2018年08月

2018年08月31日

「国立公園候補地に関する意見」③ 鞍掛山

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは11行目からです。

いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな

鞍掛山

きのう見た、岩手山を「国立公園候補地に/みんなが運動せんですか」という問いかけに「いや可能性/それは充分ありますよ」と応じます。

そして国立公園の候補としては、岩手山だけでなく「うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな/鞍掛山もむろんです」と付け加えています。

「火口湖」は、火山の噴火口に生じた湖。形態は比較的単純で円形に近く、湖岸の傾斜は急、湖盆の中央部が平坦です。湖水は強酸性を示すことが多いのも、日本の湖の大きな特徴となっています。

代表的な例には、宮城県蔵王の御釜(おかま)、鹿児島県霧島の大浪池(おおなみのいけ)、開聞岳の麓の鏡池などがあります。

『語彙辞典』によれば、この作品の「火口湖」は、西岩手火山の御釜、「温泉」とは松川温泉と考えられるようです。

「鞍掛山」=写真=は、岩手県南東にある標高897メートルの山。岩手山の寄生火山とも言われ、小岩井農場や柳沢方面からは東岩手山の手前に見えます。

「Ur-Iwate」の「Ur」は、ドイツ語で①根源、発生、出現②原始、劫初、祖先③純粋、真正などを表します。

「大地獄」は、西岩手山大地獄カルデラのことを指しています。賢治は「鞍掛山」を、寄生火山ではなく、岩手山より古い火山だと考えていたことがうかがえます。


harutoshura at 15:36|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月30日

「国立公園候補地に関する意見」② 鎔岩流

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは冒頭から詳しく見ていきます。

どうですか この鎔岩流は
殺風景なもんですなあ
噴き出してから何年たつかは知りませんが
かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって
まるで大きな鍋ですな
いたゞきの雪もあをあを煮えさうです
まあパンをおあがりなさい
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか

焼走り

「この鎔岩流」というのは、岩手山中腹から流出した溶岩流により形成された岩原で、国の特別天然記念物に指定されている焼走り熔岩流=写真、wiki=と考えられます。

焼走り熔岩流は、1719(享保4)年に、岩手山の北東斜面、標高1200メートル付近の中腹で噴火が起こり、ここから流出した熔岩が北東麓の三森山まで約3.5キロ流れ下ったもの、というのが定説です。粘性が小さく流動性に富んでいる熔岩です。

岩手山は、山頂部に爆裂カルデラと中央火口丘を持つ円錐形の成層火山。焼走り溶岩流は山頂部の噴火活動とは違い、中腹部にできた別の噴火口から流出したものです。溶岩流を作った噴出口は、標高850から1250メートル付近まで直線状に複数個所残っています。

名称は、真っ赤な熔岩流が山の斜面を急速な速さで流れ下るのを見て「焼走り」と呼ばれるようになったのが始まりとされます。熔岩流の表面は波紋状の凸凹があって、これがトラの縞模様のように見えることため「虎形」とも呼ばれます。

焼走り熔岩流は噴出時期が比較的新しいため風化作用が進んでおらず、表面にはまだ土壌が形成されていないことから植生に乏しく、噴出当時の地形を留めています。

賢治は、「噴き出してから何年たつかは知りませんが/かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって/まるで大きな鍋ですな」というような、表土や樹木に覆われていない「殺風景なもん」に、むしろ地質学的にも希少で「国立公園候補地に」ふさわしいものと考えていることになります。


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2018年08月29日

「国立公園候補地に関する意見」① 十和田八幡平

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三三七 国立公園候補地に関する意見」に入ります。59行。「春谷暁臥」と同じ「1925、5、11」の日付があります。

どうですか この鎔岩流は
殺風景なもんですなあ
噴き出してから何年たつかは知りませんが
かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって
まるで大きな鍋ですな
いたゞきの雪もあをあを煮えさうです
まあパンをおあがりなさい
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな
さうしてこゝは特に地獄にこしらへる
愛嬌たっぷり東洋風にやるですな
鎗のかたちの赤い柵
枯木を凄くあしらひまして
あちこち花を植ゑますな
花といってもなんですな
きちがひなすび まむしさう
それから黒いとりかぶとなど、
とにかく悪くやることですな
さうして置いて、
世界中から集った
猾るいやつらや悪どいやつの
頭をみんな剃ってやり
あちこち石で門を組む
死出の山路のほととぎす
三途の川のかちわたし
六道の辻
えんまの庁から胎内くぐり
はだしでぐるぐるひっぱりまはし
それで罪障消滅として
天国行きのにせ免状を売りつける
しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテ やゝうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって
最後は山のこっちの方へ
野砲を二門かくして置いて
電気でずどんと実弾をやる
Aワンだなと思ったときは
もうほんものの三途の川へ行ってるですな
ところがこゝで予習をつんでゐますから
誰もすこしもまごつかない またわたくしもまごつかない
さあパンをおあがりなさい
向ふの山は七時雨
陶器に描いた藍の絵で
あいつがつまり背景ですな

八平

環境省によると、「国立公園」は、「日本を代表するすぐれた自然の風景地を保護するために開発等の人為を制限するとともに、風景の観賞などの自然に親しむ利用がし易いように、必要な情報の提供や利用施設を整備しているところ」で、「国が直接管理する自然公園」とされています。

世界で初めての国立公園は、1872年に指定されたアメリカのイエローストーン国立公園です。日本では、明治44(1911年)年に「日光を帝國公園となす請願」が議会に提出され、その後多くの人々の要望が高まって昭和6年(1931年)に国立公園法が制定され、それに基づいて昭和9年(1934年)3月16日に瀬戸内海、雲仙、霧島の3箇所が日本初の国立公園に指定されました。

その後、昭和32年(1957年)には国立公園法が全面的に改定されて自然公園法が制定され、国立公園、国定公園、都道府県立自然公園といった現在の自然公園体系が確立されました。現在では、北は北海道から南は沖縄、小笠原諸島まで国立公園は34カ所になっています。

十和田八幡平国立公園は、青森県・岩手県・秋田県にまたがり、十和田湖周辺と八幡平周辺の火山群を包括します。1936(昭和11)年2月に十和田地区だけが十和田国立公園として、吉野熊野国立公園、富士箱根国立公園(現・富士箱根伊豆国立公園)、大山国立公園(現・大山隠岐国立公園)とともに指定されました。

さらに、1956(昭和31)年7月に八幡平地域が追加され、現在の十和田八幡平国立公園=写真=に改称されています。賢治のこの作品「国立公園候補地に関する意見」が作られてから31年後のことです。八幡平地域は、岩手山(2038m)を最高峰に、火山活動により形成された山岳地帯で、公園区域に一般集落はまったく含まれません。

岩手山は、盛岡市からは富士山型の姿が望めますが、山頂西側は鬼ヶ城ドムなど複雑な構造を持つ複式火山で、南部片富士の異名も持ちます。東北側の山腹には、享保4(1719)年の噴火のとき流れ出した焼走り溶岩流があります。山麓にはブナを主に、カツラ、サワグルミなどの森林が広がります。

八幡平は八甲田山とともに樹氷で知られ、春の山岳スキーの適地でもある。秋田駒ヶ岳(1637m)は、コマクサやエゾツツジなど高山植物の宝庫として知られます。また、一帯は今も火山活動の盛んな地域で、後生掛(ごしょがけ)や玉川温泉では噴気、噴湯などの現象が活発です。


harutoshura at 12:57|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月28日

「春谷暁臥」⑦ 羯阿迦

 きょうは「春谷暁臥」の最後の11行です。 

    羯阿迦(ぎゃあぎあ) 居る居る鳥が立派に居るぞ
    羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
    羯阿迦 鳥とは青い紐である
    羯阿迦 二十八ポイント五!
    羯阿迦 二十七!
    羯阿迦 二十七!
はじめの方が声もたしかにみじかいのに
二十八ポイント五とはどういふわけだ
帽子をなげて眼をひらけ
もう二里半だ
つめたい風がながれる

76b0961a

『語彙辞典』には、「羯阿迦」とは、鳥の鳴き声を陀羅尼(呪文)めかして表現した賢治の造語と思われる、とされています。

陀羅尼は、サンスクリットのダーラニーdhāraṇīの音写で、「総持」「能持」「能遮(しや)」と訳します。総持、能持はいっさいの言語説法を記憶して忘れない意味で、能遮はすべての雑念をはらって無念無想になることをいいます。

陀羅尼を繰り返しとなえれば雑念がなくなって禅定に入り、その結果はいっさいの言語説法を記憶することができます。これを聞持(もんじ)陀羅尼ともいいますが、そのためには声に出さずにとなえるのがいいので入音声(にゆうおんじよう)陀羅尼とも呼ばれるそうです。

