2019年05月

2019年05月31日

レーナウ「月光」(『於母影』52)

きょうは中国詩を一休み。『於母影』の「月光」の原詩である、オーストリアの詩人ニコラウス・レーナウ(Nikolaus Lenau、1802-1850)=写真、wiki=の「月光(Das Mondlicht)」の訳を試みてみました。

Dein gedenkend irr' ich einsam
Diesen Strom entlang;
Könntend lauschen wir gemeinsam
Seinem Wellenklang.
あなたのことを考えながら、私は独り
この大河をたどり、さまよい歩く
二人でともに、この流れのせせらぎに
耳を澄ましていられたならば!

Könnten wir zusammen schauen
In den Mond empor,
Der da drüben aus den Auen
Leise taucht hervor.
のぼりゆくあの月を二人でともに
ながめていることができたなら
月は遥かな緑の水郷から
おぼろに浮き上がろうとしている

Freundlich streut er meinem Blicke
Aus dem Silberschein
Stromhinüber eine Brücke
Bis zum stillen Hain. -
月はやさしく私の眺めの中に
銀色にかがやく一本の橋を
流れの向うがわへと架ける
やすらかな森にたどり着くまで

Wo des Stromes frohe Wellen
Durch den Schimmer zieh'n,
Seh' ich, wie hinab die schnellen
Unaufhaltsam fliehn.
大河のおおらかなさざ波が
薄明をぬって動きゆくところ
急流はとどまることなく
過ぎ去ってゆくのを私は見る

Aber wo im schimmerlosen
Dunkel geht die Flut,
Ist sie nur ein dumpfes Tosen,
Das dem Auge ruht. -
けれど、わずかな光さえ失した
闇のなかに、潮は満ちていく
ただ、そこには虚ろな潮騒
まなざしはじっと止まったままだ――

Daß doch mein Geschick mir brächte
Einen Blick von dir!
Süßes Mondlicht meiner Nächte,
Mädchen, bist du mir!
けれども、私の運命があなたの
目の輝きをもたらしてくれるなら!
わが夜の甘美な月光こそが
愛するひと、あなたなのだ

Wenn nach dir ich oft vergebens
In die Nacht geseh'n,
Scheint der dunkle Strom des Lebens
Trauernd stillzustehn.
とき折りいたずらに夜のなか
あなたを見きわめようとすると
いのちの黒ずんだ大河は
悲しみによどんでいるようだ

Wenn du über seine Wogen
Strahlest zauberhell,
Seh' ich sie dahingezogen,
Ach! nur allzuschnell.
あなたがその波浪のうえに
妖しく澄みきった光を放つとき
それが過ぎ去りゆくのに私は気づく
ああ! ただもう、あまりに速く!

レーナウ

レーナウは1802年、当時ハンガリー領だったシャダート(Schadat、現在のルーマニア・ティミシュ県レナウヘイム)で、ドイツ・スラブ系の父親とドイツ・ハンガリー系の母親の間に生まれました。

父は、病弱のために職を捨ててブダペストに移住し、っこの地で1897年に亡くなっています。母はハンガリーのトカイの医師と再婚し、若きレーナウはワイン産地で知られるこの地で過ごしました。

ウィーン大学に入ると、不安定な精神状態の中で、哲学、法律、医学など専攻分野を転々とします。

1829年には、母が亡くなり、深い悲しみに包まれることになります。「月光(Das Mondlicht)」が作られたのはこの前後のことだったと考えられています。

遺産が手に入り、1831年にシュトゥットガルトに移り、ルートヴィヒ・ウーラントらシュヴァーベン詩派の作家と親交を持ち、文筆活動を行います。

1832年には自由の国アメリカにわたりますが、郷愁にかられてすぐに帰欧。一所不住の放浪の旅、精神を冒す興奮剤にはまり、1834年からは友人の妻ゾフィー・レーヴェンタールとの恋愛関係に悩みことになります。

1844年には精神病の兆候が顕わになり、自殺未遂。精神病院に5年間の入院のした末、1850年、精神錯乱のうちに悲惨な最期を遂げました。

ハンガリー的情熱と、スラブ的憂鬱の交じり合った独自の作風により「世界苦の詩人」として知られ、ポーランドの民族運動に同情的であったために「オーストリアのバイロン」とも呼ばれました。

レーナウはベートーヴェンを崇拝し、自身もヴァイオリンを演奏しました。また、フランツ・リストの『レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』(1860年)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』(1888年)など、彼の詩は、多くの歌曲や交響詩を生むきっかけとなっています。


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2019年05月30日

中国詩の形式⑧(『於母影』51)

きょうは、古体詩の中でも「古絶句」と呼ばれるという詩の形について検討します。

入春纔七日  春に入りて纔(わず)かに七日
離家已二年  家を離れて已(すで)に二年
人帰落雁後  人の帰るは雁の後に落ち
思発在花前  思いの発するは花の前に在り

帰郷

これは、随の薛道衡(せつどうこう)の「人日思帰」(人日帰るを思う)という詩です。佐藤保氏による和訳は次のようになります。

春になってまだ七日しかたっていない。
家を離れてはや二年が過ぎた。
わたしの帰国は雁がすっかり北に帰ったあとになるが、
帰郷の思いはすでに春の花が開く前に満開だ。

薛道衡(540?―609?)は、隋の時代の文人。字は玄卿(げんけい)。河東郡汾陰(ふんいん)(山西省)の人で、北斉、北周、隋の3代に仕え、隋の文帝のとき、南朝陳の討伐に功があり、政治の枢要にあったとされます。

庾信(ゆしん)によって北朝にもたらされた南朝の艶麗な文学的手法と北方の質実剛健な気風とをあわせた詩風は、唐詩の先駆ともされます。文帝を殺して即位した煬帝に時政を論じて忌まれて自害を命じられたとも、煬帝が彼の詩句に嫉妬して殺したともいわれているそうです。

そんな薛道衡が、国使として北の隋から南の陳に赴いた際に、文学的には優位にあると自負していた陳の人たちを驚かしたと伝えられているのがこの詩です。

古体詩とは、近体詩の形式からはずれる、入律していない詩形すべてを指します。四言の古詩は『詩経』の作品がその代表。五言古詩は漢魏六朝期を通じて最も普遍的な詩形と考えられ、七言古詩は六朝期の楽府歌謡などに多く用いられました。

一方、楽譜作品には、雑言古詩も多く見られます。一首の句づくりに定形がなく、五言と七言が混ざったり、七言以上の句が使われたりする詩形です。

近体詩は唐代に入って確立された新しい形式ですが、六朝の斉や梁のころにはすでに詩の韻律に対する関心が芽生えていたため、当時の作品でも意識的に韻律を整えることもあったようで、韻律的には近体詩として通る作品も少なくありません。

五言四句の古詩にも、絶句と同じ韻律をもつものがたくさんあります。そうした古詩は特に「古絶句」とも呼ばれています。薛道衡の「人日思帰」も、その一つ。平仄や脚韻は次のようになります。

入春纔七日 ●○○●●
離家已二年 ○○●●◎
人帰落雁後 ○○●●●
思発在花前 ○●●○◎

脚韻は下平声・一先(『広韻』も同じ)

近体の絶句では、二句ひとまとまりから成る聯の各句二字目の平仄を違えなければならない「反法」という規則がありました。

「人日思帰」の起句と承句は、反法に従っていないという問題はありますが、それ以外の句づくりは唐代に作られた絶句と言っても通用しそうです。

逆に、唐代に入ってからの近体詩でありながら、平仄の法を破って奇句などを使用した「拗体」の詩も少なくありません。

近体詩が成立した唐代以降、古体詩と近体詩が共存することになったため、詩人たちは作品の内容によって、近体か古体かを意図的に選択していたのです。


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2019年05月29日

中国詩の形式⑦(『於母影』50)

きょうは七言絶句の形式について検討してみます。次にあげるのは、唐の詩人・劉禹錫(りゅううしゃく)=写真、wiki=の「金陵五題、烏衣巷」です。

朱雀橋辺野草花  朱雀橋辺 野草花さき  
烏衣巷口夕陽斜  烏衣巷(ういこう)口 夕陽斜めなり 
旧時王謝堂前燕  旧時 王謝堂前の燕 
飛入尋常百姓家  飛びて尋常百姓の家に入る

りゅう

「朱雀橋」は、かつて六朝時代に都として栄えた南京の橋。「烏衣巷」は貴族たちが住んでいた町名。王謝は南朝の豪族だった王氏と謝氏。「百姓」は農民ではなく、庶民、一般の人たちのことです。

佐藤保氏は次のように訳しています。

朱雀橋のほとりには野草が花をつけ、
烏衣巷の入り口には、夕陽が斜めにさしている。
むかし、豪族の王氏や謝氏の広間の前にいたツバメが、
今では、ありふれたふつうの民家に飛びこんでくる。

この詩の平仄を調べると、規則通り「二四不同二六対」になっていて、起・承句が対句の一聯と、転・結句が対句でない一聯からできていることがわかります。

朱雀橋辺野草花 ○●○○●●◎ ×●×○×●× 
烏衣巷口夕陽斜 ○○●●●○◎ ×○×●×○× 
旧時王謝堂前燕 ●○○●○○● ×○×●×○×
飛入尋常百姓家 ○●○○●●◎ ×●×○×●×

この作品は、いわゆる懐古詩に属するもののようですが、平仄のパターンは以前見た杜甫の「登高」詩の頸聯と尾聯を組み合わせた形に相当します。

絶句にはほかに、六言絶句の形式もあります。これは特に宋代に好んで作られるようになりました。二四不同や偶数句の押韻などは、五言詩によく似ています。

近体詩には、同一の詩の中ではできる限り同じ文字を重複して用いないという規則もあります。同じ文字の繰り返しが意味の重複や単調さの原因になるのを避けるための決まりと考えれられます。

しかし、すぐれた作品はしばしばこれらの決まりを無視して、独自の詩の世界を生み出して来ている、というのも事実なのです。


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2019年05月28日

中国詩の形式⑥(『於母影』49)

きょうは、韋承慶の「南中詠雁」を例に、四句で構成される絶句の形式について考えます。

万里人南去  万里 人南に去(ゆ)き
三春雁北飛  三春 雁は北に飛ぶ
不知何歳月  知らず 何(いずれ)の歳月ぞ
得与爾同帰  爾と同(とも)に帰るを得んや

雁
*wiki

ここにあげた韋承慶の詩「南中詠雁」は、佐藤保氏の訳では次のようになります。

都をはなれて、わたしは万里はるか南に行く途中、
この春の季節、雁の群れは北をめざして飛び行く。
いったいいつになったら、
おまえたちの雁の群れといっしょに都に帰れることだろう。

「南中詠雁」は、五言絶句です。絶句も「二四同音」ないし「二四同音二六対」、反法・粘法、押韻などの規則は、基本的に律詩と異なりません。

句法からいえば、五言絶句、七言絶句とも、五・七言律詩を構成する各聯のなかの二つの聯を組み合わせた形式となります。

起・承・転・結と呼ばれる絶句の四句は、起句と承句の一聯と、転句と結句の一聯に分解できて、それぞれ律詩のいずれかの聯に相当するかたちになります。

「南中詠雁」の平仄は次の通りで、二四同音となっていることがわかります。脚韻は、上平声・五微。広韻だと上平声・八微となります。

万里人南去 ●●○○● ×●×○×
三春雁北飛 ○○●●◎ ×○×●×
不知何歳月 ●○○●● ×〇×●×
得与爾同帰 ●●○○◎ ×●×○×

漢詩では、初句の二字目が「平」の場合を「平起(ひょうおこり)式」、初句二字目が「仄」の場合を「仄起(そくおこり)式」と言います。

「南中詠雁」は仄起式で、起句と承句が対句の聯となっています。前に見た「春夜雨を喜ぶ」の頸聯と同じ構造をしていることがわかります。

また、転句と結句の一聯も、結句の一字目と三字目は異なりますが、肝心の二字目と四字目は同じになっています。「南中詠雁」は、仄起式律詩の頸聯と尾聯を組み合わせたものと見ることもできそうです。

律詩の首聯・頷聯・頸聯・尾聯をもとに整理すると、絶句は、平起式、仄起式の別なく、基本的次の四つの型に分けることができます。

①首聯と尾聯 四句に対句の聯を含まない。最も多いタイプで、特に七言絶句に多い。

②頸聯と尾聯 起句と承句が対句の一聯と転句と結句が対句でない一聯からなる。

③首聯と頷聯 起句と承句が対句でない一聯、転句と結句が対句でない一聯からなる。

④頷聯と頸聯 「全対」の絶句で、対句の二聯からなる。


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2019年05月27日

中国詩の形式⑤(『於母影』48)

きょうは杜甫の「春帰」を例に、排律の詩の形式について考えます。

苔径臨江竹  苔径(たいけい) 江に臨む竹あり
茅簷覆地花  茅簷(ぼうえん) 地を覆う花あり 
別来頻甲子  別れてより来(このかた) 頻りに甲子あるも
帰到忽春華  帰り到れば忽として春華あり  
倚杖看孤石  杖に倚(よ)りて孤石を看(み)
傾壷就浅沙  壷を傾けて浅沙(せんさ)に就く
遠鴎浮水静  遠鴎(えんおう) 水に浮かんで静かに
軽燕受風斜  軽燕(けいえん) 風を受けて斜めなり
世路雖多梗  世路(せろ) 梗(ふさが)ること多しと雖も
吾生亦有涯  吾が生も亦(ま)た涯(かぎ)り有り
此身醒復酔  此の身 醒めて復(ま)た酔う
乗興即為家  興に乗じて即(すなわ)ち家と為す

