2021年06月

2021年06月30日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』16 「後影」

  後影

真昼時。うち見るきはみ
青黍を刈りし畑土。
畦道を騎(の)り過ぐる民
困却す手の中の鞭。

眼鏡持つ人呼ぶ、腮(あご)の
髯黄なり、敵と口疾(くちと)に。
火閃く。伸長駆歩の
後影黍畑横に。

後影

「後影(うしろかげ)」は、明治39(1906)年10月1日刊の『明星』午歳10号に載った詩です。このとき鷗外44歳。日露戦争から凱旋した年にあたります。

『沙羅の木』のなかの創作詩は、15篇あります。その初出をまとめると次のようになります。鷗外は明治39年1月に日露戦争から帰還し、8月に第一師団軍医部長、陸軍医学校長に復しています。その間、7月号の雑誌に詩を3篇も書いていることになります。

●明治39(1906)年
・5月 「雫」(『芸苑』)
・6月 「都鳥」(『趣味』)
・7月 「三枚一銭」(『明星』)、「かるわざ」(『明星』)、「日下部」(『東亜之光』)
・9月 「沙羅の木」(『文芸界』)、「朝の街」(『芸苑』)
・10月  「後影」(『明星』)
・12月  「火事」(『東亜之光』)
●明治40(1907)年
・4月 「空洞(うつろ)」(『明星』)
・6月 「旗ふり」(『詩人』)
・8月 「人形」(『詩人』)、「直言」(『明星』)
●明治42(1909)年
・4月 「海のをみな」(『東亜之光』)
●未詳 「Modèle」

ところで、詩「後影」について、岡井は次のように鑑賞しています。

青黍を刈ったあとの畑土がうっとひろがっているところ。正午。「三井寺や日は午に迫る若楓」(蕪村)と同じく、鷗外も、正午に物の怪が出るなんて思ってはいなかっただろう。

手の中の鞭のことも忘れて畦道を馬にのってすぎていく民(支那の民)がある。後半の4行は少しわかりにくい。望遠鏡をもって観察していた人が「あごひげが黄いろいだ、敵だ」と口早に叫んだ。

そして、砲火がひらめいて、身体をのばしてギャロップして去っていく。後姿は黍畑を横に見て去っていく。この敵は、民のかっこうをした偽装したロシア兵だったのだろう。だから髯が黄色だったのだ。

五・七調にまとめるとなると、どうしてもこのぐらいの言葉の刈り込みをしなければならない。発砲したのは、むろん味方だろう。



harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月29日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』15 「都鳥」

  都鳥

初夏の日暮。みどりの
ただ中に夕ばえ煉瓦
速(まね)かざるまらうどと立つ。
高鳴るや嘲る汽笛。

機関(からくり)の不断の鞭に
むちうたれはためき過ぐる
塗舟(ぬりぶね)に経(たて)をゆづりて、
川の緯(ぬき)漕ぐわたし船。

房州と人呼ぶ聞きし
牙(げ)彫めくをぢ櫂とりて
中流のゆふあげ潮を
皺みたる腕(かひな)にしのぐ。

はや近しさんや桟橋。
水棹には芥まつはり、
浮木触れ、水底草の
乞兒(かたゐ)ぎぬちぎれ靡けり。

にび色の川淀水の
渦巻に、雌雄(めを)か、白鳥
並ぶ。こやさすらひ人の
ふりし日の風流(みやび)の記念(かたみ)。

舟人よ。あの鳥を見よ。
「はあ。ありやあかごめでがさあ。」
気ぢかきにおぢぬさま見よ。
「臭くつて食はれませんや。」

ミヤコドリ

きょうは、創作詩5番目の「都鳥」です。「なかなか、見事な、というか、技の冴えた詩だ」と岡井はいいます。「都鳥」はユリカモメです。とすると、季語は冬で、秋、日本に飛来しますが、残りカモメもいます。鷗外という号の中の「鷗」も隅田川のユリカモメと思われます。

「速(まね)かざるまらうど」は、招かざる客という俗語。初夏の日の暮の緑の木々の中に煉瓦の壁だろうか夕映えているのは、まるで招かざる客のように異物感がある。それをあざけるように、汽笛が高く鳴った。

岡井は「いわゆるぽんぽん蒸気だろう」と見ています。蒸気機関にむちうたれて遡上する「塗舟」(うるし塗りの舟)、要するにまっ黒な船が、川の経(たて)の道をゆくとすれば、それと交差する緯(よこの道)を、人の手で漕ぐのがわたしの船。作者の関心も好みも、この渡し舟のほうにあります。

鷗外は、この詩を、以下のように鑑賞しています。

房州(千葉県南部出身だからだろう)と呼ばれる船頭は、櫂をとって皺のよった腕の力で夕あげ潮の力に耐えて渡し舟を漕ぐ。このへんの描写も、韻律もなかなかいい。

ゆっくりと話をすすめるところも、最後の4行をきわ立たせるのに役立っている。棹にまとわりつく芥だの、水底草だの捨てられた衣服だのは、いつものことだろうから言う必要もないのをわざと言っている。

ユリカモメを見て、いにしえの都鳥を思っている客の一人鷗外に、「ありゃカゴメだよ」と言い放つ船頭(カゴメはかもめの俗称)。すぐそばに近づいても人をおそれないのもわるくないなと思っている客に向かって「あの肉は臭くって食べられませんや」と言い放つのである。

「速かざるまらうど」の比喩は、ユリカモメにも、それを嘆賞する客、鷗外にもあてはまるといえる。手のこんだサタイア(諷刺)ともうけとれる。

もち論、鷗外は、しばしば、隅田川の渡し船にのったろう。しかし、この詩は、必ずしも日常生活を歌った「腰弁当」氏(鷗外の筆名)の詩ではない。むしろ、ある種の皮肉、イロニーをきかせるため、渡し舟とユリカモメとを使ったともいえる。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月28日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』14 「人形」

  人形(ひとがた)

うなゐ子に人の贈りし  5・7
豆ほどの人がたいくつ、  5・7
たひらけき折敷(をしき)の上に  5・7
立てなんとすれば倒るる。  5・7
立て難きこの人形に  5・7
さも似たる「論」いく条(くだり)、  5・7
あるみ行く舟の卓(つくゑ)に  5・7
索(なは)張りて皿置くがごと、  5・7
手づつにも立つとする間(ま)に、  5・7
咀(のろ)はれし手まづ疲れて  5・7
いきの糸やがて絶ゆべし、  5・7
「系統」はTorsoなして。  5・7

五月

『沙羅の木』の15篇ある創作詩のうち、岡井の「目がとまってしまった」というのが、13番目に置かれた、きょうの「人形」です。

この詩は、明治40(1907)年8月10日発行の『詩人』3号に載りました。鷗外45歳のときの作品です。「うなゐ子」は、元服前の少年を指す古語です。明治23(1890)年に最初の妻であった赤松登志子とのあいだに生まれた長男、於兎(おと)がだいたいあてはまるようです。

この詩、数字で示したように五七調で歌われているので調子はいいものの、古語のたぐいにとまどうことがあちこちあります。岡井は言葉の意味を辞書で調べていきます。

「折敷」は、古語辞典によると「片木(へぎ)を四方に折り廻して作った角盆。食器をのせるのに用いる。杉などのほか種種の香木で作る」。ここの「片木」は「へぎ板」のこと「杉または檜の材を薄く剥いだ板」のこと。「あるみ」というのは、古語辞典で「荒海、荒れた海」という万葉語だと知った

「Torso」はイタリア語で、「首および四肢を欠く胴体だけの彫像」だが、「系統」――「順を追って学びまたは続いて統一ある」論をまとめようとすると、往々にしてトルソーみたいに首や四肢を欠くことになりやすいものだよという。その結びがきつい、といいます。

そのほか、岡井はこの詩を次のように鑑賞しています。

「豆ほどの」という大きさだが、大豆と考えてもずい分小さい。人形(たぶん五月人形だろう)を「折敷」の上に立てて遊ぶには、この大きさはどんなものか。あるいは莢に入った大豆と考えて莢ごとの大きさなのかとも思ったが、それなら「莢ほどの」とあるべきだろうと、考えてします。単に、小さい人形だということかもしれぬ。

この詩は、長男を出して来たりしているから五月人形の詩かといえば、それは違うので、それは比喩である。言いたいことは、立論のしにくさ。そういう論が世の中には多いこと、自分もまた、立論するに疲れてしまうことを嘆いているともうけとれるところにある。

「国語の系統」という言葉をみると、鷗外が津和野の藩校でうけた「国学」の教育のことが思いうかぶ。鷗外の教養は、和洋漢にわたって、津和野を出郷するまでの、「うなゐ子」のころに、すでにかなり深く根づいていたのだ。


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2021年06月27日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』13 デエメル

  夜の祈

汝(なれ)、深き眠よ。  2・7(音数)
汝(な)が覆(おほひ)の衣(きぬ)を垂れよ。 6・6
汝が黒髪を我胸に巻け。  7・7
さて汝が息を我(あ)に飲ましめよ。 7・7
喜(よろこび)と云ふ喜の限(かぎり)、  7・8
悲(かなしみ)と云ふ悲の限、  7・8
汝が唇の我胸よりさそひ出(いだ)す息に滅(き)ゆるまで。  7・6・9・5
さて汝が口附に我を逢はしめよ。  9・7
汝、深き眠よ。 2・7

デーメル

ここにあげた「夜の祈」は、『沙羅の木』にある「デエメル」の訳詩です。9篇載っているデーメルの訳詩の中で、最後に出てきます。

デーメル(Richard Dehmel、1863‐1920)は、ドイツの詩人。1880年代半ばから自然主義の仲間と交わり、文学活動を開始。道徳的抑圧から性感情を解放し、それを宇宙的な愛の世界に広げようという意志が彼の詩作の根底にあります。『解脱』(1891)、『やはり愛は』(1893)、『女と世界』(1896)の各詩集は、当時のユーゲントシュティール的な芸術感覚と軌を同じくし、世紀転換期には若い層に圧倒的な人気をもちました。かつてゲオルゲに思慕されていた女性イーダとの劇的な結婚を素材にした「詩によるロマン」と銘打つ『ふたりの人間』(1903)は彼の代表作とされます。

岡井は、この詩と関連して、上田敏『海潮音』の有名な「春の朝」(ロバアト・ブラウン)を挙げています。

  春の朝

時は春、  5(音数)
日は朝、  5
朝は七時、  7
片岡に露みちて、  5・5
揚雲雀なのりいで、  5・5
蝸牛枝に這ひ、  5・5
神、そらに知ろしめす。  5・5
すべて世は事も無し。  5・5

岡井は、素直に「夜の祈」を「春の朝」と比べてみると、両者とも、文語詩でありながら、読んだときの印象が違っている。それはたぶん、音数律の使われ方の違いにもよるのだろう、といいます。岡井は、数字で示したように音数を数えてみて、次のように鑑賞している。

七音が多く使われているようだが、「春の朝」のこころよい五・五のリズムとは異質である。異質なだけ、暗記しにくい代りに、なにやら、まがまがしい暗さもある。これでみると、不眠になやむ人が、「深き眠」のことを「汝」と呼び、女性としてとらえて、恋心にたとえながら、「深き眠」よ来て下さいと、祈っているようだ。それが「夜の祈」なのだ。睡眠時間は四時間だったとの伝説のある鷗外が、不眠になやんだという噂はないから、この詩には、鷗外自身の実感は込められていないのか。そんなことはわからない。軽々しく噂話など信じてはいけない。

さらに岡井は、「こんなふうに口語訳してみると、わりと単純な内容のようにもみえてくる」ともいいます。

あなた。ふかい眠りよ。
あなたの身体を包んでいる衣でわたしを包んで下さい。
あなたの黒髪を、わたしの胸に巻きつけて下さい。
そして、あなたの吐く息をわたしに飲ませて下さい。
喜びとよばれる感情の極限まで、
悲しみといわれる感情の極限まで、
あなたの口唇がわたしの胸からさそい出す、
その息によって滅ばされてしまうまで。
そして、そのあなたの接吻(くちづけ)と出逢わせて下さい。
あなた、ふかい眠りよ。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月26日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』12 「鷲の巣」