「鳥とは青い紐である」というのは、鳥の飛ぶ軌跡を「青い紐」に喩えているのでしょうか。最近の素粒子論によれば、物質も、生命も、その究極は、「ひも」から成り立っているということもいえそうです。

「ポイント」というのは、何らかの点数、得点、点のことでしょうか。欧米で一般に使用されてきた文字の大きさを表す単位でもあります。それなら1ポイントは約0.35ミリ。28.5ポイントは約1センチ、27ポイントは約9.5ミリということになります。

「佐一が向ふに中学生の制服で/たぶんしゃっぽも顔へかぶせ」と、帽子を被って眠っているふうの佐一に、「帽子をなげて眼をひらけ」と訴えています。

一里は3.927キロ。ですから「二里半」とは9.8キロくらいになります。

昭和8年5月18日付、森佐一あて書簡には次のようにあります。

「例の詩らしきものの心象スケッチ、あなたといっしょだったあの岩手山の下の朝を清書しました。どうか何べんもお読み下すってこんな調子に書いたあなたがこれでいゝかどうか ことに「幻」がいゝか佐一がいゝか 佐一の方が詩としてはいゝやうですが事実を離れる所がありその辺適宜ご決定下さい。


harutoshura at 15:12|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月27日

「春谷暁臥」⑥ 蕩児

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは27行目からです。

  ……佐一もおほかたそれらしかった
    育牛部から山(やま)地へ抜けて
    放牧柵を越えたとき
    水銀いろのひかりのなかで
    杖や窪地や水晶や
    いろいろ春の象徴を
    ぼつりぼつりと拾ってゐた……
      (蕩児高橋亨一が
       しばし無雲の天に往き
       数の綵女とうち笑みて
       ふたたび地上にかへりしに
       この世のをみなみな怪(け)しく
       そのかみ帯びしプラチナと
       ひるの夢とを組みなせし
       鎖もわれにはなにかせんとぞ嘆きける)

育牛部事務所

きのうの最後のところで「石竹いろの動因だった」とありましたが、「佐一もおほかたそれらしかった」とは、森佐一も、賢治の視界の「石竹いろ」に在ったということでしょうか。

「育牛部」とは、小岩井農場の育牛部=写真=のことでしょう。ここから「山地」のほうへ抜けて、牧場の周囲にめぐらせた「放牧柵」を越えていきます。

「水銀」は、銀白色の金属光沢をもち、常温で液状である唯一の金属です。湿気中では表面が酸化されて、暗灰色に変化します。「水銀いろ」とは、こうした水銀特有の光沢のことを言っているのでしょう。

「杖や窪地や水晶や/いろいろ春の象徴を/ぼつりぼつりと拾ってゐた」というのは、光の屈折率の成せる風景なのかもしれません。

戯作か何かをもとにしているのか、カッコのなかは文語調になっています。

「高橋亨一」がどういう人なのか知りませんが、「蕩児」は、正業を忘れて、酒色にふける者。

「綵女」(さいにょ)の「綵」は、彩りの意から転じて彩色豊かな意味となり、それをまとっている女、つまり天女、さらには宮中の侍女のこともいいます。ここでは天女のことを言っているのでしょう。

「をみな」は、若く美しい女性のこと。それが、不審、奇怪だといいます。「プラチナ」すなわち白金は、灰白色の鮮明な光沢を持っています。ここでは「綵女」の装飾品でしょうか。


harutoshura at 10:38|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月26日

「春谷暁臥」⑤ 石竹いろ

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは20行目からです。

ゆふべ凍った斜子(ななこ)の月を
茄子焼山からこゝらへかけて
夜通しぶうぶう鳴らした鳥が
いま一ぴきも翔けてゐず
しづまりかへってゐるところは
やっぱり餌をとるのでなくて
石竹いろの動因だった

石竹

「〔つめたい風はそらで吹き〕」に「銀斜子」という言葉で出て来ましたが、「斜子」は、経糸と緯糸を2本またはそれ以上引きそろえて織ったものをいいます。

岩手山南東の滝沢野に、詩「風林」で「沼森のむかふには/騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」とされる、沼森(標高582メートル)があります。その北西1キロにあるのが「茄子焼山」(標高535メートル)です。

四等三角点で、いまは山頂まで車道が通っています。詩人は「夜通しぶうぶう鳴らした鳥が/いま一ぴきも翔けてゐず/しづまりかへってゐる」のを不思議に思います。

そして、それはなぜかというと「餌をとるのでなくて/石竹いろの動因だった」と結論づけています。

「石竹いろの動因だった」というのは、どういうことなのでしょう?

「石竹いろ」というのは、ナデシコ科の植物セキチクの花=写真、wiki=のような淡い赤色のことをいいます。

セキチクは中国原産種で、花は赤や白やそれらを組み合わせた模様など多種ありますが、色名としては桃色に近い花の色をさします。

一方、先駆形を見ると「いまいっぴきもゐないのは/やっぱりどうも屈折率の関係らしい」となっています。

「動因」というのは、行動を生起させる生理的要求のこと。個体保存のための食物、水、睡眠の要求、種の保存に関わる性の要求などがあげられます。

「鳥が/いま一ぴきも翔けてゐず/しづまりかへってゐる」のが、詩人の視界にある「石竹いろ」を生起しているというのです。それは「屈折率の関係」なのかもしれません。


harutoshura at 18:25|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月25日

「春谷暁臥」④ コバルトガラス

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは16行目からです。

  ……コバルトガラスのかけらやこな!
    あちこちどしゃどしゃ抛げ散らされた
    安山岩の塊と
    あをあを燃える山の岩塩(しほ)……

コバルトガラス

「コバルトガラス」(cobalt glass)は、一般的に酸化コバルトや炭化コバルトを含むコバルト化合物を含有する青色のガラスのことを指します。

500-700nm の範囲に強い吸収を持つため、炎色反応の観察時にナトリウムに由来する589nmの輝線を吸収する光学フィルターとして利用されます。そのきれいな青色から、ガラス工芸や顔料や絵具としても使われます。

最も古い例としては、紀元前2000年ごろの古代メソポタミアで顔料として使われたと考えられるアルミン酸コバルトガラスがあります。約5世紀後にはスマルトとして知られる酸化コバルト顔料がエジプトの陶器の着色に使われ、エーゲ海地域でもすぐに採用されました。

中国の陶磁器では、コバルトガラスが周王朝のころに発見され、スマルト釉薬は唐の時代以降使われるようになっています。15世紀から17世紀のヨーロッパ絵画では、スマルトがふつうに使用されるようになりました。

「安山岩」は、中性火山岩の総称。アンデス山脈に産する粗面岩様火山岩に対して命名されました。安山岩は造山帯での最も普通の火山岩で、おもに大陸の造山帯、特に環太平洋造山帯に多く、大洋地域にはほとんどありません。環太平洋造山帯に属する火山の95%が安山岩といわれます。

「岩塩」は、鉱物として産する塩化ナトリウム。海底が地殻変動のため隆起するなどして海水が陸上に閉じ込められ、あるいは砂漠の塩湖で、水分蒸発により塩分が濃縮し、結晶化したものです。

岩塩は他の岩石より軽いため、地層の圧縮を受け絞り出されるように地層中で岩塩栓あるいは岩塩ダイアピルと呼ばれる盛り上がり構造をつくります。

岩塩の多くは無色または白色に近い淡い色をしていますが、産地や地層によっては青色、桃白色、鮮紅色、紫色、黄色などの様々な色を有します。


harutoshura at 20:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月24日

「春谷暁臥」③ キネオラマ

  「春谷暁臥」のつづき、きょうは10行目からです。

佐一が向ふに中学生の制服で
たぶんしゃっぽも顔へかぶせ
灌木藪をすかして射す
キネオラマ的ひかりのなかに
夜通しあるいたつかれのため
情操青く透明らしい

キネマ

森佐一は、賢治より11歳年下。2人の関係は、1925(大正14)年2月に、森が中学の先輩の賢治に、岩手詩人協会への加入を求める手紙を出したことに始まります。

当時、森は盛岡中学在学中で、『春と修羅』を呼んで「こいつは、たいへんだ、たいへんなもんだ」と大きな衝撃を受けたそうです。

岩手詩人協会がこの年の7月に創刊した機関紙「貌」に、賢治は、「鳥」「過労呪禁」の詩2編を寄稿しています。

冒頭に「酪塩のにほひが帽子いっぱいで/温く小さな暗室をつくり」とありましたが、そうした「しゃっぽも顔へかぶせ」ているのです。

「灌木」(かんぼく)は、低木のこと。高木との差は感覚的なもので、だいたい人間の背の高さより低いものをそう呼んでいます。高木のように樹冠が一定の形をとることは少なく、繁っていくと「藪」(やぶ)をつくることがあります。

