2018年12月
2018年12月31日
「黒板」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』Ⅱのつづき、大晦日は「黒板」という15行の作品でしめくくります。
黒板
病室の窓の
白いカーテンに
午後の陽がさして
教室のようだ
中学生の時分
私の好きだった若い英語教師が
黒板消しでチョークの字を
きれいに消して
リーダーを小脇に
午後の陽を肩さきに受けて
じゃ諸君と教室を出て行った
ちょうどあのように
私も人生を去りたい
すべてをさっと消して
じゃ諸君と言って
先日見たように私生児として生を受けた高見順は、1908(明治41)年、父の東京転任の後を追って、母、祖母とともに東京市麻生区竹谷町に移住します。母は、裁縫の賃仕事をして生計を立てていました。
1913(大正2)年には麻生区本村小学校に入学、10月には新築の東町小学校に転校。常に、浅黄の半襟をかけ、異様なほど身なりのきちんとした、作文の抜群にうまい、おとなしい優等生だったといいます。
当時、近くに河東碧梧桐門下の俳人岡本癖三酔がいて、俳句の手ほどきを受けています。俳号は「水馬」(みずすましの意)。岡本宅での読書体験も、その後の人生に大きな意味を持ったようです。
1919(大正8)年、東京府立第一中学校に入学します。いまの都立日比谷高校の前身にあたります。
「中学生の時分」には、全集の年譜によると、『白樺』派のヒューマニズムに強く惹かれ、武者小路実篤、有島武郎等を愛読。同級の刑部人に大杉栄をすすめられ、同級生と回覧雑誌、校友会雑誌の編集等にもたずさわる。また、賀川豊彦、倉田百三、とくにストリンドベルヒ全集を耽読していました。
「黒板」は、日本には明治の初めにアメリカを経由して持ち込まれました。大学南校(現在の東京大学)の教師だったアメリカ人のスコットが、当時のアメリカで実践されていた学校教育のシステムを伝授しようと、教科書や教育機器を取り寄せた中に黒板・チョークがあったそうです。
当初は1.5メートル×0.9メートルほどのスタンド型でしたが、大正時代に入ると生徒の自主性を養うため生徒にも黒板に筆記させようという考え方が生まれて次第に黒板は大型化し、教室の正面と背面に固定されるようになりました。
1874~1876年には、国産初の黒板が製造され、全国で利用されるようになります。当初の黒板は、石粉とススを漆で練って地板にヘラ付け、砥石で砥ぎ柿シブで仕上げられたものだったそうです。
黒板はもともと仏壇屋や漆工芸屋などが作っていましたが、大正初期になると黒板専業メーカーが出現し、その技術の高さから朝鮮や満州など海外にも多く知られるようになりました。
柔らかい書き味が特徴で広く使われてきている純木製の黒板は、以前の素材は杉板でしたが、反りや耐久性の問題から昭和30年には全てベニヤ板に変わりました。また、1954年にJIS規定により、塗面は黒から緑に変わりました。
黒板にチョークで書かれた字や絵を消す「黒板消し」は、一般的に、直方体の形をしていて、表は合成樹脂または木の板、革など。裏はコーデュロイなどの布で、その中には柔軟性のあるスポンジが入っていて、多少黒板がへこんでいても対応できるようになっています。
表の部分を持って裏の布の部分で黒板を拭きますが、持つ部分にはふつうベルトのようなもの(バンド)がついています。
さっそうとした「若い英語教師が/黒板消しで」その日うり広げられた授業の展開を物語る「チョークの字を/きれいに消して」教科書「を小脇に/午後の陽を肩さきに受けて」さっそうと出て行く。
人生の「すべてをさっと」きれいさっぱり、後腐れなく「消して/じゃ諸君と言って」すがすがしく「人生を去」っていく。確かにそれは、癌との闘いに苦しみあえぎながら未練を残して迎えるのと対極にある「死」にちがいありません。
2018年12月30日
「夢に舟あり」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』Ⅱのつづき、きょうは「夢に舟あり」です。文語調で、各4行2連から成っています。
夢に舟あり
夢に舟あり
純白の帆なり
美しいかな
涙あふれる
風吹き来り波立ちて
そが美しき舟
波間に傾き没すると見えつつ
夢の外へと去りゆくをいかんせん
先日見たように、高見順が生まれたのは、日本海に面した漁港の町、福井県・三国=写真、wiki=でした。
三国は、福井県の北西部、九頭竜川の河口周辺に位置しています。かつては北前船の拠点として栄え、いまは越前がにやアマエビ漁、東尋坊などの名勝で知られています。
アマエビは日本海中央まで出て底引き網漁が行われ、ズワイガニ、カレイ、ハタハタなどの沿岸漁業も盛ん。
海岸付近では、サザエ、ワカメ、ウニ、アワビなどの素潜り漁も行われていますが、冬に5メートルを越す高波が押し寄せるため定置網漁や養殖は行われていません。
まさに「荒磯の生まれ」の順は、母胎ににいるときから「波」とともにあったのでしょう。「舟」とは自身の生命、「純白の帆」は生命の放つ輝きを指しているようにも思えます。
この詩の中に「舟」や「波」は出て来ても、「海」は出て来ません。『死の淵より』が発表されるより10年以上前の昭和23年6月に作られた「目に見えない海」という詩に次のように記されています。
しかし僕の気にしてゐる海は
遠くの目に見えない海か
近くの目に見える海か
病んでゐて
僕に海は見られない
見られなくても僕が問題にする海は
目に見えない海に他ならぬ
といふことを告白せねばならぬ
見られないしまた目に見えない海は
いま何をしてゐるだらう
見られなくても目に見えるものだけを
僕等は信用する
僕もさういふものを
問題にし 気にしてゐるとき
裏山の木々が
目に見えぬ風に
不安な音を立ててゐる
「夢に舟あり」の海も、きっと「目に見えない海」であり、また「見られなくても目に見える」海なのでしょう。
また、昭和25年11月に出版された『詩集 樹木派』には、こんな詩もあります。
波
嵐が来た 窓の外に
崖の木々が 怒涛のやうだ
さうだ 木々の葉は 地上の波なのだ
波が海の葉であるやうに
おゝ 波の葉よ
木を育てる者が葉であるやうに
海を育てる者は波なのだ
嵐が迫る 窓の中にも
さうだ 海は常に 嵐の中にゐるのだ
人が常に 嵐の中にゐるやうに
おゝ 嵐に揺れる葉よ
常に苦しんでゐる波よ
おゝ 人間の中にある葉よ波よ
海を育てる者は波であるやうに
人間を育てる者は
人間の中の波なのだ
「風吹き来り波立」っているのは、「地上の波」である「木々の葉」ともとれますし、また「人間の中の波」でもあるのでしょう。
2018年12月29日
「花」(『死の淵より』Ⅱ)
高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「花」。見舞いの花についての率直な思いを記しています。
花
カトレアだとか
すてきなバラだとか
すばらしい見舞いの花がいっぱいです
せっかくのご好意に
ケチをつけるようで申しわけありませんが
人間で言えば庶民の
ごくありきたりの でも けなげな花
甘やかされず媚びられず
自分ひとりで生きている花に僕は会いたい
つまり僕は僕の友人に会いたいのです
すなわち僕は僕の大事な一部に会いたいのです
「カトレア」(Cattleya)=写真、wiki=は、中央アメリカ、南アメリカ原産のラン科の1属。自生地では、樹木の枝に着生して気根を出します。極めて大輪で派手な花を咲かせ、洋ランのなかでもっとも華麗で、「洋ランの女王」とも呼ばれています。
属名は、イギリスの植物愛好家のカトレイ(William Cattley)の名にちなんでいます。彼が、南米から送ってもらった植物の梱包材として使われていたこの着生植物に興味を持ち、栽培してみたところ予想もしなかった見事な花をつけた。そのため、植物学者ジョン・リンドリーが記載して献名したという逸話も残っています。
和名は、牧野富太郎が、花の美しさを日の出に見立て「ヒノデラン」としています。花色は白、桃、紅、朱赤、紫紅、橙黄、黄などとさまざまで、径15~18センチの大輪花を3個以上つけるものもあります。春咲きから冬咲き種まで、二季咲き種もあり、一年中花がみられます。
栽培するには冬に最低10℃を保つ場所が必要で、生育期は春から初秋まで。この間寒冷紗(かんれいしゃ)下に株を置いて、水やりと施肥を適度に行ない、春に出た芽を大きくすると、初秋ころから花芽が見え出します。
カトレアの花をより美しくするため、この属や近縁属との属間交配が盛んに行われてきました。一般にそれらすべてをまとめてカトレアと呼んでいて、その名を冠する植物の幅はますます広まってきています。
こうしたカトレアに、詩人は「甘やかされず媚びられず/自分ひとりで生きている花」とは正反対のイメージを持っているようです。
美しい花をつけ、香料の原料ともなる「バラ」は、バラ科バラ属「Rosa」の落葉、あるいは常緑の低木やつる性植物から育成されたもの。約200種の野生種が知られ、多くの観賞用園芸品種が生まれています。
品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産で、バラの自生地として日本は世界的に知られています。
江戸時代初期には仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰りました。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれています。
与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残していますが、江戸時代には職分を問わず園芸が流行り、コウシンバラ、モッコウバラなどが栽培されました。
明治維新を迎えると、明治政府は「ラ・フランス」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させました。馥郁とした香りを嗅ごうと見物客が詰めかけたので、株には金網の柵がかけられたといいます。
当時はまだバラは西洋の「高嶺の花」でしたが、大正から昭和のころには一般家庭にも普及し、宮沢賢治は「グリュース・アン・テプリッツ(日光)」を愛好しています。戦争直後の1948年には銀座でバラの展示会が開かれ、1949年の横浜での展示会ではアメリカから花を空輸して展示用の花がそろえられました。鳩山一郎や吉田茂らのバラの愛好は、戦後日本でのバラ普及に大いに貢献しました。
この作品が書かれたのは、日本でも品種改良が行われ、戦後の高度成長の波に乗ってバラが嗜好品として庶民にも普及していった時代のこと。とはいえ、花の観賞を楽しむことができるのは、やはり庭を持つ比較的裕福な家庭に限られていました。「庶民の/ごくありきたりの でも けなげな花」とは到底言えないものだったのです。
2018年12月28日
「望まない」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』のつづき、きょうは「望まない」。3連10行の自らの気持ちを率直にうたった作品です。
望まない
たえず何かを
望んでばかりいた私だが
もう何も望まない
望むのが私の生きがいだった
このごろは若い時分とちがって
望めないものを望むのはやめて
望めそうなものを望んでいた
だが今はその望みもすてた
もう何も望まない
すなわち死も望まない
「死」も含めて何も「望まない」と宣言しています。なんと、10行の詩の中に「望」という漢字が行数と同じ10個も出てきます。
ところで、「たえず何かを/望んでばかりいた」「望むのが私の生きがいだった」という高見順はどういう生涯を送ったのでしょう。
日本近代文学館の「高見順という時代―没後50年―」の展示資料などを参考に、このあたりでその人生を振り返っておくことにしましょう。
「おれは荒磯の生まれなのだ」(詩「荒磯」)というように、生まれたのは日本海に面した漁港の町。近くに東尋坊の絶壁がある福井県の三国です。明治40(1907)年生まれ、あるいは明治39年とも言われます。本名は「高間義雄」ですが、高等学校のころ「高間芳雄」と改名しています。
高見順は自分の父親について「私を彼女に生ませた、彼女の夫ではない私の父親」(「私生児」)といっています。父親はそのころ福井県知事だった阪本釤之助。知事として何度か三国町を訪れるうち、この地で評判の美人だった高間古代こよと結ばれ、高見順が生まれました。
その翌年、高間古代は老母と幼い息子とともに三国町から東京市麻布区(現在の港区)に移り住んみます。和裁の仕事で生計を立てつつ、一人息子を厳しく育て上げました。後年、順は「私は父親が欲しかつた」(『わが胸の底のここには』)とも記していますが、生涯一度も父親と顔を合わせたことはありませんでした。
順は高等学校時代、ダダイズムを初めとする欧州前衛芸術運動の影響を受けて、同人誌「廻転時代」を発刊。東京帝国大学英文学科に進学後、「高見順」のペンネームで小説を書き始め、プロレタリア文学の担い手として「大学左派」「左翼芸術」等の雑誌を舞台に活動しました。
卒業してコロムビア・レコードに就職した後も非合法運動を続けますが、検挙され、拘留中に妻に裏切られる事件なども重なって、虚無にさいなまれることになります。やがて転向するに至り、昭和8年(1933)、新田潤、渋川驍らと「日暦」を創刊。その活動は、転向作家たちの拠点となった雑誌「人民文庫」へとつながっていきます。
この時期、左翼崩れの若者たちの悲哀を綴った「故旧忘れ得べき」を発表。これが第一回芥川賞候補になり、一躍文壇の注目を集めました。この作品は「書き手」が直接顔を出して小説の進行を解説していく特異な文体で知られています。
昭和11年のエッセイ「描写のうしろに寝てゐられない」は、写実的に「描く」ことをめざす旧来のリアリズム文学への反逆の宣言ともいえるものでした。ダダイズム、マルキシズムなど西洋の最新思潮をくぐり抜けた末に順は、ポストモダンの旗手として、江戸戯作の伝統にも通じる豊かな語りの文体を再生してみせたのです。
昭和13(1938)年の春、高見順は浅草田島町に仕事部屋を借ります。ここで書かれたのが『如何なる星の下に』で、改造社の「文芸」に連載されましたが、文芸雑誌には珍しく挿絵入りの連載となり、単行本にもその絵がそのまま使われました(挿絵・装幀は三雲祥之助)。山の手に育った高見順にとって浅草は新鮮な土地だったようです。