  鷲の巣

山川を挟む小村は、
麦秋の晴れたる朝も、
岸壁の日を遮りて、
ひむがしの麓小暗し。

西山の岩は高く、
朝日影きらめくきはを、
村人はこぞりて見居り。
これはこれ荒鷲の巣ぞ。

此村の有りてこのかた、
此鳥はここに巣くへり。
此鳥の巣くはん限り、
此村は安き日ぞなき。

村人は相逢ふごとに、
此島の上をぞ語る。
その餌(ゑば)はゐの子、やぎの子。
人の子もつひにとられぬ。

古き世に、ますらをありて、
一たびは巣を破(や)りしかど、
さる人の又あらめやと、
村人は語り伝へぬ。

さるを今日、心たけくも、
彼岩に攀づる人あり。
そを見んと、老も若きも、
村人はこぞりて出るでぬ。

髪ちぢれ、まなこ鋭く、
年の頃はたちにやあらむ。
契りぬるをとめもあるを、
けなげにも、思ひ立ちしよ。

常のごと、雛守(も)る親の
巣の上を立ち去るを見て、
岩間より垂るる梢を
たぐりよせ、身をはね上げつ。

指攫み足踏むなべに、
つちくれに小石まじりて、
さらさらと落ち来るおとは、
詞なき群に聞えぬ。


山川を挟む小村は、
麦秋の晴れたる朝も、
岸壁の日を遮りて、
ひむがしの麓小暗し。

西山の岩は高く、
朝日影きらめくきはを、
村人はこぞりて見居り。
これはこれ荒鷲の巣ぞ。

此村の有りてこのかた、
此鳥はここに巣くへり。
此鳥の巣くはん限り、
此村は安き日ぞなき。

村人は相逢ふごとに、
此島の上をぞ語る。
その餌(ゑば)はゐの子、やぎの子。
人の子もつひにとられぬ。

古き世に、ますらをありて、
一たびは巣を破(や)りしかど、
さる人の又あらめやと、
村人は語り伝へぬ。

さるを今日、心たけくも、
彼岩に攀づる人あり。
そを見んと、老も若きも、
村人はこぞりて出るでぬ。

髪ちぢれ、まなこ鋭く、
年の頃はたちにやあらむ。
契りぬるをとめもあるを、
けなげにも、思ひ立ちしよ。

常のごと、雛守(も)る親の
巣の上を立ち去るを見て、
岩間より垂るる梢を
たぐりよせ、身をはね上げつ。

指攫み足踏むなべに、
つちくれに小石まじりて、
さらさらと落ち来るおとは、
詞なき群に聞えぬ。

静けさの常ならねばか、
山川の水の響も、
絶間なく耳を襲ひて、
にぶりたるしらべをなせり。

岸壁はいよいよ嶮し。
手一つに身を吊れるまま、
もろ足は岩のすきまを、
あちこちと、しばし尋ねつ。

やうやうに踏む岩角は
あへなくも崩れ落つめり。
身はすべり、又踏みこたへ、
くだりては、又のぼりゆく。

麓より見る村人は、
衝く息をかたみに聞きつ。
折しもあれ、あといふ声に、
皆人は、首振り向けぬ。

今までは、石に腰掛け、
ただひとり仰ぎ見ゐたる
をとめ子は、つと立ち上がり、
苦しさの声をしぼりぬ。

わかうどの攀づる手足は、
其声にたゆたふ如く、
胸の内に、をとめの上を、
しばらくは、思ふと見えぬ。

あなやあなや、攫める岩は、
此時に又も崩れぬ。
又攫む岩も崩れぬ。
石に土にまろがり落ちぬ。

百(もも)の手はそなたをさしつ。
百の声、あな、落つと呼ぶ。
をなご等は見るにえ堪へで
打背き、あるは逃れぬ。

わかうどは尸(かばね)となりて、
岸壁の下に落ち来ぬ。
をとめ子は人心地なく、
かの石の上に伏したり。

舁き上ぐる尸に近く、
髪白き翁、とひ寄り、
杖の上にもろ手かさねて、
もろ人に向ひていはく。

あはれなる此わかうどは、
身の程を量らざりしよ。
しかはあれど、人の力の
たはやすく及ばぬきはに、

鷲の巣の懸かれるは好し、
鷲の巣の懸かれるは好し。

鷲の巣

『沙羅の木』の訳詩の中には、ここにあげた、ノルウェーの作家ビュルンソン(1832-1910)の「鷲の巣」が出て来ます。

鷗外は同詩集の「序」で、「スカンジナヰアの物語は素ビヨルンソンの散文である。彼国にあるバラアドの体にふさはしいと思つたので、ふと改作して見た。厳密に言へば、これは訳ではない。作である」といっています。

岡井は「これはおもしろいと思って読むと、四行一連の詩の形をとっている。音数律は各行とも五・七調である。たしかに物語詩である」として、この詩の内容を次のように整理しています。

村始まって以来「西山の岩はなお高く」荒鷲の巣があった。村人の関心は常にこの鷲に集まっていた。というのも鷲の餌は獅の子や山羊の子があり、遂に人の子も鷲に食われるようになったからだ。

昔、古き世には勇敢な人があって、鷲の巣を破壊することをくわだて、一歩一歩岩をのぼり始めた。年のころ20ぐらいで婚約した女の子もいたのだ。

村人は皆、はらはらしながら仰ぎ見、婚約者のl女の子は「苦しさの声をしぼりぬ」だった。ところが、若人のつかんだ岩が崩れ、見守っていた村人が「あな」と叫ぶ中、若人は岸壁の下によこたわる「尸」となってしまった。

この訳詩の初出は、明治36(1903)年1月1日の『心の花』(6巻1号)です。日露戦争後に出た『沙羅の木』の諸篇の中で、この一篇だけが戦前に発表されています。それをなぜ、戦後になって編まれた本にわざわざ、この謎めいた「バラアド」を加えたのでしょう。

バラッドあ、フランス中世の短詩型で、多くは数連から成り、各連の後ろに半連の折返し(リフレイン)があります。鷗外のこの作品も、第19連まで4行詩句をつらね、第20連の最後に「鷲の巣の懸かれるは好し」という2行(半連)のリフレインを置いています。

こうした点を踏まえながら岡井は、この詩を次のように鑑賞しています。

訳詩ではあるが「作(創作)」だと言ったのは、こうした形で、ビョルンソンの散文を、バラッドに仕立てたことも含まれていよう。ここで、村人をかりに日本と解すれば、荒鷲の国(民族)を想定することができる。身を捨てて荒鷲を滅ぼそうとした若人。それが失敗したあと、「人の力の」簡単には及ばないあたりに荒鷲の巣があるのはいいことだとは、なんお諷刺であろう。

あるいは、そうした政治の話ではなく、自然と人間のあいだの闘争を皮肉ったともとれる。そうした諷刺をバラッド形式に託して歌い、『沙羅の木』の中へそっとしのばせたとは、鷗外の深謀遠慮だったのかもしれないではないか。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月25日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』11 「オルフエウス」

  オルフエウス〔独唱(アリア) 第1幕〕

去れ。去れ。歎(なげき)よ。くづをるべしや。ををしくあらむ。危さ避けじ。去れ。去れ。歎よ。くづをるべしや。ををしくあらむ。危さをば避けじ。黄泉に、いで、入らむ。いでや、人らむ。仇恐れめや。群るる仇よ。去れ。去れ。歎よ。くづをるべしや。ををしくあらむ。群るる仇、仇よ。去れ。去れ。歎よ。くづをるべしや。ををしくあらむ。危さ避けじ。黄泉に、いで、入らむ。いでや、入らむ。仇恐れめや。群るる仇よ。くづをるべしや。群るる仇、仇よ。

歌群〔コーラス 第2幕〕

生けるながら、黄泉に来しは癡(おぞ)のものや。恐知らで来つるよ。

オルフエウス

『沙羅の木』の訳詩には「うたひもの(鷗外のいうオペラのこと)」が二つあります。これらのうち「長くて前にあるのはグルツクのオペラで、これは従来日本人の手で興行せられたことのある唯一の楽劇である。私はこれを書く時、始て「逐語訳」を試みた」(「沙羅の木」)というのが「オルフエウス」です。岡井は、その一部をこのように引用しています。

岡井はまず、関根敏子『オペラの饗宴』(洋泉社、1990)からの引用で、このオペラについて次のように説明しています。

明治35年(1902)、日本で最初のオペラ全曲上演が、上野(東京)の奏楽堂でおこなわれた。その記念すべき作品は、グルックの『オルフェとエウリディーチェ』であった。竪琴と歌の名手オルフェウスが、音楽と愛の力によって、冥界から妻のエウリディーチェを連れ戻すという《オルフェウス伝説》は、紀元前7世紀頃から存在するのだが、不思議なことに、日本ばかりでなくヨーロッパでも、劇音楽史の要ともいう時期に必ず取り上げられている。つまり、楽譜が現存する最古のオペラ(1600年、史上第2作目)、オペラ改革の第一作(1762)などをたどっていくことによって、興味深いオルフェオの系譜ができあがるのである。(この時にヒロインの百合姫エウリディーチェを歌ったのが、三浦環である)

つまり「オルフェウス伝説」というのは「竪琴と歌の名手オルフェオは、音楽と愛の力によって、冥界の王から妻のエウリディーチェを地上に連れ戻す許しを得るが、後ろを振り向かないという約束を破ってしまう。永遠に失われたエウリディーチェをなおも慕うオルフェオを、無視されて怒るトラキアの女たたちが八つ裂きにする」といったものです。

鷗外は、「オルフエウス」という短文自注で、「私がオルフエウスを訳すことになつたのは、国民歌劇協会の依嘱によつたのである。さて私は初に所蔵のライプチヒ興行本を土台にして書いた。これは1885年6月21日の夜左の如き役割〔あとに登場人物名と役者名が示してある〕で演じたのを、私が聴いた記念である」としています。

鷗外は、ライプチィッヒ留学中にこのオペラを観て、台本も買入れていた。留学中の大切な記憶が、鷗外にこの訳詩をもたらしたのでもありました。

岡井は、冒頭にあげた「オルフエウス」の引用につづいて、「わたしはこれが歌われる場面を今空想している」と結んでいます。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月24日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』10 「雫」

  雫

寒き雨電車を籠めつ。

ゆきかひに線(いと)きしろへば
送る青き火二つ。

人いきれくもるガラスを
まじろかでしばしまもりぬ。

窓面(まどつら)の雫小紋の
二つ三つ寄りては流る。

わが思そこはかとなく
浮び来るやがてぞ消ゆる

鐸(すず)は鳴る神田須田町。

窓雫

きょうは、『沙羅の木』の創作詩の4番目に置かれた「雫」という作品です。岡井は「昔からわたしの好きだった詩」だといいます。

「電車」は市電(後の都電。昨今、復活の噂が立ったり消えたりする路面電車のこと)。東京都交通局によれば、都電の歴史は、1911(明治44)年に東京市が東京鉄道株式会社から路面電車事業を買収して、東京市電気局として開局したときに遡ります。

“都民の足”として最盛期の1943(昭和18)年には、41系統、一日平均193万人に利用されました。

しかし自動車の交通量が増えていく中で、軌道への自動車乗り入れによる輸送効率の低下が顕著となり、昭和42年から昭和47年にかけて181kmもの路線の廃止を余儀なくされました。

現在、運行されているのは、三ノ輪橋~早稲田間を走る荒川線のみ。営業キロはわずか12.2kmですが、令和元年度は一日平均約4万7000人に利用されているそうです。

岡井はこの詩に、軍服を着、軍刀を持って朝の市電で陸軍省へ行く鷗外の姿を車中に置いてもいい、といいます。

岡井は、「籠む(かくす)」とか「きしろふ(ひしめく)」「まもる(見守る)」といった死語化した動詞は五・七調の定型意識がよびよせたものだろう、としたうえで、「この詩は、即物的なリアリズムとうけとる外あるまい。ただこの車中の人物を、誰と考えるかで、解釈は大きく変るだろう」と指摘しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月23日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』9 「沙羅の木」

  沙羅の木

褐色(かちいろ)の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花

ナツツバキ

ここにあげたのは、「創作詩」のいちばんはじめに初めに置かれて、タイトルともなった「沙羅の木」です。明治39年9月1日発行の『文藝界』5巻9号に載りました。

根府川石は、神奈川県小田原市根布川に産する板状節理のある輝石安山岩。板石・石碑などに用いる。沙羅の木を詩では「さらの木」と書いている。いわゆるナツツバキの木で10mに達する喬木で、花は6月ごろ咲いて、あっさりと散る。と、辞書などで得た知識を示したうえで岡井は、各行、五七調のこの作品をローマ字で書き表しています。

KATIIRONO NEBUKAWAISINI
SIROKIHANA HATATOOTITARI
ARITOSIMO AOBAGAKUREN
MIEZARISI SARANOKINOHANA

そして岡井は、次のように鑑賞しています。

1行2行3行の行末が、NI、RI、NIとイ母音で脚韻風に響き合っている。更にそのイ母音は、 第4行の上の句(SI)に響いて行っている。なお、この詩の頭は、KAというア母音語ではじまって、詩の末尾の「さらの木の花 SARANOKINOHANA」というア母音の多い詩句と呼応する。

詩の意味するところは、濃い紺色の敷石の上に、今まで青葉にまぎれて見えなかった白い花が、あっというまに、高い木から散り敷いているというだけのことだ。これを象徴詩だという解があるので、それに従って思えは、これは単なる、目に見たものを写生した即興の詩詠ではない。

落ちてこそ(死してこそ)、はじめて気付く花がある。それも背景に褐色の敷石があってこそ、はじめてあざやかにその存在に気付くということなのである。それらが、ア母音の頭韻風の扱いと、イ母音の脚韻風のあしらいによって、こころよい響きと共に歌われているのである。

なお「根府川」のような地名――それも「ぶ」という濁音が目立つ単語――が、異物として、よく効いていて、詩の重石になっている。

象徴詩として、つまり、石や花やを寓意のあるものとして解いてみたが、もちろん、これを庭の景色をみつめて作った即興の詩として読むことも自由である。目に見えた庭の景色をさわやかな韻律にのせて歌ったととる方を好む人もいるだろう。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月22日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』8 「月出」

  月出

色あはき夕(ゆふべ)の空に
聳(そそ)り立つ黒き林の
木の末(うれ)にかかりて照れる
おほいなる石鹸の珠、
見るが間にその木離れて
するすると高くぞのぼる。

草むらの下うかがへば
パンの神うつろ芦茎(あしぐき)
唇に含みて臥せり、
ほとりなる池の水沫(みなわ)の
その端に猶凝りつきて
きれめけるうつろ芦茎。

かかる珠いくつか吹きし。
かかる珠いくつか破(や)れし。
ただ一つ勇ましいき珠
するすると木ぬれ離れて、
光りつつ風のまにまに
国原の上にただよふ。

その行方あからめもせで
息籠めて見るパンの神。

367px-Christian_Morgenstern_18

きょうの訳詩は、モルゲンシュテルンという詩人の「月出(つきので)」という作品です。6行、6行、6行と3連つづいたあと、2行の連でしめくくられています。

今日では、あまり知られていない詩人ですが、『ドイツ名詩選』(生野幸吉・檜山哲彦編、岩波文庫)には、「モルゲンシュテルン(Christian Morgenstern 1871-1914) ミュンヘンで風景画家の子として生れ、ショーペンハウアー、ニーチェの影響をうけ、のちにはシュタイナーの人智学に近づく。詩集『絞首台の歌』(1905)、『パルトシュトレーム』(1910)、『ギングガンツ』(1919)等のグロテスクで諷刺のこもった幻想的な詩で有名だが、反面、神の探求に身を委ねる冥想的・宗教的な面をももっていた。」とあります。

岡井は、「鷗外の五・七調文語のひびきにのせられて、和歌にうたわれそうな月の出の詩かと思って読んでいくと、パン(ギリシャ神話の牧羊神)が出て来て、草むらの下で芦茎を口に含んで「おほいなる石鹸の珠」を空に向かって吹いている。その大きなシャボン玉の一つが、「国原の上にただよふ」あのお月なのだよというのだよというのだ。」と鑑賞しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月21日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』7 「己は来た」