「キネオラマ」は、ドイツ語の「Kinema(キネマ)」(映画)と「Panorama(パノラマ)」(全景)の合成語です。

明治・大正期にはやった、パノラマの背景・点景などを色光線の照明によって種々に変化させて見せる巨大ジオラマ風の出し物で、浅草には「三友館」という、キネオラマが目玉の劇場がありました。

ここでは「灌木藪をすかして射す/キネオラマ的ひかり」と、灌木や藪のあいだから射してくる「ひかり」について、「キネオラマ的」という直喩を用いています。

「情操」というのはふつう、自分に対する自負心、家族に対する愛情、他人に対する尊敬や軽蔑など、人が特定の対象に関して持続的にいだく感情的傾向をさします。

「夜通しあるいたつかれ」のある佐一が「情操青く透明らしい」というのですから、「春谷暁臥」という題などからすると、いろんな感情も「透明」化して、春の明けがたの谷でスヤスヤしているということなのでしょう。


harutoshura at 13:45|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月23日

「春谷暁臥」② 睡酸

 「春谷暁臥」のつづき、冒頭から見ていくことにしましょう。

酪塩のにほひが帽子いっぱいで
温く小さな暗室をつくり
谷のかしらの雪をかぶった円錐のなごり
水のやうに枯草(くさ)をわたる風の流れと
まっしろにゆれる朝の烈しい日光から
薄い睡酸を護ってゐる
  ……その雪山の裾かけて
    播き散らされた銅粉と
    あかるく亘る禁慾の天……

もや

チーズか何かの乳製品の甘酸っぱいような「にほひ」がただよう「温く小さな暗室をつく」っている頭の上の「帽子」。それにつづいて「雪をかぶった円錐」が登場します。

「バラ谷の頭」といわれる山もありますが、岩手山の山並みの谷筋に突き出した「雪をかぶった円錐」型の山。それが冒頭の「帽子」と対になっているようです。

『語彙辞典』では「睡酸」について、「典型的な賢治の造語」としたうえで、「あたかも春の谷に立ちこめている靄を、試薬の塩酸や硫酸から立ちのぼる煙との連想からそう呼んだのであろう。睡たげなイメージまで沸いてくる」としています。

さらにこの、谷に立ちこめている靄については、「その雪山の裾かけて/播き散らされた銅粉」と言い換えています。

そして、雪山の谷に霧が「播き散らされ」ている地上の一方に、「禁慾の天」が「あかるく亘」っています。

よく知られているように、賢治は自ら性的な欲求を押さえ込む姿勢を貫いていました。禁欲によって溜め込まれたマグマが、創作のパワーになったとも考えられます。


harutoshura at 14:23|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月22日

「春谷暁臥」① 酪塩

 『春と修羅』第2集、きょうから「三三六 春谷暁臥」です。「1925、5、11」の日付のある52行の作品です。

酪塩のにほひが帽子いっぱいで
温く小さな暗室をつくり
谷のかしらの雪をかぶった円錐のなごり
水のやうに枯草(くさ)をわたる風の流れと
まっしろにゆれる朝の烈しい日光から
薄い睡酸を護ってゐる
  ……その雪山の裾かけて
    播き散らされた銅粉と
    あかるく亘る禁慾の天……
佐一が向ふに中学生の制服で
たぶんしゃっぽも顔へかぶせ
灌木藪をすかして射す
キネオラマ的ひかりのなかに
夜通しあるいたつかれのため
情操青く透明らしい
  ……コバルトガラスのかけらやこな!
    あちこちどしゃどしゃ抛げ散らされた
    安山岩の塊と
    あをあを燃える山の岩塩(しほ)……
ゆふべ凍った斜子(ななこ)の月を
茄子焼山からこゝらへかけて
夜通しぶうぶう鳴らした鳥が
いま一ぴきも翔けてゐず
しづまりかへってゐるところは
やっぱり餌をとるのでなくて
石竹いろの動因だった
  ……佐一もおほかたそれらしかった
    育牛部から山(やま)地へ抜けて
    放牧柵を越えたとき
    水銀いろのひかりのなかで
    杖や窪地や水晶や
    いろいろ春の象徴を
    ぼつりぼつりと拾ってゐた……
      (蕩児高橋亨一が
       しばし無雲の天に往き
       数の綏女とうち笑みて
       ふたたび地上にかへりしに
       この世のをみなみな怪(け)しく
       そのかみ帯びしプラチナと
       ひるの夢とを組みなせし
       鎖もわれにはなにかせんとぞ嘆きける)
    羯阿迦(ぎゃあぎあ) 居る居る鳥が立派に居るぞ
    羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
    羯阿迦 鳥とは青い紐である
    羯阿迦 二十八ポイント五!
    羯阿迦 二十七!
    羯阿迦 二十七!
はじめの方が声もたしかにみじかいのに
二十八ポイント五とはどういふわけだ
帽子をなげて眼をひらけ
もう二厘半だ
つめたい風がながれる

森

この日は、森佐一と小岩井農場から岩手山麓を歩いています。岩手山神社柳沢社務所で仮眠、翌日にはパンをかじって高原を歩いています。

森佐一(森荘已池)(1907-1999」は、旧制盛岡中学出身で賢治と深い親交があり、岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家となりました。賢治に関する文章をたくさん残しています。

「臥」(が)は、ふす、ふせる、横になって寝ること。題の「春谷暁臥」を文字通りにとれば、春の明けがたの谷で横になって寝る、という意になります。

「酪塩」の「酪」は、牛・羊・馬などの乳を発酵させて作った酸味のある飲料のこと。また仏教では、五味の一つとされます。

五味とは、牛乳からヨーグルト,バター,チーズなどを作っていく過程に比したものと考えられ、乳味(にゆうみ)から順に、酪味、生酥(しようそ)味、熟酥味と進んで、至高の醍醐味にいたるとされる呼びかたで、これによって釈尊一代の教説の推移展開を説明することも行われました。

『語彙辞典』では「酪塩」について、かぶっている制帽の内側の汗のにおいがチーズか何かの乳製品の甘酸っぱい臭いを思わせる、そうした感覚連合の造語ではあるまいか、としています。


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2018年08月21日

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊦ かれは

 「〔つめたい風はそらで吹き〕」のつづき、きょうはその後半部を読みます。

  しかもこの風の底の
  しづかな月夜のかれくさは
  みなニッケルのあまるがむで
  あちこち風致よくならぶものは
  ごくうつくしいりんごの木だ
  そんな木立のはるかなはてでは
  ガラスの鳥も軋ってゐる
さはしぎは北のでこぼこの地平線でもなき
わたくしは寒さにがたがたふるへる
  氷雨が降ってゐるのではない
  かしはがかれはを鳴らすのだ

カシワ

「あまるがむ」、すなわちアマルガムは、水銀と他の金属との合金の総称。語源は、ギリシア語の málagma (軟膏) といわれています。

広義では、混合物一般を指す。水銀は他の金属との合金をつくりやすい性質があり、カドミウム、鉛など常温で液体になる合金もたくさんあります。

金、銀、銅もある程度溶けますが、ここに出て来る「ニッケル」や鉄など高融点金属は、実際にはアマルガムを作りません。

水銀の多いアマルガムは軟らかく、銅像などに軟らかい金アマルガムを塗って加熱し、水銀を蒸発させると金メッキになります。

銀ースズのアマルガムは歯科用充填材に、鉛、スズ、ビスマスのアマルガムは鏡面製作に用いられています。

「ニッケル」は、銀白色で、研削性、展性、延性に富み、合金材やメッキによく用いられますが、その金属光沢を月光の反射にたとえています。

賢治は、光るもの、透明なものに好んでガラスを用いています。「りんごの木」の「木立のはるかなはてで」は、銀白色に反射する月光を受けて、すれ合うような高周波の声を上げる「鳥」が見られます。

柏餅に用いられるように大きな「かしは」の葉。カシワは落葉樹ですが、秋に葉が枯れても翌年の春に新芽が芽吹くまで葉が落ちることはありません。そのため、冬の防風林にも用いられます。

「わたくし」が「寒さ」を感じるのは、「かしはがかれはを鳴らす」せいでもあるのです。


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2018年08月20日

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊥ 銀斜子

 「〔つめたい風はそらで吹き〕」のつづき、きょうは前半部分をもう一度ながめてみます。

つめたい風はそらで吹き
黒黒そよぐ松の針

ここはくらかけ山の凄まじい谷の下で
雪ものぞけば
銀斜子の月も凍って
さはしぎどもがつめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる

なな

「斜子」(ななこ)=写真=は、彫金技法の一つ。魚々子、魚子とも書きます。金属の表面に、魚卵状の小さな粒が一面に並んだように突起させたもので、地文に用いられます。

切っ先の刃が小円となった鏨(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい粟粒をまいたように金属の粒子を突起させます。中国から伝播したと考えられますが、『正倉院文書』に「魚々子打工」とあり、奈良時代にはすでに専門工がいたようです。

金属粒子が「銀」の場合が「銀斜子」。ここでは「銀斜子の月も凍って」と、月の比喩として用いられています。

「さはしぎ」は、シギ科の鳥の一種。一般に頸、脚、翼が長く、尾は比較的短い。嘴は通常細長くてまっすぐで、上方にそったり、下方に湾曲したり、へら状になったものもあります。

海辺に渡来生息するイソシギに対して、「さはしぎ」は山間の渓流近くの樹林や湿地に生息します。

シギは、夏羽は赤褐色や黒色になるものもありますが、冬羽はたいてい褐色や灰色などで地味。北半球北部のツンドラや草原で繁殖し、繁殖を終えると長距離の渡りをして冬は熱帯や南半球で過ごします。日本でも、春と秋の渡りの途中に渡来します。

そんな「さわしぎ」が、「くらかけ山の凄まじい谷の下」で「つめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる」といいます。


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2018年08月19日

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊤ くらかけ山

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三三五」の番号がふられた作品を読みます。「1925、5、10」の日付があります。

つめたい風はそらで吹き
黒黒そよぐ松の針

ここはくらかけ山の凄まじい谷の下で
雪ものぞけば
銀斜子の月も凍って
さはしぎどもがつめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる
  しかもこの風の底の
  しづかな月夜のかれくさは
  みなニッケルのあまるがむで
  あちこち風致よくならぶものは
  ごくうつくしいりんごの木だ
  そんな木立のはるかなはてでは
  ガラスの鳥も軋ってゐる
さはしぎは北のでこぼこの地平線でもなき
わたくしは寒さにがたがたふるへる
  氷雨が降ってゐるのではない
  かしはがかれはを鳴らすのだ

くらかけ山

「くらかけ山」というのは、岩手山の南東部にそびえる鞍掛山=写真=のこと。標高897メートル。岩手山南東部の裾野にコブ状に盛り上がる山で、馬の背に鞍をかけたように見えるのでこう呼ばれています。

山頂からは雄大な岩手山が望むことができます。小岩井農場方面からは東岩手山の手前に見え、登山コースの途中で広大な同農場を見渡すこともできます。

賢治は、5月7日に生徒を引率して小岩井農場を見学したあと、4日後の11日にも森佐一と小岩井農場から岩手山ろくを歩いています。

「くらかけ山」というと、私も大好きな、賢治の有名な詩が思い出されます。

  くらかけ山の雪 

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならないので
まことにあんな酵母〔かうぼ〕のふうの
朧〔おぼ〕ろなふぶきではありますが
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです

 「三三五」は、こうした「くらかけ山の凄まじい谷の下」を舞台に展開されていきます。


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2018年08月18日

「遠足統率」⑦ 牧羊犬

 「遠足統率」のつづき、きょうは最後の11行です。

あゝやって来たやっぱりひとり
まあご随意といふ方らしい
あ誰だ
電線へ石投げたのは
    くらい羊舎のなかからは
    顔ぢゅう針のささったやうな
    巨きな犬がうなってくるし
    井戸では紺の滑車が軋り
    蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る
     (イーハトーヴの死火山よ
      その水いろとかゞやく銀との襞ををさめよ)

牧羊犬

自分の意見を聞き入れない相手に対して、「どうぞご随意に」のかたちで、今後どのようになっても関知しないという気持ちを込めて言います。「まあご随意といふ方」というのは、そんなふうに思いのままのふるまいをする人を想定しているのでしょう。

「羊舎のなかからは/顔ぢゅう針のささったやうな/巨きな犬がうなってくる」というのは、牧羊犬でしょうか。

放牧している羊の群れの誘導や見張り、さらには盗難やオオカミなどの捕食動物からの被害を防ぐように訓練されたワーキングドッグです。
もとは見張りの役割が主で、強い大型犬種が選ばれましたが、安全管理技術が向上するにつれて、散らばる羊の群れを誘導するとき活発に動けるように、機敏な中型・小型犬が用いられるようになっていきました。

「蜜蜂」は、2組の平らで薄い膜状の翅を持っていて、それらは多くの翅脈で補強されている。前側の翅は後側の翅より大きく、それぞれの側の2枚の翅はファスナーで繋がれたような構造をしています。

羽が平板のような状態のまま、羽ばたいても飛翔力は生じません。飛ぶためには、プロペラのようなひねりを入れて高速で動かす羽ばたきが必要になります。これが「蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る」ということになるのでしょう。

ちなみに「蜜蜂」のオスは女王バチと交尾するため、晴天の日を選んで外に飛び立ちます。オスバチは空中を集団で飛行し、その群れの中へ女王蜂が飛び込んで、空中で交尾します。

「犬がうなって」「滑車が軋り」、蜜蜂が「ぐゎんぐゎん鳴る」と、なかなかに騒がしい農場にあって、賢治は「イーハトーヴの死火山」に向かって、「水いろとかゞやく銀との襞」をきちんと自分のなかにしまって入れろと命じています。


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2018年08月17日

「遠足統率」⑥ つゝどり

 「遠足統率」のつづき、きょうは、28行目からです。

えゝもうけしきはいゝとこですが
冬に空気が乾くので
健康地ではないさうです
中学校の寄宿舎へ
ここから三人来てゐましたが
こどものときの肺炎で
みな演説をしませんでした
    七つ森ではつゝどりどもが
    いまごろ寝ぼけた機関銃
    こんどは一ぴき鶯が
    青い折線のグラフをつくる

ツツドリ

西高東低の冬の気圧配置では、シベリア気団から流れ込んだ湿った冷たい空気によって日本海側は雪を降らせますが、太平洋側は乾燥した空気が流れ込みやすく、空気は乾燥します。

雪が降った後の水分の抜けた冷たい空気だけが、山を越えて太平洋側に吹き付けるので、太平洋側は乾燥して冷たい北風となるのです。

冬になると、風邪やインフルエンザ、さらには「肺炎」が流行するのも、空気の乾燥が大きく影響しているようです。

「肺炎」は、種々の病原体の感染により、肺の炎症を起こす病気。風邪やインフルエンザなどの後に起こる二次性細菌性肺炎が多く、発熱、呼吸器症状、胸痛、頻脈などを伴います。

「中学校の寄宿舎へ/ここから三人来てゐましたが/こどものときの肺炎で/みな演説をしませんでした」というのは、賢治の中学生のときに印象に残った記憶なのでしょう。

「七つ森」は、雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森。生森(おおもり)、石倉森、鉢森、三角(みかど)森、見立森(みてのもり)、勘十郎森、稗糠(ひえぬか)森という、高さ300メートル前後の7つの独立丘陵から成っています。 

「つゝどり」=写真、wiki=すなわち筒鳥は、全長30センチ余りのホトトギス科の鳥。体上面と胸は青灰色で、腹は黒と白の横縞、カッコウに似ていますが、体上面がやや暗色で、下面の黒い横縞がより太いのが特徴です。

アジア東部で繁殖し、日本には4月下旬ごろに渡来し、北海道から九州まで各地で繁殖します。

よく茂った森林にすみ、地鳴きやメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえますが、繁殖期のオスは「ポポ、ポポ、ポポ」と繰り返し鳴きます。この鳴き声を「いまごろ寝ぼけた機関銃」と表現しているのでしょう。

他のカッコウ科の鳥類と同じように自分で卵や雛の世話をせず、森林内で繁殖するウグイス科の鳥類に托卵します。

「鶯」(ウグイス)は、雌雄とも上面は緑褐色(いわゆる鶯色)で、下面は汚白色ですが、枝から枝へと気持ちよく飛びうつったのか、「一ぴき鶯が/青い折線のグラフをつくる」と言っています。


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2018年08月16日

「遠足統率」⑤ 聯隊

 「遠足統率」のつづき、きょうは、4文字下げた24行目からの4行です。

    鶯がないて
    花樹はときいろの焔をあげ
    から松の一聯隊は
    青く荒んではるかに消える

ウグイス

「鶯」(ウグイス)=写真、wiki=の地鳴きは「チャッチャッ」。また縄張りを見張っているオスのさえずりが「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」とされます。

