活動をしていましたが、1882年の福島事件以後、暴力主義、テロリズムに傾斜し、84年の加波山事件、きのう見た85年の大阪事件などにも参画しました。

決死の覚悟で敵地に赴く刺客をうたった「風粛々として易水寒し,壮士一たび去りて復た還らず」(『戦国策』)に由来します。白シャツ、絣(かすり)の上着、縦縞の袴、素足の高下駄が独特の服装をしているのを特徴にしていました。

明治維新前後に誕生し、明治初年に成長した新しい世代のうちから、自由民権と国民的独立の意識に目覚めた青年の自発的運動が発生してきたのにはじまります。

壮士の1人、井上敬次郎によれば、1883、84年ごろから「志士」とか「実行者」の呼び名を「壮士」と呼称するようになったとされ、尾崎行雄は、「有志家」と呼ばれていた大同団結運動の参加者を改めて「壮士」とよんだとしています。

士族出身者が多く、実態は政党に属する活動家から浮浪者的な無頼漢までさまざまでした。88年に角藤定憲が壮士芝居を始め、演劇界でも流行しました。

90年の議会制度成立後は自由党、立憲改進党系候補者の選挙運動などに従事し、多くは後にそれらの政党の院外団を形成し、院外での政治活動を続けました。

「生死を誓ひし壮士等」は、当時の壮士関係を率直、素朴にとらえています。

「首領」は、1つの仲間の長のこと。党の頭となって、人を従えるもの。ここでは、悪党的なニュアンスはあまり無さそうです。

「首領なり」の「、」は、正確には、白ヌキの白ゴマ点(シロテン)です。セミコロンにあたり、透谷の初期の作品によく用いられました。『日本近代文学大系』の補注には、次のようにあります。

「明治二十一年四月の旅行記概略」で初めて用いられるが、その前は二つ重ねの黒ゴマ点を用いていた。山田武太郎編『新体詞選』(明19・8)の緒言に「我邦の文章には、欧州(ママ)文にある如きパンクチュエーション(句読点)といふものなし。是語法の曖昧なるに、亜ぎて、欠けたる処なり。今此中の新体詞には、新に句読点を作り、以て句脚を切りたれども」とあり、白ゴマ点が濫用されている。当然透谷はこれらに注目していたはずである。白ゴマ点は一般には黒ゴマ点の中に解消し、セミコロン意識も蘇峰・透谷等少数の人々を例外に失われた。

セミコロン(semicolon)は、「;」と書き表される欧文の約物のひとつ。文のなかの部分と部分との切れめを示す符号には、コンマ(comma、「,」)、セミコロン、コロン(colon「:」)があり,この順序に切れめが長く(息の切れめが時間的に長く)なります。セミコロンは、ピリオドとコンマとの合体で、これらの中間的役割を担います。 


harutoshura at 11:39│Comments(0)北村透谷 

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