2018年11月

2018年11月30日

「楚囚之詩・第十六」① 怏鬱

きのうまでのバイロンの「シヨンの囚人」を踏まえて、再び透谷の「楚囚之詩」に戻り、結びにあたる「第十六」を読んでいきます。

鶯は余を捨てゝ去り
余は更に怏鬱(おううつ)に沈みたり、
春は都に如何なるや?
確かに、都は今が花なり!
 斯(か)く余が想像(おもい)中央(なかば)に
久し振にて獄吏は入り来れり。
遂に余は放(ゆる)されて、
大赦(たいしや)の大慈(めぐみ)を感謝せり
門を出(いづ)れば、多くの朋友、
 集(つど)ひ、余を迎へ来れり、
中にも余が最愛の花嫁は、
 走り来りて余の手を握りたり、
彼れが眼にも余が眼にも同じ涙――
 又た多数の朋友は喜んで踏舞せり、
先きの可愛(かわ)ゆき鶯も爰(ここ)に来りて
 再び美妙の調べを、衆(みな)に聞かせたり。

うつ

全16行。冒頭の4行とそれ以後の12行の二段に分かれています。

2行目の「怏鬱」は、「精神怏鬱として」(藤村『春』)というように、不満や恨みがあって気がふさぎ、晴れ晴れとしないさまをいいます。透谷は、しばしばこういう状態に陥ってもいたようです。

きのう読んだ「シヨンの囚人」の第14節の冒頭には次のようにありました。

It might be months, or years, or days— 
I kept no count, I took no note— 
I had no hope my eyes to raise, 
And clear them of their dreary mote; 
それから何カ月が、いや何年が、いや何日が経ったか、
記録をつけているわけでもないので分からないが、
わしは、目を上げてみる気にも、
目をこすってみる気にもならなかった。

「余」がふたたび「怏鬱に沈みたり」というのは、ここの「I had no hope my eyes to raise, /And clear them of their dreary mote;」に類しているように思われます。

『日本近代文学大系』の補注には、次のように記されています。

〈ミナあて書簡(明20.8.18)に「詩文を試みて意想を写す能はざるの時、書簡を認めて所見を述ぶる事叶はぬ暁、精神鬱快として殆んど人事を忘るゝに至る」「鬱々快々として月日を過ごしたれば、生は最も甚しきパツシヨネイトの人物となり」等、「兆民居士安くにかある」に「仏国の狂暴にして鬱快たる精神」と、いずれも「鬱快」の語が用いられ、「非苦の世紀」には「鳴呼余のDreary lifeを救ひくれしはDearなり」と、ほぼ「快鬱」に当る英語が用いられている。〉

「シヨンの囚人」の最終行にもある「dreary」には、手もとの英和辞書によると、わびしい、もの寂しい、陰気な、荒涼とした、退屈な、おもしろくない、などの意味があります。


harutoshura at 13:54|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月29日

「シヨンの囚人」から⑤ ため息の自由

バイロンの「シヨンの囚人」のつづき、きょうは、最後の第14節を見ておきます。全29行。囚人は、自由の身を手にすることができるのですが……。

It might be months, or years, or days— 
I kept no count, I took no note— 
I had no hope my eyes to raise, 
And clear them of their dreary mote; 
At last men came to set me free; 
I ask'd not why, and reck'd not where; 
It was at length the same to me, 
Fetter'd or fetterless to be, 
I learn'd to love despair. 
And thus when they appear'd at last, 
And all my bonds aside were cast, 
These heavy walls to me had grown 
A hermitage—and all my own! 
And half I felt as they were come 
To tear me from a second home: 
With spiders I had friendship made 
And watch'd them in their sullen trade, 
Had seen the mice by moonlight play, 
And why should I feel less than they? 
We were all inmates of one place, 
And I, the monarch of each race, 
Had power to kill—yet, strange to tell! 
In quiet we had learn'd to dwell; 
My very chains and I grew friends, 
So much a long communion tends 
To make us what we are:—even I 
Regain'd my freedom with a sigh. 

それから何カ月が、いや何年が、いや何日が経ったか、
記録をつけているわけでもないので分からないが、
わしは、目を上げてみる気にも、
目をこすってみる気にもならなかった。
ついに看守がやって来て、お前を自由の身にしてやる、と言った。
わしは、そのわけを尋ねることもしなかった、またその場所も何処(どこ)でもよかった。
結局、わしには、幽閉されていようが
いまいが、同じことだった。
わしは、絶望を愛することが出来るようになったのだ。
こうして、実際に看守が来て、
鎖(くさり)を全て取り外してくれたときには、
周囲の牢獄の重い壁が、私が安住の
庵のようになってしまっていたのだ。
だから、わしには、看守らがわしを第二の故郷から
引き離すためにやって来たかのように感ぜられたのだ。
わしは蜘蛛(くも)たちと親しくなり
連中がじっと活動するのを見てきた。
また、月明かりのもとで鼠(ねずみ)たちが遊ぶのも見た。
そして思った、このわしが、やつらより惨めに思う必要などない、と。
われらは皆、一つ所の住人で、
その中でわしが、全種族に君臨し、
生殺与奪の権を握っている──が、語るも不思議なことだが、
わしらは、静かに暮らすことを学んだのだ。
わしは、家臣らを一人として殺すことはしなかった。
これほど、何もしなかった君主がいたであろうか。
わしを縛っている鎖とも親しくなった。
こうした長い交わりによって、今の
わしらができ上がったのだ。わしでさえ、
ため息をもって自由の身を得たのじゃ。

Byron

きのうまで読んだ第10節のところで「弟の魂ではないか」と思った「鳥は飛び去って」しまい、「経帷子に包まれた死体が感ずる」ような悲しみを味わった囚人でしたが、その後、看守が憐れみをかけ、鎖を切ってくれました。

そこで、独房の壁に足場を掘り、高窓から外を眺めます。雪をいただく山々も、眼下を流れるローヌ川も変わってはいませんでした。

そして、緑の小島や、木々、草花、魚や鳥を見ているうちに目に涙が浮かび、鎖が解かれたことをむしろ後悔するようになってきていました。

そんなとき、「ついに看守がやって来て、お前を自由の身にしてやる」と言って来たのです。

バイロン=写真、wiki=は、1815年1月にアナベラ・ミルバンクと結婚し、同年12月には娘が生まれました。が、バイロンは腹違いの姉オーガスタとの近親相姦の疑惑が、親類縁者をはじめ社交界に広まり、翌1816年1月、アナベラは娘を連れて彼のもとを去り、4月には離婚します。

こうした騒動の中、バイロンは英国から追われるように大陸へと渡り、1816年6月、友人シェリーとともにレマン湖畔のシヨン城を訪れました。

それは、ジュネーヴの宗教改革者フランソワ・ボニヴァール(1493–1570)が、1532年から1536年までの間、幽閉された城でした。

この際、サヴォワ伯爵のジェニヴァ支配に抵抗していたボニヴァールの自由を求める精神と牢獄の侘びしさに霊感を覚え,バイロンはこの作品を翌7月上旬にかけて一気に書き上げたのでした。

作品の最終節、「わし」は牢を出て自由の身になります。しかし、その解放感をもはや味わえなくなっていました。「牢獄の重い壁が、私が安住の/庵のようになってしまっていた」のです。

「幽閉されていようが/いまいが、同じことだった。/わしは、絶望を愛することが出来るようになった」のであり、最後に「ため息をもって自由の身を得たのだ」と言っています。

こうした言葉の端々には、イギリスでの強い束縛を逃れて大陸へと渡ってきたものの、「ため息」から解き放たれることはないバイロン自身の心境も、反映されているように思われます。


harutoshura at 22:08|PermalinkComments(0)バイロン 

2018年11月28日

「シヨンの囚人」から④ 天の鳥

バイロンの「シヨンの囚人」のつづき、きょうは、第10節の後半部(22行目から49行目まで)を、主に「楚囚之詩」と比較しながら眺めておきます。

It seem'd like me to want a mate, 
But was not half so desolate, 
And it was come to love me when 
None lived to love me so again, 
And cheering from my dungeon's brink, 
Had brought me back to feel and think. 
I know not if it late were free, 
Or broke its cage to perch on mine, 
But knowing well captivity, 
Sweet bird! I could not wish for thine! 
Or if it were, in wingèd guise, 
A visitant from Paradise; 
For—Heaven forgive that thought! the while 
Which made me both to weep and smile— 
I sometimes deem'd that it might be 
My brother's soul come down to me; 
But then at last away it flew, 
And then 'twas mortal well I knew, 
For he would never thus have flown— 
And left me twice so doubly lone,— 
Lone as the corse within its shroud, 
Lone as a solitary cloud, 
A single cloud on a sunny day, 
While all the rest of heaven is clear, 
A frown upon the atmosphere, 
That hath no business to appear 
When skies are blue, and earth is gay.

