2020年09月

2020年09月30日

十三郎・乾いた抒情2 光力説

詩論に対して小野の詩については、大岡信は「ぼくの見なれていた――ということは、ぼく自身が属していると無条件に承認していた、という意味だが——抒情とはまたく異質の抒情がそこにあるという驚きの形で受け取られたのだ」と、少なからぬ評価をしています。

例えば大岡は、詩集『大海辺』(1947年)に収められている、次の「放棄の歌」という詩を取り上げます。
 
イソシギの渡りも絶え
アジサシの群もいない。
ただ見る釉面のひびきわれのような土地のひろがり。
食物移動や
光力説よりも純粋に
天の小禽は知っているのだ。
煙は雲に這い
また地上にかえっている。

光

大岡は「小野氏は風景を歌に服従させるのではなく、逆に歌を風景の中へ放してやるように歌うのだ。だから小野氏の歌は、詩の行間の空白のうちに隠れている。一行一行の詩句が描いているのは、空間に切りとったように鮮明に存在する風景であり、歌はそれらの風景の間にひそかに放たれているのだ。従って風景は乾燥している。詩人自身の生理によって色づけられ、条件づけられていない」としたうえで、この詩について「ここにはかつて日本の詩が見いださなかった新しい空間が見いだされて」いると主張します。

さらに、「煙は雲に這い/また地上にかえっている」という2行について、「持続する時間がみごとに捉えられている」と絶賛しています。表現をかえれば、小野はこの詩によって、「イソシギの渡り」「アジサシの群」「釉面のひびきわれのような土地」「食物移動」「光力説」「天の小禽」というような表現によって「乾燥し」た言語空間を構築し、また同時に「雲に這い/また地上にかえっている」煙の運動によって、連続的に推移していく「時間」を見出したということになるのでしょう。

そして大岡は、こうした新たな空間や時間を見いだしえたのは、「小野氏がすでに歌、すなわちある創造衝動を心に持っていたからであり、そしてまたこうした空間や時間を詩に定着したとき、小野氏の歌も歌われていた」からだと見ています。「歌の中に風景を閉じこめるのではない。風景の中に歌を離してやる」。そんな新しい歌の発見だったというのです。(1)

ちなみに、この詩にある「光力説」とは、現在の科学用語としてはあまり聞かれない言葉ですが、「光力」とは通常、光の強さ、明るさ、光度などのことを指す。この詩が作られた20世紀前半は、「粒子なのか、それとも波なのか」といった、光の正体をめぐってさまざまな「説」が科学者の間で論じられていました。

例えば、この問題を解明するうえで極めて重要な論文を、アルベルト・アインシュタインが1905五年に発表しています。この年は彼が革命的な論文を1年間に5本も発表した「奇跡の年」として知られているが、5本のうちの1本の論文が、光は“量子的な”粒子であるとする、いわゆる光量子仮説でした。(2)

「光力説」とは、こうした時代を反映して生まれた言葉であると推測してもおかしくはないでしょう。「奇跡の年」にアインシュタインは、有名な「特殊相対性理論」の論文も発表しています。それまで時間と空間は別々の独立なものと考えられていたのが、特殊相対性理論によって、時間と空間が互いに関連し合って一つの四次元時空間を形成していることが示されました。

こうしたアインシュタイン的視点に立てば、大岡が「新たな空間や時間」と言っているものは「時空」と一言で言い換えてもいいでしょう。すなわち、ある「創造衝動」を心に持って、それにふさわしい「乾燥し」た「時空」を言語によって構築し得たときに小野の「歌も歌われる」のです。

(1)大岡『現代詩人論』114-115頁
(2)アインシュタイン、アルベルト著・青木薫訳『アインシュタイン論文選』(筑摩書房、2011.9)11、305頁


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年09月29日

十三郎・乾いた抒情1 歌と逆に

きょうから当分のあいだ、昭和期に活躍した詩人で「歌とは逆に歌に」に象徴される詩論でも知られる小野十三郎(1903-1996)について考えていきたいと思います。

「近代詩」のテキストでは、十三郎について、例えば次のように紹介されています。

昭和一四年『大阪』(赤塚書房)一八年『風景詩抄』(弘文社)二二年『抒情詩集』二二年『大海辺』を出して、いわゆる「かわいた抒情」の境地を確立する。『大阪』以降の詩集は、二八年に再録されて創元社より同名の詩集となって出ている。その後『小野十三郎詩集』(昭和二七年三一書房)『重油冨士』(三一年創元社)を出してますますその世界をたしかなものにしている。彼の詩人としての業績は、これら詩集の出版よりも、浪花節的ないわゆる濡れた短歌的抒情を排し、かわいた硬質の抒情文体の確立を説いた『詩論』(昭和二二年真善美社)以下の評論活動にある。また大阪文学学校の校長をして、労働者の文学教育につくした実践活動も忘れがたい。(1)

小野の業績は、生涯にわたって書き続けた「詩」よりもむしろ、『詩論』にあるというのです。確かに『詩論』の中で主張した「短歌的抒情の否定」が「日本の伝統的抒情に対する強烈な批判として、戦後の詩壇・歌壇に大きな反響を呼んだ」(2)といったあたりが小野の存在感を示す一般的な評価なのでしょう。

本「詩論」

一方、詩のほうはというと、没後20年以上過ぎたいまも、多くの詩人に影響を与え、広く読みつがれているとはどうも言い難いようです。ならば、小野は『詩論』の詩人に過ぎなかったのでしょうか。日本の近代詩のなかで、十三郎が長い人生のあいだ書き続けた詩は、もはや見るべきものを持たないのでしょうか。

大岡信は、小野が「リズムというものは『音楽』である前に批評なのだから」(詩論4) としている(3)ように、『詩論』で最初から述べられている「リズムは批評である」という主張について、「誤っているとしか思えない」としたうえで「この理論がまったく非生産的である点」について激しく批判しています。

さらには「歌と逆に。歌に」(詩論98)の主張についても、「小野氏は詩の中に音楽の害しか見いだせなくなっている」「小野氏は最近になっても詩を語るのに「歌と逆に行って歌に」という風な、まったく曖昧な言葉しか使えないでいる」などと手厳しい 指摘をしています。(4)

『詩論』については、私も大岡と同様な見方をしています。そもそも、この作品を「詩論」と言っていいのでしょうか。小野が「奴隷の韻律」とまで言って嫌悪した「短歌的抒情」がいかなるものを指しているのか、明確な説明が記されていません。一概に「歌」といっても、『万葉集』と『新古今和歌集』とでは、その抒情の在り方に雲泥の差があるのではないでしょうか。

「詩論」というには、あまりにも曖昧さや飛躍が多く、論理的な整合性にも欠けています。むしろ山田兼士が「「詩論」こそ小野の詩精神の凝縮体であり究極の思想詩ではなかったのか。小野十三郎が遺した唯一無二の散文詩こそ「詩論」にほかならなかった」(5) といっているように、「詩論」を一種の詩、あるいは詩について書かれたエッセーとして見たほうがいいように私には思えてきます。

(1) 𠮷田弥寿夫・萬田務『展望近代詩 その歴史と作品』(双文社出版、2014.3)130-131頁
(2) 『現代詩大事典』(三省堂、2008.2)130頁(山田兼士担当「小野十三郎」)
(3) 本論文の「詩論」の引用は、小野十三郎『詩論+続詩論+想像力』(思潮社、2008.10)による
(4) 大岡信『現代詩人論』(角川書店、1969.2)125-127頁
(5) 山田兼士『小野十三郎論』(砂小屋書房、2004.6)71頁


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2020年09月28日

明治期の漢詩⑧

「盗侠行」は、一生涯にわたる鷗外の詩作において、さらには彼の文学全体を考えるうえでも、大きなカギをにぎりそうな大作ですが、私はいまだこの作品を読み始めたばかりで、現段階ではレポートできる何ものをも持ち合わせてはいません。そこで、ここでは第一段にあたる32行について、書下し文の試みを示したうえで、今後の勉強の方向性を示すにとどめたいと思います。

なお、次にあげる「盗侠行」第1段の32行は、偶数行ごとに押韻し、韻字は「紙」で仄韻です。
 
平砂接天日如燬  平砂天に接して日燬(や)くが如し
馬蹄躞蹀塵烟起  馬蹄躞蹀(しょうちょう)として塵烟起こる
極目濛々不見人  極目濛々として人を見ず
唯有鈴聲遥入耳  唯だ鈴声あり 遥かに耳に入る
颷風一陣拂地吹  颷風(ひょうふう)一陣 地を払いて吹けば 
刀槍瑩煌拭目視  刀槍瑩煌たり 目を拭うて視る
駱駝背是隊商舟  駱駝の背は是れ隊商の舟
渉砂匹似渉海水  砂を渉るは匹似たり 海水を渉るに
忽見一騎邇旅群  忽ち見る 一騎の旅群に近づくを
鳳眼龍髯跨騄駬  鳳眼竜髯(りょうぜん)騄駬(りょくじ)に跨がる
軀幹魁梧姿絶倫  軀幹魁梧(くかんかいご)姿(すがた)絶倫
威風知是雄偉士  威風 知る是れ雄偉(ゆうい)の士たるを
守兵膽落心惶々  守兵胆(きも)落ち心(こころ)惶々
欲戰亦唯衆是恃  戦わんと欲するも亦唯だ衆を是れ恃(たの)む
騎士笑道勿驚疑  騎士笑って道(い)う 驚き疑うこと勿(なか)れ
單身劫群非可企  単身群を劫(おびや)かすは企つべきに非ず
請問商旅主為誰  請問す 商旅の主は誰と為すか  
一謁欲敢告終始  一謁して敢えて終始を告げんと欲すと 
頃刻太陽在中天  頃刻(けいこく)太陽中天に在り
一簇張幕張緑綺  一族の張幕 緑綺(りょっき)を張る
守兵導客入帳帷  守兵 客を導きて帳帷(ちょうい)に入るに
大賈瑣翁服飾美  大賈(たいこ)の瑣翁(さおう)服飾美なり
斯人丁年失左臂  斯の人丁年(ていねん)にして左臂(さひ)を失い
顔容憔悴似抱悝  顔容憔悴して悝(うれい)を抱くに似たり
客也一揖語來由  客や一揖(ゆう)して来由を語る
吾亦砂漠行旅子  吾も亦砂漠の行旅子(こうりょし)なり
曾爲巨盗所生擒  曾て巨盗の為に生け擒(ど)られ
今日脱圍免萬死  今日囲みを脱して万死を免(まぬが)る  
請君編我商旅中  請う 君 我を商旅の中に編め
恩蔭世々無窮已  恩蔭世々(よよ)窮まり已むこと無からんと
瑣翁欣然諾同行  瑣翁(さおう)欣然として同行を諾(だく)し
連鑣多日主客喜  連鑣(れんしょう)多日(たじつ)主客喜ぶ

これをざっくりと要約すると——

果てしなく続く砂原を横切ろうとする隊商の一群のところに、駿馬にまたがった一人の堂々とした風貌の騎士が現われる。隊商の警護のために雇われた守兵たちは警戒するが、危害を加えるつもりはなく隊商の主人に会いたいだけだという。守兵に導かれて、主人の絹張りのテントへ入ると、そこにいたのは美しい服を身につけながらも憂いがちな、左腕を失った人物(瑣翁)であった。騎士は、捕えられた盗賊から逃れてきたことを告げ、一行に加えてもらうことを告げて瑣翁の承諾を得る。

といったところでしょうか。私は、物語の原典をまだ見ていませんが、その冒頭のあらすじは「砂漠をよこぎる隊商の一群に、一人の堂々たる風采の騎士が近づき、一行の主人に面会を求める。昼休みをする場所で、その客は五人の商人のところへ通される。ゼリム・バルフと名乗る客は、旅の途中に捉えられた盗賊のもとから脱出して来たと語り、一行に加えて欲しいと頼み、承諾される。客は旅の退屈凌ぎに休息地ごとに一人ずつ自ら体験した奇譚を話すことを提案する」(1)と、「盗侠行」と似たところもありそうです。

隊商

「盗侠行」を読み始めてみて、これは、ひょっとすると「大鉄雄伝」の影響もあるのかもしれない、と感じています。

鷗外の自身をも投影していると考えられる小説「雁」(1913年)の主人公である岡田は、医科大学の学生で「虞初新志」を愛読する文学青年です。そんな「岡田は虞初新誌が好きで、中にも大鉄椎伝は全文を暗誦することが出来る程であった。それで余程前から武芸がして見たいと云う願望を持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった」(2)といいます。

「大鉄雄伝」というのは、「虞初新志巻一」の最初にある4ページ余りの短い小説。中国・清代の文人魏禧の作とされています。物語は宋将軍の食客である陳子燦の体験談という形を取っています。林淑丹氏は、「大鉄雄伝」のあらましを次のように説明しています。

宋将軍は武術が高く、当時の多くの豪傑たちがその名を慕って彼の食客になった。大鉄椎もその中の一人だが、どこの人か分からず出身と名前を聞いても答えない。言葉少なでいつも右の脇に四、五十キロの大鉄椎を抱えているので大鉄椎と呼ばれる。そこで語られるのは、将軍が思うほどの才能がないことを知ってから、ある日一人で大勢の盗賊と勇ましく戦って直ちにこれを殺し、驚く将軍を尻目に立ち去ってしまうという英雄の事績である。編者張山来(張潮)曰く、全文の一番優れた所は大鉄椎が三回も言った「吾去矣」(われ去らん)の一句である。きっぱりしていてまるで名画家が描いた竜の鱗と爪のようにはっきり見えるほどの素晴らしさだという。確かに「大鉄椎伝」はただの武勇伝ではなく、全文の言葉が大変簡潔で力強く、ストーリーの展開も速く、名文だと言える。(3)

前述したように鷗外の子どものころの中国小説趣味は、雅文小説に傾いていたことがうかがわれます。芳野悦子氏は「この鷗外の中国文学趣味にある大衆性は、何を意味するのだろうか。それは文学者を志すでもない、医学者として、又森家の長男として、確実な将来を保証された青年の一種の遊びとして、読書に求めた「美しい夢」の世界であったと言えよう」(4)としています。

まだ「盗侠行」の冒頭を目にしただけなので、この詩が「大鉄雄伝」など中国の通俗小説とどのようなつながりがあるかは何ともいえません。雅文小説といえば、『舞姫』や『即興詩人』がすぐに頭に浮かびますが、鷗外の漢詩のほうにも、子どものころ「全文を暗誦することが出来る程であった」という「大鉄雄伝」をはじめとする中国の大衆小説の影響がどこかにあると考えたほうがむしろ自然といえるでしょう。

それはまた、幼少期から漢詩を通じて中国文学の世界に足を踏み入れた子規や漱石と異なる鷗外文学の特徴を示しているようにも思われます。

(1)慶応義塾大学国文学研究会編『森鷗外・於母影研究』(桜楓社、1985.2)251頁
(2)森鷗外『雁』(新潮社、2019.7)14頁。
(3)林淑丹「森鷗外『雁』と『虞初新志』の「大鉄椎伝」」(東京大学比較文学・文化研究会『比較文学・文化論集』)17、2000.1)94頁
(4)濱田朝子「鷗外と中国文学―「雁」を中心として―」(『熊本女子大学国文研究』第22号、1976.9)20頁


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2020年09月27日

明治期の漢詩⑦

「一笑名優質却孱」で始まる森鷗外=写真=の「航西日記」の七言律詩が、師・佐藤応渠の宿題を果たし、鷗外が漢詩人としての独り立ちを宣言した作品とすれば、ドイツ留学からの帰国直後に発表した『於母影』に収録した漢詩群は、鷗外の近代詩としての漢詩への模索の出発点だったといってもいいのではないだろうか。いわば、鷗外ならではの“応用篇”としての詩作のはじまりだったわけです。

『於母影』は、いまから130年前の明治22(1889)年8月に発行された雑誌『国民之友』の夏期付録「藻塩草」欄に載った訳詩集です。このとき、鷗外27歳、留学から帰国した翌年のことです。

『於母影』には、ゲーテ「ミニヨンの歌」やシェイクスピア「オフエリアの歌」をはじめ、ハイネ、バイロンなどの作品17篇が取り上げられているが、後に鷗外の創作・翻訳作品集である『美奈和集』(1892年)に収録された際に2篇が追加されて、『於母影』は最終的に全19篇構成となっています。

前にも触れたように19篇のうち、漢詩体の作品が「月光」「思郷土」「鬼界島」「戯曲『曼弗列度』一節」「別離」「盗侠行」の6篇あります。

これらは「洋詩を漢語もて訳するときは、西語の抑揚長短の音を漢語の平仄の音となすことを得べし。(後に於母影にて試みたる如し)されど訳するに国語を以てするときは、われ未だ平仄を出すべき途を知らず。古本山人これ能くすといはゞ、われ願はくは先づこれを聴かむ」(1)と鷗外が言うように、西洋詩の韻律を漢詩の平仄に正確に対応させて訳すなど、随所に意欲的な試みがなされました。