カモメ

ここにあげたのは、杜甫の五言排律「春帰」(春に帰る)です。成都を一時離れていた杜甫が、広徳2(764)年の春、成都の草堂に帰って来たときの詩です。

佐藤保は次のような訳詩をつけています。

苔むしたこみちが、川面にむかって生い茂る竹林の中に通じ、
茅葺きの軒端には、地面をおおって花が咲いている。
この草堂に別れてから今日まで、だいぶ日数をかさねたが、
もどって来てみれば、思いがけなくも春の花盛り。
杖によりかかってただ一つの庭石をながめたり、
酒壷を傾けながら浅瀬の砂浜に腰をおろす。
遠くのカモメは静かに水に浮かび、
軽やかなツバメは風を受けて斜めに飛び交う。
渡る世間には障害が多く、とても思いどおりには行かないが、
わたしの一生にもかぎりがあるのだから、
わたしはただ、酒が醒めたらまた酒に酔う、
思いのままに自然にふるまえるこの草堂こそ、まことのわが家。

排律というのは五言・七言とも、律詩の中間の対句の聯が増加されてゆく作品で、長律とも呼ばれます。

つまり、1聯増えれば10句の排律となり、2聯増えれば12句の排律となるわけです。

偶数句が押韻し、押韻する韻の数によって五言五韻(10句)の排律とか、五言六韻(12句)の排律といいます。「春帰」はこの五言六韻の作品です。

唐代の科挙の試験の答案詩は、主に五言六韻の排律が作られました。20韻、30韻、さらには100韻といった長編もあるそうです。

五言排律に比べると七言排律はごく僅かのようです。

「春帰」の平仄や「二四不同」、韻を調べると次のようになります。

苔径臨江竹 ○●○○● ×●×○× チク
茅簷覆地花 ○○●●◎ ×○×●× クヮ・ケ
別来頻甲子 ●○○●● ×○×●× シ
帰到忽春華 ○●●○◎ ×●×○× クヮ・ケ
倚杖看孤石 ●●○○● ×●×○× セキ・ジャク
傾壷就浅沙 ○○●●◎ ×○×●× サ・シャ
遠鴎浮水静 ●○○●● ×○×●× セイ・ジャウ
軽燕受風斜 ○●●○◎ ×●×○× シャ
世路雖多梗 ●●○○● ×●×○× カウ
吾生亦有涯 ○○●●◎ ×○×●× ガイ・ガ・ゲ
此身醒復酔 ●○○●● ×○×●× スヰ
乗興即為家 ○●●○◎ ×●×○× カ・ケ

「春帰」は、第2聯から第5聯までの中間4聯が、対称的な内容であるとともに韻律的にも文法構造上もきれいな対称を示し、第1聯も含めて、みごとな対句の聯を構成しています。


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2019年05月26日

中国詩の形式④(『於母影』47)

 中国の詩の形式について、きょうは七言律詩について検討してみます。

風急天高猿嘯哀 風急に天高くして 猿嘯(な)きて哀し
渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙(すな)白くして 鳥飛び回(めぐ)る
無辺落木蕭蕭下 無辺の落木 蕭蕭(しょうしょう)として下り 
不尽長江滾滾來 不尽の長江 滾滾(こんこん)として来る
万里悲秋常作客 万里悲秋 常に客と作(な)り
百年多病独登台 百年多病 独り台に登る
艱難苦恨繁霜鬢 艱難 苦(はなは)だ恨む 繁霜の鬢(びん)
潦倒新停濁酒杯 潦倒(ろうとう) 新たに停む 濁酒の杯 

登高

これは、杜甫の晩年の作「登高」の一首です。長江中流の有名な三峡の険の入り口にあたる虁(き)州でつくられた作品です。

この時、杜甫は56歳。大歴元(767)年、旧暦9月9日、重陽の日に、高台に登って眺望した景色とそれに触発された情感をうたっています。

佐藤保氏は次のように訳しています。

秋風はげしく空は高く澄み、サルの鳴き声が悲しく響きわたる。
岸辺の水は清らかに砂は白く、水鳥が飛びまわっている。
はてしなく広がる木々の葉が、風にサワサワと散り落ち、
尽きることのない長江の水は、コンコンと次々に流れ去る。
故郷を遠くはなれた悲しい秋に、わたしはいつも旅人の境遇、
一生を病いに苦しみつつ、ただひとり高台に上るのだ。
苦労をかさねて白くなったビンの毛が、なんともうらめしい。
病み衰えたわたしは、近ごろ酒杯を傾けることもやめてしまった。

この「登高」についての平仄と各句末の日本漢字読みを示すと次のようになります。

○●○○○●◎ アイ
●○○●●○◎ クヮイ
○○●●○○● ゲ・カ
●●○○●●◎ ライ
●●○○○●● キャク・カク
●○○●●○◎ ダイ
○○●●○○● ビン
●●○○●●◎ ハイ

五言律詩より2字増えて、句づくりが「二四不同二六対」となっています。また、頷聯と頸聯が対句であるところなどは五言律詩とまったく同じです。

もっとも「登高」の場合は、首聯や尾聯も対句仕立てで「全対」と呼ばれる構成になっていますが、首聯と尾聯
の対句は、律詩の必要条件というわけではありません。

七言律詩の場合は、この作品のように、偶数句だけでなく、第一句から押韻するのが規則になっています。ただし、第一句の押韻をはずす作品も少なくありません。


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2019年05月25日

中国詩の形式③(『於母影』46)

きょうは、杜甫の「春夜喜雨」をもとに、律詩のきまりについて整理しておきましょう。

好雨知時節  好雨時節を知り
当春乃発生  春に当りて乃ち発生す
随風潜入夜  風に随ひて 潜かに夜に入り
潤物細無声  物を潤して 細かにして声無し
野径雲倶黒  野径(やけい) 雲 倶(とも)に黒く
江船火独明  江船 火 独り明るし
暁看紅湿処  暁に 紅の湿(うるほ)ふ処を看れば
花重錦官城  花重からん 錦官城

春夜喜雨

きのう見たように、中国詩は大きく近体詩と古体詩に区別されます。近体詩は、今体詩ともいうほか、「二四不同」「二四不同二六対」など韻律的規則に合致する「入律の詩」であることから、それを縮めて「律詩」(広義の)という呼ぶこともあります。

近体詩は、絶句、律詩、排律の3種類に分けることができますが「春夜喜雨」はこのうちの律詩にあたります。「春夜喜雨」の平声(○)と仄声(●)、脚韻字(◎)、「二四不同」について、さらに反法・粘法・脚韻など改めて示すと次のようになります。

なお、平仄の対称的な関係を「反」の関係、「反法」というのに対して、前の句の平仄パターンを繰り返すことを、あたかも粘着しているように見えるので「粘」の関係、「粘法」と呼んでいます。

  好雨知時節 ●●○○● ×●×○×
首聯             反法
  当春乃発生 ○○●●◎ ×○×●×
               粘法
  随風潜入夜 ○○○●● ×○×●×
頷聯             反法
  潤物細無声 ●●●○◎ ×●×○×
               粘法
  野径雲倶黒 ●●○○● ×●×○×
頸聯             反法
  江船火独明 ○○●●◎ ×○×●×
               粘法
  暁看紅湿処 ●○○●● ×○×●×
尾聯             反法
  花重錦官城 ○●●○◎ ×●×○×

律詩には、こうした韻律上の規則のほかに、四聯のうち中間の頷聯と頸聯は必ず「対句」でなければならないというきまりがあります。

対句というのは、二句の韻律が対称的であるうえ、意味の上でも対称的でかつ文法的な構造が等しい聯のことをいいます。

「春夜喜雨」の頷聯を見ると、「随風(風に随ひて)」と「潤物(物を潤して)」、それに「入夜(夜に入り)」と「無声(声無し)」は、どちらも「動詞+目的語」のセットになった動賓構造です。また、「潜(潜かに)」と「細(細かにして)」はどちらも副詞になっています。

頸聯では、「野径」と「江船」、「雲」と「火」はともに名詞、「倶黒(倶に黒く)」と「独明(独り明るし)」はどちらも副詞・形容詞で、共通した文法構造になっています。


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2019年05月24日

中国詩の形式②(『於母影』45)

きょうは、昨日とおなじ杜甫の作品で「前出塞(ぜんしゅつさい)」という詩をもとに、中国詩の平仄についての理解を深めていきます。

戚戚去故里  戚戚(せきせき)としで故里(こり)より
 去り
悠悠赴交河  悠悠(ゆうゆう) 交河(こうが)に
 赴く
公家有程期  公家(こうか)に程期(ていき) 有り
亡命嬰禍羅  亡命(ぼうめい)すれば禍羅(くわら)に
 嬰(かか)る
君已富土境  君 己(すで)に土境(どきょう)に富めり
開辺一何多  辺を開くこと一(ひと)へに何ぞ多き
棄絶父母恩  父母(ふぼ)の恩を棄絶(きぜつ)して
吞声行負戈  声を呑んで行くに戈(くわ)を負ふ

前出塞

この詩を佐藤保氏は次のように訳しています。

かなしみつつ故郷をはなれて、
遠く交河の前線に赴く。
お上には旅の日程の期限があるので、
逃亡すれば刑罰がふりかかる。
我が君はすでに領土をたくさんお持ちなのに、
どうしてまた辺境を開くのに、こうもご熱心なのか。
父母の恩愛をふりきって、
声を忍んで泣きながら、戈(ほこ)を背に旅立って行く。

きのう読んだ「春夜喜雨」と同じようにこの詩も五言詩で、八句で構成されています。さらに、句末の漢字を日本漢字音で音読してみると――

第1句末 「里」リ
第2句末 「河」カ
第3句末 「期」キ
第4句末 「羅」ラ
第5句末 「境」ケイ・キャウ
第6句末 「多」タ
第7句末 「恩」オン
第8句末 「戈」クヮ

「春夜喜雨(春夜雨を喜ぶ)」と同じように、偶数句の文字が同じ母音をもっていることが分かります。つまり、どちらも偶数句が押韻していることになります。

ということは、どちらも同じ形式の詩かというと、そうはいきません。「春夜喜雨」が五言律詩であるのに対して「前出塞」は五言古詩に属するのです。この違いは、中国語の韻律である平仄に起因します。

きのう見たように、中国詩は、平声・上声・去声・入声の四声の違いをうまく使って、平声の文字と仄声(上声・去声・入声)の文字を句づくりのときにうまく配列することによって、詩の聴覚的効果を上げています。

では「春夜喜雨」と「前出塞」について、平声(○)と仄声(●)の並びかたを比べてみましょう。◎は平声の脚韻字、右側に示したのは特に2字目と4字目をピックアップした場合の配置です。

①「春夜喜雨」

第1句 ●●○○●  ×●×○×
第2句 ○○●●◎  ×○×●×
第3句 ○○○●●  ×○×●×
第4句 ●●●○◎  ×●×○×
第5句 ●●○○●  ×●×○×
第6句 ○○●●◎  ×○×●×
第7句 ●○○●●  ×○×●×
第8句 ○●●○◎  ×●×○×

②「前出塞」

第1句 ●●●●●  ×●×●×
第2句 ○○●○◎  ×○×○×
第3句 ○○●○○  ×○×○×
第4句 ○●○●◎  ×●×●×
第5句 ○●●●●  ×●×●×
第6句 ○○●○◎  ×○×○×
第7句 ●●●●○  ×●×●×
第8句 ○○○●◎  ×○×●×

ここで、①と②について、奇数句と偶数句を合わせた2句(1聯)ごと(1・2句=1聯、3・4句=2聯、5・6句=3聯、7・8句=4聯)の平仄を比較してみます。

①では、第1句の3字目が○なら第2句の3字目は●というように、完全にきれいな対称をなしています。ところが②では第1句の3字目も第2句の3字目も●といった具合に対称が乱れています。

①のような平仄の対照的な関係を「反」の関係、「反法」と呼んでいます。

また、一つの句の中の2字目と4字字目に注目すると、①は2字目と4字目がきれいに対称的に並んでいるのに対して、②では最後の句以外はすべて同じ声調の文字を繰り返しています。

①のように一句中の平仄を必ず対称的に配列することを「二四不同(にしふどう)」の原則といい、唐代に成立した絶句・律詩・排律など近体詩とそれ以前の古体詩を区別する最も基本的な目安とされています。

こうした点から、一見同じ型に見える二つの詩でありながら「春夜喜雨」は律詩、「前出塞」は古詩ということになるのです。

一句が7字からなる七言詩も、近体詩の場合は5字目までは五言詩と同じ原則が守られ、残りの2字についても平仄を変化させようという意識が働いて、6字目の平仄を2字目と揃えて、一つの聯を、

×○×●×○×
×●×○×●×

あるいは、

×●×○×●×
×○×●×○×

のような句づくりにします。これを「二四不同二六対」の原則といいます。「二六対」というのは、2字目と6字目の平仄が同じ、という意味です。


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2019年05月23日

中国詩の形式①(『於母影』44)

きょうは、杜甫の詩をもとに、中国詩の押韻や声調について考えてみます。

好雨知時節  好雨時節を知り
当春乃発生  春に当りて乃ち発生す
随風潜入夜  風に随ひて 潜かに夜に入り
潤物細無声  物を潤して 細かにして声無し
野径雲倶黒  野径(やけい) 雲 倶(とも)に黒く
江船火独明  江船 火 独り明るし
暁看紅湿処  暁に 紅の湿(うるほ)ふ処を看れば
花重錦官城  花重からん 錦官城

トホ

これは、杜甫=写真、wiki=の「春夜喜雨(春夜雨を喜ぶ)」という作品で、杜甫が50歳前後のとき蜀の成都で作ったとされています。佐藤保氏は次のように訳しています。

すばらしい雨は、降るべき時節を心得て降りだし、
春のこのとき、生きとし生けるものすべての生長をうながしはじめた。
雨は風に吹かれて、いつしか夜の闇にしのびこみ、
万物をしっとりと濡らしながら、音もなく降りそそぐ。
野中の小道に出てみれば、雲もあたりのものもみな黒々としており、
川に浮かぶ船の漁(いさ)り火だけがあかあかと明るい。
夜が明けて、あかい色が雨に濡れているところを見れば、
きっと雨をうけて咲きだした花々が枝もたわわに、錦官城には満ちあふれていることだろう。