鳥は、友がいないという点では、わしに似ていた。
しかし、わしの半分も心が荒れてはいないようだった。
わしを愛してくれる者が誰もいなくなってしまった
まさにその時にその鳥がやって来て、こうやってわしに愛を投げかけてくれたのだ。
そして、牢獄の深淵にいるわしを元気づけてくれ、
元のように感じ、考えることが出来るようにしてくれた。
それは、もともと自由に飛び回っていた鳥なのか、
それとも籠を抜け出て私のいる牢にやって来た鳥なのかは知らないが、
囚われの身の何たるかをよく知っている私自身、
嗚呼(ああ)、優しい鳥よ、お前を捕まえたいとは思わなかった。
あるいは、もしや、それは、鳥の姿をした
天国からの訪問者ではないかとも思った。
というのも──ああ天よ赦(ゆる)したまえ、こう思うにつけ
涙も流れたが、同時に笑いも浮かんだのだ──
つまり、その鳥が実は天から降ってきた
弟の魂ではないかとも思ったのだった。
しかし、ついに鳥は飛び去って行ってしまった。
わしはこれで、痛いほど分かった──
もし、鳥が弟であったなら、こんなふうに飛び去って
以前の倍もこのわしを悲しませるようなことはしなかっただろう、と。
その悲しみとは丁度、経帷子(きょうかたびら)に包まれた死体が感ずる悲しみ、
あるいは、一片の孤独な雲の悲しみ、
晴れた空にたった一つだけ浮かんでいる雲、
空が青く
大地が微笑んでいる時にはおよそ
似つかわしくないような、大気の翳(かげ)りにも
似た悲しみだった。

とり

「楚囚之詩・第十五」には、こことよく似た、次のような場面がありました。

浮世よりか、将(は)た天国より来りしか?
余には神の使とのみ見ゆるなり。
嗚呼左(さ)りながら! 其の練(な)れたる態度(ありさま)
恰(あた)かも籠の中より逃れ来れりとも——
  若し然らば……余が同情を憐みて
  来りしか、余が伴(とも)たらんと思ひて?
鳥の愛! 世に捨てられし此身にも!
鶯よ! 卿(おんみ)は籠を出(い)でたれど、
 余は死に至るまで許されじ!
余を泣かしめ、又た笑(え)ましむれど、
 卿の歌は、余の不幸を救ひ得じ。
我が花嫁よ、……否な鶯よ!
 おゝ悲しや、彼は逃げ去れり
 嗚呼是れも亦た浮世の動物なり。
若し我妻ならば、何(な)ど逃去らん!
余を再び此寂寥(せきりよう)に打ち捨てゝ、
この惨憺たる墓所(はかしよ)に残して

「シヨンの囚人」ではやって来たのは「一般的な「bird(鳥)」でしたが、透谷は「鶯」とより具体化しています。

11行目の「guise」は、特に人を欺くために外面を装った外観や見せかけのことを意味します。

「天国からの訪問者」、ひょっとすると「天から降ってきた/弟の魂ではないか」とも感じますが「鳥が弟であったなら、こんなふうに飛び去って/以前の倍もこのわしを悲しませるようなことはしなかっただろう」と思い直します。

これによって対して「楚囚之詩」では鶯に「花嫁」を見て、「我が花嫁よ」と呼びかけ、「若し我妻ならば、何ど逃去らん」と強い口調で問いかけています。

「マタイによる福音書(6章25-26節)」に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(新共同訳)とあります。

「シヨンの囚人」からは、天の父が養っている「訪問者」としての「鳥」の感じがうかがわれます。「楚囚之詩」のほうも「神の使とのみ見ゆる」としていますが、神と鳥との関係がいまいち見えてきません。

「Lone as the corse within its shroud,」の「shroud」は、埋葬する死体を包む白布、いわゆる、経帷子(きょうかたびら)のこと。「経帷子に包まれた死体が感ずる悲しみ」というのはなかなか痛烈です。


harutoshura at 22:57|PermalinkComments(0)バイロン 

2018年11月27日

「シヨンの囚人」から③ 小鳥の歌声

バイロンの「シヨンの囚人」のつづき、きょうは、昨日の第9節につづく、第10節の前半部(全49行中22行目まで)を眺めてみます。

A light broke in upon my brain,— 
It was the carol of a bird; 
It ceased, and then it came again, 
The sweetest song ear ever heard, 
And mine was thankful till my eyes 
Ran over with the glad surprise, 
And they that moment could not see 
I was the mate of misery; 
But then by dull degrees came back 
My senses to their wonted track; 
I saw the dungeon walls and floor 
Close slowly round me as before, 
I saw the glimmer of the sun 
Creeping as it before had done, 
But through the crevice where it came 
That bird was perch'd, as fond and tame, 
And tamer than upon the tree; 
A lovely bird, with azure wings, 
And song that said a thousand things, 
And seemed to say them all for me! 
I never saw its like before, 
I ne'er shall see its likeness more: 

一条の光が頭の中に差し込んだ。
それは小鳥の歌声だった。
歌が止んだと思ったらまた始まった。
これまで聞いたことのない甘美な歌だった。
感謝の気持ちが沸き起こり、目からは
喜びと驚きの涙が流れた。
その時の目には、私が《悲惨》の友
であるとは映らなかった。
しかし、徐々に感覚が
元のように戻ってきた。
以前のように、牢獄の壁や床がわしの周りを
取り囲んでいるのが少しずつ見えてきた。
前のように、太陽の光が
差し込んでいるのが見えた。
が、光の差し込む割れ目に
例の鳥がいた。優しく、おとなしく、
梢に止まっている時よりもずっとおとなしく。
愛らしい鳥、紺碧の翼をして、
その歌は千ものことを、皆このわしに
語りかけているようだった。
こんな鳥は今までに見たこともない。
これから、こういう鳥を見かけることもないだろう。

シオン
*Eugène Delacroix, The Prisoner of Chillon(wiki)

獄中にひとり取り残され「淀んだ虚無感だけ」の中に置かれた語り手の「頭の中」に、「一条の光」が「差し込」みます。

バイロン(George Gordon Byron、1788-1824)は、ケンブリッジ大学を卒業後、世襲貴族として上院に議席を占めますが、無為な青春を紛らわすため、1809~11年に、友人とともにリスボン、セビーリャ、マルタ、アルバニア、アテネなど地中海の諸地を旅行します。

これらの旅に取材して1812年に書いた異国情調あふれる長編物語詩「チャイルド・ハロルドの遍歴」が大注目を集め、引き続いて「邪宗徒」(1813)、「アビュドスの花嫁」(1813)、「海賊」(1814)、「ララ」(1814)、「コリントの包囲」(1816)次々に物語詩を発表していきました。「シヨンの囚人」(1816)もその一つです。

16世紀、ジュネーヴの宗教改革者フランソワーズ・ボニヴァルは、当時この地で圧政をしいていたサヴォワ公シャルル3世に反抗したかどで逮捕され、ベルン軍により開放されるまでの6年間ほど、シヨン城に幽閉されたとされています。

この作品で「一条の光」となった「小鳥の歌声」は、透谷の「楚囚之詩」の「余」にとっての「鶯」の歌と重なってきます。たとえば、「楚囚之詩・第十五」の冒頭にあった

 鶯は再び歌ひ出でたり、
 余は其の歌の意を解き得るなり、
 百種の言葉を聴き取れば、
 皆な余を慰むる愛の言葉なり!
 浮世よりか、将(は)た天国より来りしか?

と、きょう見たところの最後の5行「愛らしい鳥、紺碧の翼をして、/その歌は千ものことを、皆このわしに/語りかけているようだった。/こんな鳥は今までに見たこともない。/これから、こういう鳥を見かけることもないだろう。」を読み比べてもよく分かります。


harutoshura at 17:46|PermalinkComments(0)バイロン 

2018年11月26日

「シヨンの囚人」から② 虚空

バイロンの「シヨンの囚人」のつづき、きょうはその第9節を眺めておきます。

What next befell me then and there 
I know not well—I never knew— 
First came the loss of light, and air, 
And then of darkness too: 
I had no thought, no feeling—none— 
Among the stones I stood a stone, 
And was, scarce conscious what I wist, 
As shrubless crags within the mist; 
For all was blank, and bleak, and grey; 
It was not night—it was not day; 
It was not even the dungeon-light, 
So hateful to my heavy sight, 
But vacancy absorbing space, 
And fixedness—without a place; 
There were no stars, no earth, no time, 
No check, no change, no good, no crime 
But silence, and a stirless breath 
Which neither was of life nor death; 
A sea of stagnant idleness, 
Blind, boundless, mute, and motionless! 

次に、その時そこで、何がこのわしに起こったのか、
皆目、見当もつかぬ。
まず、光が失せた、そして空気も。
それから闇までもが消えた。
思考も感覚もなくなった、全く。
石に囲まれて、わしは石のようにして、ただそこにあった。
何を考えていたのか全く分からん。
丁度、木も生えていない岩場に霧が立ち込めたようであった。
あたり一面、空ろで、寒々しく、灰色の光景だったのだ。
夜でもなく、昼でもなく、
わしの目に重くのしかかったところの憎むべき
牢獄の明かりでもなかった。
そうではなく、空間や確固たる現実を
呑み込んでしまうような虚空。場所も分からない。
星もなければ、地面もない。時というものもない。
何かが止まるということも、変化するということもない。善がない、犯罪もない。
あるのはただ静寂と、生きているか死んでいるかも
分からない静かな呼吸と、
盲目で、底なしで、音のしない、動きのない
淀んだ虚無感だけだった。

虚空

「シヨンの囚人」の語り手の父は、信念を貫いて処刑されてしまいます。さらに、遺された6人兄弟のうち3人も自由のために命を落とし、残る3人が地下牢に投獄されました。

うち2人の弟も次々と獄死していって、ついに語り手だけが獄中に残されることになります。「その時そこで、何がこのわしに起こったのか」を述べていきます。

そこでは、光が失せた(the loss of light)だけではなく、「闇までもが消えた」(loss of darkness too)といいます。

その心境を示す「vacancy」には、空き部屋などの意味のほかに、うわのそら、放心状態、空、空っぽ、空虚、また「idleness」には、無為、安逸、怠惰などの意味があります。

獄中で見たものは「盲目で、底なしで、音のしない、動きのない/淀んだ虚無感(stagnant idleness,/Blind, boundless, mute, and motionless)だけだったのです。


harutoshura at 17:03|PermalinkComments(0)バイロン 

2018年11月25日

「シヨンの囚人」から① シヨン城

『楚囚之詩』もいよいよ大詰めですが、最終章の「第十六」を読む前に、この作品の発想から情景描写に至るまで多くの影響を受けたと考えられている、バイロンの「シヨンの囚人(The Prisoner of Chillon)」をざっと眺めておきたいと思います。眺めるのは、岩波文庫の笠原順路編『バイロン詩集』に掲載されている3つの節です。