さかのぼって昭和9年の短篇「世相」に、すでに浅草の17歳の踊り子に心惹かれる男が登場しています。「如何なる星の下に」の「私」も17歳の踊り子「小柳雅子」のことを「いいなア」と思う。「十七歳のその可憐な脆美スレンダーな肉体」をしきりに思い、「小柳雅子への慕情」という言い方も使われていたが、「慕情」ということばは高見順の造語と言われます。
高見順が浅草に部屋を借りていたのは1年ほどだった。昭和16年(1941)1月に高見順は、画家の三雲祥之助とともにジャワ(現、インドネシア)へと旅をしています。戦時色が強まるとともに表現者への統制が強まり、思想犯保護観察法の監視対象となっていた高見の周辺は一層息苦しくなっていました。
意気込んで創刊した「新風」も、軍部からの圧力で、創刊号だけでおわっています。旅は、こうした行き詰まりを打破したいという願いから計画。前年12月に幼い一人娘由紀子を喪ったばかりで、傷心の旅立ちでした。のちに刊行される膨大な日記は、この旅から執筆が始まっています。
ここでの異文化体験に触発されて、帰国後「文学非力説」を書きます。「文学非力説」は、国策文学を求める流れに一石を投ずることになった一方で、文学を軽んずるものだと憤る者、時局に非協力的だと批判する者などもあり、さまざまな反論が寄せられました。
昭和16年11月に徴用令を受けます。太平洋戦争が始まって危険も増したビルマ(現、ミャンマー)に配属され、陸軍報道班員として報告文を書き続ける一方、ビルマの現状や伝統文化、民俗に関心を寄せています。
昭和18年1月に帰国しますが、昭和19年6月から12月まで、再び陸軍報道班員となって中国に赴いています。滞在中には、南京で開催された第3回大東亜文学者大会に、日本代表として参加しました。
戦争中の過労がたたって、戦後、順は胃潰瘍、胸部疾患、神経症など、病床生活を余儀なくされました。病がいえると、自身の体験した「昭和」を見直そうと、文壇史『昭和文学盛衰史』(昭和33)や代表作『いやな感じ』(昭和38)を刊行しました。食道がんにかかったのは、さらなる連作小説を構想している最中のことでした。
昭和初期、社会主義と前衛芸術の運動が盛行した時期から書き出される『昭和文学盛衰史』は、文学・作家・思想について、豊富な資料と経験を駆使してとらえ、文学研究を志す者にとっての必読書ともなりました。
『いやな感じ』は、アナーキストでテロリストの青年の物語。主人公は昭和初期、社会改革の夢を抱いてアナーキズムに引かれますが、実際は「リャク」(有産者からの略奪)で生きています。
時代は第二次上海事変(昭和12)へと突入。上海では、軍人、政商・右翼・アナーキストが暗躍中でしたが、上海に渡った主人公もまた、無意味な殺人を犯し、「いやな感じ」(自己嫌悪)におちいります。作者のモチーフは「小説による現代史」を書くことだったとされています。
2018年12月27日
「愚かな涙」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』のつづき、きょうは「愚かな涙」。きのうのよりもさらに短い4行だけの作品です。
愚かな涙
耳へ
愚かな涙よ
まぎれこむな
それとも耳から心へ行こうとしているのか
*wiki
この作品について吉野弘は次のように「鑑賞」しています。
〈直接、感情に訴えるようなことばが全くないので、見すごされそうな作品だが、声をもたない涙が耳に悲しみを訴えにゆく、というふうに読むと、なんとも哀切な作品であることがわかる。
ベッドに仰向けに寝ていると、涙がわいてきて、目尻から耳へ、一気にすーっと糸をひいて走ってゆく。愚かな涙よ、響きを、耳に聞いてもらいたいのか。お前には声がないではないか。
涙よ、お前の嘆きが心に届いていないとでも思っているのか。だから耳を通して心に、嘆きを伝えにゆきたいのか。愚かな涙よ。涙も耳も心も、みんな私のものだ。悲しみをじっと耐えているのは、この私だ。
なんてすばらしい「悲しみの歌」だろう。涙を即物的に扱って、こんな哀切な歌を書いた詩人は、そんなに多くはないだろう。〉(『現代詩鑑賞講座 第8巻 歴程派の人々』)
「涙」は、科学的には、目の涙腺から分泌される体液のことをいいます。眼球の保護が主な役目ですが、感情によってひき起こされる涙、すなわち涙の情動性分泌というケースがあります。
こうした、感情によって涙を流すというのは、自律神経の働きによる人間特有の生理反応で、他の動物にはない現象と考えられています。
涙の組成は約98%は水で、少量のタンパク質(アルブミン、グロブリン、リゾチーム)、食塩、リン酸塩などを含んでいます。
涙の分泌は顔面神経と交感神経に支配される複雑な機構によって、悲しいとき、感激したときなど感情が激しく動くと多量に分泌され、涙点から吸収しきれずにまぶたからあふれ出ることになるのです。
感情が高ぶると人間はどうして涙を流すのでしょう。
涙をさそう映画を見せて収集した涙とタマネギをむかせて収集した涙の成分比較をすると、感情による涙は刺激による涙より、より高濃度のタンパク質を含んでいたことなどから、涙は感情的緊張によって生じた化学物質を体外に除去する役割があると考える研究者もいるとか。
涙をさそう映画を見せて収集した涙とタマネギをむかせて収集した涙の成分比較をすると、感情による涙は刺激による涙より、より高濃度のタンパク質を含んでいたことなどから、涙は感情的緊張によって生じた化学物質を体外に除去する役割があると考える研究者もいるとか。
いずれにしても「愚かな涙」は、人間だけが流すことができるのです。
2018年12月26日
「小石」(『死の淵より』Ⅱ)
高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「小石」。5行だけの即興的な作品です。
小石
蹴らないでくれ
眠らせてほしい
もうここで
ただひたすら
眠らせてくれ
「小石」というタイトルと書き出しの「蹴らないでくれ」という訴えからすると、バンバンと体内や心の中に小石を投げつけられるような激しい痛みに耐えられず、「眠らせてくれ」と叫んでいるのでしょうか。
それとも、詩人自身を弱くて孤独な傷つきやすい「小石」ととらえて、そんな「小石」でしかない自分を襲う死神のようなものに対して「蹴らないでくれ/眠らせてほしい」と訴えているのでしょうか。
Ⅱの前書きによれば「ここの詩は入院直前および手術直前に属するもので」あるとしたうえで、この「小石」などの作品については「当時ほとんど即興的に書き流したままの詩で、のちの手入れがほどこされてないので、発表のはばかられる稚拙と自分で気がさしているのかもしれぬ」としています。
食道癌には、初期症状といえる症状はほとんど無く、腫瘍ができた場所の胸痛や胸部違和感が起こることがある程度だといいます。ですから入院直前や手術直前に眠れない、「蹴ら」れるような痛みというのは考えにくくそうです。とすると、眠れないのは、心の痛み、気持の動揺による可能性が高そうです。
山本健吉によれば、高見順は外界が絶えず脅迫する力として現れる、孤高ならぬ「孤卑」と呼んでもいい、「弱者の孤独」たる意識をもっていたと見ています。
高見順は1907年、福井県知事・阪本釤之助の非嫡出子として生まれています。母・高間古代(コヨ)は、阪本が視察のときに夜伽を務めた女性でした。
実父と一度も会うことなく、東京にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からの手当てだけでは足りず、母が針仕事で生計を立てたといいます。
「氏は出生において、すでに社会における被害者であった。「私生児」という称呼は、ノルマルな家庭関係、従ってまた社会関係の中に、はじめから自分を組み込むことができなかったということである。人間関係のなかに自分を仲間入りさせることは、始めから自分を弱者として、恥ずべき存在として、その中に組み込むことことであった。
氏は悪童の仲間に、平等の意識を以て這入ることができない。社会から突き放された存在として、氏が自分を意識してから、外界は絶えず氏を脅迫する力として現れた。氏の強迫観念は、氏の孤独の意識を育て上げた。それは岡本氏が自分をその中に閉ざしたような、俗悪からの断絶による高貴な孤独ではない。
逆に、羞恥からの、怯懦からの、インフェリオリティ・コンプレックスからの、弱者の孤独であった。「孤高」でなく、こういうこう言葉が許されるとすれば、「孤卑」であった。」(山本健吉「東京のヘドを吐く作家――高見順の人と作品――)
とすれば、「小石」を詩人自身と考えてもまんざらおかしくはなさそうです。
2018年12月25日
「みつめる」(『死の淵より』Ⅱ)
高見順『死の淵より』のつづき、きょうは「みつめる」。7行だけですが、味わい深い作品です。
みつめる
犬が飼い主をみつめる
ひたむきな眼を思う
思うだけで
僕の眼に涙が浮ぶ
深夜の病室で
僕も眼をすえて
何かをみつめる
前書きの「ここの詩は入院直前および手術直前に属するもの」からすれば、「深夜の病室で」というのは、入院した昭和38年10月5日から手術前日の10月8日までのいずれかと推測することが出来ます。日記から、この間の夜の様子の記述を拾ってみると――
【10月5日】
「X線所見」というのを見て、がっかりと言うか、なんと言うか――。「撮影部位」に、食道、胃、胸と書いてある。図が描いてある。それを私はガンが食道と胃と胸の三箇所にあるものと解釈する。
病院に帰り、夕食(おでん、ヒキ肉、丼メシ)をちょっと取り、そのまま寝る。六時から翌朝まで。
【10月6日】
雨。
犬がないている。たくさんの犬のなき声――。朝もこのなき声が耳について困った。病院の実験用の犬ではないか。殺される犬ではないか。幼い声のもあった。かぼそい、哀れななき声――。
池島信平君、見舞いに来てくれる。中山教授、ひと足ちがいで帰宅。
橋爪について語る。
便所に行く。大便が出ないで苦しむ。
タバコをとめられる。
麻酔の先生が見える。いれかわり立ちかわり、いろんな先生が来て、応接にいとまなしの感。
夜食。空腹なれど食欲なし。疲れのためか。シュークリームを食う。
池島君から電話――。
カンチョウ、便所へ行く。出なくて出なくて大苦しみ。
死を思うべきか。
生を――たすかるかもしれんと思うべきか。
ガンは常識としてはたすからない。だからかえって、僥倖を思う。
【10月7日】
よく寝た。
【10月8日】
手術前夜なり。
死んでたまるか。
二三日前はむしろ死を甘く考えていたが。
「深夜の病室で/僕も眼をすえて/何かをみつめる」ことができたのは、入院2日目の10月6日であった可能性が高そうです。
この作品について吉野弘は次のように「鑑賞」しています(『現代詩鑑賞講座 第8巻 歴程派の人びと』)。
「この詩集のほとんどの作品を通じ、作者は苦悩や恐れを、自分との距離を失して直接的にパセティックに語っている。それは、そういうものであるに違いない、誰が死を間近かに感じながら、自己の感情に距離を置くことができよう。
そうした感想をいだかせるこの詩集の作品の中でこれは、語らずにじっと耐えている。眼の光だけがある。ほかは全部、闇に没し去り、わずかに頬のあたりをかすかな光が浮き彫りしている。十分なイメージだ。
飼主をみつめる犬の眼、ひたむきな眼。あの眼は飼主から、飼主のもっている以上の愛と憐憫をひき出す。
飼犬が、死をかすかに予感しながら、救いを主に求めている。全幅の信頼を主に向けて。飼主の取るに足りない力を救いの力と信じて――。主は己の無力を悲しみながら、犬の哀願する眼の中を見返している。
詩人は今、こうした飼犬の位置にいる。深夜、眼をすえて、何かを見つめている。主をもったことのない私が、何かを見つめている。誰も私の死を救うことはできない。
それなのに、私は、主を見つめる犬のように、何かをじっと見すえる。私の眼を見て、無力を恥じている主のようなお方が、どこかにいらっしゃるのだろうか」。
2018年12月24日
「生と死の境には」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』のつづき、きょうは「生と死の境には」という16行の作品です。ビルマ戦の従軍体験から「生と死の境」について探ります。
生と死の境には
生と死の境には
なにがあるのだろう
たとえば国と国の境は
戦争中にタイとビルマの国境の
ジャングルを越した時に見たけれど
そこには別になにもなかった
境界線などひいてなかった
赤道直下の海を通った時も
標識のごとき特別なものは見られなかった
否 そこには美しい濃紺の海があった
泰緬(たいめん)国境には美しい空があった
スコールのあとその空には美しい虹がかかった
生死の境にも美しい虹のごときものがかかっているのではないか
たとえ私の周囲が
そして私自身が
荒(あ)れはてたジャングルだとしても
全集別巻の年譜によると、高見順は34歳だった1941(昭和16)年、徴用令により陸軍報道班員としてビルマ派遣軍に配属され、12月8日には、香港沖の洋上で太平洋戦争勃発を知ります。
翌1942年は、タイのバンコクで新年を迎えています。3月にはラングーン攻略の第一線部隊に配属され、ラングーン近郊で英軍の戦車に包囲され、あやうく一命をとりとめます。このとき、肌身はなさず持っていた小型の日記ノートを紛失しました。
約1年間のビルマ滞在中には、現地から従軍記などを送る一方、ビルマ作家協会結成に尽力、ビルマの作家ウ・ラー、ザワナらと親交を結んでいます。翌1943年1月に帰還しています。
「戦争中にタイとビルマの国境の/ジャングルを越した時に見た」というのは、このラングーン攻略の第一線部隊に配属され、まさに死地に赴いて足を踏み入れたときのことが念頭に置かれているのでしょう。
そんな「国と国の境」と「生死の境」が交差する死地を思い起こしても「境界線などひいてなかった」と詩人はいいます。
ビルマの戦いは、太平洋戦争の局面の1つで、1941年の開戦直後から始まり1945年の終戦直前まで続きました。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦いました。
ビルマは19世紀以来、イギリスが植民地支配していました。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく日本軍は、アメリカ、イギリス、ソ連などが蒋介石の率いる国民政府に軍需品や石油などの支援物資を送り込んでいた「援蒋ルート」の遮断などを目的に、ビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧しました。
太平洋戦争開戦と同時に、第33師団と第55師団を基幹とする日本軍第15軍がタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手します。まず宇野支隊がビルマ領最南端のビクトリアポイントを12月15日に占領。日本軍の特務機関である南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始し、12月28日にビルマ独立義勇軍(BIA)が宣誓式を行っています。
タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈でしたが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取りました。沖支隊は1942年1月4日に国境を越えてタボイへ、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメンへ向かいました。
BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていませんでしたが、BIAやビルマ国民の協力で、国境を越えることができたそうです。そうした日本軍の隊列の中に高見順も居たのでしょう。
連合国軍は一旦は退却しましたが、1943年末以降、本格的反攻に転じます。日本軍はインパール作戦で機先を制しようと試みましたが失敗、連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回しました。日本人戦没者は18万名に達しています。
現在はミャンマーとなっているビルマ(漢字表記で「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接しています。南北約2000キロ、東西約1000キロ、国土面積は68万平方キロです。
気候は熱帯モンスーン気候で、5月中旬から10月までは雨季。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量5000ミリに達する世界一の多雨地帯で、河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となります。
10月末から5月までは乾季で、乾燥して草木は枯れます。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくありません。乾季には地面が固まって車両の通行は容易ですが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなくなったといいます。
ビルマの気候は稲作に適し、コメの年産は700万トンに達していました。ですから日本軍は、食糧調達を円滑に行うことができたはずですが、戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが従軍記や回想録から知られます。
「泰緬(たいめん)」の「泰」はタイ。「緬」は、「緬甸(めんでん)」すなわちビルマ、いまのミャンマーの略です。
「スコール」は、突然吹き出す強い風のこと。ふつう数分間続き、突然やみます。この突然の烈風は大気の不安定により起こり、しばしば、雷鳴、雷光、激しい降雨を伴うことがあります。ここでは、こうした熱帯地方の驟雨(しゅうう)の意味として用いられているようです。
「私の周囲が/そして私自身が」死と隣り合わせの戦地である「泰緬国境」の「荒れはてたジャングルだとしても」そこには「美しい空があった/スコールのあとその空には美しい虹がかかった」として「生死の境にも美しい虹のごときものがかかっているのではないか」と、これまでの作品と違ってこの詩からは、ほんわかと「希望」の香りがただよってきます。
2018年12月23日
「電車の窓の外は」(『死の淵より』Ⅱ)
『死の淵より』のつづき、きょうも病院へと向かう電車の車窓の風景と詩人の切実な心境がつづられます。
電車の窓の外は
電車の窓の外は
電車の窓の外は
光りにみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死なねばならぬ
だのにこの世は実にしあわせそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸がつまって涙が出そうになる
団地のアパートのひとつひとつの窓に
ふりそそぐ暖い日ざし
楽しくさえずりながら
飛び交うスズメの群
光る風
喜ぶ川面(かわも)
微笑のようなそのさざなみ
かなたの京浜工場地帯の
高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり
電車の窓から見えるこれらすべては
生命あるもののごとくに
生きている
力にみち
生命にかがやいて見える
線路脇の道を
足ばやに行く出勤の人たちよ
おはよう諸君
みんな元気で働いている
安心だ 君たちがいれば大丈夫だ
さようなら
あとを頼むぜ
じゃ元気で――
高見順が罹った食道がんは、食道内腔のもっとも表層の粘膜上皮から発生するものですが、がん細胞の組織形態によって、扁平上皮がん、腺がんなどに分類されますが、日本では扁平上皮がんが大部分を占めています。
発がん要因としては、現在、遺伝的・体質的なものよりは、環境中の刺激因子のかかわりのほうが大きいと考えられています。
食道がんは、時間とともに粘膜上皮から粘膜内、粘膜下層、筋層、外膜(がいまく)へと浸潤して増殖し、その過程でリンパ節転移、臓器転移をおこすと考えられています。
外膜を越えると、縦隔内臓器である気管や大動脈などへも浸潤します。
治療や予後の面から考えると、食道がんは粘膜がん、粘膜下層(表在)がん、進行がんと分けて考えるのが合理的です。リンパ節転移は、粘膜がんではほとんどありませんが、表在がんでは40%前後のリンパ節転移が認められ、進行がんでは70%を超えます。
粘膜がんや表在がんの段階では自覚症状はほとんど見られません。が、進行がんになると、飲み込みにくい(嚥下障害)、つかえ感、しみる感、さらに胸骨の後ろ側が痛むなどの症状が出てきます。このような期間が平均2カ月ほど続きます。
順は、昭和38年9月16日の日記に「食事のとき、何か食道につっかえる感じがする」と記しています。
また埴谷雄高は、この年の晩夏に開かれた大杉栄講演会での出来事として次のように記しています(「癌とそうめん」)。
〈ところで、高見順と岡本潤が熱心に話しこんでいたのは、アナキズムに関する話題ではなく、食物が咽喉につかえるということについてであった。そこで、私もまた同じだと向かい側から言った。
「えっ、埴谷君も咽喉につっかえるの?」
と、高見順は不意に顔色を輝かせながら、こうみんな同じ症状を共通にもっているなら、不安な事態ではあるまいといった安堵もこもった調子で訊いた。〉
このような違和感を感じていた直後の10月3日、千葉医大附属病院で検査で、食道ガンと診断されたのです。
このように何かがつっかえるという自覚症状があったことからすると、進行がんだったと考えられます。10月9日に手術。その後、翌39年7月に第2回目。がんは食道から胃に転移して、同年12月に第3回、昭和40年3月に第4回と、順は3年間に4回の手術を受けたことになります。
当時、食道がんの手術は極めて難しく、一般の病院ではなかなか実施できませんでした。そんな中で、順が入院した千葉大学中山外科は、食道がん手術のエキスパートがたくさんいて、国内だけでなく、米国などからも多くの患者がやってきていたそうです。
とはいえ、食道の進行がんの手術成績は、5年生存率(術後5年間生きている割合)がいまでも45%程度。当時は、手術死亡率が1割にも達していたという時代ですから、まさに「死の病」でした。
「この世が/人間も自然も/幸福にみちみちている/だのに私は死なねばならぬ」といった無念さが、率直な言葉で表されています。
「京浜工業地帯」=写真、wiki=は、1960年ころまでは、東京から川崎、横浜に至る一帯に限られていましたが、その後、経済の高度成長の波とともに縁辺地域へと拡大し、その範囲は現在東京都心から半径約50km、東京、神奈川、埼玉、千葉など1都4県に及ぶ日本最大の工業地帯へと躍進しました。こうした工業地域の拡大とともに、大気汚染、騒音などの公害が社会問題となるのもこのころです。
こうした京浜工場地帯の「高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり」も、癌病棟という死出の旅へと向かう心境の詩人にとっては「生命あるもののごとくに/生きている/力にみち/生命にかがやいて見える」のです。
2018年12月22日
「青春の健在」(『死の淵より』Ⅱ)
詩集『死の淵より』のつづき、きょうからⅡ部に入ります。最初に出てくるのは「青春の健在」という38行の作品です。
青春の健在
電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者たちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ
さようなら
君たちともう二度と会えないだろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ
Ⅱ部には、次のような前書きがあります。
〈ここの詩は入院直前および手術直前に属するもので、本当はⅠの前に掲げるべきものである。順序が逆なのだが、それをなぜⅠの次にしたか、自分でもよくわからない。自分の気持としてそうしたかったからだが、詩のできがⅠのほうがいいと思えるのでそれをさきに見てもらいたいという虚栄心からかもしれぬ。
「みつめる」「黒板」「小石」「愚かな涙」「望まない」などは当時ほとんど即興的に書き流したままの詩で、のちの手入れがほどこされてないので、発表のはばかられる稚拙と自分で気がさしているのかもしれぬ。
「青春の健在」「電車の窓の外は」などは車中でのメモにもとづいて、のちに書いたものである。これは当時の偽らざる実感で、死の恐怖が心に迫ってきたのはあとからのことである。〉
これまでにも見たように、高見順は昭和38年10月5日、食道癌の手術のため、千葉大学附属病院に入院しています。
入院の日の朝について、日記には〈十月五日 七時四十分発電車で上京。東京駅降車口で『朝日ジャーナル』茂木(もてぎ)さんと落ち合う。「朝日」の車で千葉へ。稲毛海岸で、持参の松茸メシ(おにぎり)を食べる。今朝は検査があるかもしれないとは思ったが――。〉とあります。
順は、昭和18(1943)年から北鎌倉に住んでいましたので、鎌倉から東京駅へ行く途中で「電車が川崎駅にとま」った際の「ホーム」の様子に「当時の偽らざる実感」を折りまぜて描いたのがこの作品ということになりそうです。
順は、1930年に東大を卒業したあと、同年秋から1936年までコロムビア・レコード会社教育部に勤務していました。同社は、1910年に日本蓄音機商会として発足、レコード製造ばかりでなく国産初の蓄音機「ニッポノホン」の製造・販売もして、日本の音楽産業の先駆けの役目を担いました。
いまは無き川崎工場=写真=は1928年に完成。レコード全盛期には、専属歌手だった美空ひばりをはじめ、数々の昭和のヒット曲がプレスされ、全国に出荷されました。また、順が入社した直後の1931年には、同工場に音符印のネオンサインが据え付けられ、車窓からの名物となったのでした。
一方、この工場で働いていた時期は、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたり、離婚したり、芥川賞候補になったりと、順の人生の中でもとりわけ波乱に満ちた「季節」だったのです。
癌病棟へ向かうこの日、20代のときいつも乗り降りしていた川崎駅の雑踏を目にして、「私の青春がいまホームにあふれている」という感慨を抱きます。そんな詩人はといえば、「死へともう出発だ」という心境で、頭のなかが張り詰めた状態に置かれているのです。
それは、「いつも元気」であり、またそうでなければならない「青春」との、また、その思い出との永遠の別れの瞬間のように思えてならなかったのでしょう。
2018年12月21日
「魂よ」(『死の淵より』Ⅰ)
詩集『死の淵より』のつづき、きょうはⅠ部の最後の作品。「魂よ」と訴えかけます。
魂よ
魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分った
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう
第一 魂のほうがこの世間では高く売れる
食道はこっちから金をつけて人手に渡した
魂よ
生は爆発する火山の熔岩のごとくであれ
おまえはかねて私にそう言っていた
感動した私はおまえのその言葉にしたがった
おまえの言葉を今でも私は間違いだとは思わないが
あるときほんとの熔岩の噴出にぶつかったら
おまえはすでに冷たく凝固した熔岩の
安全なすきまにその身を隠して
私がいくら呼んでも出てこなかった
私はひどい火傷やけどを負った
おまえは私を助けに来てはくれなかった
幾度かそうした眼に私は会ったものだ
魂よ
わが食道はおまえのように私を苦しめはしなかった
私の言うことに黙ってしたがってきた
おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった
卑怯とも違うがおまえは言うこととすることとが違うのだ
それを指摘するとおまえは肉体と違って魂は
言うことがすなわち行為なのであって
矛盾は元来ないのだとうまいことを言う
そう言うおまえは食道がガンになっても
