2019年08月

2019年08月31日

「鬼界島」⑮(『於母影』138)

「鬼界島」のつづき。きょうは、109句目から116句目までです。

爾来身力日愈衰  爾来(じらい)身力日に愈(いよい)よ衰え
不踏窮山僻水危  窮山僻水(きゅうざんへきすい)の危きを踏まず
時従漁人請魚去  時に漁人(ぎょじん)より魚を請いて去り
又拾蚌〓充調飢  また蚌(ぼう)いつを拾いて飢を調(ととの)うに充(あ)つ   
天涯誰復憐落魄  天涯誰か復(ま)た落魄(らくはく)を憐まん
蕭然独結環堵宅  蕭然(しょうぜん)として独り環堵(かんと)の宅を結べり
従此与汝携手去  此れより汝と手を携えて去り
通宵交膝話今昔  通宵(つうしょう)膝を交えて今昔を語らんと
(〓は虫ヘンに矞)

ハマグリ

「窮山僻水」は、奥深く高い山と、人里を遠く離れた水辺や谷間のこと。

「時に漁人より……」に関しては『平家物語』(巻3)に、次のように記されています。

「かやうに日ののどかなる時は、磯に出でて、網人(あみうど)釣人(つりうど)に手を摺り、膝をかがめて、魚(うを)を貰ひ、潮干(しほひ)の時は貝を拾ひ、荒目を取り、磯の苔に露の命をかけてこそ、憂きながら今日までは永らへたれ。さらでは憂き世を渡る縁(よすが)をば、いかにしつらんとか思ふらん」

(このように日ののどかな時は、磯に出て、漁師たちに手を合わせ、膝をかがめて礼をして、魚を貰い、潮が引けば貝を拾い、海草を取り、磯の苔にはかない命をかけて、辛い思いをして今日まで命をながらえたのである。そうでもしなければ何もなく辛いこの島で、どうして生き永らえることができようか)

「蚌いつ」は、ハマグリのように浜辺の砂中に埋もれている貝の類。

「落魄」は、おちぶれること、零落。

「堵」は、高さ一丈(約3メートル)の垣、または幅一丈の垣のこと。「環堵の宅」は、こうした垣をめぐらした小さな家、転じて貧しい家をいいます。

「通宵」は、夜どおし、よもすがら、一晩中。 「数千金を抛て-の宴を買ふものあり(三宅雪嶺『偽悪醜日本人』)


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2019年08月30日

「鬼界島」⑭(『於母影』137)

「鬼界島」のつづき。きょうは、101句目から108句目までです。

唯頼帰人懇慰余  唯だ帰人の懇(ねんご)ろに余を慰めしを頼みにし
荏冉久待京師書  荏冉(じんぜん)久しく京師(けいし)の書を待つも
飛雁不来天地長  飛雁来らず天地長く  
幽憂之裡送居諸  幽憂の裡(うち)に居諸(きょしょ)を送る
島中固不事稼穡  島中固(もと)より稼穡(かしょく)を事とせず
幾為衣食労身力  幾(ほと)んど衣食の為めに身力(しんりょく)を労す
瘴烟深処採硫黄  瘴烟(しょうえん)深き処に硫黄(ゆおう)を採り
売与商人換衣食  商人に売り与えて衣食に換(か)う

硫黄

「帰人」は、先に赦免されて都に帰った人のことで、具体的には少将成経を指します。

「懇ろに余を慰めしを頼みにし……」は、『平家物語』(巻3)では「去年こぞ少将せうしやうや判官入道にふだうが迎ひの時、その節せに身をも投ぐべかりしを、由なき少将の、『今一度、都の訪おとづれをも待てかし』など慰め置きしを、愚かにもしやと頼みつつ」とあります。

つまり、去年少将(藤原成経)や判官入道(平康頼)に迎えがやって来た時、身を投げようと思ったのだが、意味なく少将が、「もう一度、都から迎えが来るのを待ちなさい』などと慰めたので、愚かにももしやと頼りにして、命を永らえようとしたのだ」という意です。

「荏冉」は、じわじわとのびるさま。ここでは、月日がのびのびに長びく意です。

「京師」の「京」は大、「師」は衆で、大衆の居住するところ、みやこ、帝都を意味します。

『漢書蘇武伝』に、匈奴の虜囚となった蘇武が、雁の脚に手紙をつけて漢帝に便りした故事があります。この故事から、手紙を運ぶ人、あるいは手紙のことを「雁の使ひ」といいますが、ここに出てくる「飛雁」も「雁の使ひ」つまり手紙の意味です。

「幽憂」は、胸に深くおさめているうれい、また、うれい悩んでふさぎこむこと。『荘子』に「予、かつて幽憂の病あり」の句があります。憂愁に閉ざされて感じやすい一種の神経症のようです。

「居諸」は、『詩経(邶風・栢舟)』に、「日居月諸、胡迭而微」とあるところから、月日、光陰の意。ただ「居」と「諸」はともに助辞で、本来は何の意味もありません。

「稼穡」の「稼」は植える、「穡」は収めるの意で、「稼穡」は、穀物の植えつけと取り入れ、農業、農事のことをいいます。

「瘴烟」は、瘴気を含んだもや、悪気や毒気を含んだもやをいいます。鷗外訳の『即興詩人』に「瘴烟立てる、深き池沼に囲まれたる大牢獄」とあります。

「硫黄」=写真、wiki=は、「ゆあわ(湯泡)」から「ゆわう」「いわう」と変化した、あるいは、「硫」の字音「る」を日本化して「ゆ」と発音した「ゆわう」から「いおう」になったともいわれます。

硫黄は、非金属元素の一つ。黄色・無臭のもろい結晶体で、熱すると溶解し、点火すると青い炎を出して燃えます。『平家物語』(巻2)に「嶋のなかにはたかき山あり。……硫黄と云ふ物みちみてり」とあります。


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2019年08月29日

「鬼界島」⑬(『於母影』136)

「鬼界島」のつづき。きょうは、93句目から100句目までです。

相逢先問僧都蹤  相い逢うて先ず僧都の蹤(あと)を問うに
寧料僧都是老翁  寧(いずく)んぞ料(はか)らん僧都は是れ老翁なりしとは
両人相対掩顔泣  両人相い対して顔を掩(おお)うて泣き
談今話昔感無窮  今を談じ昔を話して感窮まり無し
謝汝能凌淼漫海  謝す汝の能く淼漫(びょうまん)たる海を凌ぎ
万里来尋忘身殆  万里来り尋ねて身の殆(あやう)きをも忘れしことを 
回首往事都如夢  首(こうべ)を回(めぐ)らせば往事は都(すべ)て夢の如し
欲死未死身猶在  死なんと欲するも未だ死せずして身猶(な)お在り

俊寛

「寧んぞ料らん」は、どうして予想できたろうか、予想もつかないことだった、という反語。

「是れ」は、強勢の助辞。わがたずねる僧都は、まさにその老翁ほかならなかったという意。

「謝す」は、感謝する、ありがたく礼を言う。

「淼漫」は、 「淼」は広大な水の意。 水面などの果てしなくひろがるさま。

「殆」は、危険がせまる、あやうい、あぶない、あやぶむ。転じて、ほとんどの意を表します。

「都て」は、「全(すべ)て」と同じ。

「身猶お在り」は、体はなおながらえて、ここに現にこうしている。

有王が、やせ衰え、乞食のようなみじめな姿になった俊寛僧都を見つけたときの状況について、『平家物語』(巻3)には、次のよう記されています。

〈ある朝、いその方より、かげろふなどのやうに、やせ衰へたる者、一人よろぼひ出できたり。もとは法師 にてありけりと覚えて、髪は空さまへおひあがり、よろづの藻くづとりついて、おどろをいただいたるがごとし。

つぎ目あらはれて、皮ゆたひ、身にきたる物は、絹布のわきも見えず。片手にはあらめを持ち、片手には魚を持ち、歩むやうにはしけれども、はかもゆかず、よろよろとして出できたり。

「都にて多くの乞がい人みしかども、かかる者をばいまだみず。諸阿修羅等、居在大海辺とて、修羅の三悪四趣は、深山大海の ほとりにありと、仏の解きおき給ひたれば、知らずわれ、餓鬼道に迷ひ来るか」と思ふ程に、かれも是も次 第にあゆみちかづく。

もしか様の者も、わが主の御ゆくゑ知りたる事やあらんと、「物申そう」といへば、「何ごと」とこたふ。

「是に都よりながされ給ひし、法勝寺執行御房と申す人の、御行へや知りたる」と問ふに、童は見忘れたれども、僧都はいかで忘るべきなれば、「是こそそよ」といひもあへず。手にもてる物を投げ捨てて、いさごの上に倒れふす。さてこそわが主の御行へは知りてげれ。

僧都やがて消え入り給ふを、ひざの上にかきのせ奉り、「有王が参って候。多くの浪路をしのいで、是まで尋ね参りたるかひもなく、いかにやがてうき目をば見 せさせ給ふぞ」と泣く泣く申しければ、ややあってすこし人心地出でき、たすけおこされて、「誠に汝が是まで尋ね来たる心ざしの程こそ神妙なれ。明けても暮れても、都の事のみ思ひゐたれば、恋 しき者共が面影は、夢に見る折もあり、幻にたつ時もあり。身もいたく疲れ弱って後は、夢もうつつも思ひ わかず。されば汝が来れるも、ただ夢とのみこそおぼゆれ。もし此事の夢ならば、さめての後はいかがせん」


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2019年08月28日

「鬼界島」⑫(『於母影』135)