この詩は、一句が五字のいわゆる「五言詩」で、八句で構成されています。また、各行の句末の漢字を日本の漢字音で音読してみると次のようになります。

第1句末 「節」セツ
第2句末 「生」セイ・シャウ
第3句末 「夜」ヤ
第4句末 「声」セイ・シャウ
第5句末 「黒」コク
第6句末 「明」メイ・ミョウ
第7句末 「処」ショ
第8句末 「城」セイ・ジャウ

これを見ると、偶数句の文字が同じ母音をもっていることに気がつきます。このように、句末の韻が一定の規則性をもって同じ母音を響かせることを「脚韻を踏む」とか、「押韻」しているといいます。

この詩では、偶数句で押韻していることがわかります。一句および句と句の間の抑揚パターン(声調)から、杜甫のこの作品は、中国の伝統的な詩の形式からすると「律詩」という形式に属し、五言律詩であることがわかります。

とはいえ、押韻については、日本の漢字音でおおよその見当はつきますが、声調となると簡単には判断できません。また、漢字の字音と声調は時代によって変化し、現代中国語の発音とはだいぶ変化してしまっています。

こうした中国語の音韻変化を、ふつうは①上古音(周・秦・漢代の音)②中古音(隋・唐時代の音)③中世音(宋・元・明代の音)④近世音(清代の音)⑤現代音(現代中国語の音)に大別されます。

日本の漢字音は、遣唐使とともに多数の留学生や留学僧が唐に渡って学術・文化の吸収につとめた日中の文化交流を反映して、主として中古音を日本語にうつしたものとされています。

ところで、日本漢字音にうつすことのできなかった中国語の声調には、平声(ヘイセイ・ヒョウショウ)、上声(ジョウセイ・ジョウショウ)、去声(キョセイ・キョショウ)、入声(ニュウセイ・ニュウショウ・ニッショウ)の四つあり、「四声(しせい)」と呼ばれています。

現代中国語の標準音にも四声がありますが、ここでいう「四声」とは異なります。

それぞれの声調が実際どのように発音されていたのかは、明確でない点も多いようですがザックリ言うと、平声は平らにのばす音、上声は上り調子、去声は音の最後を下げる発音、入声は音の最後が詰まる音といった区別ができるとされます。

四声のうち、入声の声調は中世の元代にはほとんど消滅しました。が、古典詩の詩韻としてはその後も入声の漢字を他と区別して実際の詩作にそのまま用いています。

入声は、中国語の韻尾が無声の「-p」「-t」「-k」で終わるという特徴があり、それらは日本漢字音の「フ、ツ・チ、ク・キ」という音節にうつされたので、日本語で音読して「フ」「ツ・チ」「ク・キ」で終わる漢字は入声の字であると見当をつけることができます。

四声の中で、平声はたいへん多いため、便宜的に「上平声」と「下平声」の二つに分けることもあります。また、上声、去声、入声を一括して「仄声」と呼びます。音が平らかでなく、上下あるいは詰まるなどの変化があるものをまとめたことになります。

「春夜喜雨」を、平声(○)、仄声(●)、平声の脚韻字(◎)で示すと、次のようになります。

●●○○●
○○●●◎
○○○●●
●●●○◎
●●○○●
○○●●◎
●○○●●
○●●○◎


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2019年05月22日

「関雎のうた」(『於母影』43)

いま読んでいる『於母影』には、「月光」のように中国詩的な訳が含まれています。きょうからしばらく、中国詩の形式について整理して、「月光」が漢詩といえるのかどうか検討してみたいと思います。

関関雎鳩  関関たる雎鳩(しょきゅう)は
在河之洲  河の洲(す)に在り
窈窕淑女  窈窕(ようちょう)たる淑女は
君子好逑  君子の好逑(こうきゅう)

参差荇菜  参差(しんし)たる荇菜(こうさい)は
左右流之  左右 これを流(もと)む
窈窕淑女  窈窕たる淑女は
寤寐求之  寤寐(ごび) これを求む
求之不得  これを求むれども得ず
寤寐思服  寤寐 思服(しふく)す
悠哉悠哉  悠なる哉 悠なる哉
輾転反側  輾転反側(てんてんはんそく)す

ミサゴ

「雎鳩」とはミサゴ=写真、wiki=のこと。ここにあげたのは、中国古典詩の実質的なはじまりと考えられている『詩経』の最初の詩篇です。佐藤保『中国古典詩学』には、次のような訳が付けられています。

カンカンと鳴き交わすミサゴは、
黄河の中洲に仲むつまじい。
たおやかな良きむすめは、
すぐれたおのこの良きつれあい。

高く低く生い茂るアサザは、
右や左にさがしてつみとる。
たおやかな良きむすめは、
寝ても覚めてもさがし求める。
さがし求めて見つからなければ、
寝ても覚めても思い悩む。
思いははるか、はるかかなた、
夜もすがら寝返りうって思いわずらう。

当たり前のことですが中国の詩は、漢字を用いて書き表されます。漢字は表意文字と言われるように、原則的には一字が一つの意味を表し、それぞれ一つの音をもちます。

言い換えれば、一つの漢字の字形・字音・字義が緊密に結びついているということができます。たとえば「漢」は常に「カン」という固有の音で発音され、天の川、王朝名、中国などのそれぞれ独立した意味を表します。

「漢」をはじめいま漢字の多くが多義的なのは、原義から派生した多くの派生語を合わせもつからで、もとは一つの意味を表すために一つの漢字が作られたと考えられます。

しかし、同音の「汗」でも、字形が異なれば意味のまったく違う言葉になってしまいます。この漢字一字の完結性・独立性が欧米のアルファベットや日本の「かな」のような表音文字と基本的に異なる漢字の特性なのです。

『詩経』の「関雎のうた」は、一句が四つの漢字で表現されています。それはつまり、一句が四つの言葉で構成されていることを意味し、また、それは四つの音の組み合わせで成り立っているともいえるのです。

四字句は、すなわち四言句なのです。さらに漢字は、一字の字音がすべて一音節(単音節)で、それぞれ固有の音の抑揚、つまり「声調」をもつという特徴をもっています。

一音節というのは、ザックリ言えば一つの子音と一つの母音からなる音声の一単位のこと。中国語の音韻学では、子音を声母、母音を韻母といい、韻母をさらに介音・主母音・韻尾に分けます。

たとえば「関」は、現代中国語では「guān」と発音されますが、それを分解すれば次のようになります。

関(guān)=声母(g)+韻母(uān)
韻母(uān)=介音(u)+主母音(a)+韻尾(n)

詩句のリズム(韻律)は、文字(音節)の数と声調の変化が生み出すのであり、リズムの違いが中国語の多様な形式をつくり出したのです。


harutoshura at 23:33|PermalinkComments(0)漢詩 

2019年05月21日

「月光」⑮(『於母影』42)

「月光」のつづき。もう一度、漢文で書かれた全文を見渡しておきます。

思汝無巳孤出蓬戸  沿岸行且吟
安得倶汝江上相聚  聞此流水音

安得倶汝江上聯袂  瞻仰天色開
時自前岸平野之際  明月徐上来

光彩飛散其色銀白  依約凝架虹
虹也千丈中断潮脉  遥達幽樹叢

逢此光彩輝映娯目  波亦心自怡
飜見波起波伏相逐  其逝長若斯

看到汀樹浸影之処  茫忽疑有無
微聴其響無見其去  如対千頃湖

吾所希眼波一揺耳  何日能得償
思汝無巳嗟汝何似  吾夜之月光

期汝時聴跫倒吾屣  深夜空決眸
昏黒生路如大江水  嗚咽停不流

逢汝時又看李花面  明月将失妍
生路流水如箭如電  嗟奈其瞥然

Moonlight

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Dein gedenkend irr' ich einsam 
思汝無巳孤出蓬戸 
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

 ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄
Diesen Strom entlang;
沿岸行且吟
(岸に沿ひて行き且つ吟ず)

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Könnten lauschen wir gemeinsam
安得倶汝江上相聚
(安くんぞ得ん 汝と倶に江上に相ひ聚ひ)

 ̄ ̄∪  ̄ ̄∪ ̄ ̄
Seinem Wellenklang.

以前も見たように、「月光」の原詩であるドイツ詩のリズム(律)は、強音節(Hebung)と弱音節(Senkung)の組み合わせを根幹として成り立っています。

そして詩行は、Hebungの数によって区別されます。つまり一行に、Hebungが2つあれば2脚(zweihebig)、5つあれば5脚(fünfhebig)ということになります。

定型の詩行には、HebungとSenkungの規則的な配置が見られ、中でもHebungとSenkungが1個ずつ交互に出現する詩行が数多く見られます。

それら交互に出現する定型詩のうち、Hebungで始まる、つまり「強弱」の順に繰り返しケースをトロヘーウス(強弱格、Trochäus)といいます。

これまで見てきた『於母影』の「月光」はというと、このトロヘーウスにあたります。鷗外が付けた、強弱格を示すスカンションを見れば分かるように、原詩の詩形は次のように言うことができるでしょう。

奇数行は8音節で女性韻(最後の音節にアクセントがない押韻)で終わる4脚、偶数行は5音節で男性韻に終わる3脚のトロヘーウス(強弱格)で構成され、脚韻は「abab」の交差韻になっている。

鷗外は、このトロヘーウスを漢語の平仄によって写し取るなどの工夫を凝らして、レーナウの「Das Mondlicht」を立体的に訳して「月光」を作ったのです。

しかし、さまざまな韻律や句法をもつ漢詩とはいえ、西洋詩を完全に写し込むわけにはいきません。そのあたりについて日本近代文学大系の補注では、次のように指摘しています。

〈『詩経』『楚辞』の昔はさて措き、唐代、漢詩が一応完成の域に達して以来、漢詩はそのいわゆる古体詩たると近体詩たるを問わず、七言の句をそろえるか、五言の句をつらねるかするのが基本型。

八言の句の異常さはすでにいったが、七言と五言が交互に現われるという型もない。一篇の詩たる以上は、詩句の字数(語数、言数)は終始一貫するのが通則。

そこで、この型破りの構造をもつ漢詩体の「月光」は、せめて視覚的にでも漢詩らしい趣きを見せようがため、八言は異常ながらも八言だけ、そして五言は五言だけで横に列ねたものであろうと思われる。もっとも、漢詩の表記形式は、西洋の詩のそれのように、詩句ごとに行を変えるということはない。

頭からずっと続けて書きおろしていき、紙幅がつきればそこで行を変えるというのが通則なのだが、訳者はここではなるたけ原詩の表記形式に即するあまり、各聯(四句)ごとに一行の空白を置いていたが、その行間は『水沫集』以後すべてつめられ、いわゆるベタに組まれるように変更された。

それは思うに、行間を空けるというような表現形式は漢詩にはなく、そんなことをすれば、たださえ型破りの漢詩体のこの「月光」は、ますます漢詩らしくなくなる、いや、それではかえってこの「月光」ははたして全体で一篇の詩を成すのか否かさえ怪しまれてくる、そこのところをおもんばかった結果生じたものであろう。〉


harutoshura at 13:44|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月20日

「月光」⑭(『於母影』41)

「月光」のつづき。きょうは、第7連と第8連の補足を少ししておきます。

期汝時聴跫倒吾屣        
(汝を期ちて時に跫を聴き吾が屣を倒まにし)
深夜空決眸
(深夜空しく眸を決けば)  
昏黒生路如大江水 
(昏黒たる生路は大江の水の如く)
嗚咽停不流
(嗚咽して停まりて流れず)

逢汝時又看李花面
(汝に逢ひて時に又李花の面を看れば)
明月将失妍
(明月将に妍を失はんとす)
生路流水如箭如電
(生路の流水は箭の如く電の如し)
嗟奈其瞥然
(嗟 其の瞥然たるを奈せん)

長江

第6連の終わり「吾夜之月光(吾が夜の月光に)」には「吾」、つづく第7連の「期汝時聴跫倒吾屣」には「汝」と繰りかえされました。遠くにある月、すなわち「汝」と、こちらにいる「吾」との乖離が強調されています。

また、原詩にはない「聴跫倒吾屣」や「深夜空決眸」などには、翻訳をこえた実体験の迫真力のようなものすら感じられます。「Trauernd(悲しみつつ)」を「嗚咽」と誇張するのも同じ要因が働いているのでしょう。

このような観点から、関口裕昭氏は次のように分析しています。

〈「うたたかの記」における「我空想はかの少女をラインの岸の巖根に居らせて、手に一張の琴を把らせ、嗚咽の聲を出させむとおもひ定めにき」といった用例から推察すると、「嗚咽」には、河を眺める「我」の哭泣のみならず、別離した恋人の歔欷(きょき)をも聴き取ることができるのではなかろうか。

第14行の「昏黒生路」の「生路」も、似たような意味合いで「舞姫」に用いられている。「彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我身の上なりければなり」。

15行目の原詩にない「李花」は恋人の白い顔にたとえていったものであるが、興味深いのは、ここで実際に(あるいは幻想で)見ているのは、月の方ではなく「李花」の方なので、「李花」から月を連想しているのである。

それほど再会の願望は白熱しているのであろう。そういえば「舞姫」のエリスも「乳の如き色の顔」をしていたのも偶然ではあるまい。〉

ちなみに、ここでは、人生のみち、生きていく方法である「生路」について、「昏黒たる生路は大江の水の如く」「生路の流水は箭の如く電の如し」と言っています。

つまり、日が没して周りが暗く見えなくなった生路は、揚子江のような大きな川の水のようであり、また、生路に流れる水は、弓につがえて射る矢のようであり、稲妻のようであり、というのです。


harutoshura at 21:10|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月19日

「月光」⑬(『於母影』40)