「ホーホケキョ」は他の鳥に対する縄張り宣言でメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもあり、「ケキョケキョケキョ」は侵入者や外敵への威嚇であるともいわれています。

「花樹」は、美しい花の咲く樹木、花を観賞する木、花木(かぼく)。

「ときいろ」は、鴇(とき)の風切羽のような黄みがかった淡く優しい桃色のことです。「朱鷺色」と記されたり、「鴇羽色(ときはいろ)」と呼ばれたりもしました。染色は、紅花や蘇芳により染められていたようです。

「聯隊(連隊)」は、大隊をいくつか集めて編制する戦術単位の部隊。3~4個連隊で、独立した作戦実施能力をもつ戦略単位として1師団となります。

旧日本陸軍では、3~4個大隊、兵員1500~2500からなり、ふつうは大佐が指揮していました。また、平時の兵員徴集とその駐屯基地は、連隊規模で構成されていました。

きのうのところで、「秣畑」に「のしのしとやってきて/大演習をした」という、連隊の上位に位置する「旅団」が出てきましたが、2~3個連隊で戦術単位で最大の1旅団をつくることもありました。

「から松」の群落を、ここではざっくり「一聯隊」という規模でとらえて、「青く荒(すさ)んではるかに消える」と端的に言ってのけています。


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2018年08月15日

「遠足統率」④ 騎兵

 「遠足統率」のつづき、きょうは、18行目からです。

いつかも騎兵の斥候が
秣畑をあるいたので
誰かがちょっととがめたら
その次の日か一旅団
もうのしのしとやってきて
大演習をしたさうです

秋山

「騎兵」は、馬に乗って戦う兵士。機関銃や速射砲が登場するまで、古来、主力部隊である歩兵の脆弱となる側面を守るなど、大きな役割を果してきました。

日本では明治維新前後から、富国強兵の政策のもと近代的な騎兵隊の創設に着手しました。明治初期に日本陸軍が創設されるとヨーロッパ種が輸入されて軍馬の改良や日本馬の育成も行われるようになりました。

「斥候」(せっこう)は、地上戦闘の際に敵情や地形などを偵察、あるいはひそかに監視するため、本隊から派遣される単独兵または小人数の部隊のことをいいます。

「秣」(まぐさ、まくさ)は、牛や馬の飼料とする草。飼葉のこと。古代、「秣」には馬や牛に与える飼料やそれらを与えて飼育することの意味も含まれていました。『延喜式』の左右馬寮式には、秣料として米や大豆を毎年貢進させていたことなどが記されています。

化学肥料が普及する前の農業では、馬や牛の糞尿は貴重な肥料で「秣」はそれを生み出すものとしても重要だったため、農村では「秣」を確保することが重要で、「秣畑」(まぐさばた)や秣田も設けられました。

そんな、農民にとっては極めて大切な「秣畑」を「騎兵の斥候」が歩いていたのので、それをとがめたら「一旅団/もうのしのしとやってきて/大演習をした」というのですから、大変です。

「旅団」は、師団と連隊の中間に位置し、戦術単位としては最大の部隊のこと。戦時には2~3個連隊で編制することが多く、兵員数や担当する区分は、そのときの戦況や各国の事情によって異なりますが、旧日本陸軍では、5000~7000の兵員を少将が指揮することになっていたようです。

類することがあったとしても相当に誇張された表現のように思われますが、兵士の育成を目標に行われる、数千人規模の「大演習」が行われたというのです。


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2018年08月14日

「遠足統率」③ 死火山

  「遠足統率」のつづき、きょうは、8行目からです。

前にはいちいち案内もだし
博物館もありましたし
ひじゃうに待遇したもんですが
まい年どしどし押しかける
みんなはまるで無表情
向ふにしてもたまらんですな
    せいせいと東北東の風がふいて
    イーハトーヴの死火山は
    斧劈の皺を示してかすみ
    禾草がいちめんぎらぎらひかる

七時雨山

小岩井農場では、1903(明治36)年に本部事務所を建設。翌1904年には、農場の経営が拡大して農場員の子弟も増え続けていったのに応じるため、私立小岩井尋常小学校が設立されています。

1907年には、英国からサラブレット種馬を輸入するようになり、賢治が盛岡中学に入学した1909年には、陳列館が開館しています。「博物館もありました」というのは、この陳列館のことを言っているのでしょう。

できたころの小岩井農場は、新鮮で物珍しく「まい年どしどし押しかける」ようになったのでしょうが、地元の人たちにもすっかりお馴染みになって珍しくなくなり、「みんなはまるで無表情」というふうになったのでしょうか。

よく知られているように、賢治は「ドリームランドとしての日本陸中国岩手県」を“イーハトーブ”と称しています。では、そんな「イーハトーヴの死火山」とは、どの山を言っているのでしょう。

火山は以前、現在活動を続けている活火山、現在は活動していないが歴史時代に活動した記録が残っている休火山、それに歴史時代の活動の記録がない死火山の三つに分類されていました。

小岩井農場の近くの「死火山」といえば、たとえば岩手県の北西部に位置する七時雨山(ななしぐれやま)=写真、wiki=が考えられます。約110万〜90万年前に活動した七時雨火山を構成する溶岩ドームで、南峰(1063m)と北峰(1060m)の二つのピークがあります。

「斧劈の皺」は、斧劈皴(ふへきしゅん)のこと。東洋の山水画で山、岩石、土坡など立体感を表現するために用いられる皴法の一つで、鋭い側筆で、斧で割ったように峻厳な山肌や岩面を表します。

「禾草」(かそう)は、イネ、コムギ、オオムギ、カラスムギ、ライムギ、キビ、アワ、ヒエ、トウモロコシなどイネ科に属する植物のことです。


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2018年08月13日

「遠足統率」② ドロ

 「遠足統率」のつづき、きょうは、次の冒頭の7行をやや詳しく見ていきます。

もうご自由に
ゆっくりごらんくださいと
大ていそんなところです
    そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
    かがやかに日を分劃し
    わづかに風にゆれながら
    ぶつぶつ硫黄の粒を噴く

ドロノキ

 先駆形の一つの冒頭は次のようになっています。

挨拶をしに本部へ行って
書記が出て来もしないのに
芽を出した芝の上だの
調馬所の囲ひのなかを
かう生徒らがかけ歩いては
だいいちかんじゃうもんだいになる
約十分間分れだなんて
あんまり早く少尉がやってしまったもんで
ところがやつは膝の上までゲートルをはき
水筒などを肩から釣って
けろんとそらをながめてゐる

小岩井農場が開設されたのは、この詩が作られた34年前の1891(明治24)年のこと。明治から昭和初期にかけて馬の生産も手掛け、一部は軍馬として利用されていました。

そうした関係の「調馬所の囲ひのなか」で、「約十分間」自由にしていいと、「あんまり早く」生徒たちに「少尉が」いってしまったので、引率した賢治にとっては心穏やかでないものがあったのでしょう。

それを、詳しいいきさつを省いて「もうご自由に/ゆっくりごらんくださいと/大ていそんなところです」と表現したのでしょう。

「白楊(ドロ)」=写真、wiki=すなわちドロノキは、ヤナギ科の落葉高木。日本では北海道から中部地方かけてに分布し、葉は10センチほどの広楕円形で、周囲に鋸歯、裏は光沢があって白っぽいのが特徴です。

際立った陽樹で、光合成の効率が良い葉は老化も早く、夏の終わりには落葉を始めます。種子にはヤナギの仲間と同じように綿毛があり、風や水を利用して散布されます。

「ゆあわ(湯泡)」が転じて名づけられたともいわれる「硫黄」。黄色の樹脂光沢のあるもろい結晶で、空気中で熱すると青白い炎を出して燃え、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)となります。いろいろな金属と化合して硫化物をつくり、火薬、マッチ、医薬品の原料などに用いられています。

火山が多い日本では、火口付近に露出する硫黄を露天掘りで簡単に採掘できるので、古くから硫黄の生産が行われました。とくに明治・大正期、純度の高い国産硫黄は、主要輸出品目ともなったマッチの材料として大いに用いられ、各地の鉱山開発に拍車が掛けられました。

