2020年10月

2020年10月31日

十三郎・乾いた抒情33 太古の羊歯

同じ「葦の地方」のタイトルがついていても、次にあげる『風景詩抄』所収の「葦の地方(四)」では、趣きはかなり異なってきます。

いつか
地平には
ナトリユムの光源のやうな
美しい真黄な太陽が照る。
草木の影は黒く
何百年か何千年かの間
絶えて来ない
小鳥の群が
再びやつてくる
三角形状の
縁だけが顫動する金属板が
杳く
蒼空の中に光る。
機械はおそろしく発達して
地中にくぐり
見えない。
太古の羊歯のしづかさに
たちかへる。
やがて いつか
そんな日が
或はやつて来ないとはかぎらない。
ここにいささか余裕を生じ
心の平衡と
希望があつて
それらを緻密に計量出来るならば
この国の鉄には
この国の石炭や石油には
この国の酸素や窒素
塩酸や硝酸や二硫化炭素にはそれだけの用意もあるだらう。
羊歯の葉つぱや
鳥たちの純粋な飛翔のやうな
何か おそろしくしづかな
杳い夢のやうなものも
或は。

シダ類

角田敏郎は「葦の地方(四)」について、①第1行「いつか」から第18行「たちかへる」までの、純粋に詩人の心象を提示した部分②第19行「やがて」から第29行「塩酸や硝酸や二硫化炭素にはそれだけの用意もあるだらう」までの、詩人の「現実」に関する姿勢が表面化している部分③第30行「羊歯の葉つぱや」から最終行「或は」までの、一編の主題が集中的にあらわれている部分、という三つのグループに分けられるとしてうえで、こうした構造の緊密さに加え、①の部分の心象風景の鮮明さにこの作品の特徴を見ています。

そして「未来の心象風景において、詩人が機械を地下にくぐらせ地表を太古の自然に復帰させ、超現実的な静寂や純粋な空間の動きを描こうとすることは、とりもなおさず現実の重工業地帯の風景に対する批判ではなかろうか。まだ続くであろう永い夜を何千年か経過した後に迎える朝明けの風景は「或は」このようであるかもしれない」と指摘しています。

一方、「葦の地方」や「明日」でも特徴的だった②の第26行から第29行へかけてにある「鉄・石炭・石油・酸素・水素・塩酸・二硫化炭素といった化学用語の羅列」については、「一語一語にそれほどの重点はない。第三行の「ナトリュウム」よりもずっと軽く、工業関係の物質を並列したにすぎない」と、角田は重視してはいません。(1)

これに対して日野範之はまったく異なる見方を示しています。

「小野さんは「本来人類の福祉にこうけんすべき重工業の発展と、それの現実の姿の対比を、近づいてくる戦争の危機の予感の中でとらえよう」としたと、自作解説に記す。つまり小野という詩人は、眼のまえに見る軍需工場を、自分の意識のなかで解体し、兵器や銃弾や戦車になるものの要素を、この詩において鉄、石炭、石油、酸素、水素、塩酸、硝酸、二硫化炭素など物質として分解してしまったのだ。想像力のなかで軍事兵器を解体し「本来人類の福祉にこうけんすべき」物質にと変え、対置しようとする。このように小野さんは複眼でもって、戦時下の葦の地方(日本の現実)の姿を捉えようとしたが、それは詩でもってこの戦時体制に抵抗しようとする、苛烈な批判精神から生まれたものだった。圧された戦時下状況のなかで、直接的な思想言語は許されず、小野さんはこうした幻視した風景・物をして(自分の思想を)語らせるという方法を編み出した。暗喩でしか表現できない状況が、これを書かしめた」のだというのです。(2)

私も日野に近い考えをもっています。

「葦の地方」では、「硫安や 曹達や/電気や 鋼鉄の原で」と「ノヂギクの一むらがちぢれあがり/絶滅する」の対比的な構造によって「力学」といってもいい緊張感のある言語時空を構築していたのに対して、「葦の地方(四)」に至っては「この国の鉄には/この国の石炭や石油には/この国の酸素や窒素/塩酸や硝酸や二硫化炭素にはそれだけの用意もあるだらう。」と、「羊歯の葉つぱや/鳥たちの純粋な飛翔のやうな/何か おそろしくしづかな/杳い夢のやうなものも」などを置くことによって、そうした言語間の「力学」を維持しつつも、“想像の翼”を羽ばたかせるに足るゆったりとした奥行を秘めた「時空」を築こうとしているように思えるのです。

(1)角田敏郎「小野十三郎「葦の地方」」(學燈社『國文学 解釈と教材の研究』1967.4)p.61-64
(2)山田兼士・細見和之編『小野十三郎を読む』(思潮社、2008.9)p.51-54(論考・日野範之)


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2020年10月30日

十三郎・乾いた抒情32

『風景詩抄』(1943年)で、詩人は「人造石油工場」なるものをも夢想しています。

通俗科学書が説く
太陽熱や潮汐の利用などといふことは私を少しも興奮させない。
私の空想は極めて控へ目だ。
もう二三十年もたてばこの地上から掘りつくされるといふあの生臭い真黒な泥を未来だと云つてゐる。
海を見よ。
あきらかに
一つの設計が
そこに創まるとき
地上の風景は心憎きまで荒廃して見える。
私は 物より
わづかに早く
そこにゆかう。
発明や
資本や
鉄骨や軌道の集積より
わづかに早く。        (「人造石油工場一つ」から)

人造石油
 
「人造石油」は、オイルサンド、オイルシャール、石炭などを原料として生産される合成液体燃料のことをいいますが、とくに石炭の液化によるものを指すことが多いようです。

石炭液化には、直接液化法と間接液化法があります。直接法は、1913年にドイツのベルギウスによって石炭を高温・高圧下で水素化分解する方法が開発されました。

日本でも第2次大戦前および戦中に海軍燃料廠、満鉄、日本窒素肥料工業などによって研究が進められ、本格的な工場も建設されたましたが、いずれも順調な運転に入る前に終戦を迎えました。

石炭をひとまず合成ガスに変えてから触媒を用いて液体の鎖状炭化水素を生産する間接液化は、第2次世界大戦中、三井化学工業などがかなりの規模で実施しされましたが、なお技術的改良の余地が残りました。(1)

安東次男は「小野十三郎の詩を解く鍵はこの願望の持続の度合いとそれが採る姿を見定めるところにかかっている、といってもよい」(2)と示唆していますが、詩人は「私の空想は極めて控え目だ」といいつつも、海に「人造石油工場一つ」を見るのです。

そして、「物より/わづかに早く/そこにゆかう」といいます。「夢」は「物より早く」というほどに重みがかかってるのです。

(1) 『世界大百科事典 第9巻』(平凡社、2009.6)p.469、冨永博夫担当「合成石油」の項
(2) 『日本の詩歌 第20巻』(中央公論社、1979.8)p.128-129、安東次男「鑑賞」


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2020年10月29日

十三郎・乾いた抒情31 ニッケル

これまで見てきた詩に始まる「葦の地方」の世界は、その後、どのように描かれ、展開していくことになるのか、ざっと眺めておくことにしましょう。

詩集『大阪』で、「葦原の地方」の三つあとに置かれた「明日」という詩では「硫安や 曹達や/電気や 鋼鉄の原」を「重工業原」という一つの言葉で表現し、詩人は「枯れみだれた葦の中で/はるかに重工業原をわたる風をきく」。そして、次のように訴えます。

おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。
すでにそれは想像を絶する。
眼に映るのはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ。
光なく 音響なく
地平をかぎる
強烈な陰影。
鉄やニツケル
ゴム 硫酸 窒素 マグネシウム
それらだ。

ニッケル
*ニッケル

「葦の地方」では、「硫安や 曹達や」であったのが、この詩では「鉄やニツケル」「窒素 マグネシウム」となっているように、工業でつくられる化学物質から、それらを構成するより基本的な単位である「元素」へと、詩人の視点が移っているところも注目されます。

『大阪』が刊行された4年後、すでに敗色が濃く、日本軍はミッドウエー、ガダルカナル島から敗退し始めていた1943年に出版された第4詩集『風景詩抄』になると「云わば現実の風景に、超現実的な世界や抽象的な宇宙が交錯しダブっているような様相を呈する」(1) ようになります。

次の詩「渺かに遠く」を見ても、同じ「葦原」をテーマにしているのにもかかわらず現実の風景からだいぶ遠ざかっていることがわかります。

渺(はる)かに遠く
それは対岸に煙っている
誰もまだあすこに到達したものはない。
暗い海と 枯れた葦原の
あすこにゆかう。
私は長生きして
きつとあすこにゆきつくつもりだ。
川に沿うて緑色のガソリンカーがはしつてゐる。
煤ぼけの市内電車は
毎朝定刻に夥しい人間どもをあすこに吐き出す。
けれどもあの人たちが完全に
あすこに到達したとは
私は思へない。
私はどうしても思へないのだ。

私はこんな夢を見た。
それは夜中のやうでもあり真昼間のやうでもある。
私は白い大きな落下傘で
遂にその茫寞たる葦のそよぎの中に降りてゐた。
私は夢の中でふしぎな安堵をおぼえ、おーいと声をあげたかつた。
そこはどこか住友伸銅あたりの風景に似てゐたが
なんだか変なところもある。
けつきよくどこだかわからない。
いやにしづかな息づまる世界だつた。

『大阪』では風景は現実の風景であり、その現実の「物質」の圧倒的イメージが「葦の地方」をつくりあげました。

しかし、『風景詩抄』においては、現実の風景から遠ざかっていって「葦の地方」が追跡されています。誰もまだ到達していない場所。「私」は「夢」にすがってそこへ到達するのです。ところが、「なんだかへんなところもある。/けつきよくどこだかわからない」というのです。「葦の地方」は地理的にではなく心理的に〈杳い〉ものとなり、いまや現実の風景から隔絶しようとしています。

「風景(八)」になると、「遠いところで/泥海のはなに出た。/海からくる風にはかすかな硫酸銅の臭気がまじつてゐた。/煤煙のきれ目から/爬虫の鱗のやうに無気味な煙突の肌が見えた。/或は人の人生をもつてしても達し得ない/地球の裏側よりも遠いところに/私は出た」と、さらに遠くへと離れていきます。

(1) 小野十三郎「激動から秩序へ」(『現代詩の実験』寳文館、1954.2、p.101)


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月28日

十三郎・乾いた抒情30 

  葦の地方

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

乾燥

「葦の地方」からは、じめじめとしたものや濡れたもの、日陰のものを通しての自然への自己没入などはありません。逆に、乾燥したもの、さっぱりとしたもの、荒冷さといった、大都会の周辺ならどこでもみられる「風景」が設えられています。

小野は、「詩論28」で、「私たちの自然を形成している一要素である「湿潤」ということを取り挙げてみても、それが、ほんとうの生活の中に存するためには、それと対立理念とも云うべき「乾燥」が強く意識されなければならない。「乾燥」を対極としない「湿潤」など死も同然だ。「湿潤」に想いをはせない「乾燥」が絶対死であると同じように」としたうえで「故国の自然に対する深い倦怠感が、却って生命の激烈な発露を意味し、嫌悪が愛着の表現である場合もある」としています。

しかし岡本喬は、この詩から、こうしたアンチ・テーゼとしての発想や、苛烈な現実であった戦争への抵抗だったといった詩人の思いまで読みとらせるのは無理だろうと指摘します。
「なぜなら、それはあくまで態度の問題であり、あくまで作者の精神内部の問題だからだ。そして、この詩にも、そこまでは表現されていない。作者の「風景詩」に新しい変革的抒情の可能性は認められるが、作者の思想型態まで理解させるには、なんらかのドラマ性をもった表現がなければならないのではないか」(1) というのです。

これを端的に言えば、いまだ「歌に」になってはいないということになるのでしょう。私も基本的には岡本の意見に賛成ですが、「歌に」に至りえないのは「ドラマ性をもった表現」にあるだけでなく、小野が用いている科学技術など近代の言葉の喚起力が、詩語としては弱く、まだ十分に成長していないことに起因しているのではないかと思われます。

さらに、以前も触れましたが「ノヂギクの一むらがちぢれあがり/絶滅する」という、この詩の最後の2行が気にかかる。この2行によって、この詩に、地球史的な時間軸が加えられ、「言語の静力学」ともいえる詩空間が4次元の「時空」となると考えられるからです。十三郎は、晩年に作った「襖の上に」という詩の中で次のように記しています。

「葦の地方」から
わたしの言葉さがしがはじまった。
時間という言葉が、わたしの詩に
最初に現われたのもそのころだ。 
時間とのわたしの闘いはまだなかったかな、
あのころには。

「詩」という「言葉の静力学」の時空にはめ込む「言葉」の探索は「葦の地方」に始まった。と同時に「言葉」のなかには、「時間」が含まれるようになったというのです。こうして小野が見いだした「葦原」が現実から想像力の世界へと昇華していく中で、「時間」との「闘い」がはじまるわけです。

(1)草野心平編『現代詩の鑑賞』(社会思想社、1973.4)岡本喬担当「小野十三郎」p.272-274


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月27日

十三郎・乾いた抒情29 コンビナートの夜景 

富岡多恵子は実際、十三郎が出会った「葦の地方」の一部に生れ、10歳までそこで育ちました。入学した小学校は、大阪湾に近い淀川のきわにあり、「淀の川辺を見渡せば、繁きヨシ、アシこぎわけて」という校歌を歌いました。

