2021年08月

2021年08月31日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑧ クロス

  鰊の燻製

は、は、はだかの――白い大きな壁に、
た、た、たかく――梯子がかけられ、
か、か、かっわいた――鰊の燻製は地面の上に。

き、き、きたない――手のなかに、彼は持ってやってきた、
と、と、とがった――大きな釘と金づちを、
ふ、ふ、ふとい――糸まりのたばを。

た、た、たかく――彼は梯子を上っていって、
は、は、はだかの――白い大きな壁のてっぺんに、
とん、とん、とんと――とがった釘を打ちこんだ。

し、し、したに――彼は金づちを投げすてる、
な、な、ながい――糸を釘に結びつけ、
か、か、かわいた――鰊の燻製を取りつける。

た、た、たかい――梯子から、彼はおり、
お、お、おもたい――金づちと一緒に梯子をはこび、
と、と、とおく――いずこともなく立ち去った。

か、か、かわいた――鰊の燻製はそのとき以来、
な、な、ながい――糸のはしに結ばれて、
い、い、いつも――とてもゆったりゆれている。

かん、かん、かんたんな――この詩を、私はつくった、
ま、ま、まじめな――人間たちを怒らせようと、
ち、ち、ちいさな――子供たちを楽しませようと。


クロス

きょうは詩人としてだけでなく、エジソンに先立って蓄音機(パレオフォン)の原理を見つけるなど発明家としても知られるシャルル・クロス(Charles CROS、1842-1888)の「鰊の燻製(Le hareng saur)」という詩です。原詩は次の通り。

  Le hareng saur
         ――A Guy.

Il était un grand mur blanc - nu, nu, nu,
Contre le mur une échelle - haute, haute, haute,
Et, par terre, un hareng saur - sec, sec, sec.

Il vient, tenant dans ses mains - sales, sales, sales,
Un marteau lourd, un grand clou - pointu, pointu, pointu,
Un peloton de ficelle - gros, gros, gros.

Alors il monte à l'échelle - haute, haute, haute,
Et plante le clou pointu - toc, toc, toc,
Tout en haut du grand mur blanc - nu, nu, nu.

Il laisse aller le marteau - qui tombe, qui tombe, qui tombe,
Attache au clou la ficelle - longue, longue, longue,
Et, au bout, le hareng saur - sec, sec, sec.

Il redescend de l'échelle - haute, haute, haute,
L'emporte avec le marteau - lourd, lourd, lourd,
Et puis, il s'en va ailleurs - loin, loin, loin.

Et, depuis, le hareng saur - sec, sec, sec,
Au bout de cette ficelle - longue, longue, longue,
Très lentement se balance - toujours, toujours, toujours.

J'ai composé cette histoire - simple, simple, simple,
Pour mettre en fureur les gens - graves, graves, graves,
Et amuser les enfants - petits, petits, petits.

各節が、3行(le tercet)構成の詩ですが、とりわけ面白いのが、その脚韻です。各詩句の終わりで同じ音を3度繰返す「リーム・アンペリエール(rime empérière)」という脚韻法を用いています。クレマン・マロ(1469-1544)など16世紀のプレイアード派以前の詩人たちによって遊戯的に活用されました。

1872年の『文芸復興』誌に「鰊の燻製」が発表されると評判になり、「Il était un grand mur blanc — nu, nu, nu,」といった独特の表現がはやりました。「鰊の燻製」は、1873年に刊行された詩集『白檀の小箱』に収められています。

「鰊の燻製」は、包囲下のパリである日、作家リラダンが一匹の燻製ニシンを持ってヴェルレーヌ家を訪れ、そこに来たクロスがこのニシンを天井から吊るし、それを眺めながら、息子のために作ったと言われています。

クロスは、1881年に画家ロドルフ・サリスがモンマルトルの丘につくった文芸酒場「ル・シャ・ノワール(黒猫)」の常連でした。「十万匹の猫を飼っている男」とあだ名されたスタンランが描いた猫を看板としたこのキャバレーでは、「モノローグ(monologue、一人芝居)」という形式で、しばしば朗誦が行われました。

クロスは、このモノロギストを代表する一人でした。自身で朗誦したほか、その作品は友人の名優コクラン=カデによって演じられ、喝采を浴びました。ユーモアあふれたナンセンス詩の名作「鰊の燻製」も重要なレパートリーとしてコクランが愛誦していたそうです。

また、クロスの詩は、死後30年を経てアンドレ・ブルトンらシュルレアリストによって再評価されることになります。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月30日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑦ ビュシーヌ

  夢のあと

お前の姿に魅せられた眠りのなかで
私は幸せを夢みた、燃えるような幻影を。
お前の眼はより優しく、声は清らかに響いた、
お前は輝いていた、曙に照らされた空のように。

お前は私を呼んだ、私は大地を離れ
お前とともに光めざして逃げていった。
空は二人のために雲の戸を半ば開いた、
見知らぬ輝きよ、垣間見たほのかな光よ。

ああ! ああ! 夢の眼ざめの悲しさよ、
私はお前を呼ぶ、おお夜よ、お前の幻を返しておくれ、
戻れ、戻れ、光り輝くものよ、
戻れ、おお、神秘な夜よ!

Romain_Bussine

きょうは、パリに生まれ、パリに死んだ歌手、ロマン・ビュシーヌ(Romain Bussine、1830-1899)の「夢のあと(Après un rêve)」(1870)です。原詩は次の通り。

Dans un sommeil que charmait ton image
je rêvais le bonheur ardent mirage.
Tes yeux étaient plus doux, ta voix pure et sonore,
tu rayonnais comme un ciel éclairé par l'aurore;

tu m'appelais et je quittais la terre
pour m'enfuir avec toi vers la lumière,
les cieux pour nous entr'ouvraient leurs nues
splendeurs inconnues, lueurs divines entrevues;

Hélas! hélas, triste réveil des songes,
je t'appelle, ô nuit, rends-moi tes mensonges,
reviens, reviens radieuse,
reviens, ô nuit mystérieuse!

長短いろんな音綴をまじえた自由詩に近い詩形です。脚韻は、女性韻による平韻がふまれています。

ビュシーヌは、1871年、カミーユ・サン=サーンスやアンリ・デュパルクらとともに、フランスの室内楽や管弦楽曲を普及させるための拠点として「国民音楽協会」を設立し、これがフランス音楽復興の母胎となっていきました。

フランスにおいて「歌曲(mélodie)」が一つの芸術的ジャンルとして確立されるのは、ちょうどこの1870年以後のことで、近代フランス詩を考えるうえで歌曲の存在を抜きには考えられません。

フランス歌曲は、それまでサロンなどで歌われていたシャンソンやロマンスといった俗謡のように単に詩を美しい旋律や伴奏に乗せる、というようなものではなく、詩と旋律と伴奏の有機的な結合となります。「音綴の芸術」であり、「歌唱」ではなく「朗誦」(déclamation)だともいわれています。

こうしたフランス歌曲の本質を、ビュシーヌはよくわきまえていました。「夢のあとに」は、トスカーナ地方に伝わる作者不明のイタリア語の詩をもとに作られた詩で、ドビュッシーと並ぶフランス歌曲の創始者であるガブリエル・フォーレの曲によって、不滅のmélodieとなりました。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月29日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑥ ボードレール

  秋の歌

私は愛す、切長のきみが眼(まなこ)の緑の光、
優しく美しい女(ひと)よ、けれど今日すべては苦し、
きみの愛も、閨房も、燃えたつ暖炉も、
今は何ものも海に輝く太陽に如かない。

とはいえ、私を愛せ、やさしい心よ!
忘恩の徒、心邪(よこしま)なものにも慈母の如くに。
恋人よ、妹よ、燦とした秋の日の、また
沈む夕陽の、束の間の優しさをみせておくれ。

短い勤めよ! 墓は待つ、貪り飢えて!
ああ、せめて、きみの膝に額を埋め、
酷熱の白い夏を悼(いた)みつつ、黄もやわらかな
晩秋の陽ざしを味わせておくれ。

(『悪の華』)

Baudelaire

「秋の歌」は、有名な『悪の華』の再版におさめられています。これは2部からなる作品で、「私は愛す、・・・・・・」は第2部にあたります。原詩は、次のとおりです。

  Chant d'automne

J'aime de vos longs yeux la lumière verdâtre,
Douce beauté, mais tout aujourd'hui m'est amer,
Et rien, ni votre amour, ni le boudoir, ni l'âtre,
Ne me vaut le soleil rayonnant sur la mer.

Et pourtant aimez-moi, tendre coeur! soyez mère,
Même pour un ingrat, même pour un méchant;
Amante ou soeur, soyez la douceur éphémère
D'un glorieux automne ou d'un soleil couchant.

Courte tâche! La tombe attend; elle est avide!
Ah! laissez-moi, mon front posé sur vos genoux,
Goûter, en regrettant l'été blanc et torride,
De l'arrière-saison le rayon jaune et doux!

1詩節は、12音綴すなわちアレクサンドランの4行詩で構成されています。脚韻は、女性韻と男性韻が交互にくる交韻が踏まれ、完全押韻(rime riche)となっています。

3節目冒頭の「Courte tâche!」(短い勤め)は、死を予感した言葉で、余命いくばくもないことを示しています。この1行だけは、通常の「6+6」の区切ではなく、「4+4+4」の三分区切り(la coupe ternaire)が用いられ、アレクサンドランの単調さを救っています。

シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire、1821-1867)が「発見したもの」について窪田は、「「悪」から引き出された美の世界であり」、その重要さについて「地下世界の発見と、従来からの抒情の質を一変させたことにあるのではないか」としています。

ところで、この詩。1859年に雑誌『ルヴェ・コンタンポレーヌ』に発表されたときには、Ⅰ、Ⅱの区別はなく「M・Dへ」という献辞が添えられています。M・Dとは「童女のようなあどけなさ」をもったとされる女優マリー・ブリュノーです。

苦悩にあえぎ、死の恐怖におびえつづけたボードレールは「私の守護天使、ミューズ、マドンナになってください」と彼女に懇願さえしていますが、2人の仲は長くは続かず不幸な詩人の恋は、詩句にある「沈む夕陽の、束の間の優しさ」でしかありませんでした。彼女は、ボードレールの親友テオドール・バンヴィルと同棲することになったからです。

ボードレールの詩には、晩秋をうたったものが多くあります。「これは秋の感覚が、憂愁と苦悩に生きた詩人の心とぴったり「照応」するものがあったからにちがいない。とはいうものの、ボードレールにとって「秋」は「もののあわれ」的な悲哀ではなかった。パスカルと同じように「深淵」をたえず持ち歩いた詩人は、憂愁のかなたに、つねに秋の幻影を見なければならなかったからである」と窪田は指摘しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月28日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑤ ミュッセ

  シャンソン

かなしいことにあったため
希望もこころの明るさも
きえてなくなるそのときに
そのわびしさを癒すのは
それは楽の音(ね)
愛のひと!

きれいなひとの面ざしは
剣を手にした男より
さらに一入強いもの
むかし愛したことのある
甘くやさしい調(しらべ)ほど
きいて楽しいものはない!

みゅっせ1

きょうは、6行2節からなるミュッセの「シャンソン」です。原詩をあげると――

  Chanson

Quand on perd, par triste occurrence,
Son espérance
Et sa gaieté
Le remède au mélancolique
C'est la musique
Et la beauté!

Plus oblige et peu davantage
Un beau visage
Qu'un homme armé,
Et rien n'est meilleur que d'entendre
Air doux et tendre
Jadis aimé!

2つの詩節は、8a 4a 4b 8c 4c 4b の相称形6行詩(sixain symétrique)で構成されています。8音綴(octosyllabe)を基礎にしている相称形6行詩の場合、8a 4a 4b 8c 4c 4b の形式が愛用されました。

アルフレッド・ド・ミュッセ(Alfred de Musset、1810-57)は、ラマルチーヌ、ユゴー、ヴィニーとともにフランス浪漫派の4大詩人の一人に数えられています。

この早熟なパリっ子は20歳で、極めて感覚的な詩集『スペインとイタリアの物語(Contes d'Espagne et d'Itarlie)』(1830年)を発表。批評家チボーデをして「青春の王子」と呼ばせたように、恋に生き、恋に苦しみ、放蕩と快楽に命を費やしたものでした。

1833年、女流作家ジョルジュ・サンドを知って2人はベネチアに旅をします。が、この恋愛によって放蕩の習慣を断ち切ろうとした決意はむなしく、さらに大病にかかって看護した医師パジェルロ(Pagello)に愛人サンドを奪われてしまいます。

サンドとの仲はその後幾度か再燃したものの、1835年にとうとう破局を迎えます。そして、この不幸な恋愛は詩人の心に傷を残すことになりました。1852年刊の『新詩集(Poésie nouvelles)』に掲載された、この「シャンソン(Chanson)」は、サンドの件とは何ら関係はありません。

が、この作品にしても「一篇の独立した恋愛詩と考えるならば、恋に生きた詩人の肖像を知る上に、サンドとのエピソードを語るようなわがままも許されよう」としたうえで窪田般彌は、次のように指摘しています。

ボードレールみたいな詩人は、恋愛を売春ときめつけ、サンドを悪魔ともあばずれとも罵倒するだろうが、ロマン派の伊達男ミュッセにとっては、「絶望の歌はこよなく美しく」、サンドはミューズにほかならなかった。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月27日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』④ ネルヴァル

  幻想

そんな歌があるものさ、ロッシーニもモーツァルトも
ウェーバーも、みんなすててもいいような
とても古く、悩ましげで、悲しげな、
僕のためにのみ、ひそかな魅力をもっている歌が!