「月光」のつづき。きょうは第7連と最終の第8連を見ておきます。

期汝時聴跫倒吾屣        
(汝を期ちて時に跫を聴き吾が屣を倒まにし)
深夜空決眸
(深夜空しく眸を決けば)  
昏黒生路如大江水 
(昏黒たる生路は大江の水の如く)
嗚咽停不流
(嗚咽して停まりて流れず)

逢汝時又看李花面
(汝に逢ひて時に又李花の面を看れば)
明月将失妍
(明月将に妍を失はんとす)
生路流水如箭如電
(生路の流水は箭の如く電の如し)
嗟奈其瞥然
(嗟 其の瞥然たるを奈せん)

スモモ

この第7・8連のなかで、「昏黒」とあるのはまっくらなこと。この詩では、あだなる期待、希望が裏切られ、ぬか喜びであったことに心が暗く沈んでいます。

「生路」は、人生行路あるいは人生そのもののこと。

「李花」はスモモの花=写真、wiki。スモモは、中国原産のバラ科の落葉高木。古くに渡来し、果樹として栽植されてきました。春、葉腋に白色の五弁花を1~3個つけます。

白くて清純な美しさを示すとされていて、ここでは、恋人の美しい顔をこの花に喩えています。

「妍(けん)」は、あでやかな美しさ。

「瞥然(べつぜん)」は、チラッとひらめくさま、ほんの束の間の短い時間をいいます。

この部分の原詩は、次のようになります。

Wenn nach dir ich oft vergebens
In die Nacht geseh'n,
Scheint der dunkle Strom des Lebens
Trauernd stillzustehn.
(大意 虚しくも何度も君の姿を求めて闇夜に目を凝らす時には、生命の暗い流れは悲しみながら留まっているかに見える。)

Wenn du über seine Wogen
Strahlest zauberhell,
Seh' ich sie dahingezogen,
Ach! nur allzuschnell.
(大意 君が波の上一面に澄み切った魅惑的な光を放つ時には、波は過ぎ去ってしまっているのを見る、ああ、余りにもあまりにも速く。)

慶応義塾大学国文学研究会では、次のように指摘しています。

〈第七聯でNacht(夜)を「深夜」、dunkle Strom des Lebens(生命の暗い流れ)を「昏黒生路」と原詩の暗いイメージをそのままいかして、これまで緩和化された暗さを逆にこの聯で強めるような効果をもたせると同時に、原詩にない「聴跫」・「嗚咽」という語を出すこととあいまって、あたかもこれらの音が暗闇の中にこだまするかのような効果ももつ。

最終聯においては、原詩のように単に恋人を月光に見立てることでとどまらず、全く原詩にはない「李花」という白い花を登場させ、それに「わが恋人の美しい顔をたとえ」(『明治大正譯詩集』昭46・8、頭注)るのである。

訳詩において白色のイメージでとらえられた月光さえも、「明月将失妍」と逆転するほど、この李花の美しさは称えられる。

李花は漢詩に多く詠まれたというものの、日本でも『万葉集』巻一九の家持の歌「わが園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも」をはじめ、『古今集』にも巻一〇物名に「いま幾日春しなければ鶯もものはながめて思ふべらなり」と貫之の歌が見られ、古くから和歌によみ込まれたものであった。

そして右の家持の歌同様、「きえかての雪と見るまてやまかつのかきほのすもゝ花咲けにけり 民部卿為家」(『夫木和歌抄』、「山かつのころもほすてふかきほかと志ろをみればすもゝ花咲 正三位知家卿」(同)のように、あるいは子規の「真白に李散りけり手水鉢」、尾山篤二郎の「赤埴の破れ築地の上越しにはなはだ白くさけり李の花」、伊藤整の詩「すももの籬が真白に咲いた村の道を……」(「春夜」)のように、李は白い花としてその美しさが愛されたものであった。

この白いイメージの花が、同じく白いイメージでとらえられた月よりも、ここではいっそうその美しさが勝るものとして描かれている以上、当然白色のイメージが強調されているといえよう。〉


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2019年05月18日

「月光」⑫(『於母影』39)

『於母影』の「月光」。きょうは、第5連と第6連を眺めておきます。

看到汀樹浸影之処
(看つつ汀樹の影を浸すの処に到れば)
茫忽疑有無
(茫忽として有無を疑ふ)
微聴其響無見其去        
(微かに其の響を聴きて其の去るを見る無く)
如対千頃湖
(千頃の湖に対するが如し)

吾所希眼波一揺耳        
(吾が希ふ所は眼波の一揺のみ)
何日能得償
(何れの日にか能く償ふを得ん)
思汝無巳嗟汝何似        
(汝の無きを思ひて巳に嗟く 汝何ぞ似たるか)
吾夜之月光
(吾が夜の月光に)

湖

原詩は次のようになります。

Aber wo im schimmerlosen
Dunkel geht die Flut,
Ist sie nur ein dumpfes Tosen,
Das dem Auge ruht. 
(大意:だが、その微光もない暗闇の中を大河が流れる所では、ただ重苦しいどよめきがあるばかりで、眼には静止しているかに見える。)

Daß doch mein Geschick mir brächte
Einen Blick von dir!
Süßes Mondlicht meiner Nächte,
Mädchen, bist du mir!
(大意:君が一目でも私を見てくれる運命がもたらされればよいのだが。少女よ、私には君こそ我が夜の優しい月光なのだ。)

「汀樹」の「汀」は水際、みぎわのことをいいます。ですから汀樹は、みぎわに生えている樹木ということになります。

「茫」は、ぼうっとして見わけがつかないさまをいいます。

「有無を疑ふ」は、「岸ぞいに歩いていくうち、水面が木陰に覆われている場所に来たため、今まで月光にきらめいてよく見えていた波の動き、水の流れが不意にかき消え、その美しい河の流れの有無が疑われてくるのである」と日本近代文学大系の注にはあります。

「千頃」の「頃」は広さの単位で、百畝をいいます。つまり千頃は、広くて大きなさまのことをいっています。

「耳」は限定の助辞で、「……のみ」。

「眼波」はまなざし、流し目のこと。ここでは、心に思う情愛のこもった眼差しのことと考えられます。

第5連では、原詩に対応する言葉のない「汀樹」「千頃湖」を用いて、岸にたたずむ情景を強く押し出す一方で、
「schimmerlosen/Dunkel(微光もない暗闇)」を「茫忽」と、第3連とは逆に暗さの度合いを視覚的に緩和してとらえるとともに、「dumpfes Tosen(重苦しいどよめき)」を「微聴其響」と聴覚的にも緩めてとらえ、淡彩的な情趣を醸し出そうとしています。

流れの見えない闇のなかでは川の音だけが聞こえ、目の前に広がる深淵を「千頃」の湖のようだといって、絶望の深さを表わしているのでしょう。

鷗外の『うたかたの記』で「車のあちこちと廻来(まわりこ)し、丘陵の忽(たちまち)開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水」は、悲劇の娘を溺れさせた場所でもありました。

愛する女性に、もう一度ふり向いてもらいたいという期待と、もはやそれは二度と来ないのだという絶望感とのせめぎあい。「何日能得償」の「償」には、犯した罪に対する自責の念も込められているのでしょうか。

第6連になると、原詩にはない、詩冒頭の「思汝無巳」をふたたび使うことで、第1連の詩情をふたたび呼び起こすことになります。


harutoshura at 13:39|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月17日

「月光」⑪(『於母影』38)

「月光」のつづき、きょうは昨日も見た第3連と、第4連を眺めておきます。

光彩飛散其色銀白
(光彩飛散して其の色銀白)
依約凝架虹
(依約として凝りて虹を架く)
虹也千丈中断潮脉
(虹や千丈 潮脉を中断して)
遥達幽樹叢
(遥かに幽樹の叢に達せり)

逢此光彩輝映娯目
(此の光彩の輝映して目を娯しましむるに逢ひ)
波亦心自怡
(波も亦た心自ら怡ぶ)
飜見波起波伏相逐
(飜りて見れば波起り波伏して相ひ逐ひ)
其逝長若斯
(其の逝けること長へに斯くの若し)

舞姫

鷗外は『舞姫』に、主人公が「遥々と家を離れてベルリンの都に来ぬ」ときの印象を次のように記しています。

「余は模糊もこたる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽(たちまち)この欧羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央に立てり。何等なんらの光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。」

第3連の「飛散して其の色銀白」、第4連の「輝映して目を娯しましむる」ものとして用いられている「光彩」という言葉には、「我目を射むと」し「心を迷はさむとする」イメージも含まれているのかもしれません。

Freundlich streut er meinem Blicke
Aus dem Silberschein
Stromhinüber eine Brücke
Bis zum stillen Hain. -
(大意:ふと見ると、私のために銀色の光を優しく投げ掛けながら、河向こうの静かな杜まで一本の光の橋を渡してくれている)

Wo des Stromes frohe Wellen
Durch den Schimmer zieh'n,
Seh' ich, wie hinab die schnellen
Unaufhaltsam fliehn.
(大意:大河の楽しげな波がその微光を浴びて流れる所では、私は見る、速い流れが絶え間なく流れ下るのを。)

3連と4連の原詩は上記のようになりますが、ここには訳詩にある「虹」にあたる言葉は出て来ません。これに関して関口裕昭氏は次のように指摘しています(「鷗外訳レーナウ詩「月光」「あしの曲」について」)。

〈「虹」も原詩では「橋」Blickeとなっていた。「文づかひ」に、「入日は城門近き木立より虹の如く洩りたるに」とあるように、まばゆい光の広がりと橋のイメージから「虹」と訳したのであろうが、後半明らかになるように、実体もなくすぐに消えて行く運命の虹は、彼岸にいる「汝」と此岸の「吾」を束の間繋いでもいるのである。

さらに穿った読み方が許されるならば、この頃おそらく第二部第二幕くらいまで読了し、後年訳すことになる『ファウスト』第二部冒頭近くの「此虹が人間の努力の影だ。/あれを見て考へたら、前よりは好く分かるだろう。/人生は彩られた影の上にある。」(鷗外訳
4725-4727行)を思い出さずにいられない。〉

第4連の「輝映」は、きらめき映えること。「若」は、ここでは「如」と同じで「ごとし」とよむそうです。この字を「わかい」とよむのは、日本で発達し、一般化した非本来的用法だそうです。

「波起波伏」については、慶応義塾大学国文学研究会では「Schnellen(急流)を「波起波伏」と起伏する川波の状景として、具現的にとらえているところに、「波の立居」という雅語による状景の連想が働いている」としています。

一方、関口氏は「原文のschnelle(急流)を、「波起波伏」と波の上下運動にとらえ直したのは、急流における荒波の状態を精確に描写しようとしたのではなく、先述したレーナウの自然詩に特徴的な上下構造を鷗外が知悉していたからであろう。

レーナウにおける水は、一方では深淵を映す水面となり、他方では「海の朝」で「波は崩れ落ちる/波は立ち上がると、/舟の行く手の航路にかかって/狂える限り泡立つ」とあるように、盛り上がっては崩れ落ちる、上昇と下降を繰り返す波の運動としてとらえられる」といいます。


harutoshura at 20:41|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月16日

「月光」⑩(『於母影』37)

「月光」のつづき。きょうは、第二連と第三連を読んでいきます。

安得倶汝江上聯袂        
(安くんぞ得ん 汝と倶に江上に袂を聯ね)
瞻仰天色開
(天色の開くを瞻仰することを)
時自前岸平野之際
(時に前岸の平野の際より)
明月徐上来
(明月徐かに上り来る)

光彩飛散其色銀白
(光彩飛散して其の色銀白)
依約凝架虹
(依約として凝りて虹を架く)
虹也千丈中断潮脉
(虹や千丈 潮脉を中断して)
遥達幽樹叢
(遥かに幽樹の叢に達せり)

ニジ

「瞻仰(せんぎょう)」の「瞻」は、前方をみる、のぞむ、の意。見やる動作を示します。瞻仰は、仰ぎ見る、見上げる、さらには、尊敬するという意味があります。

「瞻前而顧後(まえヲみうしろヲかえりみる)」(慎重に前方を見て、後方をかえりみる)などで使われます。

「徐(しず)か」は、ゆったりしているさま、おだやか、安らかなさまをいいます。

「依約」は、ほのかなるさま。依稀と同じです。

「也」の字は、そのものを特に指示し、取り立てていう助字にあたります。

「脉」は、脈のこと。 つまり、生命を維持する血液が流れる管。ここでは「潮脉」ですから、潮の流れる管ということになります。

「幽」は、かすか、おくぶかい、ほのか。さらには、うすぐらいの意もあります。

これら二連と三連は、原詩では次のようになっています。

Könnten wir zusammen schauen
In den Mond empor,
Der da drüben aus den Auen
Leise taucht hervor.
(一緒に空の月を眺められればよいのだが。その時向こうの緑豊かな岸辺から月は静かに上って来る。)

Freundlich streut er meinem Blicke
Aus dem Silberschein
Stromhinüber eine Brücke
Bis zum stillen Hain. -
(ふと見ると、私のために銀色の光を優しく投げ掛けながら、河向こうの静かな杜まで一本の光の橋を渡してくれている。)

鷗外は、「den Mond empor」(空の月)を「天色開」、「Silberschein」(銀色の光)を「其色銀白」としています。前者は空間的な広がりをもった描き方になりますし、後者は白い色のイメージを加えていることになります。

月の輝きの鋭さを和らげているといえるでしょう。月の光を原詩にない「虹」に喩えるのも、こうした茫漠とした光の広がりを表わすためでしょうし、まさに「依約」とした月の光を表わそうとしているのでしょう。