鷗外

そんな中にあって、訳詩というよりも「むしろ自由な創作詩。詩体は純然たる七言古詩で、まともな漢詩」といわれるのが、『於母影』の最後に収められている「盗侠行」です。「盗侠行」は、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ハウフ(1802-1827)の童話「隊商」(Die Karawane)、すなわち、砂漠を旅する隊商たちがつれづれに、ひとりずつ一席の奇話を聞かせる“千一夜物語”的な童話集から、全体の枠に当る部分と、中の一篇「切り落とされた手の話」(Die Geschichte von der abgehauenen Hand)を拾い上げて作られた作品です。(2)

初出は「東洋学芸雑誌」第40号(明治18年1月)で、鷗外が留学中に発表されています。鷗外は「盗侠行」の詩稿を留学するドイツへと携えていきました。旅の船中で、同じくドイツへ赴く東大法学部助教授の宮崎道三郎に見せました。宮崎は津城と号して漢詩をよくした日本法制史研究の草分け的な学者です。 

宮崎は、これに感心し、留学先であるハイデルベルクで、先に留学中の井上哲次郎に示し、井上が、東大法理文三学部関係者の発行していた東洋学芸雑誌に掲載するように取り計らい、世に出ることになったと見られています。(3)

この「盗侠行」は、全体で5段からなる換韻格の七言古詩で、174句からなる長大な1篇です。神田孝夫氏はこの詩について「若き鷗外が詩技をふるって制作した、文字通りの力作であり、大作である。自分でもなかなか得意の作であった」(4)としたうえで、次のよう指摘しています。

その題からも知られるように、絶句や律詩などのような短小な漢詩ではない。長さにおいては、ひとのよく知る白楽天の「琵琶行」や「長恨歌」よりなお立ち優って長大な、五段から成る換韻の七言古詩なのである。およそ一百七十四句、一千二百十八言とは、まことに驚くに足る長大な雄篇である。これほどに長い漢詩は、漢土においてもそうざらにあるものではない。ハウフの原詩が一七四行あるがために、必然的にそのようになったのだろうなどと、勝手な推測をしてはならぬ。ハウフの原作は、実は詩ではなく、散文の物語なのだ。それを鷗外がこの長大な七言古詩に仕立てたのである。詩は必ずしも長きを以て貴しとせず、詩の上下なり巧拙なりは長さとは別のことだが、それにしても、これほどに長い漢詩は、平生よほど漢詩文に深くしたしみ、よほど才藻が豊かでなければ、到底出来るものではない。鷗外と同年代の人々には、漢詩を作る風潮がまだまだ存していたものだが、しかしこれほどの大作を成し得る人はそうめったにない。たしかにそれは青年鷗外の詩才、詩藻の豊かさを充分証示する力作である。かれがこの詩の空しく「東洋学芸雑誌」の古ナムバーの中に埋もれ、むざむざ反古にされてしまって煙滅することを惜しんで、この詩を敢えて定本『於母影』の中に収め、これを永く伝えようと試みたのも、また尤もなことであったといわねばなるまい。(5)

(1)森鷗外「平仄に就きて」(『鷗外全集 第22巻』(岩波書店、1973年8月、4頁)
(2)『日本近代文学大系 第52巻 明治大正訳詩集』(角川書店、1971年8月)158頁頭注
(3)同430頁補注
(4)神田『比較文学論攷―鷗外・漢詩・西洋化―』82頁
(5)同93-84頁


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)漢詩 

2020年09月26日

明治期の漢詩⑥

鷗外の漢詩修行の旅の記録でもある「北游日乗」には、2句だけで成る、詩というよりも対句といったほうがいい作品も載っています。

覊官吾飲寒山馬  覊官(きかん)の吾は寒山の馬に飲(みずか)い
得意人攀絶海船  得意(とくい)の人は絶海の船に攀(よ)ず (1)

明治15(1882)年2月23日の作。日記には「安中の駅なる山田屋といふ家に宿りぬいと物淋きところなるに冴え渡れる月破窓を洩りていも寐られず洋行せし友の事などおもひ出でゝ覊官吾飲寒山馬得意人攀絶海船などうち吟ずるほどに暁近うなりぬ」とあります。(2)

作品をみると、「覊官吾」―「得意人」、「飲」―「攀」、「寒山」―「絶海」、「馬」―「船」というように、教科書通りきちんと対を成していることがわかります。

唐の羅隠の詩に「如今(じょこん)嬴(か)ち得たり衰老を将(も)って、閑(のどか)に看る人間(じんかん)得意に人」とあります。中国語の「得意」は、意を得たりの意。得意満面の得意、思いどおりになることをいいます。反対語は「失意」です。(3)

つまり「覊官吾」と対になっている2句目の「得意人」は、成功者を意味します。ここでは、鷗外の東大医学部時代のクラスメートであった三浦守治(1857-1916)=写真=とみられています。

三浦

三浦守治は、明治期の病理学者、歌人、東京帝大名誉教授。三春藩士の二男に生まれ、のち三浦義純の養子となる。明治元年三春学校に入り、5年に上京し6年大学東校(東大医学部)に入学。15年ドイツに留学、ライプティヒ大学で学び、翌年ベルリン大学に転じ、ウイルヒョウ教授に師事。20年に帰国し、帝大医科大学教授に就任。病理学、病理解剖学を担当し、我が国の病理学の基礎を築きました。

38年陸軍省御用掛を兼ね、日露戦争では戦地に赴き脚気の調査に従事。39年帝国学士院会員、大正4年東京帝大名誉教授となります。また、脚気病調査委員、中央衛生会委員などを務め、医事衛生に大きく貢献しました。著書に「剖検法」など。一方、歌人としては佐々木信綱に師事、「心の華」に拠り、大正四年歌集「移岳集」を刊行しています。(4)

三浦は、明治14(1881)年に東大医学部を、同期15人中首席で卒業。すぐに文部省国費留学生に選ばれ、ドイツに留学し、明治20(1887)年に帰国して帝国大学医科大学の病理解剖学教室の初代教授に就任しました。鷗外も官費留学の夢を抱いていたものの、席次が8番だったためすぐには留学できませんでした。この対の句は「得意人」の三浦に対して、「失意人」=「覊官吾」(旅にある官吏である自分)と見ることができるでしょう。

官吏として出張し、寒々とした山里で駅馬に水をやっている自分と、はるばる海を渡ってゆく得意満面の友。対句による鮮やかなコントラストによって、負けず嫌いの鷗外のくやしさがよく表現されています。しかし、このくやしさは「得意人」に対するというより自分自身に向けられているようにも思われます。

一笑名優質却孱  一笑す 名優 質却(かえ)って孱(よわ)きことを
依然古態聳吟肩  依然たる古態もて 吟肩を聳(そび)やかす
觀花僅覺眞歡事  花を観ては 僅かに覚ゆ真の歓事(かんじ)
題塔誰誇最少年  塔に題すも 誰か誇る最年少
唯識蘇生愧牛後  唯(ただ)識る蘇生が牛後を愧(は)じよとせしを
空敎阿逖着鞭先  空しく阿逖(あてき)をして 鞭先を着け敎む
昴々未折雄飛志  昴々(こうこう) 未だ折(くじ)けず 雄飛の志
夢駕長風萬里船  夢に駕(が)す 長風(ちょうふう)万里の船 (5)

明治17(1884)年8月23日から10月11日まで、ドイツ留学へ向かう際の約50日間の漢文による記録に「航西日記」があります。日記には、横浜港、遠州灘の沖から眺めた富士山、九州南端、台湾海峡(福建省)、香港、ベトナム、マレイ海峡、シンガポール、アデン港、紅海、スエズ運河、マルセーユ港、パリ、ケルン、ベルリンなど、風景、印象、感想等が記されるとともに、詩40首が収められています。この七言律詩はそのうちの一つで、明治17年(1884)8月23日、すなわちフランス商船メンザレエ号に乗って横浜港を旅立つ前日の作です。

その日の日記には、「明治一七年八月二三日。午後六時、汽車東京を発つ。横浜に抵る。林家に投ず。此の行の命を受くること、六月一七日に在りき。徳国に赴きて衛生学を修め、兼ねて陸軍医事を詢るなり。七月二八日、闕に詣でて、天顔を拝し、宗廟に辞別す。八月二〇日、陸軍省に至り、封伝を領す。初め余の大学を卒業するや、蚤くも航西の志あり。以為く、今の医学は泰西より来たる。縦使、その文を観、その音を諷すとも、苟しくも親しく其の境を履むに非ざれば、則ち郢書燕説たるのみと。明一四年に至り、学士の称をかたじけなくす。詩を賦して曰く」とされ、この詩が掲げられた後で、次のように述べられています。

「蓋し、神は已に易北河畔に飛びたり。未だ幾もなく軍医に任じ、軍医本部の僚属となりき。躑躅鞅掌して簿書案牘の間に泪没すること、此に三年。而して今やこの行あり。喜ばざらんと欲して得べからざるなり」。(6)

この詩のおおよその意味は――

聞こえのいい学士号をもらったが、実際は、まだ浅学非才にすぎない。学士号などは、一笑に付すべきだと思う。小生は、旧態依然で、あいかわらず肩をそびやかして詩を詠じることが好きだ。大学を卒業し、中国唐代の進士みたいに官吏の候補者になれて、たしかに嬉しい。同期の中で僕がいちばん若いということも、やはり誇りに思う。ところが、たいへん残念なことに、クラスの首席をねらった僕の望みが、はずれて、結局は第八番で卒業した。首席は級友の三浦君に取られてしまったので、僕は、がっかりしてしまった。しかし、首席は取れなかったものの、僕は大きな志を、いまだに捨てていない。僕は夢みる。いつかは万里を遠しとせぬ遠洋船に乗って、順風満帆でドイツ留学の旅につこうと。

この詩は、よくできた七言律詩と考えられます。律詩は偶数句の脚韻を踏むことが求められますが、確かに「孱、肩、年、先、船」が下平一先の韻をきちんと踏んでいます。律詩には頷聯(三、四句)と頸聯(五、六句)が対句をなすというルールもあります。觀花―題塔、僅覺―誰誇、眞歡事―最少年、唯識―空敎、蘇生―阿逖、愧牛後―着鞭先と、ちゃんと守られています。

陳氏は「この詩は、鷗外漢詩の代表作の一つだといえよう。……観花など故事の活用が六か所もあるが、どれもぴったりとうまくれきている。詩全体に波瀾があり、含蓄があるばかりでなく、内容的にも深いものがあるので、立派な詩だといえる」(7)。また、「鷗外のこの七律は、出来栄えなどから考えて、留学に出発するときの作ではなく、帰国後の作だと推定される」(8)としています。

鷗外が留学から帰国したのは1888年(明治21年)9月のことです。明治15年(1882)2月「北游日乗」の旅に出た時に師、応渠から求められた宿題は、このころには、みごとに果たされていたといっていいでしょう。

(1)陳生保『森鷗外の漢詩 上』71頁
(2)『鷗外全集 三五巻』62-63頁
(3)陳『森鷗外の漢詩 上』72頁
(4)日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』」(2004年刊)デジタル版
(5)陳『森鷗外の漢詩 上』153-154頁
(6)『鷗外全集 三五巻』75頁
(7)陳『森鷗外の漢詩 上』157頁
(8)陳『森鷗外の漢詩 上』154-155頁


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)漢詩 

2020年09月25日

明治期の漢詩⑤

きのう見たようなかたちで始まった鷗外の詩作ですが、佐藤応渠の指導のもとで鷗外は具体的にどのような漢詩を創作していったのでしょう。

陳生保氏の『森鷗外の漢詩』を参考にしながら、筆者なりの鑑賞を試みてみたいと思います。きょうはまず、応渠に作詩を学びはじめて最初に作った一首と考えられている七言絶句「待春」です。
 
  待春(春を待つ)

南廂偶坐惱沈吟  南廂(なんしょう)偶坐して惱みて沈吟し 
目送凍禽鳴出林  凍禽(とうきん)の鳴きて林を出ずるを目送す
唯喜簾前風稍暖  唯喜ぶ 簾前の風 稍(いささか)暖かなるを
待花心是待春心  花を待つ心 是れ 春を待つ心なり(1)

梅

鷗外の弟、森潤三郎氏によると、この詩は、鷗外の死後、妹の小金井喜美子の家で書かれた短冊から発見されました。桜の花と蕾とを簡単に描いた絵が付け加えられているといいます。

署名は鷗外漁史ですが、筆跡は佐藤応渠のものです。小金井は、当時たびたび千住の家を訪れた応渠が、ありあわせの稽古用短冊に書いたのだろう、としているそうです。(2)

陳生保氏は、鷗外が応渠に漢詩を学び始めた明治13(1880)年の初夏からドイツ留学に出発した明治17(1884)年8月までの間の「漢詩の勉強を始めてまもないころ」の作品とみています。(3)

七言絶句で、規則通り「吟、林、心」が下平十二侵の韻を踏んでいます。「待春心」は、百花咲きみだれる春のおとずれを待ちこがれる心の意であるとともに、まさに鷗外自身もそうである、人間としての春を待つ心、つまり“思春の心”をうたっているのでしょう。

明治15年(1882)2月、つまり鷗外が応渠に作詩を学ぶようになってからほぼ1年半後には、東大医学部をすでに卒業していた鷗外は公用で北越へ出張することになりました。その旅を和文と漢詩で記録した「北游日乗」の冒頭は、次のように記されています。

壬午の歳二月十三日官事にて北越へ往かむとて人々と共にいで立つ佐藤応渠師詩歌もて我行を送らる官情清白藻思閑憐子辞家向越山公事不妨飽風月献親金玉満嚢還、心こそ離れざりけれ旅衣ひたちこしぢとたち別るとも師の君は常陸へゆき玉ふべき頃なりければ然か云はれしなりけり(4)

「壬午の歳」は明治15(1882)年、鷗外20歳のときにあたります。「官事」は、第一軍管区徴兵副医官として徴兵検査立ちあいのための出張と考えられまる。「北越へ往かむとて人々と共にいで立つ」にあたって、師が、漢詩だけではなく、和歌をも付けて送ってくれたというのです。このうち和歌のほうの

心こそ離れざりけれ旅衣ひたちこしぢとたち別るとも

は、わたしは常陸、きみは越路にと、別れ別れに旅立つわけだけれど、互いの心は離れることなく添いあっている、という意でしょう。一方、日記に記された応渠の送別詩は、次のような七言律詩と考えられています。

官情清白藻思閑  官情は清白 藻思は閑なり
憐子辞家向越山  憐子 家を辞して越山へと向かう
公事不妨飽風月  公事は風月に飽くるを妨げず
献親金玉満嚢還  親に献ずる金玉 満嚢にて還らん(5)

官吏になった以上、心が清らかでなければならないが、公務の合間に文才にみがきをかけてもいいだろう。ご両親へのみやげに、立派な詩をたくさん作って帰るのだよ、というのです。それは、応渠が送別詩のかたちで鷗外に出張中も漢詩作りに励めという「宿題」を出した、と見てもいいかもしれません。

応渠の送別詩に対して、鷗外は、同じく七言絶句で応じています。

嬌花妍月趁時新  嬌花妍月(きょうかけんげつ)時新を趁(お)う
新斥繁華夢寐頻  新斥(にいがた)の繁華 夢寐(むび)に頻りなり 
好帯君王餘澤去  好し君王の余沢を帯びて行き
優游七十二橋春  優游(ゆうゆう)せん 七十二橋の春(6)

「新、頻、春」と、上平十一真の韻をきちんと踏んでいます。ざっくり言えば、花も月も美しいすばらしい季節に、憧れの新潟へ行くことになった。天子の溢れんばかりのめぐみを受けて出張して行くが、せっかくの機会だから七二もの橋のかかる町の春をぞんぶん楽しんでくる、というのです。やや、ぎこちない言葉づかいにも感じられますが、和歌と漢詩という師のぜいたく詩の見送りに対し、弟子として精いっぱいの返礼をしているように思われます。

(1)陳生保『森鷗外の漢詩 上』43頁
(2)森潤三郎「漢詩一首」(『鷗外研究』第32号、1939.5、岩波書店)
(3)陳『森鷗外の漢詩 上』43頁
(4)『鷗外全集 35巻』(岩波書店、1975.1)61頁
(5)陳『森鷗外の漢詩 上』47頁
(6)陳『森鷗外の漢詩 上』46頁


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2020年09月24日

明治期の漢詩④

前田愛氏は東京大学附属図書館の鴎外文庫の中に、森鷗外=写真=が繙読した中国小説類の大半が所蔵されていることに注目し、それらの調査研究を「鷗外の中国小説趣味」としてまとめています。

その考証によれば、医学生時代を中心として留学以前に鷗外が通読したのが確実と見られる中国小説には「虞初新志」「水潜伝」「情史類略」「石点頭」「艶史」「剪燈余話」「板橋雑記」「塊西雑志」「燕山外史」等があり、読書の形跡から「鷗外の中国小説趣味は雅文小説に傾いていた」といいます。(1)