その歌をふと耳にするたびに
僕の魂は200年も若がえる・・・・・・それは
ルイ13世の時代、僕の目には緑の岡がのびひろがり、
それを黄にそめる夕暮れの光が見えてくる。

それから、角(かど)を石でかためたレンガの白、
その焼絵ガラスの窓は赤く色づく、
大きな庭にかこまれ、そのすそを
花のあいだを流れる川にひたしている。

それからまた、その高い窓には一人の貴婦人、
金髪で黒い目の、古風な服を身につけ、
なんだか、その昔、すでに会った婦人・・・・・・
そして僕はいま、その女(ひと)のことを思い出す!

(『オードレット』)

Nerval

きょうは、ネルヴァル原作の「幻想」という詩です。原詩の初出は1832年の『アナル・ロマンチック』誌で、後に他の諸詩篇とともに『小オード(Odelettes)』としてまとめられ、1853年刊行の『ボヘミアの小さな城(Petits châteaux de Bohème) 』に収録されました。原詩は次の通りです。

  Fantaisie

Il est un air pour qui je donnerais
Tout Rossini, tout Mozart et tout Weber,
Un air très vieux, languissant et funèbre,
Qui pour moi seul a des charmes secrets.

Or, chaque fois que je viens à l’entendre,
De deux cents ans mon âme rajeunit :
C’est sous Louis treize ; et je crois voir s’étendre
Un coteau vert, que le couchant jaunit,

Puis un château de brique à coins de pierre,
Aux vitraux teints de rougeâtres couleurs,
Ceint de grands parcs, avec une rivière
Baignant ses pieds, qui coule entre des fleurs ;

Puis une dame, à sa haute fenêtre,
Blonde aux yeux noirs, en ses habits anciens,
Que, dans une autre existence peut-être,
J’ai déjà vue… – et dont je me souviens !

Odelettes,1852)

各節10音綴詩句(décasyllabe)の4行詩で構成されています。「décasyllabe」は、アレクサンドランと並んでフランス詩でもっとも一般的な律動です。

パリに生まれたジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval、1808-1855)は、2歳のとき母を失い、ヴァロワ地方のモントフォンテーヌに住む叔父に引き取られました。18歳のとき政治詩集『国民悲歌集(Élégies nationales)』(1826)で文壇に登場しました。1837年、花形女優ジェニー・コロンを知り、夢想家たるネルヴィルの霊的、幻想的な恋愛がはじまります。

紀元前6世紀の神秘哲学者ピタゴラスの輪廻説に取りつかれて「同一の魂の転生」をかたく信じていた彼は、ジェニーのなかに、少年時代にヴァロワの宮廷で会った崇高な聖女アドリエンヌの「再生」を発見します。ジェニーの面影はまた、シバの女王や古代エジプトの女神イシス、聖母マリアでもあったようです。

第4節の「それからまた、その高い窓には一人の貴婦人、/金髪で黒い目の、古風な服を身につけ、/なんだか、その昔、すでに会った婦人・・・・・・/そして僕はいま、その女のことを思い出す!」は、こうした、ジェニーの面影を描いているようです。

ジェニーはフルート吹きと結婚し、1842年に死にました。その前年の1841年にネルヴィルは発狂し、精神病院に8カ月ほど収容されました。健康を取り戻すと、近東への放浪なども試みますが、その後も何度となく狂気の発作に襲われ、入院生活が余儀なくされました。

「私が最初に詩を書いたのは青春の熱情からであり、次いで恋愛から、最後は絶望からであった」という告白のとおり、50年代からのネルヴァルの生活はまさに絶望の時代でした。そして心身ともに疲れ果てた彼は、身辺の整理をするかのように作品をまとめています。

その中に、この「幻想(Fantaisie)」など、発狂前に書かれたプレイアード風の作品『小オード』を添えた『ボヘミアの小さな城』もありました。そして、1855年1月26日早朝、ヴィエイユ・ランテルヌ街の片隅で首をくくった詩人の死体が発見されました。


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2021年08月26日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』③ ラマルチーヌ

  蝶

春と共に生れいで、バラと共に死んでいく。
西風の翼にのって、澄める空、泳ぎ舞う。
ほころび咲いた花々の、胸にゆれ、
香りと、光と、また青空に酔いしれる。
若き日は、鱗粉をまき散らし
無窮の大空に飛立つよ、一戦(そよ)ぎの風の如くに。
これぞ、魅せられた蝶の運命(さだめ)。われらの欲望(のぞみ)
さながらに、決して止まることもない。
ものすべてに触れはすれ、心は常に満されず、
快楽もとめて、やがてまた空へと立ち戻る。

(『新冥想詩集』)

ラマルチーヌ

きょうは、ラマルティーヌの「蝶」。原詩は次の通りです。

  Le papillon

Naître avec le printemps, mourir avec les roses,
Sur l’aile du zéphyr nager dans un ciel pur,
Balancé sur le sein des fleurs à peine écloses,
S’enivrer de parfums, de lumière et d’azur,
Secouant, jeune encor, la poudre de ses ailes,
S’envoler comme un souffle aux voûtes éternelles,
Voilà du papillon le destin enchanté!
Il ressemble au désir, qui jamais ne se pose,
Et sans se satisfaire, effleurant toute chose,
Retourne enfin au ciel chercher la volupté!

原詩は次に示すように、フランス語定型詩でもっともよく用いられるアレクサンドラン(12音綴詩句)によって構成されています。

  1      2     3    4   5     6          7    8  9  10  11   12
Naî/tre a/vec/le/prin/temps,/mou/rir/a/vec/les/roses,

  1    2   3  4   5    6     7   8     9     10   11  12
Sur/l’ai/le/du/zé/phyr/na/ger/dans/un/ciel/pur,

前半の、naître(生まれる)、mourir(死ぬ)、nager(泳ぐ)、enivrer(酔わせる)、envoler(飛び立つ)といった名詞化された不定法を、「voilà」(あれは・・・である)で受けています。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse de Lamartine、1790-1869)=写真=は、30歳だった1820年、第1詩集『瞑想詩集(Méditations poétiques)』を発表しました。全24篇、500部。

この詩集は、1カ月後には再版が出るほどの人気を博しました。一介の無名詩人は、たちまちにして「詩界のボナパルト」「1820年のサロンが求めたバイロン」と讃えられました。

その3年後の1823年に刊行された『新瞑想詩集(Nouvelles Méditations poétiques )』は、大使館書記官として過ごしたイタリアが背景となっています。この詩集に収められた「蝶」にも、いかにもイタリアらしい明るい空がひろがっています。

小貴族の家に生まれたラマルティーヌは1816年の秋、湯治場エクス・レ・バンで、6歳年上の人妻ジュリー・シャルルと出会います。詩人は彼女にプラトニックな想いを寄せ、翌年ブルジェ湖畔で再会することを約して別れましたが、胸を病んでいたジョリーはその冬、不帰の客となりました。

『瞑想詩集』の白眉とされる「湖」「孤独」「秋」「谷間」の4篇には、詩の中では「エルヴィール」の名で讃えられるジュリーへの愛惜の念が込められています。

「蝶」の一篇には、ジュリーとの邂逅というような詩人の生涯にまつわる大事件の裏づけはない。だが、ここには同じロマン派の詩人ミュッセや、あるいは現代詩人ポール・エリュアールのある部分ときわめて近い天成の詩人ラマルチーヌの、つまり、回想と純粋さと、「詩のごとくに悲しく、ビロードのように柔らかな」諧調の詩人ラマルチーヌの本領を十分にくみとることができる」と窪田般彌は指摘しています。


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2021年08月25日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』② ヴァルモール

  わたしの部屋

わたしの住居は高いところにある、
大空に向ってひらかれている。
わたしのお客は、青ざめた
まじめな顔のお月さまだけ。
下で呼び鈴が鳴る、
だけど、今はわたしには何の関係もない、
もし、その人が彼でなければ
わたしには誰一人用のないひと!

世の人々から身をかくし、
わたしは花を刺繍する。
誰にも恨みはないけれど
わたしの心は涙で一杯。
雲ひとつない青い空を
わたしはこの部屋から見ている。
わたしは見ている、星たちと
また、吹き荒れる嵐を!

わたしの椅子のま向いには
一つの椅子が待っている。
その椅子はあの人のもの、
二人していたのは一瞬だけのこと。
リボンのしるしのついたその椅子は
いまもそこに置いてあるのだ、
すっかり忘れさられて、まるでここにいるわたしのように!

ヴァル

きょうは、デボルド=ヴァルモールの「わたしの部屋」という作品、原詩は次の通りです。

  Ma chambre

Ma demeure est haute,
Donnant sur les cieux ;
La lune en est l’hôte,
Pâle et sérieux :
En bas que l’on sonne,
Qu’importe aujourd’hui
Ce n’est plus personne,
Quand ce n’est plus lui !

Aux autres cachée,
Je brode mes fleurs ;
Sans être fâchée,
Mon âme est en pleurs ;
Le ciel bleu sans voiles ,
Je le vois d’ici ;
Je vois les étoiles
Mais l’orage aussi !

Vis-à-vis la mienne
Une chaise attend :
Elle fut la sienne,
La nôtre un instant ;
D’un ruban signée,
Cette chaise est là,
Toute résignée,
Comme me voilà !

各詩句は、
Ma /de/meu/re est/ haute,
Don/nant/sur/les/cieux ;
というように、5音綴の奇数脚になっています。

よく知られているように、ポール・ヴェルレーヌは、「何よりも先ず音楽を/そのために奇数を選べ・・・・・・/われらは色をもとめず色合を/ただ色合をもとめるのみ」という詩法を唱えました。これは、伝統的な偶数脚の律動とは別の「影にょうな微妙な色合(ニュアンス)を漂わせる奇数脚による新しい詩的律動の探究であった」と窪田はいいます。

こうした奇数脚の魅力をヴェルレーヌに教えた詩人こそ、ヴァルモールだったのです。ヴェルレーヌは『呪われた詩人たち』(1884年)という詩人論の中でヴァルモールの清らかな情熱や悲しみの深さを称揚し、11音綴の奇数脚を使った「最初の詩人」として、その力量を高く評価していました。

また、ボードレールも「デボルド=ヴァルモール夫人は女であった。つねに女であり、絶対に女でしかなかった。しかも彼女は、驚くべきほどに、女のあらゆる自然美の詩的表現であった。彼女が乙女ごころの悩ましい欲望や、棄てられたマリアーヌの陰うつな嘆きを歌い、また、母性愛の燃えたつような情熱を歌うときにも、彼女の歌は、つねに女の甘美な調子を保ちつづけている。借物も、月並みな飾りもなく、そこにあるものは、ドイツの詩人がいったような永遠の女性だけなのである」(「わが同時代人たちについての考察」)などと、彼女を称賛しています。

ヴァルモール夫人(Marceline Desbordes-Valmore、1786-1859)=写真=は、1789年の大革命によって没落した紋章画工の娘として北フランスのドゥエに生まれました。

幼いころから赤貧に苦しめられ、裁縫女をしたり、子役として地方を歩きまわるなどして暮らしました。やがて女優となって20年間の舞台生活をおくりますが、その間、詩人アンリ・ド・ラトゥシュとの悲恋に苦しみます。

1817年には8歳年下の役者ヴァルモールと結婚しますが、4人の子どもに早く死なれるなど、その生涯は、不運と逆境の連続でした。

詩の冒頭に「わたしの住居は高いところにある、/大空に向ってひらかれている。」とありますが、ヴァルモール夫人は、「せめて3階に住みたい」という願いさえもかなえられず、生涯、屋根裏部屋暮ししかできなかったそうです。