慶応義塾大学国文学研究会によると、こうした淡い白色の月のイメージもまた、伝統的な美意識に通じるものがあるとして、次のように指摘しています。

〈「今夜かくなかむる袖のつゆけきは月の霜をや秋とみつらん よみ人しらず」(『後撰集』巻四・夏)、「白かしの葉におく露はおもれども山ちたどらぬ月の雪哉」(『順徳院集』)のように、多く歌によみ込まれた「月の霜」・「月の雪」といった雅語は、どちらも霜や雪に喩えて白くさす月の光の美しさを表現したものであった。〉


harutoshura at 15:19|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月15日

「月光」⑨(『於母影』36)

訳詩集『於母影』の「月光」のつづき。きょうは、原詩の抑揚と、平仄を合わせたことによる訳詩の特徴について考えてみます。

思汝無巳孤出蓬戸  沿岸行且吟
安得倶汝江上相聚  聞此流水音

蓬

きのう見たように、「月光」ではドイツ語の原詩のリズムは細かく漢詩体にきちんと対応して訳されていました。が、これを漢詩として鑑賞するとなると、なんとも特異なものに見えてきます。

第一に、五言、七言はあっても「八言」の漢詩というのは通常は見かけません。それに、八言が五言と交互に続くということもありません。

平字と仄字が交互に入れ替わるという詩の形式もなければ、そもそも漢詩には連で分けるという習慣もありません。

こういった不自然さを少しでも補おうと、もともと各連4行だったのを、上下2段の2行にして行末に段差ができるのを防いで見た目の抵抗を緩和するなどの工夫がなされたと考えられます。

さらに、漢詩体の場合には、漢字一字一字が意味をもつ語なので、原詩の抑揚に漢詩の平仄を合わせれば、結果的に原詩以上の意味内容を含んでしまうというやっかいな問題も発生します。

すなわち、訳詩「月光」は、原詩の余剰分ともいえる意味内容を含んだ詩情にならざるを得ない、ということになるのです。

原詩の抑揚を平仄によって表現することを優先したがために、読者は内容的には原詩とは異なる詩情を求めなければならないとことになってしまったわけです。

たとえば、1行目の「Dein gedenkend irr' ich einsam」と「思汝無巳孤出蓬戸」をざっと比べて見ると、「dein」は「汝」、「gedenkend」は「思」、「irr'」は「出」、「einsam」は「孤」に当たると考えられますが、原詩には「蓬戸」にあたる言葉は見当たりません。

「Diesen Strom entlang;」には「沿岸行(岸に沿ひて行き)」の意味はありますが、「吟(吟ず)」とはどこでも言っていません。

「蓬戸」や「吟」が、どうして、一人さびしい夕べにいまはない恋人のことを思っていると静かに月がのぼって、その月に恋人への想いが重なる、というイメージから浮かんで来るのでしょう。

慶応義塾大学国文学研究会では、「ここには、伝統的な、和歌的な情趣による連想が働いていると考えられる」として、次のように説明しています。

〈例えば、昔男が去年(こぞ)のことを目に浮かべながら、かつての恋人を想い描き、「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」とよんだのは、「あばらなる板敷」に伏せってであったし(『伊勢物語』第四段)、あるいはまた、男女の立場こそ違え、光源氏がある「艶(えむ)なるほどの夕月夜」の晩に久しく訪れた、その相手の末摘花は、親も亡くしひたすら源氏の君のことを恋しく想い続けながら、蓬=写真、wiki=の生い茂った荒れた邸内に住んでいたのであった。

あるいは、「人ぞうきたのめぬ月はめぐり来て昔忘れぬよもぎふのやど 藤原秀能」(『新古今集』巻14・恋4)「尋ても忘れぬ月の影ぞとふよもぎが庭の露の深さを 俊成女」(『続千載集』巻5・秋下)など、人の心のはかなさと比較した形で、月と蓬をよみ込んだ歌も散見するし、また「いかでかは尋ね来つるらん蓬ふの人も通わぬわが宿の道 よみ人しらず」(『拾遺集』巻18・雑賀)、「誰れかきて見るべき物とわが宿のよもぎふあらし吹き払ふらん」(『和泉式部集』)、「とへかしな別の袖につゆしげきよもぎがもとの心ぼそさを 寂然」(『山家集』所蔵)のように、蓬をよみ込むと同時に、孤独感のにじみ出た歌も多く見られるのである。

あるいは、俳諧も和歌の一体と考えた貞門の、高瀬梅盛りによる付合書『類舩集』の「蓬生」の項には、「淋しき夕・やもめ住・月を伴ふ・荒れたる宿・源氏の宮・常陸の宮……」、「独(ヒトリ)」の項には「月を伴なふ……」、「叢(クサムラ)」の項には「荒たる宿・岸……」といった符合語が見られる。月と歌との結び付きは言うまでもなかろう。

つまり、こうしてみると、語こそ「蓬戸」・「吟」と漢語であっても、それは漢詩体故であって、内実的には、前述した伝統的、和歌的情趣が濃厚で、そうした詩情により呼び起こされたものであることが理解されよう。〉


harutoshura at 20:56|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月14日

「月光」⑧(『於母影』35)

訳詩集『於母影』の「月光」のつづき。きょうは「脚韻」についてざっと検討しておきましょう。

思汝無巳孤出蓬戸  沿岸行且吟
安得倶汝江上相聚  聞此流水音

安得倶汝江上聯袂  瞻仰天色開
時自前岸平野之際  明月徐上来

光彩飛散其色銀白  依約凝架虹
虹也千丈中断潮脉  遥達幽樹叢

逢此光彩輝映娯目  波亦心自怡
飜見波起波伏相逐  其逝長若斯

看到汀樹浸影之処  茫忽疑有無
微聴其響無見其去  如対千頃湖

吾所希眼波一揺耳  何日能得償
思汝無巳嗟汝何似  吾夜之月光

期汝時聴跫倒吾屣  深夜空決眸
昏黒生路如大江水  嗚咽停不流

逢汝時又看李花面  明月将失妍
生路流水如箭如電  嗟奈其瞥然

平仄

これまでにも見たように、日本語には声調がないので、中国から漢字を輸入したとき、声調の部分は欠落してしまいました。

ですから、私のような中国語に不案内な者が漢字の四声を知り、平仄をわきまえるには、辞書を引いて調べるしかありません。

辞書を引いたとき親字の下にある□で囲んであるものが親字の四声を示し、□の中に入っている漢字は韻の種類を表す見出しで、韻目と呼ばれています。

たとえば「石」という字なら、入声の「陌(ハク)」の韻、「忠」なら平声の「東(トウ)」韻ということになります。

四声というのは、平声、上声、去声、入声でした。このうち「平声」は、絶句や律詩では便宜的に「上平声」と「下平声」に分けられます。

韻目は、平声30(上平声15、下平声15)種、上声29種、去声30種、入声17種の合わせて106種類があります。

「月光」の各句の末字について、こうした平仄と韻目を調べてみると、次のようになります。

【第一聯】
「戸」は上声「麌」・「吟」は下平声「侵」
「聚」は上声「麌」・「吟」は下平声「侵」

【第二聯】
「袂」は去声「霽」・「開」は上平声「灰」
「際」は去声「霽」・「来」は上平声「灰」

【第三聯】
「白」は入声「陌」・「虹」は上平声「東」
「脉」は入声「陌」・「叢」は上平声「東」

【第四聯】
「目」は入声「屋」・「怡」は上平声「支」
「逐」は入声「屋」・「斯」は上平声「支」

【第五聯】
「処」は去声「御」・「無」は上平声「虞」
「去」は去声「御」・「湖」は上平声「虞」

【第六聯】
「耳」は上声「紙」・「償」は下平声「陽」
「似」は上声「紙」・「光」は下平声「陽」

【第七聯】
「屣」は上声「紙」・「眸」は下平声「尤」
「水」は上声「紙」・「流」は下平声「尤」

【第八聯】
「面」は去声「霰」・「妍」は下平声「先」
「電」は去声「霰」・「然」は下平声「先」

一方、原詩を見ると――

Dein gedenkend irr' ich einsam
Diesen Strom entlang;
Könntend lauschen wir gemeinsam
Seinem Wellenklang.

Könnten wir zusammen schauen
In den Mond empor,
Der da drüben aus den Auen
Leise taucht hervor.

Freundlich streut er meinem Blicke
Aus dem Silberschein
Stromhinüber eine Brücke
Bis zum stillen Hain. -

Wo des Stromes frohe Wellen
Durch den Schimmer zieh'n,
Seh' ich, wie hinab die schnellen
Unaufhaltsam fliehn.

Aber wo im schimmerlosen
Dunkel geht die Flut,
Ist sie nur ein dumpfes Tosen,
Das dem Auge ruht. -

Daß doch mein Geschick mir brächte
Einen Blick von dir!
Süßes Mondlicht meiner Nächte,
Mädchen, bist du mir!

Wenn nach dir ich oft vergebens
In die Nacht geseh'n,
Scheint der dunkle Strom des Lebens
Trauernd stillzustehn.

Wenn du über seine Wogen
Strahlest zauberhell,
Seh' ich sie dahingezogen,
Ach! nur allzuschnell.

基本的に「abab」の韻を踏む原詩と、この漢詩訳の脚韻がぴったりそろっていることが分かります。原詩の脚韻のリズムが、見事に漢詩体へと訳されているのです。


harutoshura at 14:44|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月13日

「月光」⑦(『於母影』34)

「月光」のつづき。「平仄」について、もう少し詳しく考えてみます。

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Dein gedenkend irr' ich einsam 
思汝無巳孤出蓬戸 
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

 ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄
Diesen Strom entlang;
沿岸行且吟
(岸に沿ひて行き且つ吟ず)

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Könnten lauschen wir gemeinsam
安得倶汝江上相聚
(安くんぞ得ん 汝と倶に江上に相ひ聚ひ)

 ̄ ̄∪  ̄ ̄∪ ̄ ̄
Seinem Wellenklang.
聞此流水音
(此の流水の音を聞くことを)

流水

鷗外は「三たび平仄に就きて」で次のように記しています。

〈池袋清風氏は国民之友にて、国詩と欧米漢土の詩とを比較して左の如き差違ありといへり。

     平仄            押韻
日本の歌 無(但全体の句調を善くす) 無
支那の詩 有             有
欧米の詩 無             有

支那の詩に平仄もあり押韻もあるは洵に然り。欧米の詩に平仄なしとは受けがたき説といふべし。わが聞く所を以てすれば、欧米の詩の平仄には概二あり。

一は音の量に基づきて永(平)短(仄)の別をなし、一は音の度(アクセント)に基づきて揚(平)抑(仄)の別をなす。〔中略〕

今支那の詩と欧米の詩とを対照するときは左の如し。

     平仄       押韻
支那の詩 有(古詩は特別) 有
欧米の詩 有        有(「ブレンク、ヱルセス」にはなきなり)

池袋氏のいはく。現代の詩家は一脚長く一脚短き不具なる人なり。絶て東西に貫通して詩文の事を論じ、又著作するものなきを歎ずと。

今の文壇人なしと雖、漢洋の平仄を知りたる程のものは、絶て無きにはあらざるべし。〉

つまり、西洋詩のもつ音量の長短、及びアクセントの抑揚が、漢語の平仄に対応するというわけです。

ちなみに、ここに出てくる池袋清風(いけぶくろ・きよかぜ、1847-1900)は 明治時代の歌人。鎌田正夫に師事。案山子廼舎社(かかしのやしゃ)を結成し、桂園派の歌をよみました。家集に「かかしのや集」があります。

上の「月光」第一連の平仄を示せば、次のようになります。

 ̄∪ ̄∪ ̄∪ ̄∪
思汝無巳孤出蓬戸 
〇●〇●〇●〇●

 ̄∪ ̄∪ ̄
沿岸行且吟
〇●〇●〇

 ̄∪ ̄∪ ̄∪ ̄∪
安得倶汝江上相聚
〇●〇●〇●〇●

 ̄∪ ̄∪ ̄
聞此流水音
〇●〇●〇

原詩に付けられたスカンションの「 ̄」が平声に、「∪」が仄声にきちんと対応していることがわかります。


harutoshura at 18:58|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月12日

「月光」⑥(『於母影』33)

『於母影』の「月光」のつづき、冒頭の1行をもう少し探ってみます。

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Dein gedenkend irr' ich einsam 
思汝無巳孤出蓬戸 
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

草ノ戸

それぞれの漢字が、平字(平声)なのか、仄字(上・去・入声)なのかは、専門家でもなければ今日、一々漢和辞典で調べでもしなければ判然としません。

しかし、詩体ごとに各句に平仄の規則があるので、平仄を知らなければ漢詩を作ることはできません。

漢詩を作るのが一般的だった当時のインテリたちにとっては、平字か仄字かについての心得は、当然のようにあったと考えられます。

ですから、上のように示せば、原詩にくっついている「 ̄」が「平」、「∪」が「仄」にあたることは、当時の読者にとっては一目で分ったはずなのです。

ところで、「Dein gedenkend irr' ich einsam」の「dein」は、「dein」は「君の」を意味する所有代名詞、「gedenkend」は「gedenken」(考える)の現在分詞、「irr'」の不定詞は「irren」(さまよい歩く)。

「ich」は人称代名詞で「私の」、「einsam」は「寂しい」という形容詞。ですから「蓬戸」にあたる言葉は見当たりません。

「蓬戸」(ほうこ)は、よもぎ、あるいは草をあんで作った戸、の意味で、 粗末で貧しげな住居、庶民の家、貧屋のことをいいます。

どうして原詩にないこの語句を入れたのか? その理由はいくつか考えられると思われますが、漢詩体訳なるがゆえに生じたという面もありそうです。『日本近代文学大系』の補注には次のようにあります。

「漢語はあらためていうまでもなく、一字一音一義である。もちろん二字三字を連ねたいわゆる熟語も存しはするが、原則的には一語がすなわち一音節で成り立っている。

したがって、西洋の詩を翻訳するのに、このように原詩句とそのシラブル数を一致させて漢詩体に翻訳すれば、その詩句はこれを同じ原理によって日本語に移す場合とは反対に、原則的には原詩句以上にその内容の濃密なものとならざるを得ぬ。