「巨きな白楊(ドロ)が」「ぶつぶつ硫黄の粒を噴く」というのは、日光の散乱する様子の比喩でしょうか。それとも、白楊の綿毛をそんなふうに表現しているのでしょうか。


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2018年08月12日

「遠足統率」① 小岩井農場

 『春と修羅』第2集、きょうから「三三三 遠足統率」に入ります。「1925、5、7」の日付がある、49行の作品です。

もうご自由に
ゆっくりごらんくださいと
大ていそんなところです
    そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
    かがやかに日を分劃し
    わづかに風にゆれながら
    ぶつぶつ硫黄の粒を噴く
前にはいちいち案内もだし
博物館もありましたし
ひじゃうに待遇したもんですが
まい年どしどし押しかける
みんなはまるで無表情
向ふにしてもたまらんですな
    せいせいと東北東の風がふいて
    イーハトーヴの死火山は
    斧劈の皺を示してかすみ
    禾草がいちめんぎらぎらひかる
いつかも騎兵の斥候が
秣畑をあるいたので
誰かがちょっととがめたら
その次の日か一旅団
もうのしのしとやってきて
大演習をしたさうです
    鶯がないて
    花樹はときいろの焔をあげ
    から松の一聯隊は
    青く荒んではるかに消える
えゝもうけしきはいゝとこですが
冬に空気が乾くので
健康地ではないさうです
中学校の寄宿舎へ
ここから三人来てゐましたが
こどものときの肺炎で
みな演説をしませんでした
    七つ森ではつゝどりどもが
    いまごろ寝ぼけた機関銃
    こんどは一ぴき鶯が
    青い折線のグラフをつくる
あゝやって来たやっぱりひとり
まあご随意といふ方らしい
あ誰だ
電線へ石投げたのは
    くらい羊舎のなかからは
    顔ぢゅう針のささったやうな
    巨きな犬がうなってくるし
    井戸では紺の滑車が軋り
    蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る
     (イーハトーヴの死火山よ
      その水いろとかゞやく銀との襞ををさめよ)

小岩井

賢治は、この作品の日付にあたる、1925年5月7日、農学校の生徒たちを引率して、小岩井農場=写真、wiki=を見学しています。

小岩井農場は、盛岡の北西約12kmに位置し、岩手山南麓に約3,000ヘクタールの敷地面積を有します。現在は、そのうち約40ヘクタールが観光エリア“まきば園”として開放され、岩手県の代表的観光地となっています。300頭ほどの羊が放牧され、カフェでのんびり羊の放牧を眺めることもできます。

小岩井農場は、鉄道の東北本線が延びて盛岡駅が開業した翌年の1891(明治24)年、日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の3人が共同創始者となり、3人の姓の頭文字をとって「小岩井」と名づけられたのに始まります。

当時、この一帯は、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地で、極度に痩せた酸性土壌であったそうです。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林など基盤整備に数十年を要することになります。

1899(明治32)年、三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となり、畜産を軸とした経営を進めていきます。海外から輸入した優良種畜をもとに牛・馬等の種畜の生産供給(ブリーダー)事業を開始、酪農事業にも取組んで、日本の乳用種牛の改良と乳業事業の発展に貢献していきます。

また、戦前は育馬事業も行われ、三冠馬・セントライトなど多くの名競走馬を輩出しました。


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2018年08月11日

「清明どきの駅長」④ 碍子

 「清明どきの駅長」のつづき、きょうは、最後の7行です。

また紺青の地平線から
六列展く電柱列に
碍子がごろごろ鳴りますと
汽車は触媒の白金を噴いて
線路に沿った黄いろな草地のカーペットを
ぶすぶす青く焼き込みながら
なかを走ってくるのです

碍子

「紺青」(こんじょう)とは、鉄のシアノ錯体に過剰量の鉄イオンを加えることで、濃青色の沈殿として得られる顔料で、紫色を帯びた暗い青色のこと。

「展く」(ひらく)は、畳んであるもの、綴じてあるものなどを広げる。近代化の象徴ともいえる電信柱が並び立つ風景が、花巻にも拡がっていく新鮮さが伝わってきます。

「碍子」(がいし)は、電線を送電塔、電柱などの支持物と絶縁するために用いられる器具。絶縁性がよく、材質が安定していて強く、原料が豊富で安価な磁器製品が多用されています。

こうした碍子が、風か何かで「ごろごろ鳴」るように感じられるのでしょうか。

「白金」は、古くから知られる銀白色の貴金属で、単体では白い光沢(銀色)を持つ金属として存在します。化学的に非常に安定であるため、装飾品に多く利用され、触媒としても自動車の排気ガスの浄化をはじめ多方面で使用されています。

ここはで「汽車」の煙を喩えて、「触媒の白金」と言っているのでしょう。

「黄いろな草地のカーペット」というのは、タンポポ畑かそれに類するものでしょうか。

そんな中を「汽車」が、「ぶすぶす青く焼き込みながら/なかを走ってくる」というのは、なんとも臨場感のある表現です。


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2018年08月10日

「清明どきの駅長」③ ロヂウム

 きょうは「清明どきの駅長」の5行目からです。

線路の砂利から紅い煉瓦のラムプ小屋から
いぢけて矮(ひく)い防雪林の杉並あたり
かげろふがもうたゞぎらぎらと湧きまして
沼気や酸を洗ふのです
  ……手袋はやぶけ
    肺臓はロヂウムから代填される……

 ロジウム

「防雪林」は、吹雪や雪崩などによる被害を防ぐために、鉄道の線路や道路などに沿って設けられる林のこと。ここに出てくる「杉」をはじめ、ヒノキ、カラマツなどが植えられます。

日本の防雪林第1号は1893年、当時の日本鉄道が東北本線の水沢駅・小湊駅間の38カ所に延べ50ヘクタールにわたって植林したもの。野辺地駅周辺に残るものは1960年に鉄道記念物に指定されたそうです。

「防雪林の杉並」は「いぢけて矮い」といっています。このときの賢治の目には、寒さや恐ろしさのためにちぢこまって元気がなく、おどおどしているようで、短くて背丈が低く頼りなげに映ったのでしょう。

「沼気」(しょうき)は、沼や湿地から出るメタンガスを主とする天然ガス。土中の有機物が腐敗、発酵したときに発生します。

メタンは、無色・無臭の可燃性の気体で、天然ガスや石油分解ガスに多量に含まれ、炭坑内にも発生して爆発の原因ともなります。

あまり頼りにできそうもない「防雪林の杉並あたり」で、活発な動きをしているのは「かげろふ」で、「もうたゞぎらぎらと湧きまして/沼気や酸を洗」っているのです。

「ロヂウム」すなわちロジウム=写真、wiki=は、貴金属にも分類される銀白色の金属。1804年に、イギリスのウォラストンが白金鉱の中から新しい金属元素を見つけましたが、その塩類の多くがバラ色をしていることから、ギリシア語のバラ色rodeosにちなんでロジウムと命名しました。

酸に対してはきわめて抵抗力が大きく、酸素に対しては比較的弱い。すなわち塊状のものはどんな酸にも溶けません。が、酸化力の強い熱濃硫酸や塩素酸ナトリウムを含む熱濃塩酸には溶けます。

常温では酸化されませんが、強熱するとしだいに酸化され、酸化ロジウムになり、さらに強熱すると分解して酸素を放出します。白金の硬化元素として使われるほか、各種触媒、熱電対などに使われます。

「肺臓はロヂウムから代填される」といっているのは、こうした化学的性質を表現しているのではなく、ロジウムの輝きや色から、朝のすがすがしい空気の喩えとして用いているようです。『語彙辞典』では「朝方の駅長の深く吸い込む空気の詩的把握であろう」としています。


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2018年08月09日

「清明どきの駅長」② ひば

 きょうは「清明どきの駅長」の冒頭4行を見ていきます。

こごりになった古いひばだの
盛りあがった松ばやしだの
いちどにさあっと青くかはる
かういふ清明どきはです

アスナロ

冒頭で、「清明どき」に関する賢治のイメージが表示されています。「こごり」は、凍って固まること、あるいは、そうなったものをいいます。

賢治の「圃道」という作品に、次のような一節があります。

霧が巨きな塊(こゞり)になつて
太陽面を流れてゐる
さつき川から炎のやうにあがつてゐた
あのすさまじい湯氣のあとだ

また、「こごり」は、煮こごりを指す場合もあります。煮こごりは、魚の皮や骨にあるタンパク質(コラーゲン)が、煮汁に溶出してできたゼラチンのゼリーをさします。コラーゲンは水とともに加熱するとゼラチンに変化し、冷えると固まるのです。このため、煮魚を冬など放置しておくと煮汁が固まります。

中国には古くから、ヒツジの背肉や内臓などを煮つめた羊(ヤンカオ)という健康増進の料理があります。2000年以上むかしから用いていた記録があるとか。

「ひば」=写真、wiki=は、日本特産のヒノキ科の常緑高木で、アスナロのこと。下北半島から九州までの亜高山帯に自生し、しばしば大群落の天然林をつくります。

高さ30m、幹の直径60cmにもなり、樹皮は暗赤褐色で縦に長く裂けてはげます。葉は鱗片状で長さ3.5cm、幅2cm内外。枝の下面の葉には白色の著しい気孔群があり、側葉は舟形で先は内側へ曲ります。