ガンからも元来まぬかれている
魂とは全く結構な身分だ
食道は私を忠実に養ってくれたが
おまえは口さきで生命を云々するだけだった
魂よ
おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
行為だけの世界に連れて来たい
そして魂をガンにして苦しめてやりたい
そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう
「食道」(Esophagus)は、消化管の一部で、口腔、咽頭に続き、食物が胃に送り込まれるときに通過する臓器です。長さ25センチほど、太さ2から3センチの筒状をしています。
文字通り「食べ物の通る道」。口から入った食べ物を胃まで送る働きをしていて、消化活動はしていません。食道の筒の壁は、粘膜上皮、粘膜固有層、粘膜筋板、粘膜下層、筋層と、幾層もの構造でできています。
一番壁の内側にある粘膜は「重層扁平上皮」という組織で覆われています。この一番内側の粘膜から、食道癌が発生します。日本人の食道がんの90%以上がこのタイプの「扁平上皮癌」であり、60~70歳の男性に多く発病します。
全体は、頸部(けいぶ)、胸部、腹部の3つに区分されます。長さ5センチほどの頸部(第6頸椎)で喉頭の後ろ側で始まり、胸部(15~18センチ)では気管支、大動脈弓などの後ろを通り、横隔膜(食道裂孔)を突き抜けて腹部(2~3センチ)に至り、横隔膜の下(第11胸椎)で胃の噴門とつながっています。
口から飲み込まれて食道に入った物は、液体状の物は数秒程度で、固体状の物でも狭窄部にひっかかるようなことが無ければ数十秒もあれば食道を通過して胃へと送り込まれる。
食道には3箇所の生理的狭窄部があります。咽頭との接合部、気管支の後ろを通る部位、そして横隔膜を抜ける部位で、食物がよく詰まるのはこれらの箇所です。また、胃との接続部分である噴門部とともに、これらの狭窄部が食道ガンの好発部位として知られています。
粘膜のすぐ下層には多数の食道腺があり、粘膜の表面に粘液を分泌して食物の通りをよくするはたらきがあります。筋層は2層構造で、内側は輪走筋、外側は縦走筋に相当します。筋線維はいずれも斜めに走っていて、これらが順に収縮することで食物を胃に送り出すような動き(蠕動運動)をしています。
長い管状器官のため食道に分布する血管は、下甲状腺動脈、大動脈、左胃動脈などいろいろな動脈から枝を受けています。静脈では、食道胸部以下は奇静脈系(胸腔の後壁で脊柱の右側を上行する静脈系)に入るとともに左胃静脈ともつながっています。
食道への神経は迷走神経(副交感神経)と交感神経が分布して、食道神経叢を形成しています。副交感神経の場合は、食道の筋運動や分泌作用をつかさどり、交感神経は血管運動性と考えられます。
食道の病気の80%近くが、高見順を死へと追い込んだ食道癌です。手術で、自分の体の一部であった「食道が失われた今」、魂よりも「食道のほうが/私にとってはずっと貴重だった」ことが「はっきり分った」と詩人はいいます。
生か死かの土壇場にあっては、「魂」なぞという「口さきばかり」の精神的なものではなく、自分を成り立たせている物質的な存在、「行為だけの世界」のほうがものをいうと思えてくる。そして、デカルトの精神と物質の二元論ではありませんが、精神か物質と問われたら「魂を売り渡していたろう」というのです。
なぜかといえば、食道は「私の言うことに黙ってしたがってきた/おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった」から。
「魂をガンにして苦しめてやりたい」というのは、少々ヤケッパチのようではありますが、やり場のない思いをこんなふうに言い放てるのも詩の力なのでしょう。
2018年12月20日
「不思議なサーカス」(『死の淵より』Ⅰ)
詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「不思議なサーカス」。各10行8連からなる作品です。
不思議なサーカス
病室へ来る見舞い客は
だれでも、口のところに口があり
鼻のところに鼻があり
眼のところに二つの眼がある
当り前とは言え不思議である
悲しみとのつきあいに私はあきた
当り前すぎるつきあいがいやになった
そのためこんな当り前でないことを考えるのか
人間の顔はどうしてこうみんな当り前なのだ
眼が一つで口が二つの人間はいないのか
当り前でない死 あるいは殺人
不思議でない殺人 あるいは死が
今どこかで行われていることを考える
私のガンはそのいずれに属するか
私という人間が死ぬのに不思議はないが
私のガンは当り前でない殺人とも考えられる
私もさんざいろんなことをしてきたが殺人は
不思議でないそれも当り前でないそれもいずれもしていない
人を殺すことのできなかった私だから
むしろ不当に殺されねばならぬのか
私に人殺しはできぬ
しかし自分を殺すことはできそうだ
ほとんどあらゆることをしてきた私も
自殺だけはまだしていない
自殺の楽しみがまだ残されている
どういうふうに自殺したらいいか
あれこれ考える楽しみ
不思議な楽しみに私はいま熱中している
当り前でない楽しみだが
私にとっては不思議でない楽しみだ
病室の窓にわたした綱に
悲しみが
ほし物バサミでつるされている
なんべんも洗濯された洗いざらしの悲しみが
ガーゼと一緒にゆれている
ガーゼよりももっと私の血を吸った悲しみ
私はいま手に入れたばかりの楽しみを
あの悲しみのように手離すことを
ここしばらくは決してすまい
それは手離しがたい楽しみだからでもある
あらゆることをしてきた私は
いろいろの楽しみの思い出がある
玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか
あれは今から思うと悲しみを買いに行ったようなものだ
楽しみと思っていたものがすべて
実は悲しみだったとも考えられる
今度こそほんとの楽しみだ
自殺を考えることが
悲しみでなくほんとの楽しみであるようにするために
不思議な自殺法をあれこれと考えよう
私の友人は何人かすでに自殺している
思想に破れ首つりをした友人小沢
私たちの心を暗くした悲惨な自殺だった
奇型みたいに頭でっかちの男だった
自分の独特さ非凡さを誇るために
ひとのできない自殺をしてみせた友人久木村
軍人の息子でびっこだった
これは惨めな自殺でなかったとは言え
自殺の方法は独特ではなかった
独特でなくてもせめて不思議な方法はないか
窓ガラスをぶちこわし
黒いカラスの群を呼び入れようか
鞭を鳴らして実験用の犬どもを
サーカスの白い馬のように
窓をくぐらせこの部屋に闖入させようか
もはや鞭をして私自身を鞭打つことに使わせてはならぬ
狂乱の犬をぞくぞくと走りこませ
屍肉をついばむカラスと一緒に
私の自殺と一見関係がないような
不思議なサーカスをやらせたら面白いが
人生がすでに不思議なサーカスだ
人生のサーカスは誰の場合もすべて
不思議な人生でも当り前の人生でも死をもって閉じられる
そこにサーカスのような拍手はない
不思議な自殺で私は拍手をもとめようとしているのか
当り前でない死を自分でそうして慰めようとしているのか
耳が左右二つでもそれで人間の耳であるように
殺人といえどもその死はすべてひとつの当り前の死なのだ
当り前の死になってしまう前に
せめて自殺の楽しみをひとりで楽しまねばならぬ
高見順の『闘病日誌』を見ていると、売れっ子作家らしく、友人や編集者らがひっきりなしに手術後の病室を訪れていたことが分かります。たとえば、昭和38年11月13日の日記には――
ラジオの選挙演説を聞いてうとうと。
11時半 はじめて朝食。
洋(水谷洋)ちゃん来る。洋ちゃんと玄関まで(ついでに散歩)。
浣腸――室内で大便。
おそい昼食、すこし。疲れて昼寝。
「岩波」竹田、海老原(Delicatessen)。田辺茂一(とめても、病室でタバコをのむ)。
夜、松岡洋子。
客疲れで食欲喪失。
9時半、ムリにスープ(「吉田」のおばさん持参の五目鍋)、牛乳、パンちょっと。あとで苦しむ。
などとあります。こうした「見舞い客」たちと顔を合わせているなか、「悲しみとのつきあいに私はあきた/当り前すぎるつきあいがいやになった」と嘆きます。そして「当り前でない死」へと考えが及んでいきます。
高見順は、詩を書くことは「死」との駆け引きだ、と考えていました。詩を通して「自殺を考え」「楽し」むということは、死から免れようという切実な思いの裏返しなのかもしれません。
「玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか」いある「玉の井」=写真=は、東京都墨田区東向島五丁目へんにあった銘酒屋形式の私娼(ししょう)街のことです。
浅草十二階下の私娼街が1918(大正7)年ごろに移転させられたものを中心に発展。抱え女は一軒に2人以内が原則、通勤女や女主人の売春もあったようです。
強制売春だけでなく前借金のない女も40%前後いて、高級とはいえないものの特有の雰囲気をもつ私娼街でした。迷路のような路地続きに掲げられた「通りぬけられます」の表示や、永井荷風著『東綺譚』の舞台としても知られています。
高見順は、その代表作の一つでもある小説『いやな感じ』の舞台を戦前の玉の井に設定し、1927(昭和2)年、その私娼街へ行くところから物語をはじめています。
2018年12月19日
「渇水期」(『死の淵より』Ⅰ)
詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「渇水期」という9行の作品です。「赤い風景画」3という傍題があります。
渇水期
水のない河床へ降りて行こう
水で洗ってもよごれの落ちない
この悲しみを捨てに行こう
水が涸れて乾ききった石の間に
何か赤いものが見える
花ではない もっと激烈なものだが
すごく澄んで清らかな色だ
手あかのついた悲しみを
あすこに捨ててこよう
(「赤い風景画」3)
食道を切除する手術後、高見順が最も苦しめられたのが人工食道だったようです。昭和38(1963)年11月6日の日記には「これから半年、ゴム管生活かと思うと、うんざり」とあります。
また、この「ゴム管生活」について秋子夫人は次のような注記を記しています。
〈「ゴム管生活」とは「人工食道」を取ったりはずしたりの生活で、そのわずらわしさに「うんざり」と思ったのだろうが、その実態は、「うんざり」等という生やさしいものではなく、しかも半年どころでは済まずに、日を追ってどんなに大変なものかが分ってきた。〉
食道癌の手術における食道再建は、いまも煩雑でなかなか困難なようです。通常は、胃か腸が代用食道に用いられますが、侵襲が大きくなって患者の負担が大きいので代用としての人工食道が発案されました。
1960年代には様々な材料の人工食道が開発され、大学病院に入院していた順も当時最先端のものを用いていたのでしょう。しかし、人工食道のゴム管が洩れたり、はずれたりといったことがよくあったようです。
また、無菌的な環境にある人工心臓とちがって、人工食道など消化器系の人工内臓では、中身が細菌に溢れた食物や糞便であるので感染のリスクが高く、近年、再生医療の発展で見直されるようになるまでは、けっきょく思うような効果を上げることはできませんでした。
「ゴム管生活かと思うと、うんざり」とあった11月6日の日記ノートの末尾には、次のような未定稿の詩が書きこまれています。
漂ふリボン
リボンが漂つてゐる
私の病室に贈られてきた花束の
リボンが花から離れて
漂つてゐる
華やかな 漂ひながら
清らかに 形は崩さない
さまざまの病ひが
どうして私に
興味を持つ
私は
ゴルフにも にも
興味を持たないのに
あたしが
またも
ちぎれて
風に吹かれて
稲妻のやうに
痛みが
胸の内部を貫く
「何か赤いものが見える/花ではない もっと激烈なものだが/すごく澄んで清らかな色だ」という「赤いもの」とは、日記にある「リボン」のようにも思われてきます。
2018年12月18日
「突堤の流血」(『死の淵より』Ⅰ)
詩集『死の淵より』のつづき、きょうは「突堤の流血」という作品です。2連11行。昨日の「赤い実」の「1」につづき「赤い風景画」2という傍題があります。
突堤の流血
突堤の
しぶきの白くあがる尖端の
灰色のコンクリートにこびりついた
アミーバ状の血
寄せてはくだける波も
それがいくら努力しても
そこを洗うことはできない
そこに流された血は
そこでなまぐさく乾かされる
波にかこまれながら
ゆっくりと乾かされねばならぬ
(「赤い風景画」2)
「突堤」(jetty)は、海岸と直行方向に沖合に向けて設けられる堤防状の構造物ですが、技術用語としては二つの意味をもちます。
一つは、海岸侵食対策に用いられる構造物のこと。突堤群として用いられ、捨石や消波ブロックを堤防状に築いた透過式のものと、長方形のコンクリートブロック、ケーソン、矢板などを堤防状に用いた不透過式のものがあります。
いずれも汀線から海側へ数十メートル突き出し、間隔はその長さと同じか2倍程度。突堤の高さは水面より1メートル程度高くし、海岸線へ斜めに入射する波に対して、沿岸方向に移動しようとする砂を阻止し、海浜の侵食を防止する役目をします。
二つ目は、港湾の埠頭の一形式である突堤式埠頭をいうのに使います。これは陸岸から海中へ幅150~300メートル、長さ数百メートルの埠頭を突出させ、これに船舶の係留施設、倉庫、上屋などを配置した埠頭形状の大規模なものです。
どちらの「突堤」を思い浮かべてのイメージかはわかりませんが、海岸侵食を防ぐため「寄せてはくだける波」に打たれながらも踏ん張る「灰色のコンクリート」のほうがしっくりするように思われます。
「アミーバ」(アメーバ)は、単細胞で基本的に鞭毛や繊毛を持たず、仮足で運動する原生生物の総称です。典型的なアメーバは、幅広い仮足を持ち、大型のものは1mmを越えますが、多くは10-100μm程度。
移動の際は細胞内の原形質流動により進行方向へ細胞質が流れるに従って、その形を変えるようにして動きます。この運動をアメーバ運動といいます。細胞体は透明で、体内には多数の顆粒が見え、特に内部の層では運動にしたがってそれらが流動するのが見られます。