  己は来た

己は来た。
己は往く。
母と云ふものが己を抱いたことがあるかしら。
父と云ふものを己の見ることがあるかしら。

只己の側には大勢の娘がゐる。
娘達は己の大きい目を好いてゐる。
どうやら奇蹟を見るに都合の好ささうな目だ。
己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。


Klabund

きのうは「泉」という詩を読みましたが、『沙羅の木』には、クラブントの詩が11篇入っています。きょうは、その中から「己は来た」という詩です。「泉」と同じように、4行2連の構成になっています。

岡井は、「若い大学生の詩にしては、どこか暗い印象の詩だ。多くの詩人がテーマとして選んだような「自分自身の由来」――おれはどこから来てどこへ行くのか、そして、おれという奴は、そもそもなにものなのか、が詩の中心にある」としたうえで、鷗外の「妄想」を引き合いに出して次のように鑑賞しています。

鷗外でいえば、「妄想」(明治44年(1911)、鷗外49歳のときの作品)のような自伝的作品を思い出すのだが、1890年生まれのクラブントは若い人だ。父も母も知らぬまま「己は来た。/己は往く。」と言っている青年であるから、明らかに五十代の鷗外とは違う。それなのに、鷗外は、それを、力をこめて訳出した。「己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。」という自分への問いかけは、クラブントのものでありつつ、鷗外の共感するところだったのだ。

『沙羅の木』が刊行されたのは、1915(大正4)年のこと。鷗外は53歳、ちなみにクーラントはこの年25歳です。53歳といえば、いまでは働き盛りですが、当時としてはもう老年に差し掛かった年代でしょう。鷗外はその7年後に死んでいますから、晩年といってもいいかもしれません。晩年にあっても、若々しい「自分への問いかけ」を続けていたわけです。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月20日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』6 「泉」

  泉

此泉を汲まうとするな。
闇の中で吃るやうな声をして涌いて、
あらゆる日の光、あらゆる歓楽を
黙つて中に蔵してゐる泉だ。

此泉の黄金なす水を
汲むことの出来る人は一人もない。
只自分を牲(にへ)にして持つて往く人があつたら、
此水はそれを迎へて高く迸り出るだらう。


クラブント

クラブント(Klabund、1890‐1928)=写真=は、ドイツの詩人、作家で、本名はヘンシュケAlfred Henschke。ゴットフリート・ベン(Gottfried Benn)の級友で、20世紀ドイツのボヘミアン文士のなかで、赤裸々な人間性を鋭く暴くとともに純粋な抒情性を表現した詩才、とされます。

フランスの詩人F・ビヨンを愛し、その後裔を自認しました。各地を遍歴し、中国の戯曲「灰蘭記」を脚色した「白墨の輪」(1924)や日本の詩の翻案によっても知られています。それは単なるエキゾティシズムというわけではなく、社会の底辺に住む人間のペーソスを歌ったものでした。

岡井は、「泉」という暗喩によってこの青年が言おうとしたことはわかるような気がする、といいます。この詩に共感して52歳の鷗外が「此泉を汲まうとするな」と言い、ただ自分自身を神(泉)に供物として捧げる勇気のある人だけが「黄金なす」泉の水を汲むことができると言ったのだとうけとっています。そして、「4行2連のこの訳詩は、クラブントと鷗外の合作として読むことができる」というのです。

「泉」の第1連の音数は、「此泉を(6)汲まうとするな(7)/闇の中で(6)吃るやうな(6)声をして涌いて(8)/あらゆる日の光(9)、あらゆる歓楽を(9)/黙つて中に(7)蔵してゐる泉だ(10)」と、中に、9音・9音という1行があるものの、「あらゆる」という言葉が二度使われて、韻律のために多少は役立ってはいても、「全体としては意味内容を重視した作詩だ」と岡井は見ています。

そして岡井は、「此泉を汲まうとするな。」という禁止命令も、そのうしろに「もしも〇〇であるならば、(汲んではならない)」といった、条件が予想される禁止命令であり、「前半4行が、短歌における上の句のようなものだとすれば、後半の4行は下の句である。上の句でもち出した問いに、下の句で答えているかたちである」としています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月19日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』5 「駄々」

  駄々

言語は億劫だ
性交は不憫だ
未来は粗大だ
自然は当然だ

詩歌は呂律だ
否定は忸怩だ
貪欲は人災だ
晴天は神慮だ

酩酊は遁走だ
貨幣は不燃だ
沈黙は寛大だ
細君は人間か

貴君は愚民だ
自我は宿痾だ
哄笑は泡沫だ
頓死で満願さ 

ミライ

鷗外、晩年の詩歌集『沙羅の木』を80代も後半にさしかかった歌人が読んでいるわけですが、そこにある思いは「今現在、詩や歌を書いている者として、鷗外の詩歌に直接向かい合いたいのである。そして鷗外と現代のわたしたちとの共通点を探り、違いを自覚したいのである」と岡井はいいます。そして、谷川俊太郎の詩集『ミライノコドモ』(岩波書店、2013)から「一つ挙げて」いるのが上記の「駄々」なのです。

この詩について岡井は、①AはBだという論理的なもの言いが、逆用されているのは明らかだ②漢字二字の語が、視覚的にも「は」「だ」という片仮名の助詞と相まって、きれいだ③「細君は人間か」「頓死で満願さ」だけが助詞が変えてある、などと気づいた点をあげたうえで、つぎのように感想を述べています。

谷川俊太郎(1931年生まれ)の82歳のその折々にひらめいた処世訓めいた感想とうけとることもできるし、誰か別の「駄々」を捏ねている大人子供を思って批評しているととってもかまわない。読んでいて、詩句が断言的で歯切れがよく、これは4行×4連の視覚的な簡潔さと似合っている。こういうのも詩人の技巧の冴えだとわたしには思える。 

そして、谷川の「駄々」に対して、『沙羅の木』から、「殆ど無名の詩人たる青年大学々生の」クラブントの訳詩「泉」をピックアップしています。

  泉

此泉を汲まうとするな。
闇の中で吃るやうな声をして涌いて、
あらゆる日の光、あらゆる歓楽を
黙つて中に蔵してゐる泉だ。

此泉の黄金なす水を
汲むことの出来る人は一人もない。
只自分を牲(にへ)にして持つて往く人があつたら、
此水はそれを迎へて高く迸り出るだらう。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月18日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』4

さて、『沙羅の木』についても『於母影』のように年譜をたどってみると、どのようになるのだろうか。『沙羅の木』は「我百首」も加えながら、大正4年に出ている。そもそも大正3年、4年は鷗外にとってどんな年だったのか。岡井は、山崎一穎編の年譜をもとに、次のようにまとめています。

鷗外

大正3(1914)年 鷗外52歳

1月「我等」創刊。ここに、「椋鳥通信」を受け継いで「水のあなたより」が9月まで連載された。鷗外の眼は、相変らず西欧の方角に絶えず向けられている。異国事情をすぐ情報化するマス・メディアやテレビなどのなかった時代に、鷗外はこうした情報誌を作ったのだ。

1月より5月まで「稲妻」(ストリンドベルヒの戯曲)を「歌舞伎」に訳載。1月「大塩平八郎」を「中央公論」に発表。

2月「堺事件」を「新小説」に発表。この「堺事件」に対しては、ずっと後年に大岡昇平が批判したことが有名。死後、何十年たっても批判されるというのは、むしろ光栄といってもいいのかもしれないが。

3月、この月創刊の女流雑誌「番紅花(サフラン)」に随筆「サフラン」を寄稿。4月17日岳父荒木博臣(明治23年に登志子と離婚、35年に再婚した妻志げの父)死去。

5月4日軍隊衛生視察のため仙台、盛岡、札幌、旭川、弘前、山形、飯坂をまわる。もち論、本職の陸軍医務局長の仕事である。5月ホフマンスタールの「謎」(戯曲)を「我等」に掲載。

8月から9月にわたって「北遊記」を「心の花」に連載。2月「亡くなった原稿」を「歌舞伎」に発表。

大正4(1915)年 53歳

1月「山椒大夫」を「中央公論」に、「歴史其儘と歴史離れ」を「心の花」に発表。翻訳短篇集『諸国物語』を国民文庫刊行会から出版。

4月、「津下四郎左衛門」を「中央公論」に発表。4月24日、勲一等に叙せられ瑞宝章を授けられる。

5月中絶していた「雁」を完結して単行本として籾山書店より上梓。7月「魚玄機」を「中央公論」に掲載。

8月中旬から渋江抽斎の調査を始める。9月、詩歌集『沙羅の木』を阿蘭陀(オランダ)書房より刊行。

『於母影』が鷗外訳詩の首途ともいえる位置にあるのに対して、『沙羅の木』は鷗外が官界から退こうとしている晩年の作。また、歴史小説、現代小説から、“史伝もの”といわれる鷗外最晩年の仕事へと移行する時期にあたっています。

岡井は「それにしても鷗外の活動意欲は、おとろえていない。相変らず西欧の文化、作品への興味も強い。その中でごく自然に『沙羅の木』は生まれ出ているようでもある」といいます。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月17日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』3

岡井は、ドイツ留学から帰国した直後の鷗外の年譜を、次のようにまとめています。

明治17(1884)年 
8月日本を発つ。

明治21(1888)年 
9月日本へ帰国。4日後ドイツ女性来日。10月ドイツ女性帰国。12月陸軍軍医学校兼陸軍大学校教官になる。『非日本食論は将ニ其根拠ヲ失ハントス』を出版。

ドイツ留学により日本文学を見直して、ナショナリストになった鷗外。それについて岡井は、江藤淳=写真=のアメリカ留学の前と後とのことを思い出すといいます。外国生活によってナショナリストになった例は珍しいものではありません。

江藤

明治22(1889)年 鷗外27歳
1月
 ゴットシャルの小説論(「医学の説より出でたる小説論」)を読売新聞に紹介。文学活動が始まった。「東京医事新誌」編集主任となる。これで、医学の研究や評論を公表して、互いに論じ合う場所を得た。それまで、そういう場が日本にはなかったといわれている。

2月 西周の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。この月以降戦闘的医学統計論論争を展開する。岡井は「むろん、前年の、ドイツ婦人エリーゼの来日と、帰国事件と、赤松登志子との結婚には一連の流れ」があって、こうした出来事と「そのあとに来る『於母影』出版と、からみ合っているありさまを想像してみたいと思っている」といいます。

3月 「衛生新誌」を創刊、いよいよ、お手製の評論発表の場をつくった。軍医学校から「陸軍衛生教程」を刊行。
5月 「「文学ト自然」ヲ読ム」を「国民之友」に発表。鷗外の文学観がここからわかるといわれている。
7月 東京美術学校専修科講師となり、美術解剖を講じ始める。

8月 「国民之友」夏期付録に新声社訳「於母影」を発表。その稿料で、
10月 「しがらみ草子」を創刊し、文学評論活動を開始。
12月 批判力旺盛ゆえに「東京医事新誌」主筆の座を追われた。

明治23(1890)年
1月 
小説の処女作「舞姫」が「国民之友」

年譜をあげたうえで岡井は、次のように指摘しています。
鷗外の帰国から1年間のあいだの、ものすごい活動ぶり、身をもって体験した私的な事件も実にさまざまであって、その中にあって『於母影』という訳詩集は生れているのである。『於母影』は、多方面にわたる鷗外の知的活動の一つとして生まれている。軍医としての仕事、文芸評論、のあいだに、同時的に成立した訳詩集であった。そのことは個人的な状況、結婚とその後の離別の件にもいえることだろう。『沙羅の木』を読みながら、その背後にある私的状況や、同時に書かれた小説、エッセイ、翻訳等をみていると、鷗外という多面体の人物は、つねにそういう存在として、在ったのではないかと思えてくる。






 



harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月16日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』2

『沙羅の木』を読む連載をするうえで岡井隆の頭を悩ませた一つに、このブログでも読んできた『於母影』の扱いについてだったといいます。

問題は、もう一つあって、鷗外には、二十代の若いころに、同志たちと共に訳して編んだ『於母影』があるがそれをとり上げなくてもよいのかという「難問」です。

『於母影』は、『沙羅の木』の刊行される26年前の明治22(1889)年に、雑誌『国民之友』夏期付録として一括してかかげた17篇(のちに2篇を加えて19篇)の訳詩集。

「署名はS.S.S.(新声社)となっているが、諸先人の研究によって、最終的には鷗外訳としてもよさそうな訳詩集」だからだです。

そんなふうに思いながら岡井は、『於母影』で最もよく知られている、ゲーテの『ヴィルヘルムマイスターの修行時代』からとった「ミニヨンの歌」(其一)を示しています。

おもかげ

  ミニヨンの歌

「レモン」の木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き
「ミルテ」の木はしづかに「ラウレル」の木は高く
くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

この詩について岡井は、ミルテ(漢名で桃金嬢)とかラウレル(月桂樹)といった原語をそのままに写した名詞の効果はなかなかのもの、としながら「さて今読んでみて、ミニヨンの望郷の思いは、われわれ現代人にどのくらい伝わるだろうか」と問いかけます。

そして、ドイツ留学から帰国した直後の仕事であった『於母影』のころの鷗外の年譜をたどっています。「帰国後のナショナリスト鷗外、「戦闘的啓蒙者」などと批評される鷗外と、『於母影』とは、あるいは底辺でつながっていることかもしれない」と思ってのことです。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月15日

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』1

歌人の岡井隆さんが亡くなったのは、昨年の7月10日のことでした。92歳。早いものでもう1年になります。歌集『鵞卵亭』や『現代短歌入門』などの著書をはじめ、講演や歌の添削などを通じて、岡井さんから私も大きな影響を受けました。

遅ればせながら、ではありますが、私なりの追悼の気持ちを込めて、岡井さん最晩年の著『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』を、しばらくの間、気ままに読んでみたいと思います。