そうでなければシラブル数が合わなくなる。原詩には無い内容規定のもり込まれてくるゆえんである。」


harutoshura at 12:40|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月11日

「月光」⑤(『於母影』32)

「月光」につづき。きょうは、その1行目を訳として用いた漢詩のほうから眺めておきます。

思汝無巳孤出蓬戸
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

杜甫

日本語の五十音の一つ一つが子音と母音、あるいは母音だけから成り立つように、中国の漢字音も漢字一字の音をその構成要素に分解して考えることができます。

たとえば現代中国語の「関」というという漢字は[kuan]と表記されます。これを二分して、語頭の[k-]を「声母」といい、残りの[-uan]を「韻母」といいます。

ただし、中国語の漢字音としては、声母と韻母が結合したものだけでは不十分です。これに、音の高低、歌うように高さを変えていく「声調」という要素が加わってはじめて一つの漢字音が完成します。

つまり、中国の漢字音は、声母・韻母・声調の三要素からなるわけです。

中国語の声調を、中古漢語の調類に基づいての4種類に分類したものを四声(しせい)といいます。中国音韻学では平声(へいせい、ひょうせい、ひょうしょう)、上声(じょうせい、じょうしょう)、去声(きょせい、きょしょう)、入声(にゅうせい、にっしょう)をいいます。

ただし、ここでいう四声は、現代中国語で普通話されている声調の四声とは内容が異なります。中古漢語では入声は失われ、逆に平声が二つに分かれているため、現代中国語を習うとき一般に「四声」と呼ばれているものは、陰平(第一声)、陽平(第二声)、上声(第三声)、去声(第四声)をいのだそうです。

ともかく、このような中国語における漢字音を、中古音の声調による類別にしたがって大きく二種類に分けたもののことを、平仄(ひょうそく、拼音: píngzè)といいます。

「平」は平声、「仄」は上声、去声、入声のことです。「仄」には「日仄乃罷(ひかたむきてすなわちやむ)」というように、かたむける、そむける、といった意味があります。平声に対して「上」「去」「入」を一括して仄声としたわけです。

どうして上・去・入声を一括したかについては、平声は音節の長さが比較的長く、仄声は比較的短かったためという説など、いろんな意見があるようです。

日本では「てにをは」をととのえるときなどに「平仄を整える」と言いますが、漢詩では、平声字と仄声字を交互に置くことによってリズムや音の調和を作り出しています。

通常、平声の脇に○、仄声の脇に●を記入し、平仄を明示します。たとえば杜甫の詩「春望」の一節は――

国破山河在
●●○○●

城春草木深
○○●●○

となります。

訳詩「月光」についても、鷗外は当然、この平仄を生かしています。というよりも、平仄を用いるために漢詩によって訳した、といってもいいかもしれません。

では、冒頭にあげた「月光」の最初の一行の平仄はどのようなっているのか、というと次のようになります。[]内はピンイン。数字は現代中国語における四声を示しています。

思[sī]1 平声〇
汝[rŭ]3 上声●
無[wú]2 平声〇
巳[sì]4 上声●
孤[gū]1 平声〇
出[chū]1 入声●
蓬[péng]2 平声〇
戸[hù]4 上声●

きのう見たようにドイツ語の原詩では、八つの音節が、強音節( ̄)、弱音節(∪)と交互に並ぶ、「トロヘーウス(Trochäus)」という詩型が使われていました。

「思汝無巳孤出蓬戸」の平仄と、ぴったり対応していることになります。


harutoshura at 13:20|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月10日

「月光」④(『於母影』31)

「月光」のつづき。第1節の冒頭から、もう少し詳しく分析していきます。

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Dein gedenkend irr' ich einsam 
思汝無巳孤出蓬戸 
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

月

定型においては、1篇の詩は通常いくつかの詩節(連)から構成され、詩節はさらに、いくつかの詩行から成り立っています。

「月光」の原詩であるNikolaus Lenau(ニコラウス・レーナウ)の「Das Mondlicht」は、各連4行8詩節から成り立っていることになります。

このように詩行が詩の基本単位になるわけですが、この詩行は韻(Reim)と律(Rhythmus)とをもつことによって、1行の散文から区別されます。

また、ドイツ語詩の律(リズム)は、強音節(Hebung)と弱音節(Senkung)との組み合わせを根幹としていて、五音や七音を基本にしたシラブル(音節)の数によってリズムを生む日本語とは根本的に異なっています。

ドイツ語定型詩には、強音節( ̄)と弱音節(∪)の規則的な配置が見られます。抑揚を示す「 ̄」「∪」の記号を、通常スカンション(scansion)と呼んでいます。

強音節と弱音節が交互に出現する詩行では、弱音節ではじまれば「ヤンブス(Jambus)」、逆に強音節からはじまると「トロヘーウス(Trochäus)」と呼ばれます。

「Das Mondlicht」は、トロヘーウス詩にあたることになります。上にあげた訳詩冒頭の1行目は、4詩脚詩句(8音綴)であることがわかります。

鷗外が、訳詩の冒頭にわざわざ原詩を掲げ、スカンションまで付けたのは、あえて「調」訳を試みることを宣言したととらえることができそうです。

つまり、原詩の意義、音節、脚韻だけでなく、平仄(ひょうそく)まで訳しとろうとしたのです。それをするには、日本語を用いるのは困難であって、漢詩体のみ可能だと鷗外は考えたのでしょう。

そこで訳者は、原詩につけた「 ̄」と「∪」(強と弱)を、漢詩における「平」と「仄」に対応させたわけです。この対応の原理は、以下の句すべてに貫かれていくことになります。


harutoshura at 20:39|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月09日

「月光」③(『於母影』30)

「月光」のつづき、第1節(冒頭2行、ここでは4行に分けて記しています)から、捕捉も兼ねて見ていくことにします。


 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Dein gedenkend irr' ich einsam 
思汝無巳孤出蓬戸 
(汝の無きを思ひて巳に孤り蓬戸を出で)

 ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄
Diesen Strom entlang;
沿岸行且吟
(岸に沿ひて行き且つ吟ず)

 ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄∪
Könnten lauschen wir gemeinsam
安得倶汝江上相聚
(安くんぞ得ん 汝と倶に江上に相ひ聚ひ)

 ̄ ̄∪  ̄ ̄∪ ̄ ̄
Seinem Wellenklang.
聞此流水音
(此の流水の音を聞くことを)

鷗外

大意は「君のことを考えながら、私は寂しく大河に沿ってさまよう。一緒に波の響を聞ければよいのだが」という第1節。この部分には上記のように、詩の音節の抑揚を表わすスカンション( ̄∪の符号)まで付けています。

これは、森鷗外=写真、wiki=による訳詩「月光」一篇が、原詩の各連、各行のシラブルのシラブルの数、および各シラブルの音の強弱、この双方をいかに忠実に写しているか、さらにはその押韻のしかたにしても、いかに原詩のそれに照応するかを示そうとしていたと考えられます。

このような翻訳の工夫や、このようにして出来上がったこの一篇の漢詩としての異色ぶり、変則性には、極めて興味深いものがあります。これに関して『日本近代文学大系』には、次のような補注があります。

〈その言語構造が西洋諸国語とは根本的に異なるがため止むを得ぬ当然のことともいえるが、わが国においては訳詩といえば、それはつまり、日本語としてなんらかの調べあることばによって、原詩の「意味」を正しく伝えたものであると解されており、原詩との対応で問題される点はほとんど「意味」だけである。

それ以上の対応をはかった訳詩があっても、それはせいぜい原詩の「押韻」をとにかくなんとか顧慮する程度で、原詩の「律動」「音調」まで移し植えることなどは、ほとんど考慮の外にある。

ところがここでは原詩のそれに注目して、少なくとも原詩各行の音節数とその抑揚とをなんとか正しく伝えようと試みているのは、まさに特記に値いする大特色で、この事実は西洋の詩というものについての、いや、そもそも詩一般についての訳者の深い理解のほどを示している。

だがその結果、この訳詩は見られるとおり、八言の句と五言の句が規則正しく交互に現われ、またその各句は平字と仄字が交互に現われる一篇の漢詩となった。ところが実は、そのような漢詩というものは存在しない。

漢詩には漢詩としての型がすでにあるのであって、八言という句がすでにまず異常なら、この八音と五音とが交互に入れ替るというのはますます奇妙、各句の平仄が一斉に平字と仄字の規則正しい交替反復であるのもまた珍である。

つまり「月光」一篇は、到底まともな漢詩とは受け取り難いものなのである。今日とは違って、漢詩の教養や常識が、すでにいうようにひろく行きわたっていたその当時である。この詩の異常さを怪しまない読者があろうか。

訳者、鷗外はもちろん充分そのことを承知していた。そして実にそれだからこそ、訳者はここにあえて原詩を掲げ出し、それにスカンションまでつけたのであり、これはけっして衒学趣味でも何でもない、むしろ必要不可欠な一種の弁明でさえあったのである。

だがまた同時に、あえて承知でこのような冒険を企てたのは、当時訳者の胸奥には、これこそが文字どおりの「新体詩」であり、自分はそれの開拓者であるとの自負と客気が勃々としてたぎっていたがためであると思われる。〉


harutoshura at 14:08|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月08日

「月光」②(『於母影』29)

きのうから読みはじめた鴎外訳の「月光(Das Mondlicht)」。ニコラウス・レーナウ(Nikolaus Lenau、1802-1850)の原詩は、次の通りです。

Dein gedenkend irr' ich einsam
Diesen Strom entlang;
Könntend lauschen wir gemeinsam
Seinem Wellenklang.

Könnten wir zusammen schauen
In den Mond empor,
Der da drüben aus den Auen
Leise taucht hervor.

Freundlich streut er meinem Blicke
Aus dem Silberschein
Stromhinüber eine Brücke
Bis zum stillen Hain. -

Wo des Stromes frohe Wellen
Durch den Schimmer zieh'n,
Seh' ich, wie hinab die schnellen
Unaufhaltsam fliehn.

Aber wo im schimmerlosen
Dunkel geht die Flut,
Ist sie nur ein dumpfes Tosen,
Das dem Auge ruht. -

Daß doch mein Geschick mir brächte
Einen Blick von dir!
Süßes Mondlicht meiner Nächte,
Mädchen, bist du mir!

Wenn nach dir ich oft vergebens
In die Nacht geseh'n,
Scheint der dunkle Strom des Lebens
Trauernd stillzustehn.

Wenn du über seine Wogen
Strahlest zauberhell,
Seh' ich sie dahingezogen,
Ach! nur allzuschnell.

レーナウ

「Das Mondlicht」は、1832年に出版された処女詩集『Gedichte』の一篇です。以下、この詩の大意を『森鷗外・於母影研究』から引用しておきます。

①君のことを考えながら、私は寂しく大河に沿ってさまよう。一緒に波の響を聞ければよいのだが。

②一緒に空の月を眺められればよいのだが。その時向こうの緑豊かな岸辺から月は静かに上って来る。

③ふと見ると、(私のために)銀色の光を優しく投げ掛けながら、河向こうの静かな杜(もり)まで一本の(光の)橋を渡してくれている。

④大河の楽しげな波がその微光を浴びて流れる所では、私は見る、速い流れが絶え間なく流れ下るのを。

⑤だが、その微光もない暗闇の中を大河が流れる所では、ただ重苦しいどよめきがあるばかりで、眼には静止しているかに見える。

⑥君が一目でも私を見てくれる運命がもたらされればよいのだが。少女よ、私には君こそ我が夜の優しい月光なのだ。

⑦虚(むな)しくも何度も君の姿を求めて闇夜に目を凝らす時には、生命の暗い流れは悲しみながら留(とど)まっているかに見える。

⑧君が波の上一面に澄み切った魅惑的な光を放つ時には、波は過ぎ去ってしまっているのを見る、ああ、余(あま)りにもあまりにも速く。


harutoshura at 20:06|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月07日

「月光」①(『於母影』28)

『於母影』のつづき、きょうから「月光」に入ります。

  月光

Dein gedenkend irr' ich einsam  Diesen Strom entlang;
思汝無巳孤出蓬戸        沿岸行且吟
Könnten lauschen wir gemeinsam  Seinen Wellenklang!....
安得倶汝江上相聚        聞此流水音

安得倶汝江上聯袂        瞻仰天色開
時自前岸平野之際        明月徐上来

光彩飛散其色銀白        依約凝架虹
虹也千丈中断潮脉        遥達幽樹叢

逢此光彩輝映娯目        波亦心自怡
飜見波起波伏相逐        其逝長若斯

看到汀樹浸影之処        茫忽疑有無
微聴其響無見其去        如対千頃湖

吾所希眼波一揺耳        何日能得償
思汝無巳嗟汝何似        吾夜之月光

期汝時聴跫倒吾屣        深夜空決眸    
昏黒生路如大江水        嗚咽停不流

逢汝時又看李花面        明月将失妍
生路流水如箭如電        嗟奈其瞥然

月

「月光」の原詩は、ドイツの詩人ニコラウス・レーナウ(1802-1850)。訳者は、森鷗外です。まずは、慶応義塾大学国文学研究会編『森鷗外・於母影研究』による書き下し文をあげておきます。

汝(なむぢ)の無きを思ひて巳(すで)に孤(ひと)り蓬戸(ほうこ)を出(い)で
岸に沿(そ)ひて行(ゆ)き且(か)つ吟(ぎん)ず
安(いづ)くんぞ得ん 汝(なむぢ)と倶(とも)に江上(かうしやう)に相ひ聚(つど)ひ
此(こ)の流水(りうすい)の音を聞くことを