材には香気があり、緻密で水湿に耐えるので土木用材、橋梁材、建築材などに使われます。また、材に含まれるアスナロンには殺菌性があり、ポマードや歯磨きに混ぜて使われています。

「清明どき」というのは、こうした「古いひば」とか「盛りあがった松ばやし」が「いちどにさあっと青くかはる」時節だというのです。


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2018年08月08日

「清明どきの駅長」① 清浄明潔

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三二七 清明どきの駅長」に入ります。「1925、4、21」の日付が付いた17行の詩です。

こごりになった古いひばだの
盛りあがった松ばやしだの
いちどにさあっと青くかはる
かういふ清明どきはです
線路の砂利から紅い煉瓦のラムプ小屋から
いぢけて矮(ひく)い防雪林の杉並あたり
かげろふがもうたゞぎらぎらと湧きまして
沼気や酸を洗ふのです
  ……手袋はやぶけ
    肺臓はロヂウムから代填される……
また紺青の地平線から
六列展く電柱列に
碍子がごろごろ鳴りますと
汽車は触媒の白金を噴いて
線路に沿った黄いろな草地のカーペットを
ぶすぶす青く焼き込みながら
なかを走ってくるのです

芽

「清明」は、1年を太陽の動きに合わせて24の気に分けた二十四節気の一つ。太陰太陽暦の3月節 (3月前半) のことで、太陽の黄経が 15°に達した日 (太陽暦の4月5日か6日) にはじまり、黄経 30°の穀雨 (4月 20日か 21日) の前日までの約 15日間にあたります。

江戸時代の『暦便覧』という本では「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也」とされているそうです。空気は澄み、陽光は明るく万物を照らし、すべてがはっきり鮮やかに見えるという、この清浄明潔を略したのが清明のようです。

現行暦ではこの期間の第1日目をいいます。むかし中国ではこれをさらに5日を一候とする三候に区分しました。すなわち、桐の花が咲きはじめ(桐始華)、もぐら (田鼠) が家鳩 に化け(田鼠化為鴽)、虹が見えはじめる時期(虹始見)です。

賢治の農学校は4月5日に入学式が行われています。「清明」は、新入生を迎えて、教師としてすがすがしい気持ちで新学期を迎える時期でもはずですが、4月13日付の、樺太真岡郡清水村逢坂王子事業所内、杉山芳松への返書には、次のように記されています。

「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです」。

農学校で迎える最後の「清明」と腹に決めていたのでしょうか。


harutoshura at 04:11|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月07日

「〔風が吹き風が吹き〕」㊦ レンズ

 「〔風が吹き風が吹き〕」のつづき、きょうは最後の5行です。

  東は青い銅のけむりと
  いちれつひかる雪の乱弾
吹き吹き西の風が吹き
レンズ! ヂーワン! グレープショット!
はんの雄花はこんどはしばらく振子になる

レンズ

「レンズ」には、少なくとも一方の面が外側に凸で、縁よりも中央部が厚い凸レンズ、逆に、少なくとも一面が凹で、中央部が縁よりも薄い凹レンズがあります。

また、1枚のレンズだけで使うときは単レンズ、いろいろな収差を除くために何個かのレンズを組み合わせてあるものを組み合わせレンズといい、望遠鏡、顕微鏡、カメラ、分光器など、たいていの光学系では組み合わせレンズが使われています。

材料は、通常はガラスですが、特殊な目的には石英、蛍石、フッ化マグネシウム、プラスチック、食塩なども用いられます。ときには反射鏡を組み合わせたものもレンズと呼ばれることがあります。

「ヂーワン」というと、現在では、競馬、競輪、競艇、オートレースなどのレース格付けに使われる「グレード・ワン」や「グループ・ワン」の省略形の「G1」が思い出されます。が、賢治がここで何のことを言っているのか、私にはわかりません。大砲とか、銃とか、戦闘機とかの規格をいっているのでしょうか?

「グレープショット」は、ぶどう弾(Grapeshot)のことでしょう。子弾を詰め込んで砲撃とともに飛散する射程距離の短い砲弾で、ヨーロッパで16世紀から19世紀にかけて用いられました。

帆布製の袋へ子弾を9発詰め込むのが普通で、名前は小弾が詰まっている様がブドウに似ていることに由来します。主に海戦での近接射撃に使用され、19世紀半ばにライフル砲が普及すると次第に時代遅れとなっていきました。

『語彙辞典』では、「レンズ! ヂーワン! グレープショット!」について、「いっせいに風が吹きつのり自然と風景の変化するさまをいくさにたとえたイメージの一つ」としています。

「花をどるをどる」だった「はんの木」は、風が変化したためか「雄花はこんどはしばらく振子になる」というところで、詩はエンドを迎えています。


harutoshura at 02:28|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月06日

「〔風が吹き風が吹き〕」㊥ 青い鉛筆

 「〔風が吹き風が吹き〕」のつづき、きょうは8行目から見ていきます。

吹き吹き西の風が吹き
青い鉛筆にも風が吹き
かへりみられず棄てられた
頌歌訳詞のその憤懣にも風が吹き
はんの木の花をどるをどる
     (塩をたくさんたべ
      水をたくさん呑み
      塩をたくさんたべ
      水をたくさん呑み)

真崎鉛筆

「鉛筆」が日本への渡来は、オランダ人が徳川家康に献上したものが最初といわれ、これは静岡県久能山東照宮の宝物として現在でも保存されているそうです。

1880(明治13)年には、ドイツから本格的に輸入されるようになりました。1886年には真崎仁六(にろく)が、東京の四谷内藤町に鉛筆工場を設け、国産鉛筆製造に乗り出しました。

1901年には、逓信省(現在の日本郵政グループ)が真崎鉛筆(現在の三菱鉛筆)を採用したのを機に、全国に鉛筆が供給されるようになりました。

1920年までに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活に深く浸透するようになっていきます。ここで「青い鉛筆」というのは、真崎鉛筆でしょうか?

第一次世界大戦中の1915年ごろから輸出が本格化し、日本の主要輸出品の1つになった。ただし質が悪く、大戦終了後に輸出は激減する。

「頌歌」とは、古代ギリシアやローマで栄え、ルネサンス以降、それを模して作られた一定の詩形の、神の栄光をほめたたえる歌、または、同種の詩につけられたカンタータ風の声楽曲のことをいいます。

仏教で仏や人の功徳を礼讃する歌も頌歌といえるのでしょうが、きのう見た「猫の眼をした神学士にも風が吹き」といったフレーズからすると、西洋の頌歌と、それを訳したもののことなのでしょう。

「頌歌訳詞」というのが、具体的に何を意味しているのか分かりませんが、それは「かへりみられず棄てられた」ものであり、「その憤懣」つまり、いきどおりもだえ腹が立っていらいらすること「にも風が吹」くと言っています。 


harutoshura at 15:37|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月05日

「〔風が吹き風が吹き〕」㊤ はんの木の房

 『春と修羅』第2集、きょうから「三二六」の番号がふられた21行の作品です。「1925、4、20」の日付があります。

風が吹き風が吹き
残りの雪にも風が吹き
猫の眼をした神学士にも風が吹き
吹き吹き西の風が吹き
はんの木の房踊る踊る
偏光! 斜方錐! トランペット!
はんの木の花ゆれるゆれる
吹き吹き西の風が吹き
青い鉛筆にも風が吹き
かへりみられず棄てられた
頌歌訳詞のその憤懣にも風が吹き
はんの木の花をどるをどる
     (塩をたくさんたべ
      水をたくさん呑み
      塩をたくさんたべ
      水をたくさん呑み)
  東は青い銅のけむりと
  いちれつひかる雪の乱弾
吹き吹き西の風が吹き
レンズ! ヂーワン! グレープショット!
はんの雄花はこんどはしばらく振子になる

ハンノキ

「神学士」は、カトリック教会やプロテスタントなどキリスト教の諸教派、イスラム教などの神学の教育機関である神学校や大学で学んで、修得する学位。

いまと違って「学士」は非常に少ない時代ですから、「猫の眼をした神学士」というのは、めったにはいない偉い人なのでしょう。

「はんの木」は、ハリノキとも呼ばれるカバノキ科の落葉高木。日本全土、東アジアの湿気のある山野にはえます。

2〜3月、枝先に暗紫褐色の雄花が多数尾状にたれ下がり、雌花が枝の下部につきます=写真。これが、踊っている「はんの木の房」なのでしょう。果実は楕円形で10〜11月に褐色に熟します。