「鬼界島」のつづき。きょうは、85句目から92句目までです。

転歩更向海辺行  歩を転じて更に海辺に向いて行けば
路上沙清鳥迹明  路上沙(すな)清く鳥迹(ちょうせき)明らかに
四望蒼然人不見  四望(しぼう)蒼然として人見えず
烟波深処海鴎鳴  烟波(えんぱ)深き処に海鴎(かいおう)鳴く
乍認老翁来海上  乍(たちま)ち認む老翁の海上に来れるを
倚杖大息気惨愴  杖に倚りて大息し気惨愴(さんそう)たり
痩臂倒提数尾魚  痩臂(そうひ)もて数尾の魚を倒(さか)しまに提(さ)げ
破衣乱髪無人状  破衣(はい)乱髪人の状(さま)なし

かもめ

「歩を転じて」は、きびすを返して、山奥に向っていた足の方向を変えて、の意。

「鳥迹明らかに」鳥の足跡がはっきり見える。あたりにはずっと人気のなかったことがわかります。

「四望」は、四方八方。あたり一面を見る。

「蒼然」は、日暮れのうす暗い状態をいいます。

「烟波」は、もやの立ちこめた水面のこと。

「海鴎」は、カモメ類のうち、主に沿岸部にいるもの。カモメ=写真、wiki=、ウミネコなどをいいます。

「乍ち」は、不意に、出し抜けにという意。

「海上」は、海の上ではなく、海のほとり。

「気惨愴たり」の「気」は呼吸、息づかい。「惨愴」は痛ましく苦しげな様子。

「痩臂」は、痩せこけた細い腕。

「破衣」は、いたんであちこち破れた着物。

「人の状なし」は、人間の姿かっこうとは思えない、という意味です。

この部分、『平家物語』(巻3)には、次のようにあります。

「山にては遂に尋ねもあはず、海の辺について尋ぬるに、沙頭に 印を刻む鴎、沖の白州にすだく浜千鳥の外は、跡とふ者もなかりけり。

ある朝、いその方より、かげろふなどのやうに、やせ衰へたる者、一人よろぼひ出できたり。もとは法師 にてありけりと覚えて、髪は空さまへおひあがり、よろづの藻くづとりついて、おどろをいただいたるがご とし。

つぎ目あらはれて、皮ゆたひ、身にきたる物は、絹布のわきも見えず。片手にはあらめを持ち、片手 には魚を持ち、歩むやうにはしけれども、はかもゆかず、よろよろとして出できたり。」


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2019年08月27日

「鬼界島」⑪(『於母影』134)

「鬼界島」のつづき。きょうは、77句目から84句目までです。

中有一人能解心  中に一人あり能く心を解し
言是前日沢畔吟  言う 是れ前日沢の畔に吟ぜしも
不知今日在何処  今日何処(いずこ)に在るやを知らず
須向峰巒深処尋  須らく峰巒(ほうらん)深き処に向いて尋ぬべしと
山高谷深行路窄  山高く谷深く行路窄(せま)く
嵐気襲人天欲夕  嵐気人を襲うて天夕べならんと欲す
一径窮処荊棘深  一径窮(きわ)まる処荊棘(けいきょく)深く
晩風凄々乱雲白  晩風凄々(せいせい)として乱雲白し

峰

「須(すべか)らく……べし」の「須」は、英語の「need」に相当し、「……することが必要である」という意味になります。

「峰巒」は、山のみね、また、重なり合った峰々のことをいいます。

「嵐気」は、山のしめりけを含んだ空気、山中に立つもや、山の空気のことをいいます。

「一径」は、一本の細い小道。

「荊棘」は、イバラなど、とげのある低い木。あるいは、そうした木の生えている荒れた土地のことをいいます。

「晩風」は、晩方にふく風、夕方の風、夕風。「凄々」は、寒く冷たいさま、寒々とものさびしいさま、また、涼しさをいいます。

「晩風凄々」とは、夕暮れの風に身がぞっとするような寒さ、寂しさを表わしています。

この場面について『平家物語』(巻3)には――

〈其中にある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は、三人是にありしが、二人は召しかへされて都へのぼりぬ。今一人はのこされて、 あそこここにまぢひありけども、行へ知らず」とぞいひける。

山のかたのおぼつかなさに、はるかに分け入り、峰によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋んで、青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり。〉とあります。

ある人が事情を知っていて「そんな人が3人ここにいたが、2人は召し返されて、都へのぼった。もう一人は残されて、あちこちとさまよい歩いていたが、どこに行ったかわからない」と言った。山の方におられるのではないかと気がかりになって山路を遠く分け入り、峰に登り、谷に下ったが、白雲がたどってきた跡をかくし、往来の道もはっきりとしない、というわけです。


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2019年08月26日

「鬼界島」⑩(『於母影』133)

「鬼界島」のつづき。きょうは、69句目から76句目までです。

島中風景異京華  島中の風景は京華と異り
不見田園種桑麻  田園に桑麻を種(う)うるを見ず
芳草満郊青漠々  芳草郊に満ちて青(せい)漠々
一路荒村落日斜  一路の荒村に落日斜めなり
逢人輙問僧都跡  人に逢うて輙(すなわ)ち僧都の跡を問うに
言語不通手加額  言語通ぜず手額(ひたい)に加う
誰知京洛寺門僧  誰か知る京洛(けいらく)寺門の僧
今作天涯淪落客  いま天涯に淪落の客と作(な)るとは

アサ

『平家物語』(巻3)には――

〈田もなし、畠もなじ。 村もなし、里もなし。おのずから人はあれども、いふ詞も聞き知らず。

有王、島の者にゆきむかッて、「物申さう」といへば、「何事」とこたふ。

「是に都よりながされ給ひし、法勝寺執行御房と申す人の、御行へや知りたる」と問ふに、法勝寺とも執行とも、知(ッ)たらばこそ返事もせめ、頭をふ(ッ)て、「知らず」といふ。〉

「京華」は、花の都、帝都、都会。

「桑麻」は、クワとアサ=写真、wiki。養蚕と紡績をいうこともあります。

「芳草」は、よいかおりのある草。あるいは、春の草のこと。

「青漠々」(せいばくばく)は、青さが一面ずっと打ち重なることをいいます。

「輙(すなわ)ち」は、そのたびごとに。

「手額に加う」のように手をもっていくのは、感情や感動が高まった時の動作と考えられます。

「京洛」はもともと、中国古代の都だった洛陽の異称で、みやこ、特に京都をさします。

「天涯」は、空のはて、地の果て。また、きわめて遠いところ、故郷を遠く離れた土地、異郷のこと。

「淪落の客」は、落ちぶれはてた人。俊寛は流されてここに至ったものだから、「客」という表現を使っています。


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2019年08月25日

「鬼界島」⑨(『於母影』132)

 「鬼界島」のつづき。きょうは、61句目から68句目までです。

雲海蒼茫一葉舟  雲海蒼茫たり一葉の舟 
雲渺々兮水悠々  雲渺々(びようびよう)たり水悠々たり
唯有一封蔵髻裡  唯だ一封あり髻裡(けいり)に蔵す
海上自防萑苻憂  海上みずから萑苻(かんぷ)の憂を防ぐなり
任地形容太枯槁  任地の形容は太(はなは)だ枯槁(ここう)
行尽西海万里道  行き尽す西海(さいかい)万里の道
又従薩州托賈船  また薩州より賈船(こせん)に托し
布帆無恙達孤島  布帆恙(つつが)なく孤島に達す

帆船

「渺々」とは、広くはてしないさま、はるかにかすかなさま。「悠々」も似ていて、はるかに遠いさま、限りなく続くさま、をいいます。

「一封」は、一通の封書。これは俊寛の娘の手紙にあたります。

「髻」(もとどり)は、もともと「本取」の意で、髪を頭の上に集めてたばねたところ、髪の根もと。「髻裡」(けいり)は、髪を束ねたもとどり(髻)のなか。

「萑」(かん)は、葦や荻の類、また薬草の名、草が多いさまをいいます。また「苻」も、草の名、草の実のさやなどをいいます。

つまり「萑苻」は、荻や葦など水辺に生える草のこと。その茂みは、盗賊が盗品を隠す場所として利用されました。

ここから、「萑苻の憂」とは盗難にあう心配のことをいいます。有王は、肌身離さず、身をもって娘の手紙を秘し守ってわけです。

「任地の形容」とは、行く先の土地のありさまのこと。

「枯槁」は、草木がしぼみ枯れること、枯れはてることとともに、やせこけ、すがれきったさま、やせ衰えること、おちぶれること、をいいます。

「賈」(こ)は商売の意。「賈船」は、客船ではなく、商売用の荷物船のこと。品物を売ってまわる舟、商品をはこぶ舟、あきんどぶね、をいいます。

「布帆」(ふはん)は、布製の帆。転じて、船そのものをいいます。


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2019年08月24日

「鬼界島」⑧(『於母影』131)

「鬼界島」のつづき。きょうは、53句目から60句目までです。

江南四月草萋々  江南四月草萋々(せいせい) 
千山花落杜鵑啼  千山花落ちて杜鵑(とけん)啼く
春色巳帰人未返  春色巳(すで)に帰つて人未だ返らず
暮雲遠樹魂転迷  暮雲遠樹に魂転(こんうた)た迷う
孤身直欲報恩遇  孤身直ちに恩遇に報(むく)いんと欲す
菽水奉歓寧遑顧  菽水(しゆくすい)歓を奉ずるに寧(なん)ぞ顧みる遑(いとま)あらんや
行李蕭然出郷関  行李(こうり)蕭然(しようぜん)として郷関を出で
独上蒼茫雲海路  独り蒼茫(そうぼう)たる雲海の路に上る  