What next befell me then and there 
I know not well—I never knew— 
次に、その時そこで、何がこのわしに起こったのか、
皆目、見当もつかぬ

にはじまる第9節、それから第10節、そして『楚囚之詩』の「第十六」との関連が注目される最終、第14節です。和訳は基本的に笠原訳(「シヨン城の囚われ人」)によります。

シヨン

「シヨン城」=写真、wiki=は、スイス西部、レマン湖の東端近く、岸からわずかに離れた岩島の上にある古城です。古代ローマ時代からアルプスの南北を結んでいた重要な街道が、ここで山裾と湖の間の狭い所を通っていて、この街道を抑えるために築かれました。

城の起源は9世紀ごろですが、12世紀からサボイア家の居城となり、14世紀初頭に増築されて、現在のような姿になったようです。アルプスを背景に、湖に美しい影を映し出します。

1536年にはベルン軍に攻略されました。バイロンの『シヨン城の囚われ人』は、その際、石牢に鉄鎖でつながれることになった僧院長ボニバールの、ベルン軍に救出されるまでの6年間を題材にしています。

『シヨン城の囚われ人』は1816年に出版されました。作品は獄中の囚人の独白として語られていきます。


harutoshura at 19:49|PermalinkComments(0)バイロン 

2018年11月24日

「楚囚之詩・第十五」⑤ 墓所

「楚囚之詩・第十五」のつづき。きょうは最後の10行です。

余を再び此寂寥(せきりよう)に打ち捨てゝ、
この惨憺たる墓所(はかしよ)に残して
——暗らき、空しき墓所——
其処(そこ)には腐(くさ)れたる空気、
湿(しめ)りたる床(ゆか)のいと冷たき、
余は爰(ここ)を墓所と定めたり、
生(いき)ながら既に葬られたればなり。
  死や、汝何時(いつ)来(きた)る?
  永く待たすなよ、待つ人を、
  余は汝に犯せる罪のなき者を!

墓場

「再び此寂寥に打ち捨てゝ、/この惨憺たる墓所に残して」と、花嫁を連れ去られたときから始まった残酷な孤独の日々の経験が生々しく脳裏に浮かんできます。

思いがけなく獄舎の窓から飛び込んだ蝙蝠は、虚脱状態から「余」が抜け出すことを助けますが、期待を寄せた鶯は飛び去って「余」を再び孤独地獄に引き戻します。期待が失望を生んだのです。

透谷の「我牢獄」には、「今ま死する際の『薄闇』は」とあり、「星夜」にも「もし昼と夜との境なる薄暗の惨憺たる時の苦さを思へば」とあります。

「暗らき、空しき墓所」を「此処」でなく「其処」としたことで、腐った空気と冷たい床以外に何もなかった時のことを強く思い出したと受け取ることができます。

「第九」で「此の広間」と読んだものが、ここでは「墓所」と呼ばれています。これは、長い獄中生活の体験とともに、確実な「死」の予測があったということでしょう。

「余」は「爰を墓所と定めたり」と、もはや釈放の望みは完全に捨ててしまっているのです。

そして最後の3行で、死への語りかけをします。

死のほうが生よりも望ましいというのは、「此寂寥」の世界の恐ろしさをすでに知ったためでしょう。

「汝に犯せる罪」とはなんとも唐突ですが、妻の訪れのないことを怪しまず、要求もせずにいる理由の一つが妻への罪意識にあるとすれば、死の訪れを願うのにこうした表現をとる必然性があったということでしょうか。

もし妻が訪れるなら、再会の喜び以上に、まず恩恵としての感謝が表明されるに違いありません。


harutoshura at 19:00|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月23日

「楚囚之詩・第十五」④ 浮世

「楚囚之詩・第十五」のつづき。きょうは16行目からです。

我が花嫁よ、……否な鶯よ!
 おゝ悲しや、彼は逃げ去れり
 嗚呼是れも亦た浮世の動物なり。
若し我妻ならば、何(な)ど逃(にげ)去らん!

浮世

「余」は、「我が花嫁よ」と呼びかけてから、少し間をおいて「否な鶯よ」と否定しています。不幸を嘆き悲しむ「余」には、鶯がしばし、花嫁の化身と見えたのでしょうが、やがてそうではない現実に立ち戻ります。

例えひとときの慰めであったにせよ、いざ居なくなってみるとたまらなく辛い。その気持が「おゝ悲しや」に込められています。

「是れも亦た」というのは、先に姿を見せた蝙蝠のことが念頭に置かれているのでしょう。

「浮世」は、仏教的厭世観を背景に、現世を「憂し(=つらい)」と見る「憂き世」がもともとの意味。そこに漢語の「浮生(ふせい)=定めない人生」や「浮世(ふせい)=定めない世」の意が加わりました。

近世になると厭世観の裏返しで享楽的に生きようとする気風が広まり、楽しむべきこの世、享楽の世、さらには遊里、好色といった意でも用いられるようになりました。

むかし、漫才師、エンタツ・アチャコ主演の「浮世も天国」という映画がありましたが、ここで「浮世の動物」といっているのは、天国ではなくこの世のものである、という認識なのでしょう。

「我妻ならば、何ど逃去らん!」で、かすかに残っていた妻の化身であることへの期待は、完全に消え去ります。

「余」の妻への期待はすこぶる大きいものの、真の妻は実際には存在せず、そうした期待がむなしいことを「余」は自覚しているようです。


harutoshura at 15:28|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月22日

「楚囚之詩・第十五」③ 喜びと羨み

「楚囚之詩・第十五」のつづき。きょうは11行目からです。

鳥の愛! 世に捨てられし此身にも!
鶯よ! 卿(おんみ)は籠を出(い)でたれど、
 余は死に至るまで許されじ!
余を泣かしめ、又た笑(え)ましむれど、
 卿の歌は、余の不幸を救ひ得じ。

うぐ

「鳥の愛! 世に捨てられし此身にも!」。きのう見た「若し然らば……余が同情を憐みて/来りしか、余が伴(とも)たらんと思ひて?」という仮定が事実と感じられ、神と妻とは脳裏から薄れていきます。自分を愛する他者を発見した驚きと喜びが感じられます。

しかし、自分を慰めるこうした存在に対しても、「鶯よ! 卿は籠を出でたれど、/余は死に至るまで許されじ!」と、すぐに自分と比較してその幸せを羨み、解放の期待を持てない我が身の不幸をいっそう強く思わざるをえなくなります。

「余を泣かしめ、又た笑ましむれど、」は、バイロンの詩「シヨンの囚人」(第10節36行)にある「Which made me both to weep and smle―」の直訳的表現と見られます。

透谷の「三日幻境」にも、盟友の大矢正夫について「はじめてこの幻境に入りし時、蒼海は一田家に寄寓せり、再び往きし時に、彼は一畸人の家に寓せり、我を駐めて共に居らしめ、我を酔はしむるに濁酒あり、我を歌はしむるに破琴あり、縦に我を泣かしめ、縦に我を笑はしめ、我素性を枉げしめず、我をして我疎狂を知るは独り彼のみ、との歎を発せしめぬ」と、同じような表現があります。

「救ひ得じ」について、日本近代文学大系の頭注には「慰めることはできても牢獄から解放することはできないであろう。前節での春への期待は単に一時の慰めを求めたにすぎず、それが自己の本質的な救いに何の関係もなかったことを、今痛切に感じている」とあります。


harutoshura at 13:41|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月21日

「楚囚之詩・第十五」② 同情

「楚囚之詩・第十五」のつづき。冒頭から詳しく見ていきましょう。

鶯は再び歌ひ出でたり、
 余は其の歌の意を解(と)き得るなり、
百種の言葉を聴き取れば、
 皆な余を慰むる愛の言葉なり!
浮世よりか、将(は)た天国より来りしか?
余には神の使とのみ見ゆるなり。
嗚呼左(さ)りながら! 其の練(な)れたる態度(ありさま)
恰(あた)かも籠の中より逃れ来れりとも——
  若し然らば……余が同情を憐みて
  来りしか、余が伴(とも)たらんと思ひて?

kago

「余」は、鶯の「百種の言葉」を聴き取って、「歌の意」を解することができるといいます。万葉集に「この花のひとよの内に百種の言そ隠(こも)れるおほろかにすな」とあるように、「百種」は古語で、たくさんの種類、さまざま、くさぐさの意味。

鶯は妻の化身と信じているわけですから、当然のごとく、その歌は「皆な余を慰むる愛の言葉なり」ということになります。

妻の化身と信じたからには、「浮世」は獄舎、「天国」は妻の死後ということになりそうですが、ここでは、「神の使とのみ見ゆる」この世のものならぬ美しい声に率直に感動しているようです。

不幸な者の鋭い目には「神の使とのみ見ゆる」と強調する一方で、鶯の現実の姿は自然に見えて来ます。

「余が同情を憐みて/来りしか」。「同情」は、同じ気持のこと。不幸な状況や苦難に対しての感情共有に用いられます。籠中にある者同士互いに慰め合おうとして来たのでしょうか。つまり「使」としてではなく、自分の意志で来たものと見ているのです。


harutoshura at 15:38|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月20日

「楚囚之詩・第十五」① 鶯の声

きょうから「楚囚之詩・第十五」に入ります。29行。「鶯の声」が、涙にぬれた「余」の心にしみこんでいきます。

   第十五

鶯は再び歌ひ出でたり、
 余は其の歌の意を解(と)き得るなり、
百種の言葉を聴き取れば、
 皆な余を慰むる愛の言葉なり!
浮世よりか、将(は)た天国より来りしか?
余には神の使とのみ見ゆるなり。
嗚呼左(さ)りながら! 其の練(な)れたる態度(ありさま)
恰(あた)かも籠の中より逃れ来れりとも——
  若し然らば……余が同情を憐みて
  来りしか、余が伴(とも)たらんと思ひて?
鳥の愛! 世に捨てられし此身にも!
鶯よ! 卿(おんみ)は籠を出(い)でたれど、
 余は死に至るまで許されじ!
余を泣かしめ、又た笑(え)ましむれど、
 卿の歌は、余の不幸を救ひ得じ。
我が花嫁よ、……否な鶯よ!
 おゝ悲しや、彼は逃げ去れり
 嗚呼是れも亦た浮世の動物なり。
若し我妻ならば、何(な)ど逃(にげ)去らん!
余を再び此寂寥(せきりよう)に打ち捨てゝ、
この惨憺たる墓所(はかしよ)に残して
——暗らき、空しき墓所——
其処(そこ)には腐(くさ)れたる空気、
湿(しめ)りたる床(ゆか)のいと冷たき、
余は爰(ここ)を墓所と定めたり、
生(いき)ながら既に葬られたればなり。
  死や、汝何時(いつ)来(きた)る?
  永く待たすなよ、待つ人を、
  余は汝に犯せる罪のなき者を!