ヴァルモール夫人の詩集には、『エレジー・マリー・ロマンス(Élégies,Marie et Romances)』(1819)、『涙(Les Pleurs)』(1833)、『悲しき花よ(Pauvres Fleurs)』(1839)、『花束と祈り(Bouquets et Prières)』(1843)などがあります。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月24日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』① ラ・フォンテーヌ

宮沢賢治の『春と修羅 第2集』まで、ひと通りながめ終えたところで、きょうから、フランスの詩へに目をみけたいと思います。しばらくの間、窪田般彌『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』の中の詩を毎日1篇ずつ取り上げていきます。まずは、ラ・フォンテーヌの「蝉と蟻」です。

  蝉と蟻

夏のあいだ歌い、
暮らした蝉は、
冬の北風が吹きだすと
何の貯えもなくなってしまった。
蠅やうじ虫の
ほんのひとかけらもなくなってしまった。
そこで、隣の蟻のところに
飢え死にしそうだと訴えた、
お願いだから、命をつなぐために
来年の夏がくるまで
なにか穀物を恵んでほしいと。
蝉は言った「虫の名誉にかけて
必ずお返しする」
しかし、蟻は貸すことの嫌いな虫。
ものを貸さないのが蟻のたった一つの欠点だ。
「暑い頃には何をしてたの?」
蟻は借りにきた蝉にこうきいた。
「夜も昼も、遊びにきた連中に歌を
きかせておりました。怒らないでね」
「歌っていたって? それはお楽しみなこと、
だったら、今度は踊ったらいい」

フォンテーヌ

原詩は次の通りです。

  La Cigale et la Fourmi

La Cigale, ayant chanté
Tout l'été,
Se trouva fort dépourvue
Quand la bise fut venue4 :
Pas un seul petit morceau
De mouche ou de vermisseau.
Elle alla crier famine
Chez la Fourmi sa voisine,
La priant de lui prêter
Quelque grain pour subsister
Jusqu'à la saison nouvelle.
« Je vous paierai, lui dit-elle,
Avant l'Oût5, foi d'animal,
Intérêt et principal. »
La Fourmi n'est pas prêteuse :
C'est là son moindre défaut6.
« Que faisiez-vous au temps chaud ?
Dit-elle à cette emprunteuse.
— Nuit et jour à tout venant8
Je chantais, ne vous déplaise.
— Vous chantiez ? J’en suis fort aise.
Eh bien ! Dansez maintenant. »

 聞き覚えのある話です。日本で訳されている『イソップ物語』では、「蟻とキリギリス」として親しまれています。フランス人の間でも、「cigale」をキリギリスやバッタの類の虫だと思っている人が多いといわれているそうです。

そんな「cigale(蝉)」が、「 foi d'anima(動物の名誉にかけて)」というあたりも面白いところです。古典詩は偶数脚が好まれていたそうですが、この詩は2行目が3音綴詩句で、それ以外は7音綴詩句と、奇数脚が用いられています。

ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ( Jean de La Fontaine、1621-94)=写真=は、ジャン・ラシーヌとともにフランス古典主義を代表する詩人です。治水営林行政官の子としてシャンパーニュ州に生まれたラ・フォンテーヌは、古都ランスで学業をおさめ、さらに神学と法律を学びました。

父のあとを継いでいったんは治水営林行政官の職につきましたが、ほどなくこの公職の権利を放棄してパリに出て、財務卿フーケなど、貴族の家に寄食するようになりました。名作「ヴォーの水の精に訴える悲歌(Élégie aux Nymphes de Vaux)」は、ルイ14世の不興を買って失脚したフーケのために書かれた作品です。

「La Cigale et la Fourmi」が収録されている『寓話(Fables)』は、ラ・フォンテーヌが47歳のときから30年にわたって書きつづけられました。素材を『イソップ物語』やインドの寓話にもとめ、簡潔で軽妙な技巧を駆使し、寓話によくある「教訓」を控えめに嫌味なく語った傑作です。

窪田は「ラ・フォンテーヌの『寓話』を読むたびに、しばしば『天草本伊曾保物語』のことを思い出す」として、そのなかの一篇「蝉と蟻との事」をあげています。
 ある冬の半ばに蟻どもあまた穴より五穀を出(だ)いて日に曝(さら)し、風に吹かするを、蝉が来てこれを貰うた、蟻のいふは、「御辺 (ごへん)は過ぎた夏、秋はなに事を営まれたぞ」。蝉の云ふは「夏と秋のあひだは吟曲にとり紛れて、少しも暇を得なんだによって、何たる営みもせなんだ」といふ。蟻「げにげにその分ぢゃ、夏秋謡ひあそばれたごとく、今も秘曲を尽されてよからうず」とて、さんざんに嘲り、すこしの食を取らせて戻いた。

    下心。

 人は力の尽きぬ内に、未来の務めをすることが肝要ぢゃ。少しのちからと閑(しま)あるとき、娯楽(なぐさみ)を事とせう者はかならず後(のち)に難を受けいでは叶ふまい。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年08月23日

宮沢賢治「岩手軽便鉄道の一月」

  四〇三  岩手軽便鉄道の一月

ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー 鏡鏡鏡鏡をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー   鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうとうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

冬の田

きょうの作品「岩手軽便鉄道の一月」は、『春と修羅 第2集』の最後に収められています。1927(昭和2)年12月発行の盛岡中学『校友会雑誌』41号に「銀河鉄道の一日」として発表しています。

日付は「1926、1、17」。この日は、日曜日。冒頭の「ぴかぴかぴかぴか」というオトマトペが物語っているように、天気も、心も晴れやかな冬の一日を描かれています。

「汽車(こっち)が」とあることからすると、教師を辞めることを決めて、新しい世界へ踏み出すための準備なのか、花巻と釜石市の仙人峠間65.3キロを結んだ「岩手軽便鉄道」に乗ってどこかへ出かけたようです。

「~ランダ―」という言葉が並んで登場します。宮澤賢治語彙辞典によれば、「ジュグランダー」はくるみの木の言い換えとして賢治は用いている。一般にクルミと呼んでいるオニグルミの属名Juglansから得た賢治の造語と思われる、といいます。

同様に「サリックスランダー」(Salix 柳)、「アルヌスランダー」(Alnus はんのき)、「ラリクスランダー」(Larix からまつ)、「フサランダー」(これのみ植物でなくグランド電柱の列の言い換えとして賢治は用いる。電柱の列をフザーHusar=軽騎兵の列に見立て、濁点を忘れてフサとした)、
「モルスランダー」(Morus 桑の木)が、いずれも鏡(氷華、樹氷)をきらきら吊るして次々に現われる。

このランダ―なる語尾形の語の出所は不明であるが、ドイツ語のRänder(レンダ―、並木の縁Randの複数)にヒントを得た音感的造語であろう、ということです。

「氷華」は、植物の枯れた茎のまわりに霜柱が成長して、まるで氷の華が咲いているように見える現象をいいます。

賢治は、この年の3月をもって、花巻農学校を依願退職します。辞令には次のようにありました。

岩手県立花巻農学校教諭兼舎監  宮沢賢治
願ニ依リ本職並兼職ヲ免ス
十五年三月三十一日 岩手県









harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月22日

宮沢賢治「国道」

  四〇二  国道

風の向ふでぼりぼり音をたてるのは
並樹の松から薪をとってゐるとこらしい
いまやめたのは向ふもこっちのけはひをきいてゐるのだらう
行き過ぎるうちわざと呆けて立ってゐる
弟は頬も円くてまるでこどもだ
いかにもぼんやりおれを見る
いきなり兄貴が竿をかまへて上を見る
鳥でもねらふ身構へだ
竿のさきには小さな鎌がついてゐる
そらは寒いし
やまはにょきにょき
この街道の巨きな松も
盛岡に建つ公会堂の経費のたしに
請負どもがぢき伐るからな

賢治

きょうは「国道」という作品です。年が変わって、「1926、1、14」の日付があります。

全集の年譜には「1月中旬 伊藤忠一の日記によれば15日、八重樫倉蔵・民三の兄弟大工をつれて、下根子桜の別宅の改造をはじめたとある。桜での活動・独居生活のための準備と考えられる」とあります。

この前日の14日のこの詩にある「弟は頬も円くてまるでこどもだ/いかにもぼんやりおれを見る/いきなり兄貴が竿をかまへて上を見る/鳥でもねらふ身構へだ/竿のさきには小さな鎌がついてゐる」という兄弟は、「八重樫倉蔵・民三の兄弟大工」なのかもしれません。

いずれにせよ、この当時、同年4月より、実家の南方約1.5kmの花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して独居自炊の生活を始めていたのです。実家のある豊沢町と下根子桜の行き来は、写真にある向小路の同心屋敷跡の通り(旧国道4号)を抜けて行ったと考えられます。

この国道4号線(旧奥州街道)をめぐっては、その松並木を伐採して県の公会堂を盛岡市に建設するという発表が県からあり、前年の1925年4月25日には花巻農学校で、その賛否をめぐって討論会が開かれました。

賢治は反対論者で、同僚の白藤慈秀は賛成論者であったため、この問題を取り上げて生徒によるディベートを実施することになったのです。当日は、賛成派と反対派それぞれ生徒10人ずつのが弁士として選ばれ講堂の前のほうに向かいあって座り、後ろからほかの生徒たちが見守りました。

どちらの弁士とも、激しい論陣を張って譲りませんでした。賢治は反対派席の後ろから弁士にメモを渡すなどして応援したといいます。討論会はけっきょく決着がつかないまま、最後に校長が次のように講評して終わったそうです。

「宮沢先生のように常に花鳥風月を友とし、四季を通じて大宇宙を駆けまわり、詩歌を創作して喜んでいるような人には、松並木の伐採によってこの国道から大自然が育てた松の姿が消えることには堪えられない淋しさを感ずることであろうし、また白藤先生のように公会堂建設について、他県の実例を引用して、公会堂の使命を強調し財源捻出の方法に賛成するも一理ある。生徒諸君も、この討論会を通じて、物には現実と理想の両面の見方があるということを知ったと思う。」

作品冒頭で「風の向ふでぼりぼり音をたてるのは/並樹の松から薪をとってゐるとこらしい/いまやめたのは向ふもこっちのけはひをきいてゐるのだらう」と感じたのは、自他ともに賢治が「反対派」と認知されていたことの表れと見ることができるでしょう。

また「この街道の巨きな松も/盛岡に建つ公会堂の経費のたしに/請負どもがぢき伐るからな」というエンディングには、やはり、しっくりしない残念な気持ちが込められています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月21日

宮沢賢治「告別」

  三八四  告別

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管(くゎん)とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

オルガン

きょうの「告白」という詩には、「1925、10、25」という日付があります。以前の詩でも触れましたが、賢治はこのころまでに4年間にわたる農学校教師を辞めて、新たな生活に踏み出す意志をかため、そのための準備に入っています。

教え子に訴えるかたちのこの詩は、「云はなかったが、/おれは四月はもう学校に居ないのだ/恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう」などと、まさにそうした「告別」の辞になっています。

さらに、やめる決意にかかわりそうな、「なぜならおれは/すこしぐらゐの仕事ができて/そいつに腰をかけてるやうな/そんな多数をいちばんいやにおもふのだ」というセリフも気にかかります。

とはいえ、賢治は『春と修羅 第2集』の序で「この四ヶ年はわたくしにとって/じつに愉快な明るいものでありました」と言っているように、教師生活を決して嫌ってはいませんでした。「だのにそれをやめようという」理由について、堀尾青史『年譜・宮澤賢治伝』には次のようにあります。

斎藤貞一あての手紙、そして「告別」は教え子に対して自分の態度を明らかにしようとしている。それは冨手一(第1回卒業生)のいうとおりだろうと思う。冨手はいう。

「先生はわたしたちにいつもいってました。学校を出たら家へ帰って百姓をやれ。なんどもなんどもいわれたのです。ところが学校をでるとたいてい技手になったり役所へつとめてしまう。それでは農村は立ち直れない、よくならないと先生は思われていたのです。そういう自分が俸給生活者である矛盾から、おれも百姓になるからおまえらもなってくれ、という強い態度を示されたのだと思います。学校内で校長とどうということはなかったと思います」

同僚の白藤慈秀は、「宮澤賢治の生活諸相」の中で、現代の人びとは旧観念にとらわれて、農学校の卒業生の中から月給生活者が多数出れば、その学校の成績がよいように思っているのは大いなる誤りである。花巻農学校はこの迷妄を破って、農村愛郷土着の人材を養成するよう邁進しなければならぬと力説強調していた」と教師の間でも賢治の訴えていたことをのべている。