それは「夏目漱石が漢詩を好み、陶潜等の影響を深く受けたのに比べて、興味深い傾向である。精読された雅文小説にしろ、白話小説にしろ、一般に本格小説と言われるものでもなく、文学的に質の高いものでもない」ものでした。(2)

鷗外

唐詩選を諳んじる程度だった鷗外が、漢詩へと踏み出すうえで大きな影響を与えたとされるのが、医学生時代の鷗外の友人で、小説「ヰタ・セクスアリス」で尾藤裔一という名で出て来る漢学好きの少年のモデルになった、伊藤孫一です。神田孝夫氏はこの人物について次のように説明しています。

「この実在の伊藤孫一という人については、ほとんど何の知るところもない。生歿の年も知らない。わずかにただ、かれは林太郎と同郷の石見の国の人であり、そのためだろう、東京におけるかれの家は、藩主亀井家の邸内の一角にあり、向島にあった森の家とは目と鼻の間だったということ、その年齢は、この人のことを記した鷗外の語に「年歯相若」とあるところを見れば、林太郎よりはせいぜい二、三しか年上ではなく、かれの医学生仲間の中では最年少組の一人であったらしいこと、それらを辛うじて知るのみである」。(3)

そして神田氏は、林太郎は「吶々と語って聞かせる孫一少年の話に魅せられ、またわが作詩作文の技倆を少しでも上げようがため、かれから進んで「大抵離れることはない」関係にまで孫一少年を引っ張り込んで行ったのであり、この身近な感嘆すべき友を通じて、一歩一歩、ようやくかれは、漢詩文の世界に入って行くのである」(4)と推測しています。

「年譜」からすれば、鷗外と孫一の付き合いは、明治8年、鷗外13歳のころから明治12年、17歳のころまでの4年間だったと考えられます。この孫一が鷗外の漢詩に啓蒙的な役割を果たしたとすれば、鷗外に正規の作詩教育を施したのが千住時代の佐藤応渠ということになるでしょう。

鷗外が応渠に作詩を学んだのは明治12(1879)年の初夏以降、明治17(1884)年ドイツに留学するまで、つまり17歳から22歳までの5年間だと推定されます。

「生まれたときから死ぬまで、ずっと側にいて彼を支えたお守り袋であり続けた」(5)という大原観山(1818-1875)を祖父にもち、「七八歳の時、観山翁、此の詩を書して以て余に賜い、且つ之を暗誦せしむ」(6)こともあったという子規。

観山の死後は、1878(明治11)年、数え年12歳の夏には藩儒土屋久明から正式に漢詩の作り方を教わるようになっています。また、漱石はといえば14歳で二松学舎に入って本格的な漢詩作りを学んでいます。そんな子規や漱石に比べると、鷗外の漢詩へ取り組みは遅いものだった、といってもいいかもしれません。

この節の最後に、鷗外の詩作の師、佐藤応渠(1818-1897)とはどのような人物だったのか、手元にある資料から探っておきたいと思います。応渠の本名は、佐藤元萇(げんちょう)。生まれたのは大原観山と同じ文政元年です。

日本人名大辞典によると「高津淄川(しせん)に和漢の学を、江戸の多紀元堅(もとかた)に医学をまなぶ。黒船来航の際、種痘をならい、陸奥会津(福島県)にかえってその術をひろめた。のち幕府の医学館教授。維新後は茨城県下妻の温知病院長。明治30年8月7日死去。80歳。字は賜萇。号は応渠。著作に「医家年契」など」(7)とあります。

因みに応渠の師である高津淄川は、会津藩士で、藩主松平容保の侍講を務めた人物です。(8)

(1)前田愛「鴎外の中国小説趣味」(『国文学言語と文芸』38号、大修館書店、1961.1)
(2)濱田朝子「鷗外と中国文学―「雁」を中心として―」(『熊本女子大学国文研究』第22号、1976.9)20頁
(3)神田『比較文学論国攷―鷗外・漢詩・西洋化―』112頁
(4)同119頁
(5)加藤国安『漢詩人子規』20頁
(6)同36頁
(7)『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社、2015.9更新)
(8)小堀桂一郎『森鷗外』(ミネルヴァ書房、2013.1)55頁


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2020年09月23日

明治期の漢詩③

森鷗外(1862-1922)の漢詩はというと、『大正詩文』など公刊の雑誌、書籍に掲載されたもの、日記、書簡に出ているものを発表の年代順に配列した『鷗外全集』の漢詩部門の収録数は、あわせて164首に及んでいます。(1)

陳生保氏によると、これに「北游日乗」と「後北游日乗」のそれぞれ29首、合せて58首、そして「日本学者の鷗外研究の著書と論文から採録した2首」を加えると、224首、1585句にのぼるといいます。(2)

さらには、『於母影』の中の漢詩訳6首を加えてみると230首2087句ということになります。生涯に作った漢詩の数は、子規には到底およばないものの、漱石とはだいたい同じくらい作っているということになるでしょうか。

大正詩文

「年譜」(3)によると、鷗外は5歳のときから藩校養老館教授の村田久兵衛に論語の手ほどきを受けています。そして10歳、上京するまで養老館でいわゆる四書五経、左国史漢のたぐいの漢籍をひととおり勉強していたようです。鷗外は、「俳句と云ふもの」という随筆で、次のように記しています。

俳句と云ふものを始て見たのは十五六歳の時であつたと思ふ。父と東京へ出て来て向嶋に住んでゐる所へ、母や弟妹が津和野の家を引き拂つて這入る込んで来た。その時蔵書丈は売らずに持つて来たが、歌の本では、橘守部の「心の種」、流布本の「古今集」、詩の本では「唐詩選」があつた。俳諧の本は、誰やらが蕉門の句を集めた類題の零本で、秋冬の部丈があつた。表紙も何もなくなつてゐて、初の一枚には立秋の句があつたのを記憶してゐる。さう云ふ本を好奇心から読み出した。丁度進文学社と云ふ学校で独逸語を学んでゐた片手間であつた。其頃向嶋で交際してゐた友達は、伊藤孫一といふ漢学好きの少年一人であつたので、詩が一番好きであつた。尤も国にゐた時七絶を並べて見る稽古をしたこともあつたのである。唐詩選の中の多くの詩は諳んじてゐた」(4)
 
鷗外は、幼いころから「唐詩選の中の多くの詩は諳んじ」られる程度の漢学の基礎は身に着けていたと考えられますが、ただちにそれが詩を作れる保証とはなりません。漢詩は困難な詩型です。

陳生保氏は「どの文献資料にも、鷗外が幼少の時、漢詩を作る正規の教育を受けたという記録がないし、現存の漢詩の中にも少年時代に書いたという詩は一首もないというところから見ると、「七絶を並べて見る稽古をした」というのは、あるいは、漢詩をたくさん読んだら、作詩にも興味を持つようになり、遊び半分で試みに作ってみたぐらいのことかもしれない」として、「鷗外は幼少の時、作詩の正規教育を受けなかったため漢文を書く力があっても漢詩を規則通りに作ることができなかったと判断したい」と推測しています。(5)

(1)『鷗外全集 第19巻』(岩波書店、1973.5)「漢詩」の部
(2)陳生保『森鷗外の漢詩 上』(明治書院、1993.6)11頁
(3)長谷川泉「森鷗外年譜」(『現代のエスプリ 森鷗外』至文堂、1968.3、182頁)
(4)『鷗外全集 第26巻』(岩波書店、1973.12)428頁
(5)陳『森鷗外の漢詩 上』5頁


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2020年09月22日

明治期の漢詩②

子規の親友、夏目漱石(1867-1916)にとっての漢詩とはいかなるものだったのでしょうか。

一海知義氏によると、漱石の漢詩は生前まとまった形で刊行されることはなく、漢詩作品がまとめて出版されたのは、没後2年を経た大正7(1918)年、岩波書店が刊行した『漱石全集』の第10巻「漢詩」の部が最初だったそうです。

同全集の平成7(1995)年の改定では、誤って収めていた中国人の作品一首を削り、新たに漱石作と確定し得る一首を加えて、漢詩208首が収録されました(1)

漱石は、14歳だった明治14(1881)年4月から、当時漢学塾だった二松学舎の門を叩き、同年7月に第三級第一課(唐詩選、皇朝史略、古文真宝、復文)、同年11月に第二級第三課(孟子、史記、文章軌範、三体詩、論語)を卒業しています。

『二松学舎百年史』によれば、当時の二松学舎の状況について、漱石は「学舎の如きは実に不完全なもので講堂などの汚なさと来たら今の人には迚も想像出来ない程だつた。真黒になつた腸の出た畳が敷いてあつて机などは更にない。其処へ順序もなく坐り込んで講座を聞くのであつたが、輪講の時などは恰度カルタでも取る様な工合にしてやつたものである」と語っていたといいます(2)

漱石詩

明治時代、漢詩はなお極めて多くの作者をもっていました。量的には、マスコミの発達に応じて、江戸時代以上の盛況にあるようにさえ見えました。質的にも、久しく閉ざされていた直接の接触の開始、あるいは西洋文学との接触によって、何ほどかの変化を示そうとしていました。新聞には、短歌欄、俳句欄とともに、必ず漢詩欄が、一般読者の投稿を迎えられました。森槐南、国分青厓、野口寧斎らは、もっとも盛名ある漢詩人として、しばしば多くの門生による結社の中心であり、新聞の漢詩欄の選者でありました。

こうした時代の中で「漢詩は、夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである」と吉川幸次郎氏は指摘しています(3)。「俳句よりも、より多くの比重を」と述べた根拠について吉川は、つぎのように説明しています。

漱石が晩年、小説「明暗」の執筆を午前にすませ、午後、七言絶句を作ることを日課にしていたころ、芥川龍之介と久米正雄にあてた書簡で、「僕は俳句というものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、一八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位ずつ作ります。自分ではなかなか面白い、そうして随分得意です。出来た時は嬉しいです」と、漢詩に対する態度を、俳句に対するそれと対比して語り、且つ態度が自負をともなっていた。こうした点から「おのれの俳句は、一八世紀、つまり蕪村あたりの後塵を拝するのに対し、おのれの漢詩は、二〇世紀の詩として位置をもつ、といいたいのである」(4)というのです。

このような漢詩熱は、子規や漱石といった特別な文学者に限ってのものではありませんでした。「その当時、明治十年前後における、乃至は二十年頃までの、わが国知識人たちの間の文学、今日のいわゆる純文学に当るものは、まず第一には何といっても漢詩漢文の文学だった。そして実際、また今日の純文学畑の詩人や作家に当るような人々が現に存して、漢字ばかりで記されたその作品が、知識人の文学として、インテリ社会の間では行なわれていた。また今日なら、さしずめ西洋文学の原書に当る、漢土の文学書もしきりにわが国に輸入せられ、これを娯しみ繙読する文学好きの知識人も可也り存し、かれらの中には、これに訓点を施した翻刻ものを出す人もあり、それが結構多々世上に行なわれていた」(5)。そうした時代だったのです。

(1)一海知義「『漱石詩注』解説」(吉川幸次郎『漱石詩注』岩波書店、2002.9、331-332頁)
(2)二松学舎大学Webサイト「二松学舎に学んだ人々」
(3)吉川幸次郎『漱石詩注』(岩波書店、2002.9)3頁
(4)同7頁
(5)神田孝夫『比較文学論国攷―鷗外・漢詩・西洋化―』(明治書院、2001.12)111頁


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2020年09月21日

明治期の漢詩①

正岡子規(1867-1902)が、その祖父、大原観山らを通して学んだ漢詩が、俳句や短歌の近代化のうえでいかに重要な役割を果たしたかを、きのうまで見てきました。

このような漢詩の素養は、なにも子規に限らず、夏目漱石、森鷗外ら文豪たちにとっても、同じような意味合いを持っていました。これからしばらく、こうした明治の文人たちが漢詩をどのようにして身に着け、それがどのような成果に結びついたのか、鷗外を中心に見ていきたいと思います。

34年という短い生涯のあいだに画期的な俳句革新を成し遂げた子規ですが、初めから俳句の道を一途に歩んだわけではありませんでした。これまでに検討したように、子規の年少期の勉学は、松山藩の大儒だった外祖父・大原観山の熱心な教育もあって、漢学がその中心でした。

漢詩人子規

加藤国安氏は「それも片手間の勉強などではない。その影響は、彼の人生の全体に相当の意味を持つほどだった。実際に残された子規の自筆資料や所蔵漢籍を手に取り、また子規の中国での足跡を現地調査してみると、彼の漢籍の教養の深さは明白である」(1)と指摘しています。

子規は、「俳句と漢詩」(明治30年)の冒頭で、「俳句と和歌と漢詩と形を異にして趣を同うす。中にも俳句と漢詩殊に似たる処多きは、俳句が力を漢詩に籍(か)りしにも因るべきか。…漢詩を解する者往々にして俳句を解せざる者あり。こは俳句を見るに漢詩を見るの標準を用ゐざる故なり。余も久しく漢詩を見るの標準を誤りしが、一旦俳句と漢詩と二致あるに非るを悟るや、疑団氷解して始めて漢詩の真相を認め得たる心地す」(2)としています。

この記述の意味するところについて、加藤氏は「俳句と漢詩は形は異なるものの、その詩趣は何ら異なるものではない。両者の味わいに似た点が多いのは、俳句が漢詩の力を借りていることにもよっている。これまで自分は漢詩の見方を違えていたが、両者は別種の趣をもつものではないと悟った途端、疑念が氷解して初めて漢詩の真相を理解することができた、というのである」(3)とみています。

『子規全集』の漢詩を担当した渡部勝己氏によれば、子規の創作漢詩は2000首ほどあるそうです(4)。その中から子規自身が取捨選択して編んだのが「漢詩稿」で、計622首、それ以後の詩が8首。「これらの作品は、子規が十歳を過ぎた頃より、当時の一般的な漢詩学習を通して創作されていったものであ」ったといいます。

そして、「子規の漢詩が文学作品として文学作品として独自性を放ち出すようになるのは、吐血した明治21年頃からである。病いという重い制約を背負った才人の傷心と、それでもなお限界へ挑み続ける雄志とがない混ぜになって現れてくる。この子規独自の個性は、以後、徐々に内容を充実させていき、明治25年には、あの「岐蘇雑詩三十首」の大雄編が誕生する。それと併行して漢詩集の集中的熟読を経て、詩の本質を摑んだと確信した子規の漢詩は、いわば近代的個性を帯びた表現へと脱皮しながら、当代に求められる詩歌の表現とは何か、といった詩学的探究心を帯びたものへと深まりを見せていくのである。そしてそこからわき上がってきたのは、日本の俳文学の近代化はいかなる限界を、どのように突破すべきかを模索せんとする子規の熱い闘争心だった」(5)というのです。

(1)加藤国安『漢詩人子規――俳句開眼の土壌』(研文出版、2006.10)4頁
(2)『子規全集 第4巻』(講談社、1975.11)590頁
(3)加藤『漢詩人子規』7頁
(4)『子規全集 第八巻』(講談社、1976.7)679頁
(5)加藤国安『子規蔵書と「漢詩稿」研究―近代俳句成立の過程』(研文出版、2014.1)4-5頁


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2020年09月20日

漢詩と子規⑨ トランストロンメル

「春や昔十五万石の城下哉」から100年以上を経た2011年。あの大震災の年のノーベル文学賞の報道を、私は特別の感慨をもって眺めていました。受賞したのは、スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル(1931-2015)=写真=でした。

短い詩句に神秘的世界をイメージ豊かに描くことで知られ、若い時から俳句への興味と尊敬を抱きつづけてきた詩人です。「俳句」について、トランストロンメルは「ヴィジョンがこの3行に入り込むのは、サーカス芸人が二十米の高みから水を張った小桶を目指して跳び込むようなもの。自身も砕けることなく」とも述べています。

トランストロンメル

とりわけ1990年秋に、重い脳卒中にかかって右半身の自由と失語を余儀なくされてからは、凝縮した俳句に通ずる短詩が彼の表現の主たる舞台になりました。

「高圧線の幾すじ/凍れる国に絃を張る/音楽圏の北の涯て」「生きねばならぬわれら/細かく生え揃う草と/地中の嘲笑と」「十一月の陽……/わたしの巨大な影が泳ぎ/蜃気楼をなす」などなど。スウェーデン語の原詩は、音節を五七五にそろえられているといいます。

また、1996年に出版された『響きと軌跡』という詩集の「讃歌」という作品には、敬愛する俳人正岡子規が「死の板にいのちのチョークで書く詩人」として登場しています。(1)

観山ゆずりの漢詩に根をもつ子規の俳句革新によって生まれ、たとえば私が師と仰ぐ山口誓子をも包み込んだ子規山脈は、いまや世界へと大きく裾野を広げているわけです。

「実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり」(2)とあるように、子規の俳句・短歌革新の核心となった「写生」は、洋画家中村不折の画論をはじめとした西洋からの影響だったと筆者は思っていました。

ところが加藤の研究などによると、そのような認識は改める必要がありそうです。観山らの手ほどきで、幼少のころから親しんでいた「漢詩」が、「写生」を含めて子規俳句の母体を築いていたと考えるほうが真相に近そうです。