父親もその小学校の卒業生でした。初めから「「葦の地方」の内部にいた」といいます。富岡はそんな「葦の地方」に、四貫島、酉島、百島、中島、出来島、姫島、御幣島、竹島、加島、向島、桜島というように「島のつく地名が多く残っている」ことに気づきます。

「地図を見ても、文字通り、河口に浮ぶ、小さな島でそのあたりの土地はできており、川や運河が島の間を縫うのである。そして大阪湾に近い「島」ほど人影が少くなる。それは重工業、化学工業の大工場、造船所などがそこを占拠しているからである」。さらに富岡の興味は、この地の過去へと向かいます。
天保期の地図にも、先に記した「島」の名前がすでに記されている。また、「大坂名所一覧」という錦絵に、大阪城の方から大阪湾を俯瞰する絵があり、かなたの海の中に浮ぶ小さな島に「四貫島」「伝法」と記してあるのを見つけて驚いたこともある。つまり、大阪平野へ流れこんでくる多くの川の支流から流出させられる土砂が、本流の川底を高くして、長雨には大洪水になるから、河口に近い土地の新地や新田の開発がすすめられたのだった。新田ははじめから低地であった。

そこから見る「大阪」という陸は台地であった。新しく出現した、川や運河にはさまれた小さな、低い島々は、いつもヒタヒタと大阪湾の水でぬらされて、そこには葦が茂っていたのであろう。そこに最初移ってきたヒトは、葦を刈って住む家をこしらえていったのであろうか。城のあるところは遠い高台であり、そこからは大阪が見おろされ、見渡される。

またあきないで栄える町も、「島」の土地からは遠いのだ。あきんどの遊ぶ町もそこからはずっと遠い。いつも、海からおしよせる水、川からあふれる水の勢におびえ、水を治めてくれるのは、時代がすすみ、鉄をつくる大工場、船をつくる大工場、または得体の知れぬ化学薬品をつくる大工場の煙突が並ぶことであった。(1)

「葦の地方」は一方、戦争を知らず高度経済成長による戦後の繁栄期に育った人々にとっては、科学技術と工業生産力を過信して膨張拡大してきた虚栄のなかで発生してきたさまざまな公害をイメージして、この世界がゆきつくさきの無気味な「青写真」として映るかもしれません。繁栄のなかに出現した「物(ぶつ)」が“怪物”となって未来ををふさぐ危機と現実に立ち合ったとき、この詩はひとごとでない実在感と衝撃力をもつことになるでしょう。

コンビナート

小野は、戦後の繁栄の中で公害がつぎつぎに告発されるようになった時期に探訪した四日市の石油コンビナート=写真=について、「なにがもっとも印象的だったかと云えば、深夜の名四国道の防波堤に車をとめて見た千の照明にかがやく全コンビナートの夜景を挙げなければなりません。かつて、日本のどこの海辺にも、どこの田園の中にも現出しなかったものが、いま四日市海岸一帯に幻のようにそびえ立っていたのです」(2) といいます。

これについて牧羊子は「なるほど線の照明にかがやく、夜景に象徴されるコンビナートには、葦や蜻蛉やノジギクはもちろん、たとえ硫安、曹達、電気、鋼鉄といった無機物であっても、それぞれ個体としての存在と名称を個別確認できる次元はすでに消去されていて、あるものはより抽象化された記号で管理される世界にちがいない。ところがその千の照明をコントロールする何かのシンボル・マークが一つ故障したとする。あるいは狂ったとなったらばどうであろうか。たちまちそこに襲いかかってくる自然の簒奪力はこれまた想像力はこれまた想像に絶するものがあって、人間が構築したメカニズムなどは、それらが造営された時間などまるで問題にならない速さで解体してしまうものだ」(3) と指摘しています。

(1)  富岡多恵子「海から見た土地――小野十三郎」(『小野十三郎著作集第二巻』筑摩書房、1990.12、p.578-579)
(2)  小野『歌と逆に歌に』p.94-95
(3)  牧羊子「解説」(『小野十三郎詩集』彌生書房、一九七四年四月)p.137-139


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2020年10月26日

十三郎・乾いた抒情28 絶滅

詩「葦の地方」のつづきを検討していきます。

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

絶滅

最終行にある「絶滅」というのは、生物学的には①ある生物の分類群が、生物の進化の途上において、子孫の生物を残さずに滅び去ること②野外において、生物個体群(集団)が滅びること(生息地の破壊、競争者や捕食者や寄生者などの侵入により、また環境変動による確率性により、不適な環境がしばらく続くことと、個体数が有限であるために生じる人口学的確率性とが共同して生じる)、の二通りがあるといいます(1)。

「一むら」ということは②で、人間がつくった「不適な環境がしばらく続」いたことが原因と考えられるのでしょう。とはいえ、この詩人が、冷たい風景の中で可憐な生命が死にたえてゆくといった感傷からこの二行を最後に置いたとは到底考えられません。絶滅するノジギクは、圧倒的なものに立ち向かうモメントになっているとともに、この詩に地球史的な時間軸を加味して読者を「静力学」の働く言語時空へと導く役割を担っているのではないかと思われます。

ここで、全12行のこの作品を、句点や意味から、次のように2行ずつ六つに分けて再度ながめてみる。

すなわち、①遠方に/波の音がする。②末枯れはじめた大葦原の上に/高圧線の弧が大きくたるんでゐる。③地平には/重油タンク。④寒い透きとほる晩秋の陽の中を/ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され⑤硫安や 曹達や/電気や 鋼鉄の原で⑥ノヂギクの一むらがちぢれあがり/絶滅する。というように、です。

これらの中から、それぞれを代表すると考えられる言葉を一つずつ取り上げてみると、①波(自然)②高圧線(人工物)③重油タンク(人工物)④とうすみ蜻蛉(自然・生命)⑤曹達(人工物)⑥ノジギク(自然・生命)ということになります。

この詩の舞台である「葦原」という場には、生命を育む海という自然の発する見えない「音」によって導かれ、時空を分かつようにたわんで伸びる人間が作った「高圧線」が置かれています。

そして次からは、人工的な無機物と生命体である無機物とが、交互に現れてきます。詩人が求めているのは、これらの物と生が引き合い、退け合いする、「重力場」あるいは「電磁場」のような時空に生じる言葉の「力学」、すなわち「乾いた抒情」ではないでしょうか。

そこで問題になるのは、例えば「曹達」という言葉が有する言葉の喚起力の問題です。決して短歌では表現できそうにない、「硫安」「曹達」といった時代の本質に迫る言葉であったとしても、日本語として使われはじめたばかりの用語に「歌」を喚起する力がどれだけあるかが問われているはずです。

それぞれの言葉が力を及ぼし合わなければ、そこに「歌に」という「力学」は生じないのです。この詩を書いたときの記憶をたどって小野は次のように記しています。

詩では、季節が晩秋ということになっているが、それはなにか必然的な力によって記憶を呼びさまされたからであって、実際に書いたのは、昭和一四年の元旦の朝であった。まずは書きぞめというところである。わたしの詩の方法は、この作品を転機として改まり、主情的な要素が抑えられて、以後もはやそれは『歌』ではなくなってしまう。日支事変勃発、国民精神総動員法が発令されたのが一二年七月、翌一三年はさらに国家総動員法である。製作年月日を、いまだによくおぼえているただ一つの詩であるわたしのこの詩が、寒い透きとおる晩秋の太陽の光そのものの記憶よりも、そのときの実感において、もはや不可抗力となった、この人間を追い上げ、しめつけてきたものにつながることは云うまでもないだろう。(2)

ときは、息苦しい統制ととともに急速な勢いで軍国主義化が進んでいく時代だったのです。木澤豊はこの詩を読んだときの印象を、不思議なほど鮮やかに覚えているといいます。「風景を形作る一つ一つの〈もの〉はリアルで戦争の足音が聞こえて重苦しいのに、まるで幻想の風景のまっただ中に立っているように感じた。なつかしいと思った」からです(3)。

(1)『岩波生物学辞典〔第五版〕』(岩波書店、2013.2)p.793-794「絶滅」の項
(2)小野『奇妙な本棚』p.103
(3)木澤豊「「小野十三郎の詩的地理」のためのメモ」(大阪文学学校・葦書房『樹林』、1997.1)p.60


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2020年10月25日

十三郎・乾いた抒情27 ノヂギク 

「葦の地方」のつづき。詩は、「ノヂギク」の「絶滅」でしめくくられます。

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

ノジギク

「電気」は、「物質のもっている電気的な性質や電気現象の根元となっているもの」をいいます。物体、とくに粒子がもっている電気のことを電荷といいます。

今日では、ほとんどすべての電気現象は、陽子のもつ正電荷と電子のもつ負電荷に起因することが知られていますが、小野が葦原に通っていたのは、こうした電気の本性を追求する研究や物質の電気的性質の研究が急速に進んだ時代でもありました。

たとえば1930年には、今日〈エレクトロニクスに不可欠の要素〉となっている半導体が、物質中の不純物に起因することが明らかになっています。(1)

「鋼鉄」は、「刃物をつくるのに用いる金属」に由来する、鍛えられた強靭な鉄の総称ですが、厳密には「炭素量を約2質量%以下に制御し、そのほか使用目的に応じて合金元素を添加した鉄基合金のこと」をいいます。(2)

ドイツの宰相ビスマルクの演説から「鉄は国家なり」という言葉が知られていますが、硬く、重く、強い武器や機械の代名詞として、さらには軍隊、戦争、権力を象徴する言葉としても作品の中で響いてきます。

そしてこの詩は、こうした無機質な“重化学工業原”ともいえる「葦原」に、楚々と気高く生きている「ノヂギクの一むらがちぢれあがり/絶滅する。」という二行でしめくくられているのです。

「ノヂギク(野路菊)」は、発見・命名した牧野富太郎の図鑑には「兵庫県以西の瀬戸内海沿岸と太平洋側の海岸に近い山のふもとや、崖に生える多年草。地下茎をのばし、茎は斜上して基部は倒れ、中部でふつう三岐し、上部で多数の小枝が分かれ、高さ60-90センチほどになる。葉は互生して2センチ内外の柄があり、卵円形で3-5の羽片に中裂、裂片は少数のきょ歯があり、基部は心臓形または切形、上面はまばらに毛があり、下面には灰白色の密毛がくっついて長さ3-5センチ、幅2.5-4センチである。秋にやや散房状に径3センチ以上の頭花を開き、周辺には白色まれに黄色を帯びる舌状花が通常一列に並び、中心には黄色の筒状花が多数集まる。総苞片は長さ8ミリ内外、外片は内片より短く細く、先は円形で灰白色の毛がある。瀬戸内海沿岸ののものをセトノジギクとして区別することもある」(3)とあります。

(1)『物理学辞典』(培風館、1992.5)p.1379-1380「電気」の項
(2)吉村壽次編集代表『化学辞典(第2版)』(森北出版、2009.12)p.481、1063「鋼鉄」「はがね」の項
(3)牧野富太郎原著『新牧野日本植物図鑑』(北隆館、2008.11)p.773「ノジギク」の項


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2020年10月24日

十三郎・乾いた抒情26 硫安とソーダ 

『大阪』(1939年)の詩「葦の地方」のつづきです。詩の後半は、「硫安」「曹達」と工業関係の用語が並びます。

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

りゅうあん

大阪を中心に、西宮、神戸、堺、和歌山の大阪湾岸から茨木、守口などの内陸にまで広がる広がる阪神工業地帯は、明治期には綿糸や綿織物、メリヤスなどの繊維工業、肥料、製粉、製紙、マッチ工業が盛んでしたが、第1次世界大戦を契機に重化学工業が発達して総合工業地域となり、戦前、日本最大の工業地域となっていきました。

そんな海岸の重工業地帯の荒涼とした風景が、明快な遠近法によって緻密に描写されています。そうした描写に続いて「硫安や 曹達や/電気や 鋼鉄」と、科学用語が並んでいます。それぞれの言葉を分析してみると、単に「葦原」の背景にある工業地帯に関連するものを思いつくままに並べたものではなく、経済の基盤である産業や時代の思想を意味付け、象徴する、詩人が選び抜いて配置した言葉であることがわかります。

「硫安(硫酸アンモニウム)」=写真=は、硫酸とアンモニウムが結合した代表的な化学肥料です。日本で最初の化学肥料生産の試みは、1869(明治2)年に大阪に設立された造幣局で行われました。73年に日産5トンの硫酸設備を稼働させた造幣局は、過剰となった硫酸を用いて硫安などを試作しました。75年には、内務省勧業寮で人糞に硫酸を加えて硫安を作る試みも行われました。

硫安の生産を拡大させたのが1923(大正12)年に生産が始まった合成硫安です。合成硫安は水素と窒素を直接化合させて得られる合成アンモニアを原料とします。「アンモニア合成を起点として新興財閥となっていく日本窒素肥料、旧財閥の三池窒素、既存の過燐酸石灰肥料メーカーの大日本人造肥料などが、1920年代から30年代にかけて外国から技術導入に依存して次々と合成硫安の生産に進出した」(1) のです。

「曹達(ソーダ)」は、炭酸ナトリウムの俗称で、ガラス・石鹼・水酸化ナトリウムなどの原料とするほか、製紙・染料工業にも重要な材料となります。

産業革命というと小野も愛した蒸気機関が思い浮かびますが、廣重徹によれば「蒸気機関はむしろ科学とは無関係に、徒弟制度のなかで訓練された職人技術者のカンと試行錯誤によって発達させられてきた」もので、「当時の科学研究と互いに関連があったのは、むしろ化学工業であったように思われる。産業革命の展開のなかで化学の演じた役割はけっして小さくなかったのである。それはソーダ製造を基点として拡がっていった」(2)といいます。