鶯

「鶯」といえば「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ」というさえずりが頭に浮かびますが、これは縄張りのなかを見張っているオスの声だそうです。

「ホーホケキョ」が、ほかの鳥に対する縄張りの宣言で、巣にエサを運ぶメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもあるとか。

一方、「ケキョケキョケキョ」は侵入した者や外敵への威嚇であるとされ、これを合図に、メスは身の安全と、外敵に巣の位置を知られないようにするため、エサの運搬を中断して身をひそめます。また、平地で鳴き始めるのが早春であることから春告鳥(ハルツゲドリ)の別名もあります。

藤原敏行は古今和歌集で「心から花のしづくにそほちつつうくひすとのみ鳥の鳴くらむ」と詠っています。古くは鳴き声を「ウー、グイス」または「ウー、グイ」と聴いていて、和名の由来であるとする説もあるようです。

東京・鶯谷の地名は、元禄年間に、京都の皇族の出だった公弁法親王が「江戸のウグイスは訛っている」として京都から3500羽のウグイスを取り寄せて放鳥し、それによって鳴きが良くなり、ウグイスの名所となったという逸話に由来しているそうです。

日本のウグイスは、江戸時代から、鳴き声を楽しむために飼われ、夜間も明るくすることで、さえずりの始まる時期を早めて正月に鳴かせる「夜飼い」や、米ぬか、大豆粉、魚粉を混合したものを水で練って、食虫性の小鳥の飼養を容易にした「擂餌(すりえ)」などの技術を発達させてきました。

さて「再び歌ひ出でた」鶯は、どんな音色を発しているのでしょう。


harutoshura at 23:35|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月19日

「楚囚之詩・第十四」⑥ 誠の愛の友

「楚囚之詩・第十四」のつづき、きょうから最後の4行です。

自由、高尚、美妙なる彼れの精霊(たま)が
この美くしき鳥に化せるはことわりなり、
斯くして、再び余が憂鬱を訪ひ来(きた)る――
誠(まこと)の愛の友! 余の眼に涙は充(み)ちてけり。

愛

透谷の「夢中の詩人」に「第一、優美を愛する心、第二、理想を好みまふ事、第三、消極的を以て社会に尽さんと思ひ玉ふ事、右は、他の俗論者に反して、独り君に、見出したる、尊敬すべき性質なりかし」とあります。

妻(花嫁)「の精霊」は「自由、高尚、美妙」なものであり、また、それらは「余」の理想的女性像でもあるのでしょう。また「第四」では、「花の美くしさは美くしけれど、/吾が花嫁の美は、其(その)蕊(しべ)にあり、」としています。

このような女性であればこそ、「この美くしき鳥」鶯に同化できる道理がある、ということになります。

「第九」の末尾にあった「噫(ああ)偽りの夢! 皆な往(ゆ)けり!/往けり、我愛も!/また同盟の真友も!」と叫びたくなるような、気持ちがふさいで下界の刺激に鈍感な状態にあった「余」のもとに、忘れず再び訪(とぶら)ひ(たずねて)来てくれた者への感謝の思いが表現されています。

「誠の愛の友! 余の眼に涙は充ちてけり」にあるのは、愛する人への思いであり、もはや神の愛への感謝の気持ちはうかがえません。神の恵みへの自覚というのは身体的なものではなく、知的な理解に留まっていたというこおでしょうか。補注には次のように記されています。

〈「我牢獄」に「春や来しと覚ゆるなるに、我牢獄を距ること数歩の地に、黄鳥の来鳴くことありて、我耳を奪ひ、我魂を奪ひ、我をしてしばらく故郷に帰り、恋人の家に到る思ひあらしむ、その声を我恋人の声と思ふて聴く時に、恋人の姿は我前にあり」とある。「我牢獄」では「神」が完全に欠落しているが、第十四後半に組み入れようとした信仰体験も観念的なものでしかなく、「大赦の大慈を感謝」するという結果は、恵みの自覚の不徹底さからも生まれたのである。〉


harutoshura at 15:46|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月18日

「楚囚之詩・第十四」⑤ 霊の化身

「楚囚之詩・第十四」のつづき、きょうから最後の8行目です。

思ひ出す……我妻は此世に存(あ)るや否?
彼れ若(も)し逝(ゆ)きたらんには其化身なり、
我(わが)愛はなほ同じく獄裡に呻吟(さまよ)ふや?
若し然らば此鳥こそが彼れの霊(たま)の化身なり。

ウグイス

「花嫁」とは、「第九」で、獄中の「余」は「晩く」目ざめると「花嫁の方に先づ眼を送れば、/こは如何に! 影もなき吾が花嫁!/思ふに彼は他の獄舎に送られけん、/余が睡眠の中に移されたりけん」と別れたままです。

その後、獄舎に訪れた「蝙蝠」に花嫁の化身を見て、ここで、「余」の讃美と感謝のうちに鳴き続ける鶯の声が、再び妻への思いを引き出し、死んだと決まったわけではないと安否を気遣うようになります。「否」は「否や」の意味です。

「我妻」の行方について、まず考えられるのは、死。とすれば、この「鶯」は「其化身なり」。

次に、いまもどこかで獄中生活を送っている可能性です。だとすれば、この鳥こそが「彼れの霊の化身」だと「余」は感じています。

しかし、妻がすでに出獄して自由の身になっている可能性については「余」の眼中にないようです。そんな楽観は許されない状況に置かれているあらわれなのでしょう。

万葉集(199)に「春鳥のさまよひぬれば嘆きもいまだ過ぎぬに」とあります。「呻吟ふ」は、嘆きうめくこと。「余」は、鶯に嘆きうめく妻の魂をも見ています。


harutoshura at 15:23|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月17日

「楚囚之詩・第十四」④ 神の恵み

「楚囚之詩・第十四」のつづき、きょうは24行目からです。

卿(おんみ)の美くしき衣は神の恵みなる、
卿の美くしき調子も神の恵みなる、
卿がこの獄舎(ひとや)に足を留(と)めるのも
また神の……是(こ)は余に与ふる恵(めぐみ)なる、
 然り! 神は鶯を送りて、
余が不幸を慰むる厚き心なる!
 嗚呼夢に似てなほ夢ならぬ、
余が身にも……神の心は及ぶなる。

招く

「此鳥こそは/真に、愛する妻の化身ならん」とした「鶯」への賛美は、ここで「卿の美くしき衣」も「卿の美くしき調子」についても「神」への賛美・感謝へと転じます。

「然り! 神は鶯を送りて、/余が不幸を慰むる厚き心なる!/嗚呼夢に似てなほ夢ならぬ、/余が身にも……神の心は及ぶなる」。鶯を送ったのは神であり、神の「厚き心」すなわち愛は、世のすべてのものから見放された「余が身」にも及ぶのであるか、という夢のような喜びと、それが確かな事実であるという確信がうかがえます。

神の恵みは、招いた春が来たときではなく、妻の化身かと思う鶯の「飛び去らんとはなさずして/再び歌ひ出でたる声」をつくづくと聞き、それを眺めたときにはじめて自覚しています。自然神ではなく、人格神が念頭に置かれているようです。

『日本近代文学大系』の「補注」には、つぎのように記されています。

〈透谷は早くから「世運遂ニ傾頽シ」、「なお時来ねばせん方なく」(「富士山遊びの記憶」)のように人力以上のある力を認めていたが、それが「夢中の詩人」では「今君を得たるは、天の余を恵みたるにはあらずや」と「天」となり、ミナとの恋愛を通過して「神」となる。ミナあて書簡(明21.1.21)に見えるような神の愛と恋人の愛とを共に感じ得たこの時の記憶が、この節および次節の前半に息づいている。〉


harutoshura at 16:42|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月16日

「楚囚之詩・第十四」③ 幽霊を振り向き

「楚囚之詩・第十四」のつづき、きょうは9行目からです。

遂に余は春の来るを告(つげ)られたり、
鶯(うぐいす)に! 鉄窓の外に鳴く鶯に!
知らず、そこに如何なる樹があるや?
梅か? 梅ならば、香(かおり)の風に送らる可(べ)きに。
 美くしい声! やよ鶯よ!
余は飛び起きて、
 僅に鉄窓に攀(よ)ぢ上るに――
鶯は此響(ひびき)には驚ろかで、
 獄舎の軒にとまれり、いと静に!
余は再び疑ひそめたり……此鳥こそは
 真(まこと)に、愛する妻の化身ならんに。
鶯は余が幽霊の姿を振り向きて
 飛び去らんとはなさずして
再び歌ひ出でたる声のすゞしさ!
 余が幾年月の鬱(うさ)を払ひて。

幽霊

きのうの最後に「獄舎の中より春を招きたり」とありましたが、すぐさま時間の経過を示す「遂に」とやや不自然な感はありますが、「鉄窓の外に鳴く鶯」から春の到来を告げられた、といいます。