いまから考えると意外な感もありますが、子規が活躍した明治20年代は漢詩の最盛期でもあったのです。思えば森鷗外も夏目漱石も、幼いころから漢詩に親しみ、数多くの詩を作っていました。

たとえば鷗外は、留学先のドイツから帰国して早々に出した訳詩集『於母影』(1889年)で、まず最初に思いついたのは漢詩体による訳でした。鷗外は漢詩訳を試みる理由について「洋詩を漢語もて訳するときは、西語の抑揚長短の音を漢語の平仄の音となすことを得べし。(後に於母影にて試みたる如し)されど訳するに国語を以てするときは、われ未だ平仄を出すべき途を知らず」と述べています。日本の歌には、平仄も押韻もないのに対して、中国の詩と欧米の詩はいずれも平仄と押韻を持ち合わせていると考え、自信満々で漢詩体による訳詩に挑んだのです。(3)

鷗外にとって、日本の詩といえばまさに漢詩のことだったのです。そして西洋の詩と対等に向き合えるのは漢詩だけだと思っていたのでしょう。幼少期から詩人としての土台を外祖父・大原観山という大きな存在によって植えつけられる、という恵まれた環境に育った子規は、漢詩への思い入れは鷗外以上に深いものがあったに違いありません。

ところで、明治時代の漢詩の隆盛について奇異に感じたのは、なにも筆者に限ったことではなかったようです。当時の売れっ子評論家、大町桂月も、これを「明治文壇の奇現象」と呼んで次のように指摘しています。

「明治の世となりて、西洋の文學や、思想や俄に入り來たれり。是れ未だ奇とするに足らず。小説面目を改めて勃興せり。是れ未だ奇とするに足らず。新體詩勃興せり。これとても奇とするには非ず。ただ廢滅するなるべしと期したる漢詩が却って盛んになり、且上手になりし事は吾人の不思議に思わざるを得ざる所なり。漢籍入りてより二千年、漢詩を作る伎倆の發達せること、未だ明治時代の如きものあらず。王朝時代には、漢學に達したるものは多かりしかど、漢詩はきわめて幼稺にして、一人も詩人らしき詩人なく、一篇も誦すべき詩なかりき。後世、文學の神と崇むる菅公の如きも、白樂天の淺薄なる模擬者に過ぎず。その餘、推して知るべきのみ。その後、漢學なく、漢文なく、漢詩なきこと久しかりしが、足利時代に至り、僧侶の支那に往來するもの少なからざるに及びて日本また詩あり。否、德川氏の末に至るまでも、絶海の如きは、幾んど之なからむ。その後德川氏の元祿以後に至りて、唐詩の出來損ひもあり、宋詩の出來損ひもあり。菅茶山、梁川星嚴などは、やや詩をよくせるものなり。西洋の文物文藝どしどし輸入せられて、行燈は洋燈と代る世の中に、その行燈の燈火減せむとして暫く明かなりとは、今の漢詩壇の謂か。明治二十年代は實に漢詩全盛時代なりき」。(4)

西洋化・近代化の道を走り始めた明治時代、西洋の文学や思想がさかんに輸入され、新しい小説、新しい詩が勃興するにともなって衰退するかに思われた伝統的な漢詩が却って盛んになったことは、同時代の知識人の眼にすら「奇現象」と映ったのです。
木下彪はその著『明治詩話』のなかで「寛政以後漢文が庶民階級にまで普及すると共に、庶民文学の影響を受けて平易化し遊戯化した漢詩文が、写実的傾向を以て現実生活に結びつき、弘く士民一般の間に流行した。これが明治の世に其の儘引継がれたのみならず、寧ろ盛になって、一時に絢爛なる最後の花を咲かせたのであった」(5)としています。

大原観山という最高の師をもった子規は、こうした「漢詩全盛時代」に、広い意味での詩人として立った。確かに、俳句革新の偉業には、不折らを介して入ってきた西洋文化の影響は少なくなかったでしょう。しかし、子規がそれを成し得たのも、「詩人」としての天性の資質うえに築かれた確かな土台があったからに違いありません。近代の文芸としての俳句・短歌という新しい「詩」は、観山からその孫・子規へと受け継がれた「漢詩」を母体として生まれ育ったのです。

(1)トーマス・トランストロンメル著、エイコ・デューク訳『悲しみのゴンドラ 増補版』(思潮社、2011.11)54-104頁
(2)正岡子規「叙事文」(『日本付録週報』明治33年3月12日)
(3)森鷗外「平仄に就きて」(『鷗外全集 第22巻』岩波書店、1973.8)4頁
(4)木下彪『明治詩話』(東京文中堂、1943)=紀田順一郎編『近代 世相風俗誌集8』(クレス出版、2006年)355-356頁
(5)同書166-167頁


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2020年09月19日

漢詩と子規⑧ パクス・トクガワーナ

加藤国安の研究によって、「西洋嫌い」で通ってきた大原観山が、意外なまでに洋学に関心を持っていたことも分かってきました。

ペリー来航に関して、観山は「アメリカのワシントンにあるフレシテントの書翰を、カリフォルニアの軍艦に乗せて相模国浦賀港へ送り来たるの記」を書き写しており、はっきりと「ワシントン」とカタカナで書いています。『蘭言随筆』『和蘭説言解』など観山の図書目録にはオランダの本も何冊か記録されているといいます。(1)

観山いわく。「蛮夷なものでも、取るべきは(取る)」(『観山遺稿』「環海異聞序」)。が、「(無理やり武力で他国民の日常を破壊する洋夷の)悪は極まり罪は大なり」(「噬?卦」)と。洋学の長所は活かせ、しかしその裏面の大罪を放念して心酔するのはだめだという。この洞察は愚直なまでに徹底していた。子規は小さい時から観山の薫陶を受け、また書斎にも出入り自由だったから、そういう西洋文明の矛盾は子供心にも知っていたと思われる」(2)

「西洋の物でも学ぶべきものは学ぶ」しかし「西洋の罪科のようなものは学ぶべきではない」。洋学の長所は活かながらも、彼らの錯誤は人類にとって深刻な問題であり頭から崇拝すべきものではない、と観山は考えていたのです。

加藤はいいます。「幼い時から子規は祖父への敬愛心を持っており、西洋の文化の中には危険なものがあるぞ、毒素があるぞということを知った上で、青年時代、子規は西洋の学問に迎合しました。心酔と自分では言っていますが、本当に熱心だったわけではなかったので、明治26年以降、西洋心酔する日本人に対してはっきりと警告をしたのではないか、と思います。法政大学図書館の子規文庫で「徳川時代の漢学者論」を調査しました。すると、明治32年の「病牀瑣事」の中に、子規ははっきりと「徳川時代の漢学者の随筆を見初めぬ。読めば面白く、面白ければ読み、いつのまにか数十巻を了へたり」と書いています。また、最終的には「愉快ゝゝ」と書いています。これは祖父観山に対する共感を経由・媒介して、徳川時代の漢学全体に対する深い共感にまで子規は至っていたのだと思います。」(3)


松山城

春や昔十五万石の城下哉 

明治28年に作られた子規の代表的な一句です。松井利彦は「季節は春。今自分は故郷である松山にいる。この松山は、その昔、加藤嘉明が慶長年間に町づくりをはじめ、蒲生氏、松平氏と変りはしたものの、松平氏が徳川と姻戚関係にあったことから栄えてきた。その十五万石の松平氏の城下町である松山も、維新以後、佐幕であるという立場をとったため冷遇され、春は昔のこととなってしまった。昔の繁栄だけを思わせる城下町、松山よ」と、この句を解しています。(4)

また、「幕末維新後の藩の政策に携わっていた大原観山、藤野正啓は共に親族に当たり、自らも士族の誇りを堅持する子規にとって、松山に寄せる愛惜の情には並々ならぬものがあった。「故郷は学問を窮め見聞を広くするの地にあらず」「事業を起し富貴を得るの地にあらず」(「養痾雑記」)と現実生活に益する所は何も無いと断ずる一方、心の拠り所としてひたすらもとめて止まない地であったのでもある。従軍に先立つ帰省の折りの作であるだけに、町並を見廻す心の内には、あるいは見納めになるかもしれないという一抹の不安がよぎったかもしれない。格の高い朗らかな声調は城を詠むにふさわしい」というようにも評せられているといいます。(5)

一方で加藤は講演で、こんな見方も示しています。「西洋近代の持つ光と影の「影」の問題点を十分に理解できずに、観山ほど見抜けないまま過大評価してきた面もあったかと思います。子規はこれを「心酔」という言葉でいいましたが、実は、西洋型の近代にない美点が日本にあったんだろうということを、観山自身が教えてくれていたのだと思います。それは、平和・愛・文化という徳川の平和、パスク・トクガワーナのあり様です」。それを子規が、この句に「凝縮して詠んだのではない」かというのです。

さらに加藤は、「西洋一元の史観、進歩神話の限界のその先にあると世界が期待しているパクス・ジャポニカ」に関連すると考えられる子規の俳句として、次の一句をあげています。

鐘つかば唐へひゞかんけふの月  子規

この句の「唐」という言葉を「おじいさん」、「未来」と置き換えますと、パクス・トクガワーナの文化が育った未来の松山では、いい鐘の音が響いていると嬉しい、と読むことができるのではないかというのです。(6)

(1)加藤「大原観山の新資料から見る幕末、そして子規へ(上)」7頁
(2)加藤国安「子規研究の新しい視点―祖父と孫の絆から」(『日本文学文化』東洋大学日本文学文化学会、2018)36頁
(3)「大原観山の新資料から見る幕末、そして子規へ(下)」13頁
(4)松井利彦『正岡子規』(桜楓社、昭和57年7月20日)122頁
(5)今西幹一・室岡和子『子規 百首・百句』(和泉書院、1990年5月)164頁
(6)「大原観山の新資料から見る幕末、そして子規へ(下)」13頁


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2020年09月18日

漢詩と子規⑦ 祖父との絆

疾雷 暑を駆りて去り
残滴 余涼を送る
新月 林端に出で
清光 臥床に上る

きのう見た子規の「夏晩即事」は、加藤によれば、李白の「静夜思」だけでなく、次にあげる観山の詩「暑雨 復た月に坐す」の痕もうかがわれるといいます。

薫風 雨を駆り 暑雰消え
一片の氷輪 碧霄を轉ず
独り吟牀に凭れて 宵半ならんと欲す
聴くを愛す 残溜の芭蕉に滴るを

観山の雨後の涼しさおよび月を詠む表現は、子規の「疾雷 暑を駆りて去り/残滴 余涼を送る/新月 林端に出づ」および、明治29年に作られた

入梅や夕立晴れて月低し
 
夕立や簾を捲くけば三日の月

これらの俳句にヒントを与えていると考えられるというのです。(1)

このようにして子規は、観山の漢詩に学んで自ら創作するとともに、後年それを俳句にも応用していったわけです。子規がこの観山の詩に熱く学んだのは、明治14年から15年にかけてでした。

そして、明治15年、子規は観山の漢詩184首を筆写し終え、その裏表紙に「明治十五年写鴛焉 正岡」と、自署しています。本格的な漢詩をつくり出す明治14年といえば、子規はまだ数え年15歳です。

「子規はこれらの明治十四年の漢詩をしっかり記憶していたか、あるいは後年、『漢詩稿』を作る際などに読み直し、それを俳句に再利用したのだろう。子規の俳句に天与のベネフィット(恩恵)をもたらしたもの、それがこの少年時代の漢詩だったのである」と加藤は指摘しています。(2)

仰臥漫録

また、子規晩年の随筆『仰臥漫録』には次のような記載があります。

十月二日 晴れ
大原伯父より手紙よこさる 中に大原祖父の京滞在中宿元へよこされたる古手紙入れてあり 
その中に
(略)正岡にも去年十七日安産男子出生之別而うれしき事に候………八重儀あともけんきに候と相見目あきに参候よし大仕合に御座候 小児も丈夫に候得共少しちち付候よし とふぞとふぞ早くなおり候様いのり候事に候………
一正岡うぶきもいかが相成候哉うけたまり度候 帰足之節は唐サラサ位のてんち歟守り袋くらいにすましたきつもりに御座候 孫の名は何とつき候や 正岡の紋はなにに候や 御序御申越可被下候………
    十月八日夜
    お重との
    佑之丞殿
(略)子は沢山有之ても孫はまたまた別のものと見へ早く見度存事に候………などあり これは慶応三年のことにてこの手紙に孫とあるのは余のことなり 京より帰られしときのおみやげは守袋なりし由(3)
 
初の誕生を手放しで喜ぶ祖父と、病床にありながらその古手紙の内容をきちんと記録する孫。こんなところにも、観山と子規の絆のありようの一端を垣間見ることができそうです。
 
(1)加藤国安『漢詩人子規——俳句開眼の土壌』64頁
(2)同書65頁
(3)正岡子規『仰臥漫録』(岩波書店、1988.10)93-94頁


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2020年09月17日

漢詩と子規⑥ 夏晩即事

明治14(1881)年には、子規の漢詩創作は急に旺盛となり、58首もの詩を残しているそうです。

藜筇にて尋ね到る 白蓮の池
解道高風の 君子の姿
尤も是れ 清晨 香りの世界
雨余 東嶺に 日昇る時

白いハスが咲いている朝の池を訪ねての感慨です。子規は、このハスに君子の姿を重ね見ているようです。

一方で、観山は次のような詩を残しています。子規自筆写本「観山遺稿」巻一、第九葉後の作です。

  蓮池に夜酌む

矗(ちくちく)たる瑤花 沼に満ちて開き
手づから吟盞(ぎんさん)を擎(ささ)げて 芳罪に対す
月 水上に明るく 微風度り
恍として訝る 群僊 羽衣を舞うかと

観山の詩では、月明の蓮を仙人に喩えています。子規の詩と比べると「微妙な光に照らされた蓮の幻想美が、深遠な道の実践者を象徴するという点において、祖父から孫への技巧の伝授が感じられる」と加藤国安はいいます。

次にあげるのは、子規の「夏晩即事」という一首です。

  夏晩即事

疾雷 暑を駆りて去り
残滴 余涼を送る
新月 林端に出で
清光 臥床に上る

さっと通り過ぎた雷雨が暑さを追い払い、涼しくなったところに、月が出てくる。清涼感がきわだつその瞬間を、子規は見逃しませんでした。月明かりは汚れなく澄みわたり、寝室にいる人の心のなかまで射しこみます。(1)

李白

加藤によれば、これは、李白の有名な詩「静夜思」を踏まえた作品とも考えられるそうです。

牀前 月光を看る
疑うらくは是れ 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低れて 故郷を思う
(ベッドのまえにさしこむ月の光をみて、
ふと、地におりた霜かとおもった。
頭をあげては山の端の月をながめ、
頭をたれてはふるさとのことをおもった。)(2)

「夏晩即事」の詩想は、後に次のような俳句にも詠みかえられています。

入梅や夕立晴れて月低し(明治29年)
 
夕立や簾を捲くけば三日の月(同)

漢詩で「新月」というと、あざやかな月と三日月の二つの意味があるりますが、「夏晩即事」では前者の意。

明治29年の俳句では「三日の月」と詠むことで、和風の繊細なニュアンスを漂わせます。

(1)加藤国安『漢詩人子規――俳句開眼の土壌』63頁
(2)高木正一『漢詩鑑賞入門』(創元社、1997.6)143-144頁


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2020年09月16日

漢詩と子規⑤ 「玉樹」

観山の激動の人生のかたわらには、いつも「漢詩」がありました。弘化3年(1846、観山29歳)、米のビットル艦隊が浦賀に入港し=写真=通商条約を求めます。この現実に観山は「府下」の「騤洶」(激しい騒乱)に衝撃を覚えた詩を詠んでいます。

ビットル

詩には「自ら笑ふ 迂儒 侠気餘り、慨然として剣を撫して蒼旻を睥む」(七律)といいます。手ぬるい「迂儒」など叩き捨て、「猪突」の野性を鼓舞し蒼天をにらんで剣を撫すのです。長編詩「牛を椎つ行」では、「人力に代はり…日々役役たる」牛を、「之を殺して食と為す」文化に対し、「只恐る 将来人の相食まんことを」と詠み、未来の人類が殺戮し合う悲劇を鋭く直感しています。

こうした洞察に外孫子規は強い印象をもち、「高見」とたたえたといいます。総じて『観山文集』の大きな特色は、洋威という武力に屈しての「開港」に強い懸念を抱き、当時実学的論調の活発化する世風にあって、その中でもより文儒色の強い載道主義的経世論として展開したものと加藤は見ています。(1)