廣瀬が指摘するように、この詩にある「曹達」は、単なる一つの科学用語というわけではなく、産業革命を押し進めた化学工業を代表する「物」の言葉なのです。ところで日本初の化学肥料生産をした大阪の造幣局は、硫酸の用途拡大のために1881(明治14)年、ソーダ工場を稼働させました。

「硫酸と食塩からソーダ灰(炭酸ナトリウム)を作る」ルブラン法ソーダを操業してガラス工業に供給し、ソーダ灰から苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を作って製紙業に供給する計画や、副生する塩酸から晒粉を作る計画も立てられました。

大阪で設立された硫酸製造会社(大阪アルカリ)が、造幣局のソーダ工場を用いてみずからソーダ製造をめざしたほか、1890年代にはいくつかの硫酸・ソーダ工場が稼働しています。その後、日本のソーダ工業は、第1次世界大戦中のソーダ類の輸入途絶などによって発展していきました。

それを担ったのは、ルブラン法ではなく「水を電気分解して苛性ソーダと塩素を生成する」電解法ソーダでした。1915(大正4)年から電解法ソーダ工場が次々と建設され、16年末には16社に達しました。

その後、電解法ソーダを上回って増加したのが「アンモニアー食塩水に二酸化炭素を反応させてソーダ灰を得る」アンモニア法ソーダです。1917年には、三菱系の旭硝子がアンモニア法ソーダ工場を開設しています。

この技術は「多段化された塔内で連続的に反応をすすめ、反応にともなって出る熱を除去しなければならなことや、アンモニアを回収するための蒸留設備など、複雑な設備と工程が必要であったが、高純度のソーダ灰が得られた」といいます。(3)

(1)日本産業技術史学会編『日本産業技術史事典』(思文閣出版、2007.7)p.133(担当・高松亨)
(2)廣重徹『科学の社会史』(中央公論社、1973.11)p.46
(3)日本産業技術史学会編『日本産業技術史事典』p.132(担当・高松亨)


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月22日

十三郎・乾いた抒情25 重油と蜻蛉

詩集『大阪』(1939年)に収められた詩「葦の地方」を読んでいます。

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

トンボ

「高圧線の弧」の次に視線がとらえるのははるかかなた〈地平〉に見渡せる「重油タンク」です。重油は「ディーゼル・エンジン用およびガス・タービン用などの内燃用と、ボイラーや各種工業炉用などの外燃用の燃料として適当な品質を有する鉱油」として、日本工業規格でその種類と品質が定められています。

褐色または黒褐色の重質油で、比重は0.82-0.95、成分は炭化水素が主で、若干の硫黄分および微量の無機化合物が含まれています。便宜上、粘度によってA重油、B重油およびC重油の3種に分類使用されています。A重油は重油中最も軽質で粘度が低く、主成分は軽油で、これに10%程度の残油を加えて製造し、ディーゼル・エンジン、小型バーナー用燃料として最も一般的に使用されています。

B重油は A重油とC重油の中間的な性質を持ち、おおよそ軽油50%、残油50%程度の混合によって製造され、ディーゼル・エンジン、バーナー用燃料に使用されます。C重油は、重油中最も粘度が高く、常温では流動性を失い、加熱・保温設備を必要とするものもありますが、石油製品のうち最も安価な燃料として大型ディーゼル・エンジン、大型ボイラー用などに使用されています。また、船舶の燃料用に使われる重油はバンカー重油または単にバンカーと呼ばれています。(1)

ディーゼル・エンジン、船舶燃料、大型ボイラーなど、いずれも産業や交通を動かす原動力になっていることに違いありません。

葦原と重油タンクとが座標を成す空間には、「とうすみ蜻蛉」が風を頼りに飛んでいる。「とうすみ蜻蛉(灯心とんぼ)」は、「蝋燭の心(しん)ほどの細い体をしているトンボ」(2) の意で、イトトンボ科で、小型の種類を俗にそう呼んでいます。イトトンボ科は、日本からは二七種が知られ、体長約2センチのヒメイトトンボから、体長約4.5センチのオオセスジイトトンボまであります。「小形で、弱々しく、池や沼の水面上にすみ、飛ぶ力は弱く、水草などに止まっていることが多い」といいます(3)

「ユーフアウシア」は、軟甲亜綱オキアミ目の学名の「Euphausiacea」、すなわちオキアミの総称です。海中を浮遊生活しているエビ形の甲殻類で、ヒゲクジラ類や魚類の天然餌料として重要なプランクトンの一つ。体長5ミリから8センチくらい。八十数種が知られ、日本近海からは、マルエリオキアミ、ツノナシオキアミ、ヒゲブトオキアミなどが知られています。(4)

ごく小さなエビのような形でからだが透き通って弱々しく、海流のなすがままに漂いクジラや魚のえさとなっているオキアミのように、とうすみ蜻蛉は風に身をゆだねているのです。

(1)石油天然ガス・金属鉱物資源機構『石油・天然ガス用語辞典』の「重油」の項
(2)阿部光典『昆虫名方言事典』(サイエンティスト社、2013.12)p.11
(3)古川晴男『昆虫の事典』(東京堂出版、1995.9)p.31
(4)『世界大百科事典 第四巻』(平凡社、2009.6)p.175-176、蒲生重男担当「オキアミ」


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

十三郎・乾いた抒情24 高圧線

帰阪して葦原通いを始めた十三郎は「葦」に関する詩を続々と書いていきます。中でも「葦の地方」というタイトルの詩篇が、『大阪』、『風景詩抄』、さらに『重油富士』の三っつの詩集にまたがり合わせて8篇が発表されているのが注目されます。

8篇のうち最初に登場するのが、1939年に刊行された詩集『大阪』に収められた次の作品です。

  葦の地方

遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシアのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。

高圧線

主観や思想内容の明らさまな表示は極力おさえられ、一見、何ということのない単なる叙景詩ではないかと思われます。しかし、この詩は、小野の詩風を一変させて、彼が求めた「乾いた抒情」に向けて一歩を進めたことをうかがい知ることもできます。

まずは、この詩の「時空」に置かれた「言葉」を克明に追っていくところから考察を進めてみたいと思います。

詩人はまず「遠方」に「波の音」を聞きます。そして、視線が捕らえるのは「末枯れはじめた大葦原」、そしてその上には「大きくたるん」だ「高圧線の弧」がかかっています。

「高圧線」(架空送電)は、高電圧の送電線、配電線をいう。通産省令では、交流の場合600ボルトをこえ7000ボルト以下を高圧、7000ボルトをこえるものを特別高圧と定めていますが、一般に高圧線と呼ばれているものは特別高圧架空電線路に対応するものが大部分のようです。高圧線は、鉄塔、電線、碍子でできています。

電圧を高くして電気を送るため、鉄塔で地上から高いところに電線を支えて、碍子で絶縁する。電線をささえるものには鉄塔、鉄柱、鉄筋コンクリート柱、木柱などがあるが、強度と信頼性が高いため、主として送電線には鉄塔が使われます。地上高60メートル以上のものは、赤白に塗り分けられたり、航空障害灯としてフラッシュライトがつけられています。(1)

送電用の「鉄塔」は、電線や架空地線など架渉線を支持する構造物ですが「日本で初めて建設されたのは1907年とされ、高度経済成長による電力需要の増加と環境面、土地の有効活用などから電源立地点が遠隔化するとともに電源規模の大容量化に伴い送電線も長距離・大容量化が必要となり、送電鉄塔は大型化してきた。 ……日本では、古くから送電線用地取得の困難さを踏まえた建設コストの削減と供給信頼度の確保の面から、垂直2回線配列の四角鉄塔を採用することが多くなっている」そうです。(2)

(1)「でんきはどうやって送られてくるの?架空送電」(中部電力のウェブページ)
(2)本郷栄次郎「送電鉄塔の歴史」(『電気学会誌』118巻5号、1998年、p.290-293)


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2020年10月21日

十三郎・乾いた抒情23 第二芸術論

こうして見てきた「葦原」の発見は、小野が嫌悪した日本の歌にみられる「湿った抒情」とは異なる、「乾いた抒情」ともいえる独自の言語空間を構築していく突破口となりました。

と同時に、そうした新たな詩の世界を開拓していく高らかな宣言であるかのように、若者らしい熱っぽさと時に激しい言葉を吐きながら、日本の伝統的な短詩である短歌などを批判していくことになります。

中でも文学関係者に衝撃を呼んだのが、短歌雑誌『八雲』(昭和23年1月号)に掲載された「奴隷の韻律」論です。

小野はこのエッセーの中で、「あの三十一字音量感の底をながれている濡れた湿っぽいでれでれした詠嘆調、そういう閉塞された韻律に対する新しい世代の感性的な抵抗がなぜもっと紙背に徹して感じられないかということだ」と激しく切り出し、「短歌や俳句の音数律に対する、古い生活と生命のリズムに対する、嫌悪の表明が絶対に稀薄だ」と訴える。さらに「他のいかなる構築は欠いても、この憎しみを内に持続しているかぎり、詩人は究極に於て最も実践的な俳句や短歌の批判者たり得る。そして反対に、どんなに伝統を剔抉し、その歴史性に犀利なメスをあてて、よってくる論理の帰結を予想し得ても、生活のこの韻律を質的に識別し得ない鈍磨した感覚の持主は、永久に歌俳の世界をながれている奴隷のリリシズムから解放される時はない。古い抒情を否定出来るものはただそれに対して異質の新しい抒情を創造し体験し得た者だけである」と指摘しています。(1)

第二芸術

小野の「奴隷の韻律」をめぐる論議のほか、小田切秀雄と小名木綱夫の「歌の条件」論争、臼井吉見の「短歌への訣別」をめぐる論議、さらに桑原武夫の「第二芸術」をめぐる論議と窪川鶴次郎の第二芸術論に対する反論など、1946年から1948年にかけての3年間に集中して行われた、いわゆる“第二芸術論議”は、戦後の歌壇に衝撃的な影響を与えることになります。歌人の篠弘はこの第二芸術論議について次のように振り返っています。

戦後の歌壇は、その当初から深傷を負っていた。戦時下において、とりわけ太平洋戦争から、作歌していたすべての歌人と言ってもいい。国粋主義ないしは愛国主義的な作風をくりひろげてきた。国策に与した私的感慨から、すすんで戦意昂揚をはかるものまで、時流への全き迎合ぶりを呈していた。他ジャンルに比べるまでもなく、もっとも「撃ちてし止まん」の巣窟であった。したがって、一九四五年の敗戦に遭遇した歌人は、はげしい虚脱感に襲われた。信じきってきた国家が瓦解する驚愕と、体制に便乗してきたことにたいする悔恨と、二重三重の混迷をよぎなくされた。きびしい戸惑いのうえに、いわゆる第二芸術論議が出現してきたことを知らなければならない。それは歌人に強烈な反省をうながすことよりも、激励よりは訣別を強いる方向で、論調は険しさを増していくことになり、それだけ致命的な衝撃をうけるはめとなったのである。(2)

一方で、歌人たちに「致命的な衝撃」を与える立場に立った十三郎のほうも、それなりの覚悟を決めて、こうした挑戦的な発言をしていたようです。第二芸術論議が起こった昭和20年代に書かれた「短歌的抒情に抗して」というエッセーの中で小野は「いま私が書いている詩がなお多分に短歌的要素をその中に含んでいるのは、私の詩の弱みではなく、生活の弱みである。私はこういう意味で、現代の詩から短歌的な抒情を一掃することに残りの半生をかけたいと思う」(3)と述べています。

こうして十三郎は、「古い抒情」を真っ向から否定して、それとは異質の抒情、すなわち「湿っぽいでれでれした」抒情ではない新しい「乾いた抒情」に向けて試行錯誤を積み重ねていくことになるのです。

(1)小野十三郎「奴隷の韻律」(『小野十三郎著作集〈第2巻〉』筑摩書房、1990.12、p.516-518)
(2) 篠弘「第二芸術論の衝撃」(岡井隆編『短歌の創造力と象徴性』岩波書店、1999.2、p.3)
(3) 小野十三郎「短歌的抒情に抗して」(『昭和批評体系 第3巻(昭和20年代)』番町書房、1978.3、p.154-155)


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月20日

十三郎・乾いた抒情22 キーワード

「葦(蘆)」は、十三郎の詩を特徴づけているキーワードの一つと考えることができます。1926年から1974年まで、小野が24歳から71歳まで出された詩集を集大成した『定本 小野十三郎全詩集』から「葦(蘆)」という言葉が入っている詩をピックアップしてみると、次のようになりました。

風景詩抄

①『半分開いた窓』(1926年) 「この秋」「或恐怖」「情人」「蘆」「野鴨」=5作品
②『大阪』(1939年) 「早春」「白い炎」「蘆の地方」「晩春賦」「住吉川」「明日」「北港海岸」「骸炭山(一)=8作品
③『風景詩抄』(1943年) 「大葦原の歌」「完全な日常について」「夏の葦」「風景(四)」「風景(七)」「大河口」「重工業抄」「北西の葦原」「風景(九)」「住居」「日紡の近所」「風景(十一)」「風景(十二)」「葦原拾遺」「禾本莎草」「詩人の投資」「葦の地方(二)」「渺かに遠く」「未知の世界」「私の人工楽園」「今日の羊歯」「葦の地方(四)」「葦の地方(五)」「工業」「空」=25作品
④『大海辺』(1947年) 「大海辺」「日本冬物語」「惜別」「葦のなかの小さな水たまり」「枯葦の葉末に」「海の方へ」「痕跡」「子供に」「夢幻集」「物質の原にて」「農十二篇」「夜の葦」「兇器携帯者」「近づく」「十一月の或る日の空」「野茨」=16作品
⑤『抒情詩集』(1947年) 「影絵の庭」「はぜつり」「夕暮の川に沿うて」=3作品
⑥『火呑む欅』(1952年) 「何十年か何百年か後の」「旅びとに」「わがたてるところより」13作品
⑦『重油富士』(1956年) 「葦の地方(七)」「葦の地方(六)」「葦の地方(八)」
⑧『垂直飛行』(1970年) 「コンビナートで」=1作品
⑨『拒絶の木』(1974年) 「蓮のうてな」=1作品