安(いづ)くんぞ得ん 汝(なむぢ)と倶(とも)に江上(かうしやう)に袂(たもと)を聯(つら)ね
天色(てんしよく)の開くを瞻仰(せんぎやう)することを
時に前岸(ぜんがん)の平野(へいや)の際(きは)より
明月(めいげつ)徐(しづ)かに上り来(きた)る

光彩(くわうさい)飛散(ひさん)して其(そ)の色銀白
依約(いやく)として凝(こ)りて虹(にじ)を架(か)く
虹や千丈(せんぢやう) 潮脉(てうみやく)を中断(ちゆうだん)して
遥(はる)かに幽樹(いうじゆ)の叢(そう)に達せり

此(こ)の光彩(くわうさい)の輝映(きえい)して目を娯(たの)しましむるに逢(あ)ひ
波も亦(また)心自(おのづか)ら怡(よろこ)ぶ
飜(ひるがへ)りて見れば波起(おこ)り波伏(ふ)して相(あ)ひ逐(お)ひ
其(そ)の逝(ゆ)けること長(とこし)へに斯(か)くの若(ごと)し

看(み)つつ汀樹(ていじゆ)の影を浸(ひた)すの処(ところ)に到(いた)れば
茫忽(ばうこつ)として有無(うむ)を疑ふ
微(かす)かに其(そ)の響(ひゞき)を聴(き)きて其(そ)の去るを見る無く
千頃(せんけい)の湖(みづうみ)に対(たい)するが如(ごと)し

吾(わ)が希(ねが)ふ所は眼波(がんぱ)の一揺(いちえう)のみ
何(いづ)れの日にか能(よ)く償(つぐな)ふを得ん
汝の無きを思ひて巳(すで)に嗟(なげ)く 汝何ぞ似たるか
吾(わ)が夜の月光に

汝を期(ま)ちて時に跫(あしおと)を聴(き)き吾(わ)が屣(し)を倒(さかし)まにし
深夜空(むな)しく眸(ひとみ)を決(ひら)けば
昏(こん)黒たる生路(せいろ)は大江(たいかう)の水の如(ごと)く
嗚咽(をえつ)して停(とゞ)まりて流れず

汝に逢(あ)ひて時に又李花(りくわ)の面(おもて)を看(み)れば
明月将(まさ)に妍(けん)を失はんとす
生路(せいろ)の流水(りうすい)は箭(や)の如(ごと)く電(いなづま)の如(ごと)し
嗟(ああ) 其(そ)の瞥然(べつぜん)たるを奈(いかん)せん


harutoshura at 13:41|PermalinkComments(0)森鷗外 

2019年05月06日

「いねよかし」⑳(『於母影』27)

きょうは、これまで読んできた「いねよかし」の日本の近代文学史における意義について『新体詩抄』と比較しながら検討しておきましょう。

涼しき風に吹かれつヽ ありし昔の我父の
椅子にもたれてあるさまハ 実に心地克くありにける
その座をしめし腰掛の 堅く作れる臂掛に
よそぢの昔荒/\と 刻みのこせる我名前
猶あり/\とみゆるなり 柱に掛し古時計
元にかハらぬ其音色 聞きて轟く我胸に
満る思ハ猶切に はりさく如く堪がたし

新体詩

上にあげたのは、『於母影』の7年前、1882(明治15)年に刊行された、日本における最初の新体詩集とされている『新体詩抄』の最初の作品「ブルウムフ井-ルド氏兵士帰郷の詩」の冒頭部分です。

帰郷した兵士が昔のままのわが家の様子を見て、いまは亡き父を思い出している場面です。

「其言語ハ皆ナ平常用フル所ノモノヲ以テシ敢テ他国ノ語ヲ借ラズ又千年モ前ニ用ヒシ古語ヲ援カズ故ニ三尺ノ童子ト雖モ苟クモ其国語ヲ知ルモノハ詩歌ヲ解スルヲ得べシ」(矢田部良吉「グレー氏墳上感懐の詩」序言)とされるように、実に平易な用語が使われています。

たしかに、「三尺ノ童子」でも理解できる詩という『新体詩抄』の理念にかなうものといえるのでしょう。この詩集の中のほかの詩篇も、おおむねこのような傾向をもっていました。

しかし半面で、形式的には七五調を用いてはいるものの、韻律的な魅力に乏しく、イメージに深みのないことも否めません。用いる言葉にこうした足かせをしたからには、「いねよかし」に見られるような韻律的効果や陰影に富む豊穣なイメージの世界は望むべくもなかったのです。

一方で『新体詩抄』の目的は、「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ノ作ル所以ナリ」(井上哲次郎「玉の緒の歌」序言)とあるように「古歌」でも「漢詩」でもなく、「明治」という新しい時代にふさわしい「新体ノ詩」を創り出すことにありました。

これまで見てきたような直文の重層的な古典的イメージ・発想の世界は、こうした新時代にふさわしい「新体ノ詩」という問題への直文なりの答えだったと考えることができるのでしょう。

ただし、逆に見れば、『万葉集』など日本の古典世界の素養を背景とする想像力以外に、直文は「いねよかし」の訳詩を生み出す原動力を持ち合わせていなかった、ということがいえるのでしょう。

となれば、当然の成り行きとして『新体詩抄』の目指した「童子ト雖モ苟クモ其国語ヲ知ルモノ」すべてが解する詩ではありませんでした。

『森鴎外・於母影研究』では、こうした視点から「いぬよかし」の意義について、次のようにまとめています。

〈「いねよかし」の世界は、平易な現代の日本語とは隔絶した古典的語彙群によって支えられた美的な一世界だったのである。直文もそのことは十分承知していたはずである。

鷗外をはじめとする他の新声社の同人たちを知っていたはずである。だが、彼らはそれを敢て善しとし、「いねよかし」を『於母影』の巻頭に置いたのである。

とするならば、そこに我々は彼らの一つの詩的態度を読みとることができるのではないだろうか。それは、一言でいえば、『新体詩抄』的立場へのアンチテーゼであったように思われる。

詩抄の掲げた、平易な現代語の使用という目標は、確かに近代芸術としての詩のあるべき方向を示していた。だが、それは芸術的な完成度の低い作品しか生み出しえなかった。

新声社の若き詩人たちは、このような詩抄の問題提起に対して、古典語使用を背景とした優れて美的な詩的世界の創出をもって応えたのである。

もちろんそれは、詩抄の提起した本質的な問題に対する真正面からの解答であったとはいえない。とはいえ、彼らの達成なくしては、後にみられるような近代詩の発展がなかったであろうことも間違いなかろう。〉


harutoshura at 18:48|PermalinkComments(0)落合直文 

2019年05月05日

「いねよかし」⑲(『於母影』26)

「いねよかし」に見られる直文の古文の用いかたについて、きょうは、『森鴎外・於母影研究』に基づいて、次にあげる「その七」の後半4行を検討します。

といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

大伴家持

この2行目で、直文は注目すべき改変が行われています。ここは、故郷に残してきた妻子が心配だとこたえながらも「泣かぬ」従僕に対して、ハロルドが、そのように泣かずにいるのはお前にふさわしい男らしい態度だと称揚する部分です。

しかし、原詩や独訳と比べると、内容が大幅に違っています。この部分は、原詩では「Thy grief let none gainsay(お前の悲しみを誰がとがめだてしようか)」、独訳でもほとんど同様に「Man ehre deinen Schmerz(お前の悲しみには敬意を表す)」となっています。

すなわち、原詩や独訳では、ハロルドは従僕の妻子と別れた悲しみに十分理解を示しているものの、決して彼の男らしい態度を称揚してはいないのです。

一方、直文の訳詩では、従僕の悲しみは背後へと押しやられ、その悲しみに耐える「猛き身」が前面に押し出されてきています。この改変の背後には、単なる意訳の域をこえた直文の「古典的想像力の発動」があったと考えられるといいます。

「いねよかし」冒頭の「けさたちいでし故里は/青海原にかくれけり」にあった「青海原」は、『土佐日記』よりも前の『万葉集』にも見られます。

青海原風波なびき行くさ来さ障(つつ)むことなく船は早けむ

これは、『万葉集』巻20にある大伴家持=写真=の歌です。詞書の「渤海大使小野田守朝臣に餞(うまのはなむけ)する宴(うたげ)の歌」からも知られるように、これもまた海路の旅に出る人への餞別の歌となっているのです。

「その七」の「とつ国」が万葉語であることからも、直文の古典的想像力の領域は、『土佐日記』からさらに『万葉集』の世界へと重層的に広がっていると考えることができそうです。

大君の 命畏(みことかしこ)み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫(ますらを)の 情(こころ)振り起し とり装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平けく われは斎(いは)はむ 好去(まさき)くて 早還(かへ)り来と

これは、『万葉集』巻20にある「防人の情に為りて思を陳(の)べて作る歌一首」と詞書の付された家持の長歌の冒頭です。

妻と別れるのは悲しいが、「丈夫」すなわち猛き男子の心意気で雄々しくふるまうという箇所が注目されます。この「丈夫」的な男性像は、巻20の防人歌だけでも数多く見ることができます。

このイメージは「泣かぬ我しもべ」を「猛き身」にふさわしいと称揚する直文の発想の根幹にあったと考えられるのです。

「その七」において、原詩・独訳と大きくかけ離れた訳出がされたのは、決して偶然的なものではなく、直文の内部では「丈夫」讃美の発想から導かれる必然的な改変だったと考えることができるのです。


harutoshura at 11:53|PermalinkComments(0)落合直文 

2019年05月04日

「いねよかし」⑱(『於母影』25)

「いねよかし」で、古語を自在に駆使した直文。それが具体的にどのようなものだったか。きょうは、冒頭の4行を例に検討してみます。

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり

紀貫之

「けさたちいでし」のところは、原詩は「Adieu,adieu!(さらば、さらば!)」、独訳でも同義の「Leb wohl! leb wohl!」となっていて、訳詩との間にどちらも意味的なつながりを見出せません。

慶応義塾大学国文学研究会の『森鴎外・於母影研究』では「直文の古典的イメージ・発想の世界を探照することによって、この問題を考えるべき」として、次のように分析しています。以下は、その引用です。

第一に〈けさ〉の語に着目しよう。もちろん、三行目の〈夜嵐〉等によって知られる現在の時と対照をなすように出発の時を表わす〈けさ〉を設定し、その間の時間的経過を黙示するという技巧的な意図もあろう。

しかし、交通手段のさほど発達していなかった時代の旅を想定するならば、夜が明けると同時に出発するのはごく当然のことだったのである。

これがいわゆる〈朝立ち〉である。「いねよかし」がもともと旅の詩であったことを考えると、〈けさ〉の設定にはこのような古典的発想が大きく関与していたと思われるのである。

次に〈たちいでし〉の部分について考えてみよう。そもそも、日本古来の旅の文学においては、その発端としての旅立ち、すなわち門出がきわめて重要な位置を占めてきた。

このことは、『土佐日記』以来の紀行文学をみれば明らかである。民俗学的にも、これは重要な儀式であった。この点をふまえるとき興味をひくのは、次のような謡曲の詞章である。

(A)けふ出(い)でて いつ帰るべき古里(ふるさと)と、思へばなほもいとどしく(『夜討曾我』)

(B)相模(さがみ)の國を立(た)ち出(い)でて、相模の國を立ち出でて、たれに行(ゆ)くへを遠江(とおとおみ)、げに遠(とお)き江(え)に旅舟(たびぶね)の。(『景清』)

両者とも曲のはじめの部分にある旅の記述であるが、「いねよかし」に類似した旅の出発が謡われているのである。

詳述する余裕はないが、このように旅の文学の冒頭において旅人の日常的世界(家や故郷)からの出発が明確に示されることの背景には、日本に古来からる門出の発想が存していると考えられるのである。

さて、次行の〈青海原〉に考察を移そう。この語は確かに原詩のthe waters blue(青い海)や独訳のblauen Meer(同義)の適切な訳語である。

しかし、直文の古典的イメージ・発想の世界においては、また特別の意義をもっているように思われる。これを明らかにするために、まず平安時代の和歌にその用例を探ってみよう。すると我々は次のような歌を見出す。

あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも

この歌は、日本古来の旅の文学の代表として既にその名を掲げた、紀貫之の『土佐日記』承平五年一月二〇日の条に、阿倍仲麿の作として記されているものである。この歌の原形は、『古今集』巻九・羇旅歌冒頭にあるごとく、

天の原ふりさけみれば春日なるみ笠の山にいでし月かも

というものである。これは周知のごとく、仲麿が中国から帰国の旅に出ようとしたときの門出の歌である。貫之はこの歌を自らがおかれた海路の旅という状況にあわせて改変したと考えられている。

このような例歌の存在をふまえ、しかも既に述べたごとき直文の古典的教養の範囲内に『土佐日記』が入るものとするならば、〈青海原〉の訳語を用いる直文の古典的イメージ・発想の世界において、海路の旅を中心とする『土佐日記』の内容が意識されていたと考えることも可能であろう。

ちなみに『土佐日記』では、停泊していた港から出帆するとき

九日のつとめて、おほみなとよりなはのとまりをおはんとて、こぎいでけり。
十一日。あかつきにふねをいだして、むろつをおふ。

というような興味深い記述も見出されるのである。これは、まさに海路の旅における〈朝立ち〉である。


harutoshura at 14:17|PermalinkComments(0)落合直文 

2019年05月03日

「いねよかし」⑰(『於母影』24)

「いねよかし」を作ったと考えられる落合直文について、もう少し詳しく見ておきましょう。

阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれ
いずこの寺の鐘ならむ、諸行無常とつげわたる
をりしもひとり門を出て、父を待つなる少女あり。
年は十四の春あさく、色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわからねども、末たのもしく見えにけり
父は先つ日遊猟(かり)にいで、今猶おとずれなしとかや
軒に落ちくる木の葉にも、かけひの水のひびきにも、
父やかへるとうたがわれ、夜な夜なねむるひまもなし
わきて雨ふるさ夜中は、庭の芭蕉の音しげく、
鳴くなる虫のこえごえに、いとどあわれを添えにけり
かかるさびしき夜半なれば、ひとりおもいにたえざらむ
菅の小笠に杖とりて、いでゆるさまぞあはれなる