光は波の性質も持っていますが、その振動方向の分布が一様ではなく、つねに一定の平面に限られているケースを「偏光」といいます。

振動方向が一直線上に限られる直線偏光、円や楕円を描く円・楕円偏光などがあります。自然光は反射すると偏光になるので、ここでは光の反射のことを言っているのかもしれません。

「はんの木」の花房が、斜めに揺れる様子を、「斜方錘」や「トランペット」に喩えています。

底面が正方形の四角錐、いわゆる「ピラミッド型」を方錐(ほうすい)といいますが、傾いて斜めになった方錐を「斜方錘」といいます。


harutoshura at 15:45|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月04日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」⑥ 鷺

 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」のつづき、きょうは最後の6行です。

お堂の前の広場には
梢の影がつめたく落ちて
あちこちなまめく日射しの奥に
粘板岩の石碑もくらく
鷺もすだけば
こどものボールもひかってとぶ

サギ

この作品は、「五本の巨杉が/まばゆい春の空気の海に/もくもくもくもく盛りあが」っている地蔵堂の前にある広場の描写で幕を閉じます。

「粘板岩」というのは、スレートとも呼ばれ、泥岩や頁岩が弱い変成作用を受けて発達した片理に沿って、板状に薄く割れやすい性質をもつ泥質の岩石。

一般に暗灰色から黒色で、凝灰質のものでは赤紫色や緑色を呈します。中・古生層の泥質岩に多く、北上山地では最も多い岩石です。

石質は緻密で硬く、湿気を吸収することが少ないため、薄板として採石しやすい性質があります。また、割れた表面に凹凸が少ないため、ここに出てきた「石碑」をはじめ、屋根瓦、石盤、硯、敷石などに利用されています。

「鷺」(サギ)=写真、wiki=は、全長 30~150センチで、ふつう頸と脚が長く、とがった長い嘴をもっています。羽色は白、灰、青、赤褐色などのものが多く、おもに海岸、河川、湖沼など水辺にすんで、魚、貝、小動物、昆虫類などを食べます。

アオサギ、ゴイサギ、シラサギなどはマツ林やタケ林で何種かがいっしょに集団繁殖し、サギ山として知られていいるところもあります。巣は見晴らしの良い高木性の樹の上に設けられ、コロニーを形成します。天敵からの攻撃を防ぐために、河川敷などのほか寺社林に形成することもあります。

「すだけ」の「すだく」(集く)には、群れをなして集まる、集まってにぎやかに鳴く、といった意味があります。

「梢の影」や、くらい「石碑」。そんな中から、「鷺」が「すだけ」て、「こどものボールもひかってとぶ」。ここでいっているのは、野球の「ボール」でしょうか。生きるものたちの快活な動きで締めくくられています。


harutoshura at 15:39|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月03日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」⑤ 半眼

 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」のつづき、きょうは31行目からです。

いまやまさしく地蔵堂の正面なので
二本の幹の間には
きゅうくつさうな九級ばかりの石段と
褪せた鳥居がきちんと嵌まり
樹にはいっぱいの雀の声
   ……青唐獅子のばけものどもは
     緑いろした気海の島と身を観じ
     そのたくさんの港湾を
     雀の発動機船に貸して
     ひたすら出離をねがふとすれば
     お地蔵さまはお堂のなかで
     半眼ふかく座ってゐる……

半眼

「九級」の「級」は、階段の一つ一つの段を数えるのにも用いられます。

「青唐獅子のばけものども」というのは、前に「地蔵堂の五本の巨杉が/まばゆい春の空気の海に/もくもくもくもく盛りあがるのは/古い怪け性の青唐獅子の一族が/ここで誰かの呪文を食って/仏法守護を命ぜられたといふかたち」といっていた「古い怪け性の青唐獅子」なのでしょう。

「気海」とは、地球を包む空気の広がりを海にたとえていう言葉。

中国最古の類語・語釈辞典『爾雅(じが)』によれば、中国の九州の外に四極、そのほかに四荒、さらにその外に四海がひろがっていて、四海は九夷、八狄、七戎、六蛮など野蛮人の住地であるとされます。

中国語の「海hǎi」と「晦huì」の音声が似ていることから、海は文明の光のとどかない「晦(くら)い」ところと意識されていたようです。また、中国医学では、人間のからだに髄海、血海、水穀の海、それに「気海」の四海を想定し、十二経水がこれら四海に注ぐと考えられていました。

内燃機関を動力とする「発動機船」。「そのうちに発動機船(ポンポン)は、父(とっ)さんの身体からだを海に投込んでウチ達の舟を曳いたまま、どこかへ行ってしもうた」(夢野久作『爆弾太平記』)といった使用法もあります。

「気海」「のたくさんの港湾」を、上の例では「ポンポン」と形容されているような「雀の発動機船」に譲ったという、楽しげな表現になっています。

仏像の眼差しはたいてい、見開くでもなく閉じてもいない「半眼」の状態です。これは、半分は外界、半分は己の内側を見つめているのだともいわれています。


harutoshura at 15:27|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月02日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」④ 卓内先生

 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」のつづき。きょうは21行目からです。

またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか
   ……樹は天頂の巻雲を
     悠々として通行する……

suzuki2

*http://www.sekiou-ob.com/kensyou/27kensyorugby/top.html から

「国士」は、国家のために身命をなげうって尽くす人物、憂国の士、その国で特にすぐれた人物などをいいます。

そんな「国士卓内先生」、「鈴木卓内先生」というのは、実在の人物としては、鈴木卓苗先生=写真=にあたるようです。

鈴木卓苗(たくみょう)は、1879(明治12)年岩手県稗貫郡湯口村(現花巻市中根子字古舘)の延命寺に生まれました。

16歳で如法寺(曹洞宗)の養子となり、第二高等学校から東京帝国大学哲学科へと進み、学生時代も参禅三昧、曹洞宗の内地留学もしたといいます。

東大卒業後、仙台の私立曹洞宗第二中学校や新潟県の新発田中学校で教諭。その後、新潟県の村上中学校、佐渡中学校、高田中学校などで校長を勤めていきます。高田中学在任中には、率先して、全校生による「妙高登山」を始めるなどしたそうです。

1926(大正15)年には、岩手中学校校長に。人格者として生徒からも慕われたそうです。その後は、広島県の呉第一中学校校長など西日本中心に校長を歴任し、昭和15(1940)年に定年退官。1943(昭和18)年に亡くなっています。

賢治は、「地蔵堂の五本の巨杉」の「青ぐろい巨きなもの」について、「国士卓内先生も/この木を木だとおもったらうか」と問いかけます。

「洋服を着ても和服を着ても/それが法衣に見えるといふ」というのには、仏法に深く帰依した人格者であるこの校長先生の姿が彷彿とされます。


harutoshura at 12:42|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年08月01日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」③ 寛

 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」のつづき、きょうは9行目からです。

地蔵堂のこっちに続き
さくらもしだれの柳も匝(めぐ)る
風にひなびた天台寺(でら)は
悧発で純な三年生の寛の家
寛がいまより小さなとき
鉛いろした障子だの
鐘のかたちの飾り窓
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを
はっきり樹だとおもったらうか
   ……樹は中ぞらの巻雲を
     二本ならんで航行する……

天台寺

「匝」は、めぐる、周囲をまわる、取り巻くという意味。「さくらもしだれの柳も」境内を取り巻いているのです。

岩手県二戸市に「天台寺」=写真=という有名な天台宗のお寺があります。行基が開山、円仁再興と伝えられ、10世紀には成立していたと考えられています。

本尊の木造聖観音立像・木造十一面観音立像のほか、平安仏11体があるなど、最北の仏教文化の中心地であったとみられます。ただ、文脈からすれば、この天台寺ではなく、地蔵堂のある延命寺のことのように思われます。

「三年生の寛」というのは、1922年4月に花巻農学校に入学した桜羽場寛と考えられています。賢治が初めて迎えた新入生だった「悧発で純な」彼への思い入れは、ひときわ強いものがあったのかもしれません。

地蔵堂には次のような説明があります。

〈「地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が まばゆい春の空気の海に……」で始まる詩が「春と修羅・第2集」にあるが、その地蔵堂である。

 詩の中に出てくる教え子「寛」(桜羽場)、及びその叔父鈴木卓内(苗)の生家。賢治は度々ここを訪れていた。

 境内には50近い石碑があり、中でも「桜崋山延命寺地蔵尊碑」は正保2年(1645)の建立で、その名の示す通り、古くからの桜の名所でもある。

 今も大きな「子持杉」が2本あり、「延命子安地蔵尊」は子孫繁栄と安産を念ずる人びとがよく訪れる。〉


harutoshura at 14:09|PermalinkComments(0)宮澤賢治