「葦」という言葉は、十三郎が大阪に腰を落ち着かせる前の東京滞在中に出した第1詩集『半分開いた窓』(1926年)から最後の詩集『冥王星で』(1992年)まで、生涯にわたってさまざまな作品に用いられています。

しかし、『大阪』(1939年)8作品、『風景詩抄』(1943年)25作品、『大海辺』(1947年)16作品など、詩人が大阪の葦原を通うようになった戦中から終戦直後に作られた詩集に集中していることがはっきりとわかります。

こうして小野は、1939年に出した詩集『大阪』を皮切りに、「葦」を織り込んだ詩を数多く作っていきます。そうした「葦」へのこだわりは、戦時下にとどいた一枚の徴用令状が背中を押すことになりました。

「徴用先は、遠隔地でなく、地元大阪の近郊にある軍管理工場・藤永田造船所であった。この召集を私ほどよろこんだ者はいないだろう。徴用だろうとなんだろうと、『風景詩抄』でそこを「葦の地方」と呼んだ重工業地帯の内部へこの機にはいってゆけるということもあったが、それよりも、露天商組合がつぶれても、そこに行けば、まがりなりにもまたいくらかの定収にありつけるだろうという想いがあったからだ。したがって一定の生業を持っている者には災難だった徴用も、私にとっては救いの神さまであった」(1)のです。

(1)小野十三郎『歌と逆に歌に―わがバリエテ―』(創樹社、1973.8)p.24


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月19日

十三郎・乾いた抒情21 ヨシ

牧野富太郎の図鑑によると、「ヨシ」は「日本各地の沼、河岸にふつうに生える大形の多年生草本で、高さ2~3メートルに達する。ふつう大群落をつくる。根茎は黄白色扁平で長く泥中に横たわり、その節から多数のひげ根を出す。茎は硬く、中空の円柱形で緑色、毛はなく滑らかで節があるが、節間は長い。茎は分枝しない。葉は2列に互生し(風向によっては片側に寄ったいわゆる片葉のアシとなる)大形で細長い披針形で、長さ50センチ、幅4センチ程度、先端は次第に細く尖っている。葉質はごわごわしてふちはざらついている。秋に茎の先に大形の円錐花序を出す。花序は多数の小穂からなり、初めは紫色であるが後に紫褐色になる。小穂は5個の花で構成され、細長く尖っている。苞穎2枚には大小があるがともに護穎の2分の1よりも短い。若芽は食用になる」といいます。

ヨシ

さらに、日本名については「アシは桿(はし)の変化したものであろう。これをヨシというのはアシが「悪し」に通ずるのでこれを嫌ったからであるとされています。(1)

日本国語大辞典によれば、語源説としては①初めの意のハシの義。天地開闢の時、初めて出現した神の名をウマシアシカビヒコヂノ神といい、国土を葦原の国といった日本神話に基づく②水辺の浅い岸にはえる草であるところから、アサ(浅)の転語③未だ田となっていない意のアラシ(荒)の転、などがある、といいます。(2)

恐竜の多くの種類が絶滅した約6500万年前から現在までを地質学では新生代といいますが、新生代は、葦を含めたイネ科の植物が大いに繫栄しました。

「新生代という時代は、イネ科はじめ草の仲間におもわず大きな味方をした。新生代に入ると地球の環境はそれまでの中生代と違ってとたんに不安定となった。中生代ほど、湿潤でも温暖でもなくなったのである。とくにここ200万年ほどの第四紀に入ると、極地だけでなく中緯度地帯までをも巻き込む氷河期がしばしば訪れ、広い面積で森が消え去った。寒さや乾燥、あるいは火山の爆発などの現象が一過性のものならば森は再生する。しかしこれらが、森の再生より短い周期で繰り返し訪れると、森はもはや再生しない。再生の途中の段階でリセットボタンが押されて生態系は破壊され、また再生の道をたどる、ということを繰り返す。こうなると森に代わって草原の面積が増える。リセットボタン(これを押すことをかく乱という)がひんぱんに押されると森のおもな構成者たる長寿の樹木よりも、クリアされた土地、つまり裸地に最初に入り込む短命の草の仲間が生存上有利になるからである。樹木の中でも、森の王者たる巨樹になる仲間よりも、寿命が短く、比較的若い時期から花を咲かせて種子を実らせる仲間がより有利となる。このことが幸いして、草の仲間たちは急速にその勢力を伸ばしたに違いない」と専門家は見ています。(3)

(1)牧野富太郎『新牧野日本植物圖鑑』(北隆館、2008.11)p.912
(2)日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典 第1巻』(小学館、1976.5)p.234
(3)佐藤洋一郎『イネの歴史』(京都大学学術出版会、2008.10)p.6-7


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2020年10月18日

十三郎・乾いた抒情20 煙突

「葦原」への行き来が始まったころについて、十三郎は次のように述懐しています。

「早春の候だったと思う。大阪に帰ってまもなく、わたしは、ある日、葦原橋から市電(当時はまだ新阪堺という私鉄で、魚釣電車と呼ばれた)に乗って、堺の三宝浜まで行った。別に目的があったわけではない。

ほとんど廃線同様で、昼間はまったく乗客がないというこのガタガタ電車になんとなく一度乗ってみたかったのである。そのときも乗客はわたしの他に三人くらいしかいなかった。

津守あたりまでは、そのころでも町工場や人家が建てこんでいたが、それから先になると、街並はとぎれ、北加賀屋、住吉川辺では、電車はほとんど両側に一軒の人家もない枯葦原のまん中を走る。

はるか海の方に、浅野セメント・宇治電・藤永田造船などの大工場の煙突やクレーンが見えるだけである。わたしは、大阪にもこんなところがあるのかと、車窓に展開するこの荒漠とした景色にひどく打たれた。

そして、わたしは、この大工業地帯の遠景をバックにした葦原の風景にくらべると、人が普通、大阪のもっとも大阪たるところとしてあげている名所史蹟などはとるに足らないと思ったものだ。

こういうところを忘れていて、他のどこに大阪の大阪たるところがあるのか、わたしは、多少象徴的な意味をもこめて、ここを「葦の地方」とよぶことにし、その日以来、この新阪堺線の沿線だけでなく、大阪市の周辺にひろがっている「葦の地方」の探訪が日課のようになった。

汽車会社や住友製鋼や大阪鉄工所桜島工場などの大構築が隣接して立ちならんでいる北港あたりもしばしば訪れたし、後年、地盤沈下で、海中から煙突がそびえ立つという光景を呈するにいたった大谷製鋼などがある尼崎の臨海工業地帯までも遠出した。

わが「葦の地方」はいたるところにあった。わたしはそこで、遠くの化学工場が放つ異様に強烈な白光を見て興奮したり、そう日が暮れるというのに、葦原を駆けまわって、トンボ釣りをしている子どもたちを見て、その子どもたちの家のくらしのありさまなどを想像したりした。

また、海ぎわまで出て、岸壁で糸をたれている人のそばに立って、しばらくの時間を送ることもあった。このようにして、重工業地帯を背景に持つ「葦の地方」は、しだいにわたしの内部の心象風景のようなものに化していった」(1) 

煙突地帯

というのです。こうした葦原の発見の下地には、以前に見た、十三郎が東京で出あったオルダス・ハックスリーの本の影響も大きかったと考えられます。十三郎はさらにいいます。

「ハックスリーは、まだ日本のどの詩人もそれを見なかった以前に、日本に着くなり、それを見たのである。海の方に、煙突やガスタンクやクレーンが林立し、大葦原の上を高圧線が弧を描いてのびてゆくところ。

彼はたぶん、世界の大工業地帯の風景が相互にあまりよく似ていること、その共通性に感なきを得なかったのだろう。神戸から大阪を通過するまでの間で、「日本の未来は、他のあらゆる国と同じく、その真ならざる姿にかかっている」という言葉を、その本の中に残した。
彼の炯眼におくれること数年にして、わたしもある日、新阪堺の魚釣電車の窓から、そこにひらけるわが大阪の「葦の地方」を望見して、電撃のごとく、「日本の未来はその真ならざる姿にかかっている」というこの一外国作家の発言が意味することと同じ内容を持った感想が全身をつらぬくのをおぼえたのであった」(2)

(1) 小野『奇妙な本棚』p.98-101
(2)  小野『奇妙な本棚』p.101-102


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月17日

十三郎・乾いた抒情19 重工業

第1詩集を出版して5年後の1933(昭和8)年4月、30歳を目前にした十三郎は、妻と2人の娘を伴って大阪に帰ります。

その前年の1932年3月には満州国が樹立。5月には五・一五事件が起こり、青年将校が犬養毅首相を暗殺しています。33年2月には小林多喜二が築地署で虐殺。3月には、国際連盟脱退と、世の中は急速な勢いで戦時色を深めていきました。

当時の世界状況を経済面からざっとながめておくと、19世紀半ばにイギリスを中心として発展した資本主義は、綿工業の大量生産体制を基礎に展開しましたが、19世紀末から第1次世界大戦にかけて帝国主義的色彩を深めると、ドイツにおける重化学工業、とくに鉄鋼業の大量生産体制によって生産力的展開を遂げるようになります。

当時のアメリカもまた鉄鋼業と鉄道業を基礎に資本主義を展開しましたが、それは帝国主義的世界システムからは孤立した独自の経済体制でした。しかし、いずれにしても「帝国主義時代における資本主義の生産力的基礎は鉄鋼業であり、或いはこれを中核とする重化学工業であった」のです。(1)

日本においても重化学工業化は、戦時体制下の軍事経済化が本格化する1930年代後半期に積極的に進行していきます。と同時に、それを担うため、日本経済の独占的支配をしてきた旧財閥の構造にも大きな変化をもたらしました。例えば重化学工業化のための資金需要に対して、もはや旧来の閉鎖的な蓄積方式では対応できずに、伝来の本社機構の株式会社への改組が相ついで行われることとなったのです。

1937年には、住友と三菱が本社を合資会社から株式会社に改組、40年には三井合名が株式会社三井物産に吸収される形で株式会社化し、しかもそれら本社の株式を公開することによって多額の資金の吸収がはかられることとなりました。こうした本社機構の改組は、ついに財閥の頂点から旧い共同体的な関係を名実ともに消し去ります。(2)

メーカー

十三郎が見つけた「葦原」の周辺では、軍需重工業の急速な伸長による資金需要が契機となって、こうした、帝国主義時代における資本主義の歴史的ともいえる変質が起こっていたのです。大阪湾の重工業地帯は、かつて海辺であったところが埋め立てられて工場風景へと変貌していきました。

寺田操は「近代都市は、「大阪洋行」とよばれた20年代の華やかなモダニズムを風景としてつくりだしたが、それとは対照的な殺風景で寂しい風景もうみだしていたのである。モダンシティにかくれて見えなかった工場地帯が、風景として浮かびあがってくるのは、1930年代も半ば、時代が戦争にのめりこんでいく時期とかさなっている。重工業が建ち並び、葦原がつづく灰色の風景は、生暖かい感情をはげしく拒絶する日本とは思えない場所である。……湿潤な風土のなかの異質な空間は、時代をおおっている閉塞感が強ければ強いほど、幻想を生み出すものである」といいます。(3)

十三郎は、まさに帰郷してほどなく、そうした重工業地帯へと飲み込まれつつある芦原と出あうことになったのです。

古く日本は「葦原中国」(あしはらのなかつくに)と呼ばれました。記紀の伝承で、この地上が高天原から見て地下の黄泉国との中間に位置しているためにつけられた神話上の名称です。「葦原」とは、葦の葉がざわざわと無気味にさわぐ未開の地を示し、荒ぶる国つ神が蟠踞する混沌とした無秩序の世界でした。

そこはまた、人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり、死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもある、とされたのです(4)。また、平安時代には、文字を描き入れて葦や水のある姿を描いた「葦手絵」という画風も流行しました。

葦手の名は、源氏物語や栄花物語などにも見えて古い。また、のちには葦や水はなくとも、画中に文字を描き込んだものも、葦手絵と呼ぶようになりました(5) 。ところが、小野の「葦」への視線は、こうした伝統的な日本文化とかかわる関心とは異質なものでした。

(1)  長尾克子『日本機械工業史――量産型機械工業の分業構造』(社会評論社、1995.2)p.10-11
(2)  富森虔児『現代資本主義の理論』(新評論、1977.6)p.151
(3)  寺田操『金子みすゞと尾崎翠』(白地社、2000.2)p.196-204
(4) 平凡社『世界大百科事典 第2版(電子版)』「葦原中国」の項
(5)  谷信一・野間清六編『日本美術辞典』(東京堂出版、1994.6)p.53


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月16日

十三郎・乾いた抒情18 断崖

  蘆

君はあの蘆を見たことがあるか
君はおそらく見たこがないであらう
蘆といふやつは
河をへめぐるヴガボンド
黄色ろくつて、黒くつて
鋭く、長く
静かに簇生してゐるが
風が吹くと
閃めいて 鳴つて
響き渡つて
僕の女を凌辱して気狂にして
又、つ、つ、つ、と生えてゐるやつだ
この蘆を見たことがあるか