透谷の『星夜』に「これより君の家に永久の春は宿らむ、うぐひすの鳴音を家内にて聞くは楽しからずや」とあります。

「鳴く鶯」とすれば、梅の木でもあるのかな、とは問うては見ても「梅ならば、香の風に送らる可きに」と流し、古めかしい思いにも至りません。

驚いて飛び去るのがふつうなのに、逃げないのは自分を愛するものの化身であるゆえかと思う。

以前、「余」は蝙蝠に花嫁の化身を見ましたが、ここでは鶯に「愛する妻の化身」を見ることになります。「再び」「真に」にそれがうかがえます。

「春の来るを告られたり、/鶯に!」「獄舎の軒にとまれり、いと静に」など倒置法をしばしば用いて、妻の化身たる鶯の登場の場面を盛り上げようとしているようです。

「第二」の冒頭に「余が髪は何時の間にか伸びていと長し、/前額を盖ひ眼を遮りていと重し、/肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、/沈み、萎れ、縮み、あゝ物憂し、」とありましたが、「余が幽霊の姿」とはこんな感じだったのでしょう。

「鬱(うさ)」というのは、気持ちが晴れないこと、思うに任せない、つらい気持ちを言うわけでしょうが、紆余曲折があった心の変遷を「幾年月の鬱」とひとまとめにして鶯「歌ひ出でたる声のすゞしさ」を払う、というのは少し単純に過ぎてしっくりしない感じがします。


harutoshura at 16:53|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月15日

「楚囚之詩・第十四」② 春を招く

「楚囚之詩・第十四」のつづき、冒頭から詳しく見ていきます。

冬は厳しく余を悩殺す、
壁を穿(うが)つ日光も暖を送らず、
日は短し! して夜はいと長し!
寒さ瞼(まぶた)を凍らせて眠りも成らず。
然れども、いつかは春の帰り来らんに、
好し、顧みる物はなしとも、破運の余に、
たゞ何心なく春は待ちわぶる思ひする、
余は獄舎(ひとや)の中より春を招きたり、高き天(そら)に。

春

「悩殺」というと、いまでは特に女性がその美しさや性的魅力で男性の心をかき乱し、夢中にさせることをいいます。が、ここではそれとは正反対の「冬の厳しさ」が「余」を激しく悩ますといいます。

「第三」では、「余が迷入れる獄舎は、/二重の壁にて世界と隔たれり」、でありながらも「其壁の隙(すき)又た穴をもぐりて/逃場を失ひ、馳込む日光もあり」とされていました。ここでは、そうした「壁を穿つ日光も暖を送らず」と述べます。

ここで「眠りも成ら」ぬのは、「瞼を凍らせて」いる寒さのせいで、もはや精神的な虚脱感によるものではなくなっています。

これまでの春に対する体験をもとに、「然れども、いつかは春の帰り来らんに」と期待を抱き、春の到来を信じで冬の厳しさに耐えようという意思がうかがえます。

「なしとも」は「なくとも」のことでしょう。もはや運命が破壊され、雲から見放された「余」には、心にかかるものは無い。とはいえども、春を待ちわぶる積極的な「思ひ」を持ちうるようになったのです。

透谷は「招く手は細くたゆめど空遠くなびかぬ月のうらめしきかな」と歌っています。単に春の到来を信じるだけでなく、「招く手は細くたゆめど」かもしれませんが、「獄舎の中より春を招きたり」と到来を早めるための行動をさえ取ろうとしています。


harutoshura at 19:59|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月14日

「楚囚之詩・第十四」① 鶯

きょうから「楚囚之詩・第十四」に入ります。39行。「第十一」と「弟十二」には、蝙蝠(こうもり)がやって来ましたが、ここでは春を招く鶯(うぐいす)が登場します。

  第十四

冬は厳(きび)しく余を悩殺す、
壁を穿(うが)つ日光も暖を送らず、
日は短し! して夜はいと長し!
寒さ瞼(まぶた)を凍らせて眠りも成らず。
然れども、いつかは春の帰り来らんに、
好し、顧みる物はなしとも、破運の余に、
たゞ何心なく春は待ちわぶる思ひする、
余は獄舎(ひとや)の中より春を招きたり、高き天(そら)に。
遂に余は春の来るを告(つげ)られたり、
鶯(うぐいす)に! 鉄窓の外に鳴く鶯に!
知らず、そこに如何なる樹があるや?
梅か? 梅ならば、香(かおり)の風に送らる可(べ)きに。
 美くしい声! やよ鶯よ!
余は飛び起きて、
 僅に鉄窓に攀(よ)ぢ上るに――
鶯は此響(ひびき)には驚ろかで、
 獄舎の軒にとまれり、いと静に!
余は再び疑ひそめたり……此鳥こそは
 真(まこと)に、愛する妻の化身ならんに。
鶯は余が幽霊の姿を振り向きて
 飛び去らんとはなさずして
再び歌ひ出でたる声のすゞしさ!
 余が幾年月の鬱(うさ)を払ひて。
卿(おんみ)の美くしき衣は神の恵みなる、
卿の美くしき調子も神の恵みなる、
卿がこの獄舎(ひとや)に足を留(と)めるのも
また神の……是(こ)は余に与ふる恵(めぐみ)なる、
 然り! 神は鶯を送りて、
余が不幸を慰むる厚き心なる!
 嗚呼夢に似てなほ夢ならぬ、
余が身にも……神の心は及ぶなる。
思ひ出す……我妻は此世に存(あ)るや否?
彼れ若(も)し逝(ゆ)きたらんには其化身なり、
我(わが)愛はなほ同じく獄裡に呻吟(さまよ)ふや?
若し然らば此鳥こそが彼れの霊(たま)の化身なり。
自由、高尚、美妙なる彼れの精霊(たま)が
この美くしき鳥に化せるはことわりなり、
斯くして、再び余が憂鬱を訪ひ来(きた)る――
誠(まこと)の愛の友! 余の眼に涙は充(み)ちてけり。

ウグイス

「第十四」と次の「第十五」は、「鶯」がやって来て逃げてゆくまでに「余」に与えた神の恵みに対する幻想、さらには幻想から覚めて感じる死への予感を述べていきます。

「鶯」は、秋から春にかけては平地や低い山で過ごし、チャッチャッという声(笹鳴き)を出しながらやぶを伝っていき、ウメの花が咲くころ人里近くでホーホケキョ(法、法華経)と鳴き始めるため、ハルツゲドリ(春告鳥)とも呼ばれます。また、夏に山の中でさえずっているとき何かに驚き、ケッキョー、ケッキョーと鳴きたてるのを「鶯の谷渡り」といいます。

雌雄同色で上面はオリーブ褐色(鶯色)、下面は汚白色。雄が一回り大きく、全長約16センチ、雌は約13センチ。繁殖期のウグイスは、山地の大きな樹木の生えていない明るいササやぶを中心に生活し、巣はササの枝、または低木の地上1メートルぐらいのところにつくります。巣の外形は、ササの葉を絡ませた球形で、横に丸い入口があいています。

卵の数は4~6個で、光沢のある赤褐色。営巣場所の決定、巣づくり、抱卵、育雛はすべて雌だけが行い、雄はもっぱら縄張りの防衛にあたります。

食物は昆虫類、クモ類が主で、低木やササを飛び移りながら、体の上にある枝や葉の裏側を見上げて獲物を探し、伸び上がるか飛び上がるかして捕まえます。冬には熟したカキなど、植物質のものもとります。

「梅に鶯」の組合せがみられるのは、漢詩集『懐風藻』(751年)以降のことで、それまでは「竹に鶯」が普通でした。江戸時代から鳴き声を楽しむために飼われ、夜間も照明を与えることにより、さえずりの始まる時期を早めて正月に鳴かせる「夜飼い」などの技術も発達させてきました。


harutoshura at 12:24|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月13日

「楚囚之詩・第十三」④ 渓

「楚囚之詩・第十三」のつづき。きょうは、最後の8行です。

曽(か)つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴きし渓(たに)の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
  有る――無し――の答は無用なり、
  常に余が想像には現然たり、
   羽あらば帰りたし、も一度
   貧しく平和なる昔のいほり。

渓谷

「我が愛と共に逍遥せし」と、故郷の自然が、愛する人との行動と結び付くことによって、さらに親近感と愛おしさが増します。谷川のせせらぎ、鳥の声、木々を吹き抜ける風、確かに「渓」は「楽器」です。

「有る――無し――の答は無用なり、/常に余が想像には現然たり、」からは、事実がどうあれ、信じることによって自分自身を支えようとする姿勢が見られます。疑問形が続いていても、現実の故郷を問うているわけではなかったようです。

獄の中で虚脱状態にあった「余」からすると、「常に余が想像には現然たり」の「常に」という言葉には矛盾、ハッタリのようなものを感じます。故郷を再び自分の支柱とすることができた今の状態を、強調しているのでしょうか。

空虚を満たす支柱ができたものの「羽あらば帰りたし、も一度/貧しく平和なる昔のいほり。」と、現在の苦痛とは対照的な過去へと回帰することへの願望が頭をもたげて来ます。若い「余」の心は、揺れやすく移ろいがちなのでしょう。

「貧しく平和なる」について、頭注では「クリスチャン・ホーム的イメージがあり、家庭生活の平和を失ったと感じる作者の弱々しいうめきが感じられる」とされています。

透谷の「三日幻境」(1892年)に「醜悪なる社界を罵蹴して一蹶(いつけつ)青山に入り、怪しげなる草廬(さうろ)を結びて、空しく俗骨をして畸人の名に敬して心には遠ざけしめたるなり」とあります。「草廬」というのは、草ぶきの粗末な家。作者は、大矢正夫ら自由民権運動の仲間たちとの生活を思い浮かべながら「いほり」と言ったのでしょう。


harutoshura at 20:19|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月12日

「楚囚之詩・第十三」③ 蒼天深淵

「楚囚之詩・第十三」のつづき。きょうは7行目からです。

 ――我身独りの行末が・・・・・・如何に
   浮世と共に変り果てんとも!
嗚呼蒼天(そうてん)! なほ其処に鷲は舞ふや?
嗚呼深淵! なほ其処に魚は躍るや?
  春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存(あ)るや?