岡井

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』は、2016年7月、岡井隆88歳のときに幻戯書房から刊行されています。あとがきによると、この本は、歌誌「未来」(月刊)に「それぞれの晩年――森鷗外の晩年」と題して連載した評論(第1回が2013年8月号、最終の第33回は2016年4月号)を、掲載順に並べて編んだものだといいます。

鷗外の「沙羅の木」の序によれば、この詩集は、訳詩、沙羅の木(すなわち創作詩)、我百首の三部から成り「此三部は偶然寄り集まつたもので、其間に何等の交渉もない」といいます。

『沙羅の木』は、1915(大正4)年9月5日、阿蘭陀書房から単行本として発行されました。鷗外53歳ののときです。『鷗外全集 第十九巻』の後記によれば、この年の4月14日の鷗外の日記には「夜北原隆吉来話す。長短詩稿をわたす。沙羅の木と題せむとす」とあり、8月25日の記述には「沙羅の木の序を作る」とあります。

『森鷗外の「沙羅の木」を読む日』の連載を思い立った動機に関して、岡井隆は同書の第1章で次のように述べています。
森鷗外の晩年を語る場合に、高名な歴史小説や史伝と同時に『沙羅の木』や、たくさんの翻訳もの(小説とか戯曲とか)を欠かすことができないとすれば、鷗外にとって、近世の先人渋江抽斎や北条霞亭と同時に、異国の人の仕事が気になっていたのである。訳詩も(下敷きはあるものの)訳者の日本語による詩に外ならないからこれを創作詩の一種と考えてもいいのだ。とすれば、『沙羅の木』の中のデエメルやクラブントの訳詩と、「沙羅の木」に含まれる創作詩を、並べて味わい、論ずることには、なんのためらいもいらない。「沙羅の木は主として雑誌明星の後記に、私のした試である」と鷗外は言っているから、雑誌「明星」には、一つ一つ当らねばならないだろうが、それはまたそれで、その時代の他の作家の作品も一しょに読むことにもなろうから、いろいろとおもしろい発見があるかもしれない。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)岡井隆 

2021年06月14日

捕鯨船長と「鯛」⑦

1957年、岸信介首相が安保改定に乗り出すと、やがて各地で反対運動が活発になっていきます。1960年5月19日に新安保条約が強行採決されると、各地で岸内閣退陣を求める抗議デモへと発展しました。そして6月15日、運動は最高潮に達します。この日のストには580万人が参加し、全国で3万店が閉店。

東京では11万人が国会議事堂を包囲したといいます。デモ隊は右翼と遭遇して大乱闘になりました。学生たちはスクラムを組んで通用門に体当たり。「ワッショイ、ワッショイ」と門扉にロープを巻いて引き倒し、門内の阻止の車両にも火を放ちました。


安保

後藤正治氏によるのり子の評伝『清冽』によると、この年の5月から6月の日々を綴ったのり子の「日記風の体裁を取ったエッセイ」が、詩誌『現代詩』(飯塚書店発行)に掲載されました。そこに「六月四日」の日付で、次のような記述があるそうです。

その日、一人でも入れるデモを探そうと思つた。(中略)坂の中ほどに立つてぼんやり見ていると、やがて大学生の大群がジグザグ行進をしてやつてきた。全学連をまのあたり見たのもこれが最初だつた。    〈岸を倒せ〉〈安保反対〉われわれの友情は……という唄、はためき流れる無数の校旗、汗くさい顔、稚い顔の渦……全学連は日本の鬼つ子だ。とびがたかを生んで驚いているようなものだ。この皮肉と、おかしみと、感動! かれらは年令からいえば戦死した学徒兵たちの末弟ぐらいにあたるのだろうか! 警官の前を通るときは、うつかりすると押し返されるのでしつかりスクラムを組んだ。まつたくこれも私にとつては劃期的なことだつた。夫以外の見も知らぬ男性と腕を組むなどということは!

怒り、叫び、激しい大波が荒れまくっているなか、のり子も、デモにまじって「戦死した学徒兵たちの末弟くらい」の学生たちといっしょに闘っていたのです。そんな切迫した時代にあって、詩人が目にしたのは生きるための戦いにさらされることのない「怠惰な鯛の ぶざま」な姿だったのです。闘う詩人がそれに、とうてい耐えることのできない嫌悪感を抱くのも無理からぬことでしょう。

「鯛」が入った詩集『鎮魂歌』が出版されて10年後の1975(昭和50)年、のり子は最愛の夫を癌で亡くしています。その時、のり子は〈戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた〉といいます。

「今まであんまりにもすんなりと来てしまった人生の罰か、現在たった一人になってしまって、「知名」と言われる年になって経済的にも心情的にも「女の自立」を試される羽目に立ち至っているのは、なんともいろいろと「おくて」なことなのであった。そして皮肉にも、戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった《自由》の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった」(「はたちが敗戦」)のでした。

のり子が73歳だった1999年に出版された『倚りかからず』は、詩集としては異例の15万部の売り上げを記録しました。

  倚りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない 
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

老いても、のり子の「鯛」に見られた凛とした姿勢は貫かれました。ただし、老いのためか、「椅子の背もたれ」という肉体的、精神的な避難場所は用意するようになっていたようです。
 
2006(平成18)年2月、茨木のり子は自宅でひとり息を引き取りました。享年79歳。これも前に紹介しましたが、生前にのり子は、自身の「死亡通知」を書いていました。

このたび私〇〇〇〇年〇月〇日〇〇にて
この世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、
弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かに
して下さいましたことか……。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

  〇〇〇〇年 月 日

準備されていた手紙は、死亡の日付や死因などが空欄になっていて、そこを埋めて郵送してほしい、と甥に託していたそうです。最期もまた、凛として筋が通っていました。


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2021年06月13日

捕鯨船長と「鯛」⑥

前にも述べたように「鯛の浦」は、1967年、特別天然記念物に指定されました。文化財保護法の規定で、学術上貴重でわが国の自然を記念する天然記念物のうち、世界的、国家的に価値が特に高いものだけが、その対象となります。国の天然記念物に指定されると、荒らされたり傷つけられたりすることがないように、文化庁長官の許可がなければ、捕ったり釣ったりすることができなくなります。

そのため、天然記念物として特定の生物だけを保護したのがアダとなり、かえって生態系のバランスが崩れたり、自然破壊や経済的損害をもたらすことも少なくありません。たとえば、下北半島のニホンザル、長野県のニホンカモシカ、奈良公園のシカなど、天然記念物として保護したために個体数が増え、農作物や農林業に被害をもたらすなどの問題が起こりました。

鯛は通常、群れを作らず、海の中層を回遊しています。ところが「鯛の浦」はきわめて異例で、水深10~15メートルと浅く、狭い範囲に群れをなして生息しています。しかも、船べりを叩くと水面近くに現れて、 魚の切り身など与えられる餌に集まる習性があるのです。こうした鯛を人々は、先祖代々、日蓮の生き姿と考えて信仰し、たとえ戦争で食べるものに苦慮しても捕らず、「鯛の浦」を守り続けてきました。そして、特別天然記念物という御墨付も加わったのです。

鯛の浦

「鯛の浦」は全国的に知られ、通常は人的被害をもたらすものでもなく、観光資源として地元の経済に大きな貢献をしているのかもしれません。しかし、あてがい扶持に頼ってぬくぬくと暮らす「怠惰な鯛」に、詩人はいらだちを覚えます。生命あるものが本来もっている、はつらつさを失った「ぶざまなまでの大きさ」の鯛に歎きの声をあげているのです。
 
「医学の新しい在りかたを求めて意欲的」な勤務医と結婚してからののり子は、「米も煙草もまだ配給で、うどんばかりの夕食を取りながら、エドガー・スノウの『中国の赤い星』を一緒に読みあった」りしていました。

「女房が物書きの道を進むというのは、夫としてはどう考えてもあまりかんばしいことではない筈なのだが、夫は一度もそれを卑しめたり抑圧したりすることがなく、むしろのびのびと育てようとしてくれた。父、夫、先輩、友人達、私の身辺に居た男性たちが、かなり優秀で、こちらの持っていた僅かばかりの芽を伸ばそうとばかりしてくれた」(「はたちが敗戦」)といっています。まさに絵に描いたような、知的で、リベラルな、恵まれた環境のなかでのり子はのびのび育ち、暮らしていました。

それは、地域の因習やしきたりに拠らなければ生きてはいけない「房州のちいさな入江」に住む、当時の漁村の人たちの生活とは大きな隔たりをもったものだったでしょう。「泳ぎ出して行」きたくても、遠くへ「進路を取」りたくても、その手立てや方向、さらにはモチベーションさえも見出しえない状態に置かれることは人生の常です。

でも、のり子は泳ぎだそうとしない「怠惰な鯉」に「ぎょっと」し、いらだちを覚えます。それを大人気ない、世間知らずといってしまえばそれまでですが、だからこそ、発せられる問いかけの中に真実があるのです。そうしたのり子の詩に、読者は魅せられるのです。 

ひとびとも育つ
アカシヤや泰山木のように
あるとき 急速に

一九六〇年の雨期
朝の食卓で 巷で 工場で 酒場の隅で
やりとりされた言葉たちの
なんと 跳ねて 躍ったことか

魚籠より溢れた声たちは
町々を埋めていった
おしあい へしあい
産卵期の鮭のように

海に眠る者からの使いのように
グァム島から二人の兵士が帰ってきた
すばらしい批評を真珠のように吐きちらし

ひとびともたしかに育つ
ひそやかで隠微なひとつの方則
それを見た あるとしの六月に

『鎮魂歌』にある「あるとしの六月に」という作品です。「魚籠より溢れ」出る、「跳ねて」「躍った」声。「産卵期の鮭のよう」な「おしあい へしあい」。こうした、魚の行動にたとえて表現されているものは何なのでしょう。詩の題名と「一九六〇年の雨期」からすれば、日米安保条約改定に対する反対闘争と考えられます。


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2021年06月12日

捕鯨船長と「鯛」⑤

早春の海に
船を出して
鯛をみた

というように、海へ出かけていくことがしばしばあったのでしょう。そんな詩人の記憶に強く焼き付いていた海に「根府川の海」がありました。敗戦から8年たった1953(昭和28)年に、「既に私の心のなかに出来上がって」いて10分くらいで書きあげたという詩「根府川の海」には、

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケツトに
ゆられていったこともある

とあります。根府川駅は、神奈川県小田原市根府川にある東海道本線の駅。相模湾に面していて、晴れた日には房総半島や伊豆大島まで見渡すことができます。いまは乗降が少ない無人駅ですが、新幹線のない戦中・戦後、東海道線は、東京と、のり子の郷里の愛知を結ぶ欠かせない駅路でもあったのです。

駅

さて、近くにいつも海があった「青春」を通り過ぎた詩人が、今度は、房州の「鯛」の海を見つめることになりました。

海のひろさ
水平線のはるかさ
日頃の思いがこの日も鳴る
愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

と思いを込めて。鯛は良きにつけ悪しきにつけ、豪華さや華麗さ、ぜいたくの代名詞になります。めでたい席に鯛がなければ格好がつかず、「ぜいたくは大敵」の時代に鯛など食べていれば疎まれます。前に見たような、鯛を日蓮の生き姿と考える日蓮宗の信者でなくても、日本人の鯛に対する「信仰」には、おそるべきものがあります。

しかし、「娘を育てるについても、質実剛健、科学万般に強く、うなじをあげ胸を張って闊歩する化粧気すらないドイツ女性が理想のイメージとしてあったらしい」(茨木「はたちが敗戦」)という、ドイツで医学を学んだ医師の父の影響でしょうか、のり子はこうした「鯛信仰」からははるかに遠いところで生きていました。その精神は、詩「鯛」にも貫かれています。

老いたトラホームの漁師が
船ばた叩いて鯛を呼ぶ
そのなりわいもかなしいが
黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
鍛えられた美しさを見せぬ
怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
なぜか私をぎょっとさせる
どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

第3連で「トラホーム」というのは、重い結膜炎を引き起こす眼の感染症です。トラホームはドイツ語読みで、いまは英語読みの「トラコーマ」と呼ばれることのほうが多いようです。長年、トラコーマの研究に打ち込んだ野口英世は、1927(昭和2)年、「病原体」を見つけたと発表しました。しかし、それは結果的に間違えで、後にクラミジアという微生物の感染で起こることが分かります。

トラコーマに感染すると、まぶたの裏側に透明で小さな水ぶくれができます。そして、まぶたがはれて目は充血し、うみのような目ヤニが出ます。重症化すると、視力障害をまねいて失明することもめずらしくありません。衛生管理がいきとどいて、栄養状態もいい、いまの日本でトラコーマが発症することはまずありません。クラミジアというとむしろ、性感染症のイメージで受けとめられることのほうが多いでしょう。

しかし世界的には、アフリカやアジア諸国などのクラミジアの感染が広まっている地域では、トラコーマがいまも流行し、年間600万人が失明するともいわれています。かつては国内でもトラコーマがはやっていました。日清戦争のとき、兵士がトラコーマに感染して帰国したのがきっかけで広まったとされ、190年代には罹患率は20%を超えていたともいわれます。

胃潰瘍、神経衰弱、糖尿病など数多くの病に苦しめられた夏目漱石の持病には、トラコーマも含まれていました。歌手の田端義夫は3歳のとき父を亡くし、少年時代、極貧のため慢性的な栄養失調でした。そのため、トラコーマにかかって右目の視力を失ったそうです。かつて漁村では、飲んだり食べたりするのに使う衛生的な水が不足していて、汚水や海水が目に入るなどして感染し、トラコーマの患者がたくさん出ました。鯛を呼ぶ老いた漁師は、外見ですぐにわかるほどトラコーマが進行していたのでしょう。

青い海底から ひらひらと色をみせて
飛びあがる鯛
珊瑚いろの閃き 波を蹴り
幾匹も 幾匹も 波を打ち
突然の花火のように燦きはなつ

そんなふうに輝きながらも「鍛えられた美しさを見せぬ」怠惰に見える鯛。それを獲ることもできずに「船ばた叩いて鯛を呼」んでいるだけの、決して豊かではないであろう「老いたトラホームの漁師」。それらの対比からは確かに、「かなしい」ものが湧き出してきます。 