行李

前半、「江南四月草萋々/千山花落杜鵑啼/春色巳帰人未返/暮雲遠樹魂転迷」の4句は、「鬼界島」の中でもよく知られた名句。

「江南」とは、元来は長江流域の地をいいますが、ここでは、この語の喚起する、気候温暖、風光明媚な感じを取ってきたものと考えられます。「四月」によってその感を強め、いかにも明るくのびやかな自然を表象しています。

この詩における具体的な地として、日本近代文学大系の頭注には「奈良、南都、またそこから京、大阪への途上に当たる宇治川、淀川のあたりとなろうか」とあります。

「草萋々」は、草の生い茂ったありさまをいいます。

「千山」は、山々の意味。「花」は、桜。「花落ちて」ということは、桜が散って新芽の季節になったことを示しています。

「杜鵑」は、ホトトギス。

自然はふたたび春へと立ち返り、新緑の候になろうとしているのに、「人未だ返らず」すなわち俊寛だけはまだ帰らないといっています。

「転た」は、状態がどんどん進行していっそうはなはだしくなること。いよいよ、ますます、なおいっそ、といった意味です。

「孤身直ちに」に関しては、『平家物語』(巻3)に「暇(いとま)を請ふとも、よも許さじとて、父にも母にも知らせず、唐土船(もろこしぶね)のとも綱は、卯月皐月に解くなれば、夏頃も経つを遅くや思ひけん、弥生の末に都を立つて、多くの波路をしのぎつつ、薩摩潟へぞ下りける」とあります。

「菽水」の「菽」は、豆のこと。「菽水の歓」は、『礼記』(檀弓・下)から、豆を食べて水を飲むような貧しい生活をしながらも、親に孝養を尽くして喜ばせることをいいます。

「行李」=写真、wiki=は、竹や柳、葛(かずら)などで編んだかぶせぶたの箱。衣類などを入れ、旅行や移動の際にも使われます。漢語としては、役所の使者とか旅行者、旅行の荷物などの意味があります。

「蕭然」は、ものさびしい、ひっそりとした様子をいいます。『源平盛衰記』(48)に、「人跡遙かに絶え果てて、蕭然として音もせず」とあります。

「蒼茫」は、見わたす限り青々として広いこと。

「雲海」は、いまでは、山頂や飛行機など高いところから見下ろしたときの雲を海に譬える表現として用いられますが、かつては雲が遥かに見える果てしない海原のことをこう呼びました。『平家物語』(巻7)には「雲海沈々として、青天既に暮れなんとす」とあります。


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2019年08月23日

「鬼界島」⑦(『於母影』130)

「鬼界島」のつづき。きょうは、45句目から52句目までです。

相見未語涙朱垂  相い見て未だ語らざるに涙先ず垂れ
但道赦免不可期  但だ道(い)う赦免期すべからず
欲向海南問消息  南海に向いて消息を問わんと欲す
請君試写相思辞  請(こ)う君試みに相思の辞を写せと
少女聞之喜且泣  少女これを聞きて喜び且つ泣き
千行紅涙筆々湿  千行の紅涙(こうるい)に筆々湿れり
欲封又開開又封  封せんと欲してはまた開き開いてはまた封し
慇懃相托更嗚唈  慇懃に相い託して更に嗚唈(おゆう)す

涙

「道」には、道破、唱道、報道、言語道断などのように、言う、述べる、という意味もあります。「道う」は「言う」と同じ。

「消息を問う」は、様子をたずねてみる。

「相思」は、互いに相手を思うこと。「相思の辞」は、相手を思い慕うことば、ということになります。

「且つ」は、なおその上に。

「千行の紅涙」の「紅涙」は、女性の涙のこと。「千行」はその涙が大量に滴り流れる様子を形容しています。

「封」は、とじこめる、封じこめること。「龍の泣くぞと思ひて、心に龍の声とどむる符を作りてこれを封じてけり」(『十訓抄』10)のように、神仏の力によって活動させないようにする意もあります。

「慇懃」(いんぎん)は、心をこめて念入りにするさま。何度も、あるいは、ことこまかにすることをいいます。

「唈」はむせぶこと。「嗚唈」でむせび泣くことをいいます。


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2019年08月22日

「鬼界島」⑥(『於母影』129)

「鬼界島」のつづき。きょうは、37句目から44句目までです。

僧都有女年十三  僧都に女あり年十三
山桜経雨紅半含  山桜(さんのう)雨を経て紅(こう)半ば含めり
零落孤身托何処  零落の孤身托すは何処ぞ  
南都城裡古茅庵  南都城裡の古き茅庵(ぼうあん)
茅庵雨歇風日美  茅庵(ぼうあん)雨歇(や)みて風日美しく
満地落花無声膩  満地の落花声無くして膩(なめら)かなり
門前乍聴響跫然  門前に乍(たちま)ち聴く響きの跫然(きようぜん)たるを
即是蟻王尋女至  即ち是れ蟻王の女(じょ)を尋ねて至れるなり

落下

「女」は、娘のこと。息子を「男」というのに対しています。

「山桜」は、女、すなわちこの娘のことをたとえています。

「紅半ば含めり」の「紅」は、女性の色気の意。その娘が、ようやく女らしくなりかけたことを言っています。

「零落の孤身」は、島流しとなった俊寛の娘なるがゆえ、いまは落ちぶれて、しかも肉親のない身でいること。

「南都」は、京都の南の都、すなわち奈良ということになります。

「茅庵」は、かやぶきの庵。つまり、粗末な家のこと。

「満地の落花」は、庭一面に散り落ちた花。花は桜、ですから季節は4月とみられます。

「膩(なめら)か」の「膩」は、あぶら(脂)のこと。なめらか、きめ細かい、つややかで潤いのあるさまといいます。

「乍ち」は、非常に短時間のうちに事が行われるさま。不意に、だしぬけに、という意になります。

「跫然」は、人の足音がするさま。『両足院本山谷抄(1500頃)』(一)に、「跫然はあしをとを聞て喜ぞ。又は跫然は喜心までにもなるぞ」とあります。


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2019年08月21日

「鬼界島」⑤(『於母影』128)

「鬼界島」のつづき。きょうは、29句目から36句目までです。

簑笠出迎鳥羽村  簑笠(さりゆう)出でて鳥羽村に迎うるに 
烟雨空濛昼尚昏  烟雨空濛(もう)として昼なお昏し
但見二轎向京至  但だ見る二轎(きよう)の京(けい)に向いて至れるを
不見僧都空断魂  僧都を見ずして空しく魂を断つ
聞道罪深帰不得  聞道(きくならく)罪深くして帰り得られず
余生尚托蛟龍域  余生なお蛟龍(こうりゆう)の域に托せらると
向人数々問帰期  人に向いて数々(しばしば)帰期を問うも 
帰期何日絶消息  帰期は何れの日か消息を絶つ

みづち

「簑笠」は、みのとかさ。旅の際や、雨雪をしのぐために、蓑をまとい、笠をかぶったいで立ちをいいます。

「鳥羽村」は、京都市の南、大阪から京都へ入る入口にあたります。古くは平安京の外辺部に相当し、西国街道、淀川水運の拠点でした。幕末には鳥羽・伏見の戦があったところでもあります。いまは、京都市の南区(上鳥羽)と伏見区(下鳥羽)にわたる地区になっています。

「烟雨空濛」の烟雨は、煙るような霧雨のこと。空濛は、霧雨であたり一面がぼんやりかすんでいる状態をいいます。

「但だ」は、ただ単に。

「轎」は、もともと中国や朝鮮で用いられる乗物で、かごかきが人を乗せて前後から舁(か)いてゆく駕籠,輿(こし)をいいます。轎には、手で轅(ながえ)を腰のあたりにもたげて担う手輿(たごし)・腰輿(ようよ)と、肩にかつぎ上げて運ぶ肩輿(かたごし)があります。

許されたのは、康頼と成経の二人だけだったので「二轎」と言っています。

「聞道」は、「きくならく」と読んで、聞くところによると、の意味になります。「道」は「言」と同じで、人の言うところを聞くという意味。英語の「one says」にあたります。

「蛟龍」は、中国の竜の一種、あるいは、変態する竜の幼齢期をいいます。蛟龍の域とは、そうした鱗のある竜(みづち)のいる蛮地、すなわち鬼界島のことを言っています。

「人に向いて数々帰期を問うも」というのは、『平家物語』(巻3)の「常に六波羅辺にたたずみて聞きけれども、何時赦免あるべしとも聞き出さざりければ」に対応します。


harutoshura at 18:25|PermalinkComments(0)市村瓚次郎 

2019年08月20日

「鬼界島」④(『於母影』127)

「鬼界島」のつづき。きょうは、21句目から28句目までです。

北望黯然魂欲消  北のかた望めば黯(あん)然魂(こん)消えんと欲す
浮雲積水路迢々  浮雲積水 路迢々(みちちょうちょう)
濤声入枕眠不得  濤声(とうせい)枕に入つて眠り得られず
憂心耿々度永宵  憂心耿々(こうこう)として永宵を度(わた)る
京師蟻王果何者  京師の蟻王(ありおう)果して何者ぞ  
僧都恩遇尚所荷  僧都の恩遇は尚お荷(にの)う所
偶聞流人蒙赦皈  偶(たまた)ま流人の赦(しゃ)を蒙(こうむ)りて皈(かえ)るを聞き
窃喜僧都亦免禍  窃(ひそ)かに喜ぶ僧都も亦禍(わざわい)を免れしを

有王

「積水」は、たくさん集まったたまった水。すなわち湖沼や海をいいます。

「迢々」は、はるかに遠いさま。

「濤声」は、波の音、しおさいの音。

「耿々」は、光が明るい、きらきら光っているさま、のほかに、心が安らかでない、かたく思っていることがあって忘れられない、思っていることがあって寝られないさまなどをいいます。