陶淵明

「我身独りの行末が……如何に/浮世と共に変り果てんとも!」。社会は変わりゆき、無力なひとの存在もそれに翻弄されて、ともに転変していきます。しかし故郷は社会とは異なる自然そのもの。常に不変で、絶対者のように個人の憧憬の的となり精神の支柱となることを自覚していきます。

頭注には〈「我身独り」には自己への愛着と共に、「故郷」から離れた心細さが感じられるが、「――」と「……」とには、心細さへの下降と、そこから立ち直って絶対者としての故郷にすがりつこうとする心の屈折とが感じられる〉とあります。

「嗚呼蒼天! なほ其処に鷲は舞ふや?/嗚呼深淵! なほ其処に魚は躍るや?」。鷲は高い空を飛び、魚は「淵」に集まる。詩としては平凡な連想ではありますが、「蒼天」と「深淵」の対比が、無限の空間における上昇と下降を思わせ、故郷をその現実から引き離して絶対的な存在と考える「余」らしいイメージになっています。

『文選』にある陶淵明=写真、wiki=の詩「始作鎮軍参軍経曲阿作」の中にも「望雲慚高鳥,臨水愧遊魚。」〈雲を望みては高鳥に慚(は)ぢ、水に臨みては遊魚に愧(は)づ。〉という句があります。

ざっくり言えば、空を流れる雲を眺めては高く自由に飛ぶ鳥の様子に、本心と異なる行いをしている自分を見苦しく思い、水辺に立てば自由に泳ぎまわる魚にはずかしく思う、といった意味でしょうか。

「蒼天」「深淵」の後には「春? 秋? 花? 月?/是等の物がまだ存るや?」。春の桜、秋の月という身近ではありますが、やや陳腐な自然の表現が並んでいます。


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2018年11月11日

「楚囚之詩・第十三」② 三多摩

「楚囚之詩・第十三」のつづき。いつものように、冒頭から具体的に眺めていきましょう。

恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
 若き昔時(むかし)……其の楽しき故郷(ふるさと)!
暗らき中にも、回想の眼はいと明るく、
 画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を戴(いただ)きし冬の山、霞をこめし渓(たに)の水、
 よも変らじ其美くしさは、昨日(きのう)と今日(きよう)、

多摩

「若き昔時……其の楽しき故郷」からは、「昔時(むかし)」と「若」さと「故郷」が切り離せないものとして「余」のなかにあることがうかがえます。

「いと明るく」ということは、「昔時」が鮮明に見えていることになります。そうした「回想の眼」に浮かぶイメージが、「余」をしだいに力づけていったようです。

さらに、故郷については、「画と見えて画にはあらぬ」と、描かれた絵という見え方では掌握できない強い現実感があることを述べています。

「第八」の冒頭に、「想ひは奔る、往きし昔は日々に新なり/彼(かの)山、彼水、彼庭、彼花に余が心は残れり、/彼の花! 余と余が母と余が花嫁と/もろともに植ゑにし花にも別れてけり、」とありました。

ここでは同じような光景を「雪を戴きし冬の山、霞をこめし渓の水、/よも変らじ其美くしさは、昨日と今日」と、少し具体的なイメージを加えて述べています。

『日本近代文学大系』の頭注には、「平凡な形容だが、作者の眼には富士や墨田川ではなく、三多摩の山川が浮かんでいたと思われる」とされています。

三多摩は、東京都西部の西多摩、旧北多摩、旧南多摩3郡の総称。1871(明治4)年の関東新県設置のときには、多摩地区の大半は透谷の生まれ故郷である神奈川県に編入されていました。1878年に3郡に分割されたため三多摩の名が生まれ、1893年に東京府へ移管されています。

地形的には西部の関東山地と東部の武蔵野台地、その南の多摩丘陵=写真、wiki=に分けられます。大正期までは、山麓部の谷口集落として発達した八王子、青梅、五日市と街道沿いの宿駅の小集落以外は、江戸時代に新しく開かれた畑作中心の農村地帯でした。


harutoshura at 20:13|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月10日

「楚囚之詩・第十三」① 故郷

きょうから「楚囚之詩・第十三」に入ります。20行。「蝙蝠」との出あいを転機に「故郷」への思いがふくらみます。

恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
 若き昔時(むかし)……其の楽しき故郷(ふるさと)!
暗らき中にも、回想の眼はいと明るく、
 画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を戴(いただ)きし冬の山、霞をこめし渓(たに)の水、
 よも変らじ其美くしさは、昨日(きのう)と今日(きよう)、
 ――我身独りの行末が……如何に
   浮世と共に変り果てんとも!
嗚呼蒼天(そうてん)! なほ其処に鷲は舞ふや?
嗚呼深淵! なほ其処に魚は躍るや?
  春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存(あ)るや?
曽(か)つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴きし渓(たに)の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
  有る――無し――の答は無用なり、
  常に余が想像には現然たり、
   羽あらば帰りたし、も一度
   貧しく平和なる昔のいほり。

透谷碑

「蝙蝠」の出現によって虚脱状態から立ち直った「余」は、この章で往時の故郷への回想に没入していきます。美、愛、平和などへの憧憬が歌われて行きます。

透谷は、明治元(1868)年、相模国足柄下郡小田原唐人町(現在の神奈川県小田原市)の没落士族の家、北村甲快蔵(26歳)とユキ(19歳)の間に生まれました。

本名は北村門太郎。弟に日本画家の丸山古香がいます。明治14年春、父母や弟とともに上京し、東京・数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。筆名の透谷は「すきや」をもじったものだといいます。

透谷の「三日幻境」(明治25年)には次のようにあります。

〈われは函嶺(かんれい)の東、山水の威霊少なからぬところに産(うま)れたれば、我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇(ためら)はねども、往時の産業は破れ、知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く疇昔(そのかみ)を語るべき古老の存するなし。山水もはた昔時に異なりて、豪族の擅横(せんわう)をつらにくしとも思(おもは)ずうなじを垂るゝは、流石(さすが)に名山大川の威霊も半(なかば)死せしやと覚(おぼえ)て面白からず。「追懐(レコレクシヨン)」のみは其地を我故郷とうなづけど、「希望(ホープ)」は我に他の故郷を強ゆる如し。〉

小田原は、北条氏の城下町として発展し、箱根関をひかえた東海道有数の宿場町でもありましたが、透谷にとっては、〈「希望(ホープ)」は我に他の故郷を強ゆる如し〉というように、郷愁を感じるようなところでは無くなっていったようです。

箱根駅伝のコースとして知られる国道1号に面した小田原市浜町のマンションの一角に北村透谷生誕地の碑が建っています=写真、wiki。


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2018年11月09日

「楚囚之詩・第十二」④ 放ちやる

きょうは「第十二」の最後の9行を見ておきます。

左れど余は彼を逃げ去らしめず、
何ぜ・・・・・・此生物は余が友となり得れば、
好し・・・・・・暫時(しばし)獄中に留め置かんに、
左れど如何にせん? 彼を留め置くには?
吾に力なきか、此一獣を留置くにさへ?
傷(いた)ましや! なほ自由あり、此獣(けもの)には。
   余は彼を放ちやれり、
   自由の獣・・・・・・彼は喜んで、
   疾(と)く獄窓を逃げ出たり。

コウモリ

「此生物は余が友となり得れば」ということは、「花嫁の化身」ではなく、ただのこうもりと悟り、「余が友」を獄中に留め置こうとします。

「左れど如何にせん?」。捕らえたのを放せば獄外に逃げるのは当たり前のことです。花嫁の化身などと思わず、ただ飛び回るのをながめていれば、そのまま友でありえたかもしれません。過大な要求をしたために、かえって小さな願いすら遂げられなくなって困惑しています。

「傷ましや! なほ自由あり、此獣には」。押さえられてもがくこうもりを見ているうちに、「自由」を持っている獣を捕えるのは痛ましいことに思い至ります。「放ちやれり」は、放してやったということ。力がないからだけでなく、現在のわが身のように自由を奪われたこうもりを憐れんで行なったことを示しています。

「自由の獣……彼は喜んで、/疾く獄窓を逃げ出たり」。最後に、喜んで逃げるこうもりを「余」は、共感とともに羨望のまなざしで見つめています。


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2018年11月08日

「楚囚之詩・第十二」③ 卿の顔

「楚囚之詩・第十二」のつづき、きょうは7行目からです。

恐るゝな! 捕ふる人は自由を失ひたれ、
卿(おんみ)を捕ふるに……野心は絶えて無ければ。
嗚呼! 是(こ)は一の蝙蝠!
余が花嫁は斯(かか)る悪(に)くき顔にては!