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2021年06月11日

捕鯨船長と「鯛」④

早春の海に
船を出して
鯛をみた

いくばくかの銀貨をはたき
房州のちいさな入江を漕ぎ出して
蜜柑畠も霞む頃
波に餌をばらまくと
青い海底から ひらひらと色をみせて
飛びあがる鯛
珊瑚いろの閃き 波を蹴り
幾匹も 幾匹も 波を打ち
突然の花火のように燦きはなつ
魚族の群れ

鯛は、スズキ目タイ科の総称です。私たちが食べている、通常鯛といっているのはマダイのこと。紫褐色を帯びた光沢ある淡紅色で、青い小さな斑点があります。胸びれは細長く、体の半分近くにも達します。口の上あごに2対、下あごに3対の鋭い犬歯があります。成魚は岩礁などに生息し、群れをつくらず単独で行動します。

頑丈なあごと歯で小魚、エビやカニ、貝類などさまざまな小動物を食べます。産卵期は2月から8月にかけて。その時期になると成魚は、沖合の深みから浅い沿岸域に移動します。稚魚は浅い海の底の砂場や岩場などで暮らし、生後1年で15センチくらいに成長。2~3年で浅瀬から深い海に移っていきます。寿命は20~40年くらいとみられています。

詩に「房州のちいさな入江」とあるのは「鯛の浦」のことと考えられます。1967(昭和42)年、鯛の浦は「鯛の浦タイ生息地」として、200ヘクタールの海域と陸地が特別天然記念物に指定されました。また、それよりはるかに昔から、地元にはこの鯛を決して捕獲しない習わしがありました。南極海の鯨のように、鯛の浦に鯛網がかかることはないのです。

偉い僧の生誕の地ゆえ
魚も取って喰われることのない禁漁区
法悦の入江
愛もまた奴隷への罠たりうるか

日蓮像

ここに出てくる「偉い僧」というのは、日蓮宗(法華宗)を開いた鎌倉時代の僧、日蓮=写真=を指しているのでしょう。日蓮は12歳のときに安房の名刹、清澄山の道善房の弟子となり、16歳で出家。その後、鎌倉、京都、高野山など各地の寺院で学び、「釈尊の出世の本懐は一切経のなかでただ法華経にある」と確信するにいたります。そして、諸経を捨てて法華経の眼目である題目を専唱すれば、善悪、老若、男女、俗世の貴賤や貧富の区別なく、すべての人が成仏できると唱えました。

清澄山上ではじめて題目をとなえ、民たちに念仏や禅など他の宗派の破折を説いたのが、1253(建長5)年の日蓮の立教開宗です。しかし日蓮は地頭の東条景信の怒りにふれ、清澄山を追われて鎌倉に逃れます。そのころ東国では、天変地異が頻発。人心は動揺し、幕府も対策に苦慮していました。1260〇(文応1)年、日蓮は北条時頼に対して、国土人民が法華経に帰依すれば災害は克服でき、邪法である余経に帰せば内乱外寇によって亡国になると諫めます。幕府の政策を批判し、他の宗派を攻撃した日蓮は、伊豆、佐渡などに流されたり、念仏者に襲われたりすることもたびたびありました。

日蓮は1264(文永元)年、父祖の供養のために帰郷します。その際、海に向かって祈り、南無妙法蓮華経の題目を書きました。すると、その題目の文字が波の上に現れ、同時に、たくさんの鯛が海面に集まって題目を食べつくしてしまったとされています。村人たちはその奇跡に驚き、鯛を日蓮の生き姿と考えて信仰するようになったと伝えられています。

以降、鯛の浦は、殺生禁断の地として鯛に餌を与え、地元に人たちによって守り続けられるようになったのです。江戸時代、天保・弘化年間の1840年代には、現在の景観に近いかたちの、日蓮宗の大本山「誕生寺」が鯛の浦のある鴨川市にできあがりました。多くの日蓮宗の信者がここを聖地としてあがめ、漁民の協力で鯛の浦詣でが盛んに行われました。

漁民たちは、鯛を明神様としてあがめ、鯛を守っている大鮫がいると信じました。島々には弁天様が祭られ、漁師たちは鯛の浦の海に出入りするたびに海上安全と大漁を祈りました。いまも年の初めには、船をつらねて漁民たちが集まり、鯛祭りが行われています。1903(明治36)年には、当時の漁業法による禁漁区になります。

その後、鯛の浦海岸に一大観光開発の計画が持ち上がることもあったようですが、村人たちは鯛の保護と自然破壊を防ぐために受け入れませんでした。戦中、戦後の食糧難の際も、だれひとり鯛をとって食べる人はいませんでした。老人たちは空襲を恐れることもなく、貴重な小魚を鯛の餌として与え続けたといわれています。

信仰には、地域のおきてには、ときに頑なとも思える驚くべき力が備わります。このような「偉い僧の生誕の地」に、詩人は「愛もまた奴隷への罠たりうるか」と問いつつ、冷静な眼差しを向けるのです。

海がとても遠いとき
それはわたしの危険信号です

わたしに力の溢れるとき
海はわたしのまわりに 蒼い

おお海よ! いつも近くにいて下さい
シャトルル・トレネの唄のリズムで

七ツの海なんか ひとまたぎ
それほど海は近かった 青春の戸口では

いまは魚屋の店さきで
海を料理することに 心を砕く

まだ若く カヌーのような青春たちは
ほんとうに海をまたいでしまう

海よ! 近くにいて下さい
かれらの青春の戸口では なおのこと

これは詩集『鎮魂歌』の、「鯛」の二つ前にある「海を近くに」という詩です。1950年に結婚してから、のり子は、いまの埼玉県所沢市に住んでいました。ふだんは「いまは魚屋の店さきで/海を料理することに 心を砕く」主婦としての仕事をこなす日々だったのでしょうが、なにせ「海がとても遠いとき/それはわたしの危険信号です」というほどの海好きでした。


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2021年06月10日

捕鯨船長と「鯛」③

捕鯨問題がもつ矛盾を考えるとき、このブログでも以前読んだ茨木のり子=写真=の「鯛」という詩を思い出します。そして、エルンストさんが庄司船長なら、玲子さんは茨木さんと重なって見えてくるのです。

  鯛

早春の海に
船を出して
鯛をみた

いくばくかの銀貨をはたき
房州のちいさな入江を漕ぎ出して
蜜柑畠も霞む頃
波に餌をばらまくと
青い海底から ひらひらと色をみせて
飛びあがる鯛
珊瑚いろの閃き 波を蹴り
幾匹も 幾匹も 波を打ち
突然の花火のように燦きはなつ
魚族の群れ

老いたトラホームの漁師が
船ばた叩いて鯛を呼ぶ
そのなりわいもかなしいが
黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
鍛えられた美しさを見せぬ
怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
なぜか私をぎょっとさせる
どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

偉い僧の生誕の地ゆえ
魚も取って喰われることのない禁漁区
法悦の入江
愛もまた奴隷への罠たりうるか

海のひろさ
水平線のはるかさ
日頃の思いがこの日も鳴る
愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

のりこ

「鯛」は、のり子が39歳だった、1965(昭和40)年に出版された第3詩集『鎮魂歌』の中に収められています。

詩の舞台は、千葉県の南東部にある鴨川市の「鯛の浦」と呼ばれている鯛の群生地です。内浦湾から入道ケ崎にかけての沿岸域で、遊覧船に乗って100メートルほど沖合に出て餌を投げると、それにつられて鯛が一斉に集まってきます。

「いるいる、たくさんいる」「出てきた、出てきた」。そんな歓声をあげながら、海面に浮かび上がってくる鯛の群れに興奮した経験をもっているかたもおられるでしょう。鯛の浦の入口で「特別天然記念物 鯛の浦タイ生息地」と書かれた看板を見かけたことがあります。そこには、こんなふうに書かれていました。

内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で五分ぐらいの海域で、伊貝島・弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、このあたりを「妙の浦」と呼んでいる。ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混っている。マダイは、深さ30~150メートルくらいの海中に生息し、普通はその中層あたりを泳いでいる定着性の近海魚である。しかし、鯛の浦は20~30メートルの浅海で、しかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切身など)をよく食べるのは、ほかには見られない現象である。日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり、観光船の船ばたをたたくと海底から姿を浮上させ、あらそって餌を求めるのは不思議なことといわれている。

茨木のり子は大阪府に生まれ、愛知県西尾市で育ちました。女学校の3年のとき、太平洋戦争に突入。医師だった父の「女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生き抜いてゆけるだけの力を持たねばならぬ」という考えに従い、東京の帝国医学・薬学・理学専門学校薬学部(現・東邦大学薬学部)に進学します。

しかし、入学してみると「無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっている」ことを痛感し、興味は文学のほうへと移っていきました。そして、空襲が激しくなるとともに「内部には、表現を求めてやまないもの」もつのっていきます。もうすぐ20歳、というときに迎えた終戦でした。

先行きの見えない焼け野原。同級生の中には進駐軍を恐れ、操を守るべく丸坊主になる女性もいました。のり子も頭巾をかぶって登校していました。「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識します。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

とつづく有名な詩「わたしが一番きれいだったとき」は、戦争直後の「はたち」を意識していたときから10年ほど経って作られました。

1946年に学校を卒業すると、のり子は劇作の道を志しますが、「台詞の言葉がなぜか物足らないものに思え」てきて、詩の勉強をはじめました。「言葉の練習のつもり」で、雑誌『詩学』の投稿欄などに投稿していくうちに「ミイラ取りがミイラのようになって戯曲のほうの志は得ないまま」詩を書きつぐことになります。

1950年、医師である三浦安信氏と結婚。1953(昭和28)年には、川崎洋に誘われて、いっしょに同人誌「櫂」を創刊します。「櫂」にはその後、谷川俊太郎、舟岡遊治郎、吉野弘、水尾比呂志といった錚々たる詩人たちが加わっていきました。


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2021年06月09日

捕鯨船長と「鯛」②

庄司船長はどこへ行ったか
あのとき一緒に捕鯨船に乗った
山のような波を越えて
大西洋の海原を
鯨! 鯨! 鯨が出た
西の方で潮を吹いた
走れ! 走れ! 追いかけろ
大西洋の海原を
鯨は逃げる 一生懸命
これが最後の競争だ
一八ノットで波をける
風も悲鳴を上げている

もぐった もぐった スピードを落とせ
船を回せ 鯨を待て
どこへ出るか みんな探せ
大西洋の海原を
出たぞ! 出たぞ! 右の方だ
船長はゆっくり 大砲で狙う
船は波を突き破る
白い羽根のしぶきをあげ
大砲をかまえる 船長の目
鯨を一発で しとめたぞ
灰色の波は 真っ赤に染まる
船長の顔が波に光る

死んだ鯨は 腹を上に浮く
不思議な模様 おなかの線
港までは 八時間
もう一頭捕るぞ 帰る前に
港に帰って 酒を飲んだ
仲間と一緒に 海の話
鯨の漁は 楽じゃない
街の奴らにゃ わからない

でも ぼくは見た船長の顔
鯨が死んだとき 涙を流した
やさしい奴だ やっとわかった
海の男の広い心

ニコルさんが乗った「一七京丸」は、1966年5月中旬から12月初旬まで予備操業(捕獲調査)を実施し、ナガスクジラ165頭、マッコウクジラ1頭を捕獲、冷凍鯨肉1579トン、ナガス油715トン、マッコウ油6.5トンを生産したそうです。日本の捕鯨が華やかなりし時代の最後のあたりでしょうか。

私は庄司船長なるかたがどういう人物なのかは知りませんが、この詩を読んだとき、あのノルウェーで出会ったダール船長の顔をなんとなく思い浮かべていました。ちなみに第一七京丸は、この予備操業に用いられた後、捕鯨業の行く末を暗示していたかのように、冬季係留中にエンジンヘッドが氷結破損したため廃船になってしまったそうです。

竜田

ところで、庄司船長が活躍していたころの「鯨」は、学校給食の定番メニューでした。中でも1960年代ころまでの学校給食のエースといえば何といっても鯨の竜田揚げ=写真=でしょう。私もその一人ですが、当時の子どもたちにとっては、他に代わるもののない貴重なタンパク源でもありました。いま学校給食がどんなメニューなのか私は知りませんが、鯨が主役ということはおそらくないでしょう。

というのも、IWCの決議によって1988年以降、商業捕鯨は停止されました。当然、商業捕鯨を継続したい日本は、異議申し立てをしましたが、反対するなら米国近海でタラをとらせないとアメリカから圧力をかけられるなどして、異議申し立てを撤回せざるをえませんでした。シロナガスクジラなどの大型鯨類が減少しているなら比較的数の多いミンククジラだけでも捕らせてほしいと交渉しても、反捕鯨国から感覚論にすぎないと一蹴されました。

ならば日本が実際に調査して、たくさんいることが科学的に証明されたら商業捕鯨を認めてくださいと、調査捕鯨をして科学的データの収集にかかりました。ところが2010年、オーストラリアは、南極海での日本の調査捕鯨の実態は商業捕鯨であり、国際条約に違反しているとして停止を求め、国際司法裁判所に提訴しました。2014年に国際司法裁判所が出した判決は、オーストラリアの主張を認めるものでした。そして、とうとう、2019(令和元)年6月30日、国際捕鯨委員会を脱退、商業捕鯨の再開に踏み切りました。

5000万年ほど前、豚や牛に似た動物が次第に海に適応し、やがて海で暮らすようになったのが鯨の始まりと考えられています。鯨は人間と同じく肺で呼吸をします。酸素の多い海面近くで暮らす種類が多いものの、潜水や水圧に耐える能力はほ乳類の中でもずば抜けています。脳が9.2キロもある鯨もいるそうです。

体長15メートルのマッコウクジラの脳だと人間の重さの6倍以上、鯨の仲間のハンドウイルカの大脳はしわが多く、表面積が人間の1.5倍もあるそうです。神経細胞がぎっしり詰まっていて、超音波を発信して自分の位置を確かめられ、周囲の環境やえさの在りかがカラーの3次元画像で頭の中に浮かんでいる。そうした、人間には計り知れない能力が備わっているのではないか、という見方もあります。