「永宵を度る」は、長い夜の時間を過ごすこと。

もともと、「京師」の「京」は大、「師」は衆で、大衆の居住する所の意。ここでは、みやこ、すなわち京都を指しています。

「蟻王」は、有王のこと。『平家物語』巻3に登場する、俊寛に仕えた童で、生没年不詳。平家打倒を企てた鹿ケ谷事件に加担した罪で治承1(1177)年に鬼界ケ島に流された俊寛を追って、島に渡ります。

『平家物語』によると、有王は、鬼界ヶ島をおとずれて変わり果てた姿の俊寛と再会し、俊寛の娘の手紙を渡します。それを読んだ俊寛は、死を決意して食を断ち自害します。

俊寛の最期を看取った有王は、遺骨を高野山奥の院に納め、法師になって諸国を修行して主の亡魂を弔ったとされます。有王は俊寛の妄執を解き、地獄の苦しみから救う役割を果たしたわけです。

柳田国男は、有王を称する語り手が諸国で俊寛の悲劇を語り歩き、それが源平の物語に吸収されていったとする説を発表。以来、説話伝承、説話管理の問題や『平家物語』の成立の問題などの論争が起こっています。

有王だと、王有りと読まれることがあるので、蟻王を用いることがあったようです。三重県桑名市に有王塚=写真=があります。

「恩遇」は、情けをかけて待遇されること、厚遇、優遇。

『平家物語』(巻3)には「僧都の幼うより不憫にして、召し使はれける童あり。名をば有王とぞ申しける。鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入ると聞こえしかば、有王鳥羽まで行き向かつて見けれども、我が主は見え給はず。「いかに」と問へば、「それはなほ罪深しとて、一人島に残されぬ」と聞いて、心憂しなどもおろかなり」とあります。


harutoshura at 12:30|PermalinkComments(0)市村瓚次郎 

2019年08月19日

「鬼界島」③(『於母影』126)

「鬼界島」のつづき。きょうは13句目から20句目までです。

三人同謫孤島中  三人同じく謫(たく)せらる孤島の中 
蛮烟瘴雨又蜑風  蛮烟瘴雨また蜑(たん)風
雄心寂寞消磨尽  雄心寂寞として消磨し尽くし
身如断梗髪似蓬  身は断梗の如く髪は蓬に似たり
誰識禍福与時転  誰か識る禍福の時と与(とも)に転ずるを 
又見流人蒙赦免  また見る流人の赦免を蒙(こうむ)るを
遺恨千年天無情  遺恨千年 天無情 
尚有僧都留不返  尚お僧都の留まりて返らざる有り

俊寛

「三人」というのは、俊寛、康頼、および成親の子息の丹波少将成経。

「謫」は、罪をとがめて遠方に流すこと。

「蛮烟瘴雨」とは、蛮地の毒気を含んだ雨と煙。

「蜑風」の「蜑」は中国南方に住み、漁業を営み水上生活をおくる異民族。鬼界島は、南方の海上にあって農耕も営まない未開地で、言葉もよく通じない人々が住んでいるという認識があるようです。

「雄心寂寞」は、かつては平家討伐を企てたほどの勇猛心も、いまでは衰えうらさび果てて、という意。

「断梗」は、もともと折れた木の枝の意で、風のままふらふら定まらないさまの形容に用いられます。

「流人の赦免を蒙る」。「三人」のうち、康頼と成経の二人は信心が篤く、千本の卒塔婆を作って海に流したところ、その一本が平家の尊信する厳島神社に流れ着いて評判になり、清盛もこれに深く感動して赦免した、とされています。

「僧都」は、僧正に次ぐ高位の僧。ここでは俊寛=写真=を指しています。


harutoshura at 15:09|PermalinkComments(0)市村瓚次郎 

2019年08月18日

「鬼界島」②(『於母影』125)

「鬼界島」のつづき。きょうは、第5句目から12句目までを読みます。

維昔治承戊戌秋  維(こ)れ昔治承戊戌(じしょうぼじゅつ)の秋(とき) 
平氏威権加八洲  平氏の威権八洲に加わり
王家未免式微嘆  王家未だ式微(しきび)の嘆を免れず
天子下堂見諸侯  天子堂を下つて諸侯に見(まみ)ゆ
慷慨有人聚壮士  慷慨(こうがい)人有り壮士を聚(あつ)め 
夜深鹿谷誓生死  夜深く鹿谷(ししがたに)に生死を誓うに
何物狡児泄秘謀  何物ぞ狡児(こうじ)の秘謀を泄(も)らし 
一朝縲囚百事止  一朝縲囚(るいしゆう)せられて百事止む

後白河

「治承戊戌」の「治承」は年号、「戊戌」はツチノエ・イヌの年。西暦1178年にあたります。

「有王島下り」の一段のある『平家物語』巻3は、治承2年、すなわちこの詩にあるように治承戊戌の正月のことから話を進めているが、俊寛等の陰謀が発覚したのはその前年で、また有王が鬼界島に下ったのはその翌年、治承3年のこと。

作者が「治承戊戌」としたのは『平家物語』巻3の巻頭の言葉をそのまま用いたためと見られます。

「八洲」は、八洲国(やしまぐに)、大八島。古くは「やしまくに」。多数の島々のある国の意から、日本の異称とされています。。『古事記』(712年、上・歌謡)に「八千矛の 神の命は 夜斯麻久爾(ヤシマクニ) 妻枕きかねて」。

「式微の嘆」は、「詩経」邶風・式微から、「式」は発語の助字、「微」は衰える意で、非常に衰えたことの嘆き。「信長が王室の式微を慨(なげ)いて」(漱石『行人』)

「慷慨人有り壮士を聚め/夜深く鹿谷に生死を誓う」は、1177(治承1)年5月、後白河院=写真、wiki=の近臣藤原成親・成経父子、藤原師光(西光)、法勝寺執行の俊寛、摂津源氏多田行綱らが、俊寛の京都・東山鹿ヶ谷山荘において平氏追討の謀議をした鹿ヶ谷事件のこと。

これは、近づく祇園御霊会に乗じて六波羅屋敷を攻撃し、一挙に平氏滅亡を図ろうとするものでした。しかし多田行綱の密告によって事前に平清盛に発覚、西光の白状によって関係者は次々に捕らえられ処罰されました。

西光は死罪、成親は備中国(岡山県)に、俊寛・成経らは、この作品の題名でもある、九州の南の果ての孤島鬼界ヶ島に配流されました。

この事件の主謀者がとくに一家の縁者(成親は平重盛の婿、成経は教盛の婿)であったことは平氏にとって衝撃的で、以後、院と清盛との関係はますます悪化していくことになります。

「狡児」は、可愛げに見えてその実は油断がならない悪賢い人、ずるい人をののしっていう語。ここでは具体的には、多田行綱のことを指しています。

「縲囚(るいしゅう)」は、囚人、捕縛され投獄されること。「縲」は累(つな)と同じですが、特に罪人を縛る黒い綱をいいます。


harutoshura at 13:11|PermalinkComments(0)市村瓚次郎 

2019年08月17日

「鬼界島」①(『於母影』124)

『於母影』のつづき。きょうから「鬼界島」に入ります。『平家物語』有王島下りの一段に、その材と想を得て作られた全196句の長大な漢詩です。冒頭から少しずつ読んでいきます。

  鬼界島

鬼界之島在何処  鬼界の島は何処にか在る
雲濤浩渺不可渡  雲濤浩渺として渡るべからず
五穀不生田土痩  五穀生ぜず田土痩せ
山谷深沮多大樹  山谷深沮大樹多し

イオウ

原作は詩ではないので、他の諸篇のような訳詩とは異なります。むしろ創作詩といえる作品で、純然たる七言古詩。作者は、市村瓚(さん)次郎とされています。

「鬼界島」(きかいがしま)は、1177(治承元)年の鹿ケ谷の陰謀によって、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島=写真、wiki=です。薩摩国に属し、古来、日本の南端の地として長いあいだ認識されていました。

『平家物語』では、島の様子について、「舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう」(巻2・大納言死去)。

「美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所があった。山の風景から木々に至るまで、どこよりもはるかに素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延びて、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちている」(巻3・康頼祝言)などとされてます。

市村瓚次郎(1864―1947)は、常陸国北条村(茨城県つくば市北条)の出身。号は器堂、字は圭郷あるいは筑波山人と称しました。1887(明治20)年に帝国大学古典科漢学課を卒業後、学習院教授、東京帝国大学教授を歴任。1925(大正14)年に定年退官した後は国学院大学、早稲田大学などで長く東洋史学を講じました。

白鳥庫吉と並んで日本の東洋史学を開拓したが、白鳥がドイツ流の近代史学を応用した西域史を得意としたのに対して、漢学から出発した市村は、中国の政治、思想面の研究に優れ、また概説を得意としました。『東洋史要』『支那論集』『東洋史統』などの著作があります。

市村が長篇漢詩「鬼界島」を成したのには、井上哲次郎の物語詩「孝女白菊詩」(「巽軒詩鈔」明治17年)の影響があったと考えられます。

「鬼界島」は、適宜、韻を変えて詩句を連ねていく換韻格の古詩で、4句ごとに脚韻を変えています。ここにあげた冒頭の4句は第2・第4の「渡」と「樹」が韻を踏んで(韻字は「遇」、仄韻)います。

2句目の「雲濤浩渺」(うんとうこうびょう)の「雲濤」は雲の波、「浩渺」は広々として遥かなさま、といいます。4句目の「山谷深沮」は、山や谷が深く嶮しくて、容易に人を近づけない様子のこと。「沮」は「阻」と同じです。


harutoshura at 15:16|PermalinkComments(0)市村瓚次郎 

2019年08月16日

「わかれかね」②(『於母影』123)