アメーバは原形質流動によって移動し、そのため外見が変わり続けるため、「一生の内で二度と同じ形を取らない」と言われることもありますが、まったくの不定形ではなく、楕円形とかナメクジ状とか、おおよその形は属や種によって決まっているようです。
アメーバは、とにかく変幻自在で不定形の生物と認められているため、この詩のようにしばしば不定型なものに対してアメーバ状などと呼ばれます。
「血」は、動物の体内を循環する体液で、普通、血管内を流れます。赤血球、白血球、血小板の細胞成分と、血漿と呼ばれる液体部分から成り、血液全体の45%が細胞成分で、残り55%が血漿成分。赤い色は赤血球中に含まれるヘモグロビンによります。
心臓を中心に絶えず流動し、体の各部に酸素や栄養を補給し、体の各部でできた老廃物を運び出す役割をもち、体温の調節もします。体外で血液を放置すると、固形物(血餅)と液体(血清)とに分かれ、自然に固まります(血液凝固)。
詩人は、「突堤」のコンクリートにこびりついた血液を「洗うことはできない」といいます。「波にかこまれ」つつも「なまぐさく」「ゆっくりと乾かされねばなら」ないのです。それは、もはや不治の病におかされたわが身体を癒すことの困難さを表現しているように思われます。
2018年12月17日
「赤い実」(『死の淵より』Ⅰ)
高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「赤い実」。きのうと同じく5行の短い詩で、「赤い風景画」1と記されています。
赤い実
不眠の
樹木の充血
患者の苦しみの
はじまる暁
赤いザクロの実が割れる
(「赤い風景画」1)
「樹木」が生育すれば、それによって地面は覆われ、多くの生命を支える環境を作り出します。樹木はまた、果実や木の実の重要な供給源でもあります。二酸化炭素を取り入れ、酸素を放出することによって、空気を浄化する手助けもします。
根は水を蓄え、洪水を防ぎ、土壌を浸食から守ります。また、樹木は生産物を多量に蓄え、休むことなく、さまざまな動物にすみかと食物を提供しつづける極めて特異な生産者といえるでしょう。
詩人は、そうした「樹木」(それは有機体としての人間の体でもあるのかもしれません)が、「充血」するのを見つめ、体感しています。それは「赤いザクロの実が割れる」のに象徴されるものなのでしょうか。
「ザクロ」は、ザクロ科の落葉小高木。なめらかで光沢のある楕円形の葉をもち、初夏に鮮紅色の花をつけます。果実は花托の発達したもので、球状で、果皮は厚く、中に薄い隔膜で仕切られた6個の子室があり、多数の種子が隔膜に沿って配列しています。
秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂けて、赤く透明な多汁性の果肉の粒(外種皮)が数知れず現れます。外種皮は甘酸っぱく特殊な風味があり、生食用とするほか、グレナディンなどの清涼飲料としています。
原産地はイラン。日本へは平安時代に中国を経て入ったと推定されています。花木として重んぜられ、花のほか果実も熟して割れる美しさを観賞してきました。また、根や茎の皮、果皮を薬用としてきました。
右手にザクロを持つ鬼子母神像は、釈迦が訶梨帝母(かりていも)にザクロを与え、人の子のかわりにその実を食べよと戒めたという仏教説話が伝わったもの。このため、ザクロは人肉の味がするとして、昔は好まれなかったようです。
仏典には降魔の威力をもつとあります。また、初期のキリスト教美術では、エデンの園の生命の木として描かれています。
仏典には降魔の威力をもつとあります。また、初期のキリスト教美術では、エデンの園の生命の木として描かれています。
2018年12月16日
「泣きわめけ」(『死の淵より』Ⅰ)
高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「泣きわめけ」という5行の詩です。
泣きわめけ
泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣いていないで
膿盆(のうぼん)の血だらけのガーゼよ
そして私の心よ
外づらは平静を装いながらも、ひそかに「うずくまって小さくなって泣いてい」る「私の心」に、「泣け 泣きわめけ/大声でわめくがいい」と、発破をかけています。
「膿盆」は、外科的処置や手術のときに用いる扁平でそら豆形の容器。この詩にあるように使用ずみのガーゼや切除・摘出した臓器組織などを入れます。
くぼみのあるそら豆のような形をしているのは、嘔吐する際にそのくぼみの部分を顔に当てるなど、体に密着させやすくし、液体がこぼれないようにするためです。
ここに出てくる膿盆の材質は金属(ステンレス)製でしょうが、最近はプラスチック製や、ディスポーザブル(使い捨て)な紙製のものもあります。
入院中のノートには、次のような詩の断片もありました。
人はなぜ
死をおそれるのか
死ぬのをいやがるのか
そんなに生が楽しいのか
生きてゐることが いいことなのか
苦しみにみちた生なのに
わたしもなぜ
死を 恐れねばならぬのか
死を 空想
想像
創造
しかし
このとき ガンが
はじまつてゐたのだ
2018年12月15日
「死の扉」(『死の淵より』Ⅰ)
高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「死の扉」という1行詩です。
死の扉
いつ見てもしまっていた枝折戸(しおりど)が草ぼうぼうのなかに開かれている 屍臭がする
「枝折戸」=写真=は、竹や木の枝を折って作った簡素な開き戸のこと。とくに庭園内の見切り、内外露地の境に設けられる木戸をいいます。
本来、木の枝を折ってつくった粗末な開き戸を意味しましたが、今日では和風庭園などで風雅を求めて用いられ、茶庭では、露地門として使われることが多くなっています。
折り曲げた青竹を框(かまち)として、これに割り竹で両面から菱目(ひしめ)模様に組み上げて、前後の重なりを蕨縄(わらびなわ)で結び付けてつくります。
高見順は1963(昭和38)年10月5日に、食道癌を治療するため、千葉市亥鼻の千葉大学附属病院に入院ました。同9日に手術を受け、11月28日まで2カ月弱、ここで入院生活を送っています。
亥鼻は、1126年に千葉常胤の父・常重が居館を構えた千葉発祥の地。病院の近くには、豊かな緑につつまれて、日本庭園や茶店のある歴史公園もあります。
入院時の日記のノートには、次のような詩の断片も記されています。
落ち葉
ふり積るやうに
私のためいき
積つて――
風に吹かれて
道に出て
人にふまれてゐる
2018年12月14日
「汽車は二度と来ない」(『死の淵より』Ⅰ)
高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「汽車は二度と来ない」という21行の作品です。
汽車は二度と来ない
わずかばかりの黙りこくった客を
ぬぐい去るように全部乗せて
暗い汽車は出て行った
すでに売店は片づけられ
ツバメの巣さえからっぽの
がらんとした夜のプラットホーム
電灯が消え
駅員ものこらず姿を消した
なぜか私ひとりがそこにいる
乾いた風が吹いてきて
まっくらなホームのほこりが舞いあがる
汽車はもう二度と来ないのだ
いくら待ってもむだなのだ
永久に来ないのだ
それを私は知っている
知っていて立ち去れない
死を知っておく必要があるのだ
死よりもいやな空虚のなかに私は立っている
レールが刃物のように光っている
しかし汽車はもはや来ないのであるから
レールに身を投げて死ぬことはできない
前の詩「帰る旅」で、「この旅は/自然へ帰る旅である/帰るところのある旅だから/楽しくなくてはならないのだ/もうじき土に戻れるのだ」と歌いましたが、ここでは旅に出ようにも、「暗い汽車は出て行っ」たまま「もう二度と来」ません。
「ツバメの巣さえからっぽの/がらんとした夜のプラットホーム」に、「私ひとり」が取り残されています。
「永久に来ない」ことを「私は知っている」のに、「知っていて立ち去れない」のだといいます。
「死を知っておく必要がある」という宿命から、「死よりもいやな空虚」である「夜のプラットホーム」に「私は立ってい」なければならないのでしょうか。
「私」にとっての「死」というのは、「土に戻」こと。とすれば、「自然へ帰る旅」のための「汽車はもはや来ないの」だから「レールに身を投げ」たところで「死ぬことはできない」ということになります。
高見順は1963(昭和38)年10月に食道癌と診断されて千葉大学附属病院に入院しました。同9日に手術を受けて、11月末に退院しています。
この詩は、この間に手術後の病室で、枕もとのノートに鉛筆で書き込んだメモをもとに退院後に書かれたものの一篇です。
高度経済成長のこの時代、ビジネス客や観光客が増え、大量の物資が国内を動くようになって鉄道は増え続ける旅客や貨物を運ぶために輸送力の強化が続けられ、新型車両が次々と投入されました。1964年完成を目ざし「時速200 kmを超える定期列車」すなわち新幹線の開発も進められていました。
1959年(昭和34年)に答申された「動力近代化計画」では、「昭和35年度から50年度までに主要線区5000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行い、蒸気機関車の運転を全廃すべきである」とされています。
こうした流れのなか、1948年にE10形5両が製造されたのを最後に、国鉄における蒸気機関車製造は終了。次第に数を減らした汽車は1974年11月に本州から、1975年3月に九州からと、相次いで姿を消してゆきました。
蒸気機関車が引っ張る「汽車はもはや来ない」時代も、到来していたのです。
2018年12月13日
「帰る旅」(『死の淵より』Ⅰ)
高見順の『死の淵より』のつづき、きょうは「帰る旅」とい作品です。
帰る旅
帰る旅
帰れるから
旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつかは戻れるからである
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり
どこにもあるコケシの店をのぞいて
おみやげを探したりする
この旅は
自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を
大地へ帰る死を悲しんではいけない
肉体とともに精神も
わが家へ帰れるのである
ともすれば悲しみがちだった精神も
おだやかに地下で眠れるのである
ときにセミの幼虫に眠りを破られても
地上のそのはかない生命を思えば許せるのである
古人は人生をうたかたのごとしと言った
川を行く舟がえがくみなわを
人生と見た昔の歌人もいた
はかなさを彼らは悲しみながら
口に出して言う以上同時にそれを楽しんだに違いない
私もこういう詩を書いて
はかない旅を楽しみたいのである
詩人は、癌との闘病生活を「自然へ帰る旅であ」り「土に戻れる」旅だと位置づけています。そして「帰れるから/旅は楽しいのであり」さらには死という「帰るところのある旅だから/楽しくなくてはならない」と言い聞かしているようです。
「死」いう概念は、生物の個体、器官、組織、細胞など、さまざまのレベルで考えられています。
プラトンでは死は魂を肉体から解放するものであり、プロチノスはそれゆえに死を善としました。
信仰のうえでも、肉体的な存在と精神的な存在を区別しようと試み、死に続く人体の分解にもかかわらず、死を経験してもその人の何かは生延びると考えられています。
聖書では「神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に息を吹き入れられた。すると、人は生きた魂になった」(創世記2:7)としたうえで、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」(創世記3:19)と、こうした肉体の死の一方で、永遠の生命たる神からの離反としての魂の死もいわれます。
詩人は信仰の死よりも、ドライでやや唯物論的に死を考えて(ようと)しているようです。肉体と精神を区別せず「大地へ帰る死を悲しんではいけない/肉体とともに精神も/わが家へ帰れる」といいます。
科学的にとらえれば、自然から生命が生まれた以上、好むと好まざるとにかかわらず、死は生命サイクルの一部に組み込まれています。死とともに人体を土へと徐々に戻していく複雑なプロセスが始まります。
化学的に「分解」を重ねていく過程で、私たちの生体構造は、単純な有機物や無機物に転換され、植物や動物がそれらを利用できるようになっていくのです。
「古人は人生をうたかたのごとしと言った」というのは、鴨長明『方丈記』の有名な冒頭の部分「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。
「川を行く舟がえがくみなわを/人生と見た昔の歌人」とは、「巻向(まきむく)の山辺とよみて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人われは(巻向の山辺を、どうどうと音を立てて勢いよく水が流れ行くが、人生なんて川の流れに出来る水の泡のように、はかないものよ)」(万葉集・巻7)と歌った柿本人麻呂のことでしょうか。
人生という「はかない旅を楽し」む。そんな詩人であろうとする懸命な思いがつたわってきます。
2018年12月12日
「ぼくの笛」(『死の淵より』Ⅰ)
『死の淵より』、きょうは「ぼくの笛」という8行の絶唱です。
ぼくの笛
ぼくの笛
烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる
わたしたちののどは、食事を取るときには食べ物の通り道となり、呼吸する際は空気の通り道となります。
この仕分けをしているのが喉(こう)頭です。喉頭は気管の入り口にあり、喉頭蓋や声帯をもっています。喉頭蓋や声帯は呼吸をしているときは開いていて、物をのみこむときにはかたく閉じて食物が喉頭や気管へ入いらないように防ぐ役目をしています。
また、声帯は、発声のときには適度な強さで閉じて、吐く息によって振動しながら声を出します。つまり喉頭は、呼吸をする、物をのみこむ、声を出すという3つの大きな働きをしているのです。