「泰西(たいせい)」は、西の果ての意、西洋、西洋諸国のこと。たとえば、ヨーロッパの「著名の楽人たちが」幼いときから「弦や鍵器をとって/すでに一家をなしたがやうに」というように、「鍵器」(鍵盤楽器)、「鼓器」(打楽器)など、楽器を使った比喩的表現が、この作品のあちこちに埋め込まれています。

エンディングは、多数配列した大小の音管に送風して壮大なスケールの音を出す「パイプオルガン」の登場です。「弟子」たちの未来に向けて、「ちからのかぎり/そらいっぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ」と「告別」に向けての、せいいっぱいの呼びかけをしています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月20日

宮沢賢治「鬼言(幻聴)」

  三八三  鬼言(幻聴)

三十六号!
左の眼は三!
右の眼は六!
斑(ぶち)石をつかってやれ

鬼

きょうは、「1925、10、18」の日付がついた、全4行の短い作品です。この詩の先駆形は次のようになっています。

きさまももう
見てならないものをずゐぶん見たのだから
眼を石で封じられてもいいころだ
36号!
左の眼は3!
右の眼は6!
ぶちいしをつかってやれ

「鬼言」というのだから、鬼のことば、声。中国では亡霊を「鬼(き)」といい、とりわけ横死してまつられない亡霊(幽鬼)はたたりがあるとされました。鬼神は半人半神の霊的存在で、特に荒ぶる神霊のことをいいましたが、仏教伝来後、仏教の羅刹(らせつ)などの影響で、怪異な姿の悪鬼として描かれるようになったようです。

こうした鬼のことばを、一方では実際に音や声が出ていないのに音や声を聞く「幻聴」として客観的に受け止めてもいます。声は、耳だけでなく、からだ全体、さらには遠く宇宙から聞えてくるようでもあるのでしょう。

詩人は、鬼神に番号で呼ばれています。それが、どうして「三十六」なのでしょう。そういえば、幕末から明治前期に活躍した浮世絵師・月岡芳年に「新形三十六怪撰」という妖怪画の連作がありました。中国古代の兵法で用いられた三六種の計略から「三十六計逃げるに如かず」ということわざもあります。「富嶽三十六景」「東山三十六峰」というように、「三十六」は、多数、すべての方角を意味することや、「三十六歌仙」「三十六人衆」などと、ひとつの括りとして用いられることもあります。

眼を「封じ」るために使えという「斑(ぶち)石」とは、蛇紋岩のこと。蛇紋岩は、黄緑から暗緑色の緻密な美しい岩石で、手に取ると脂感がします。ときにたくさんの方解石を白いまだら状に含んで、装飾石材として用いられる。また、軟らかくて細工しやすいので、模様の美しいものは彫刻を施して装飾品にも用いられます。「眼を石で封じられ」るにしても、なかなかにしゃれたシロモノが用いられるわけです。

賢治はこのとき29歳。現代の感覚からすれば「見てならないものをずゐぶん見た」というには、まだ若すぎるようにも思われますが、安定した農学校の教師を辞めて新しい世界に踏み出そうとしている時節だけに、理想へと勇む気持ちの一方で、不安や罪悪感から鬼神の声を聞くことがあっても決しておかしくはありません。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月19日

宮沢賢治「住居」

  三七八  住居

青い泉と
たくさんの廃屋をもつ
その南の三日月形の村では
教師あがりの採種者たねやなど
置いてやりたくないといふ
   ……風のあかりと
     草の実の雨……
ひるもはだしで酒を呑み
眼をうるませたとしよりたち

高村

9行からなる「住居」という詩です。「1925、9、10」の日付があります。

これまでも見てきましたが、賢治は、1921(大正10)年12月(26歳)から翌1926年3月(30歳)までの4年間、花巻農学校で教師をしていました。

農学校に勤め始めたとき、家族はほっとして喜んだものの妹のシゲは「きっと長つづきすまい」という予感がしたといいます。賢治はいつでも何かを求め、新しいものを考えて次の世界へ向かっていたからです。

シゲの予感どおり、「住所」の日付の1925年9月ころには、教師をやめて新たな場所で次の世界へ入る準備をしていたようです。堀尾青史『年譜・宮澤賢治伝』には、次のようにあります。

1925(大正14)年6月21日斎藤貞一あてた手紙の中に、「わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります」ということばが見える。

おなじく10月25日の「告別」という詩は、教え子へのことばとして、
――云はなかつたが
おれは4月にはもう学校に居ないのだ
恐らく暗いけはしいみちをあるくだらう
と書いている。

12月1日、当時弘前歩兵第31聯隊にいた弟清六には、
――すぐご返事するのでしたがこの頃畠山校長が転任して新らしい校長が来たりわたくしも義理でやめなければならなくなつたりいろいろごたごたがあつたものですからつい遅くなったのです。――
と、しらせている。

またおなじく12月23日森惣一へあてた手紙には、
――学校をやめて1月から東京へ出る筈だつたのです。延びました。夏には村に居ますから――
といっている。

斎藤あての手紙でもらしたのが一ばんはじめのようであるから、6月には「来年3学期がおわれば学校をやめる」という意思を既にもったことになる。

こうした時期に、新しい生活のための「住居」(「廃屋」)を探しに出向いたときに作ったのが、この一篇でしょうか。

「南の三日月形の村」とは、どこのことなのでしょう。花巻の南には、現在は花巻市になっている、幅広で「三日月」のように湾曲した太田村(49.00平方キロ)や笹間村(57.58平方キロ)という二つの村がありました。年譜によれば、1924(大正13)年三月末には、両村の役場を訪れて農事講演の打合せをしたり、出あった農民に稲作の方法を教えたりしています。

ちなみに太田村は、昭和20(1945)年から昭和27(1952)年にかけ、詩人で彫刻家の高村光太郎が独居自炊の生活を送ったことでも知られています=写真

どこの村か、確定したことはいえませんが、この詩によれば「教師あがりの採種者たねやなど/置いてやりたくないと」断られたといいます。だからといって、詩からは悲愴感は感じられません。下書稿には次のようにあります。

その南の三日月形の村では
わたくしなんぞ
置いてやりたくないといふ
・・・・・・風のかけらと草の実の雨・・・・・・
まばゆさと
わたくしは走らう

「まばゆさと/わたくしは走らう」。新しい生活へ向けての浮き立つ気分がつたわってきます。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月18日

宮沢賢治「九月」

  三七七  九月

キャベジとケールの校圃(はたけ)を抜けて
アカシヤの青い火のとこを通り
燕の群が鰯みたいに飛びちがふのにおどろいて
風に帽子をぎしゃんとやられ
あわてて東の山地の縞をふりかへり
どてを向ふへ跳びおりて
試験の稲にたゝずめば
ばったが飛んでばったが跳んで
もう水いろの乳熟すぎ
テープを出してこの半旬の伸びをとれば
稲の脚からがさがさ青い紡錘形を穂先まで
四(ヨン)尺三寸三分を手帳がぱたぱた云ひ
書いてしまへば
あとは
Fox tail grass の緑金の穂と
何でももうぐらぐらゆれるすすきだい
   ……西の山では雨もふれば
     ぼうと濁った陽もそゝぐ……
それから風がまた吹くと
白いシャツもダイナモになるぞ
   ……高いとこでは風のフラッシュ
     燕がみんな灰になるぞ……
北は丘越す電線や
汽笛の cork screw かね
Fortuny 式の照明かね
   ……そらをうつした潦(みづたまり)……
誰か二鐘をかんかん鳴らす
二階の廊下を生徒の走る音もする
けふはキャベヂの中耕をやる
鍬が一梃こはれてゐた

ケール

きょうは「1925、9、7」の日付がある「九月」です。収穫の秋らしい描写が繰り広げられていきます。

「キャベヂ」(cabbage)は、ヨーロッパ南部の海岸地域原産で、野生種は有史以前から利用され、13世紀には広くヨーロッパに広まり品種改良が進みました。日本への渡来は、18世紀初めころオランダ人によって長崎にもたらされたといわれます。

『大和本草』(1709)には蛮種紅夷菘(おらんだな)と記載されています。渡来したものは非結球性か半結球性で、同書には「味佳(あじよし)」と記されているものの、食用として発達せず、観賞用に栽培されてハボタンが生まれました。結球性のキャベツが初めて栽培されたのは幕末、安政年間に入ってからで1855年(安政2)ころとされます。

明治初年に新宿御苑、三田育種場、北海道開拓使などにより欧米の品種が導入されましたが日本の気候に合わず、大正から昭和にかけて、民間育種家の努力で日本の気候に適した品種が育成されていきました。「キャベジとケールの校圃(はたけ)」は、こうした品種育成が農学校などでも盛んに試されていた時代のものだったのでしょう。

「ケール」=写真=は、アブラナ科のキャベツと同一種とされますが、結球せず、茎が立ち、上部に長楕円形ないし円形の密生した葉を形成します。原産地はイタリアの海岸から山地にかけて。日本へは古く伝わってはいたものの、明治初年に改めて導入されてから野菜として発達しました。

賢治作品では「アカシヤ」というのは、ニセアカシヤのこと。マメ科の落葉高木で、北アメリカ原産。1877年ごろ日本に伝えられ、各地で街路樹や庭木として植えられるようになりました。幹に縦に走る深い割れ目ができるのが特徴です。当時の花巻農学校付近のニセアカシヤは、賢治が植えたもの、ともいわれています。

稲の成熟はふつう、出穂後の時間的経過にしたがって乳熟、黄熟(おうじゆく)、完熟、枯熟(過熟)の4段階に区分されます。乳熟期のもみ殻や穀粒表面は、まだ葉緑素をもっているため緑色をしていて、胚乳は乳白色をした液状にとどまっています。

「半旬」は一旬(10日)の半分、すなわち5日のこと。一〇日間。半旬のあいだにどれだけ伸びたか、「テープを」用いて、「稲の脚からがさがさ青い紡錘形を穂先まで」の長さを測っているのでしょう。

「Fox tail grass」は、キツネノシッポ(狐尻尾)。ヒカゲノカズラの別称です。山野に生える蔓性のシダで、茎は地をはい、針状の葉がうろこ状につきます。茎から細い枝が直立し、長さ5センチほどの黄色い胞子嚢の穂をつけます。『宮澤賢治辞典』では、「Fox tail grass の緑金の穂」とあるのは「まだ緑の稲穂の形容のようである」としています。

「ダイナモ」は、発電機、つまり磁界内で運動する導体に発生する起電力を利用して、機械エネルギーを電気エネルギーに変換する装置です。「白いシャツ」が「ダイナモに」という大胆な表現で、風の勢いやダイナミックな音が実感されます。

「汽笛のcork screwかね/Fortuny式の照明かね」の「cork screw」は、コルク栓抜き。「Fortuny式の照明」というのは、スペインの芸術家、Mariano Fortuny(1871-1949)によって舞台用の間接照明として実験的に製作されたもの。その意匠には、時代を超越したモダニズムがあります。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月17日

宮沢賢治「山の晨明に関する童話風の構想」

  三七五  山の晨明に関する童話風の構想

つめたいゼラチンの霧もあるし
桃いろに燃える電気菓子もある
またはひまつの緑茶をつけたカステーラや
なめらかでやにっこい緑や茶いろの蛇紋岩
むかし風の金米糖でも
wavellite の牛酪でも
またこめつがは青いザラメでできてゐて
さきにはみんな
大きな乾葡萄レジンがついてゐる
みやまういきゃうの香料から
蜜やさまざまのエッセンス
そこには碧眼の蜂も顫へる
さうしてどうだ
風が吹くと 風が吹くと
傾斜になったいちめんの釣鐘草ブリューベルの花に
かゞやかに かがやかに
またうつくしく露がきらめき
わたくしもどこかへ行ってしまひさうになる……
蒼く湛へるイーハトーボのこどもたち
みんなでいっしょにこの天上の
飾られた食卓に着かうでないか
たのしく燃えてこの聖餐をとらうでないか
そんならわたくしもたしかに食ってゐるのかといふと
ぼくはさっきからこゝらのつめたく濃い霧のジェリーを
のどをならしてのんだり食ったりしてるのだ
ぼくはじっさい悪魔のやうに
きれいなものなら岩でもなんでもたべるのだ
おまけにいまにあすこの岩の格子から
まるで恐ろしくぎらぎら熔けた
黄金の輪宝くるまがのぼってくるか
それともそれが巨きな銀のラムプになって
白い雲の中をころがるか
どっちにしても見ものなのだ
おゝ青く展がるイーハトーボのこどもたち
グリムやアンデルゼンを読んでしまったら
じぶんでがまのはむばきを編み
経木の白い帽子を買って
この底なしの蒼い空気の淵に立つ
巨きな菓子の塔を攀ぢよう