「わかれかね」のつづき、もう少し詳しくみておきたいと思います。

わかれかね心はうちにのこるとも
しらでやひとの戸をばさすらむ

戸

原詩では、何かやむを得ない事情で愛する人のもとを去って行かなければならない、しかも、それを愛する人に告げることもかなわない、という内容をうたっています。

鷗外自身の体験をもとに書かれた『舞姫』と通じるところがあり、訳詩として選ばれたのとも関係があるのかもしれません。

きのうも見たように、原詩の大意は次のようになります。

私はそれから思い屈して古い市壁に向かって去ってゆく、
涙にぬれた眼をあげて来し方をかえりみながら、
すると番人は私の背後で門の扉を閉ざすのだ、
私の心のみはなお後にのこっているのだとは知らずに。)

これを訳詩を比べたとき、未練の情と「戸をばさす」という行為が共通しているだけで、残りはまったく異なる作品になっていることがわかります。

ところで、「しらでやひと」の「ひと」とは誰のことを指すのでしょうか。「ひと」が第三者であれば、二人の気持ちを理解しない者に対する恨みを歌っていることになります。

原詩によれば、番人が背後で門の扉を閉ざすのですから、こう考えるのは自然です。しかし、原詩の場合は別れる決意をして去っていく部分があるので沈痛な思いが伝わってきますが、短歌訳ではそうした思いはすっかり失われてしまいます。

「ひと」を、相手の女を指すととらえることもできないことはありません。すなわち、後朝の別れに際して、自分と同じように相手が自分のことを想ってくれないと相手の薄情を恨んでいる状況と見るわけです。

佐藤春夫の『殉情詩集』に「戸によりて筑紫女の言ひけるは/東男のうすなさけかな」という句もあります。


harutoshura at 14:40|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月15日

「わかれかね」①(『於母影』122)

『於母影』のつづき。きょうから短歌形式で訳された「わかれかね」です。

  わかれかね

わかれかね心はうちにのこるとも
しらでやひとの戸をばさすらむ

ケルナー

原詩はドイツの詩人ユスティヌス・ケルナー(1786-1862)=写真、wiki=の作「Abschied(別離)」。

ケルナーは、ルートウィヒスブルク生まれ。後期ロマン派のシュワーベン詩派の一人で、民謡風の洒脱な詩を書き、《旅の影絵》(1811)など散文集を遺しました。医学を学び、ヘルダーリンを診察したこともあるようです。

1819年以後ワインスベルクに定住し、ワイバートロイ城の維持、降霊術の研究などに貢献するとともに、自宅に学者や詩人を迎え、文人として慕われました。

原作は4行5連の詩ですが、訳されたのはその最後の連の4行で、それもその大意をとって31文字に鋳直したのであるから「意」訳の最たるものであろう。底本はベルンの詞華集で、訳者は井上通泰と考えられています。

日本近代文学大系の頭注によれば、原詩は各連4行の5連詩で、訳されたのは最後の5連です。

Geh'ich bang nun,nach den alten Mauern,
Schauend rückwärts noch mit nassem Blick,
Schließt der Wächter hinter mir die Thore,
Weiß nicht,daß mein Herz noch zurück.

(大意は
私はそれから思い屈して古い市壁に向かって去ってゆく、
涙にぬれた眼をあげて来し方をかえりみながら、
すると番人は私の背後で門の扉を閉ざすのだ、
私の心のみはなお後にのこっているのだとは知らずに。)

全篇は青年が恋人の住む家に夜半人知れず別れをつげて旅に出てゆく、といった、ミュラーとシューベルトの「冬の旅」でおなじみのドイツ・ロマン派に典型的な別離の詩情を歌ったものです。

補注には「この詩にも、底本のベルン編詞華集には、最後の連に下線と「奇想」という書入れ文字がのこっており、もって鷗外の選択と勧奨に基づいて通泰が筆をとったものであることを推測せしめる。原詩およびその大意と訳詩とを比較して見られればわかるように、訳詩は実際には後半の2行を翻したにすぎないとも言えるものである」とあります。


harutoshura at 11:44|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月14日

「花薔薇」⑤(『於母影』121)

「花薔薇」のつづき。きょうは、この訳詩の影響について考えます。

わが うへにしも あらなくに
など かくおつる なみだぞも
ふみ くだかれし はなさうび
よは なれのみの うきよかは

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『於母影』の表紙には、薔薇が図案化されイラスト=写真=が用いられています。西洋で美しい女性をなぞらえる「薔薇」に鷗外たちが特別な関心を寄せ、この訳詩集の象徴的な意味合いがあったのかもしれません。

佐藤春夫は「新体詩小史」(『三田文学』昭和25・10)で、『於母影』に関して次のように記しています。

「鷗外にとつては「新体詩抄」の人々のやうに長い新形式のものだけが新詩なのではななく新しい詩といふものはその形式の問題ではなく、より多くの内容――詩の想念にあると見てゐたらしい。だから詩想さへ清新ならば今様でも短歌、漢詩でもみな新詩となり得るといふ見解を具体的に主張しようとしたかのように見える。……

ところで「花薔薇」や「わかれかね」を見ると将に捨てようとしてゐた我々の古い革嚢も使い方によつては(といふのはこの種の抒情の場合なら)或程度に新しい酒を盛るにはまだ十分堪へる事がここで証明されたやうに見える。」

春夫は、「花薔薇」など旧タイプの詩歌に、詩想の清新を感じていたことになります。つまり明治15年に出版された『新体詩抄』や、「孝女白菊の歌」「いねよかし」「笛の音」など落合直文の直情的な七五調の作品よりも、「花薔薇」の今様形式などに近代の清新な詩情・詩想を看取していたと見ることもできそうです。

実際、「花薔薇」の二・五・五調は、上田敏の訳詩集『海潮音』(明治38・10)の「わすれなぐさ」後半2行の

なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。

や、佐藤春夫『殉情詩集』(大正10・7)の「水辺月夜の歌」の「身をうたかたとおもふとも」や「げにいやしかるわれながら」というフレーズなどに受け継がれていったと考えられています。


harutoshura at 16:16|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月13日

「花薔薇」④(『於母影』120)

「花薔薇」のつづき。きょうは、この訳詩の原詩における位置づけについて考えます。

わがうへにしもあらなくに
などかくおつるなみだぞも
ふみくだかれしはなさうび
よはなれのみのうきよかは

白バラ

前に見たように、各連4行9連から成る原詩、ゲーロックの「Die Rose im Staub(塵にまみれた薔薇)」は、だいたい次のよう内容になっています。

「いたずらな少年によって地に倒れているバラよ。少年はお前の美しさに欲望を感じて、折り取り逃げ捨ててしまった。もし少年がお前を家に持ち帰り、花瓶にさしてやったら、お前はいつも少年を楽しませたろうに。

春の嵐が花びらを無惨にも散らせたとしても、稲妻と嵐のもとに死ぬのは美しい花の運命なのだ。しかし、やさしい太陽がお前のつぼみを開かせ、神や人間が甘い香とともに喜びを感じたのは、お前が少年の刹那の快楽の犠牲となるためなのか、塵にまみれてあわれに踏み砕かれるためなのか。

通りがかりの子供がお前を拾おうとしたが、母親が制止した。昨日は誇りをもって貴婦人の胸に飾られていたのに、今日は子供が拾おうとして人に止められる運命なのだ。」

これに「花薔薇」として訳された9連目(そして、どうしてお前の運命を思うたびに、私の心は悲しみに打ち裂かれるのだろう。お前、踏みつけられて泥まみれの薔薇よ。ああ!そんな目にあったのはおまえだけでありはしない、という大意)が続くことになります。

前に記したように、底本となったベルン詞華集には「Prostitution」(売春、堕落、浪費などの意)という鷗外の書き込みがありました。原詩の中に訳者は「ふみくだかれしはなさうび」と、薄幸の女性の面影を見出し、原作者の意図が単に花の運命だけであったのではないことを見抜いていた、と見ることもできるでしょう。

小川和夫氏は「鷗外がProstitutionと評したのは「放縦な若者のために身をあやまった女は泥土に身を委することになり、そのような女は、これに救いの手をのばそうとすることも周囲から制止されて、結局悲惨な境遇に打ち棄てられることになる」というアレゴリカルな内容をこの作品に見出したためであろう」(「『於母影』からの二三の感想」成蹊大学紀要11=昭和51・2)

通泰の訳出も、鷗外の意にそって原詩のもつ譬喩、あるいは両義性を踏まえたものだったと考えられます。きのう見たように、訳詩の韻律が単なる七五調ではなく「二・五・五」という屈折したものであり「なみだ」「うきよ」といった原詩にはない言葉が加えられていることもそれを裏付けていると見ることができそうです。

「花薔薇」は、2・5・5という屈折した韻律と、無惨な「ふみくだかれしはなさうび」の中にアレゴリカルに対象化された、虐げられた女性の運命、並びにそうしたものを含めた「なれ」を見守る「われ」の心情とが一体化したところに、「原作の意義に従へる」意訳の意義を見出そうとしていた、と考えることができます。


harutoshura at 16:06|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月12日

「花薔薇」③(『於母影』119)

『於母影』の七五調の4行詩「花薔薇」のつづき。きょうは訳した井上通泰と韻律について検討します。

わがうへにしもあらなくに
などかくおつるなみだぞも
ふみくだかれしはなさうぴ
よはなれのみのうきよかは

井上通泰

この訳詩をしたと見られる井上通泰(1867-1941)=写真、wiki=は、桂園派の歌人・国文学者であるとともに、眼科を専門とする医師としても活躍しました。「みちやす」を故実読みでツウタイともいうこともあります。