喉頭に続いて気管が始まり、食道の前を垂直に下がって第4~6胸椎の高さで左右に分れて気管支となります。左右の主気管支はさらに細気管支に分れ、肺胞に連なります。気管支内面の粘膜は線毛上皮でおおわれ、線毛運動によって鼻から吸込んだ空気中の異物を排出します。
喉頭癌などで喉頭全摘出術を受けた無喉頭の人は普通の発声ができなくなるので、発声に使うため空気を食道を経て胃内に飲み込み、その空気を咽頭から口腔へと逆流させて、その際に食道起始部が振動して出る音を音声として用いる食道発声を行います。
しかし、食道癌の手術を受けた「ぼく」はというと、手術で、がんを含めて食道およびリンパ節を含む周囲の組織を切除してしまったと考えられます。食道を切除した後には食物の通る新しい道が再建はされますが、「食道が吹きちぎられた」状態になったからには、気管だけが宙ぶらりんになったことになります。
のどから空気の通り道だけが残って「気管支が笛になって/ピューピューと鳴って」いるといいます。食道発声が上達すると、言葉をうまく出せるようになりますが、気管の用い方が上手になると「ピューヒョロヒョロとおどけ」た鳴り方をさせることができるのでしょうか。
でも、せっかく「じょうずになって」出したこの音ですが、「かえってぼくを寂しがらせ」てしまう切ないもののようです。
2018年12月11日
「三階の窓」(『死の淵より』Ⅰ)
『死の淵より』、きょうは各8行、4連からなる「三階の窓」という詩です。
三階の窓
窓のそばの大木の枝に
カラスがいっぱい集まってきた
があがあと口々に喚わめき立てる
あっち行けとおれは手を振って追い立てたが
真黒な鳥どもはびくともしない
不吉な鳥どもはふえる一方だ
おれの部屋は二階だった
カラスどもは一斉せいに三階の窓をのぞいている
何事かがはじまろうとしている
カラスどもは鋭いクチバシを三階の部屋に向けている
それは従軍カメラマンの部屋だった
前線からその朝くたくたになって帰って
ぐっすり寝こんでいるはずだった
戦争中のラングーンのことだ
どうかしたのだろうか
おれは三階へ行ってみた
カメラマンはベッドで死んでいたのだ
死と同時に集まってきたのは
枝に鈴なりのカラスだけではなかった
アリもまたえんえんたる列を作って
地面から壁をのぼり三階の窓から部屋に忍びこみ
床からベッドに匍いあがり
死んだカメラマンの眼をめがけて
アリの大群が殺到していた
おれは悲鳴をあげて逃げ出した
そんなように逃げ出せない死におれはいま直面している
さいわいここはおれが死んでも
おれの眼玉をアリに襲われることはない
いやなカラスも集まってはこない
しかし死はこの場合も
終りではなく はじまりなのだ
なにかがはじまるのである
詩人は、「窓のそばの大木の枝」に「いっぱい集まってきた」カラスに対して、「不吉な鳥ども」と言い放っています。
古来、日本ではカラスは霊魂を運ぶ霊鳥とされ、「烏鳴きが悪いと人が死ぬ」という伝承があり、カラスが騒いだり異様な声で鳴くとその近所に死人があると信じられました。
また、柿を収穫するとき、翌年、カラスが柿の木に宿る霊魂を連れて帰ってくると考えられ、カラスのために最後の実を残す風習があったともいわれます。「月夜烏は火に祟る」と言われ、夜のカラスの鳴き声が火災の前兆とされる俗信もありました。
カラスは熊野三山の御使いでもあります。熊野神社などから出す牛王宝印の紙面は、カラスの群れが奇妙な文字を形作っています。これを使った起請を破ると、熊野でカラスが3羽死に、その人には天罰が下るといいます。「誓紙書くたび三羽づつ、熊野で烏が死んだげな」という小唄もあるそうですです。
イギリスでは、アーサー王が魔法をかけられてワタリガラスに姿を変えられたと伝えられます。このことからワタリガラスを傷付けることは、アーサー王(さらに英国王室)に対する反逆とも言われ、不吉なことを招くとされています。
ギリシア神話では太陽神アポロンに仕えていました。色は白銀で美しい声を持ち、人の言葉も話すことができる賢い鳥でした。しかし、ある時にカラスは、天界のアポロンと離れて地上で暮らす妻コロニスが、人間の男であるイスキュスと親しくしているとアポロンに密告しました。アポロンは嫉妬し、怒り、天界から弓で矢を放ち、コロニスを射抜いてしまいました。
死ぬ間際に「あなたの子を身ごもっている」と告げたコロニスの言葉に、我に返ったアポロンは後悔し、きっかけを作ったカラスに行き場の無い怒りをぶつけ、その美しい羽の色と美声と人語を奪った。カラスは天界を追放され、喪に服すかのように羽は漆黒に変わり、声も潰れて、言葉を話すどころか、醜い鳴き声を発することしかできなくなったとされます。
このようにカラスは、知能が高い面がこうかつなな印象を与えたり、食性の一面である腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、さまざまな物語における悪魔や魔女の使いや化身のように、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。逆に、神話や伝承にあるように、古来から世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」としてあがめられてきた生き物でもあるのです。
「カラスどもは鋭いクチバシを三階の部屋に向けてい」ます。そこは「従軍カメラマンの部屋」でした。
この時代に「従軍カメラマン」といえば、ベトナム戦争のことでしょう。第2次世界大戦後の冷戦下、インドシナ半島の旧フランス植民地で起きたこの戦争は、親米のベトナム共和国(南ベトナム)の独裁政権打倒をめざして1960年12月、南ベトナム解放民族戦線が結成され、共産主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が支援しました。
米軍は65年2月から国境を越えて北ベトナムに大規模な空爆(北爆)を開始。73年1月に米軍の撤退を主内容とするパリ協定が調印され、南ベトナム政府は75年4月に無条件降伏しました。ベトナム人の犠牲者は軍民合わせて120万~170万人と推計されています。
この詩が作られたのは、ベトナム戦争で、カメラマンなど報道関係者に多くの犠牲者が出た時代でした。たとえば、沢田教一(1936-1970)は 1966年年にベトナム人母子を撮影した「安全への逃避」でピュリッツァー賞を受賞しましたが、1970年10月28日にプノンペン南方でゲリラに銃撃され、死亡しています。
「アリ」の食性は多様に分化していますが、キバハリアリやハリアリなどの下等なアリ類はほとんど肉食です。昆虫の幼虫、ミミズ、小動物の死骸など餌はいろいろあります。高等なアリの多くは雑食性で、動物性食物のほかに花や葉の蜜腺の分泌物、アブラムシやカイガラムシなどの分泌する甘露など多くのものが加わります。
「死んだカメラマンの眼をめがけて/アリの大群が殺到してい」るのに、「悲鳴をあげて逃げ出し」てきた「おれ」。確かに「アリに襲われること」も「いやなカラスも集まってはこない」。しかし、決して「逃げ出せない死」に直面しています。「おれ」は、「死」の確実な「はじまり」を痛切に感じているのです。
2018年12月10日
「死者の爪」(『死の淵より』Ⅰ)
きょうから高見順(たかみじゅん、1907-1965)の晩年の詩集『死の淵より』の作品を一日一篇ずつ眺めていきたいと思います。きょうは、詩集冒頭の短詩「死者の爪」です。
死者の爪
つめたい煉瓦(れんが)の上に
蔦(つた)がのびる
夜の底に
時間が重くつもり
死者の爪がのびる
凝縮された言葉が、冴えた、透明な響きを放ちながら、「死」という代物を捕捉しようとしているように思われます。
実際に「死者の爪がのびる」ということがあるという話を、聞くことがあります。しかし、実際には伸びているわけではなく、伸びているように見えるだけ。
死んで体から水分が失われて乾燥すると、肌など柔らかい組織が縮むので、爪が目立つようになり、あたかも伸びたように見えるのだそうです。
でも、「夜の底に」「つも」る「時間」の「重」みで「死者の爪がのびる」感じ、確かに伝わってきます。
『死の淵より』は、高見順が亡くなる前の年の1964(昭和39)年に講談社から出版されました。『樹木派』(1950)、『高見順詩集』(1953)、『わが埋葬』(1963)に続く4冊目の詩集です。
「昭和三十九年六月十七日、再入院の前日」という日付が入った詩集の前文には、次のように記されています。
〈食道ガンの手術は去年の十月九日のことだから早くも八ヵ月たった。この八ヵ月の間に私が書きえたものの、これがすべてである。まだ小説は書けない。気力の持続が不可能だからである。詩なら書ける――と言うと詩はラクなようだが、ほんとは詩のほうが気力を要する。しかし持続の時間がすくなくてすむのがありがたい。二三行書いて、あるいは素描的なものを一応書いておいて、二三日おき、時には二三週間、二三ヵ月おいて、また書きつゞけるという工合にして書いた。千葉大の中山外科から十一月末に退院した。手術後の病室で書かれた形の詩をこのⅠに集めた。形のというのは病室で実際に書いた詩ではないからだ。手術直後にとうてい書けるものではない。気息えんえんたる状態のなかでそれは無理だ。しかし枕もとのノートに鉛筆でメモを取った。それをもとにして退院後書いたのが、これらの詩である。そこでやはり病室での詩ということにした。肋膜の癒着もあったせいか、手術はよほどヘビイなものだったらしく三時間近くかかった。爪にガクンとあとが残り、それが爪がのびるとともに消えるのに半年近くかかった。詩が書けはじめたのは(さきに退院後と書いたが実際は)その半年すこし前のことである。「死の淵より」という題の詩をひとつ書こうと思ったのだが、できなかった。できたら、それを全体の詩群の題にしようと思っていた。それはできなかったのだが、全体の題に残すことにした。〉
2018年12月09日
「クリスマスの歌」⑥ 家畜小屋
「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」のつづき、きょうは最終の第8連です。
Schönstes Kindlein in dem Stalle,
Sei uns freundlich, bring uns alle
Dahin, wo mit süßem Schalle
Dich der Engel Heer erhöht!
家畜小屋の中のうるわしい幼児キリストよ
われらの近くにあって、すべての人々を導きたまえ
愛らしいひびきとともにある
天使の聖歌隊の高みへと
「Stalle」すなわち家畜小屋については、たとえば「ルカ福音書2.7」に「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とあります。
さらに、「ルカ福音書2.7」には「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです」。「ルカ福音書2.6」には「そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを探し当てた」。「飼葉おけ」があったことから、そこが家畜小屋であると考えられます。
確かに聖書の記述には、イエスが家畜小屋で生まれたと解釈される可能性があったようで、『偽マタイ福音書』も、家畜小屋伝承の成立に関わっていると考えられます。この伝承は西ヨーロッパでは定着し、例えばローマ・カトリック教会公式の教義解説である『カトリック教会のカテキズム』にも、イエスは家畜小屋で生まれたとされています。
パウル・ゲルハルトの生きた時代は、ドイツを舞台として戦われた最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争(1618~48年)と重なります。そんな困難な時代の中でゲルハルトは、神秘主義的観照、神秘主義的象徴と、ルター派神学の神学的原理との統合によって、一つのリート形式を誕生させました。
それは単に知性だけに基づくものではなく、歌い、祈ることができる言語が、ここに誕生したと言えるのかもしれません。「神」という概念は、色彩と暖かみを獲得したのです。イエスに対する、直接的、人間的、さらには官能的とまでいえる関係性が開かれていくのです。
テレビアニメなどで「ハイジ」として知られるヨハンナ・スピリの『ハイジの修行時代と遍歴時代』では、フランクフルトから帰ってきたハイジがペーターのおばあさんに、初めて読んであげる詩などとして、ゲルハルトの詩「黄金の太陽、喜びと幸いに満ちて」が登場します。
ゲルハルトの名前は知らなくても、その歌詞は広くドイツ語をしゃべる人たちの間に深く浸透しているのです。断固たるルター派聖職者であった彼の意志とは逆に、彼の詩は現在のカトリック教会の讃美歌集にも掲載されています。「グリムのメルヘンと並び、そしてルターの聖書翻訳や詩作よりも優れて、ドイツで最もよく知られた文学作品に属する」といった評価もあるそうです。
こうして見てきたようにゲルハルトは、神との個人的な関係がますます重要性を増していく新しい時代の先駆者といってもいいのでしょう。そういう意味では、ゲルハルトの讃美歌がいまも歌われつづけている意味合いは、決して小さくないように思います。
2018年12月08日
「クリスマスの歌」⑤ おさなごイエス
「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」のつづき、きょうは第6と第7連、そしてゲルハルトの生涯を眺めます。
Unser Kerker, da wir saßen
Und mit Sorgen ohne Maßen
Uns das Herze selbst abfraßen,
Ist entzwei, und wir sind frei.
牢獄、そこにわれらは座している
際限のない憂慮がつきまとい
胸ひき裂く思いに苛まれる
そこがいま粉々になり、われらは解き放たれた
O du hochgesegn'te Stunde,
Da wir das von Herzensgrunde
Glauben und mit unserm Munde
Danken dir, o Jesulein!