Wavellit

きょうは、「1925、8、11」の日付がある「山の晨明に関する童話風の構想」です。

1925年8月10日から11日にかけて賢治は、北上山地のほぼ中央に位置する早池峰山(1914m)に登っています。この山行中の作品が、これまで読んできた「〔朝のうちから〕」「渓にて」、 「河原坊(山脚の黎明)」、それに、この「山の晨明に関する童話風の構想」です。

「山の晨明に関する童話風の構想」も、10日夜、コメガモリ沢登山道入口の河原坊付近で得た幻想的な作品ですが、山岳信仰の場らしく宗教的な荘厳さを醸し出す、きのうまで読んだ 「河原坊(山脚の黎明)」とは、ずいぶん雰囲気がちがっています。

たとえば冒頭、山の明けがたの清涼な形象を「つめたいゼラチンの霧もあるし/桃いろに燃える電気菓子もある/またはひまつの緑茶をつけたカステーラや/なめらかでやにっこい緑や茶いろの蛇紋岩」と食指 を 動かす甘美な別次元の世界へと転写させるかと思えば、「蒼く湛へるイーハトーボのこどもたち/みんなでいっしょにこの天上の/飾られた食卓に着かうでないか」などと、読み手を理想郷へと誘い出します。

「晨明」(しんめい)は、夜明け、明け方。「晨とは本来房星の別名。房宿(28宿の一、和名そいぼし)は、さそり座の頭とハサミにあたるβ、δ、π、ρの四星である。このうちπ星を房(晨)星と言い、農事を示す星と言う」(『宮澤賢治語彙辞典』)とされます。この詩からすれば「いまにあすこの岩の格子から/まるで恐ろしくぎらぎら熔けた/黄金の輪宝がのぼってくるか」という瞬間にあたります。

「wavellite の牛酪」の「wavellite 」(銀星石)=写真=は、リン酸塩鉱物のひとつで、主に燐灰石が変化してできる二次鉱物。劈開面から放射状の光沢を放ちます。発見した英国のWilliam Wavellにちなんで名づけられました。この詩では、自然現象や風物がことごとく美味しそうなお菓子や飲み物になっていますが、「wavellite 」は牛酪、すなわちバターになっています。
「蒼く湛へるイーハトーボのこどもたち」「青く展がるイーハトーボのこどもたち」というように、賢治の心象世界における理想郷をしめす、「岩手」(いはて)をモチーフとした有名な“地名”が登場します。

『注文の多い料理店』の広告文には「イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」とあります。

賢治は「イエハトブ」「イーハトヴ」「イーハトーヴ」「イーハトーヴォ」「イーハトーボ」「イーハトーブ」の六つの表記を用いていますが、この詩の「こどもたち」がいるのは「イーハトーボ」です。


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2021年08月16日

宮沢賢治「河原坊(山脚の黎明)」㊦

誰かまはりをあるいてゐるな
誰かまはりをごくひっそりとあるいてゐるな
みそさざい
みそさざい
ぱりぱり鳴らす
石の冷たさ
石ではなくて二月の風だ
 ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……
誰か来たな
 ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……
 ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……
 ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……
 そこの黒い転石の上に
 うす赭いころもをつけて
 裸脚四つをそろへて立つひと
 なぜ上半身がわたくしの眼に見えないのか
 まるで半分雲をかぶった鶏頭山のやうだ
 ……あすこは黒い転石で
   みんなで石をつむ場所だ……
 向ふはだんだん崖になる
 あしおとがいま峯の方からおりてくる
 ゆふべ途中の林のなかで
 たびたび聞いたあの透明な足音だ
 ……わたくしはもう仕方ない
   誰が来ように
   こゝでかう肱を折りまげて
   睡ってゐるより仕方ない
   だいいちどうにも起きられない……
       :
       :
       :
      叫んでゐるな
    (南無阿弥陀仏)
    (南無阿弥陀仏)
    (南無阿弥陀仏)
 何といふふしぎな念仏のしやうだ
 まるで突貫するやうだ
   :
   :
   :
 もうわたくしを過ぎてゐる
 あゝ見える
 二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ
 黒の衣の袖を扛げ
 黄金で唐草模様をつけた
 神輿を一本の棒にぶらさげて
 川下の方へかるがるかついで行く
 誰かを送った帰りだな
 声が山谷にこだまして
いまや私はやっと自由になって
眼をひらく
こゝは河原の坊だけれども
曾つてはこゝに棲んでゐた坊さんは
真言か天台かわからない
とにかく昔は谷がも少しこっちへ寄って
あゝいふ崖もあったのだらう
鳥がしきりに啼いてゐる
もう登らう

ミソサザイ

「河原坊(山脚の黎明)」のつづき。きょうは33行目から最後までの後半部を読みます。

きのうの前半部にあったように、詩人は「伏流の巨きな大理石の転石に寝よう」としますが、寝つかれなかったらしく、河原を散策して「平らな石」に横たわり、「ねむらうねむらう」とします。そして、きょうの冒頭「誰かまはりをあるいてゐるな」と感じます。

「みそさざい」は、ミソサザイ科の鳥で、翼長5cmほど、褐色で翼や尾羽には小黒斑が散在します。日本最小の鳥の一つ。全国に分布・繁殖し、夏には山地のやや湿った場所にすみ、冬には山麓に下ります。がけの下や岩の下等にコケで球形の巣を作り、昆虫類を捕食します。雄は体に似合わない大きな声でチチ、チョッ、チョッとさえずります。

「みそさざい/みそさざい」のリフレインの後には、「半分冷えれば半分からだがみいらになる」などの、何やら呪文めいた文句が繰り返されていきます。頭や喉、胸など上半身が熱くなり、下半身が「冷え」きるような神秘的な体験をするのです。

「誰か来た」。それは、雲のかかった「鶏頭山」のように「上半身がわたくしの眼に見えない」。「鶏頭山」(1445m)は、早池峰連山の岩峰として、ひときわ存在感をはなつ山です。早池峰主峰の西、中岳を経て約5キロの地点にあります。

かつて、修験道の霊地である早池峰山にも登った賢治。「ゆふべ途中の林のなかで」も「たびたび聞いたあの透明な足音」がします。かれら「二人のはだしの逞ましい若い坊さん」は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えているのです。

二人の「坊さん」は、念仏を唱えながら「まるで突貫すっるやう」に詩人のからだを通過していきます。おそらく「誰か」の霊を「送った帰り」なのです。賢治は、山麓の大理石の岩場で、見えない世界を見ている、いわば霊視体験をしているようです。


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2021年08月15日

宮沢賢治「河原坊(山脚の黎明)」㊤

  三七四  河原坊(山脚の黎明)

わたくしは水音から洗はれながら
この伏流の巨きな大理石の転石に寝よう
それはつめたい卓子だ
じつにつめたく斜面になって稜もある
ほう、月が象嵌されてゐる
せいせい水を吸ひあげる
楢やいたやの梢の上に
匂やかな黄金の円蓋を被って
しづかに白い下弦の月がかかってゐる
空がまた何とふしぎな色だらう
それは薄明の銀の素質と
夜の経紙の鼠いろとの複合だ
さうさう
わたくしはこんな斜面になってゐない
も少し楽なねどこをさがし出さう
あるけば山の石原の昧爽
こゝに平らな石がある
平らだけれどもここからは
月のきれいな円光が
楢の梢にかくされる
わたくしはまた空気の中を泳いで
このもとの白いねどこへ漂着する
月のまはりの黄の円光がうすれて行く
雲がそいつを耗らすのだ
いま鉛いろに錆びて
月さへ遂に消えて行く
  ……真珠が曇り蛋白石が死ぬやうに……
寒さとねむさ
もう月はたゞの砕けた貝ぼたんだ
さあ ねむらうねむらう
 ……めさめることもあらうし
   そのまゝ死ぬこともあらう……

河原坊

きょうから、「河原坊(山脚の黎明)」という80行余りの作品を読んでいきます。「1925、8、11」の日付があります。きょうは、32行目までです。

「河原坊」=写真=は、早池峰山の南、コメガモリ沢に沿ったあたり。修験道の山だったころは、ここに七堂伽藍があったそうです。標高1030m。「水音から洗はれながら/この伏流の巨きな大理石の転石に寝よう」。そんな詩人の河原坊における夜の心象風景が、この作品ではうたわれていきます。

早池峰山(はやちねさん)は、北上高地のほぼ中央にある標高 1917mの山。遠野、花巻、宮古市の境界に位置する。北上高地の最高峰で、山体は早池峰岩体と呼ばれる蛇紋岩、その他の超塩基性岩類からなり巨岩が露出しています。山頂一帯の、ハヤチネウスユキソウなど森林植物群落は、国の特別天然記念物に指定されています。

「象嵌(ぞうがん)」は、工芸品の装飾技法の一つ。地の素材となる金属・木材・陶磁などを彫り、そこに金、銀、貝、地と異なる色や種類の木や陶磁などの材料をはめ込んで模様を表現します。ここでは、夜空に「月」がはめこまれているイメージです。

「いたや」は、以前も見たようにイタヤカエデのこと。葉は掌状に3~9裂しますが、鋸歯はありません。樹高25~30m,直径1mの高木になります。4〜5月、小枝の先に緑黄色の花を開きます。

「経紙」(きょうがみ、きょうし)は、写経の用紙。追善のため故人にゆかりのある紙がしばしば用いられます。

「石原」は、 小石のたくさんある、ごつごつした平地。「昧爽(まいそう)」は、よあけ、あかつきのこと。

「貝ぼたん」は、貝ボタンとは貝殻を原料としてつくられたボタンのこと。貝の厚みや大きさ、貝の持つ真珠層の輝きなどでボタンとして使用できる貝は限れ、高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝などが原貝として使われます。熱には大変強い反面、衝撃には弱い性質があります。消えていく「月」を「たゞの砕けた貝ぼたんだ」と言います。

「蛋白石」は、非晶質の含水珪酸鉱物。半透明か不透明の乳白色で、不純物の入り具合によって種々の色になります。美しい真珠光沢のあるものは宝石となります。詩人は、月が消えていくのを「蛋白石が死ぬやうに」などと表現しています。


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2021年08月14日

宮沢賢治「渓にて」

  三七二  渓にて

うしろでは滝が黄いろになって
どんどん弧度を増してゐるし
むじな色の雲は
谷いっぱいのいたやの脚をもう半分まで降りてゐる
しかもこゝだけ
ちゃうど直径一米
雲から掘り下げた石油井戸ともいふ風に
ひどく明るくて玲瓏として
雫にぬれたしらねあふひやぜんまいや
いろいろの葉が青びかりして
風にぶるぶるふるへてゐる
早くもぴしゃっといなびかり
立派に青じろい大静脈のかたちである
さあ鳴りだした
そこらの蛇紋岩橄欖岩みんなびりびりやりだした
よくまあこゝらのいたやの木が
こんなにがりがり鳴るなかで
ぽたりと雫を落したり
じっと立ったりしてゐるもんだ
早く走って下りないと
下流でわたって行けなくなってしまひさう
けれどもさういふいたやの下は
みな黒緑のいぬがやで
それに谷中申し分ないいゝ石ばかり
何たるうつくしい漢画的装景であるか
もっとこゝらでかんかんとして
山気なり嵐気なり吸ってゐるには
なかなか精神的修養などではだめであって
まづ肺炎とか漆かぶれとかにプルーフな
頑健な身体が要るのである
それにしても
うすむらさきにべにいろなのを
こんなにまっかうから叩きつけて
素人をおどすといふのは
誰の仕事にしてもいゝ事でないな

ムジナ


きょうは「渓にて」という詩、「1925、8、10」の日付があります。賢治らしいスケールの大きな比喩で、「渓」の雄大な自然が描かれています。

「渓(たに)」は、地表にできた狭くて細長いくぼ地。浸食作用でできた河谷・氷食谷、断層運動や褶曲運動でできた断層谷や褶曲谷もあります。

「弧度」は、角の単位。円の半径に等しい弧に対する中心角が1弧度とされます。1弧度は約57.295度。

「むじな」=写真=は、タヌキまたはアナグマの俗称です。化けて人をだましたり、山道を歩いていると砂をまき掛けたり、高僧になりすまして犬に噛み殺されたり、汽車に化けて本当の汽車にひき殺されたり。人を化かす点はタヌキと同様ですがどこか憎めないところがあります。なんと、その色を「雲」のたとえで用いています。