1866(慶応2)年に儒者・松岡操の三男として、姫路元塩町に生れました。松岡家は、播磨国神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、通泰の実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいます。

泰通は1877(明治10)年、12歳で神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となり、このころから国学の研究や文学活動を志します。1880(明治13)年、東京帝国大学医学部予科に入学するとともに桂園派の和歌を学び始めました。

1888(明治21)年に森鴎外と知り合い、翌年、鴎外や落合直文らと新声社を結成し、『於母影』を『国民之友』誌の付録として発表しました。1890(明治23)年、大学卒業と同時に医科大学付属病院眼科助手となり、2年後に姫路病院眼科医長として帰郷します。

その後、岡山医学専門学校の眼科の教授となって1902(明治35)年まで郷里にありましたが、その年の冬に職を辞して再度上京し、井上眼科医院を丸の内内幸町に開業しました。

上京後は鴎外との交友が再開し、鴎外邸の観潮楼歌会などに出席しました。その縁で小出粲や大口鯛二などの宮中歌人と近くなり、1906年(明治39年)には歌会「常磐会」を結成しました。

1907(明治40)年に御歌所寄人。大正期には、宮内省と文部省の嘱託として『明治天皇御集』の編纂に携わります。還暦を期に歌道と国文学研究に専心し、1938(昭和13)年に貴族院勅選議員に勅任されると、議員在職のまま満77歳で亡くなっています。

上代では『風土記』について考察した『風土記新考』、同郷の江戸後期の国学者藤井高尚に関する『藤井高尚伝』、万葉集全歌の注釈『万葉集新考』などを遺しました。

訳詩は「花薔薇」という題を除けば、すべて平仮名の七五調無韻で、原詩の四行を踏襲して、7・5・7・5・7・5・7・5の歌詞で1コーラスを構成する今様の形式になっています。

この七五調をさらに細分化すれば、

わが・うへにしも・あらなくに
など・かくおつる・なみだぞも
ふみ・くだかれし・はなさうび
よは・なれのみの・うきよかは

と、2・5・5調となっているのが分かります。

井上は『於母影』の訳詩について「萩の家主人追悼録」(『国文学』明治37・2)で、「落合君、森君、市村君を私と、新声社と云ふ社を結んだ。その目的と云ふものは文学の研究であるけれども、当時の問題は日本の歌に韻があるか無いか、私は韻は無いが一種の平仄があると云ふ議論で、さう云ふことを頻りに研究して居つた」と回想しています。

「花薔薇」で試みられた無韻の二五五調という訳しかたも、「韻は無いが一種の平仄がある」という考えを実践したものと見ることができそうです。


harutoshura at 16:24|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月11日

「花薔薇」②(『於母影』118)

『於母影』の七五調の4行詩「花薔薇」のつづき。きょうは題名の「花薔薇」について考えてみます。

わがうへにしもあらなくに
などかくおつるなみだぞも
ふみくだかれしはなさうび
よはなれのみのうきよかは

ビーナス

まず「花薔薇」の読み方ですが、「薔薇」は音読みでソウビと読まれることが多いようですが、本来はショウビ。日本国語大辞典では「しょうび(薔薇)」の直音化である、とされています。

特に花を愛でるものという意味あいから、花薔薇という言い方がされるようになったそうです。

古今集(905-914)に「われはけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり」(物名・436)という、「さうび」と題された紀貫之の歌があります。

「けさうひに」に「さうび」の名を隠した物名歌です。けさ初めて目にしたその花の色を「あだなるものと」言うべきであったよ、というわけです。バラは10世紀初めには既に渡来していたことがうかがわれますが、当時はまだ珍しい花だったようです。

世界的には、バラは農耕文明の始まりとともにあり、紀元前2000年以前の、シュメール人の『ギルガメシュ叙事詩』に「この草のとげはバラのようにお前の手を刺すだろう。お前の手がこの草を得るならば、お前は生命を得るのだ」という意味のくだりがあるそうです。

古代エジプトでは、石器時代の発掘物にはバラらしいものは見当たらないものの古い書物には記載があり、バラは東方からも移入されたと考えられています。また、前3000~前2000年のバビロニア、バビロン宮殿では果樹園とともにバラが栽培され、香料や薬用とされていたと推定されています。

古代ギリシアでは、多くの詩人がバラを詠んでいます。ホメロスは若い人の美しさを「バラのほお」と表現し、バラ油の記述もあります。またサッフォーは「花の女王バラ」と歌い、アナクレオンは「恋の花なるバラの花、いとしき花のバラの花」と詠んでいます。また、ヴィーナスのバラの花=写真=は愛と喜びと美と純潔を象徴していると信じられていました。

ギリシアのテオフラストスは「バラには花弁の数と粗密さ、色彩の美、香りの甘美さなどの点でいろいろな相違があるが、普通のものは5枚の花弁をもっている。しかしなかには12~15枚あるいはそれ以上、なかには100枚の花弁をもつものさえある」と述べているそうです。

ローマのプリニウスは『博物誌』で、当時栽培されていたガリカ、ダマスセナ、アルバ、センティフォーリアなど12品種をあげています。当時のローマで「バラの中に暮らす」というのはぜいたくに暮らすことを意味していたようです。

「ばら戦争」としてよく知られているヨーク家とランカスター家の王位継承戦争は、それぞれ白バラ、赤バラを紋章に用いました。

中国のバラは、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと考えられています、当時すでに多数の園芸品種があったらしく、絵画には長春花とみなされるものが多数描かれています。

日本でバラが最初に記されているのは万葉集で、「うまら」「うばら」とあります。古今集などで「さうび(薔薇)」と記されるのは、ローザ・シネンシスの類のようです。源義経の兜にもバラが描かれていたとか。

この詩の訳者と考えられている井上通泰の歌集『南天荘集』(柳田国男編、昭和18・8)の「明治時代の歌・四季植物」には、「薔薇 野うばらも花さく見れば世の中ににくみはつべき物なかりけり」(明治43年作)、「大正時代の歌・四季植物」には「薔薇 刺ありと人のはばかる花うばらありともよしやただに見るには」(大正13年作)とあります。


harutoshura at 17:07|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月10日

「花薔薇」①(『於母影』117)

『於母影』のつづき。きょうから「花薔薇」に入ります。

  花薔薇

わがうへにしもあらなくに
などかくおつるなみだぞも
ふみくだかれしはなさうび
よはなれのみのうきよかは

rose

原詩は、ドイツの宗教詩人カール・ゲーロック(Karl Gerok,1815-1890)のDie Rose im Stanb(チリにまみれた薔薇)。原詩は4行9連で構成されていますが、次にあげる最後の連の4行だけが訳されています。七五調に乗せた「意」訳で、底本はベルンの詞華集、訳者は井上通泰と見られています。

Und warum bei deinem Loose
Mir das Herz vor Wehmuth bricht:
Du in Staub getret'ne Rose,
Ach! du bist die einz'ge nicht!

大意は、

そして、どうしておまえの運命を思うたびに
私の心は悲しみに打ち裂かれるのだろう。
おまえ、踏みつけられて泥まみれの薔薇よ
ああ! そんな目にあったのはおまえだけでありはしない。

といったところでしょうか。日本近代文学大系の補注には、次のように記されています。

〈全篇は、少年が母親のとめるのを聞かずに、一時の慰みにと折りとり、そしてやがて打ち捨ててしまったため、土にまみれて汚れたまま枯れてゆく薔薇の花を悼んだもので、ゲーテの「野薔薇」「みつけもの(すみれの歌)」および『ファウスト』の中のマヌガレーテの運命などを念頭に置いて作られた気配が濃く、どこか亜流の感じを与える一篇である。

底本となったベルン詞華集のこの聯の傍にはProstitutionという書き入れ文字がある。すなわちこの詩のこの聯に感興を動かしていたのはもともと鷗外であって、通泰の訳詩も鷗外の選択とすすめに基づいて成ったものであろう。

原詩は8音節と7音節の行の交替する交錯韻の形式だが、それとは無関係に七五調無韻で訳出された。ひらがなのみで記され、また頭注で記した(細かくみればさらに各行とも2・5・5という調子が看取される)ように内的リズムにもさらに細かい工夫が施され、まことに鬼工ともいうべき完璧な出来栄えであり、後の『海潮音』中の「わすれなぐさ」に示唆を与えた技巧であること一見して明らかであろう。〉


harutoshura at 08:59|PermalinkComments(0)井上通泰 

2019年08月09日

「あまをとめ」⑥(『於母影』116)

「あまをとめ」のつづき。きょうは、小堀桂一郎氏のこの詩の読みを紹介しておきます。

  あまをとめ

浦つたひゆくあまをとめ
舟こぎよせてわがたてる
ほとりにきたれわれと汝
手に手とりあひむつびてむ
こゝろゆるしてわが胸に
なが頭をばおしあてよ
浪風あらきわたつみに
まかせたるてふ身ならずや
そのわたつみにわがこゝろ
さもにたりけり風はあれど
塩のみちひはありといへど
こゝらの玉もしづみつゝ

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汝美しき漁夫の娘よ
岸辺に向けて舟を漕ぎ寄せよ
我が傍に来りて坐り給へ
我らは手に手を取り合つて睦み合はう。