捕鯨が是か非かについては、捕りすぎによる資源の減少や鯨類の種の保全、生態系の維持といった自然保護的な観点だけでなく、食文化、宗教観、国民性などさまざまな要素が複雑に絡みあっています。反対派の中には、鯨は神であり、知能が高い動物を食べるのは許せないとして、捕鯨のをタブー視する考えが根強くあります。

以前、ケネディ元駐日米大使が、和歌山県で行われているイルカ追い込み漁について「非人道性を懸念している」とツイッターに書き込んで、波紋を広げたことがありました。ケネディさんは、追い込み漁に反対する何百というツイートを米国内から受け取って、自分のツイッターに書き込むことを決めたようです。その時期に米国で関心が高まっていたのには、反捕鯨団体の「シー・シェパード」がインターネットを通じて漁の様子をくわしく報告したのが影響したとみられています。

牛や豚など他の哺乳類は、アメリカ人もたくさん食べています。それに知能がどうのこうので線を引くのは、人間の差別にもつながる、理不尽で、非科学的なものに思えるのですが、不思議なことに米国や英国のような科学が高度に発達した先進国でも、こうした実に非合理に思える価値観に基づいて世論形成がなされているのです。


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2021年06月08日

捕鯨船長と「鯛」①

四半世紀も前のことですが、1993年の春、捕鯨について調査をするため、スカンディナビア半島西岸に位置するノルウェーを旅したことがあります。

ノルウェーは、人口約500万人。かつてはミンククジラを年間2000頭近く捕って国内で消費していたほか、南極海で母船式捕鯨を続け、総捕獲数世界一を誇っていました。そんな世界有数の捕鯨国の最大の捕鯨基地であるロフォーテン諸島で、私は、捕鯨砲を50年間撃ちつづけてきたエルンスト・ダールさんという、立派な体格をした鯨捕りの船長に出会いました。「これをクジラに打ち込んでいたんだ」と、そのときダールさんから記念にもらった捕鯨砲の槍の先は、いまも机の中に大切にしまってあります。

ダールさんは当時七〇歳。その奥さんはなんと、23歳年下の玲子さんという日本人女性でした。5年前に知人の紹介が縁で、横浜から嫁いだということでした。飾り気がなく凛とした彼女の言動は、いまもすがすがしく思い出されてきます。また、二人の仲むつまじい様子からは、ノルウェーと日本という二つの捕鯨国の鯨文化がとりもつえにしのようなものを、なんとなく感じたものでした。

ノルウェーの沿岸地域では、何百年も昔から鯨捕りが行われてきました。夏になるとミンククジラがフィヨルド内にまで回遊してくるのを網で閉じ込め、小舟で近づいて毒矢でしとめていたのです。20世紀になると毒矢ではなく鉄砲や捕鯨砲が使われるようになり、動力式捕鯨船と捕鯨砲による「ノルウェー式捕鯨」が、近代捕鯨技術として世界をリードするようになりました。そして世界に先駆け、南極海での本格的捕鯨に乗り出していったのです。

鯨の詩

第二次大戦後のピーク時には、南極で操業していた船団のうち半数をノルウェーが占めていたといわれます。しかし、国際捕鯨取締条約に基づく鯨資源の保存などを目的に、戦後間もなくできた国際捕鯨委員会(IWC)による規制の強化で、南極海から次第に撤退せざるを得なくなります。そして87年には、とうとう商業捕鯨の中止に追い込まれてしまいました。

こうした荒波のなか、ダールさんは、商業捕鯨が中止になる五年前には、捕鯨からホエールウオッチングへと仕事を切り替えざるをえなくなりました。災難はつづきます。船が失火で焼失してしまったのです。私が訪ねたとき、夫妻は、一億円はするという捕鯨船を新しく買うための借金の算段に追われているところでした。しかも、捕鯨再開のめどは立っていません。玲子さんは「こんな状態で借金を返せるのだろうか」と、心配そうに言いました。

四方を海に囲まれた日本でも、ノルウェーと同じように昔から鯨を捕り、鯨肉を食べるのを習慣にしてきました。弥生時代の土器や骨器には捕鯨の模様が描かれ、いくつかの村落が協力して捕鯨を行っていた証拠も残っているそうです。近代になると、列島沿岸のあちこちに捕鯨基地が設けられます。1934(昭和9)年には、日本初の母船式捕鯨船団が南氷洋に出漁し、40年には北洋でも母船式捕鯨が始まりました。

戦後、捕鯨業はいち早く復興し、敗戦後の食糧危機を救うとともに、沿岸捕鯨はもちろん母船式捕鯨が南氷洋と北洋で戦前以上の発展をみせました。ところがノルウェーと同様、IWCの規制で、1987年をもって商業捕鯨を停止せざるをえなくなります。沿岸の小型捕鯨も戦後急速に拡大し、鯨の処理場は全国にひろがっていましたが、いまや太地(和歌山)、和田浦(千葉)、鮎川(宮城)、そして北海道の網走、函館の五カ所だけになってしまいました。

「これはなあ、20年前に一七京丸に乗ったときの話なんだ。われわれはニューファンドランドから、ナガス鯨の漁に出かけた。おれは海も酒も好きだから、すぐに船長と気が合った。あいつからは、海についていろんなことを教わった。しかし、あのときから一度も船長に会っていない。本当に、あいつはどこへ行っちまったんだろう」。

海洋哺乳類の研究者としても知られるC・W・ニコルさんは、こういう前書きに続いて、次のような詩を作っています(『C・W・ニコルの海洋記』1987年5月)

  庄司船長の詩

庄司船長はどこへ行ったか
あのとき一緒に捕鯨船に乗った
山のような波を越えて
大西洋の海原を
鯨! 鯨! 鯨が出た
西の方で潮を吹いた
走れ! 走れ! 追いかけろ
大西洋の海原を
鯨は逃げる 一生懸命
これが最後の競争だ
一八ノットで波をける
風も悲鳴を上げている

もぐった もぐった スピードを落とせ
船を回せ 鯨を待て
どこへ出るか みんな探せ
大西洋の海原を
出たぞ! 出たぞ! 右の方だ
船長はゆっくり 大砲で狙う
船は波を突き破る
白い羽根のしぶきをあげ
大砲をかまえる 船長の目
鯨を一発で しとめたぞ
灰色の波は 真っ赤に染まる
船長の顔が波に光る

死んだ鯨は 腹を上に浮く
不思議な模様 おなかの線
港までは 八時間
もう一頭捕るぞ 帰る前に
港に帰って 酒を飲んだ
仲間と一緒に 海の話
鯨の漁は 楽じゃない
街の奴らにゃ わからない

でも ぼくは見た船長の顔
鯨が死んだとき 涙を流した
やさしい奴だ やっとわかった
海の男の広い心


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2021年06月07日

数学の詩人と新体詩④

『新体詩抄』で日本の近代詩への模索がはじまったとはいえ、新体詩が文学史のうえで市民権を得るようになったのは、『新体詩抄』出版から15年後の1897(明治30)年に上梓された島崎藤村の第1詩集『若菜集』による、と多くの詩史で説かれています。 

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

若菜

あまりに有名な「初恋」をはじめ、51篇が載っている詩集です。藤村自身、『藤村詩抄』の自序で「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき」と高らかに宣言しています。確かに『新体詩抄』と違い、藤村詩の読者は出版後も減ることなく、現在まで読み継がれてきました。さらに、藤村詩に触発されて自己形成をしたり、新たな文学を志す後輩たちが生まれていった歴史的事実からすれば、近代詩の実質的なスタートと考えられそうです。

『新体詩抄』が社会詩や思想詩を志向したのに対して、藤村詩は、近代の官能を詩に定着したといえるでしょう。しかし、「新しき詩歌の時」を藤村にもとめる見解に対する反論も、少なからず提示されてきました。そうした指摘は、とりわけ昭和の詩人の中から生まれているようです。

吉本隆明は『抒情の論理』で「近代詩が基礎をかためていった明治10年代末期から20年代の初期にかけての詩型は、外から形式としてながめるとき、五・七調を基礎にした定型詩である。五・七調は、いわば日本の詩歌の基本律であり、基本律であることにおいて、日本型の感性、日本語の韻律構造自体ときりはなすことのできない対応関係をもっている。すくなくとも、定型をもとにして、物語や自然にたいする情緒をのべるかぎり、近代詩自体は、日本の近代社会のなかで折衷的な役割をはたす以外にはなにもなしえなかった」と指摘しています。

田村隆一は、藤村詩の五音七音の定型は身にまとった衣装に過ぎず、「内なる私」が完全に表出されているとは言い難いとして、近代詩の出発点を、口語自由詩の完成者とされている萩原朔太郎に見定める見方を打ち出しています。

伊藤整は『若い詩人の肖像』の中で、梶井基次郎が北川冬彦について「北川って変な奴や、彼は詩を書いていながら、島崎藤村の詩のことが話に出たら、藤村が詩を書いていたのか? って言いやがる」といった、と記しています。

「私が笑うと、梶井基次郎も笑った。私と梶井の間に取り交わされたユーモラスな感じは「破戒」、「家」「新生」等によって第一流の小説家になった島崎藤村が、その前に、日本の近代詩の事実上の創始者であることを、北川冬彦が本当に知らないのであれば、それはいかにも新しい傾向の詩人らしくって面白いし、またそのことを知っていながらそう言っているのであれば、その強情なとぼけ方が面白い、ということであった。しかし、ひょっとしたら、北川冬彦というのは、明治時代の日本の詩なんか読んでいないのかもしれない、と私は考えた」というのです。

詩集といえば20歳代で出した4冊のだけで、1901年に最後の詩集『落梅集』を出してからは詩と縁を切って小説家として大成した藤村。一方で、萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』は1917(大正6)年に出版されています。北川冬彦(1900-1990)が第三高等学校に入学したのは、『月に吠える』が絶賛され、一躍詩壇の寵児となっていた1919年のことです。「強情なとぼけ方」かどうかはしりませんが、藤村詩からはかなり遠ざかり、朔太郎らが脚光を浴びていた時代に、北川が詩と向かい合うようになったことは間違いないでしょう。

ところで、そうした北川や梶井らの「肖像」を描いた伊藤整は、朔太郎の『月に吠える』の画期的な意味について「詩を歌うような韻律から解放すると同時に、詩を意味の説明からも解放する方向をはじめて確立したものであった。詩の言葉や文字そのものが人間の存在と相似的であり、意味でなく、感覚がそのまま直接に文字の形によって人間を描くように組織されたものであった」と指摘し、同詩集で「最も代表的な作」として、次の「竹」をあげています。

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。
 
近代詩の出発を『新体詩抄』にもとめるか、藤村か、それとも朔太郎かは別の機会に詳しく検討するとして、ともかく日本の近代詩は、日本の近代数学とはかなり異なる経過をたどって成立したことは明らかでしょう。

日本の近代数学のほうは、世界レベルに発展していた和算という江戸時代の数学が、西洋数学に置き換わる形で産声をあげました。和算と西洋数学で例え記号や表現の仕方が違っていても、同じレベルの内容が表わされているのなら理解は容易です。五線譜で書かれていようとタブラチュア譜で表わされようと、その音楽に変わりはないのです。

しかし近代詩の場合、五七調、七五調といった定型をベースに誕生したとはいえ、日本の伝統的な詩が、近代詩に置き換わったというわけではありません。近代的な思想の洗礼を受けたり、正岡子規らによる変革の波にさらされることはあっても、和歌や俳諧の伝統を受け継ぐ短歌や俳句は近代詩とは別に、いまも盛んに作られつづけています。明治初期まで日本の詩の中心にあった漢詩は急速に衰退しましたが、文化人たちのたしなみが漢詩から近代詩へ転向したわけでもありません。

『万葉集』の代表的歌人、柿本人麻呂(660頃-724)を目安にすれば歌の歴史は、約1300年。俳聖・芭蕉、算聖・関が活躍した時代からは、ざっと350年ほど経っていることになります。一方で近代詩のほうはというと、『月に吠える』刊行からまだ100年ほど。『新体詩抄』から数えても、まだ140年ほどの伝統しかありません。一世紀の節目を迎えたとはいっても、日本の他の詩形や数学に比べれば、まだまだ歴史の浅い“ひよっこ”ということになります。

江戸時代にすでに世界的レベルにあった数学を基礎に日本は近代化を遂げ、いまや“科学立国ニッポン”として、毎年のようにノーベル賞科学者を輩出するまでになりました。国内の一線の数学者の中からも、岡やペレルマンに負けない奇才が続々と生まれています。俳聖・芭蕉の伝統を受け継ぐ日本の俳句は、英語圏の国々をはじめ、ドイツ、フランス、ロシア、中国など、国外でも広く受け入れられ、いまや世界の詩「HAIKU」となりつつあります。

では、『月に吠える』から100年を過ぎた近代詩(現代詩)の世界で、いまどのような才能が輝きを放っているのでしょう。私にはよく分かりませんがただ、100年後も江戸の庶民が熱中した和算のような熱気をもって、豊かな果実を生みつづけていたらいいなと思っています。


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2021年06月06日

数学の詩人と新体詩③

洋服、散髪、洋食、洋館の普及から太陽暦の導入、蒸気船・汽車など交通機関の発達と、近代化が短期間のうちになされた明治の文明開化期にあって、文化や風俗の改良の風潮はやがて文学にも及んでいきます。そんな時代に『新体詩抄』は世に出ました。当時すでに、七五調や三十一文字の詩型を用いた賛美歌や、伊沢修二を中心に編まれた小学唱歌などが作られるようになっていました。

「眠むる心ハ死ぬるなり 見ゆる形ハおぼろなり/あすをも知らぬ我命 あハれはかなき夢ぞかし/などゝあハれにいふハ悪し/……」というロングフェローの詩の訳「玉の緒の歌(一名人生の歌)」の序言で、作品を訳した井上は「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ノ作ル所以ナリ」と主張しています。そのころ日本で「詩」といえば当然、漢詩を意味していたと考えられますが、「漢詩ナルベカラズ」と、それを完全否定しているわけです。