それでは、正岡子規にとって観山とはどのような存在だったのでしょう。子規は、この外祖父について明治22年、次のように回想しています。

余幼より懶惰(らいだ)、学を修めず 八、九歳の頃観山翁余を誡めて「余の幼なる時も汝ほどは遊ばざりし」といはれし時には多少の感触を起したり、翁は一藩の儒宗にして人の尊敬する所たり余常にこれを見聞する故に後来学者となりて翁の右に出でんと思へり しかるに今翁の話を聞き 翁の少小より学問につとめられたりと知りし時には一種の感情を発したり 何ぞや 曰く「余は翁に凌駕せんと思へり しかるに翁にしてかく勉強せられたりといへば 余は到底翁の右にいづるはおろか 翁の片腕にも足らぬものとなるべし 如何にしたらばよけん、勉強はきらひなれば……」と かく思ひつつ今日もくれ、あしたもくれ、東京へ来ても同じこと、少し勉強したことは詩作ばかり、尤勉強せぬは学科なり、されど余の心中に常に翁の訓誡を忘れたることなく 勉強せざるべからずとは絶えず思へり、されどなほ学課ハきらひなり、学課外の事も学課に追はれて思ふやうに出来ず、……」(2)

勉強では外祖父には到底及ばないが「詩作ばかり」は懸命にやっていたという自負をのぞかせているように思われます。また、子規は外祖父の七回忌に臨んで、観山を「玉樹」に喩える、次のよう詩を作っています。

凋摧せる玉樹 那辺にか求めん
一片の愁雲 墓頭を繞る
倐忽たり 人間 七年の夢
門前の流水 曾て留まらず

「玉樹」の霊魂の安寧を、外祖父との絆でもある漢詩によって祈ることで、その志しを自ら受け継がんとする強い意志が感じられてきます。(3)

(1)加藤「幕末の一儒の載道精神」269頁
(2)正岡子規『筆まかせ抄』(岩波書店、1985.3)71-72頁
(3)加藤『漢詩人子規――俳句開眼の土壌』57頁


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2020年09月15日

漢詩と子規④ 「豕書」

安積艮斎(あさかごんさい、1791-1861)は、幕末の儒学者。昌平坂学問所儒官。名は重信、信、字は思順、子明、通称祐助。陸奥国安積郡郡山(福島県郡山市)の郡山八幡の神職の家の3男として生まれ、文化3(1806)年16歳のとき他家に婿に出されたが、翌年学問を志して江戸に出奔し、佐藤一斎の学僕となって学んだ。20年には林述斎の塾にも入門を許され、その翌年ごろ私塾を開いた。

天保3(1832)年『艮斎文略』を出版して名声が高まり、7年郷里の二本松藩の「出入儒」となって三人扶持を給せられ、14年には藩学教授となって150石を給せられた。嘉永3(1850)年には幕府の学問所付儒者に取り立てられ(切米200俵と15人扶持)、ペリー来航の際には国書(漢文)の和訳にも関与した。艮斎は特に文章をもって知られる。著書には『文略』および続編のほか、『艮斎閑話』正続、随筆『南柯余編』などがある。(1)
「豕書」という書の冒頭に、観山はいいます。「世に伝ふ、豕を畜ふ家には必ず馬の災ひ無しと。故に藩邸に之を畜ふこと数十年、生育すること日に蕃え、遂に百余頭に至る。司放する者、給食の継がざるを恐れ、牡は諸を中邸に置き、牝は則ち諸を上邸に置く。之をして分暌し相偶するを得ざらしむ。是に於いて豕憤然として上書す。其の書に曰く」と。当初「余」すなわち豕は邪気拂いのため飼育されていたが、増えすぎたという理由で雌雄別居させられたのを不満として上書したというのです。(2)

安斎

「生来文人肌の気質が強」く、「穏やか宋詩風を好」んで「自作漢詩には、陸游の田園詩に和した詩も少なくな」かったという観山(3)。郷里松山でのこうした学究肌の篤実な彼の姿からすると、この戯言的で辛辣な筆致には何とも驚かされます。しかし、風雲急を告げる江戸にあって、時流の真っ只中に置かれた高揚感とともに、内部に秘められた強い意志と深い洞察力もうかがうことができるでしょう。「豕」の上書は次のようにつづいていきます。

臣豕には麟麒の徳はないが、豺狼の暴もない。牛馬の能はないが、狐狸の妖もない。だからこそ舜が深山にあった時も、そのよき友となり得たのだ。舜が帝となるや、饕餮に臣らを食べさせて喜ばせた。以後、臣らの名前は初めて天下に知れ渡った。以来、宗廟の祭や賓客の供にとお役に立ち、崇尊の極みを受けたことは死んでも悔いることはない。しかし、その一方でまた「牝豚」と罵られたり、屈辱を受けることも少なくなく、鬱々として楽しまざる日々が続くこととなった。

そこへ「海外に君子の国有り。厚徳・深仁にして愛は鳥獣に及ぶ」と仄聞したので、「桴に乗じて海に浮かび相率ゐて」日本にやって来た。当初は大事に扱われ楽しみを味わったが、数が増大するや人々の態度は怒りに変わり、ついには牝牡の居を別にし、つねに空腹状態に置かれることとなった。祖国の辱臣ですらここまでの待遇はなかったと。

さらには、万物の霊長と自負する人間様が大いに羨ましいと、つぎつぎ、辛辣な筆致で綴られたうえ、『孟子』勝文公篇を引いて大陸渡来者の目で「海外の君子の国」の気楽な人間様への諷刺を效かせ、その閉塞状況を指弾するのである。そして最後は、「威尊を?涜するも、敢へて鄙衷を告ぐこと所謂豕突を免れず。謹んで上書し以て聞す」と、己の猪突ぶりを自嘲する辞で結ばれることになります。

「獣性と霊性を両有し、儀典の一役を擔う「豕」だが、高等な上書を奉献したり、『孟子』風の議論を展開したりするのは儒者の偽装であって、じつは「君子の国」に潜む困難について、この国の儒が抱える現況への訴状なのである」と、加藤は見ています。この書に対する安積艮斎の批点にも興味深いものがあります。「凡そ文字、事の諧謔に渉ると雖も、然れども必ず世教に関係し復た観るべきなり。鑽穴隙以下数語、及び父子共?等語には陰かに世教を害する者有りて、白璧の微瑕として之を恕すと謂ふべからざるに似る」、及び「艮斎先生曰く、遊戯の文辞と雖も亦た意懇ろに情至りて、文の華彩は以て之を藻飾するに足る」というのです。(4)

これらの批点からは、偉大な師である艮斎と観山との、後の観山と子規の関係にも通じる、厳しくも深い子弟の絆のようなものも私には感じられてきます。

文人肌の一儒生のこうした「猪突」への変貌ぶり。それは加藤のいう「江府の学塾での師友間の切磋の中、高い反応熱を放ちながら成長していった」あらわれでもあったのでしょう。しかし、変貌を遂げた若き獅子、観山を待ち構えていたのは難局の世の到来でした。やがて藩儒となった観山は、幕府の危局に腐心して心身をすり減らしていかざるを得なくなるのです。

養父松平勝成の隠居に伴い、慶応3(1867)年9月、親幕色の強い伊予松山藩の藩主に松平定昭(1845-1872)がつきました。そして、就任して3日後には、早くも老中という大役を任されることとなったのです。家門での老中就任は松平定信以来のことでした。ところが、そのわずか1カ月後には、大政奉還。鳥羽・伏見の戦いでは朝敵とされて追討をうけ、恭順・謹慎。そして定昭は、失意のうちに隠居し、わずか28歳でこの世を去ることとなりました。(5)

松平定昭その補佐にあたり、藩主の苦労を影で支えたのが、他ならぬ儒者観山でした。公務に精勤する生来の篤実な人柄からして、当然のごとく、この時期、たいへんな心労を重ねことになる。まさに「人情世態 心と違ひ、啞となり聾と為りて歳月を送」(「愛山の隠居を訪ひ寓居する云々」詩)るという状況だったのでしょう。(6)

幕藩体制が崩壊すると、観山の失意を詠った詩が次々に作られました。「その内容は本当に自殺するほどの勢いなんですね。「藩主をこんなひどい目に合せて申し訳ない。自分で自分を罰する」という感じで、家族も傍らに寄せ付けなかったというような詩が残っています」と加藤は講演で語っています。そして、「天下の為に外冦を憂ひ、藩主の為に遭厄を憂ひ、子弟の為に廃学を憂ふ。憂ひて已まず鬱悒」(観山先生墓表)という憂いの四重奏のなかにあった、1875年4月、観山はこの世を去ることになりました。(7)

なお、安積艮斎については、
艮斎のご子息らによって書かれた『マンガで読む儒学者・安積艮斎』(文芸社)=写真=という興味深い本が出ています。

(1)『朝日日本歴史人物事典』デジタル版、梅澤秀夫担当「安積艮斎」の項
(2) 加藤「幕末の一儒の載道精神」261頁
(3) 同上258-259頁
(4) 同上261-262頁
(5)『日本人名大辞典+Plus』(講談社デジタル版)「松平定昭」の項
(6) 加藤「幕末の一儒の載道精神」262頁
(7)加藤国安「大原観山の新資料から見る幕末、そして子規へ(下)―観山生誕二〇〇年記念―」12頁


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2020年09月14日

漢詩と子規③ 昌平黌

きのう見たように、観山の生涯についてのおよそをたどる資料はあるものの、その実情を知るには到底十分とはいえません。

そんななか、『松山市立子規博物館蔵資料目録』にある観山「詩稿」を皮切りに、後裔宅蔵本、東北大学狩野文庫蔵「観山文集」など、観山にかかわる文書の初の悉皆調査が、加藤国安によって進められています。

これまでに行われた加藤による調査によって、これまで委細がほとんど分かっていなかった昌平黌時代の観山の足跡がしだいに明らかになってきているといいます。

昌平黌=写真=というのは、各藩の藩黌とは別格で、江戸時代における国学(唯一の国立大学)というべき存在です。正式には昌平坂学問所といい、一般には“聖堂”とも呼ばれていました。

昌平

昌平黌の起こりは幕府儒官林羅山が寛永9(1632)年冬、上野忍岡の私邸に孔子廟を創建したことに始まります。羅山はここに書庫と私塾の塾舎を設けたのです。この孔子廟創建は尾張徳川家の始祖徳川義直の寄進によるもので、孔子聖像が贈られたほか「先聖殿」の3字を記した扁額も与えられたそうです。

天明7(1787)年、老中首座となった松平定信は聖堂を再建すると共に学政を改革し、新たに柴野栗山・岡田寒泉・尾藤二洲を聖堂付儒者に登用しました。寛政2(1790)年には、聖堂においては「朱子学のほか、異学を講究することを禁ずる」という、いわゆる「寛政異学の禁」を発令しました。

さらに同9年には、聖堂が林家の家塾であった名残を一掃し、新たに幕府の勘定奉行の支配下に移し、聖堂・学舎ともに旗本と御家人の子弟を教育する幕府直轄学校とし、名も「昌平坂学問所」と称することにしました。これで、昌平黌は幕府の最高学府としての地位を固めることとなります。

その後、陪臣・浪人らのためにも門を開き、この人々のための寄宿舎である「書生寮」も建てられている。歴代の儒者にも林述斎・佐藤一斎・古賀精里・尾藤二洲・古賀?庵・安積艮斎ら当代一流の学者が並び立ち、その権威が高められていきました。こうして、その規模・教課・学制などは広く全国各藩の藩黌の典範として学ばれることとなったのです。(1)

加藤の調査によれば、観山が松山藩校から昌平黌へ遊学したのは、天保9(1838)年、21歳のときでした。「倫斎翁畫卷跋」には「歳十七始寓于國學、弱冠三遊子幕學。前後殆八年」(狩野本卷一)とされ、3度だったと記されています。

一方、新出の家蔵本には「弱冠以後、遊于幕學者三四、前後殆八年」とあり、「四」を消して「三遊于幕學」と改められているといいます。つまり「三度」「八年」にわたったと考えられるわけですが、「数え方次第では四度になるとの思いもあった」と読むこともできそうです。(2)

加藤の論文「幕末の一儒の載道精神」を読んで、江戸における観山の学問の様子を窺ううえで私が特に興味をもったのは、観山の「豕書」(漢文)なる書、ならびに安積艮斎という儒者との関係についてです。

(1)村山吉広『藩校―人を育てる伝統と風土』(明治書院、1997年)129-131頁
(2)加藤國安「幕末の一儒の載道精神」(『日本中国学会報』69(2017年10月)259頁


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2020年09月13日

漢詩と子規② 大原観山

伊予松山藩儒・大原観山と言われても、知る人は多くはないでしょう。たとえば『朝日日本歴史人物事典』を覗いてみても、「正岡子規」の項目に、大岡信が「幼少時、外祖父大原観山(1875年死亡)の私塾で漢学を学ぶ」と記している程度です。(1)

ウィキペディア(Wikipedia)の「大原観山(おおはら かんざん、1818-1875)」の項目には、「伊予国出身の儒者。本名は有恒。通称は武右衛門。【人物】正岡子規の外祖父にあたる。伊予松山藩士加藤重孝の次男として生まれ、大原家の養子となる。歌原家の長女と結婚し、昌平坂学問所舎長を経て、松山藩藩校明教館教授となる。明治維新後は、私塾で孫の正岡常規(後の子規)を教えていた。亡くなるまでは丁髷を切ることはなかった。外交官、貴族院議員の加藤恒忠は3男である。【参考文献】『NHKスペシャルドラマ 歴史ハンドブック 坂の上の雲』(NHK出版、2009年)などとされています。(2)

また、ウィキペディアの「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の項には「大原観山、演:真実一路、子規らの祖父。漢学者で明治の世になっても髷を切らず、帯刀も止めなかった」とあります(3)。観山といえば一般の人たちにはせいぜい、2009年11月29日から2011年12月25日まで足掛け3年にわたってNHKで放送されたテレビドラマの特別番組『坂の上の雲』の登場人物の一人、といった印象にとどまっているのでしょう。

大原観山住居

観山の生涯の簡単な事跡は、武知五友の「観山大原先生墓誌銘」、『蕉鹿窩遺稿』の藤野海南作「観山先生墓表」などから知ることができます。その墓は、松山市の来迎寺にあります。上岡治郎によると、観山の3男、加藤拓川が1923(大正12)年3月に書いた文章には「先考(亡父観山)の歿して茲に四十有九年、……尚恒(観山の後を継いだ恒徳の子)と謀り、其の墓を山越の来迎寺に移し、将に明春を期して児孫相集まり、五十年祭を行はんとす」とあるといいます。

墓表からは、「松山文学の興こるは、文政中に昉(はじ)まる。是の時、爽粛公英邁の資を以て儒術を崇尚し、首として日下・高橋の二先生を挙げて教授となし、新たに学館を創めて人材を陶鋳す。群英ここに於て輩出せり。其の尤も粋なる粋(すい)なる者は三人、伊藤子誠・武知伯慮及び大原先生、是なり。先生は年最も少(すくな)くして尤も聡敏なれば、公と二先生は俱に奇として之を賞せり」と、観山は「年最も少くして尤も聡敏」な儒学の徒として、早くから松山で一目置かれた特別な存在であることがわかります。

墓表によれば観山は、明教館を創設した11代藩主定通公や恩師の日下伯巌・高橋復斎・歌原松陽の諸先生に認められ、天保9年、21歳で江戸の昌平黌に入ります。学ぶこと数年、学成って帰藩、藩校助教となり、教授となりました。さらに、幕末に至って藩の世子松平定昭公の側用達に任ぜられ、よく補佐して維新前後の松山藩の動向を誤まらせなかった。また観山は、性行謹厳、思慮周密、博覧強記の大教育者であり、藩校明教館の生証人でもあったといいます。(4)

一方、武知五友の「観山大原先生墓誌銘」には、激動の時代、松山と江戸とを行き来しながら「学問を通して一歩ずつ階梯をのぼり、やがて藩の重鎮になっていく様子」が次のようにつづられています。「先生、初め国学に入り、天保四年(二十一歳のとき)始めて江戸に遊び昌平黌に入る。翌年、生父の病を省して松山に還り、後又再び昌平に入り、安積艮斎の塾に及べり。前後、江戸に在ること五年、昌平黌書生寮の舎長となる。学成りて還り、府学助教に任ぜらる。安政五年、考没し家督す。慶応元年、教授に進み、明治元年、側用達に転じ、準中奥筆頭に班し、旧禄を改め更に百石を賜ふ。藩政改革せらるるに及び、漢学司教となりしも辞して免ぜらる。二年、又漢学大司教となる。…四月正月、致仕し後は門を出でずして、徒に授けらること数年、遂に臝疾に係りて不幸あり。実に明治八年乙亥三月六日なり。」(5)

(1)『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994.11)大岡信担当「正岡子規」の項
(2)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「大原観山」の項
(3)同上「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の項
(4)上岡治郎「俳聖・正岡子規を育てた外祖父・大原観山と叔父・加藤拓川」(松山市文化協会『まつやま人・彩時記』2006.3)32頁
(5)加藤国安『漢詩人子規——俳句開眼の土壌』(研文出版、2006.10)16頁


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2020年09月12日

漢詩と子規① 「師」の存在

きょうからしばらく、近代俳句の祖、正岡子規らと漢詩について考えてみたいと思います。

俳句は、現代にあっても師を重んずる文芸です。数々ある俳句結社の紹介や案内書きを見ていても、たいていは師系についての記載があります。趣味で細々と投句を続けているだけの私にしても、1991年7月から亡くなるまでわずか2年余り教えを受けただけではありましたが、山口誓子を最も影響を受けた俳句の師と仰いでいます。