我が胸に顔寄せて休み給へ
そんなに臆せずともよい
日々この荒海に
恐れげもなく身を委せてゐる君ではないか。

我が心もまことにこの海に似て
嵐もあり潮の満ち干もあり
そして少からぬ美しい真珠が
その深みにはひそんでゐるものを。

小堀さんは『西學東漸の門』の中で、「あまをとめ」の原詩について上記のような「逐語的大意」を示し、次のように指摘しています。

「この逐語的大意と比べてみても『あまをとめ』の訳しぶりが優美な七五調によりながらかなり忠実に原詩の意味と形象とを伝え得たよい訳であることがわからう。

そして原詩における3聯の区分を訳者は取払つてしまひ、全12行の一続きに書きなしたわけだが、読んでみれば原詩の聯の切れ目に当るところには訳詩でも自づから意味の区切りが読み取れるので、従つてこの処置が妥当であることは読者も無理なく首肯できるやうになつてゐる。

七五調は我国在来の詩の格調の中でも最も普通のものであり、殊に四句一聯の単位は今様歌のそれに通ずるものがある。『新体詩抄』に於ても格調については七五以外の工夫はなかつた。

即ち原詩の意のみを伝へようとて七五の調子に載せて翻したのは当時としては最も保守的な、或いは易きにつく態度であつた。しかし詩の評価を決定するのは畢竟出来栄えである。

もし時代を同じくするといふことを詩の評価の基準にとつてよいものなら、この詩と『詩抄』の中の任意の一篇とを取つて比べてみるとき、到底同時代の産物とは思へぬほどである。

特に原詩第3聯に於ける比喩の処理は、第2行の「嵐」と「潮の満ち干」とを訳詩の第2、3行に分けたため、〈そして少からぬ美しい真珠が/その(胸の)深みにひそんでゐるものを〉といふ2行を最後の第4行に圧縮して取り入れなけなければならなくなつたのだが、〈ここらの玉もしづみつつ〉とは如何にも心憎いほどに引き緊つた巧みな歌ひをさめである。

その前2行が七・六の一字余りで破調をなし、かつ〈あれど〉〈いへど〉の部分韻を踏んだのさへ、しめくくりの一句の効果を一層引き立たせるための足踏みの如きものであり、まさに詩的といふより他ない技巧である。

そしてこのやうな技巧的処理を立ち越えて、原詩の意味・形象をかくも忠実に移植し得てゐる手並に我々は再度感嘆の声を放つのであり、そしてそこから、これだけの手腕は鷗外にしか望めないのではないかといふ推測も生ずる。

この詩に対しても井上通泰は自作なることを主張してゐるのであるが、それはやはり或る程度の協力が拡大されて記憶されてゐるのではあるまいか。次の、これは明らかに井上作と判定される『花さうび』も別の意味で極めて巧みな訳ではあるが、その巧みさはこれとはよほど質が違つてゐる。

『あまをとめ』の流麗さと形象づくりの手堅さ、正確さは『オフエリヤの歌』や『野梅』のそれに明らかに通ふものである。」


harutoshura at 14:46|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年08月08日

「あまをとめ」⑤(『於母影』115)

「あまをとめ」のつづき。原詩と比べながらもう一度、全体を眺めておきます。

浦つたひゆくあまをとめ
舟こぎよせてわがたてる
ほとりにきたれわれと汝
手に手とりあひむつびてむ
こゝろゆるしてわが胸に
なが頭をばおしあてよ
浪風あらきわたつみに
まかせたるてふ身ならずや
そのわたつみにわがこゝろ
さもにたりけり風はあれど
塩のみちひはありといへど
こゝらの玉もしづみつゝ

ハイネ

ハイネ=写真=の原詩は4行3連からなる12行で、7音節と6音節が交代する韻律を取っています。訳詩は原詩の12行を守っていますが、3連には分かれていません。

韻律についても、最初の4行でエ音とウ音が交差型の脚韻を踏んでいると見ることができる以外は無韻。すなわち、基本的に原詩に忠実な意訳ということになります。

原詩の第1連の1・2行目「Du schönes Fischermädchen,/Treibe den Kahn ans Land:」(汝、美しい漁人の娘よ/岸に向けて舟を漕ぎ寄せなさい)は、訳では「浦つたひゆくあまをとめ/舟こぎよせて」となり、2行目の上七音までに相当します。ここでは「汝、美しい」が省略され「岸に向けて」が「浦つたひゆく」となっています。

原詩の3・4行目「Komm zu mir,setz dich nieder,/Wir kosen Hand in Hand,」(私のほうへ来て近くに座りなさい/私たちは手に手を取って仲むつまじく語り合おう)は、訳では、それぞれ2・3行目と3・4行目にわたっています。

そして、3行目の下5音「われと汝」は4行目の主語となり、4行目に続きます。つまり、原詩の3・4行目に訳詩を合わせれば「わがたてる/ほとりにきたれ」「われと汝/手に手とりあひむ」というわけです。

原詩の第2連1・2行目「Leg an mein Herz dein Köpfchen/Und fürchte dich nicht zu sehr,」(私の胸にあなたのかわいらしい小さな頭をつけなさい/そんなに恐れることはない)は、訳では「こゝろゆるしてわが胸に/なが頭をばおしあてよ」となり、原詩1行目が2行に分けられています。

原詩の3・4行目「Vertraust du dich doch sorglos/Täglich dem wilden Meer.」(きみはそんなにも平気で身をまかせているではないか/あの荒海に毎日)は、「きみはそんなにも平気で」と「毎日」の部分が削られている以外は、原詩に忠実な訳となっています。

原詩第3連の1・2行目「Mein Herz gleicht ganz dem Meere,/Hat Sturm und Ebb’ und Flut,」(私の胸は実に海に似て/嵐も潮の干満もある)は、訳では3行にわたり、訳を見ると、原詩の1行目は「そのわたつみにわがこゝろ/さもにたりけり」と2行目の上7音までつづき、原詩の2行目は「風はあれど/塩のみちひはありといへど」と2行目の下5音から3行目にかかっています。

そのため、原詩の3・4行目「Und manche schöne Perle/In seiner Tiefe ruht.」(幾多の美しい真珠も/その胸の底深く潜んでいる)が、「こゝらの玉もしづみつゝ」と一行に圧縮されています。第3連も、基本的に原詩に忠実に訳されているといえます。

第3連の訳詩の2・3行目「さもにたりけり風はあれど/塩のみちひはありといへど」は七六調で基調の七五調からはずれ、破調が見られます。これは「あれど」「いへど」と逆接の「ど」を置くという技巧的な処理と絡んでいるようです。

原詩に忠実な訳ではありますが、訳詩では、漁人の娘に対する健康的な誘惑というような明朗で動的なものすべてが捨象され、静謐な和歌的世界に還元されているという面はあります。


harutoshura at 13:04|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年08月07日

「あまをとめ」④(『於母影』114)

「あまをとめ」のつづき。きょうは、9行目から末尾までです。

そのわたつみにわがこゝろ
さもにたりけり風はあれど
塩のみちひはありといへど
こゝらの玉もしづみつゝ

真珠

「風はあれど」は、原詩では「sturm(嵐)」。訳では、少し穏やかなイメージに変わっています。

「塩のみちひ」の「塩」という字は「潮」の意味で使われることもあるようですが、月の引力で海面が周期的に高くなったり低くなったりして海水が動く「みちひ」(干満)を言うには、やはり「潮」のほうが適当でしょう。

実際、縮刷『水沫集』では「潮のみちひ」に改められています。

「こゝら」は、数・量の多いさま、数多く、あるいは程度のはなはだしいさまを表す副詞。「ここら船に乗りてまかりありくに、またかくわびしき目を見ず」(竹取物語・竜の首の玉)。

海の「玉」とくれば、真珠ということになります。「海人少女玉求むらし沖っ波かしこき海に船出せり見ゆ」(万葉集6・1003)と似たイメージが感じられます。

ただし「あまをとめ」の「玉」は、字義どおりの万葉集とは違い、「In seiner Tiefe Ruht」(胸の底深く沈んでいる)ものであり、「わがこゝろ」に「しづみつゝ」あるものです。

「つゝ」は、「繰り返し……して」「しきりに……して」などと動作や作用の反復・継続を表す接続助詞。ただし、和歌の末尾に「つゝ」が用いられた場合、詠嘆などの意味を伴った余情表現になります。


harutoshura at 18:05|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年08月06日

「あまをとめ」③(『於母影』113)

「あまおとめ」のつづき。きょうは5行目からの4行の内容を見ていきます。

こゝろゆるしてわが胸に
なが頭をばおしあてよ
浪風あらきわたつみに
まかせたるてふ身ならずや

波

「こゝろゆるして」は、原詩では「Und fürchte dich nicht zu sehr(そんんなにおそれることはない)」となっています。

これを「こゝろゆるして」とすると、心の緊張をゆるめて人にうちとける、特に、日本的な、愛情の受け入れ表現となります。本来なら、原詩の「おそれることはない」の後に来る語ということになります。

万葉集(4・619)に「年深く 長くし云へば まそ鏡 磨ぎし情乎(こころヲ) 縦(ゆるし)てし その日の極み」とあります。

「なが」は、人称代名詞の「汝が」。目下の人や親しい人に対して用いられます。

「わたつみ」の「わた」は海の意、「つ」は「の」、「み」は神霊を意味します。つまり海の神、あるいは、海神のいるところということで海そのものをいいます。 

ここの「浪風あらきわたつみに」は、日々の仕事として荒海に身を任せて暮らす健気な身の上ではないか、そんなお前がどうして私を恐れることがあろう、といった気持ちを表わしているのでしょう。

原詩では「Wilden Meer(荒海)」。これを和歌的に表現しているわけです。

「まかせたるてふ」は、『水沫集』の初版以降「たり」に改められています。「てふ」は「と言ふ」が変化した連語ですから、語調的にも「たり」のほうがすっきりします。


harutoshura at 21:12|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年08月05日

「あまをとめ」②(『於母影』112)