あし

生涯にわたって十三郎の詩の大きなテーマになる「葦(蘆)」ですが、すでに第1詩集にも登場していることも注目されます。

「ヴガボンド」は、「vagabond」。手元にある電子辞書(『リーダース英和辞典 第二版』)によると、放浪者、浮浪者、流浪者、漂泊者、さすらい人、やくざ者、ごろつき、といった訳が出てきました。

古来、遊牧民は生活のために放浪を繰り返してきたし、若者たちはしばしば人生の意味を求めて放浪を重ねます。17世紀フランスの思想家パスカルは、代表作『パンセ』の冒頭に、有名な「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」という言葉を残しました(1)。人間はひ弱な一本の葦にすぎないが、思考することのできる葦なのです。

この詩では、「蘆といふやつは/河をへめぐるヴガボンド」といっています。「蘆」は、川辺をうろつく放浪者だというわけです。「静かに簇生してゐるが/風が吹くと/閃めいて 鳴つて/響き渡」る。そして「僕の女を凌辱して気狂にして/又、つ、つ、つ、と生えてゐる」というのです。

『万葉集』に「海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ」という大伴家持の歌があります。「海原のゆたかな景色を見ながら、蘆の花が散る難波にこそ、年月をすごすべきたど思われる」という意です(2)

家持は、難波で防人の検校に関わり、防人たちとの出会いをしました。万葉の時代には、大阪湾が内陸までのびて湿地帯が広がり、葦が群落を作っていました。海原のゆたかな風景を見ながら、ああ、この地で何年も過ごしてしまいそうだ、過ごしたいものだ、というのです。

「葦」には、各地から集まってくる防人と重なるところもあったのかもしれません。しかし、小野のこの詩に登場するのは、詩人がその気持ちや感情を託したり、例えたりする「葦」ではありません。

安水稔和は「この作品においては蘆自体としてあらわれている。感覚・知覚を通してのものではなく、もの自体としてあらわれているもの。この困難な作業を、小野はこの作品で「僕の女を凌辱して気狂にして」という見事な一行で、やっとなしとげている。極言すれば「ぼくの女を」の「を」にかかっていたとさえいえよう」(3)と指摘していますが、この「もの自体としてあらわれているもの」としての葦が、やがて「乾いた抒情」を醸しだす小野の言語空間の主役として活躍していくことになるのです。


(1)小学館『日本大百科全書(電子版)』香川知晶担当「考える葦」の項
(2)中西進『万葉集 全訳注原文付(4)』(講談社、1983.10)p.304-305
(3)安水稔和『若い人のための現代詩 小野十三郎』(社会思想社、1972.1)p.22


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2020年10月15日

十三郎・乾いた抒情17 断崖

きょう取り上げるのは十三郎の「断崖」という作品です。

  断崖

断崖の無い風景ほど怠屈なものはない

僕は生活に断崖を要求する
僕の眼は樹木や丘や水には飽きつぽい
だが断崖には疲れない
断崖はあの 空 空からすべりおちたのだ

断崖!
かつて彼等はその風貌を見て昏倒した
僕は 今
断崖の無い風景に窒息する

断崖

「宅地造成等規制法施行令(昭和三十七年政令第十六号)」の第一条第二項よれば、「崖」とは〈地表面が水平面に対し三十度を超える角度をなす土地で硬岩盤(風化の著しいものを除く)以外のものをいい、「崖面」とはその地表面をいう〉とされます。(1)

しかし、ふつうは、垂直もしくは垂直に近い傾斜地形を崖で、特に切り立った規模の大きな崖を「断崖」と呼んでいます。

十三郎は「高い崖の上などに立つと、極度に用心しながらも、そのへりへ、一歩さらに一歩と歩みよって自分をためしてみようとするような心理はだれにもあるらしいが、わたしはいまでも、ビルの屋上に上るとそんなまねがしたくなる。……ひとり街をゆくとき、舗道に敷かれた石畳の数をかぞえながら歩く習慣にしてもそうだ。道がつきたとき、その石畳の数が偶数で終るか奇数で終るか、その結果いかんによって自分の運命が決定されるもののように、ことを重大に考えることだってできる」といいます。

が、その一方で、「わたしにとって、詩というものは、非日常的な不安定な危険な状態や恐怖感がそれなりに一つ秩序のごときものをかもしだすとき、そこに生れるある精神的緊張感、それと大へん近いようなものなのである」と述べています。(2)

詩人は、「樹木や丘や水には飽きつぽい」「僕の眼」にあっても「断崖には疲れない」といい、さらに、疲れないどころか「断崖の無い風景に窒息する」とまでいうのです。創作には、精神的緊張感を必要としたことが切実に、生々しく伝わってきます。

(1)  総務省行政管理局e-Gov法令検索「宅地造成等規制法施行令」
(2)小野『奇妙な本棚』p.45


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2020年10月14日

十三郎・乾いた抒情16 赤い楽隊

きのう最後に見た「野の楽隊」について、詳しく検討していきましょう。

ケームリモミヱズ…………クモモナク
太鼓ばかり嫌にひびかせて
四五人の赤い楽隊が街道をゆく
はしやいだ小供や犬なんかもゐく
街道に沿ふた細いあぜみちでは
カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人が
口笛で合奏しながら歩いてゐる
少し離れた丘の草路をふんでゐくのは
ぼくだ
くすくす笑つてゐるのはぼくだ
あの楽隊を聞いてゐると
なんだかなまあたゝかな情熱が
胸もとにぞくぞくはひあがつてきて
くすぐつたくなる
ぼくはいよいよ笑ひだした
ぼくは自分をどなりつけた
しかしぼくの歩調は
あの太鼓の歌にあつてゐる
いくら乱さうと乱さうとしても
いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる
ぼくはついにたまらくなつて兎のやうに
黄色い草むらにもぐりこんで
長い耳をたゝんだ
そしてまたこんどは
ゲラゲラと笑ひを吐きだした。(1)

太鼓

「ケームリモミヱズ・・・・・・クモモナク」と「太鼓ばかり嫌にひびかせて」楽隊が「街道をゆ」きます。

小野はこの詩の発想の素地にある幼児の大和での記憶をたどって、「『歓楽座』という畳じきの小さな劇場に、二ヶ月に一度活動写真が廻ってくると、こうして楽隊が、郡山の町だけでなく、近在の村から村までふれ歩くのである。いつも太鼓と小太鼓とクラリネットにチューバというぐらいの小編成だが、わたしはこの楽隊が好きでついて廻った。……ついて廻った郡山近在の村村の景色が、あの「ケームリモミヱズ、クモモナク」というメロディーとともに、いままだぼんやりとわたしの記憶の片隅に夢魔のように残っている。それはやはりわたしにとってはまた一つの異常な経験だったのだろう。このとき、わたしは、この楽隊の実際の行動半径よりももっともっと遠いところ、あるいはまったく次元のちがった世界をさまよい歩いていたのにちがいない」(2) と回想しています。

ただこの詩の印象からは、「街道に沿ふた細いあぜみちでは/カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人が/口笛で合奏しながら歩いてゐる」といったフレーズからしても、活動写真の楽隊というより、鼓笛隊、軍楽隊といったもっと軍事色が強いもののように感じられます。

塚原康子によると「鼓笛隊とは、戦陣での信号伝達と行進のための、太鼓と横笛からなる楽隊のことである。太鼓と笛からなる鼓笛隊は、現在のような軍楽隊が発達する以前からヨーロッパの戦陣で使われ、十六世紀には喇叭と釜型太鼓を騎兵部隊の楽器とするのにたいし、太鼓と笛を歩兵部隊の楽器として随行しさせる慣習が定着していた。鼓笛隊は、たとえば「起床」「集合」「帰営」などの命令を太鼓信号によって兵士に伝達したり、太鼓のリズム・パターンに笛の旋律を組み合わせた行進曲を演奏して戦意を鼓舞する役目を負っていた。十八世紀にトルコ軍楽が流行すると、この編成に大太鼓が加わり、鼓長(ドラム・メジャー)が指揮杖で指揮をとった。鼓笛隊は軍楽隊が普及する十九世紀以降もなお存続したが、銃砲を多用する近代戦では太鼓信号は聞きとりにくくなり、一八六〇年代には歩兵部隊でも喇叭信号に代替されていった」といいます 。(3)

「赤い楽隊」が奏でるのは他でもない、詩人・十三郎が毛嫌いした音楽そのものなのです。この詩について、安水稔和は「音楽をきいていて知らずしらず体で調子をとっているなど、日常よく経験することだが、この作品は「音楽」ないしは「歌」の発揮する気持の悪くなるほど圧倒的な力を見事に捕えている。いくらもがいても「ぼく」は「音楽」につりこまれてしまう。だから「ぼく」はゲラゲラと笑いを吐きだして対抗するしかない。この笑いは自嘲であろうか。自嘲でもあろうが、より、恐怖であり、憎悪であるだろう。この憎悪こそ後年の小野をして短歌的抒情の否定を叫ばしめた源である」と評釈しています。(4)

この作品には、音楽や歌を嫌い、離れようとするのに「いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる」詩人自身の悪戦苦闘ぶりも、見て取ることができそうです。

(1)『定本 小野十三郎全詩集』p.8
(2)小野『奇妙な本棚』p.19
(3) 塚原康子「軍楽隊と戦前の大衆音楽」(『ブラスバンドの社会史』青弓社、2001.12、p121)
(4)安水稔和『若い人のための現代詩 小野十三郎』(社会思想社、1972.1)p.16


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2020年10月13日

十三郎・乾いた抒情15 『半分開いた窓』

十三郎は、1926(大正15)年11月3日、第1詩集『半分開いた窓』を太平洋詩人協会から自費出版しています。非買。本文132頁、定価70銭。全体は2部に分かれていて、計64篇が収められています。装幀矢橋公麿。発行者兼印刷者に菊田一夫の名が見られます。

半分開いた窓

詩人としての出発点となる第1詩集の「序」で小野は、アンドレ・ソーボリの自伝にあるという「自分の全生涯を往来で過す癖に、犬のずぶ濡れになつてゐるやうな晩には他人の家の窓から何から何まで羨ましさうに眺める浮浪漢もある。が、一度だつて自分の部屋の片隅を棄てないで、自分の全生涯をぼんやりとして、小路はどんな風に走つてゐるか、それを何処から眺めやうかと、半分開いた窓際に立つて外界を眺めている浮浪漢もある」という一節を引用して、「わたしの過去はまさにこの半分開いた窓に立つて外界を眺めてゐる第二の浮浪漢に例へられるやうな気がする」としています。

この「半分開いた窓」が詩集のタイトルとなったわけです。それでは、この「半分開いた窓」からの眺めとはどのようなものだったのだろう。「序」は次のように続きます。

人生の平凡な並木路をそのまゝ瞳にうつして歩いてゐる人、街道に沿ふて歩いてゐく鏡その枕木の一本々々をたんねんに踏みかぞへて軌道をたどつてゆく憑かれた人、その人たちよりの絶対的隔離。あらゆる人間性の中庸に対する意識的反撥、幸福、あらゆるブルジョア的幸福感の顚覆。こゝにわたしの「あまりにも心理的なる」二十歳的情熱と理知が集中した。「あまりにも心理的なる」反逆の旗が翻った。……

「半分開いた」というようにこの詩集には、「歌とは逆に」をかかげ、いわゆる「乾いた抒情」を模索していった小野の創作の「原型」を読み取ることができます。そんな作品のいくつかを眺めてみることにします。

  野の楽隊

ケームリモミヱズ・・・・・・クモモナク
太鼓ばかり嫌にひびかせて
四五人の赤い楽隊が街道をゆく
はしやいだ小供や犬なんかもゐく
街道に沿ふた細いあぜみちでは
カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人が
口笛で合奏しながら歩いてゐる
少し離れた丘の草路をふんでゐくのは
ぼくだ
くすくす笑つてゐるのはぼくだ
あの楽隊を聞いてゐると
なんだかなまあたゝかな情熱が
胸もとにぞくぞくはひあがつてきて
くすぐつたくなる
ぼくはいよいよ笑ひだした
ぼくは自分をどなりつけた
しかしぼくの歩調は
あの太鼓の歌にあつてゐる
いくら乱さうと乱さうとしても
いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる
ぼくはついにたまらくなつて兎のやうに
黄色い草むらにもぐりこんで
長い耳をたゝんだ
そしてまたこんどは
ゲラゲラと笑ひを吐きだした。=『定本 小野十三郎全詩集』p.8


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2020年10月12日

十三郎・乾いた抒情14 ハックスリー

1926(大正15)年4月には、後に「葦の地方」の連作など小野ならではの詩風を確立するうえで大きな意味を持つことになるイギリスの作家オルダス・ハックスリー(1894-1963)=写真=が来日しています。

祖父や兄ら著名な科学者たちを輩出した家に生まれたハックスリーの小説や評論の特色について丸谷才一は、「彼は現代知識人の生活と意見を生き生きと描き出して、現代を批判するのである。その際、家系による自然科学の知識をはじめとする厖大な領域の博識が、大きな武器となって効果を発揮することはいうまでもない」(1) といいます。

ハックスリー

彼は旅行記もいくつか書いていますが、その一つが、神戸に上陸し、京都見物をして横浜からサンフランシスコへと向かう際の印象をつづった『Jesting Pilate(ピラトはふざけて)』(1926年10月)でした。寺島は「それを丸善あたりで買って邦訳の出版以前に読んだのであろう(邦訳は1938年林正義抄訳、1941年上田保完訳)」(2)とみています。この本との出会いについて小野は次のように記しています。