ああ、このうえなく祝福された時間
その時をわれらはこころの底から信じる
そしてわれらの歌をもって
あなたに感謝する おさなごイエスに
「Kerker」は、牢獄、特に城などの地下の牢獄をいいます。牢獄としては、古代ではヘブライ人は水がたまっていない貯水槽、ギリシア人は鉱山の坑道,シラクサの僭主ディオニュシオス1世は採石場を、ローマ人は同じように鉱山や採石場を利用しました。
「Jesulein」は「Jesus」(イエス)の縮小辞。小さいもの、かわいらしいものを表すほか、悲しみや軽蔑の表現に用いられることもあります。
キリストは救い主への称号であったため、キリスト教の初期には、イエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことは「イエスがキリストであることを信じる」という信仰告白そのものであったと考えることができます。
しかしキリスト教の歴史の早い段階で、「キリスト」が称号としてではなくイエスを指す固有名詞のように扱われはじめることになります。パウロ書簡においてすでに「キリスト」が固有名詞として扱われているという説もあるようです。
ここで、この詩を作ったパウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt、1607.3.12-1676.5.27)=写真=の生涯についてまとめておきましょう。ドイツ、ブランデンブルク=プロイセンの福音主義(ルター派)教会牧師であったゲルハルトは、ドイツの最も偉大な讃美歌作者と見なされている大きな存在です。
1607年 現在のザクセン=アンハルト州グレーフェンハイニフェンで、4人兄弟の2番目の子として生まれました。父クリスチャン・ゲルハルトは飲食店を経営、市長にも3度選ばれています。
パウルは、街の学校でラテン語と合唱に励みますが、三十年戦争による飢餓、疫病の流行、兵士による略奪に苦しめられ、1619年に父、1621年には母を失っています。
1622年4月から、ライプツィヒ近郊のグリンマのギムナジウムに通います。ザクセン選帝侯領の牧師と官僚を多く輩出した名門校で、ルター派正統主義の神学者レオンハルト・フッターの著作『Compendium』(神学概論)が主要なテクストとして使われていました。中世の学芸とされていた自由七科の文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽、それに詩学を学びました。
1628年1月、ゲルハルトはルター派正統主義の本拠地であったヴィッテンベルク大学の神学部と哲学部に入学を許可されました。ヴィッテンベルク市区教会牧師のアウグスト・フライシュハウアーから家庭教師の職を得て、その牧師館に住み込みます。ルター派正統主義の神学者たちやアウグスト・ブフナーのような詩作家から教えを受けています。
1642年4月、ハンブルクの教授の息子の文学修士合格を祝うため最初の機会詩を書きました。翌1643年には、ヴィッテンベルク大学での学業を終え、ベルリンへ。当時のベルリンは30年戦争とペスト、天然痘と赤痢により人口が半減したとされています。
1647年、ヨハン・クリューガーの賛美歌集に18篇の歌詞を提供。この賛美歌集は好評で、1653年には53版になりました。1651年11月、ベルリン・ニコライ教会でルター派の和協信条を順守することを誓った上で牧師に任職。 11月にミッテンヴァルデで牧師職に就きました。
1653年、クリューガー賛美歌集の第5版が出版され、そこにゲルハルト作詞の新たな賛美歌64編が含まれています。この時期、ラテン語詩文「Salve Caput Cruentatum」から翻訳された有名な受難曲「血しおしたたる」を書き、次の版(1656)に掲載されました。
1655年2月、アンドレアス・ベルトルトの娘アンナ・マリア(1622年5月19日生まれ)と結婚。1656年5月、娘マリア・エリザベートが生まれましたが、半年後の1657年1月に亡くなっています。他に4人の子供が生まれたが、3人(アンナ・カタリーナ、アンドレアス・クリスチャン、アンドレアス)は早世、パウル・フリードリヒだけが両親の後まで生きました。
1657年5月、ベルリン市ミッテ区にあるニコライ教会がゲルハルトを副牧師に招聘することになり、6月に最初の職務として幼児洗礼を授けました。この時期、彼は妻と一緒にベルリン、クロイツベルク区シュトララウアー通り38番地にある牧師館に住んでいました。
ブランデンブルク選帝侯はルター主義者たちに「寛容勅令」を受け入れた上で署名するように求め、署名を拒んだものは領邦教会から罷免するとし、1666年1月、ゲルハルトも「寛容勅令」に署名するように求められます。彼は署名を拒み、2月にニコライ教会牧師の職務から外されることになります。
ベルリン教区民たちはゲルハルトのニコライ教会牧師離職に賛成せず、「寛容勅令」に署名しなくても復職を可能にする請願書を選帝侯に提出し、ベルリン市参事会も同様に請願しました。しかし、その市民たちによる請願書は選帝侯によって却下されます。
1667年1月、選帝侯は、解職されたルター主義者たちの中でゲルハルトだけ復職を許しました。しかし、ゲルハルトは信仰と道義上の理由からこの復職を拒んだため、同年2月、選帝侯はゲルハルトを領邦教会の牧師職から解任しました。それによって、ゲルハルトは収入を絶たれることになります。同年3月、妻アンナ・マリアが亡くなりました。
1667年、最初の作品集『霊的祈祷歌集』が出版。この讃美歌集はゲルハルト作詞の120の讃美歌を含み、その中で26の賛美歌詞は新作でした。1668年10月、リュッベン市参事会が客員説教者としてパウル・ゲルハルトを招くことを決定。教区長補佐として当時のニコライ教会に赴任することになりました。
ゲルハルト自身は名声を望まずつつましく、慎重で、地味な詩人でした。文学的名声を得ることなく、自身の生活に満足し、過酷な環境を共に体験しながら、人の心を動かす詩作に従事した。
1676年5月、質素な生活をしながら27日に70歳で亡くなりました。
2018年12月07日
「クリスマスの歌」④ ヤコブの星
「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」のつづき、きょうは第4と第5連を見ていきます。
Seine Seel' ist uns gewogen,
Lieb' und Gunst hat ihn gezogen,
Uns, die Satanas betrogen,
Zu besuchen aus der Höh'.
その魂はわれらに寄り添い
愛や恩恵をひき寄せるのだ
サタンに欺かれたわれらのもとに
高みから訪れ見舞ってくれるため
Jakobs Stern ist aufgegangen,
Stillt das sehnliche Verlangen,
Bricht den Kopf der alten Schlange
Und zerstört der Hölle Reich.
ヤコブの星がのぼっている
燃える思いを静めながら
古い悪魔の頭をたたき割り
そして、地獄の帝国をぶち壊す
「われらに寄り添い/愛や恩恵をひき寄せ」てくれるキリストの魂を讃えたあとには、「ヤコブの星がのぼっている」といいます。
ヤコブは、イスラエルともいい、旧約聖書におけるイスラエル民族の祖。イサクとラバンの妹リベカの子で、「民数記24:17」には、東方の預言者バラムが語ったメシア預言について次のように記されている。
私は見る。しかし今ではない。
私は見つめる。しかし間近ではない。
ヤコブから一つの星が上り、
イスラエルから一本の杖が起こり、
モアブのこめかみと、
すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
ここで、パラレリズムで語られていることからすれば、「ヤコブの子孫から一つの星が上る」ことと「イスラエルから一本の杖(支配者の権威をあらわす象徴、あるいは笏が指し示しているのは王の存在)が起こる」ことは同義と考えられます。
「ヤコブの星」は、東方の三博士(東方の三賢者)にイエス・キリストの誕生を知らせ、ベツレヘムに導いたという「ベツレヘムの星」(クリスマスの星)と関連づけて考えられてきました。
キリストがベツレヘムで誕生した直後、東の国で、誰も見たことがない星が西の空に見ました。三博士は、ユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に向かって旅をはじめたとされます。
ヨハネス・ケプラーは1614年、その星の正体を、木星と土星が合体して見えるほどの接近を3回繰り返したのがベツレヘムの星だと結論づけました。
紀元前2年に惑星の会合が頻繁に起きたため、6月の日没後にバビロンの西の空(しし座)に金星と木星の大接近を見た東方の博士が星の方向、すなわち西方に向かって旅立ち、8月の日の出前(しし座)にベツレヘムで水星・金星・火星・木星の集合を見たとの説や彗星であったという説もあります。
2018年12月06日
「クリスマスの歌」③ 地獄と永遠のいのち
「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」のつづき、きょうは第2と第3連をのぞいてみます。
Sünd' und Hölle mag sich grämen,
Tod und Teufel mag sich schämen.
Wir, die unser Heil annehmen,
Werfen allen Kummer hin.
罪悪と地獄は恨むかもしれない
死と悪魔は恥じ入るかもしれないけれど
わたしたち、救いを受けるわれらは
すべての悲しみを投げ捨てるのです
Sehet, was hat Gott gegeben!
Seinen Sohn zum ew'gen Leben!
Dieser kann und will uns heben
Aus dem Leid in's Himmels Freud'.
見よ、神が何をもたらしているかを!
むすこに永遠のいのちを与え
その子はわれらの苦悩を
天上の喜びへと高めてくれる
ここでいう「罪悪」「地獄」「死」「悪魔」とは、キリスト教ではどのようにとらえられ、どのような関係にあるのでしょう。
旧約聖書では、死者の国をシェオール(sheol)とよび、深い闇に覆われ、地下の淵のかなたにあるとされます。バビロン捕囚以降、終末論に著しい発展がみられ、ゾロアスター教の影響もあって、死後復活の思想が色濃く入り込んできます。
そして「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥を、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」(「ダニエル書」12章2~3)というように、地獄の観念が次第に明確になってきます。
新約聖書では、死者の霊の赴く所はハデスとよばれ、シェオールと同一の意味に用いられます。それに対して、悪しき者が永遠の刑罰を受けるところはゲヘナ(Gehenna)。ゲヘナは、ヒンノムの谷にあり、バール崇拝の供犠(くぎ)として幼児が焼かれ、のちに疫病人、犯罪者、畜殺動物の焼却場になりました。
新約聖書には、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」(「マタイ伝福音書」25章41)、「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」(「マタイ伝福音書」25章46)とあります。
パウロは、有罪とされる者の範囲を広げて、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男色する者、盗む者、そしる者などを含めるようにしました。またパウロによれば、神を認めず主イエスの福音に従わない者は、永遠の滅びに至る罰を受けるといいます。
「永遠のいのち」というのは、単なる死後のいのち、彼の世におけるいのちというわけではありません。「ヨハネ6:47」で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます」と言うように、キリストを信じるとき、即時にこの世で享受することのできるいのちをいいます。
キリストに依り頼んだ人びとは「新生」し、霊の誕生を持つのです。肉体と霊の二つの誕生日を持つことになります。
「ヨハネ17:3」には「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」とあり、「ヨハネ14:6」には「わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とされています。
永遠のいのちというのは、キリストを通していのちの源である神との人格的な交わりを持つことにあるわけです。
「テモテへの手紙(Ⅰ)6:12」には「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました」とあります。この場合の「永遠のいのち」は、来世のいのちを言っていると考えることができそうです。
2018年12月05日
「クリスマスの歌」② 讃美歌
「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」のつづきです。冒頭から、少し詳しく見ていきましょう。
Kommt und laßt uns Christum ehren,
Herz und Sinnen zu ihm kehren!
Singet fröhlich, laßt euch hören,
Wertes Volk der Christenheit!
来たれ、そしてイエス・キリストを讃えなさい
こころも思いもそのもとへ
陽気に歌い、聞きなさい
キリスト教徒たる人びとよ
ドイツでは一般に、冒頭の「Kommt und laßt uns Christum ehren」(来たれ、そしてイエス・キリストを讃えなさい)として広く知られているこの歌は、ブランデンブルク・プロイセンの福音主義(ルター派)教会牧師だった、パウル・ゲルハルト(1607-1676)によって作詩されました。
後日、詳しくみますが、ゲルハルトは、ドイツの最も偉大な讃美歌作者として尊敬されている人物です。とはいえ、ゲルハルトがまったく新たにつくったオリジナル作品というわけではありません。
原型は、昔から広く歌われていた「Quem pastores laudavere(羊飼たちのほめたたえし人)」(「Dem Hohenfurter Liederbuch」 um 1460)というラテン語の讃美歌にさかのぼります。これをもとに、ゲルハルトがドイツ的な韻律によって8連の作品へとまとめあげたのです。
いまのドイツの「福音主義讃美歌(EG)」には、第6連をカットしたものが、「EG39」の讃美歌として入っています。また、この詩には、Max Reger(1873-1916)が伝統的な旋律の曲をつけています。
冒頭の「Christum」は、「Christus」(イエス・キリスト)のラテン語式4格形。キリストというのは、そもそも、神に選ばれ、塗油を受けた者を意味するヘブライ語メシアのギリシア語訳です。1世紀の初めころ、ローマ支配下にあったパレスチナのユダヤ人、ナザレ出身のイエスを救い主とするキリスト教の信仰によってイエスをさすことばとして用いられ、イエス・キリストはその固有名詞となりました。
讃美歌は、ギリシア語の「hymnos」に由来する神を讃美する歌で、カトリックでは聖歌といいます。諸言語による讃美の歌は宗教改革とともに盛んになり、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカなどでたくさん作られました。
プロテスタントでは讃美歌を信仰告白の直接的表現とみなし、会衆用讃美歌として、内容・形式とも自由な作品を、主に讃美歌集として編んでいます。一方、カトリックでは、典礼用聖歌を主に、20世紀に入って認められた会衆用の聖歌も含めています。
ですが、両者の歩み寄りとともに共通部分がふえつつあるようです。日本では、16世紀のキリスト教伝来からラテン語聖歌が中心でしたが、カトリックでは、1933年『公教聖歌集』が編まれ、プロテスタントでは各派共通の『讃美歌』によっていました。
2018年12月04日
「クリスマスの歌」① 粗訳
きょうから気分を換えて、少し早いですがクリスマスの詩をしばらく読みたいと思います。ドイツの讃美歌作者、パウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt、1607-76)の「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」です。まずは、ざっと訳してみました。
Kommt und laßt uns Christum ehren,
Herz und Sinnen zu ihm kehren!