新体詩

なぜ漢詩のことばを排し、和歌のことばによって新体詩運動を進めようとしたのでしょう。野山嘉正は「男性の専有物であると信じられていた〈詩〉なるものを新たに女性や年少のものにまで拡大して創作享受さるべきものとする目的意識から出た」とみています。さらに、それは「彼我の文化を鋭く連絡せしめた漢学の利点を捨てるという重大な結果を伴った。どのような細部の相違をも無視してしまうような和歌と新体詩の基本的な結びつきがここで定められ、これが漢詩の衰退に一部分の力を貸すことになった」と指摘しています。

死ぬるが増か生くるが増か 思案をするはこゝぞかし
つたなき運の情なく うきめからきめ重なるも
堪へ忍ぶが男皃(おのこ)ぞよ 又もおもへばさはあらで
一(いつ)そのことに二つなき
露の玉の緒うちきりて

これは、外山による『ハムレット』の有名な独白場面の部分訳「シェーキスピール氏ハムレット中の一段」です。外山訳には自筆の草稿(東京大学図書館蔵)が残っています。野山によれば、草稿では「シェーキスピーヤ氏著 諸業無常 霊検皇子の仇討 第三段 第一城中座敷の場」となっていて、これからすると、もともと浄瑠璃・歌舞伎を基盤に、七五定型にとらわれない訳詩を考えていたことがうかがえるといいます。

しかし「定訳は劇の言語を短歌の音律の量的拡大という主張の枠の中に収め」ることになりました。試行錯誤の末、最後のほうになって、七五の音律は不可欠の要素として新体詩にその伝統を持ち込まざるを得ないと判断したのかもしれません。七五の音律を残しても、内容的には、和歌や俳諧など従来の詩形では表現できない、文明の進歩にふさわしい「明治ノ歌」を彼らはもとめたのです。

我ハ官軍我敵ハ 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者ハ 古今無雙の英雄で
之に従ふ兵ハ 共に慓悍決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しゝ者ハ昔より 栄えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄ハ 進めや進め諸共に
玉ちる劔抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし

このように始まる外山の「抜刀隊の詩」という創作詩には、西洋で「戦の時慷慨激烈なる歌を謡ひて士気を励ます」のに倣って作った、とする但し書きが付いています。また、「玉ちる劔抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし」を、各連の最後に置いてリフレーンの効果を出そうとしている工夫も見逃せません。軍隊という花鳥風月からは遠いところに素材をもとめ、単純明快で分かりやすく、すぐにでも軍隊の行進に使うことができそうな作品です。

こうして見てくると、『新体詩抄』の著者たちが意図していた「新体ノ詩」というのは、「社会詩ないしは思想詩」であって、現在わたしたちがふつう詩と呼ぶところの抒情詩は、彼らの念頭にはほとんどなかったといえそうです。特に恋愛詩は、恋愛を罪悪視し蔑視する儒教思想の伝統もあって、初期の詩壇で歌われることは少なかったようです。こうして生まれた『新体詩抄』は、文学史的にどのように意味づけられるのでしょう。

本間久雄は「明治黎明期における現象として重大視すべきは新体詩の発生である」としながらも、作品については「詩的感情が空疎であり、豊潤に乏しく、その上、用語が粗笨生硬であって、芸術的には『新体詩抄』一巻は決して価値が高いものではない」と指摘しています。また、『新体詩抄』が及ぼした影響について次の三点を挙げます。

①従来の我国にはない珍らしい清爽高潔なる構想を、当時の人々の間に喚起し、且つ新しい詩形についての暗示を与えて、後の新体詩隆盛の基礎を築いた。②その七五調の詩形を、思想の宣伝や学問の普及等に応用する傾向を助長した。③軍歌の端緒を展いた。ただし②と③については「恐らく、その著者たちの思ひもかけぬものであって、云はば『詩抄』の偶発的影響と見るべきものである」としています。

『新体詩抄』は、伝統と断絶して新しい詩のジャンルを作り出そうとはしたものの、文学作品としてはまだ未熟な段階にすぎなかったということがいえそうです。


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2021年06月05日

数学の詩人と新体詩②

岡潔のような、独創的で、ある意味じつに日本人的な数学者が生まれた背景には、日本に深く根付いた数学の伝統がかかわっていると私は思っています。江戸期に大きな発展を遂げた「和算」です。

江戸時代には、サムライから庶民までを巻き込んだ一大数学ブームが起こっていました。連衆が座に集って連句を巻くのと同じように、和算家を中心に数学の問題を解くのを競い合い、新たな問題を見いだそうと励んでいたのです。問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学が進むことを祈願した「算額」が、各地の神社仏閣に奉納されました。松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が全国を旅したように、数学を教える遊歴算家が各地を巡り、歓待されていたそうです。

関孝和

和算家の中でも、俳聖・芭蕉、茶聖・千利休とならんで「算聖」と讃えられる関孝和(1942-1708)=写真=は、ちょうど芭蕉が俳諧という文芸の価値を飛躍的に高めたのと同じように、和算をニュートンやライプニッツといった当時の世界レベルの数学にまで引き上げました。

たとえば、自然数のべきの和を求める多項式の展開に伴って見出される有理数で、数論で重要な役割を果たす「ベルヌーイ数」は、スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが著書に記した1713年より前に関が発見しています。「関・ベルヌーイ数」と呼ばれていてもおかしくないのです。文化的背景がまったく異なるのに、不思議なことに同じような数学が生み出されていたわけです。

幕末から明治維新になると、軍事などとの結びつきから西洋の数学を学ばなければならなくなり、和算は衰退して西洋の数学に置き換わっていきます。しかし数学史家、小倉金之助の指摘によれば「幕末当時の一般の和算家たちは、洋算の価値をあまり認めなかったようです。

天文歴述とか測量とか、そういう応用方面の数学は、西洋の方が日本よりも進歩しているけれども、純粋の数学になると、日本の方がはるかに西洋に勝っている。━━まあこういうのが、和算家の世論だった」そうです。和算は消えることになっても、和算という世界レベルの数学があったおかげで、日本人は西洋数学、さらにはそれを基礎に発展してきた科学技術を短期間に学びとり、比較的スムーズに身に着けることができました。和算があったからこそ、幕末に米国やヨーロッパに侵略されることもなく近代国家の礎を築くことができた、といっても過言ではないでしょう。

西洋の近代数学を日本にもたらしたのは、菊池大麓(1855~1917)という数学者でした。菊池は六歳で幕府の蕃書調所で英語を学び、11歳でイギリスへ留学。さらに、明治に入って1870年の2度目の留学では、ケンブリッジ大学で数学などを修めて学位を取得しています。世界的な業績となると高木貞治の類体論や岡の多変数函数論の業績などを待たなければならないのでしょうが、ケンブリッジ大学時代、菊池は数学で常に首席を占めていたというたいへんな秀才でした。

帰国してから東京大学で、日本人最初の数学の教授になります。さらには、東大総長、理化学研究所初代所長、文部大臣などの要職も歴任しています。そんな一方で、あまり知られていませんが、数学者でありながら文学の世界でも貴重な仕事を残しています。中でも、1879年に出版した『修辞及華文』は、日本で初めて純文学を論じた書物として高く評価されるものでしょう。

この書は、イギリスのチェンバーズ兄弟の『百科全書』の一部を翻訳したもので、そこには例えば『ドン・キホーテ』における「笑い」についての分析なども載っています。菊池は、humorを「戯謔」、ludicrousを「滑稽」、witを「譏刺」と翻訳し、「戯謔ハ又滑稽中ニ自ラ篤厚ノ意ヲ含ム者ニ係ル而シテ本色ノ滑稽ヨリモ稽適切ノ功ヲ収ムヘシトス顧フニドン、クイキソートハ世界中第一等ノ戯弄文字ノ大作ナル」としています。ちなみに、ドン・キホーテはここでは「ドン、クイキソート」という表記になっています。

菊池の『修辞及華文』は、3年後の1882年に丸善から刊行された、日本初の近代詩集と位置づけられてきた『新体詩抄』の成立にも、啓蒙的に大きな役割を果たしたと考えられています。『新体詩抄』の著者は、外山正一(ゝ山仙士)、井上哲次郎(巽軒居士)、矢田部良吉(尚今居士)。3人はいずれも菊池と同じく、いまの東大教授を務めたエリート学者でした。

外山と矢田部は、初代文部大臣を務めた森有礼の随員として明治三年に教育制度視察のため渡来しました。在米中に公務を辞して外山はミシガン大学、矢田部はコーネル大学に入学し、外山は社会学、矢田部は植物学を修めています。また、井上は『新体詩抄』刊行後にドイツへ留学、ハイデルベルク大学とライプチッヒ大学に学び、哲学を専攻しました。井上は「巽軒」の号を持つ漢詩人でしたが、詩作や文学を専門にしていたわけではありません。『新体詩抄』は、“アマチュア詩人”の学者たちによって生み出された試行錯誤の産物だったわけです。

『新体詩抄』は、3人それぞれの序文に続き、英、米、仏の翻訳詩一四編と創作詩五編から成る本文(42葉)によって構成されています。オリジナルの詩集というより、西洋の名作から選ばれた翻訳詩中心のアンソロジーだったのです。矢田部の序には「西洋ノ風ニ模倣シテ一種新体ノ詩ヲ作リ出セリ」とあります。「西洋ノ風ニ模倣シテ」とは、単に形式だけでなく、西洋の啓蒙思想や欧化主義、さらには、当時いろんな分野の学者たちが傾倒していたハーバート・スペンサーの社会進化論に基づく改良主義など、思想的な意味合いが多く含まれていたと考えられます。

宇宙の事ハ彼此の 別を論ぜず諸共に
規律の無きハあらぬかし 天に懸れる日月や
微かに見ゆる星とても 動くハ共に引力と
云へる力のある故ぞ 其引力の働ハ

とはじまる外山の創作詩「社会学の原理に題す」は、もともとスペンサー著、乗竹孝太郎訳の『社会学之原理』に付されたものでした。科学についての啓蒙を七五調でうたったようで、現代、ふつうに詩といったときにイメージする抒情詩とは、かなり異質な作品だったことがうかがえます。


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2021年06月04日

数学の詩人と新体詩①

数学の超難問「ABC予想」を証明した京都大数理解析研究所の望月新一教授の論文が先日、2012年の提出から足かけ8年半がかりで出版された、というニュースが流れていました。論文は「宇宙際(うちゅうさい)タイヒミュラー理論」というのだそうです。英字で計723ページと長大なため、通常は5本以上の論文が掲載されるPRIMSを1冊まるまる使うことになったとか。

10代から20代初めにかけて、私はずっと数学者になりたいと夢見ていました。小説を読むよりも、1ページを読むのに何時間もかかる数学書と対峙しているときのほうがずっと幸せでした。でも、結局のところ、現代の純粋数学という抽象化の極みのような世界で生きるには如何せん才能が及ばないことを悟り、けっきょく断念してサラリーマン生活へと入らざるを得なくなりました。

幼いころからピアノを習っていても、プロの演奏家になれる人はめったにいないのと同じです。数学の教師になる道はあったのかもしれませんが、望月教授のような大発見は無理であっても、一線で研究に携われなければなんの意味もないと若いころは頑なに思いつめていました。以後40年、この時の挫折感をずっと引きずって右往左往しながら、いつのまにか時が流れてしまっていたような気もしています。

現代数学の基礎をなしている集合論の創始者として知られるゲオルグ・カントール(1845-1918)は「数学の本質はその自由性にある」と叫んで、精神に破綻をきたして亡くなりました。「現代数学の父」と呼ばれるダフィット・ヒルベルト(1862-1943)は「点や直線や平面というかわりに、テーブルとイスとビールジョッキと言ってもいっこうに構わない」といいました。

現代の公理主義的な抽象数学にあっては、概念自体の意味などどうでもよく、われわれの世界の常識に合おうが合うまいが、より普遍的で、より美しく、より深みのある理論体系が構築できればいいのです。頭と紙と鉛筆だけで美しい理論をもとめて純粋に思索に打ち込む数学者は、言葉の美しさや可能性をもとめてペンを握りつづける詩人と、ものすごく似たところがあるように私は感じてきました。

「詩人」というとどこか変わっていて貧乏な人というイメージがありますが、変人ぶりでは数学者のほうが上をいっているかもしれません。たとえば、ポアンカレ予想という世紀の難問を解いたグリゴリー・ペレルマン(1966-)というロシアの数学者は、ノーベル賞以上に取るのが難しいといわれるフィールズ賞や、クレイ数学研究所の100万ドルの賞金が出るミレニアム賞など、顕彰やポストをことごとく辞退し、ほとんど人前に姿を見せない世捨て人のような生活をおくっています。

ペレルマンは雑誌『ザ・ニューヨーカー』の取材に、「私が人目をひく人間でないなら、数学コミュニティーの不誠実さについて苦情を言うなどという見苦しいことをせず、一匹のペットとして扱われていればいいのだが、いかほどかの有名人になったいまや、何もいわないペットでいるわけにはいかない」と語っています。

グロタンディーク

純粋に数学を愛するペレルマンは、自身の業績を横取りしようとするような醜い動きのある数学界に嫌気がさして、人間不信に陥ったのではないかという憶測も流れています。ユダヤ系フランス人で、二〇世紀最高の数学者ともいわれるアレクサンドル・グロタンディーク(1928-2014)も、後半生は、ペレルマンと同じような生き方を選びました。

父をアウシュヴィッツ強制収容所で失い、自らも潜伏生活を強いられた経験をもつグロタンディークは、1970年ごろ、所属していたフランスの研究所に軍からの資金援助があることを知り、即座に辞職します。その後は、さまざまな栄誉ある賞の受賞をすべて拒否、さらに許諾のないすべての著作を削除するなどしました。1991年には家族のもとを去り、ピレネー山脈のふもとのアリエージュ県で隠遁生活を送り、タンポポのスープなどの粗食で命をつないでいたといわれていました。

日本人では、「数学の詩人」といわれる岡潔(1901-1978)が有名です。フランスへの留学を終えて、1932年に広島文理科大学助教授となりましたが、数学の研究に没頭するあまり講義もままならなくなり、1938年、37歳のときにその職を辞して郷里の和歌山県伊都郡紀見村(現在の橋本市)に籠ります。以後49歳まで定職につくことなく、極貧の生活をしながら数学研究に自身のすべてを費やしました。