コウモリ

「恐るゝな! 捕ふる人は自由を失ひたれ、/卿を捕ふるに……野心は絶えて無ければ」。こわがることはありはしない。自分は自由を失っているが、あなたの自由まで奪おうとは思っていないのだから。束縛を恐れる相手の気持ちを知り、なだめながら捕えようとする矛盾した心がうかがえます。

「第六」にあった「近かく、其頂上に相見たる美くしの月/美の女王! 曽つて又た隅田に舸を投げ、/花の懐にも汝とは契をこめたりき」のように、透谷は、月への呼びかけでは「汝」を使っていました。

ここでの「花嫁の化身」への呼びかけでは、「汝」ではなく「卿」を用いています。花嫁に対する「余」の心理の微妙なありようがうかがえます。

「おんみ」とは、あなたさま、と相手を敬っていう語ですが、「卿」は基本的に、君主が臣下を呼ぶときや同輩を呼ぶ際に用いられる呼び名で「貴兄」と同じ意味。イギリスの称号のLordやSirの訳語となっているそうです。

「顔にては!」には、蝙蝠の「斯る悪くき顔」を花嫁の化身とすることに耐えられない気持ちが表れています。『日本近代文学大系』の「頭注」では、「花嫁の醜悪な面と美妙な面を分け、後者を真相と思いたいという願望が強く働いたもの」としています。


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2018年11月07日

「楚囚之詩・第十二」② 自由

「楚囚之詩・第十二」のつづき、いつものように冒頭から少し詳しく見ていきましょう。

余には穢(きた)なき衣類のみなれば、
是を脱ぎ、蝙蝠に投げ与ふれば、
彼は喜びて衣類と共に床(ゆか)に落たり、
余ははひ寄りて是を抑(おさ)ゆれば、
蝙蝠は泣けり、サモ悲しき声にて、
何(な)ぜなれば、彼はなほ自由を持つ身なれば、

英和
*立教大学図書館

「余」は、獄中の「穢なき衣類」を脱いで、蝙蝠のほうに投げつけます。「投げ与ふれば」とここでは、捕らえるための行為を好意からのように表現しています。

愛における無意識のエゴイズムを言おうとした、という見方もできます。とすれば、自分のエゴイズムに気がつかない「余」にとって、「彼は喜びて」いるように思われているのでしょう。

「衣類と共に床に落た」コウモリに「余ははひ寄」って「抑」えます。すると「サモ悲しき声」で「泣けり」といいます。

コウモリは暗闇を飛行中、超音波を発して返ってきた音から、障害物やエサの在りか、自分の位置などを把握しています。

超音波ですからコウモリの鳴き声は、ふつう私たちの耳には聞こえません。しかし、危険を察知したときなどに「キィキィ」といった声を出すこともあるそうです。

もちろん、ここで「泣けり」というのは、生物としてのコウモリではなく、「花嫁の化身」としての「蝙蝠」なのでしょう。

「サモ悲しき声にて」と、カタカナをはさむことで、蝙蝠の泣く声が「余」の心を強く動かしたことが伝わって来ます。

もともと中国の「自由」には、思うままにふるまう専恣横暴の意味(『後漢書』五行志)と、他から制約・拘束をうけないという意義(『魏志』)との二通りの語義があり、日本では「自由狼藉(ろうぜき)」「自由濫吹(らんすい)」などと「我欲を逞しくし、慣例に背き、不法を行い、専恣横暴の振舞いがある」という前者的な用い方をされることが多かったようです。

近代を迎え、堀達之助の『英和対訳袖珍辞書』(1862年)=写真=で、「freedom」の訳として「自由」が用いられます。さらに、1866年(慶応2年)に初編3冊が刊行された福沢諭吉の『西洋事情』にも「自由」の訳字が使われたことなどによって西洋的な概念としての「自由」が広まっていったと考えられます。


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2018年11月06日

「楚囚之詩・第十二」① 失策の画

きょうから「楚囚之詩・第十二」に入ります。19行。「第十一」につづいて蝙蝠(こうもり)が登場します。

余には穢(きた)なき衣類のみなれば、
是を脱ぎ、蝙蝠に投げ与ふれば、
彼は喜びて衣類と共に床(ゆか)に落たり、
余ははひ寄りて是を抑(おさ)ゆれば、
蝙蝠は泣けり、サモ悲しき声にて、
何(な)ぜなれば、彼はなほ自由を持つ身なれば、
恐るゝな! 捕ふる人は自由を失ひたれ、
卿(おんみ)を捕ふるに……野心は絶えて無ければ。
嗚呼! 是(こ)は一の蝙蝠!
余が花嫁は斯(かか)る悪(に)くき顔にては!
左れど余は彼を逃げ去らしめず、
何ぜ……此生物は余が友となり得れば、
好し……暫時(しばし)獄中に留め置かんに、
左れど如何にせん? 彼を留め置くには?
吾に力なきか、此一獣を留置くにさへ?
傷(いた)ましや! なほ自由あり、此獣(けもの)には。
   余は彼を放ちやれり、
   自由の獣……彼は喜んで、
   疾(と)く獄窓を逃げ出たり。

獄舎

「第十二」の後には、上のような画が挿入され、その前に囲みで次のようなただし書きが付けられています。

〈次ぎの画は甚しき失策でありました、是れでも著名なる画家と熱心なる彫刻師との手に成りたる者です。野辺の夕景色としか見えませぬが、獄舎の中と見て下さらねば困ります。〉


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2018年11月05日

「楚囚之詩・第十一」④ 化身

「楚囚之詩・第十一」のつづき、きょうは最後の8行です。

彼は獄舎の中を狭しと思はず、
梁(はり)の上梁の下俯仰(ふぎよう)自由に羽(は)を伸ばす、
能(よ)き友なりや、こは太陽に嫌はれし蝙蝠(こうもり)、
我(わが)無聊(ぶりよう)を訪(たずね)来れり、獄舎の中を厭(いと)はず、
想ひ見る! 此は我花嫁の化身ならずや
嗚呼約せし事望みし事は遂に来らず、
忌(いま)はしき形を仮(か)りて、我を慕ひ来るとは!
ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。

コウモリ

「太陽に嫌はれし蝙蝠」を、獄で孤独な「幾年月」を送る「余」は「能き友なりや」と思います。

先日見たように、コウモリは夜行性で、日没ごろから活動をはじめ、ほとんど終夜採食します。昼間は、洞窟の壁や天井、岩の割れ目、人家の天井裏、屋根瓦の下などで静かに休息しています。当時は、透谷の住んでいた銀座でも、多くの群れが見られたそうです。

「我無聊を訪来れり」の「無聊」は、「無聊を慰める」「無聊な日々」などと、退屈なこと、心が楽しまない、気が晴れないことをいいます。「第十」にあった、極限状態に置かれた「寂寥」とはかなり異質です。

『日本近代文学大系』の頭注には、〈とても「幾年月」の生活を表現したものとは思えません。虚脱状態からの脱却を思い始めた精神の状態をいったとしても、やはり不自然。「無聊」の状態に陥ることの多い作者の不用意の語か〉とあります。

しばらくコウモリの飛び回る姿を眺め、厭うべき獄舎をなかなか出てゆかない様子から、「余」は、ひょっとしたら「此は我花嫁の化身ならずや」と思い及びます。

そして、なにを約束し、望んだかは定かではありませんが、「約せし事望みし事は遂に来らず」と、痛切な嘆きを言葉にします。誓い合い、期待したことが実現しなかった結婚生活への作者の失望感が背景にあるのでしょうか。
それはともかく「忌はしき形を仮りて、我を慕ひ来る」、つまり醜悪な姿ではあるが自分を慕って来るコウモリが、「余」にはいじらしくてならず「可憐な」と感じます。

頭注では、「愛における執着を醜いものとしつつも、その一途な情をあわれむ作者に、あるいは、そのように執着されたいとの願望が潜んでいるのかもしれない」としています。


harutoshura at 16:27|PermalinkComments(0)北村透谷 

2018年11月04日

「楚囚之詩・第十一」③ 世界の生物

「楚囚之詩・第十一」のつづき、きょうは中盤の10行目からを読みます。

突如窓を叩(たた)いて余が霊を呼ぶ者あり
あやにくに余は過(すぎ)にし花嫁を思出(おもいいで)たり、
弱き腰を引立て、窓に飛上らんと企てしに、
こは如何に! 何者……余が顔を撃(うち)たり!
計らざりき、幾年月の久しきに、
始めてが見舞ひ来れり。

bat

「突如窓を叩いて余が霊を呼ぶ者あり」というのは、萌し始めた「余」の願いに呼応するごとく、外界からの呼び声(鉄窓を叩く音)が起こり、「余」の願いをさらに自覚的にします。

「あやにくに」すなわち「あやにく(生憎)なり」は、予想・期待に反して好ましくないことが起こったときに用います。「あいにく」のもとになった言葉で、ここでは、都合が悪い、おりが悪い、意地が悪いといった意味でしょう。

花嫁のことを思い出さなければよかったという後悔の気持ちが働いています。期待のゆえにかえって失望せねばならぬという認識が背後にあります。同時に、幾年も忘れ果てていながら、わずかのきっかけですぐに表面に浮かび出てくるほど、他の何よりも強く、意識下に付着していたといえよう。

「過にし花嫁」の「過ぐ」には、消え失せる、人が死ぬの意があります。死んでしまった花嫁ということか、それとも、すでに過去の人となって自分とのかかわりを持たなくなった花嫁ということでしょうか。

「弱き腰を引立て、窓に飛上らんと企てし」ということは、飛び上がることが不可能な高窓ですが、それを企てるに足るほど、期待が高まったのです。

そのとき「何者」かが「余が顔を撃」って、驚きます。一人だけの獄中生活を送って「幾年月」を経たこの時にあっても、「計らざ」らん、思いがけないことが起こったといいます。

それが「如何」なることなのかといえば、「世界の生物が見舞ひ来れり」ということ。すなわちこの章のテーマである「蝙蝠」の登場です。


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2018年11月03日

「楚囚之詩・第十一」② 眠りの神

「楚囚之詩・第十一」のつづき、きょうは最初の9行です。眠りの神について言及されます。

余には日と夜との区別なし、
左れど余の倦(うみ)たる耳にも聞きし、
暁(あけ)の鶏や、また塒(ねぐら)に急ぐ烏(からす)の声、
兎(と)は言へ其形……想像の外には曽(か)つて見ざりし。
ひと宵(よい)余は早くより木の枕を
窓下(そうか)に推(お)し当て、眠りの神を
祈れども、まだこの疲れたる脳は安(やすま)らず、
 半分(なかば)眠り――且つ死し、なほ半分は
生きてあり、――とは願はぬものを。

Hypnos
*ヒュプノスとタナトスが描かれた壺(wiki)