孝女

この詩は、井上哲次郎の漢詩「孝女白菊詩」に刺激を受けた落合直文が、新体詩形式に書き換えて、明治21(1888)年から翌22年にかけて「東洋学会雑誌」に発表「孝女白菊の歌」の一部です。

西南戦争(明治10年)のころ、熊本県・阿蘇の白菊の群生地で拾われ育てられた「白菊」という名前の少女が、行方知れずの父を求め旅に出る話です。

その作品は大きな評判となり、全国の少年少女に愛唱されました。また、作り話にもかかわらず、熊本県・南阿蘇村には「孝女白菊の碑」も建てられました=写真

ドイツの詩人カール・フローレンツによって1895年に「Weiss Aster」の題で独訳、3年後には英国のアーサー・ロイドにより「White Aster」として英訳され、世界的に知られてもいます。

「いねよかし」と同じように「孝女白菊の歌」も、平易な現代語を求めるよりもむしろ、典雅なしらべと陰影に富んだ古典語を尊重し、それを土台に新体詩を作ろうとしていたことがうかがえます。

当時の直文について、門下の金子薫園は次のように記しています。

「先生の兵営生活は明治十七年の春から二十年の春に亘つた。陸軍医務局付の看護卒となつて衛戍病院に勤務した。比較的閑散な位置にあったので、先生は此の間に異常な努力で国語国文の研究に当られた。古典科在学の人々と同じ位の力を此の間に養われたと云ふ」(「落合直文の国文詩歌に於ける新運動)」『早稲田文学』大正14・6)

文久元(1861)年11月22日、陸前国(宮城県)伊達家の重臣鮎貝(あゆかい)家に生まれた直文は、11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学んでいます。

明治7(1874)年には、国学者・落合直亮の養子となり、養父の転任で伊勢に移り、神宮教院に学びました。1881年に上京。翌年には東京大学文科大学古典講習科に入学しますが、1884年には中退して入営、3年間の軍務をつとめたのです。

大学をやめて軍務にあっても、「国語国文」への研究意欲は決して衰えることはなかったのです。そして直文は、1888(明治21)年、伊勢神宮教院時代の師であった松野勇雄に招かれ皇典講究所(現・國學院大學)の教師となり、教育者・国文学者としての道を歩んでいくことになります。

ちょうどこんな時期に「孝女白菊の歌」が作られ、続いて「いねよかし」が発表されることになったのです。


harutoshura at 13:51|PermalinkComments(0)落合直文 

2019年05月02日

「いねよかし」⑯(『於母影』23)

「いねよかし」のつづき、きょうは、バイロンの原詩をあげておきます。

1.

"Adieu, adieu! my native shore
Fades o'er the waters blue;
The night-winds sigh, the breakers roar,
And shrieks the wild sea-mew.
Yon Sun that sets upon the sea
We follow in his flight;
Farewell awhile to him and thee,
My native Land—Good Night!

2.

"A few short hours and He will rise
To give the Morrow birth;
And I shall hail the main and skies,
But not my mother Earth.
Deserted is my own good Hall,
Its hearth is desolate;
Wild weeds are gathering on the wall;
My Dog howls at the gate.

3.

"Come hither, hither, my little page!
Why dost thou weep and wail?
Or dost thou dread the billows' rage,
Or tremble at the gale?
But dash the tear-drop from thine eye;
Our ship is swift and strong:
Our fleetest falcon scarce can fly
More merrily along."

4.

"Let winds be shrill, let waves roll high,
I fear not wave nor wind:
Yet marvel not, Sir Childe, that I
Am sorrowful in mind;
For I have from my father gone,
A mother whom I love,
And have no friend, save these alone,
But thee—and One above.

5.

'My father blessed me fervently,
Yet did not much complain;
But sorely will my mother sigh
Till I come back again.'—
"Enough, enough, my little lad!
Such tears become thine eye;
If I thy guileless bosom had,
Mine own would not be dry.

6.

"Come hither, hither, my staunch yeoman,
Why dost thou look so pale?
Or dost thou dread a French foeman?
Or shiver at the gale?"—
'Deem'st thou I tremble for my life?
Sir Childe, I'm not so weak;
But thinking on an absent wife
Will blanch a faithful cheek.

7.

'My spouse and boys dwell near thy hall,
Along the bordering Lake,
And when they on their father call,
What answer shall she make?'—
"Enough, enough, my yeoman good,
Thy grief let none gainsay;
But I, who am of lighter mood,
Will laugh to flee away.

8.

"For who would trust the seeming sighs
Of wife or paramour?
Fresh feeres will dry the bright blue eyes
We late saw streaming o'er.
For pleasures past I do not grieve,
Nor perils gathering near;
My greatest grief is that I leave
No thing that claims a tear.

9.

"And now I'm in the world alone,
Upon the wide, wide sea:
But why should I for others groan,
When none will sigh for me?
Perchance my Dog will whine in vain,
Till fed by stranger hands;
But long ere I come back again,
He'd tear me where he stands.

10.

"With thee, my bark, I'll swiftly go
Athwart the foaming brine;
Nor care what land thou bear'st me to,
So not again to mine.
Welcome, welcome, ye dark-blue waves!
And when you fail my sight,
Welcome, ye deserts, and ye caves!
My native Land—Good Night!"

大和田

「いねよかし」の原詩は、上にあげた、バイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴(Childe Harold's Pilgrimage)』第1巻の13節と14節の間に挿入された抒情詩です。

この抒情詩だけを取って「Childe Harold's Good Night
(チャイルド・ハロルドの告別)」と、独立した作品として読まれることもあります。

落合直文が訳出するの際、直接用いたのはハインリッヒ・ハイネの独訳(ハインリッヒ・ラウベ編『ハイネ全集』)とされていますが、これまで見てきたように、バイロンの英語の原詩もかなりの部分参照していとようです。

バイロンの原詩は、各連8行10連の長詩で、抑揚格を基本とする8音節と6音節の行を交互に配し、各連ともababcdcdの脚韻を踏んでいます。ハイネの訳も、基本的に同じです。

直文の訳詩は、いわば「韻」訳。原作の抑揚や音節の数にはこだわらず、脚韻だけを踏襲する七五調の文語詩になっています。それに、和歌的な想像力によって付加・改変が施されてます。

きのう見たように原作者のバイロンは、地中海地方の旅行を素材にした自伝的長編であるこの『チャイルド・ハロルドの遍歴』によって、一躍時代の脚光をあびました。政界や社交界にも進出しましたが、やがて母国を去り、義勇軍を募って参加したギリシア独立戦争のさなかに病没しています。

バイロンは、日本の近代文学にも大きな影響を与えました。すでに明治10年代には自由の詩人として書生たちに知られ、以前見たように大和田建樹は明治19年4月の『書生唱歌』に「バイロン氏の青海原」という訳詩を発表してます。

大和田建樹(1910-1857)=写真=は、伊予(愛媛)宇和島に生まれ、広島外国語学校卒業後、明治13(1880)年に上京し、ほとんど独学で国文学を研究。帝大文科大古典講習科講師、高等師範学校教授などを歴任しました。詞華集『詩人の春』(1887)などで文名をあげ、『鉄道唱歌』(1900)をはじめ、多くの唱歌集を刊行しました。

当時の青春群像を描いた島崎藤村の『春』(明治41年)にも、主人公たちがこの詩を英語で口ずさむ一節があります。また、土井晩翠にも訳詩「チャイルド・ハロウドの巡礼」(大正13年5月)があります。

独訳をしたハイネ(Christian Johann Heinrich Heine、 1797-1856)は、自ら「バイロンのいとこ」と称し、「彼は私が血縁と感じている唯一の人間であった」と回想しています。

ハイネが訳したバイロンの詩は『詩集』(1821年)に一括して収録されました。そのあとがきには「1821年11月20日、ベルリンにて」とあり、「Childe Harold's Good Night」にあたる部分などの翻訳について、「昨年初めて稿成ったものであり、私が英詩はいかにドイツ語に訳すべきものかと考えていることの見本として示すに足りよう」と自信のほどを示しています。


harutoshura at 13:33|PermalinkComments(0)落合直文 

2019年05月01日

「いねよかし」⑮(『於母影』22)

「いねよかし」のつづき、もう一度、全体を眺めておきましょう。

  いねよかし

  その一

けさたちいでし故里は
青海原にかくれけり
夜嵐ふきて艫きしれば
おとろきてたつ村千とり
波にかくるゝ夕日影
逐ひつゝはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わか故郷もいねよかし

  その二

しばし浪路のかりのやと
あすも変らぬ日は出でなん
されど見ゆるは空とうみと
わかふるさとは遠からん
はや傾きぬ家のはしら
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎
かど辺に犬のこゑかなし

  その三

こなたへ来よや我わらは
何とて涙おとせるか
穉ごゝろに恐るゝは
沖のはやてか荒なみか
はらへ涙も世のうさも
この大舟はいと強し
翼にほこるはやぶさも
かばかり早くはよも飛ばし

  その四

あらきは海のならひとぞ
高き波にはおどろかず
サァ、チャイルドな驚きそ
わか悲みはさにあらず
父にはわかれなつかしき
母には離れ友もなみ
世には頼まん人ぞなき
たのむは神と君とのみ

  その五

父はいたくも泣かざりき
さすがに思ひあきらめて
されどまた世に力なき
母はなくらん帰るまで
あないとほしの我僮
涙のつゆぞうつくしき
心だにかく優しくば
わが目もいかで乾くべき

  その六

こなたへ来よや我しもべ
色蒼ざめしは何故か
フランス人は来ずこゝへ
あるは寒さをいとひてか
サァ、チャイルドよ弱りても
敵を恐るとな思ひそ
気色あしきはつれなくも
わかれし妻を思ひてぞ

  その七

君か族のすみたまふ
浜辺にちかきわがとまや
ちゝは何処と子等は問ふ
妻の答はいかにぞや
といへど泣かぬ我しもべ
これもふさはし猛き身に
なんたちに似ずとつ国へ
われはたちけり戯れに

  その八

こゝろ卑しき女郎花
あだし人をや招くらむ
きのふ涙にまだぬれし
たもとも今日は乾くらん
泣かぬ我身ぞあはれなる
かくまでさぴしき人や誰
われを泣かせんばかりなる
人のなきこそかなしけれ

  その九

汐路にまよふ舟一葉
身の行末もさだまらず
わが為に人なげかねば
人のためにもわれなかず
あだし主人の飼ふ日まで
声かしましく吠ゆれども
むかしの主の音をせで
帰らば噛まんわが犬も

  その十

舟よいましを頼みては
わが恐るべき波ぞなき
故里ならぬ国ならば
いつこもよしと極みなき
海に泛びぬ里遠み
陸に上らば木がくれし
むろにや入らん山深み
わが故里よいねよかし

バイロン

これまで見てきた「いねよかし」の原詩は、イギリス・ロマン派の詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon,6th Baron Byron、1788-1824)=写真、wiki=の「チャイルド・ハロルドの巡礼(Childe Harold's Pilgrimage)」(1817)の一節です。

バイロンは、偽善に満ちた社会への痛烈な反抗で「リベラリズムの比類ない布教者」(ハイネ)とされ、強烈な自我の英雄詩人の原型をつくり、19世紀のヨーロッパに広範な影響を与えました。

1798年に大伯父から男爵の位を継いで、ハロー校、ケンブリッジ大学で教育を受け、その激しい情熱を、読書、水泳、恋愛、詩にそそぎました。熱狂と倦怠、恍惚と憂鬱、高貴と卑俗の間に揺れ動く詩人の気質が、そのままバイロンの詩に反映している、とされます。

『チャイルド・ハロルドの巡礼』は、1812~18年に刊行された4巻からなる長詩。大陸各地の風物や歴史的、文学的連想などが、多情多感な旅人の胸中に呼起す反応を主題とした旅行記です。

1、2巻はスペイン、ポルトガル、アルバニア、ギリシアの旅を描き、一夜にして当代の最も高名な詩人となった言うほどの好評を博しました。 

16年にはスイス、アルプスにいたる旅を扱った第3巻を発表。第4巻は、イタリアを舞台としています。主人公のチャイルド・ハロルドは作者の分身と考えられ、第4巻では仮面を脱いで一人称で語っています。

日本近代文学大系の補注には、次のように記されています。

〈落合直文がこの詩に興味をいだき、かつこのように見事な翻訳をものし得た動機、背景として、彼が「わが国の歌は情歌のみ多く、叙事歌の少き、これ大いなる欠点なり」という考えを平生抱いており、井上哲治郎の漢詩に基づいた名作『孝女白菊の歌』を先年から(明治21年2月―22年5月)発表していたことにもうかがわれるように、常々「物語詩」(Ballade)に対する関心が深かったことが考えられる。

『チャイルド・ハロルドの巡礼』前篇は、英語原文の版本(Tauchnitz版バイロン全集、全5巻)によってこのとき鴎外の手元にあったのだが、全篇はいかにも長すぎるし、鴎外が得意とするドイツ語の、しかも冒頭部分の一まとまりだけをハイネの秀訳によって伝えているこの底本はひとり直文がいだいていたのみならず、明治21年から22年にかけて、佐々木弘綱、佐々木信綱、山田美妙、海上胤平その他の間で、しきりに長歌の改良をめぐる論議が取り交わされ、いわば時世の要求の一つでもあった。

それらは畢竟、新体詩のあり方を模索していた当時の文界の懸案に対する国学者系統からの反応であった。落合直文もそうした国学者たちの空気の中に居たに違いなく、ただ鴎外と結んだことが、彼にこの成功をもたらしたのだとは言えるであろう。〉


harutoshura at 13:10|PermalinkComments(0)落合直文