その誓子はといえば、「ホトトギス」の4Sの一人とたたえられ、師をして「辺塞(へんさい)に武を行(や)る征虜(せいりよ)大将軍」と歎ぜしめた」(1)といわれるように、高浜虚子の信頼の厚き弟子でありました。

そして虚子はといえば、言うまでもなく、その師は、近代俳句を切り開いた巨星、正岡子規(1867-1902)=写真=ということになります。ならば、俳人・子規の師は、誰なのでしょう。日本の和歌や俳諧の伝統と、維新とともに堰を切って押し寄せてきた「近代」との出あう時代にめぐり合わせた子規という天性の詩人による独創、ということになるのでしょうか。

子規

そうはいっても、どんな天才といえど、その生涯をたどっていけば、その道へと導いた「師」といえる存在へと至りつくものである。たとえば、ほとんどたった一人で相対性理論という世紀の科学革命をやってのけたアルベルト・アインシュタインにしても、ヤコプという技術者の叔父が科学への扉を開く「師」の役割を受けもちました。フィリップ・フランクは次のように記している。

アインシュタインに対して初めて代数を理解させたのは、ギムナジウムの先生ではなくて彼の叔父であった。「それは愉快な科学だよ」。彼は子供にいった。「われわれが追いかけている動物がまだつかまらないときには、それを一時xと呼んで、それがつかまるまで狩を続けるんだよ」。このような教育によってアルベルトは、既成の方法を用いる代りに新しい着想によって簡単な問題を解くことに、非常に大きな喜びをみいだしたのであった。(2)

「二〇代半ばですでに堂々たる指導者の風格を備え」ており、「驚くべき短期間に俳句革新の仕事を成しとげた」(3)という子規にしても、アインシュタインの叔父さんのような、決定的な影響を人生に及ぼした師の存在がありました。子規にとっての“ヤコプおじさん”、それは外祖父の大原観山でした。正岡子規の評伝で、和田茂樹は次のように記しています。(4)
父は、明治五年三月七日大酒が原因で、三十八歳、湊町四丁目一番地の家でこの世を去った。子規が四歳、妹律が一歳であった。以後、母子家庭ではあるが、しっかり者の母と、外祖父大原観山の薫陶は、子規の人間形成の根幹となっている。……幼少の時は、体も小さく、ことばも遅く、泣き虫で、青白い水ぶくれの顔から「青びょうたん」といわれ、お能を観にいっても鼓や太鼓の音におびえて泣き、観山に叱られた子規であった。小学校入学前から、三並良とともに、観山先生に素読を教わり、毎朝五時、暗いうちからでかけた。観山は「升はなんぼたんと教へてやつても覚えるけれ、教へてやるのが楽みぢや」といって可愛がった。明治七年には「孟子」の素読を学び、「白鹿洞書院掲示」の講義を聴くなど、明教館「教則」に従っての教えをうけた。

藩第一の学者である翁の「汝程は遊ばざりし」との訓誡を、子規はいつまでも心にとめ、「学者となりて翁の右に出でんと思へり」と決意した。また、朱で添削されている観山塾の塾生の漢詩を眺め、「朱墨相交るを見て奇麗」(『筆まかせ』)と感じ早く詩を作りたいと思った。裏の畑に咲くそら豆やえんどうの花を見て、「心そゞろにうきて楽しさいはん方なし」とか、ゲンゲンの花に心を動かすなど、さりげない草花を「吾が命」と思うようになった。幼時から「赤」の色を好むなど、少年子規の美意識は、一般と異なる鋭い感受性があり、晩年の自然観はこうして醸成されていった。また文学的意欲や学者となりて翁を凌駕せんとの決意からは、多くの著作、編著への志向がうかがえるであろう。
(1)小西甚一『俳句の世界』(講談社、2001.5)314-315頁
(2)フィリップ・フランク著・矢野健太郎訳『評伝アインシュタイン』(岩波書店、2005.9)18-19頁
(3)大岡信「正岡子規」(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994.11)デジタル版
(4)和田茂樹編『新潮日本文学アルバム21 正岡子規』(新潮社、1990.4)6-7頁


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2020年09月11日

十便十宜

きのうに続いて芥川龍之介の俳句について、ちょっとだけ付け足しておきたいと思います。季節はずれですが、よく知られた龍之介の作に、

木がらしや東京の日のありどころ

という一句があります。大正6年の作。一見して、この句からは、蕪村の「凧きのふの空のありどころ」が連想されてきます。この蕪村句、私の持っている歳時記には、鷹羽狩行の次のような「鑑賞」が載っていました。

凧(いかのぼり)は紙鳶、タコのこと。「きのふの空のありどころ」とは、昨日の空があった場所という意味だが、必ずしも大空の全体を指しているのではない。一つまたは、たぶん数個の凧を背景とした空の一部分を示す。つまり昨日も今日も、同じようなところに凧があがり、その凧の背後に或る空も同じ空であるという。——凧は、いつでも風向きに応じて、天空の一隅に集まりあがっている。春風も、空も、凧を点景として、昨日も今日も変らない。万事が平穏無事、いかにも、のどかな春の気分が濃厚である。それを眺めとり、感じとった人間の心も同様であろう。

ところで志賀直哉は、芥川が自殺した直後に書いた「沓掛にて-芥川君のこと-」(1927年9月)という文章の中で、蕪村と芥川について次のように述べています。

大雅の「十便」を互いに讃め合った時、芥川君は「十便」に対し「十宜」を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある「時雨るゝや」の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の「化けさうなの傘」と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅よりは蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った。

ここで、「十便」「十宜」というのは、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜(じゅうべんじゅうぎ)帖」のことです。

十便

もともと、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩「十便十二宜詩」のうちの「十便十宜」(2つの宜の詩は見つかっていない)に拠っています。

「十便十二宜詩」は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ客の訪問を受けて、静は静であろうが不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたとされます。

これに基づいて1771年に、池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」です。画帖の中でも大雅作「釣便」=写真=は特によく知られています。

志賀の「沓掛にて」を受けて山本健吉は、「なるほど芥川は蕪村に似ている。ただ志賀の仕事の前に自分の仕事を無と観じた芥川と違って、蕪村は大雅にも芭蕉にも屈服せず、悠々と自己の自由な無礙(むげ)の世界を切り開いた大きさがあった。芥川の文学は、常に何物かに脅迫されている近代人的な弱さがある」と、『現代俳句』の中で指摘しています。


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2020年09月10日

澄江堂句集

宮沢賢治から話題は飛びますが、久々に、山本健吉の名著『現代俳句』を読み返していたら、久保田万太郎につづいて芥川龍之介の句が出てきました。

龍之介の高浜虚子に師事し、「我鬼」という俳号をもつ俳人でもありました。『澄江堂(ちょうこうどう)句集』という句集も残されています(没後の昭和2年12月に刊行)。

生涯に600句余りを作ったといわれますが、『澄江堂句集』に入っているのは77句にすぎません。「精選された珠玉の小句集」といえるのでしょう。

「澄江堂」は、1922年以降の芥川の書斎の扁額に書かれた言葉。龍之介の忌日である7月24日は、河童忌と言われることが多いのですが、歳時記では「澄江堂忌」も夏の季語とされています。

澄江

以下は、『現代俳句』からの引用です。
彼の句は古調ではあるが、近代人の繊細な神経の震動を聴き取ることができる。「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」「青蛙おのれもペンキ塗り立てか」などは彼の機智的な鋭さを伺うことができる。

「暖かや蕊(しべ)に蝋燭(らふ)塗る造り花」「蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら」「白桃や莟(つぼみ)うるめる枝の反(そ)り」などは、人工的な凝った美しさの極致である。

「明眸(めいぼう)の見るもの沖の遠花火」「遠花火皓歯(かうし)を君の涼しうす」「蛇(へび)女みごもる雨や合歓(ねむ)の花」「癆痎(らうがい)の頬美しや冬帽子」などは、彼の愛好した池西言水や初期の飯田蛇笏の怪奇趣味・頽唐(たいとう)趣味をとどめている。

「茶畠に入り日しづもる在所かな(あてかいなあて宇治の生れどす)」「薄綿はのばしかねたる霜夜かな(伯母の言葉に)」「餅花(もちばな)を今戸の猫にささげばや(一平逸民の描ける夏目先生のカリカテュアに)」「たんたんの咳(せき)を出したる夜寒かな(越後より来れる婢、当歳の児を「たんたん」と云ふ)」などは、即興のおもしろみの勝ったもの。

「お降りや竹ふかぶかと町の空」「薄曇る水動かずよ芹(せり)の中」「苔(こけ)づける百日紅や秋どなり」「松かげに鶏はらばへる暑さかな」「町なかの銀杏(いてふ)は乳も霞みけり(金沢)」などは写生的で、凝視する眼の鋭さ、的確さを感ずる。
このように述べたうえで山本健吉は「龍之介の句は特色が単調でなく、きわめて多彩である」と特徴づけています。


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2020年09月09日

もう一つの“オホーツク挽歌”⑨「ビュウティフル サッポロ」

前に書いたように、妹トシの死の悲しみを抱えた樺太旅行の翌年1924(大正13)年にも、賢治は札幌を訪れています。花巻農学校の修学旅行に同行してのことです。年譜(1)によると、5月20日(火)午後1時40分に札幌駅着。駅前の山形屋旅館に宿を取り、北大の植物園を見学。夜は希望する生徒とともに中島公園=写真=へ出かけ、ボートに乗ったり、公園音楽堂で合唱したりしました。

中島公園

翌21日(水)には朝から、サッポロビールの前身の札幌麦酒会社などを訪問し、北大で花巻出身の佐藤昌介総長の歓迎を受けます。午後は、中島公園の植民館(拓殖館)で農具を見学。石炭会社の建物を見て石炭の製造や利用について考えたりした後、苫小牧へ向かっています。この旅は、前年の樺太への「心の旅」とは打って変わって、新しもの好きの賢治のこころを浮き立たせる刺激的なものだったようです。旅行後に書いた「修学旅行復命書」では、賢治は20日の札幌の夜について次のように報告しています。

一同は電車によりて中島公園に至る。途中の街路樹花壇星羅燈影等「ビュウティフル サッポロ」の真価は夜に入りて更に発揮せられたり。一行数組に分れて端艇を借る。生徒等みな初めてオールを把れるもの、当初各艇みな蛇行す。他に市の学生の艇を操るもの数あり、皆笑ひて之を避け敢て冷罵を為すものなし (2)

また、札幌麦酒会社で、機械化されたビールの発酵技術や流れるように進むビール瓶の洗浄工程を見て驚嘆。そして、旧態依然たる東北の貧しい農業に思いを馳せて、その近代化の必要性を痛感しています。

長方形密植機の如き太陽光線集中貯蔵の設備の如き成らんか今日の農民営々11時間を労作し僅に食に充つるもの工業労働に比し数倍も楽しかるべき自然労働の中に於て之を享楽するの暇さへ無きもの将来の福祉極まり無からん。旧慣の善良を確守し勤労を習得せしむると共に之今日の農業の旧態に甘んぜしめざるを要す。(3)

賢治は、札幌市の近代的な街づくりや当時の先端的な工業や農業の技術に、これから目指していく一つの理想を見ていたと考えていいでしょう。

「本統の」百姓を目指して独居自炊の農業生活に入って1年。現実の厳しさを思い知らされての苦難の連続だったけれども、ようやく雪も解け、春が近づいてようやくホッと、つかの間のゆとりの時間をもつことができた。そんなとき久しぶりに、あの、最愛の妹トシの死、そしてあの「ビュウティフル サッポロ」で見かけた開拓紀念碑のことが、ふっと頭に浮かびあがってきて「札幌市」は生まれたのではないでしょうか。

賢治の生活の拠点になったのは、生まれ育った岩手県の花巻でした。それから、思うところあって故郷を飛び出し、あるいは妹トシの看病のためにと、何度も東京の地を踏んでいます。それからもう一カ所。これまで見てきたように、詩「札幌市」やオホーツク挽歌詩群、「銀河鉄道の夜」など、主要な作品を生んだ創作の舞台としての北海道も賢治の人生にとって重要な意味を持つ地と位置づけられます。

そんな北海道の中心地、札幌市はいまでこそ全国の市の中で4番目の200万人近い人口をもつ、道内では突出した大都市ですが、賢治が訪れたころは函館市よりも人口が少ない、開拓途上の新興都市でした。

札幌の名の語源については、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペッ」(その葦原が・広大な・川)とする説と「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた・大きな・川)とする説などがあります。アイヌの人たちが住んでいた蝦夷(えぞ)地は、明治2年(1869年)に北海道と改称されて、開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まりました。判官・島義勇(しまよしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれています。

明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植。死んだトシとの通信を求めた北海道・樺太へ旅の前年、大正11(1922)年に「市制」が施行されています(4)。市制施行時の人口は1270441人とされています(5)

詩「札幌市」の舞台、かなしさをきれぎれ、青い神話にして撒いた「開拓紀念の楡の広場」があったと考えられる大通公園は、札幌市の中心部に位置し、大通西1丁目から大通西12丁目までの長さ約1.5キロ、面積約7.8ヘクタール。ライラックやハルニレなど92種、約4700本の木々に囲まれた、散歩にランチと、札幌市民が憩うオフィス街のオアシスとなっています。

1871(明治4)年、中心部を北の官庁街と南の住宅・商業街とに分ける大規模な火防線がつくられました。これが大通公園のはじまりです。1875(明治8)年ごろからは多目的に利用されるようになり、1878(明治11)年には第一回農業仮博覧会が開催された。1909(明治42)年、造園の権威であった長岡安平を東京府より招き、整備計画を依頼。現在の大通公園の原型が整えられました。(6)

揺れる列車という閉ざされた空間のなかで改めて、ふつふつと湧きあがってきた妹トシの死に対する悲しみ。飽和状態に達していた思いを、10年ぶりに足を踏み入れた憧れの北海道の開放感に触れて、思いっきり撒き散らしてみたくなった。 でも、そんなことをしても、まだまだとうてい、飲み込んでしまえるようなものではなかったのでしょう。「上方へ」と妹の魂を追い求める旅はまだ、やっと北の大地への一歩を踏み出したばかりだったのです。

自活自炊。苦難の農業の実践活動の中、ふと浮かんだ夢の街である「ビュウティフル サッポロ」と同時に、思い出されてきた自分より先に逝ってしまった妹トシへの痛恨の思い。ある日それらへの思いが結晶して、「ただかなしいだけである。……このかなしさは深い深い宿命からきている」と草野心平を間道せしめた珠玉の一篇が生まれたのではないでしょうか。

宮沢賢治の「1019 札幌市」は、『春と修羅・第3集』の草稿に収められ、賢治が30歳だった「一九二七・三・廿八・」の日付があります。だが、実際にはその4年前の1923(大正12)年8月、亡き妹トシの魂との交感を求めて出かけた北海道・サハリンへの旅における「心象スケッチ」でありました。それから4年、新たな生活へとあえて挑みはじめた賢治の脳裏にふとよみがえった記憶を結晶させた「もう一つのオホーツク挽歌」が、この作品であったのです。

(1)『【新】校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』271頁
(2)『【新】校本宮澤賢治全集 第14巻 雑纂 本文篇』(筑摩書房、1997年4月)63頁
(3)同64頁
(4)Webサイト「札幌市のあらまし」
(5)札幌市教育委員会編『新札幌市史 第八巻Ⅰ 統計編』(札幌市、平成12年2月)
(6)公益財団法人 札幌市公園緑化協会「大通公園」


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2020年09月08日

もう一つの“オホーツク挽歌”⑧ 羅須地人協会

これまで見てきたように賢治の「札幌市」は、トシの魂をもとめた1923(大正12)年8月の北海道・サハリン旅行途上の出来事が素材になっていることが分かりました。しかし、「札幌市」は、この旅の間の作品を入れた『心象スケッチ 春と修羅』(大正13年刊、一般に『春と修羅 第1集』と呼びならわされている)には掲載されていません。

賢治が開拓紀念碑の前に立ったと考えられる同年8月1日の日付がある作品は同集中の「青森挽歌」であり、補遺の「青森挽歌 3」と「津軽海峡」です。「札幌市」はどういうわけか、この旅から4年後の1927(昭和2)年3月28日が付き、未刊の草稿として残された『春と修羅・第3集』のちょうど真ん中あたりの32番目に出てくる作品として位置づけられています。

賢治は、『春と修羅 第1集』刊行後、「詩集として刊行が意図され、作者自身「序」まで書いていながら、ついにその実現を見なかった」(1)という『春と修羅 第2集』用の草稿を100篇以上残していますが、『第1集』及び補遺のオホーツク挽歌群以降、トシの死に対する悲しさをうたったのは「札幌市」だけです。ここでは、「札幌市」の1927(昭和2)年3月28日ころの賢治について検討しつつ、『第3集』に「札幌市」を入れようとした賢治の意図に迫ってみたいと思います。