Singet fröhlich, laßt euch hören,
Wertes Volk der Christenheit!
Sünd' und Hölle mag sich grämen,
Tod und Teufel mag sich schämen.
Wir, die unser Heil annehmen,
Werfen allen Kummer hin.
Sehet, was hat Gott gegeben!
Seinen Sohn zum ew'gen Leben!
Dieser kann und will uns heben
Aus dem Leid in's Himmels Freud'.
Seine Seel' ist uns gewogen,
Lieb' und Gunst hat ihn gezogen,
Uns, die Satanas betrogen,
Zu besuchen aus der Höh'.
Jakobs Stern ist aufgegangen,
Stillt das sehnliche Verlangen,
Bricht den Kopf der alten Schlange
Und zerstört der Hölle Reich.
Unser Kerker, da wir saßen
Und mit Sorgen ohne Maßen
Uns das Herze selbst abfraßen,
Ist entzwei, und wir sind frei.
O du hochgesegn'te Stunde,
Da wir das von Herzensgrunde
Glauben und mit unserm Munde
Danken dir, o Jesulein!
Schönstes Kindlein in dem Stalle,
Sei uns freundlich, bring uns alle
Dahin, wo mit süßem Schalle
Dich der Engel Heer erhöht!
来たれ、そしてイエス・キリストを讃えなさい
こころも思いもそのもとへ
陽気に歌い、聞きなさい
キリスト教徒たる人びとよ
罪悪と地獄は恨むかもしれない
死と悪魔は恥じ入るかもしれないけれど
わたしたち、救いを受けるわれらは
すべての悲しみを投げ捨てるのです
見よ、神が何をもたらしているかを!
むすこに永遠のいのちを与え
その子はわれらの苦悩を
天上の喜びへと高めてくれる
天上の喜びへと高めてくれる
その魂はわれらに寄り添い
愛や恩恵をひき寄せるのだ
サタンに欺かれたわれらのもとに
高みから訪れ見舞ってくれるため
ヤコブの星がのぼっている
燃える思いを静めながら
古い悪魔の頭をたたき割り
そして、地獄の帝国をぶち壊す
牢獄、そこにわれらは座している
際限のない憂慮がつきまとい
胸ひき裂く思いに苛まれる
そこがいま粉々になり、われらは解き放たれた
ああ、このうえなく祝福された時間
その時をわれらはこころの底から信じる
そしてわれらの歌をもって
あなたに感謝する おさなごイエスに
家畜小屋の中のうるわしい幼児キリストよ
われらの近くにあって、すべての人々を導きたまえ
愛らしいひびきとともにある
天使の聖歌隊の高みへと
この詩「Weihnachtgesang(クリスマスの歌)」の初出は、いまから350年前、1667年のこと。Johann Georg Ebeling(1637-1676)作曲の「Weihnachts-Gesang(クリスマス唱歌集)」の一篇としてでした。
2018年12月03日
「楚囚之詩・第十六」④ 門出
「楚囚之詩・第十六」のつづき、きょうは、詩全体をもしめくくる最後の8行を読みます。
門を出(いづ)れば、多くの朋友、
集(つど)ひ、余を迎へ来れり、
中にも余が最愛の花嫁は、
走り来りて余の手を握りたり、
彼れが眼にも余が眼にも同じ涙――
又た多数の朋友は喜んで踏舞せり、
先きの可愛(かわ)ゆき鶯も爰(ここ)に来りて
再び美妙の調べを、衆(みな)に聞かせたり。
牢獄の門を出ると「多くの朋友」が「余」を出迎えます。この中には、ともに捕われていた「同盟の真友」らも含まれているのでしょうか。何ともあっさりと「多くの朋友」という漠然とした言い方に昇華されて、関心の対象が「花嫁」に絞られていきます。
「補注」では、次のような疑問と推測を加えています。
「花嫁がはるか以前に出獄していたはずはなく、獄中にいたとすると、その衰えは余と同じくはなはだしいはずであり、それを嘆き、慰める余のことばが一つもないことが理解しがたい。この結びは、すべて獄中の余が全く予想しえなかった救いが突如として来るという点でのみ意味を認めるべきか。とすれば、出獄と同時に花嫁と再会するというのは、作者の心に、文学的成功による愛の回復への期待が潜んでいることを示すのかもしれない」
「踏舞」は、足を踏み鳴らして舞うことをいいます。花嫁の化身かとも思われたあの鶯も、もはや、喜びの歌をうたう単なる可愛い小鳥でしかなくなっています。とってつけたように、月並みなハッピーエンドにも思われてきます。
こうして見てきた「楚囚之詩」の舞台となっている「牢獄」とは、どういう位置づけができるのでしょう。自由民権運動や投獄に関する具体的内容が描かれているわけではありません。また、牢獄という喩を用いて作者の内部を表現しているかといえば、なんとも中途半端に思えます。
『日本近代文学大系』の解説で佐藤泰正は、次のように指摘しています。
〈当時の新体詩の試みの多くが「短歌の発想の革新ではなく、むしろ純化拡散だった。それならば一層のこと、定形ををふみにじり、ドラマチックに散文の方へひっぱっていくことで、『詩』は犠牲にしても思想的な核だけは拾いたいというのが、『楚囚之詩』での透谷の実験だったとおもわれる」(桶谷秀昭)と言う。これらの指摘はすぐれた洞察を含むが、しかし詩法に関してはすでにふれたごとく「透谷の実験」もまた、ついに改革派的発想を超えるものではなく、逆に言えば、まさにその「思想的な核」を掘り起こすべきみずからの文体そのものを、なお掴みかねていたというほかはあるまい。〉
実際、こうした実験が不十分であることは透谷自身、彼なりの自覚を持っていたと考えられます。実際、「自序」に〈幸にして余は尚ほ年少の身なれば、好し此「楚囚之詩」が諸君の嗤笑を買ひ、諸君の心頭をを傷くる事あらんとも、尚ほ余は他日是れが罪を償ひ得る事ある可し」としたうえで、「元とより是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似て居るのです。左れど、是れでも詩です、余は此様にして余の詩を作り始めませう〉としています。
とにもかくにも、このようにして透谷の近代詩への模索ははじまったのです。
2018年12月02日
「楚囚之詩・第十六」③ 大赦
「楚囚之詩・第十六」のつづき、きょうは5行目からの4行に注目してみます。
斯(か)く余が想像(おもい)中央(なかば)に
斯(か)く余が想像(おもい)中央(なかば)に
久し振にて獄吏は入り来れり。
遂に余は放(ゆる)されて、
大赦(たいしや)の大慈(めぐみ)を感謝せり
唐突に、釈放の時がやってきます。「遂に」の言葉からは、獄中生活中にあれこれ気持の起伏はあったものの、結果的には釈放を期待しつづけてきたことをうかがわせます。
「シヨンの囚人」の第14節にも、釈放のため看守がやって来る場面がありました。
At last men came to set me free;
I ask'd not why, and reck'd not where;
It was at length the same to me,
Fetter'd or fetterless to be,
I learn'd to love despair.
And thus when they appear'd at last,
And all my bonds aside were cast,
These heavy walls to me had grown
A hermitage—and all my own!
And half I felt as they were come
To tear me from a second home:
With spiders I had friendship made
And watch'd them in their sullen trade,
Had seen the mice by moonlight play,
And why should I feel less than they?
ついに看守がやって来て、お前を自由の身にしてやる、と言った。
わしは、そのわけを尋ねることもしなかった、またその場所も何処(どこ)でもよかった。
結局、わしには、幽閉されていようが
いまいが、同じことだった。
わしは、絶望を愛することが出来るようになったのだ。
こうして、実際に看守が来て、
鎖を全て取り外してくれたときには、
周囲の牢獄の重い壁が、私が安住の
庵のようになってしまっていたのだ。
だから、わしには、看守らがわしを第二の故郷から
引き離すためにやって来たかのように感ぜられたのだ。
わしは蜘蛛たちと親しくなり
連中がじっと活動するのを見てきた。
また、月明かりのもとで鼠たちが遊ぶのも見た。
そして思った、このわしが、やつらより惨めに思う必要などない、と。
こちらのほうは「わしには、看守らがわしを第二の故郷から/引き離すためにやって来たかのように感ぜられた」と、「余」が「大赦の大慈を感謝せり」と「大赦」を「大慈」として率直に喜んでいるのと比べて反応は対照的です。
1885(明治18)年、自由党左派が朝鮮の内政改革を企てた大阪事件は事前に発覚して139人が逮捕されました。が、4年後の『楚囚之詩』が出版された明治22年には、大日本帝国憲法発布の祝典に際して行なわれた自由民権運動関係者の恩赦によって、大阪事件の関係者も出獄しています。
この作品にある「大赦」は当然、この歴史的事実を反映したものでしょう。それにしても、政府に批判的な自由民権運動家たちがこれを、仏・菩薩が衆生をいつくしみ、苦しみを救う「大慈」としてすんなりと感謝するようになるものでしょうか。この点について「補注」では、次のように指摘されています。
〈出獄の喜びは獄中生活の悲惨と比較して大きい。大赦を大慈と感じるのは自然であろう。
福田英子『妾の半生涯』に「昨日までも今日までも、国賊として使役せられたる身の一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生幻の如しとは、そもや誰が云ひそめけむと一時は唯だ茫然たりしが」と、その反応の例が見られる。
これは典獄の訓言を聞いての感想で、大赦令そのものへの批判ではなく、一年半の刑期を縮めるために模範囚となり、賞標四個を得て、あと一個で仮出獄できるまでにしたという著者の、権力と出獄に対する考え方からすれば、大赦はやはり「恩典」ととらえられたであろう。
専制政府の恩典は受けないといって賞標を拒んだという河野広中(田岡嶺雲『明治叛臣伝』)も大赦令は拒否しなかった。
天皇制は藩閥政府と区別されて批判の対象にならないのが当時の一般だが、かつて「哀願書」に「単ヘニ三千五百万同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ」と述べた透谷も、果たしてそこからどれほど抜け出ていたか。
「憲法発布を祝せざるものは人に非ず」(「読売新聞」社説、明22.2.10)という空気の中で、キリスト教会もまた憲法発布をその信教自由の箇条のみで受けとめ、たとえば、東京市内の各教会は木挽町厚生館で連合祝賀会を催し、「我等は今夕大なる喜を感謝する為に此処に集りたるなり、第一には我日本の皇帝に向て感謝せざる可からず」(伊勢時雄の説教、「基督教新聞」明22.2.13)との限界を示した。〉
2018年12月01日
「楚囚之詩・第十六」② 春
「楚囚之詩・第十六」のつづき、冒頭からもう少し詳しく見ていきます。
鶯は余を捨てゝ去り
余は更に怏鬱(おううつ)に沈みたり、
春は都に如何なるや?
確かに、都は今が花なり!
「春は都に如何なるや?/確かに、都は今が花なり」と、いまは決して手に入れることのできない都の華やかさを思い出しています。去った鶯からの連想には自然なものがありますが、前節で述べた、死を待つ心からの変動には大きなものがあります。
作者の立場を近づけて見れば、「都」は「余」の活躍の舞台であり、その花盛りは「余」の登場の条件が熟したことでもあります。にもかかわらず、「余」は獄中にあるとすれば、絶望し切れぬ生命力は破獄に突き進むほかなかったといえるでしょう。
出版を目ざした作品である以上は、破獄を描くことが困難なら、「余」の生命力を肯定するには当然、赦免・出獄というかたちになるのでしょう。『日本近代文学大系』の頭注には次のように記されています。
〈肯定のための苦闘を続けていた作者は、発表の野心のためには権力と妥協して大赦出獄の結末を構想せざるをえなかったろうが、同時に国事犯大赦の際の見聞が、今まで「文学世界の花盛り」に焦燥していた作者を作品発表へと踏み切らせたとするなら、大赦はその作家的出発をもたらした天の恵みともいえる。したがって「第十六」は詩壇初登場の作者自身に対する予祝の意味をも持つと考えられよう。〉
一方、透谷の日記(明22.4.1)には、「病来久しく文筆に倦み……近頃漸く旧来の精神を回復し、……」「余は実に過る二三年の間を混雑紛擾の間に送りたり、愛情の為め、財政上の為め、或は病気の為め、是等の凡てが余をして何事をも成すことなく過ぐる二三年を費消せしめたり」。
「実に余が眼前には一大時辰機あるなり、実に此時辰機が余をして一時一刻も安然として寝床に横らしめざるなり。嗚呼余が前後左右を見よ、驚く可き余の運命は委縮したるにあらずや、自ら悟れよ、自ら慮れよ……独立の身事、遂に如何んして可ならんとする?」などとあります。
作者は、作品中の「余」とほとんど重なっていることがうかがえます。
「鶯」は、春に早く現れて微妙な声で鳴くので、春告鳥、花見鳥などの異称があります。この鳥に関わる昔話には、鳴声で父が子の死を知る「継子と鳥」、禁止を守らず幸福を失う「見るなの座敷」、愚か嫁がウグイスの声をまねて失敗する「鶯言葉」など不幸をもたらすケースがかなりあります。
この作品では、春告鳥が去り「都」も花盛りを迎えていたある日、思いがけない知らせが「獄吏」からもたらされることになるのです。