「石油井戸」は、油田において原油を採掘するために使う井戸、つまり油井のこと。1871(明治4)年、長野市善光寺で綱式掘削機を使って石油井を掘ったのが始まり。近代的石油鉱業としての開発は、1891(明治24)年に新潟県出雲崎海岸で発見された尼瀬油田とされています。その後、新鋭掘削機、科学的探鉱開発技術の導入などで、国内油田の探鉱開発が促進されていきます。

この詩が作られた1920年ころは、国内油田の黄金時代。国内石油生産量は、当時の石油需要の約75%を賄っていたそうです。賢治は、そんな黄金時代にあった「石油井戸」を、「雲から掘り下げ」ています。

「しらねあふひ」つまりシラネアオイは、本州中北部から北海道の深山の林にはえるシラネアオイ科の多年草。茎は高さ15〜50cm、上方に2枚の葉がつきます。花は初夏、径5〜10cm、淡青紫色の美しい萼片を4枚つけます。

「大静脈」は、肺以外の全身から血液を集めて、心臓に送る静脈の本幹。上大静脈と下大静脈とがあります。上大静脈はおもに上半身の血液を集めて胸部を下り、下大静脈は下半身の血液を集めて腹部を上って横隔膜を貫き、いずれも心臓の右心房に開口します。賢治は、この「大静脈」を「いなびかり」の比喩に用いています。

「橄欖岩」は、マントル上半部をつくる岩石が地表に出てきた岩石。深さ約400キロまでのマントル上部は橄欖岩から構成されていると考えられています。橄欖岩の多くは「蛇紋岩」となって産出します。西南日本の黒瀬川構造帯に多く分布する蛇紋岩は、橄欖岩起源のものとされています。

「いたや」は、イタヤカエデ(板宿楓)のこと。カエデ科カエデ属の落葉高木の総称で、アカイタヤ、エンコウカエデ、オオエゾイタヤなど種類は多数あります。堅くて粘りがあるため、加工は難しいものの、仕上がりは絹糸光沢がある美しいものとなります。

「いぬがや」は、イヌガヤ科の常緑低木または高木。大きいものは高さ15メートル、直径30センチメートルになります。樹皮は暗褐色で浅く縦にはげる。葉は互生し、線形で長さ2~5センチ、先は急にとがり、側枝では枝の左右に2列に並びます。3~4月に開花。黄色い雄花は球状に集まって前年枝の葉の付け根につき、雌花は緑色で小枝の先に1、2個つきます。

「プルーフ」(proof)には、「ウォータープルーフ」(耐水性)というように、防ぐ、よける、などの意があります。


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2021年08月13日

宮沢賢治「〔朝のうちから〕」

  三七〇

  ・・・・・・朝のうちから
     稲田いちめん雨の脚・・・・・・
駅の出口のカーヴのへんは
X形の信号標や
はしごのついた電柱で
まづは巨きな風の廊下といったふう
ひどく明るくこしらへあげた
  ・・・・・・せいせいとした穂孕みごろ
     稲にはかゝる水けむり・・・・・・
親方は
信号標のま下に立って
びしゃびしゃ雨を浴びながら
じっと向ふを見詰めてゐる
  ・・・・・・雨やら雲やら向ふは暗いよと・・・・・・
そのこっちでは工夫が二人
つるはしをもちしょんぼりとして
三べん四へん稲びかりから漂白される
  ・・・・・・くらい山根に滝だのあるよと・・・・・・
そのまたこっちのプラットフォーム
駅長室のはしらには
夜のつゞきの黄いろなあかり
  ・・・・・・雨やら雲やら向ふは・・・・・・
雨の中から
黒いけむりがもくもく湧いて
機関車だけが走ってくる
ずゐぶん長い煙突だけれども
まっ正直に稲妻も浴び
浅黄服着た火夫もわらって顔を出し
雨だの稲だのさっと二つに分けながら
地響きさせて走ってくれば
親方もにんがり笑ひ
工夫も二人腕を組む
  ・・・・・・雨やら雲やら・・・・・・

ほばらみ

きょうは「三七〇」という番号がふられた作品です。この詩には「1925、8、10」の日付があります。

この年の7月25日付の、弟清六あての手紙で賢治は「何と云つても暑くてずゐぶんひどいだらう。みんなに折角安心するやうにはなしてゐるけれどもおれもかなり心配してゐる。それでも人にはめいめいのもつてゐる徳があつてさうめちやめちやにひどい目に会ふまいとも思ふ。も少しのところだ。ひどいだらふがどうかしつかりやつてくれ。」と記しています。

「今日も雨はふらず/みんなはあっちにもこっちにも/植えたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて」(「渇水と座禅」)とあったように、ひでり、干ばつに喘いでいた時期に「朝のうちから/     稲田いちめん雨の脚」と、恵みの雨が降って、浮き立つような明るい雰囲気が漂います。「雨やら雲やら向ふは暗いよと」などと、あちらこちらから唄声らしきも。

「穂孕みごろ」=写真=とは、幼穂形成期の終了する出穂前18日頃から出穂期までの期間をいいます。この間に、幼穂は2~3cmの長さから全長近くにまで伸びて、すでに出葉し展開を終えた止葉葉鞘の基部にまで達します。穂が大きくなるのに伴って、葉鞘は膨れます。穎花の大きさも、著しく成長する時期です。穂孕み期は幼穂の外形が完成してから穎花の内部ができあがるまでにあたり、穂孕み期の不稔は、深刻な被害を引き起こします。

19世紀初め、イギリスで鉄道が誕生したころの「信号標」はルートシグナルで、「停止信号」と「進行信号」しか無かったといいます。その鉄道技術が日本に伝えられ、1872年に開業した日本初の鉄道には、停止信号の手前に遠方信号機が設けられ、それが注意信号の役割を果たしていたようで、最初の鉄道の注意信号は緑色、進行信号は白色だったとか。

「銀河鉄道の夜」には、「レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。」とあります。

「浅黄」は、「葱(あさぎ)」色。薄青、薄藍、薄緑、水色などをさします。


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2021年08月12日

宮沢賢治「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」㊦

さうだやっぱりイリドスミンや白金鉱区やまの目論見は
鉱染よりは砂鉱の方でたてるのだった
それとももいちど阿原峠や江刺堺を洗ってみるか
いいやあっちは到底おれの根気の外だと考へようが
恋はやさし野べの花よ
一生わたくしかはりませんと
騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが
そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡
いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も
続々うしろへたたんでしまって
なほいっしんに野原をさしてかけおりる
わが親愛なる布佐機関手が運転する
岩手軽便鉄道の
最後の下り列車である

浅草

「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」のつづき。きょうは、43行目から、最終58行目までを眺めていきます。

この間「鉱染とネクタイ」で見たように「イリドスミン」はイリジウムとオスミウムとの合金、「鉱染」は岩石の割れ目にガスや溶液が浸透し、鉱石鉱物が入ってくることをいいます。

「阿原峠」は、奥州市と一関市の境にある峠(標高670m)。

「恋はやさし野べの花よ」は、浅草オペラ華やかなりし当時、田谷力三の持ち歌だったオペレッタ「ボッカチオ」の、次のような歌詞の一節です。

恋はやさしい 野辺の花よ
夏の日のもとに 朽ちぬ花よ 
熱い思いを 胸にこめて
疑いの霜を 冬にもおかせぬ
わが心の ただひとりよ

田谷力三(1899-1988)は、大正・昭和時代のテノール歌手。10歳で三越呉服店の少年音楽隊にはいり、大正6年にはローシーが主宰する赤坂ローヤル館の歌劇団に入団し、デビュー。その翌年、浅草オペラにうつり、黄金期のスターとして活躍しました。

「恋はやさし野べの花よ/一生わたくしかはりませんと/騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが」知ったことではないと、「わが親愛なる布佐機関手」の運転で、駆け下りる」というのです。「布佐機関手」は、下書稿では「熊谷機関手」になっています。

岩手軽便鉄道は、1936年8月1日をもって国有化されました。栗原敦が「国有記念」の写真帖を調べたところ、「熊谷賢次郎」という機関手が、大正13年に運転していたことはまず間違いない、そうです。


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2021年08月11日

宮沢賢治「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」㊥

とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りぐらゐやれないものは
もうどこまででも連れて行って
北極あたりの大避暑市でおろしたり
銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり
ふしぎな仕事に案内したり
谷間の風も白い花火もごっちゃごちゃ
接吻(キス)をしようと詐欺をやらうと
ごとごとぶるぶるゆれて顫へる窓の玻璃(ガラス)
二町五町の山ばたも
壊れかかった香魚あゆやなも
どんどんうしろへ飛ばしてしまって
ただ一さんに野原をさしてかけおりる
      本社の西行各列車は
      運行敢て軌によらざれば
      振動けだし常ならず
      されどまたよく鬱血をもみさげ
       ……Prrrrr Pirr!……
      心肝をもみほごすが故に
      のぼせ性こり性の人に効あり

列車

宮沢賢治「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」のつづき。きょうは、23行目から42行目までです。

岩手軽便鉄道は、1911(明治44)年10月12日、資本金100万円で会社が設立されました。本社は花巻町に置かれ、初代社長は金田一勝定(盛岡銀行頭取)、株主の大半は沿線住民で、宮沢賢治の母方の祖父も出資していたそうです。

1912(大正元)年9月に路線の建設工事が両端から開始され、1915年11月23日、最後の岩根橋-柏木平間9.5kmが開通して、花巻-仙人峠間65.3kmが全通しました。こうして花巻から釜石の仙人峠までが762mm軌間の軽便鉄道で結ばれたわけです。

この詩が作られた1925(大正14)年には、岩手軽便鉄道取締役だった瀬川弥右衛門が貴族院議員に選ばれ、岩手軽便鉄道の国有化の運動も始められました。

ところで、きのう読んだこの詩の冒頭のところに「まっしぐらに西の野原に奔けおりる/岩手軽便鉄道の/今日の終りの列車である」とありました。軽便鉄道は、釜石方面から花巻へと向かっているのです。当時の「終りの列車」すなわち最終列車は、午後7時45分花巻着だったとか。

「接吻(キス)をしようと詐欺をやらうと/ごとごとぶるぶるゆれて顫へる窓の玻璃(ガラス)」などと、ここでも軽快にジャズのリズムを放って進行します。

「香魚」は、愛着を込めて呼んだアユの異名。淡水魚には通常、泥臭いにおいがありますが、アユはさわやかな食味があるところからきているようです。食味のよさは、6月から8月にかけて、アユは藻類をよく食べて、腹腔内に多くの脂肪を蓄えるためだとか。

「香魚やな」は、雑漁具の一種。川の両岸から石や竹の簀の子で水路を遮断し、口の開いた川の中央部に木材、竹などで支柱を立てて、この上に竹の簀の子などを張ります。石や簀の子で遊泳路を断たれた魚類は開口部に敷設された簀の子の部分に誘導されて、この上に乗って漁が行われます。

勢いよく走る軽快感に、「本社の西行各列車は/運行敢て軌によらざれば/振動けだし常ならず/されどまたよく鬱血をもみさげ/・・・・・・Prrrrr Pirr!・・・・・・」と文語調で、賢治らしい諧謔を飛ばしています。


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2021年08月10日

宮沢賢治「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」㊤

  三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)

ぎざぎざの班糲岩の岨づたひ
膠質のつめたい波をながす
北上第七支流の岸を
せはしく顫へたびたびひどくはねあがり
まっしぐらに西の野原に奔けおりる
岩手軽便鉄道の
今日の終りの列車である
ことさらにまぶしさうな眼つきをして
夏らしいラヴスィンをつくらうが
うつうつとしてイリドスミンの鉱床などを考へようが
木影もすべり
種山あたり雷の微塵をかがやかし
列車はごうごう走ってゆく
おほまつよひぐさの群落や
イリスの青い火のなかを
狂気のやうに踊りながら
第三紀末の紅い巨礫層の截り割りでも
ディアラヂットの崖みちでも
一つや二つ岩が線路にこぼれてようと
積雲が灼けようと崩れようと
こちらは全線の終列車
シグナルもタブレットもあったもんでなく

けいびん

「三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」は、全58行。「1925、7、19」の日付があります。きょうは、その最初の22行です。

岩手軽便鉄道は、1911(明治44)年に架設された、花巻-仙人峠間65.3km(軌間762mm)を結ぶ軽便鉄道(軌道の幅がせまく、小型の機関車および車両を用いる鉄道の俗称)。

日本鉄道会社によって1891年、現在の東北本線にあたる東京-青森間が開通した後、枝線は民間の手でという方針で1910年に軽便鉄道法が公布され、1914(大正3)年に花巻-仙人峠間が開通しました。