「第六」の冒頭に「世界の太陽と獄舎の太陽とは物異(かわ)れり/此中には日と夜との差別の薄かりき」とありましたが、ここでは一歩踏み込んで、しかも端的に「余には日と夜との区別なし」と言い切っています。ここは、精神的な虚脱感に拠っているようです。

そんな「余の倦たる耳」でも「暁の鶏」や「塒に急ぐ烏の声」が聞こえては来るものの、それらが何となく聞こえて来るだけで、明け方とか夕暮れとかの認識はさだかでなかったといっています。

「第六」に「ひと夜」、「第九」には「ひとあさ」とありましたが、これらに対応してここでは「ひと宵」、つまり夜のはじめの「ある宵」のことを指しています。

「眠りの神」といえば、ギリシア神話の神ヒュプノスを思い出します。夜の女神ニュクスと闇エレボスの子で、死神タナトスの双子の兄弟。翼の生えた若者の姿に表わされ、手に持った角から眠りをもよおさせる液を地上に注いで回るとされました。

1882(明治15)年に出た『新体詩抄』の「シェーキスピール氏へンリー四世中の一段」の中で、

あゝ羨し羨し 眠の神よ眠り神
天より我に賜はりて 伽するとこそ云ふべけれ
如何なる罪の祟にや 眠の神に見ハなされ
仮令へ暫時の間なり共 胸の苦しさ忘れたさ
瞼を閉ぢて眠らんと 如何にすれども眠られず
そも如何なれバ眠神 見る影もなきあばら家の
くすぽりかへる稿の床 むさ苦しきも厭ハずに
心地もよげに横たハり 枕のほとりぶん/\と
飛びくる虫の羽音さへ 眠りを誘ふ助にて

などと、すでに「眠りの神」が盛んにうたわれています。以前、昼眠るのが習慣になった話が出て来ましたが、昼でもよく眠れない状態に置かれるようになってきたようです。

「願はぬものを」と消極的ではありますが、「半分眠り――且つ死し、なほ半分は/生きてあ」る虚脱状態から抜け出そうとする意欲が「余」に芽生えて来ているようです。


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2018年11月02日

「楚囚之詩・第十一」① 蝙蝠

きょうから「楚囚之詩・第十一」に入ります。23行。蝙蝠(コウモリ)がやってきます。

余には日と夜との区別なし、
左れど余の倦(うみ)たる耳にも聞きし、
暁(あけ)の鶏や、また塒(ねぐら)に急ぐ烏(からす)の声、
兎(と)は言へ其形……想像の外には曽(か)つて見ざりし。
ひと宵(よい)余は早くより木の枕を
窓下(そうか)に推(お)し当て、眠りの神を
祈れども、まだこの疲れたる脳は安(やすま)らず、
 半分(なかば)眠り――且つ死し、なほ半分は
生きてあり、――とは願はぬものを。
突如窓を叩(たた)いて余が霊を呼ぶ者あり
あやにく余は過(すぎ)にし花嫁を思出(おもいいで)たり、
弱き腰を引立て、窓に飛上らんと企てしに、
こは如何に! 何者……余が顔を撃(うち)たり!
計らざりき、幾年月の久しきに、
始めて世界の生物が見舞ひ来れり。
彼は獄舎の中を狭しと思はず、
梁(はり)の上梁の下俯仰(ふぎよう)自由に羽(は)を伸ばす、
能(よ)き友なりや、こは太陽に嫌はれし蝙蝠(こうもり)、
我(わが)無聊(ぶりよう)を訪(たずね)来れり、獄舎の中を厭(いと)はず、
想ひ見る! 此は我花嫁の化身ならずや
嗚呼約せし事望みし事は遂に来らず、
忌(いま)はしき形を仮(か)りて、我を慕ひ来(く)るとは!
ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。

コウモリ

「十一」からは、こうもりが来訪し、捕獲・解放される様子を述べていきます。「余」にとって唯一の他者であるものに対して期待し求めていくことを、他者の現実を認識するとともに感じていきます。

「蝙蝠(コウモリ)」は、飛翔する唯一の哺乳類、翼手目に属する動物の総称です。哺乳類中では齧歯(げっし)目に次いで種数が多く、2亜目19科950種。うち日本産は2亜目5科38種で、陸生の哺乳類中で最多です。

コウモリ類は北極・南極を除く地球上のあらゆる地域に分布し、洞窟、廃坑、樹洞、森林、人家など、さまざまな環境に生息します。食物も、昆虫、脊椎動物、恒温動物の血液、果物および花粉などさまざま。

大きさは、翼開長1.7メートル、頭胴長40センチ、体重900グラムに達するジャワオオコウモリから、1974年にタイ南部で発見された翼開長16センチ、頭胴長3センチ、体重2グラム以下のブタバナコウモリまで。

前肢は体のわりに極端に大きく、第2~第5指の中手骨と指骨は特に長く、それらの間および第5指と後肢の間に皮膚が伸びてできた弾力性に富む薄い飛膜が発達して、翼を形成します。

前肢の第1指は短く、洞窟の壁面などをよじ登るときなどに使われる鋭い鉤(かぎ)づめをもっています。後ろ足は体のわりに小さく、5指と鋭い鉤づめがあって、外後方に180度回転できます。

夜行性で、日没ごろから活動を開始し、ほとんど終夜採食します。昼は洞窟の壁や天井、岩の割れ目、人家の天井裏、屋根瓦の下、木の枝、樹洞、竹の割れ目、バショウの葉の下面、巻いたバショウの葉の筒などで休息。

何千頭もの大群をなして棲息するものもあれば、単独または数頭で生活するものもあります。いずれも巣をつくず、亜寒帯や温帯にすむものの多くは洞窟、人家、樹洞などで冬眠し、温暖な地方に渡る種もあります。

飛翔する際に5万~10万ヘルツの超音波を毎秒数回ないし数十回も断続して発し、その反響を発達した耳で聞いて、障害物や食物などの方向や位置、獲物の動きや大きさなどを探知します。このため、狭い洞窟や茂った林床の中でも自由に飛びまわることができます。

普通、1産1子、たまに2~4子を年1回初夏に出産。齧歯類、食虫類に比べて寿命は長く、飼育下で19年の記録があるそうです。冬眠しない種類は春または冬に交尾しますが、冬眠するものでは冬眠前の秋に交尾し、通常、精子は冬の間は雌の子宮内に保たれ、翌春に受精が行われます。

コウモリを呼び寄せる童歌が、全国的に分布しています。東京では「コウモリ、コウモリ、草履が欲しけりゃ飛んで来い」といって草履を中空に投げ上げますが、「落ちたら卵の水飲まそ」などと誘うのもあります。

もとはコウモリも身近な動物で、東京の町中でも、夏の夕方にコウモリの飛び交う姿がみられました。イギリスにも「コウモリ、コウモリ、帽子の下にやってこい。ベーコン一切れくれてやる」と始まる歌があり、帽子の中にコウモリを捕らえることを幸運としています。

鹿児島県の鵜戸権現を祀る洞窟にすむコウモリは、神のお使いであると伝えられ、不浄の者が参詣すると群がって頭を蹴るといいます。ヨーロッパでも、コウモリに頭を蹴られるのは不吉なこととされ、コウモリが女性の髪に絡みついたら鋏でその髪を切らないと離れないといわれます。

ヨーロッパでは一般に不吉な兆しとされ、家の中にコウモリが入るのを死の前兆としたり、悪魔がコウモリの姿となって現れるという俗信も広く伝えられています。

中国では「蝙蝠」の「蝠」が「福」に通じることから、おめでたいしるしとされ、福の神の使いであるともいわれます。そのためコウモリの絵を縁起物によく用い、鍾馗が剣を振ってコウモリを打ち落としている図柄は、天から福を授かる「降福」の意を表しているそうです。


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2018年11月01日

「楚囚之詩・第十」㊦ 壁

きょうは「楚囚之詩・第十」の結びの4行です。

甘き愛の花嫁も、身を抛(なげう)ちし国事も
忘れはて、もう夢とも又た現とも!
嗚呼数歩を運べずすなはち壁、
三回(みたび)まはれば疲る、流石(さすが)に余が足も!

壁

「甘き愛の花嫁」と「国事」という最も大きな関心事を二つとも忘れてしまったことで、「余」の陥った虚脱状態の重さを強調しています。

「第四」に「吾等双個の愛は精神にあり」とありましたが、ここに抽象的に記された「甘き愛」も、厳しい愛というよりも、甘美な優しさ求める性格のものであるのでしょう。

透谷の『星夜』でも、「彼女の情を得たる後は物として春の色を帯びぬはなく、自ら怪しみて霞の中に入りたるかと思はるゝ程に、苦く辛らく面白からぬ物に隔たりて、甘く美しく優しき物のみ近づきぬ」

「我はまことの友を得たるうれしさに、後は斯くよ、斯くして斯くよなど、将来の事業を打ち開けて語りしなどしつゝ、彼女の嗜める音楽の道に就きて談話することもありて、その楽しさは、その甘さは、言もて得尽くすべくもあらず」

「緑新らしく添ひたる松の樹影に小憩して、清く甘まき物語の尽くべき時もなし」と、同じような描き方をしています。

「第三」に「壁を伝ひ、余が膝の上まで歩寄れり。/余は心なく頭を擡げて見れば、/この獄舎は広く且空しくて」とありましたが、「数歩を運べずすなはち壁」というのは、物理的にはこれと矛盾することになります。

ここでは、座り込んでいる不安から立ち上がって歩き出したところで、心も体もすぐに「壁」につきあたらざるを得ないというような意味合いでしょうか。

最後に、かつては山野を駆けめぐってもどうということのなかった「余」の足も、虚脱感を伴う心身の疲労によって、いまや「三回まはれば疲る」という状態になってしまったと嘆いています。


harutoshura at 21:14|PermalinkComments(0)北村透谷