「あまおとめ」のつづき。きょうは冒頭からの4行目までの内容を見ていきます。

浦つたひゆくあまをとめ
舟こぎよせてわがたてる
ほとりにきたれわれと汝
手に手とりあひむつびてむ

浦

「浦」は、海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所、入り江、湾をいいます。万葉集(18・4038)に「玉くしげいつしか明けむ布勢の海の宇良(ウラ)を行きつつ玉藻拾(ひり)はむ」

一般的な海岸、海辺、浜辺、水際を指すこともありますが、地形的にはある程度以上の長さをもった湾状になった海岸線を指すことが多いようです。

また、浦役、浦百姓などと、近世では、漁村一般を指すことばとして用いられた。浦百姓とは、地方(じかた)百姓(純農民)に対し、純漁民あるいは半漁半農民を意味します。

原詩には題名はありません。この1行目の「あまおとめ」から取ったものです。原詩の「Fischermädchen」には、漁を職業とする娘、あるいは父が猟師の娘という意味。

つまり漁人の少女という意味で、海にもぐる「海女」に限定されるものではありません。

「浦つたひゆく」は、「浦」に沿って行くこと。原詩では「aus Land(岸に向けて)」となっているので、訳ではニュアンスが少し異なってきます。

鷗外の歌(「常磐会詠草」第7回「鯨」明治40年3月18日)に「をちこちに貝のねひびき浦づたひ舟人さわぐ鯨よるらし」とあります。

また、「Fischermädchen」には、「美しい」という形容詞が冠せられていますが、訳では省かれています。


harutoshura at 19:12|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年08月04日

「あまをとめ」①(『於母影』111)

ふたたび『於母影』に戻り、きょうから「あまをとめ」を読みます。 

  あまをとめ

浦つたひゆくあまをとめ
舟こぎよせてわがたてる
ほとりにきたれわれと汝
手に手とりあひむつびてむ
こゝろゆるしてわが胸に
なが頭をばおしあてよ
浪風あらきわたつみに
まかせたるてふ身ならずや
そのわたつみにわがこゝろ
さもにたりけり風はあれど
塩のみちひはありといへど
こゝらの玉もしづみつゝ

海女

Du schönes Fischermädchen,
Treibe den Kahn ans Land:
Komm zu mir,setz dich nieder,
Wir kosen Hand in Hand,
Leg an mein Herz dein Köpfchen
Und fürchte dich nicht zu sehr,
Vertraust du dich doch sorglos
Täglich dem wilden Meer.
Mein Herz gleicht ganz dem Meere,
Hat Sturm und Ebb’ und Flut,
Und manche schöne Perle
In seiner Tiefe ruht.

原作は、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の「Du schönes Fischermädchen.」(きみ、美しい漁夫の娘よ)です。

この詩は、ハイネの代表的な詩集『Buch der Lieder』(歌の本、1827)の連作「Die heimkehr」(帰郷)の第8番目の作品の訳になっています。

題名の「あまをとめ」は、海女=写真、wiki=というよりも「海人なる少女」というニュアンスになると思います。

七五調に載せた「意」訳になっていて、原詩の形と意味をかなり忠実に伝えています。

訳者は従来、井上通泰あるいは鷗外とされ、断定されにくい詩です。訳者などについて日本近代文学大系の頭注では、次のように記されています。

「元来井上通泰という人のこの集の訳業への参加の程度はそれほど深くはないものであったらしいこと、確かに通泰の作とされる「花薔薇」「わかれかね」の作風からしてきわめて国文脈の、それも和歌風の発想を色濃く有していた人であること、一方「あまをとめ」の訳しぶりは原詩を正確に読みぬいているあとがうかがわれ、ハイネ風の機智も巧みに生かされている。

すなわち鷗外の筆になるものではないと考えられる。それならばこれも「句」訳でこなすのに適当な例ではなかったかとも言えようが、原詩の韻律は七音節と六音節が交代に現われる形をしており、そこから汲み出すべきリズムは七五調と大して代わりない。

また底本とされたベルンの詞華集の中のこの詩篇には鷗外の手になる書き入れのあとがあり(ただし文字は消しゴムで消されてあり現在判読不可能)彼のこの詩への関心をうかがわせる。すなわちほぼ鷗外の訳であると推定してよいと思う。」


harutoshura at 13:15|PermalinkComments(0)国木田独歩 

2019年08月03日

国木田独歩「山林に自由存す」⑥

「山林に自由存す」。最後に通して眺めておきます。

山林に自由存す 
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ山林をみすてし
 
あくがれて虚栄の途にのぼりしより
十年の月日塵のうちに過ぎぬ
ふりさけ見れば自由の里は
すでに雲山千里の外にある心地す

眥(まなじり)を決して天外を望めば
をちかたの高峰の雪の朝日影
嗚呼山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや
彼処にわれは山林の児なりき
顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす

碑
*武蔵野市

「山林に自由存す」は、宮崎湖処子編『抒情詩』(明治30年4月)に、「独歩吟」(序と詩23篇)の一篇として発表になりました。

ここで発表になった独歩の作品は、清新な抒情詩としておおむね好評だったようです。

後に日夏耿之介は『明治大正詩史』(上巻、昭和4年1月)で、「独歩の詩は詩学の第一段階から正直に羞らひもせず登つて行つた詩である。その単純と幼稚とを嗤ふものも、その真率な純情の発露には卒然と胸を打たれざるをえない」と述べています。

独歩自身は「独歩吟」の序で、次のように記しています。

「余も亦欧詩を羨みし者の一人なり。明治の世に人となり、例えばバイロンを読み、テニソンを読み、シルレルを読める者にして、其情想、衷に激すれども、これを詠出するに自在の詩体吾国に無きを憾む者世間必ず其人多かるべしと信ず、余も亦た其一人なりき。

新日本の建立さるるに当りて全く欠乏せる者は詩歌なりとす。開国以来海外の新思想は潮の如く侵入し来り、吾国文明の性質著しく変化を被りしと雖も、遂に一詩歌現はれて此際の情想を詠じ以て、吾人の記憶に存しめたる者なし。自由の議起り、憲法制定となり、議会開設となり、其間志士苦難の状況は却て詩歌其者の如くなりしと雖も而も一編の詩現はれて当時火の如かりし自由の理想を詠出し、永く民心の琴線に触れしめたる者あらず。

「自由」は欧州に在りて詩人の熱血なりき。日本に移植されては唯だ劇場に於ける壮士演説となり得しのみ。斯くて自由党は其血を枯らし、其心を失ひ、今や議会に在りてすら清歌高明なる自由の理想は見る能はずなりたり。」

また『日本近代文学大系』の補注には、この詩について、次のようにあります。

「山林」とは都会と対立する田園であり、自然であり、宇宙である。独歩は山林に自由の世界を見、都会に虚栄と競争の腐敗した社会を見ている。

独歩には、以前から、宇宙における生存を自覚する個人感と、社会における生存を自覚する社会感とを対立させ、前者を高貴な感情とし、後者を堕落した感情と見る考え方があったが、これを具体的なイメージとしたのが、この詩における山林と都会との対立である。

そして、かつて山林自由の児であった自分が、今は虚栄のちまたにあり、山林自由の世界を見失おうとしていることをなげき、「願くは吾を今一度、自由の児、自然の児とならしめよ」という心の叫びが生み出したのがこの詩である。


harutoshura at 19:09|PermalinkComments(0)国木田独歩 

2019年08月02日

国木田独歩「山林に自由存す」⑤

「山林に自由存す」のつづき。きょうは第4節です。

なつかしきわが故郷は何処ぞや
彼処にわれは山林の児なりき
顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす

千里

最後の節、「なつかしきわが故郷は何処ぞや」から、山林自由の世界である故郷を見失った心情がうたわれていきます。

「彼処にわれは山林の児なりき」からは、山林の児であった過去を懐かしむ気持ちがうかがえます。

「千里江山」は、果てしなく連なっている山川、広大な山野のこと。「雲山千里」と同じように川や山のはるかかなたのことをいいます。 

宋代の王希孟(1096-1119)が18歳のときに描いたとされる「千里江山図」=写真、wiki=は、中国の十大名画の一つともいわれる名作です。

「自由の郷は雲底に没せんとす」には、故郷の山林自由の世界をなつかしむ心情と、それにもかかわらず都会のチリにまみれて「自由の郷」を見失おうとしているわが身のありようを示しています。


harutoshura at 15:25|PermalinkComments(0)国木田独歩 

2019年08月01日

国木田独歩「山林に自由存す」④

「山林に自由存す」のつづき。きょうは第3節です。

眥(まなじり)を決して天外を望めば
をちかたの高峰の雪の朝日影
嗚呼山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

雪渓

「眥」は、古くは「まなしり」。目(ま)の後(しり)、すなわち、めじり、まなこじり、まなさき、を意味します。また、見ること、見るむき、視線、目、ひとみのことをいうこともあります。。

「眥を決して」は、意を決して。目をを大きく見開き、怒りや気力を奮い起こした時の表情にあたります。

「天外」は、天の向うの遠い世界。天のそと、はるかな空。また、きわめて遠いところ、あるいはきわめて高いところをいいます。
和漢朗詠集(上)に「林中の花の錦は時に開くもあり落つるもあり 天外の遊絲は或は有りとやせん無しとやせん〈島田忠臣〉」。

また、予想もできないようなこと、奇想天外のことを言うこともあります。

「をちかた」(彼方)は、遠く離れた方向、遠方のこと。「こもりくの泊瀬(はつせ)の川の彼方に妹らは立たしこの方に我は立ちて」(万葉集・13・3299)。

「をちかたの高峰」というと、東京からだと富士山などを望むことができます。この場合は自然の象徴としての「高峰」でしょう。

「雪の朝日影」とは、峰の雪にきらめく朝日の光のこと。


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