当時の岡について、京都大学の教授を務めた友人の数学者秋月康夫は、自著に「ボロ服に、風呂敷包を肩に振り分けた、岡潔君の久しぶりの訪問をうけた。第一印象は「彼もずい分と齢をとったものだ。まるで百姓のようだ」ということであった。当時、無職であった同君は、家や田を売り、芋を栽培して糊口を養いつつ、多変数函数論の開拓に励まれてきていたのである」とつづっています。

やがてジーゲル、ヴェイユ、カルタンといった世界の超一級の数学者たちが、論文に注目してはるばる岡の家を訪ねたりするようになり、国内でもその真価が認識されるようになります。岡は生涯に10編の論文しか残しませんでしたが、そのほとんどが新たな数学の地平を切り開く画期的なものでした。世界からは「岡とは個人ではなく数学者集団の名前ではないのか」と思われていたほどだったそうです。

岡は、「人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。私は数学の研究をつとめてしている者であって、大学を出てから今日まで39年間、それのみにいそしんできた。今後もそうするだろう。数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである」と言っています。

私たちが科学者に対していだくイメージとはかなり異質な「詩的」なものが感じられます。

また数学の発見について、「何か数学上の発見というふうなことを言うためには、一度行き詰まらなければなりません。どれくらい行き詰ってるかといったら、たいてい6、7年は行き詰まる。それは自由な精神が勝手に行き詰まってるんであって、そこに行き詰まってるべく強いられてるんじゃありません。だからこそ6、7年行き詰まってられる。その時は行き詰まりを感じるも何もない。全然やることがない。やりたいことは決まってるんだけど、そっち向きには何にもやることがない。だからやるのは情意がやってるんであって、知は働きようがない」と語っています。

まるで、芸術家がその創作活動の内幕を披露しているようです。


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2021年06月03日

『宇宙からの帰還』とネリー・ザックス⑦

ついでにネリー・ザックスのもう一篇、晩年に作られた「Weiss im Krankenhauspark(病院の庭先の白)」という詩を眺めておきましょう。精神疾患のためスウェーデンの病院に入退院を繰り返していたころの作品です。もはやシンタクスは崩れ、句読点は欠如、メタファーは複雑化し、相互の関連性は希薄でテーマが見えにくくなってきています。


Im Schnee
die Frau geht
hält auf dem Rücken
umkrampft mit falschem Griff
ganz heimlich
abgebrochene Zweige mit Knospen
noch von Nacht verdeckt
雪のなかを
女がゆく
背後で握りしめている
蕾のついた折れ枝を
偽りの手でぎこちなく
こっそり内緒で
夜の闇がいまだ覆っている

Sie aber im Wahnsinn ganz still
im Schnee
um sich blickend und weit offen
die Augen wo
von allen Seiten das Nichts einfährt −
狂気の女は静やかに
雪のなかで
あたりを見まわす
ひろく開いた眼のうちに
四方から虚無がなだれ込む――

Aber sehr heimlich das Ferne
ist in ihrer Hand
in Bewegung geraten −
けれど遥かなものが何とも
密やかに女の手のなかで
動きはじめている――


Die Stille mit soviel Wunden getränkt
Religion der schon ausgefahrenen Beter
lebt noch vom Martyrium
immer neu wie Frühling −
さほどに夥しい傷口に浸潤した静寂
すでに場を離れた祈り人の信心が
受難によっていまもなお生きている
春のように絶えず新たに――  =松井訳

ツエラン

ネリーは、1954年春から69年暮れまで16年間にわたり、パウル・ツェラン=写真=と手紙のやりとりをしていました。2人の「往復書簡」(飯吉光夫訳)の中で、封筒に「1962年」とある、ネリーからパウルへ送った手紙にこの作品が入っています。この詩に続いて手紙には次のように記されています。

パウルとジゼルに
いつもかわらぬひたすらなおもいをこめて
ありがたい保護者である人々がいる隠れ処で再度!
あなたがたのネリー

追伸 エリック、その後も元気ですか? あらゆる祝福がありますように!

ここに出てくるジゼルは、ツェラン=レストランジュ・ジゼル。フランスの女流銅版画家で、パウルの妻でした。エリックは、パウルとジゼルの息子です。「隠れ処」というのは、ネリーが1960年に全身硬直した状態で緊急入院した後、転院した精神病院のベコムベリャ病院と考えられています。

この手紙に対してツェランは、1962年3月6日、「詩をありがとうございます。親愛なるネリー! わたしたちはしばしば、わたしたちは毎日、あなたのことをおもっています。くれぐれもお大事に!」という返事をネリーに送っています。

ネリー・ザックスとパウル・ツェランという20世紀を代表する2人の詩人のあいだで交わされた「往復書簡」には、この作品に限らず、詩がふんだんに挿入されています。1966年にノーベル賞という栄誉を手にしてからもザックスは、精神病、さらには癌の苦痛に悩まされました。一方のツェランも、妻子との別居を招くほど精神障害に苦しんでいました。

そんな病に苦しむ天性の詩人2人が、気持ちを表現し、心を通わせるには、『宇宙からの帰還』の宇宙飛行士たちがそうだったように、いやそれよりはるかに増して「詩」の力を必要としたのでしょう。ツェランがパリのミラボー橋から投身自殺をしたのは1970年4月末か5月初めとみられています。奇しくもそれから1カ月とおかない5月12日に、ザックスはこの世を去っています。


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2021年06月02日

『宇宙からの帰還』とネリー・ザックス⑥

1941年10月、ネリーはスウェーデン・ストックホルム近郊のアパートの一階に落ち着きます。日の当たらない薄暗い一間と台所だけだったそうです。亡命の成功は、ゼルマとオイゲン王子の助力が大きかったとされます。亡命後、生活の資を助けるためスウェーデンの詩をドイツ語に翻訳しながら、自作を書き続けました

1948年には、同じアパートの3階に移ります。一間だけでしたが、陽が当たり、窓からは夕焼けが、夏には北欧特有の白夜が見わたせるようになりました。母親の世話のため、ほとんど部屋から出ることはなかったようです。1952年にはスウェーデン国籍を取得。

1950年代後半には、いくつかの賞も獲得し、詩人としての経歴にも輝きが増しますが、逆に彼女の孤独はますます深まっていきます。アパートの上の部屋に物音をたてる友人が引っ越してきたのと前後して、自分がたえず監視され、無線で報告されていると思い込むようになります。

地球

次にあげるのは、亡命先のストックホルムで、一間だけのアパート暮らしをしていたころ初期形が作られたとみられる「Völker der Erde(地球のもろもろの民よ)」という詩です。一つの「さけび」となってしまった地球では、さらに、「さけび」の手段でもある「言葉」さえ奪われようとしています。

Völker der Erde
ihr, die ihr euch mit der Kraft der unbekannten
Gestirne umwickelt wie Garnrollen,
die ihr näht und wieder auftrennt das Genähte,
die ihr in die Sprachverwirrung steigt
wie in Bienenkörbe,
um im Süßen zu stechen
und gestochen zu werden −
地球のもろもろの民よ
いまだに知らぬ星辰のちからを
糸まきみたいに巻きつけている民よ
縫ってはふたたび縫物をほどく民よ
蜜蜂の巣箱へとのぼるように
言葉の錯乱にはいりゆく民よ
甘味へと針を刺し
そして刺される━━

Völker der Erde,
zerstöret nicht das Weltall der Worte,
zerschneidet nicht mit den Messern des Hasses
den Laut, der mit dem Atem zugleich geboren wurde.
地球のもろもろの民よ
言葉の宇宙を壊さないで
息ふくたびに生まれた音声を
憎悪の刃で切り裂かないで)

Völker der Erde,
O daß nicht Einer Tod meine, wenn er Leben sagt −
und nicht Einer Blut, wenn er Wiege spricht −
地球のもろもろの民よ
生を口にするなら死をおもわないで━━
揺籠を語るなら血をおもわないで━━

Völker der Erde,
lasset die Worte an ihrer Quelle,
denn sie sind es, die die Horizonte
in die wahren Himmel rücken können
und mit ihrer abgewandten Seite
wie eine Maske dahinter die Nacht gähnt
die Sterne gebären helfen −
地球のもろもろの民よ
言葉をその泉へとむけなさい
なぜなら言葉こそが地平を
真の天へと転ずることができる
そして夜が後ろでぱっくり口を開ける仮面のような
そっぽをむいたその横っ面でもって
星々を分娩する手助けをする━━ =松井訳

各節の最初に「Völker der Erde(地球のもろもろの民よ)」のリフレイン。自由律で韻は踏まず、ダーシュが4カ所におかれています。四格の目的語句が「das Weltall der Worte(言葉の宇宙)」から「den Laut(音声)」へと変わり、破壊の対象としての「言葉」は、人間の息となり、音として発せられる言葉へと展開していきます。

可能性としての破壊の対象が、人間から言葉へと進んでいくのです。生野幸吉は「ザックスの言う地球は、たとえばもちろんドゥノイの第9悲歌の末尾で呼びかけられる「大地」と同じドイツ語の単語である。しかしリルケにあっては、その大地はなお人間の脚下にひろがる生死を蔵した母胎であり、彼はいわば、それ自体は安定している大地の一角に立ち、大空や星を仰いでいる。ザックスにあってはしかし、地球は虚空を廻転し、何ひとつ保証をもたない。それはいわば極度の地動説である。ひとつにはこれは、イスラエルの始原の記憶というべきものが彼女の深部からはたらいており、他界もまた、砂漠の夜空という鏡に映した像のように、他の天体と等価の球体に変わるためだろう」と指摘しています。


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2021年06月01日

『宇宙からの帰還』とネリー・ザックス⑤

話はずいぶん飛びますが、近ごろ、ドイツのノーベル賞詩人、ネリー・ザックス=写真=の作品を読んでいて、地球や天体がよく出て来ることに気がつきました。たとえば、第1詩集『死神の住家で』(1947年)にある「Chor der Sterne(星の合唱)」は――

Wir wandernder, glänzender, singender Staub - 
Unsere Schwester die Erde ist die Blinde geworden 
Unter den Leuchtbildern des Himmels - 
Ein Schrei ist sie geworden 
Unter den Singenden - 
Sie, die Sehnsuchtsvollste 
Die im Staube begann ihr Werk: Engel zu bilden - 
Sie, die die Seligkeit in ihrem Geheimnis trägt 
Wie goldführendes Gewässer - 
Ausgeschüttet in der Nacht liegt sie 
Wie Wein auf den Gassen - 
Des Bösen gelbe Schwefellichter hüpfen auf ihrem Leib.
星であるわたしたち、星であるわたしたち
さすらい、かがやき、歌う砂であるわたしたち――
わたしたちの姉妹である地球は盲いた、
天空の光の像のあいだで――
地球は一つのさけびとなった
歌う星々のあいだで――
塵のなかで、天使を作るという、その業をはじめた
地球、もっとも憧れのつよい地球が――
夜闇のなかに地球はこぼれ出ている、
路上にこぼれた酒のように――
悪魔の黄いろい硫黄の光が、その胴の上を跳ねまわる。

O Erde, Erde 
Stern aller Sterne 
Durchzogen von den Spuren des Heimwehs 
Die Gott selbst begann - 
Ist niemand auf dir, der sich erinnert an deine Jugend? 
Niemand, der sich hingibt als Schwimmer 
Den Meeren von Tod? 
Ist niemandes Sehnsucht reif geworden 
Daß sie sich erhebt wie der engelhaft fliegende Samen 
Der Löwenzahnblüte? 
おお地球よ、地球よ、
すべての星のうちの星よ、
神みずからが始めた
郷愁の形跡を縦横に引かれた星――
おまえの青春を思いだすものは、おまえの上に住んでいないのか?
泳ぎ手としての死の大海に
身をなげうつものはいないのか?
たんぽぽの花の、天使さながらにとぶ種子のように
憧れが高まるほどに
その憧れを稔らせた人はいないのか?

Erde, Erde, bist du eine Blinde geworden 
Vor den Schwesternaugen der Plejaden 
Oder der Waage prüfendem Blick? 
地球よ、地球よ、プレアデスの姉妹のような眼の前に、
あるいは天秤座のためのような視線の前に、
おまえは盲目になってしまったか? =生野幸吉訳

ザックス

地球は、「すべての星のうちの星」、「神みずからが始めた/郷愁の形跡を縦横に引かれた星」であるのに、いまはプレアデスや天秤座など、天空の光の像のあいだで盲いてしまい、さすらい、かがやき、歌う砂である星々のなかにあって一つの「さけび」へと変ってしまったとうたっています。

そして、それは路上にこぼれた酒のように夜闇にこぼれ、その胴体には悪魔の硫黄の光が跳梁しているというのです。1949年に出版された第2詩集『星の蝕』のタイトルにもあるように、詩人にとって地球は、凄まじいばかりの闇に蝕まれているのです。

ネリー・ザックスは1891年、ベルリンのユダヤ人の家庭に生まれました。父は主にゴムを原料とした製品を作る工場を営んでいて、トレーニング用具のエキスパンダーを発明した人だそうです。1897年に小学校へ入りますが、内気な性格から周囲にとけこめず、すぐに退学、個人教授を受けます。15歳の誕生日に贈られたスウェーデンの女流作家ゼルマ・ラーゲルレフの『ゲスタ・ベーリングのサガ』に魅了され、自作の詩を手紙に添えて送ることもあったそうです。

1933年にナチスが政権を掌握。追い打ちをかけるように、ユダヤ人の迫害が始まりました。1940年5月、ネリーのもとに労働収容所への召集令状が届きますが、間一髪のところで危機をのがれ、ベルリンを飛び立ちました。ある日突然、隊のメンバーが家の中に押し入って来たときには、恐怖のあまり数日のあいだ声を失ってしまったそうです。このころ、むかしの恋人が彼女の目の前で拷問を受けたとされ、ネリーは後に、この男性は殉教の死を遂げたと語っています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)ネリー・ザックス