関東震災直後日本を訪れたことがある彼は、後日出版したその著「東方紀行」の中で、日本の第一印象をこういう風に述べた。「――われわれは汽車に乗り込んだ。そして二時間ばかりの間は、ぼんやり見える丘に囲まれ、工場の煙突の林立している灰色の田舎をひた走っていた。数哩ごとに、まばらな煙突の林はしだいに増して森となり、その脚下には、樹の根本の毒茸の群のように、木造の小屋の一塊を囲らした日本の町があった。これらの茸の群の最大なものが大阪なのだ」と。「みごとな新世界」という作品を読んで、H・G・ウエールスと共に、空想科学小説家としてその名を知っていたこのイギリスの作家が、日本の汽車の窓からはじめて見た工場の煙突の林立している灰色の田舎とは、そのころはまだ方々に茫々たる大葦原があった阪神工業地帯の遠景であったことが想像される。ハックスリーは、まだ日本のどの詩人もそれを見なかった以前に、日本に着くなり、それを見たのである。海の方に、煙突やガスタンクやクレーンが林立し、大葦原の上を高圧線が弧を描いてのびてゆくところ。彼はたぶん、世界の大工業地帯の風景が相互にあまりよく似ていること、その共通性に感なきを得なかったのだろう。神戸から大阪を通過するまでの間で、「日本の未来は、他のあらゆる国と同じく、その真ならざる姿にかかっている」という言葉を、その本の中に残した。彼の炯眼におくれること数年にして、わたしもある日、新阪堺の魚釣電車の窓から、そこにひらけるわが大阪の「葦の地方」を望見して、電撃のごとく、「日本の未来はその真ならざる姿にかかっている」というこの一外国作家の発見が意味することと同じ内容を持った感想が全身をつらぬくのをおぼえたのである 。(3)

ここに出てくる「東方紀行」というのは、『Jesting Pilate』のことです。後に十三郎は、大阪へ帰ってから「電撃のごと」き「葦原の発見」を体験することになるのですが、この当時、小野は、丸善通いを繰り返し、海外の書籍や雑誌にかなり興味を持っていたことが見て取れます。

この年の秋には草野心平を知り、初対面で、カール・サンドバーグの『シカゴ詩集』を借りている。「本郷の私の下宿で初対面したとき、彼は、こんな詩人、きみ知ってるかと云って、風呂敷から取り出して見せてくれた『シカゴ詩集』の表紙裏には、広東嶺南大学図書館印と朱肉の大きなハンコが押してあった。この大学にいた彼は、日本に帰るとき、返却するのを忘れたか、欲しかったのでそのまま失敬して持ち帰ったのだろうと思う。もし返していたら、『シカゴ詩集』との私の出会いは、そのときよりも大分おくれただろう・・・・・・」(4) 。これを機に、ジョルジュ・ソレルから抄訳した『暴力の倫理』や、萩原、草野と共訳した『アメリカプロレタリア詩集』が生まれることになります。

(1)『増補改訂 新潮世界文学辞典』(新潮社、1990.4)p.803、丸谷才一「ハックスリー」の項
(2)寺島『断崖のある風景』p.181
(3)小野『奇妙な本棚』p.101-102
(4)小野十三郎『日は過ぎ去らず――わが詩人たち』(編集工房ノア、1983.5)p.82-83


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2020年10月11日

十三郎・乾いた抒情13 クロポトキン

小野はアナーキズムに関する文学論のなかで、「人間の力を理解して、それを藝術作品に表現するには、諸君は、工場の中にあつて、創造的な労働の苦痛と愉快とを知り、溶鉱炉の燃え上る火焔で金属を鍛え、機械の生命を感じなくてはならぬ。民衆の感情を描写するには、諸君は事実民衆の感情そのものに滲透してゐなければならない」といったクロポトキン=写真=の言葉を引用し、「この言葉の内容が持つ深い意義は、強権主義の必要を擁護する唯物弁証法の方法によって構成された彼等の藝術論の外に、本来のまゝの変らざる豊富さと厳しさを擁して不滅の光芒を放つてゐる。我々は未だかつてこゝを離れたことはなく、又今後も決してこゝを離れることはないだろう。その鍵は赤く錆びついてゐるが、民衆解放の文化の扉を開き、新しい藝術の世界を我々の前に示す、それが唯一のなくてはならぬ鍵なのだ」と絶賛しています(1)

クロポトキン

いわゆる“疾風怒濤”の青春時代にあって、一世を風靡したアナーキズムの思想に染まっていたことは確かでしょう。しかし、小野は「わたしも当時、大杉栄の著書などを通じて、クロポトキンやバクーニンを知り、特に、マルクス、エンゲルスらと鋭く対立したバクーニンの思想と行動に牽かれるところが多かったが、壺井や岡本や萩原ほど、そのころのわたしはアナーキズムの精神を理解していたかどうかすこぶるあやしい」とふり返るし、「その頃の私の詩は、かれらの詩にくらべるとまことにおとなしいものであ」ったといいます。

むしろ「反抗や怒りが外に向うと同時に、内に向っても爆発しているのは、この時代の革命的な抒情に見る共通の特色でありますが、私の詩にもこの自虐的な要素が濃厚でした。私の場合は、それは内部の敵に向って戦いを挑むというよりも、むしろ当時生活的にも環境的にも比較的恵まれていた私の、詩人の良心に対する極めて感傷的なコンプレックスに原因していたようです」というのです。

十三郎は1925年10月31日に父藤七を失っています。しかし、父の死によって「かじれるスネ」を失ったわけではなく、依然として東京での小野の生活は大阪からの送金に支えられていました。

「いわゆる外腹の子を内へ入れたとき、当主つまり子にとっての実父の死後、義母との関係が悶着する例はよくあるが、小野にはその痕跡がない。義母ユウ、義母兄藤一郎がともにすぐれた人格であったことがよくわかる。手近に言えば父の死後、小野への送金が増額されたのもその一例だ。金額は明確でないが、小野の生活ぶりが送金増額を立証するのである」(2) ということです。

大正時代、社会に大きな影響を与えたアナーキズムは「関東大震災直後、大杉栄が虐殺されると、突然といってよい終焉を迎え」(3) 、若者たちの熱も急速に冷めていきます。

しかし小野にとって“アナーキズム体験”によって得られた政治や社会問題への関心、さらには科学的認識の方法への目覚めは、決して小さなものではなかったと思われます。一方で内面に「詩人の良心に対する極めて感傷的なコンプレックス」をかかえながら、「乾いた抒情」をもつ新たな言語時空を求めての長い試行錯誤を重ねていくことになるのです。

(1)  小野十三郎『アナーキズムと民衆の文学』(解放文化盟聯出版部、1933.6)p.7-9
(2)  寺島『断崖のある風景』p.174
(3)  浅羽通明『アナーキズム』p.34 


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2020年10月10日

十三郎・乾いた抒情12 南天堂

1924年11月には、同人誌『ダムダム』が創刊されています。この年6月で終刊となった『赤と黒』を継承拡大した雑誌で、創刊号は菊判128頁でした。

橋爪健、飯田徳太郎、神戸雄一、林政雄、溝口稠、中野秀人、野村吉哉、高橋新吉、萩原、岡本、壺井、十三郎が同人で、編集人は林、発行人は十三郎、発行所は初音館本館と働番地のダムダム会とされています。

小野はエッセー「ニヒリスト・ロープシン」と、詩「紙の心臓」「迂回する意識」「街上不平」「舗道」「賭」「無題二篇」を発表しています。しかし『ダムダム』は、林の発行費使い込みによって、第2号が出ることはありませんでした。

南天堂

当時、東大を中退してドイツに留学、帰国して「意識的構成主義」を唱えた村山知義を中心にした『MAVO』というグループがあった。

それに拠る村山をはじめ岡田竜夫、矢橋公麿など、さらに林芙美子、平林たい子、辻潤、宮島資夫などを加えた一団は、南天堂書店の二階のレストランを溜まり場にしていた。

これが、いわゆる“南天堂時代”である。小野は「辻潤や宮島資夫や岡本や、死んだ萩原はその常連であった。そこにゆけばとにかく酒は飲めるし、喧嘩も見られた。まったく毎晩のように乱闘があった。

たいてい岡本が立役者であったが、飄々乎とした辻潤が殺気だったのを見たこともあるし、私も屡々捲添えや飛沫を受け、医専の柔道の選手に投げられたりした……私は詩人としての自分の青年期を十分一つの時代に投げ与えることができなかったが、そこから私は様々のものを獲た。若し私に良いところがあるとするならば、それは皆この時代から獲たものばかりである。

寺島珠雄は、このように回想しています。(1)

ここに出てくる「南天堂」は、いまも東洋大学白山キャンパスに近い、東京都文京区本駒込(白山上)にある書店である。大正期、松岡虎王麿が創業し、当時は一階が書店、二階が喫茶店兼レストランとなっていた。

(1)寺島珠雄『小野十三郎年譜』「南天堂時代」p.730-731


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2020年10月09日

十三郎・乾いた抒情11 ニート生活

寺島珠雄によれば「小野には素地があった。中学生の頃、大杉栄の何かの本を買いたくて父にカネをせびり「このバカめ!」と言われたころである。資産家の父が謀反人大杉の本を読みたがる倅を叱責するのに不思議はない。だが青春前期の小野が世に逆らう大杉の名に惹かれるのも、出生事情は別問題に一つの自然であろう。そして大杉は、ニセ学生小野が大阪へ帰っている間に殺された」(1) のでした。

ちなみに十三郎が東洋大学に在学したのは8カ月だけ。関東大震災が起こった1923(大正12)年9月ごろには大阪に帰省していました。しかし中退したことを父に告げることはなく、月50円という当時としては破格の仕送りをその後も受け、金銭的には恵まれた、いまでいう“ニート生活”を送ることになります。

東洋

東洋大学=写真、1934年ころ=を中退した直後の1922(大正11)年2月には、『黒猫』という同人誌を出版しています。崎山猶逸、大滝尚太郎、田中建造と十三郎が同人でした。寺島珠雄によると、この段階ですでに、本名の「藤三郎」ではなく「十三郎」というペンネームを使っていたようです。「小野は、父藤七、姉藤子、異母兄藤一郎からつづく藤三郎の「藤」に閉口して同音に読める十三郎にしたとこれは直話で、田中建三の記録で『黒猫』ですでに十三郎だったことが知れる(夭逝した兄も藤次郎といった)」(2) というのが、その理由でした。

東京に出て来た青年が、詩人として旅立ちするうえで決定的な意味を持ったのが、「当時まだ20代であった萩原恭次郎、岡本潤、壺井繁治等、これらの思想的にはアナーキズムの立場に立つ若い尖鋭な詩人たちによって起され」(3)、小野が後に「その観念内容はともかく、大胆な形式の破壊者として、近代日本のプロレタリア詩や文学への路を、最初に切り拓いた革命的な文学運動であった」(4)と評価した『赤と黒』の運動でした。『赤と黒』という同人誌に出会ったころのようすを十三郎は次のように記しています。
「赤と黒」の創刊は、大正十二年(一九二三年)一月だから、わたしが二十歳に達したときである。その前の年に、大阪の中学を出て上京し、代々木の友人の下宿にしばらくいたが、東洋大学に入るようになって、本郷の下宿屋に移った。白山上の路地の奥にあった第二東洋館といううす汚ない下宿屋での前後五年の生活から、わたしの詩歴がはじまる。

「マニヤ」という個人雑誌や、生田春月の弟子で『薔薇篇』という詩集を出して、すでに新進詩人としてみとめられていた杉浦敏夫と二人で、「大象の哄笑」という妙な名前の同人雑誌をやったのはこの時代である。二人とも、そのころ村山知義らによって紹介されたドイツの反戦画家グロッスの漫画が好きで、彼が描いたミリタリズムの権化というべき醜怪な軍人の顔を拡大して凸版にし、表紙に使用して悦に入っていたものだ。

そんなある日、帝大正門前の郁文堂で、わたしは「赤と黒」の創刊号を見た。いろいろな文学雑誌がならべられてある店先の一番人目につきやすいところに、本屋さんの特別の好意によるものか、「赤と黒」の創刊号は十冊ばかり重ねて立てかけられてあった。はじめてそれを手にしたときの興奮を、つい昨日のことのようにはっきり想い出すことができる。

もっとも壺井繁治の名は、先に彼が出していた「出発」という個人誌などによって知っていたし、岡本潤とは東洋大学の同級だったから遠眼で顔は知っていた。ようやく詩らしいものを書きはじめたわたしには、当時すでに「新興文学」などに革命的な詩を発表していた岡本はなんだか近より難く思えた。わたしの最初の詩友で、やさしい抒情詩人の杉浦などにはない彼の眼光の鋭さがそう思わせたのかもしれない。

先だって「本の手帖」という雑誌で、壺井が述懐しているところに依ると、「赤と黒」の創刊は、彼と岡本とのめぐりあいがきっかけになったらしいが、そんな事情はともかくとして、「赤と黒」の創刊号で、壺井、岡本、そしてこれも「矩火」をはじめ、二三の詩誌にのった作品によって強烈な印象を刻みつけられた萩原恭次郎の名を見たとき、かれらがこうして一つの運動体に結集されたことが、極めて自然のなりゆきのように思えた。はじめの衝撃から我にかえると、こんどはかれらの仲が大へんねたましくなってきたことを覚えている。(5)
(1)寺島珠雄『南天堂』(皓星社、1999.9)p.165-166
(2)寺島珠雄『断崖のある風景』(プレイガイドジャーナル社、1980.10)p.115
(3)小野十三郎「激動から秩序へ」(『現代詩の実験』寶文館、1954.11、p.93)
(4)小野十三郎『アナーキズムと民衆の文学』(解放文化盟聯出版部、1933.6)p.20-21
(5)小野十三郎『日は過ぎ去らず――わが詩人たち』(編集工房ノア、1983.5)p.151-153