その後、釜石鉱山鉄道と結ばれて国有化しますが、戦後、空中ケーブルで一部がつながれていた仙人峠にトンネルが貫通し、1950(昭和25)年に釜石線として花巻-釜石間が開通しました。賢治もたびたび利用しています。

国内における「ジャズ」は、1910年代半ば(明治末から大正初め)に太平洋航路客船の楽団の日本人演奏者たちが、アメリカで流行していたラグタイム音楽やフォックス・トロットなど新しいダンスの音楽を知り、その演奏を試み始めたのが始まり、といわれています。

リーダーだったバイオリン奏者の波多野福太郎(1890-1974)は、1918(大正7)年に船を離れ、ハタノ・オーケストラを結成。東京の映画館で無声映画の伴奏をつとめたり、休憩時間にアメリカの流行曲も演奏して評判になりました。

この詩の作られた1920年代に入るとダンスが盛んになり、東京や関西にできたダンスホールの楽団員たちがレコードを聴きながらジャズを研究するようになります。1923年にはバイオリン奏者の井田一郎(1894-1972)が、日本初のプロのジャズ・バンド、ラフィング・スターズを結成しています。

賢治は、こうしたジャズを、クラシック音楽とともに好んで作品に取り入れています。たとえば童話「セロ弾きのゴーシュ」の中でゴーシュは「何だ愉快な馬車屋ってジャズか。」と答え、楽譜を手にすると笑い出して「ふう、変な曲だなあ」と感想をもらします。

ここでは「せはしく顫へたびたびひどくはねあがり」「狂気のやうに踊りながら」などと、軽便鉄道をジャズのリズムに合わせて軽快に描いています。

「イリス」は、きのうの「種山ヶ原」で「濃艶な紫いろの/アイリス」とあった、アイリスのこと。虹の女神名でもあります。

「ディアラヂット」は、異剥輝石。ふつう、輝石のうちで、真珠光沢や金属光沢があり、劈開が発達して複雑にはがれるものをこう呼んでいます。 断口面が不規則なことから、ギリシア語のdiallage(違い)に由来して名前がつけられたそうです。


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2021年08月09日

宮沢賢治「種山ヶ原」

  三六八  種山ヶ原

まっ青に朝日が融けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう露でぐしゃぐしゃ
図板のけいも青く流れる
ところがどうもわたくしは
みちをちがへてゐるらしい
ここには谷がある筈なのに
こんなうつくしい広っぱが
ぎらぎら光って出てきてゐる
山鳥のプロペラアが
三べんもつゞけて立った
さっきの霧のかかった尾根は
たしかに地図のこの尾根だ
溶け残ったパラフヰンの霧が
底によどんでゐた、谷は、
たしかに地図のこの谷なのに
こゝでは尾根が消えてゐる
どこからか葡萄のかをりがながれてくる
あゝ栗の花
向ふの青い草地のはてに
月光いろに盛りあがる
幾百本の年経た栗の梢から
風にとかされきれいなかげろふになって
いくすぢもいくすぢも
こゝらを東へ通ってゐるのだ

種山

きょうの詩「種山ヶ原」には「1925、7、19」の日付があります。「山上の野原」に「濃艶な紫いろの/アイリスの花がいちめん」に咲いている時節の「種山ヶ原」を鮮やかに描いています。

「アイリス」は、アヤメ科イリス属の総称。イリスはギリシア語で虹を意味し、虹のように美しい花からつけられた、といわれます。花形はアヤメ形といわれ、3枚の外側の花弁と、それより小さい内側の3枚の花弁、さらに3裂した花柱(雌しべ)と下に1個ずつ葯(雄しべ)からなっています。

「種山ヶ原」(たねやまがはら)は、岩手県南部、気仙郡と奥州市の境界にある物見山(種山、871メートル)を中心にした高原地帯です。北上高地の南西部の東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で、夏はツツジが群生し、放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的風景が展開します。

藩政時代に伊達公直営の放牧地であったと言われています。明治維新のころから、近在農民の採草放牧地として自由に利用されてきました。明治34(1901)年には、軍馬補充部六原支部種山出張所が、放牧地として4700haを経営するようになっていました。

賢治は種山ヶ原をしばしば訪れ、その風景や気象を題材に、童話「風の又三郎」や戯曲「種山ヶ原の夜」、さらに多くの詩・短歌を残しました。

童話「種山ヶ原」には、「北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖(かんらん)岩からできています。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五、六軒ずつの部落があります。春になると、北上の河谷のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此の部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放はなされます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまうのです。・・・・・・」

この詩「種山ヶ原」には長大な下書稿があります。たとえば、「下書稿(一)パート三」は、次の通りです。

この高原の残丘〔モナドノックス〕
こここそその種山の尖端だ
炭酸や雨あらゆる試薬に溶け残り
苔から白く装はれた
アルペン農の夏のウィーゼのいちばん終りの露岩である
わたくしはこの巨大な地殻の冷え堅まった動脈に
槌を加へて検べやう
おゝ角閃岩斜長石 暗い石基と班晶と
まさしく閃緑はん岩である
じつにわたくしはこの高地の
頑強に浸食に抵抗したその形跡から
古い地質図の古生界に疑をもってゐた
そしてこの前江刺の方から登ったときは
雲が深くて草穂は高く
牧路は風の通った痕と
あるかないかにもつれてゐて
あの傾斜儀の青い磁針は
幾度もぐらぐら方位を変へた
今日こそはこのよく拭はれた朝ぞらの下
その玢岩の大きな突起の上に立ち
なだらかな準平原や河谷に澱む暗い霧
北はけはしいあの死火山の浅葱まで
天に接する陸の波
イーハトヴ県を展望する
いま姥石の放牧場が
緑青いろの雲の影から生れ出る
そこにおゝ幾百の褐や白
馬があつまりうごいてゐる
かげらふにきらきらゆれてうこいてゐる
食塩をやらうと集めたところにちがひない
しっぽをふったり胸をぶるっとひきつらせたり
それであんなにひかるのだ
起伏をはしる緑のどてのうつくしさ
ヴァンダイク褐にふちどられ
あちこちくっきりまがるのは
この高原が
十数枚のトランプのあおいカードだからだ
・・・・・・蜂がぶんぶん飛びめぐる・・・・・・
海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
 水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
   ・・・・・・蜂はどいつもみんな小さなオルガンだ・・・・・・

『宮澤賢治語彙辞典』には、「種山ヶ原は浄福な天上により近い高原であると同時に、ダイナミックに急変する天候、風や雲の変幻自在な一大空間は彼の心象風景に呼応した」とあります。


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2021年08月08日

宮沢賢治「鉱染とネクタイ」

  三六六  鉱染とネクタイ

蠍の赤眼が南中し
くはがたむしがうなって行って
房や星雲の附属した
青じろい浄瓶星座がでてくると
そらは立派な古代意慾の曼陀羅になる
  ……峡いっぱいに蛙がすだく……
     (こゝらのまっくろな蛇紋岩には
      イリドスミンがはひってゐる)
ところがどうして
空いちめんがイリドスミンの鉱染だ
世界ぜんたいもうどうしても
あいつが要ると考へだすと
  ……虹のいろした野風呂の火……
南はきれいな夜の飾窓ショーウヰンドウ
蠍はひとつのまっ逆さまに吊るされた、
夏ネクタイの広告で
落ちるかとれるか
とにかくそいつがかはってくる
赤眼はくらいネクタイピンだ

イリドスミン

きょうの「鉱染とネクタイ」には、「1925、7、19」の日付があります。

岩石学では、岩石が形成された後で、岩石の小さな割れ目に沿い、あるいは地層や岩塊全体にわたって鉱化ガスや熱水溶液が浸透し、鉱石鉱物が入ってくることを「鉱染」作用といいます。交代作用によるか、直接空洞を充たすか、循環溶液が作用するかして鉱石鉱物が発達します。

そんな鉱石鉱物の一つがイリドスミン=写真。イリジウムとオスミウムとの合金で、天然にも産します。耐食性が強く、硬いので、万年筆のペン先などに使われます。詩人は「蛇紋岩には/イリドスミンがはひってゐる」といい、そして「空いちめんがイリドスミンの鉱染だ」と賢治ならではの比喩表現を展開してます。

「蠍(さそり)」座は、賢治が最も好んだ星座、とされています。夏の夕方、南天の低いところにS字状に輝きます。

それを賢治は「南はきれいな夜の飾窓ショーウヰンドウ/蠍はひとつのまっ逆さまに吊るされた、/夏ネクタイの広告で/落ちるかとれるか/とにかくそいつがかはってくる/赤眼はくらいネクタイピンだ」と鮮やかに表現しています。

ここに「赤眼はくらいネクタイピンだ」とあるのは、α星のアンタレスを指しているようです。実際のところ、北緯40度の岩手では、さそり座は地平線上にあって、アンタレスのあたりしか見えなかったと考えられます。


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2021年08月07日

宮沢賢治「渇水と座禅」

だいぶ以前になりますが、宮沢賢治の『春と修羅 第2集』を少しずつ読んでいました。2018年9月20日に「図案下書」を読んだところで中断したままだったのですが、きょうからしばし、その続きへと戻ってみたいと思います。3年前に読んだ「図案下書」の次は、「258 渇水と座禅 」です。

  渇水と座禅       

にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日も雨はふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
これで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らす樋の上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分蘖の日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる

サギ

全21行、「1925、6、12」という日付があります。このとき、賢治は28歳。花巻農学校の教師をしていて、水田稲作の農業実習の担当もしていました。

「渇水」とは文字通り、雨が降らないために水のかれること、水がれ。詩「毘沙門天の宝庫」に、

  大正十三年や十四年の
  はげしい旱魃のまっ最中も

ともあるように、このころ、「はげしい旱魃」が花巻をも襲っていました。同校の実習田にしても保水力が弱く、賢治は生徒たちとしばしば低い堰の水を実習田に掻き入れる作業をしていたといいます。

「渇水」を象徴するように、樹上に巣を作り水田の「蛙」や虫を食べる「鷺」も、「ぶりき色した」「影」を落としています。

「田のくろ」の「くろ」は、畔(あぜ)のこと。

「分蘖」(ぶんけつ)は、地面に近い茎の関節から枝分れすること。下のほうから順に2次、3次の分蘖が生じます。分蘖数は収量に影響するので、肥料や土壌の適切な管理が必要になります。

「岩鐘」(がんしょう)は、地中から噴出した溶岩が地上に出て、円錐形または鐘状にかたまったもの。詩「雲の信号」には、「山はぼんやり 岩頸だって岩鐘だって みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」とあります。

「今日も雨はふらず/みんなはあっちにもこっちにも/植えたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐ」る姿を「座禅」と見なしているのでしょうか。

「渇水」時の一コマを、見事に描写しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2021年08月06日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』53 「以碑銘代跋」

  以碑銘代跋

(Bryに与ふ。)

是をストラアルズンドの処女二十有七人の墓となす。
皆某の翻訳に由りて、此詩人の近業を読み、
感じ易き青春の心、
一人の能く抑制するなく、
或は自ら縊れ、或は水に投ぜるなり。
別に一人ありて詩人に奔れり、其長椅子の上に。

ズンド

クラブントの第1詩集の一番終わりの詩が、『沙羅の木』の訳詩の中でも最後に置かれています。それが、きょうの「以碑銘代跋」です。ここには、27人の処女の碑銘、つまり石碑に刻まれた文章が記されています。原詩は次の通りです。

  Epitaph als Epilog

(Für Bry) 

Hier ruhen siebenundzwanzig Jungfrauen aus Stralsund,
Denen ward durch einen Interpreten des Dichters neueste Dichtung kund.
Die hat die empfindsamen Mädchenherzen so sehr begeistert,
Dass auch nicht eine mehr ihr Gefühl gemeistert.
Man hängte sich teils auf, teils ging man in die See.
Nur eine ging zum Dichter selbst. (Und zwar aufs Kanapee.)