「札幌市」の日付の1年ほど前の1926年3月末で賢治は、花巻農学校を依願退職しました。そして、翌月の4月1日には、豊沢町の実家を出て、下根子桜の別宅で新しい農業実践のため、独居自炊の生活に入っています。ちょうど30歳の節目の年でした。

 羅須地人

教え子20人余りと北上川沖積地の開墾など農業の実践活動を推進するとともに、レコードコンサートや楽器の練習会など文化活動にも取り組み、“美しき村”づくりに挑みました。いわゆる「羅須地人協会」=写真=です。4月1日付の岩手日報の記事のなかで、賢治は次のように語っています。

現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大学あたりで自分の不足であった「農村経済」について少し研究したいと思つてゐます。 そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち芸術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈会の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月1回位はもよほしたいとおもつてゐます。 幸同志の方が20名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです。(2) 

「札幌市」の前日「1927、3、27、」の日付があるのは次の詩です。

  1017 開墾

野ばらの藪を、
やうやくとってしまったときは
日がかうかうと照ってゐて
そらはがらんと暗かった
おれも太市も忠作も
そのまゝ笹に陥ち込んで、
ぐうぐうぐうぐうねむりたかった
川が一秒九噸の針を流してゐて
鷺がたくさん東へ飛んだ (3)

このように、『第3集』では、それまでの自然との交わりが言葉になっていくという詩の特徴は薄れ、代わりに農作業の実践活動が詩の前面に出て、自然は労働の対象として描かれるようになっていました。とはいえ、東北の農村の現実と、賢治の抱いた理想の間には大きなギャップがありました。

賢治の健康がままならないこともあり、羅須地人協会の運営は当初からはままなりませんでした。トシへの思いが込められた「札幌市」は、まさに異例の一篇だったのです。そうした詩の中にすっと現れる、ひときわ詩的感性に富んだ鋭い輝きを放つ作品が「札幌市」ということになるわけです。

(1)『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、2003年10月)704頁
(2)『【新】校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』311-312頁
(3)『宮沢賢治全集2』66頁


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2020年09月07日

もう一つの“オホーツク挽歌”⑦ 青い神話

貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
  
揺れる貨物列車の振動の中にいるときでのことでしょうか、詩人は、この詩「札幌市」のなかで、妹の死に起因するのであろう「湧きあがるかなしさ」を「きれぎれ青い神話に変へ」ます。この「青」のイメージは、賢治の詩や童話にはしばしば顔を見せる。中でもトシと詩人の間においても特徴的な彩りを放っています。

湖の青

死期が迫ってきたトシの様子が描かれた「永訣の朝」では、妹の《あめゆじゆとてちてけんじや(あめゆきとってきてください)》の願いに、「まがつたてつぽうだまのやうに」飛びだしたときに手にした「ふたつのかけた陶椀」には「青い蓴菜(じゅんさい)のもよう」がついていました。そして、「わたしくしのけなげないもうと」は、

あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる(1)

のでした。「われらが上方とよぶその不可思議な方向へ」と、トシとの交信を求めて樺太へ向かう旅から生まれた「青森挽歌」には、

亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち(2)

と、妹は、まっ青になって詩人の前に立ちあらわれます。そして、「オホーツク挽歌」には、

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない(3)

というように、頻繁に登場してきます。さらに、「碧」や「蒼」という漢字も出てきます。詩人は「青森挽歌」で、失ったトシを追って「上方とよぶ方角」へと、「大循環の風よりもさはやかに」のぼつて行き、「そこに碧い寂かな湖水の面をのぞ」みます。その湖水は「碧い」のです。「鈴谷平原」の冒頭、

蜂が一ぴき飛んで行く
琥珀細工の春の器械
蒼い眼をしたすがるです(4)

に出てくる蜂の眼は「蒼い」色をしています。「オホーツク挽歌」では、

海面は朝の炭酸のためにすつかり錆びた
緑青のとこもあれば藍銅鉱のこともある(5)

と海の色の変化を書き分けているうえ、

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ(6)

とも詠っています。「青」は愛する妹トシの象徴的な色あいであり、また、あるときは「緑青」であり、あるときは「天の青」となる、オホーツクの海面のように微妙に表情を変える存在だったかもしれません。「札幌市」のなかに出てくる

湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて

という「青」。地上を去った妹を追いもとめた旅の途上、詩人はその悲しみを、脳裏に脈絡もなく浮かび上がってくる楽しかった妹の思い出、すなわち「青い神話」に変えようともがいていたのでしょうか。

「札幌市」に出てくる「青い神話」が、もしもトシとの思い出のことだったとするのなら、その死による「湧きあがるかなしさ」を、オホーツクの海のように微妙に色取りの違う「青」をした、きれぎれの思い出に変えた、ということなのでしょうか。

それとも、賢治が「青宝石」や「青宝玉」として星の比喩などによく使った、青色透明なサファイアのような色をした「神話」だったのでしょうか。

(1)『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、2003年10月)158頁
(2) 同184頁
(3) 同192-193頁
(4) 同202頁
(5) 同189頁
(6) 同192-193三頁


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2020年09月06日

もう一つの“オホーツク挽歌”⑥ 銀河鉄道

萩原昌好氏は、賢治のサハリン旅行の行程を実際に現地まで行って調べ、この旅と『銀河鉄道の夜』とが抜きさしならないほど結びついていることを、特に星座図との関係に注目しながら解明しています(1)。これを頼りに、まずは、そもそもどうしてサハリンを旅先に選んだのかを検討してみましょう。
 
なぜ通信が許されないのか
許されてゐる そして私のうけとつた通信は
母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう
それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅〈うすもの〉をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた(2)
 
ここにあげたのは、サハリンへの旅を中心に作られた「オホーツク挽歌詩群」と呼ばれる一連の詩の一つ〈青森挽歌〉の一節です。

この中に「われらが上方とよぶその不思議な方角へ」という一行があります。賢治はこれを、トシの魂の行方と一致する方角と定めていたと萩原氏はみています。

「われら」を含めた人間が「上方」と呼ぶのは、天の上方。星座の天球上の位置からすれば、緯度のより高い地点を志向したと考えられます。当時の日本の最も北方、それはサハリンにほかなりませんでした。

銀河鉄道

そして賢治は、自分が乗っている地上の列車の時刻と天上の星座の位置、さらに『銀河鉄道の夜』の時刻とを一致させるような仕掛けを用意したと荻原氏はいうのです。『銀河鉄道の夜』には、「白鳥の停車場」に着くつぎのような場面があります。 
「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」
「あゝ、11時かっきりには着くんだよ。」
早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、2人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの2本の針が、くっきり11時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。
〔20分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見やうか。」ジョバンニが云ひました。
「降りやう。」2人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いてゐるばかり、誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。
2人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏の木に囲まれた小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通ってゐました。
このなかにある「11時かっきりには着くんだよ」はなぜ11時かっきりなのか。荻原氏によれば、出発の日、賢治が乗ったと予想される花巻発午後9時59分の列車の時刻表にはまさに11時かっきりに着く駅があり、それは盛岡駅だった。そして、その日時の星座図を調べると、盛岡の天頂には白鳥座がかかっていたことがわかった。さらに「上方」へとたどっていった最終的な到達地点、当時の日本の鉄道の最北端、サハリン・栄浜の白鳥座の位置についても同じようなことがうかがえるというのです。

つぎに、旅でたどり着いた栄浜で作られたと考えられる詩〈オホーツク挽歌〉の一部をあげます。
  
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が
ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
波はなんべんも巻いてゐる
その巻くために砂が湧き
湖水はさびしく濁つてゐる
 (11時15分、その蒼じろく光る盤面)
鳥は雲のこつちを上下する
ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
砂に刻まれたその船底の痕と
巨きな横の台木のくぼみ
それはひとつの曲つた十字架だ(3)
 
ここに出てくる「(11時15分、その蒼じろく光る盤面)」の11時15分について萩原氏は『銀河鉄道の夜』の「青く灼かれたはがねの2本の針が、くっきり11時を指し」た時計の盤面と深く関係があるとみます。

調べてみると、賢治が栄浜を歩いていたと予想される午後11時15分にも天頂には白鳥座があったというのです。しかも見上げているのは白鳥湖のそば。天と地の「白鳥」が重なる奇跡的な時間でした。

8月3日午後6時20分に栄浜に着いた賢治は、旅館で旅装を解いて夕食でもとり、栄浜白鳥湖まで、お題目を唱えながら歩いた。夜半になり白鳥座と白鳥湖とが出あう時間が来ました。

『銀河鉄道の夜』の「〔20分停車〕」という記述に注目した萩原氏は「恐らく20分間くらい、彼は天頂に達したときの白鳥座に祈り続けたのであり、それまでも、海岸線に沿って歩きながら祈った」と想像しています。

オホーツク挽歌詩群が、夜汽車の中で書かれた作品から始まっていて『銀河鉄道の夜』とイメージが重なることや、サハリンに「白鳥の停車場」を連想させる白鳥湖もあることから「銀河鉄道の夜のモデルは、オホーツク挽歌の旅だというのは完全に定説になった」といいます。

賢治はこの「上方」を、トシの魂の行方と一致する方角と定めていたとみているわけです。オホーツク挽歌詩群と呼ばれる名作が生まれ、『銀河鉄道の夜』という時空を超えた壮大な物語へと発展しました。

「われら」を含めた人間が「上方」と呼ぶのは、天の上方。星座の天球上の位置からすれば、緯度のより高い地点を志向したと考えられます。これまで見てきたように、当時の日本の最も北方、それはサハリンにほかなりませんでした。

賢治は、旅で自分が乗っている地上の列車の時刻と天上の星座の位置、さらには『銀河鉄道の夜』の時刻とを一致させるような仕掛けを作っていたわけです。天上の座標軸に従いつつ、トシの魂の行方である「上方」へと向かう旅の途上で立ち寄った札幌市。そこで味わった「湧きあがるかなしさ」。それは、まさしく8カ月前に賢治を襲った最愛の妹トシの死に起因しているのです。

(1)以下、この節は、サハリンへの調査結果などをまとめた萩原昌好氏の労作『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』の内容からの引用である。
(2)『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、2003年10月)182-183頁
(3)同193頁


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2020年09月05日

もう一つの“オホーツク挽歌”⑤ トシ

これまで見てきたように、賢治の「札幌市」は、1923(大正12)年8月、花巻農学校の生徒の就職依頼のためのサハリン旅行の途上での「心象スケッチ」といえそうです。ならば、この旅の目的は何で、どのような性格のものであったのか、次に検討していきます。

前述したように、賢治の樺太旅行の表向きの目的は、卒業をひかえていた農学校の教え子、瀬川嘉助と杉山芳松の就職を斡旋するためであったとされています。樺太の大泊町にあった王子製紙株式会社樺太分社に、盛岡中学、盛岡高等農林と賢治と同窓の細越健が勤めていたのです。

しかし、この旅は「精神的には一連の〈挽歌〉群から推察されるとおり、亡くなった妹トシ=写真=との交信を求める傷心旅行」(1)の性格が強かったものと考えられています。トシの死がおとずれたのは、この旅の8カ月前、1922(大正11)年11月27日のことでした。そのとき賢治は26歳でした。

トシ

けふのうちに
とほくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)(2)

ではじまる有名な詩「永訣の朝」などに結晶したトシの死の瞬間は、近親者への聞き書きなどから、かなり詳しく記録として残されています。次にあげるのは、【新】校本宮澤賢治全集の年譜にある注からの引用です。
27日朝からみぞれ。8畳に寝泊りしているつきそいの細川キヨが炭火をまっ赤におこし、火鉢にうつして部屋をあたため、藤本看護婦が蚊帳に入って脈をはかる。トシの脈は10秒に二つしか打たない。健康な人なら10秒に十二、三打つ。キヨがだれよりも先に2階にいる賢治へしらせ、賢治はすぐ仲町の藤井謙蔵医師へ電話、まもなく羽織袴の医師の来診があって危険がしらされた。
家中が緊張し、やせて、白くとがったおとがいにも黒い長い髪のまとわり つくトシを見守っている。トシはみぞれを兄にとってきてもらってたべ、そえられた松の針ではげしく頬を刺し、「ああいい、さっぱりした、まるで林のながさ来たよだ」とよろこぶ。
トシは幼少から父の自慢の子であった。新しい婦人の生き方にも関心深か った父は、母校の教諭になった娘を誇らしく思っていた。その愛娘がながい闘病生活にあえぎ、いま死へ向かおうとするのを見ては、哀れで言うすべもなく、思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。
トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」と答える。また母は愛情の籠ったことばで娘をなぐさめる。
夜、母の手で食事したあと、突然耳がごうと鳴って聞こえなくなり、呼吸 がとまり、脈がうたなくなる。呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索めるように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。トシは二へんうなずくように息をして彼岸へ旅立った。8時半である。
賢治は押入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き、母はトシの足元のふ とんに泣きくずれ、シゲとクニは抱きあって泣いた。岩田ヤスが「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた。(3)
最愛の妹トシを失った翌年夏のサハリンへの旅は、7月31日にはじまりました。ナーサルパナマの帽子、真白のリンネルの背広、渋いネクタイ、赤革の靴という賢治らしいいでたち。黒皮のカバンには、いつものようにシャープペンシルとノートが入っていました。その後の旅程は、年譜(4)によると、ざっと次のようなものだったといいます。

8月1日(水) 青函連絡船で津軽海峡を渡り、5時間で函館に到着。札幌へ滞在の後、夜行列車で旭川へ。
2日(木) 早朝、旭川につき、ついで上川農事試験場を訪ねたか。その後急行ならば約八時間乗車、稚内より樺太大泊行連絡線にのる。
3日(金) 稚内より宗谷海峡をわたり樺太亜庭湾の大泊港まで約8時間。大泊町、王子製紙株式会社樺太分社に細越健を訪ね、教え子の就職を依頼。
4日(土) 栄浜に赴いたと推定される。大泊から豊原、栄浜へ到る樺太庁鉄道線の東海岸線にのり樺太庁所在地豊原町へ向かう。大泊港―栄町―大泊―楠渓町―一ノ沢―三ノ沢―貝塚―新場―中里―豊南―大沢の各駅を経ること2時間で豊原駅につく。豊原より北豊原―草野―小沼―富岡―深雪―大谷―小谷―落合を経て栄浜。これを利用した可能性もある。海岸での時計は午前11時15分を示すと〈オホーツク挽歌〉には書かれている。
7日(火) 鈴谷平原は、鈴谷岳を中心として旭ヶ丘(樺太神社がある)、豊原公園をふくむ一帯で、樺太八景の一つ。ここで植物の採集を行ったようである。
11日(土) 未明、左に内浦湾(噴火湾)を走る車中に疲れはてて函館に近づこうとする。函館より連絡線で青森へ。
12日(日) 盛岡より徒歩で帰花。

(1)『【新】校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』257頁
(2)『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、2003年10月)156頁
(3)『【新】校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』246-247頁
(4)同257-259頁


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2020年09月04日

もう一つの“オホーツク挽歌”④ 北海道旅行

宮沢賢治は明治29(1896)年に現在の岩手県花巻市に生まれ、昭和8(1933)年に37歳で亡くなっている。短い人生のなかで賢治は三度、北海道を訪れている。新校本全集の年譜(1)によると、それらは、次のような日程であったと考えられます。

①1913(大正2)年5月、盛岡中学5年生のときの修学旅行
・5月21日(水) 矢口・尾形・毛馬内教諭引率のもとに、5年生一同とともに北海道修学旅行へ出発、午後10時盛岡駅発の列車で青森へ向かう。雨。
・5月22日(木) 午前7時青森着。9時半連絡船出航、午後2時函館着。五稜郭・中学校を見学し函館泊り。晴。
・5月23日(金) 朝、函館ドックを参観後、9時40分発列車で午後10時小樽着。晴。
・5月24日(土) 小樽高商見学。午前10時半発、11時半札幌着。札幌農科大学・博物館・ビール会社・製麻会社見学。晴。
・5月25日(日) 午前5時札幌発、6時半岩見沢着。7時5分発にのりかえ10時29分白老着。アイヌ部落を見学。午後2時白老出発、3時半頃室蘭着。製鋼会社見学。曇。
・5月26日(月) 午前3時半、風吹丸に乗船、室蘭出航、11時半大沼着。公園遊覧。曇。
・5月27日(火) 午前3時20分大沼発、4時半函館着。6時出航。青森10時15分着。午後2時50分発列車にのり、盛岡へ9時22分に着いた。