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2020年10月08日

十三郎・乾いた抒情10 アナーキズム

寺島の年譜によると、十三郎が入った東洋大学には、宵島俊吉の名ですでに新進詩人といわれていた勝承夫や岡村二一、野溝七生子、岡本潤らがいました。岡本とともに、出隆の「万物のはじまりは火である」というターレスの哲学の講義を聴いたこともあったそうです。

岡本は、同じクラスに、小柄で色の白い、無口で聡明な感じのする青年がいたが、在学中、おたがいに言葉を交わしたことはなく、それが小野十三郎だと知ったのは、とも東洋大学を中退して、2、3年後に、いっしょに文学運動をやるようになってからのことだったと回想しています。

また、この年にアルスから出版された、明治・大正期の代表的なアナーキストとして知られる大杉栄=写真=の論集『正義を求める心』を読んで、深い感銘を受けています。青年十三郎が興味を寄せたアナーキズム(無政府主義)とはどういうものなのでしょうか。

大杉栄

『哲学事典』によると、アナーキズムは、あらゆる形の権威や強制に反対し、このような強制や権威なしに、人間は社会生活を営むことができ、むしろこれらがなくなったほうが健康で文化的な生活を営みうると主張する。それを実際に実現しようとする流れの中でもっともポピュラーなのが「階級闘争を主軸として革命による変革を説くもの」で、バクーニン、クロポトキンらがその中心。両者には経済観の点で集産主義と共産主義のちがいがあるが、ともに革命の主体を労働者階級にもとめ、議会主義に反対し、民衆の自発的な高揚による社会革命をとなえた。日本に移植された無政府主義はほとんどクロポトキン系統に属し、幸徳秋水、大杉栄、石川三四郎らが知られている(1)、とされています。
 
田中浩によれば、日本においてアナーキズムが注目されるようになったのは明治末年から大正期にかけてのことだとか。このころ日本でもようやく労働運動や社会主義運動が高まり、社会民主党(1901年、即日禁止)や日本社会党(1906年)などの社会主義政党も結成されています。こうしたなかでアメリカにおいてアナーキズムの影響を受けて帰国した幸徳秋水と片山潜、田添鉄二、西川光二郎、堺利彦らとの間でマルクス主義とアナーキズムをめぐる論争がおこった。

幸徳は、合法主義的議会主義を通じて労働者階級や国民大衆に社会主義の影響力を及ぼしていこうとするマルクス主義的立場に反対し、ゼネラル・ストライキによる直接行動主義を主張したのである。この論争はいわゆる「アナ・ボル論争」として大逆事件で幸徳が刑死(1911年)したのちも大杉栄に引き継がれたが、関東大震災の真っただ中で大杉が虐殺(1923年)されて以後、アナーキズムは実際政治のうえでその影響力をほとんど失ってしまった。(2)

小野が大杉栄の論集を読んだのは、「アナ・ボル論争」が冷めやらぬ中、大杉が虐殺される直前だったということになります。

浅羽通明によれば、十三郎の傾倒した大杉は「『広辞苑』(第四版)が「無政府主義者。」と定義した、ただひとりの日本人だ」といわれます。外国語学校で「進化論と社会主義に触れ反逆魂をふるわされ」、暴動化した電車賃上げ反対集会に加わるなどして「革命家としての軌道」に入ります。

「明治末、輸入された幾多の西洋思想の一つだった社会主義は、多くの国民が貧困のなかにあった時代、革命による経済的平等、戦争の廃絶を説く新たな福音として、その歩みを始め」ていました。大杉は「その若き戦士」であるとともに、その議論は「科学的認識の方法にまで踏み込んで」いました。「実証的生物学者、丘浅次郎を誰よりも尊敬し、自らダーウィン『種の起原』を訳した」ことでも知られています。(3) 

(1)『哲学事典』(平凡社、一九九七年七月)一三七一~一三七二頁「無政府主義」の項
(2)『日本大百科全書(デジタル版)』田中浩担当「アナキズム」
(3)浅羽通明『アナーキズム』(筑摩書房、2004.5)p.34-47


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年10月07日

十三郎・乾いた抒情9 エロシェンコ

1921(大正10)年、小野は、京都の旧制三高(現在の京都大学)を受験しますが、失敗。3月に天王寺中学を卒業すると、上京し、以後「足かけ13年ばかり」の東京生活に入ります。

「日本の首都東京という街に対して、とくべつに、あとあとまで残るような印象はなにも持っていない」(1) と後に記しています。上京は、現在の早稲田大学へ入るのが目的だったようですが、試験日を間違えて日本女子大へ行ってしまい果たせず、東洋大学文化学科に入学することになったといわれています。

寺島珠雄によれば、最初に住んでいたのは代々木で、天王寺中学の同級生崎山正毅の兄崎山猶逸の下宿屋に小野も一室を借りたのだったが、ほどなく大学に近い本郷の下宿屋へ移ったようです。

東京へ来て間もない4月18日の夜、十三郎は、社会主義の先鋭な団体の一つだった「暁民会」の講演を聴きにキリスト教青年会舘へ行っています。講演者の中には、盲目のロシア人で、バラライカを奏で童話や詩を書くワシリイ・エロシェンコ=写真=が名を連ねていました。

Єрошенко

エロシェンコはそのころ30歳代の初め。ウクライナに生れて幼児期に失明。盲学校でエスペラント語を学び、19歳のときにはロンドン亡命中のアナキスト、クロポトキンを訪ねたこともありました。エロシェンコはこの講演会のあとの5月2日には、第2回メーデーに参加。

1週間後の9日におこなわれた社会主義同盟第2回大会で検束され、6月4日には敦賀発ウラジオストック行きの鳳山丸で強制送還されています。この講演の印象が強烈に残っていたらしく、小野は後に、エルシェンコに関する「ロシヤの詩人たち」という詩を書いています。(2) 

あいつは何処にゐるだろう ワシリイ・エロシェンコ
蔭ながらあいつのためには俺はほとうに幸福を祈ってゐるのだ
始めて東京に出てきた頃
俺は神田の青年会館であいつの演説を聞いたことがある
片手で点字をまさぐりながら おぼつかない日本語で だがあいつの声はよく透つたつけ
「禍の盃を底までのみほしませう」と叫んだつけ
俺は後の壁に凭れて聞いてゐたんだが
あいつの眼に涙が一ぱいたまつてゐるのが見えた
俺は今でもときどきあいつの演説の口調をまねて友だちを笑はせる あいつはどうなつたらう
喜んでくれ!
あいつは漸く帰国を許されて
モスクワで一緒になつた日本人和田軌一郎を路々可愛らしい喧嘩をしながら
ライ麦の畑が果しなくひろがつてゐる暖いウクライナのおつ母さんの家に帰つてゐつた

(1)小野『奇妙な本棚』69頁
(2)寺島珠雄『断崖のある風景』(プレイガイドジャーナル社、1980.10)p.71-72


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2020年10月06日

十三郎・乾いた抒情8 蒸気機関車

紡績工場やハレー彗星などに加えて、十三郎が子どものころから「格別に好き」だったものに蒸気機関車がありました。

その下にあるものの血を湧きたたせ
それにたち向うものの眼を射すくめる俺たちの仲間
機関車な休息のうちにあっていささかも緊張の度をゆるめず
夜ふけて炭水車に水を汲み入れ 石炭を搭載し
懐中電燈もて組織のすみずみを照明し
浮いたねじの頭をしめ喞子(ピストン)に油をそそぎ
つねに巨大なる八つの大動輪を鋼鉄の路において明日の用意を怠らず
前燈を消して
ひとり夜の中にある

機関車

小野は1979年に『蒸気機関車』というタイトルの詩集を出していますが、その冒頭に置かれた「機関車に」という詩です。

あれは、満州事変から日支事変へ、日本が突入したころだったと思う。私は、千葉の鉄道聯隊では、日本内地にはない広軌機関車の操作訓練をやっているということをきいて、妙に興奮したことをおぼえている。当時、中国の南口山道には、アメリカ大陸を横断するサウスパシフィックの巨大な機関車を連想させるようなダブルピストンの巨いやつがすでに動いていたのである。私は、その写真を見たのだ。(1)

こうして、生涯にわたる“SLマニア”は、誕生することになったわけです。

日本の近代化を告げる大きなインパクトをもたらす出来事として、幕末、1853(嘉永6)年の黒船来航があげられます。代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航したのです。黒船を動かしているのは、産業革命という言葉にいだく象徴的なイメージである蒸気機関なのでした。

日本人の多くは、蒸気機関車や蒸気船に産業発展のバイタリティーを感じて来た。産業革命というと「蒸気機関車の力強い驀進、煙突の立ちならぶ煉瓦造りの大きな工場や鉱山、空にはもくもくと立ちのぼる黒い煙、工場ではずらりと並んだ巨大な機械の間にまじって、油と汗にまみれて仕事に励む男女労働者、街路には山と積まれた荷車と群集のはげしい往来、町の一隅にあるうすぎたない労働者街」(2)といった情景を私たちはしばしば思い描きます。

小野にとっての「蒸気機関車」は、単なるSL趣味にとどまらず、日本の産業革命、科学技術を象徴する「物」としても大きな意味をもっていたとも考えられます。

ハレー彗星や蒸気機関車に心ときめかせる少年は、1916(大正5)年4月、大阪府立天王寺中学に入学しました。寺島の年譜によれば、同中学は当時、上本町8丁目にありましたが、そのすぐ東の私立上之宮中学校には私立上之宮中学があり、海軍兵学校の入試に落ちた壺井繁治が五年生で在学していた、とのことです。

小柄で童顔だったため、中学3年になっても小学5年生くらいにしか見られないことがあり、口惜しく思ったといいます。軍事訓練では普通の体格の同級生が持つ歩兵銃より短かい騎兵銃を持たされ、卒業まで変りませんでした。しかし、住吉大社までのマラソンでは常に上位に入り、水泳も一番達者な方だったとか。

学課では数学が特に苦手。作文も好きではなかったものの、4年生のころから詩の習作をしています。中学卒業の間際、千日前の友人宅の2階で文学好きの仲間で討論会のようなものをやり、十三郎は「死について」という題で弁じて司会にひやかされたといいます。

(1)小野十三郎『蒸気機関車』(創樹社、1979.1)p.107
(2)高橋正雄・今津健治『近代日本産業史』(講談社、1967.6)p.86


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2020年10月05日

十三郎・乾いた抒情7 ハレー彗星

十三郎7歳。紡績工場とともに十三郎少年の瞳に強く焼きついたこの光芒は、1910(明治43)年の時のハレー彗星=写真=との遭遇でした。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)の資料によれば、ハレー彗星は76年周期で太陽の周りを公転している彗星で、出現の記録は紀元前にまでさかのぼります。名前は、詳しく研究し軌道を計算したイギリスの天文学者エドモンド・ハレーにちなんでいるそうです。

ハレーは1682年に出現した彗星を観測し、1531年、1607年の出現記録を調べ、これらの彗星の軌道が似ていることからすべて同一の彗星であると考え、次は76年後に戻ってくる(回帰する)と予想しました。

予言どおり、1758年のクリスマスの夜に彗星が発見されました。ところで、もっとも近年の回帰は1986年のことです。地上からの観測条件はあまりよくなかったものの、多くの彗星探査機が打ち上げられてハレー彗星に接近し、観測が行なわれました(1)

ハレー彗星

その前の回帰の年、1910年当時はまだ、彗星はもちろん、科学の知識自体が、世間にはあまり浸透してはいませんでした。そんな折に、海外から地球にハレー彗星が接近するという情報が飛び込んできて、世界中でパニック状態になりました。

「数分間だけ地球上から空気がなくなる日がやってくる」といううわさが人々の間に広がり、貧乏人は息を詰める練習をしました。金持ちは空気をためるゴムチューブを買い込み、ゴムチューブを商うものは値を釣り上げられて大騒ぎになりました。また、「ハレー彗星の毒でみんな死んでしまう」とか「地球の空気が彗星の尾にはぎとられて、なくなってしまう」といった流言蜚語が飛び交い、人びとはそれに翻弄されました。

そんな中にあって、本業の時計屋のかたわら独学で天文学の勉強に励んでいた前原寅吉は、回帰が近づくと不安を抱いた近所の子供たちが店にやってくると「地球を含む空気のほうがハレーの毒よりうんと強い」と説いて安心させ、自宅の物干し台に設置した望遠鏡でハレー彗星の通貨を見事にその眼で捉えたといいます。(2)
 
経済史家によれば、日本における産業革命の軸心を綿糸紡績業に見出すのはほとんど自明のことと考えられるといいます。その本格的展開の起点は、1882(明治15)年の大阪紡績会社の設立(明治16年開業)に求められます。「ミュール紡績機一万五〇〇錘で出発した同社において輸入機械がはじめて発展的展望をもった企業の中に定着し、言葉をかえていえば発展的展望をもちうる形で機械は輸入され、以後それをモデルとして近代的紡績工場をもつ会社が続出して日本を大きく資本主義化の方向へ動かしていくことになったからである」(3)