この作品について、岡井隆は次のように解釈していきます。

ストラアルズンドとはどこかわからぬが、ズンド=写真=とといえばノルウェーとデンマークの間の海峡だから、異国といっても、クラブントの郷里に近い。

「此詩人」とは、タイトルに添えられた詞書にあるBryという人なのだろう。そううけとって置く。詩人よ、お前の近業を、ある人の翻訳によって読んだストラアルズンドの処女27人が自殺してしまった。その墓碑銘を、ここに綴り君の詩集への跋文とする。

ところで27人の外に一人の処女があって、彼女は(自殺する代りに)詩人のもとへと奔った。それも外ならぬ詩人の寝椅子の上に奔ったのだ。

跋文は、自分で書くこともある。自跋である。クラブントの第1詩集『曙だ! クラブントよ、日々の夜明けだ』(1913)の最後に置いたのであるから、自分の詩集への自叙跋とうけとることができる。事実その想いを込めてもいるのだろう。とすると「Bryに与ふ。」という添え書きが気になってくる。

「Bryよ、誰かが訳した君の詩集を読んだ外国(とつくに)の処女が、感動のあまり自死した。ぼくは、その27人の処女のために墓碑銘を書いた。ところで、一人の処女が居て、自死することなく君のっところへ行き同衾したというじゃないか」。

この最後の一行の寝椅子のところは、( )の中に入れてある。詩は例によって脚韻を踏んでいる。とくに「See」(入水した湖)と「Kanapee」(同衾した寝椅子)の語呂あわせなんかは、かなりきついイロニーだ。

というのです。それにしても、『沙羅の木』の訳詩の構成は、最後まで、実に多彩なのには驚かされます。入門編としての『森鷗外の「沙羅の木」を読む』は、ひとまずここまでとして、時機を見てあらためて鷗外の『沙羅の木』に挑んみたいと思います。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年08月05日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』52 「ガラスの大窓の内に」

  ガラスの大窓の内に

己はカツフエエのガラスの大窓の内にすわつて、
往来の敷石の上をぢつと見てゐる。
色と形の動くので、己の情を慰めようとしてゐる。
女やら、他所者やら、士官、盗坊、日本人、黒ん坊も通つて行く。
皆己の方を見て、内で奏する樂に心を傾けて、
夢のやうな、優しい追憶に耽らうとするらしい。
だが己は椅子に縛り付けられたやうになつて、
ぢつと外を見詰めてゐる。
誰ぞひとりでに這入つて來れば好い。
髪の明るい娘でも、髪の黒い地獄でも、
赤の、黄いろの、紫の、どの衣を着た女でも、
いつその事、脳髄までが脂肪化した、
でぶでぶの金持の外道でも好い。
只這入つて來て五分間程相手になってくれれば好い。
己はほんに寂しい。あの甘つたるい曲を聞けば、
一層寂しい。ああ己がどこか暗い所の
小さい寝臺のなかの赤ん坊で、
母親がねんねこよでも歌つてくれれば好い。

カフェ窓

きょうもクラブント詩の訳。「ガラスの大窓の内に」です。全18行からなるこの作品について岡井は、「一読してどこがいいのかわからない平凡な内容だ」と言い放ったあと、次のように読み進めています。

まず「己」は、「カツフエエ」の「ガラスの大窓」の内側に座っているというのだからカフェの室内にいるのだ。よくある、道に出ている椅子ではない。ガラス越しに往来の敷石の上を動く「色と形」を見て、自分の心を慰めようとしている。そこの往来をいろいろな人が通っていく。

「女」「他所者」「士官」「盗坊」「日本人」「黒ん坊」と列挙してあるが、この中の「他所者」や「盗坊」は、見ただけでわかるものだろうか。また、中国人と見分けがつかないとよく言われる「日本人」(Japanerヤパーナー)をわざと出しているのは解せない。また「女」というのもなんだろう。女性の「他所者」や「盗」人はいないのか。人種やジェンダーへの偏見が、かなりはっきりしているみたいだ。

「皆」とあるから、通行人は皆、ガラスの窓の内に座っている「己」を見るのだ。ここは「己」の方の見られている言っているととっていいが、「皆」が、カフェの内部で演奏する音楽に心を傾けているというのはなんだろう。ガラス窓の内側の音楽を聴くのには、往来をぞろぞろ歩くのは、ふさわしくない。

とすると、通行人が勝手に偏見をもって見分けたように、通行人の行為についても「己」は、勝手な幻想を抱いたといことなのかと思われる。「夢のやうな、優しい追憶に耽」りたいのなら、カフェの中へ入って来て、そうすればいいのである。あれもこれも「己」の勝手な幻想であり妄想であると、うけとる外ない。それならそうと、素直に書いてもいいのにクラブントは妙にもって回った言い方をする。そして「己」は「椅子に縛り付けられたやうになつて」外を見つめるばかりだ。

「己」は、話し相手がいない、寂しい心境の中に沈んでいる。それを救ってくれる人の出現をひたすら望んでいる。「髪の黒い地獄」とは「地獄=密淫売婦、私娼」を指す。してみると4行目の「女」というのも「情婦、めかけ」を指すのかもしれない。「外道=悪魔」というのも「脳髄までが脂肪化した」「でぶでぶの金持の」というのも、女性に対する相当の差別的表現であろう。寂しい、ひとりぼっちの「己」を慰めてくれる者なら誰でもいいのだ。最後には母親まで出して来てマザコンみたいなことを言っている。

というのです。ただし岡井は「こういう詩の底に、ただ孤愁を訴える青年の心情などというものだけを読みとるばかりではない」と付け足します。そして、「「己」は、クラブント自身を濃く反映しているにしても、あくまで作中主体である。こんなことを呟いている青年が、クラブントには、身近だったというにすぎない。鷗外は、この詩をなぜ選んだのだろう。クラブントらしい詩だと思ったからに違いないが、自分の若いころのドイツ留学中のある日の姿をそこに見出したためかもしれない」と推測しています。


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2021年08月04日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』51 「川は静に流れ行く」

  川は静に流れ行く

川は静に流れ行く、
同じ早さに、
波頭の
白きも見えず。

覗けば黒く、
渦巻く淵の険しさよ。
こはいかに。いづくゆか
我を呼ぶ。

顧みてわれ
色を失ふ。
漂へるは
我骸(むくろ)ゆゑ。

川

きょうもクラブント詩の訳で、「川は静に流れ行く」です。きのうの「神のへど」では、自分自身が「どの神」の吐いた嘔吐物に擬せられていました。

「川は静に流れ行く」では、自分の死骸から声をかけられて「色を失」っています。自分の死を想定しているのです。これが、まだ20代の青年の詩なのです。原詩は次の通りです。

  Still schleicht der Strom

Still schleicht der Strom
In gleicher Schnelle,
Keine Welle
Krönt weiß die Flut.

Steil ragt die schwarze
Gurgelnde Tiefe.
Da ist mir, als riefe
Mich eine Stimme.

Ich wende das Auge
Und erbleiche:
Denn meine Leiche
Tragen die Wasser...

岡井は「むろん、詩を想定することは、年齢と関係なくおきる。むしろ老齢になって死を思うのとは違う、死の予感が、青年に(あるいは少年にさえ)生ま生ましいことは現代でもみられるところだ。クラブントが、自己否定的な自己を歌った詩を、鷗外は、選び出して訳したのである」と述べています。







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2021年08月03日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』50 「神のへど」

  神のへど

どの神やらがへどをついた。
其へどの己は、其場にへたばつてゐて、
どこへも、どこへも往くことが出来ない。

でも其神は己のためを思つて、
いろいろ花の咲いてゐる
野原に己を吐いたのだ。

己は世に出てまだうぶだ。
おい、花共、己を可哀く思つてくれるのか。
お前達は己のお蔭で育つぢやないか。
己は肥料(こやし)だよ。己は肥料だよ。

クラ

きのうの「又」と同じくクラブントの詩を訳した「神のへど」です。詩人は、自分自身のことを「神(ein Gott)」が吐いた嘔吐物である「へど」と位置づけていることになります。

岡井は、こうした考えかたに対して「かなりつらい自己認識ともいえるし、その程度の存在なんだよ俺は、といった自嘲的なせりふともとれる」としたうえで、「しかし、その神って奴は、情のある奴でもあって、花原の中へ、おれを吐いてくれた。おれのお蔭で育つ、おれを肥料にして育つ花どもよ、おれをあわれんでくれるのかい、というのである」と解釈しています。

原詩は次のとおり。

  Es hat ein Gott

Es hat ein Gott mich ausgekotzt,
Nun lieg ich da, ein Haufen Dreck,
Und komm und komme nicht vom Fleck.

Doch hat er es noch gut gemeint,
Er warf mich auf ein Wiesenland,
Mit Blumen selig bunt bespannt.

Ich bin ja noch so tatenjung.
Ihr Blumen sagt, ach, liebt ihr mich?
Gedeiht ihr nicht so reich durch mich?
Ich bin der Dung! Ich bin der Dung!

原詩は、かなり音楽性に富んだ作品のようです。岡井が述べていることですが、「俺って、若僧は、こんなところなんだよ」と口ずさんでいるのです。


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2021年08月02日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』49 「又」

  又

お前又忍んで来たね、
闇の夜に。
あるたけのお前の智慧が
向不見(むおうみず)のお前の熱に負けたのだ。

そして又昔のやうにしろと、
お前は己にねだる。
せつなかつたかい。
お前泣いてゐるね。

切ない

きょうは、きのうと同じクラブント詩を訳した「又」(原題はWieder、ふたたび、くり返して等の意)です。

岡井は「いわゆる濡れ場の、男女逢い引きの詩であって、もはやこういう場面が遠い遠い記憶になってしまったわたしなど、なんと挨拶していいのかわからない詩だ。しかし52歳の鷗外はこれを選んで訳した」としたうえで、原詩に目を向けます。

  Wieder

Wieder willst du zu mir schleichen
Durch die dunkle Nacht.
Alle Kluggedanken weichen
Deinem wilden Unbedacht.

Und du bittest,
Daß ich wieder sei wie einst.
Littest
Du? – (Du weinst・・・)

そして、岡井は次のように指摘しています。

「シュライヒェン」(1行目)と「ヴァイヒェン」(3行目)、そして「ナハト」(2行目)と「ウンベタハト」(4行目)が、小唄風に響き合っている。5・6・7・8行などは、「ビッテスト」「アインスト」「リッテスト」「ヴァインスト」と、「st」でつないでいる。

7行目の「Littest」(Leiden「苦しむ」の過去形)から8行目の「お前は?(Du?)」の疑問形、そして「-」があって()の中の「お前は泣いている・・・」 のあたり、訳しにくいところを鷗外はなかなかうまく訳しているのではないか。


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2021年08月01日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む』48 「熱」

  熱 

折々道普請の人夫が来て、
石を小さく割つてゐる。
そいつが梯子を掛けて、
己の脳天に其石を敲(たた)き込む。

己の脳天はとうとう往来のやうに堅くなつて、
其上を電車が通る、五味車が通る、棺車が通る。

棺

きょうは、クラブントの5番目の訳詩「熱」です。原詩の題は「Fieber」。発熱とか、熱病とかいうときの「熱」です。短い詩ですが、前の4行と後ろの2行とのあいだに1行の空白が置かれています。「フィーバー」は身体の熱。

体温が上がったことをいっているのに、病気とか精神的亢奮などを語らずに、道路工夫が「己の脳天に」小さく割った石のかけらを「敲き込」んだ状況を言っているわけで、岡井に言わせれば「異常な想像力という外ない(わたしたちも道路工事の現場に通り合わすことがあるだろうが、まさかあの砕かれた石が自分の頭に叩き込まれるのを想像することは、あるまい)」ということになります。

百年前のドイツの話だから、今とは工作機械も違い、すべて人力だったのだろう。積んで来た石を鶴嘴で砕いて、それをセメントで固めて舗装していることが考えられる。などとしたうえで岡井は、詩の内容について次のように述べています。

「己の脳天に其石を敲き込む」というのは、広くいえば比喩的表現(暗喩)ということになる。このごろ、自分の頭の働きがにぶくなり、石頭になって来た。その舗装道路みたいに固くなった石頭の上を、喩えてみれば、電車も走れば、「五味車」(塵芥車)も通る、ときには霊柩車も通るのだ、というあたりはアイロニーを含めて笑っているともいえる。ごみとか死者とかいった負の存在をわざと出しているのである。こう考えると、この詩は〈おれの頭もこのごろ石頭になっちまって融通きかねえんだよな〉と嘆いている知的な青年クラブントの姿と、それに同情している訳者鷗外の姿とが、重ねられて、浮かんでくるのではないか。

  Fieber

Öfter kommen Chausseearbeiter
Und hacken Steine klein.
Und stellen eine Leiter
An und klopfen die Steine in meinen Schädel ein.

Der wird wie eine Straße so hart,
Über die eine Trambahn, eine Mistfuhre, ein Leichenwagen knarrt.

原詩を見ると、「脚韻風の音楽的配慮」もみられます。「・・・アルバイター」(1行目)と「ライター」(3行目)、「クライン」(2行目)と「アイン」(4行目)が響き合っています。5行目の「ハルト」が6行目の「ナルト」と脚韻を踏んでいることもわかります。こうした内容においても「小唄風に口ずさんでいる」のです。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