②1923(大正12)年8月、花巻農学校の生徒の就職依頼のためのサハリン旅行の途上
・7月31日(火) 青森・北海道経由樺太旅行へ出発。農学校生徒瀬川嘉助、杉山芳松の就職を樺太の大泊町、王子製紙株式会社樺太分社勤務の細越健に依頼する目的があったが、精神的には一連の〈挽歌〉群から推察されるとおり、亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行である。ナーサルパナマの帽子、真白のリンネルの背広、渋いネクタイ、赤革の靴といういでたちで、黒皮のカバンに例によりシャープペンシルにノート。
・8月1日(水) 〈青森挽歌〉〈青森挽歌 三〉〈津軽海峡〉
 青函連絡船で津軽海峡を渡り、五時間で函館に到着。札幌へ向かい、急行ならば六時間半で到着。札幌から旭川へ夜行列車にのったと推定。
・8月2日(木) 〈駒ヶ岳〉〈旭川〉〈宗谷挽歌〉
 詩〈旭川〉によって早朝、旭川についたと推定される。ついで上川農事試験場を訪ねたか。その後急行ならば約八時間乗車、稚内より樺太大泊行連絡船にのる。雨、霧が降っている。
・8月3日(金) 稚内より宗谷海峡をわたり樺太亜庭湾の大泊港まで約8時間。大泊町、王子製紙株式会社樺太分社に細越健を訪ね、教え子の就職を依頼。
・8月4日(土) 〈オホーツク挽歌〉〈樺太鉄道〉
 〈オホーツク挽歌〉により栄浜に赴いたと推定。大泊から豊原、栄浜へ到る樺太庁鉄道線の東海岸線にのり樺太庁所在地豊原町へ向かう。大泊港―栄町―大泊―楠渓町―一ノ沢―三ノ沢―貝塚―新場―中里―豊南―大沢の各駅を経ること2時間で豊原駅につく。豊原より北豊原―草野―小沼―富岡―深雪―大谷―小谷―落合を経て栄浜。さらに海岸荷扱所(栄浜から約1600メートル)までは、旅客線ではないが当時5銭で「便宜旅客」を扱い乗車できたというので、これを利用した可能性もある。海岸での時計は午前11時15分を示すと〈オホーツク挽歌〉には書かれている。
・8月7日(火) 〈鈴谷平原〉
 鈴谷平原は、鈴谷岳を中心として旭ヶ丘(樺太神社がある)、豊原公園を含む一帯で、樺太八景の一つ。ここで植物の採集を行ったようである。
・8月11日(土) 〈噴火湾(ノクターン)〉
 未明、左に内浦湾(噴火湾)を走る車中に疲れはてて函館に近づこうとする。函館より連絡船で青森へ。青森から盛岡へ約6時間である。
・8月12日(日)盛岡より徒歩で帰花。

③1924(大正13)年5月、花巻農学校修学旅行の生徒引率 
・5月18日(日) 〈106〔日はトパーズのかけらをそゝぎ〕〉
 午後10時白藤慈秀と共に生徒を引率し、北海道修学旅行へ出発。帰着後「〔修学旅行復命書〕」を提出。20日、21日の時刻、日程はこの復命書の記載による。
・5月19日(月) 〈116 津軽海峡〉〈118 函館港春夜光景〉
 青森より連絡船で函館。過燐酸工場と五稜郭を見学し、公園で自由解散して小憩後、再び乗車、小樽へ向かう。一行は2晩車中で過すのである。
・5月20日(火) 午前九時小樽駅着。小樽高等商業学校参観。10時半辞し小樽公園で40分解散。午後0時半小樽駅出発。1時40分札幌駅着。駅前の山形屋旅館に宿泊を約し北海道帝国大学付属植物園に到る。同園博物館を参観、夕刻まで休息。夜、白藤慈秀は市内に講演の約束があってそちらへ赴き、賢治は希望者を引率し中島公園へ出かけ、生徒ははじめてボートにのる。後、公園音楽堂で合唱し、狸小路を過ぎて、9時半帰宿。
・5月21日(水) 午前七時半山形屋を出、札幌麦酒会社へ行く。ついで帝国製麻会社で講演をきき茶菓の接待をうける。奇数日は社則で参観を許さないのである。10時半北海道帝国大学に至り、佐藤昌介(花巻出身なので旅行出発を延期して待っていてくれた)の歓迎をうけた。賢治は答礼し、生徒は学生食堂で菓子・牛乳を供される。ついで中島公園の植民館で農具を見学。停車場で向かう途中北海道石鹸会社の建物を見、石灰岩抹の製造、使用を考え、ガイドをつとめてくれた北大の学生に感謝の「行進歌」を合唱し、午後4時3分またもや車中の人となる。石狩川を見、樽前火山を望み、8時苫小牧に着、駅前の富士館に宿泊。
・5月22日(木) 〈123 馬〉〈126 牛〉
 苫小牧の製紙工場を見学し、白老、室蘭を経て帰途につく。白藤慈秀の日記によれば白老午後3時発、室蘭4時着、5時室蘭発だが、室蘭―青森間連絡船時刻表では室蘭5時ちょうど発で青森へは翌朝4時20分着。

このようになっています。それでは、「札幌市」の舞台となっている札幌市・大通公園のものと考えられる「開拓紀念の楡の広場」を賢治が目にしたのは、これらのうちのどれだったのか、考えてみましょう。

オホーツク

まず、①の賢治16歳、盛岡中学5年生のときの修学旅行の際に、「湧きあがるかなしさ」を抱えて、ひとり「開拓紀念」の碑の前に立ったということは考えづらそうです。年譜からすればこのとき、賢治ら修学旅行生たちは5月24日11時半に札幌へ着いていますが、札幌農科大学・博物館・ビール会社・製麻会社の見学をして翌日早朝には札幌を発つという過密なスケジュールにあっては、大通公園を散策する時間を取れたとは思えません。

次に、単独で、北海道からサハリンへと渡った②を検討してみます。『校本 宮澤賢治全集』の年譜によれば「午前12時半発連絡船で海峡を渡り、5時函館に上陸。札幌へ向かい、急行ならば6時間半で到着。午後から夜を過ごしたと推定。札幌から旭川へ夜行列車にの」った(2)と推定されるそうです。また、奥田弘氏によれば「当時の列車時刻表を操ってみると、ダイヤの関係から、賢治は、午前4時55分、第3列車で旭川駅につ」(3)いたと考えられるといいます。これらからすると、函館から急行に乗れば、午前11時半ごろ札幌に到着したことになります。

「札幌市」の2行目に「貨物列車のふるひのなかで」とある。当時は客車が満員の場合、臨時で貨物列車に乗り合わせることもあったそうですが(4)、仮に、貨物連結の鈍行列車だったとしても、午後3時ごろには札幌に着いていたと見る事ができそうです。これらを合わせて考えると、少なくとも午後3時ごろから翌日午前4時ころまで13時間程度は、札幌で自由な時間が持てたことになります。札幌駅から大通公園の開拓紀念の碑まで歩いても15分もあればたどり着けますから、列車の乗り換え時間を利用してぶらりと訪れても決して不思議ではありません。

それでは、1924(大正13)年5月に花巻農学校修学旅行の生徒引率で訪れた③のケースはどうでしょう。5月20日午後0時半に小樽駅出発した一行は、1時40分札幌駅着。駅前の山形屋旅館に宿泊を約し北海道帝国大学付属植物園博物館を参観して夕刻まで休息。夜は中島公園へ出かけ、狸小路を通り9時半に帰宿。翌21日には午前7時半の旅館を出て、札幌麦酒会社、帝国製麻会社、北海道帝国大学などぎっしり行事予定が組まれ、午後4時3分、車中の人となっています。20日午後の空き時間などに大通公園に立ち寄った可能性はありますが、生徒引率という制約を考えると疑問が残ります。

ところで、石本裕之氏の調査では、札幌管区気象台によると、②のケースである1923(大正12)年8月1日は、晴れのち曇り、最低気温13.1度~最高気温23.1度。「曇り」は空全体に及ぶものではなかった。③のケースの1924(大正13)年5月20日、晴れ、13.1度~23.1度。大変いい天気で朝晩は冷え込んだ。また、「札幌市」に付いている日付である1927年3月28日の天気は盛岡地方気象台によると、花巻の雨量はゼロ、花巻と天候が変わらない盛岡は晴れで、最高気温8.8度、最低気温マイナス4.4度だったといいます(5)

「札幌市」の冒頭に一行の「遠くなだれる灰光と」、さらには下書稿に「遠くなだれる灰光のそらと」(6)とあるのに最もあてはまりそうなのは、1923(大正12)年8月、花巻農学校の生徒の就職依頼のためのサハリン旅行の途上で、ということがわかります。

(1)『【新】校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房、2001年12月)
(2)『校本 宮澤賢治全集 第14巻 補遺・補説・年譜・資料』(筑摩書房、1977年10月)561頁
(3)『新修宮沢賢治全集 第2巻 詩Ⅰ』(筑摩書房、1979年1月)月報2「イーハトヴ地理2 北海道」
(4) 石本裕之『宮沢賢治イーハトーブ札幌駅』(響文社、2005年8月)11頁
(5) 同15頁
(6) 『【新】校本宮澤賢治全集 第4巻 詩Ⅲ 校異篇』184頁


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2020年09月03日

もう一つの“オホーツク挽歌”③ 開拓紀念碑

「札幌市」を一行で書けば、「遠くなだれる灰光と貨物列車のふるひのなかで、わたくしは湧きあがるかなしさをきれぎれ青い神話に変へて、開拓紀念の楡の広場に力いっぱい撒いたけれども、小鳥はそれを啄まなかった」ということになります。

つまり、内容的には、「湧きあがるかなしさ」を「開拓紀念の楡の広場に力いっぱい撒いた」というのがこの作品の骨格というわけです。そして、この作品の舞台はといえば、題名からして「札幌市」の「開拓紀念の楡の広場」ということになりそうです。

それでは「開拓紀念の楡の広場」とはどこにあるのでしょう。それとも、想像上の産物にすぎないのでしょうか。どちらか確定はできませんが、目に入るもの、耳に入るものを、五感の全てを開放して、完全な受容体となる、という前述した賢治の「心象スケッチ」の姿勢からすれば、賢治が訪れて実際にこの広場に立ったと考えたほうが合理的です。

また、新校本全集の「校異篇」からすると、「開拓紀念の楡の広場に」の「楡の広場に」は、もともと「石碑の下に」と記されていたことがわかります(1)。とすれば、賢治は「開拓紀念の石碑」を見た可能性がありそうです。

札幌市の開拓を記念した石碑は、中島公園など何か所かにあります。その近くに住んでいたことのある私がまず思いつくのは、札幌の中心、市民や観光客の人通りが絶えない大通公園にある「碑」、すなわち中央区大通西6丁目にある「開拓紀念碑」です。

碑には、明治19年9月偕楽園に建立、明治32年この地に移転、とあります。賢治の「札幌市」の舞台がこの碑の前を有力と考える理由に「紀」があります。何かを記念する石碑というと、日本ではふつう「記念碑」と書きます。「札幌市」では、大通公園のと同じ「紀」を使っているのです。

開拓紀念碑

高さ6メートル以上あるか。まるで、北アルプスの槍ヶ岳の頂上のように、険しいとんがりがあるのが印象的な碑です。碑の裏には、明治19(1886)年9月とあります。当時は、札幌市の最初の都市公園、偕楽園(北区北6西7)に建てられました。しかし台座が損傷したため、補修を兼ねて、明治34(1901)年に大通公園(当時は、火防線の公的土地)に移設。現在に至っています。

それでは、「開拓紀念碑」銘の五つの文字はいったいだれが書いたのか。

1958年刊の『札幌市史 産業経済篇』に「文字は、榎本武揚の書ともいわれる」と記されてからは、函館五稜郭で官軍に抵抗した後、明治政府で北海道開発に従事した榎本武揚の書というのが定説になっていました。が、近年の札幌市の調査で、実は、中国・東晋時代の政治家、書家である王羲之(303-361)の筆であることが判明しました。明治19年9月8日付の『時事新報』(慶應義塾発行)を北海道大学図書館所蔵のマイクロフィルムによって調べたところ、次のような記述が見つかったからです。

今度北海道札幌に建設すべき開拓紀念碑は、地盤より高さ二十一尺八寸五 分にして、地盤十尺八寸、碑石の大きさ三尺二寸五分角、長さ十二尺一寸五分なりと。またこれが前に石造の眼鏡橋を架し碑面には開拓紀念碑の五大文字を彫鐫(ちょうせん)せり。右文字は菱池奥並継(おくなみつぐ)翁が拓字法を用いて、淳化秘閣帖(じゅんかひかくじょう)中黄庭経(こうていきょう)及び曹娥(そうが)碑中の字を取りて、四百倍の大きさに書したるものなるが、点画、筆力等、真に王右軍(おううぐん)の真蹟に髣髴(ほうふつ)たりと。右建設の費額は金三千円を要し、北海道有志者の義捐金を以って成り立ちたるもののよし。

記事に出てくる「右軍」とは、右軍将軍であった王羲之の官名の尊称。黄庭経は老子の不老長寿の養生訓で、曹娥碑は水死した父の屍を求めて入水した娘・曹娥にまつわる石碑です。これら二つの拓本から五文字をひろって、元開拓使官吏の奥並継が字を400倍に拡大したというのです。東京国立博物館のウェブ上に公開されている曹娥碑の拓本、および、書家・鎌田舜英氏のホームページにある「黄庭経」の臨書、拓本を「開拓紀念碑」の文字と比較してみたところ、独特の隷書の書体が合致することがわかったといいます。(2)

こうして見てくると、旅行者にも目につきやすい、大通公園という札幌市の中心部の六メートルを越す大きな石碑である点、さらに中国的な「紀念」という文字などから、「札幌市」の舞台はこの地である可能性が高そうです。

(1) 『【新】校本宮澤賢治全集 第4巻 詩Ⅲ 校異篇』(筑摩書房、1995年10月)105頁
(2) 札幌市文化資料室「文化資料室ニュース」2007年2月号


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2020年09月02日

もう一つの“オホーツク挽歌”② 心象スケッチ

賢治が生前残した詩集は『春と修羅』一冊だけです。1924年(大正13)4月、関根書店刊。序詩につづいて「屈折率」(1922年1月6日)から「冬と銀河ステーション」(1923年12月10日)まで64編が、日付(発想または第一稿成立の)順に収められています。

ここで「詩集」としましたが、正確に言うと賢治は『春と修羅』を詩集とはいわず、「心象スケッチ」集と位置付けています。「心象スケッチ」は、賢治作品をよむうえで注意を要するキーワードと考えられるため、論考の前にまず、この概念について検討しておくことにします。賢治は、心象スケッチについて、森佐一あての手紙の中で次のように記しています。

前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考えを主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。「春と修養」をありがたふといふ葉書も来てゐます。出版社はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくものでした。亦恥かしかったのでブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山あります。(1)

心象スケッチ

次にあげるのは、『春と修羅』の「小岩井農場」という800行を超える心象スケッチの冒頭部分です。

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによく肖にたひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりおとなしい農学士だ
さつき盛岡のていしやばでも
たしかにわたくしはさうおもつてゐた
このひとが砂糖水のなかの
つめたくあかるい待合室から
ひとあしでるとき……わたくしもでる
馬車がいちだいたつてゐる
馭者ぎよしやがひとことなにかいふ
黒塗りのすてきな馬車だ
光沢消つやけしだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽きがるなふうで
馬車にのぼつてこしかける(2)

栗原敦氏は、この作品を例にあげ、心象スケッチについて「語り手は、作品世界の中で、目に入るもの、耳に入るもの……に対して、五感の全てを開放して、完全な受容体となっている。同時に、その感覚が感受する全てに応じて引き起こされる内部の反応、感想も思考も思索も同時に把握し、記述してゆこうとする」と説明しています。(3)

(1) 大正14(1925)年2月9日 森佐一あて封書(『新校本宮澤賢治全集 第15巻』222-223頁
(2) 『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、2003年10月)68―69頁
(3) 栗原敦『宮沢賢治』(NHK出版、2005年9月)14頁


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2020年09月01日

もう一つの“オホーツク挽歌”① 札幌市

だいぶ以前にも読んだことがありますが、きょうからしばらく、宮沢賢治の「1019 札幌市」について、もう一つの“オホーツク挽歌”という観点から読み直してみたいと思います。

  1019 札幌市

            1927、3、28、

遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった(1)

札幌市

1019番の数字がふられた宮沢賢治の7行詩「札幌市」は、草稿として残された『春と修羅・第三集』の草稿に収められたものです。賢治が30歳だった「一九二七・三・廿八・」の日付があります。

草野心平は「札幌市」について「ただかなしいだけである。……何故かなしいかなどと問うのは凡そ愚問の下である。このかなしさは深い深い宿命からきている」などとして、「賢治の代表的作品」と高く評価しています。(2)

これから、「札幌市」がつくられた経緯や舞台背景を明らかにするとともに、この作品から垣間見られる、賢治の創作活動における「北」の意味について考えていきたいと思います。

「札幌市」には1927年3月28日の日付はありますが、実際にはその4年前の1923(大正12)年7月から8月、亡き妹トシの魂との交感を求めて出かけた北海道・サハリンへの旅における挽歌群に含められる一篇として位置づけられると思われるのです。

(1) 『宮沢賢治全集2』(筑摩書房、2005年7月)67頁
(2) 草野心平編著『賢治のうた』(社会思想社、1971年8月)108頁


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