日本の近代化を推し進めていく資本主義を象徴する赤煉瓦の紡績工場。そ「の鋸歯状屋根の/紺青の空に」は、神秘的でありまた怖ろしくもある「七十六年の周期をもつハレー彗星の渦が」「光つてゐた」のです。明珍昇は「彗星の渦がその尾をなびかせて飛ぶ宇宙の運行の神秘は、夢多い少年の心に空想の翼をはばたかせたことだろう」と推測しています。(4)

十三郎は、生涯にもう一度「ハレー彗星」を体験することになります。晩年の1988年7月に出版しされた詩集『カヌーの速度で』には、次にあげる「ハレーよ、おまえが去ったあとも」という作品が載っています。

七十六年ぶりに
現われて
地球に接近する
おまえ、ハレー彗星よ。
こんどはここからは見えないらしいが
こどものころ
藍色の夕空の低いところに
おれが肉眼でとらえたときと同じように
涼しく
またあの白い光の尾を引け。
いままで仕事もつづけている
いくたりかの友だちと共に
おれもどうやらそれまで
この宇宙のどこかに
存在していられそうだ。

も一度わたしを見たあとは
死んでもよいの?
いや、なかなか。

(1)宇宙航空研究開発機構宇宙情報センター「ハレー彗星」
(2)武智ゆり「ハレー彗星と前原寅吉」(総合電子ジャーナルプラットフォーム『近代日本の創造史』Vol.10(2010)) p.37
(3)長岡新吉『産業革命』(教育社、1979.4)p.16
(4)明珍昇『小野十三郎論』(土曜美術社出版販売、1996.5)p.45


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2020年10月04日

十三郎・乾いた抒情6 紡績工場

子どものときの、紡績工場に感じた興奮に関連して、十三郎は後にいくつかの詩を作っています。その一つに次の「紡績の菊」があります。

  紡績の菊 
  
子供のとき
大和桃源に十年ほどいた、
はじめのころはおぼえていない、
ただ俺が生まれるずつと前から
赤煉瓦の古い紡績工場があすこにあつた、
毎年いまごろになると
構内に豪華な花壇がくまれて
菊見でにぎわつた、
秋の陽の強烈なスポットを浴びる
たがをはめた
古塔のような一本の大煙突、
ぼうばくとした記憶の果に
何もない地上から
いまそのようなもののかたちが
そびえたつ、

紡績工場

さらにまた、詩集『大海辺』(1947年)に収められている次の「ぼうせきの煙突」という詩には、ハレー彗星が登場してきます。

たそがれの国原に
ただ一本の煙突がそびえてゐる。
大和郡山の紡績工場の煙突である。
ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが
私は忘れることが出来ない。
明治も終りの夏の夜である。
七十六年の周期をもつハレー彗星の渦が
涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の
紺青の空に光つてゐたのを

幼少の日常の中で、詩人の好奇心を充たすものとして鮮やかに印象されたのは、赤煉瓦の紡績工場の鋸歯状の屋根であり、空を圧してそびえ立つ煙突でした。そして、その上には、76年の周期をもつハレー彗星の渦が涼しく光っていたのです。

*詩は基本的に『定本 小野十三郎全詩集』(立風書房、1979.9)から


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2020年10月03日

十三郎・乾いた抒情5 万葉集

きのう見たように、子どものころの十三郎にとって「大和という土地」は、「退屈で退屈でしょうがな」いところでした。大和という土地は、『万葉集』に出てくる地名の中で最も多いところです。「所在のはっきりしないところもあるから正確な数は出せないが、題詞・歌・左註などすべてを延べて地名をかぞえれば大和だけで約900になる」といいます。(1)

後々、小野が嫌うことになる「湿った抒情」を象徴するのが『万葉集』でした。すでに子どものころから、万葉の風土を醸しだす「土地」との相性は良くはなかったようです。

万葉集

地理学者の鈴木秀夫は、人間の思考方法の相違の根源を、「森林型」と「砂漠型」という風土的条件下に大別した斬新な比較文化論を提示しました。鈴木は「世界にはじめと終りがあるか、それとも永遠に続くと考えるかという二つの世界観を成立させた場所が、それぞれ砂漠と森林である」と考えます。

また、砂漠的とは上からみる眼を持ち、見とおしがよく、移動的であることであるのに対して、森林的とは下からみる眼を持ち、見とおしが悪く、定着的であるといいます。「砂漠型」の天地創造の世界観にあっては、時間も空間も、神によって創られたものでした。したがって、被造物であるが故に、絶対であることはできません。

鈴木は「時間も空間も相対的なものとしてとらえる相対性原理はユダヤ教徒としてこういう世界に生まれたことによって、アインシュタインは、この理解に到達することができたのであろう」と推測しています。

また「日本人をみると、「諸行無常」「色即是空」というような言葉に、ずしりとした重みを感じるが、「天地創造」「終末」という砂漠起源の言葉はほとんど理解されていないし、すでに定着した「進歩」という言葉も、それほどの重さを感ずるものでないところに、日本での砂漠化の進行は表面的に著しいものとしても基本的には、森林的であり続けているのをみる」といいます。(2)

こうした見方からすれば、十三郎は子どものころから、日本人の基本型である「森林型」とは無縁で、根っからの「砂漠型」人間であったといえるのかもしれません。

そんな退屈な日々にあって十三郎は、小学3年くらいのとき、大和にあるものとはちがうぞと大へん興奮する経験をしました。「紡績にいくと真黒な菊が咲いている」という話をきいたときのことです。

「紡績というのは、現在も国鉄の大和郡山駅のすぐ近くにある大日本紡績の工場で、毎年秋になると、構内に豪華な花壇がくまれて、菊見でにぎわった。その日紡の工場が、石炭のように真黒い大輪の菊の珍種を栽培することに成功したというのだ。見てきた人から直接きいたのか、うわさ話だったのか忘れたし、紡績におもむいて、実際に自分の眼で、その黒い菊を見たという記憶もないのに、黒い菊の幻のような出現は、ある年のある一日、わたしの身辺の退屈な日常に一つの大きな異変を持ちこんだ。このときだけ、あの冨士の亡霊のような山もわたしの眼のとどくところから姿を消して、わたしは急に自由になり、解放的な気分になったことを、少年時の、ただ一つ、なんとなく楽しい想い出として持っている。その時間には異常に明るい光があたっているのである」。(3)

後に、このときの興奮に関連するとみられるいくつかの詩を作っている。

(1)犬養孝『万葉の旅(上)』(社会思想社、1993.5)p.11
(2)鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』(日本放送出版協会、1986.4)p.34、216
(3)小野十三郎『奇妙な本棚』p.11-12


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2020年10月02日

十三郎・乾いた抒情4 春日山

小野は1903(明治36)年7月27日、大阪難波新地で生れました(戸籍名は藤三郎)(1)。父の藤七は、南区田島町七十七番屋敷に邸宅を構え、巷間の大阪長者番付の前頭中位にあげられる程度の資産家でした。母ヒサは、難波新地の芸妓で藤七はその“旦那”でしたが、父の認知届により小野家に入籍しました。

十三郎は「わたしは別に芸者という商売を軽蔑する者でもないし、芸者の子、妾の子に生まれたことも恥とは思っていな」かったといいます(2)。1905年、10歳の姉藤子とともに実母のもとを離れ、大和郡山の義母の親戚に預けられました。十三郎が生れたのは、大阪、なかでも賑やかな難波新地のどまん中でしたが、赤ん坊のとき大和郡山の親戚の家にあずけられて、小学校5年までにそこでくらしました。

郡山で義母ユウに会った小野は「上品なひと」だと思ったといいます。「母はそれから三ヵ月に一度ぐらい私たちのもとを訪れ一泊して帰って行った。母はいつも駅から俥でやってくる。当時、田舎では人力車などでも利用するひとが少なく、それに俥の輪はまだ木枠だったから、母が来るときは俥の音でわかる。遠くからガラガラ俥の音がして、「あ、お母さんがきた」と思ったことがなんどもあった。土産にはいつも巴堂のもなかを持ってきてくれた。この巴堂のもなかの甘さを想い出すとなつかしい。それを近所へ配るのも私の役目であった」(「二人の母」)。

春日山

1910(明治43)年4月、十三郎は郡山尋常高等小学校へ入学。同10月、実母ヒサは石川県出身の松浦他吉との結婚を届け出ています。子どものころの彼にとって「大和という土地」は、「なんだか退屈で退屈でしょうがなかった」ようです。十三郎は後に次のように記しています。
まず毎日見ているぐるりの山山のたたずまいだ。東方にのぞむ春日=写真、高円、西方に見える生駒、信貴などそういう名だたる山に対しては云うまでもないが、わたしを、悩ましたのは、朝起きて、裏庭の井戸端で顔を洗うとき、いつもわたしの眼にうつった一つの山のかたちである。それは高円の尾根を右にたどってゆくと見える一峯で、郡山からのぞくと、頂がややコニーデ状をなしている富士山の亡霊みたいな山だ。

いつか郡山の友人に、その山の名をきいたことがあるが、「え? 富士山みたいな山? そんな山あるかな」とふしぎそうな顔をした。むろん名前は知らなかった。してみると、それは春日、高円の尾根のつづきの一ヵ所がそういうかたちになっていたばかりで、大和を郷里とする人たちには大して眼にもとまらない無名の山なのかもしれない。

家の庭先からも、教室の窓からも見えるこの山にはわたしはためいきが出るほど退屈したことをおぼえている。山だけではない。少年時の大方をそこですごしたという意味で、わたしにとっては生まれ故郷と云ってもよい大和の自然はすべて、そこから伝わってくるおそろしい倦怠感で、わたしの意気を沮喪させる以外のなにものでもなかった。

そのころまだ木も多かった郡山城址の夜桜のながめも、梅雨時に一日ふりしきる雨に煙っている金魚池の風景も、わたしにはなにかしら暗いやりきれない記憶としてしか残っていない。一体、なにがわたしをそんな無感動な子どもにしたのであろうか。これは五十年後に、往時をかえりみての感想ではなく、大和でくらした幼年時のわたしの嘘もかくしもない気持であった。
(1)  小野の履歴は基本的に寺島珠雄編「小野十三郎年譜」(『定本 小野十三郎全詩集』立風書房、1979.9、p.725-795)に基づく
(2)  小野十三郎『奇妙な本棚』(立風書房、1974.4)p.26


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2020年10月01日

十三郎・乾いた抒情3 構造力学

『悪の華』や『パリの憂鬱』で近代フランス近代詩を切り開いたボードレールの著作を読んでいると、古くからヨーロッパで用いられてきたあらゆる修辞、韻律、詩形を試みていることに驚かされます。日本の近代文学に目を移しても、萩原朔太郎をはじめ歴史に名を連ねた多くの詩人たちが、その揺籃期に、日本の伝統的な詩歌である短歌の創作経験を持っています。(1)

ところが、小野は彼らとはまったく異なります。44歳のときに出版された『詩論』では「短歌というものはまだ一度も書いた記憶がない。私は昔からふしぎに短歌が嫌いで、それにも増して歌人という人間の型が嫌いであった」(詩論3)といいます。

続く詩論4では「今日の歌人たちの新しい言葉(詩語)に対する直感」を信用できないとして、「リズムというものは「音楽」である前に批評だから」とその理由を記しています。さらに、「私の愛する詩人は短歌から最も遠く離れ得た詩人である」(詩論5)としたうえで、続く詩論6では「科学精神と詩精神の交渉に関する問題」に言及し、「真実の意味に於ける科学の発達は決して人間の空想力や構想力を滅殺するものではなく、却って益々それらの人間の諸機能を豊富にする」ことを強調します。

Einstein

そして詩論7では、アインシュタインの空間についての仮説を具体例として詳細に説明したうえで「宇宙が有限であり曲っていると言う、こういう仮説は今日たしかに天国や地獄の存在を考えるよりも魅力があり、私たちの空想力を刺戟することが大きい」として、「科学精神が詩精神に最も近接するのはこういう素朴な原初的段階でである」と指摘します。こうして「科学精神が詩精神に」近接したとき、「抒情の科学」とも、「言葉の構造力学」とも、そして「乾いた抒情」ともいわれる小野の詩は分娩されることになるのです。

詩人・十三郎が生涯にわたって時空の「次元」を意識していたことは、詩からも見て取れます。『垂直旅行』(1970年)の詩「消えた村」には、

科学者のどんな仮説もとどかぬ異次元の空間に
つかのま姿を見せて消えた村
大脳のひだの間に咲いている菫のようなもの
意識下の深海にひろがっている青い湖
子どものときおれが見たハレー彗星の
あの淡い光の渦のようなもの

とあります。また『環濠城塞歌』(1986年)の「このサイプラスにかこまれた一劃の土地」には、

帰るってどういうことかわからないが
どうしてもここから早く出て行きたいのだ。
たとえ、峠をこすや
時間がそこで大きく屈折して
異次元の世界となり
見るも無残な老人におれがなっていても。
すきを見て
この白いガウンの人たちの
そぞろ歩きの輪からはなれて
山の向うに帰りたいのだ。

とあります。また、小野の代表的な詩の一つ「葦の地方」に、「大葦原」とともに登場するのは、「高圧線」であり「重油タンク」であり、「硫安」や「曹達(ソーダ)」、さらには「電気」「鋼鉄」そして「絶滅」です。明治以降になって使われるようになった、さまざまな近代の言葉が11行の短い詩の中に凝縮して使われていわけです。特に工業技術や自然科学の用語が目を引きます。

(1)市川毅「萩原朔太郎論の前提 : 初期詩歌の問題点」(慶應義塾大学藝文学会『藝文研究』第42号、1981.12、50頁 


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