2018年07月

2018年07月31日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」② 唐獅子

 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」のつづき。きのう見た「地蔵堂の五本の巨杉」が、想像の翼に乗っかって、思わぬ世界へと私たちを連れていってくれます。

地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪け性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
   ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
     そらをひっかく鉄の箒め!……

唐獅子
*「唐獅子図屏風(部分)」狩野山楽筆 京都・本法寺蔵

「唐獅子」は、中国伝来の獅子。ライオンを基に東アジアで形象化され、幻想的な形状で表されます。美術・工芸の素材として昔から用いられ、特に牡丹ぼたんと組み合わせた図柄が好まれました。

獅子(ライオン)を「猪(しし)」や「鹿(しし・かのあし)」などと区別して唐獅子と呼ぶこともありました。

しかし、中国伝来の幻想動物としての唐獅子は、頭側部両側や頸部、尾を火焰状に渦巻く多量の毛で覆い、胴体、四肢に数個の文様を散らした特異な形状容姿で伝わっています。

こうしたかたちを最初に日本にもたらしたのは9世紀渡来の密教両界曼荼羅図のようです。

「地蔵堂の五本の巨杉」が「もくもくもくもく盛りあがる」姿を、「古い怪け性の青唐獅子の一族が/ここで誰かの呪文を食って/仏法守護を命ぜられたといふかたち」とたとえて言ってのける。

こんな芸当ができるのは、賢治をおいてほかにはないでしょう。

「仏法守護」とは文字通り、仏の説いた教え、仏の悟った真理を守ること。梵天や帝釈天、さらには須弥山の四方を護る四天王、金剛力士、八部衆、十二神将、二十八部衆、八大竜王、鬼神ともいわれる阿修羅や鬼子母神、十羅刹女などなど、さまざまな仏法の守護神たちのように々「古い怪け性の青唐獅子の一族」も「仏法守護を命ぜられた」というのです。

「花椰菜」(はなやさい)は、カリフラワーの別名。キャベツの1変種で、花蕾(からい)が発育しなくなり、花柄が肥大してしかも白化したものをいいます。ローマ時代にはカリフラワーの祖先ともいうべきものが栽培され、珍重され、これから現在のカリフラワーが生じたものと考えられています。

ヨーロッパでは18世紀ころから重要な野菜となり、とくにデンマークで品種改良が進みました。日本へは明治初年に渡来し、三田育種場の『舶来穀菜要覧』には、花椰菜、はなはぼたん、英名カウリフラワー7品種が載っているそうです。

採種が困難なため普及しなかったようで、消費が増大したのは食生活が欧米化した、戦後の1955(昭和30)年ころからのようですが、進取の気性に富んだ賢治はすでに「地獄のまっ黒けの花椰菜め」とまで言ってのけていたわけです。


harutoshura at 00:39|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月30日

「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」① 地蔵堂

 きょうから「五二〇」の番号の付いた48行の作品です。「1925、4、18」の日付がついています。

地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪け性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
   ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
     そらをひっかく鉄の箒め!……
地蔵堂のこっちに続き
さくらもしだれの柳も匝(めぐ)る
風にひなびた天台寺(でら)は
悧発で純な三年生の寛の家
寛がいまより小さなとき
鉛いろした障子だの
鐘のかたちの飾り窓
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを
はっきり樹だとおもったらうか
   ……樹は中ぞらの巻雲を
     二本ならんで航行する……
またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか
   ……樹は天頂の巻雲を
     悠々として通行する……
いまやまさしく地蔵堂の正面なので
二本の幹の間には
きゅうくつさうな九級ばかりの石段と
褪せた鳥居がきちんと嵌まり
樹にはいっぱいの雀の声
   ……青唐獅子のばけものどもは
     緑いろした気海の島と身を観じ
     そのたくさんの港湾を
     雀の発動機船に貸して
     ひたすら出離をねがふとすれば
     お地蔵さまはお堂のなかで
     半眼ふかく座ってゐる……
お堂の前の広場には
梢の影がつめたく落ちて
あちこちなまめく日射しの奥に
粘板岩の石碑もくらく
鷺もすだけば
こどものボールもひかってとぶ

じぞう

きのうまで見た4月12日の日付の「春」のあと、13日には、卒業生である、樺太の王子事業所内杉山芳松への返書で、現在の教師生活を生ぬるく思い「来春はやめて本統の百姓になります」として、農民演劇運動をやりたいという意思を示しています。

作品の冒頭に出て来る「地蔵堂」は、花巻市滝ノ沢の桜華山延命寺境内にある地蔵堂=写真=と考えられています。

延命寺は市街地から1キロほど離れた志戸平温泉に向かう沿道にあり、“根子の地蔵さん”と呼ばれて親しまれています。境内には、この詩の前半部が刻まれた詩碑が建立されています。

お寺の説明書きによれば、ここに出てくる「巨杉」というのは、天平元年(729年)6月23日に延命地蔵菩薩と護世天(毘沙門天)ともう一柱の神が信者の前に顕れて、子孫の繁盛と安産を守ろうと誓い、杉の杖3本を土にさしておいたのが、根が出来、枝葉が茂って、巨きな杉に育ったものだとされます。


harutoshura at 13:01|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月29日

「春」㊦ 桑のはたけ

 きょうは「春」の後半部分の8行を見ていきます。

こんがらかった遠くの桑のはたけでは
煙の青い lento もながれ
崖の上ではこどもの凧の尾もひかる
   ……ひばりの声の遠いのは
     そいつがみんな
     かげろふの行く高いところで啼くためだ……
ぎゅっぎゅっぎゅっぎゅっはぎしりをして
ひとは林にはひって行く

桑畑

「桑」は、絹糸を生産するカイコの食草として重要な植物です。カイコの飼育時期は春、夏、秋などの季節があり、カイコの大きさによっても食べ方が違うので、葉の収穫の方法もいろいろにくふうされました。

葉だけを摘むのは労力がかかるので、葉のついた枝ごと切りとる條桑収穫が広く行われ、若い柔らかい葉が必要な稚蚕用には枝先の新梢を摘む全芽収穫がされます。

『岩手県史』によると、岩手の養蚕は政府の殖産計画の一つとして1872(明治5)年に導入され、1876年以降11の郡に広まり、1888~1897年には1万5000戸の農家で養蚕が行われていたそうです。その後も養蚕は増え続け、賢治の時代も「桑のはたけ」は農家にとって非常に重要な存在だったはずです。

東北地方で養蚕守護神として、また豊作祈願、災難除けの神として信仰されている「おしらさま」の神体は桑の木が多いとか。

「lento」(レント)は、イタリア語で、ゆるやかに、遅くの意味。音楽用語として、かなり遅いテンポを表します。ここでは「煙の青い lento」と、音楽用語を借りて、煙の「ながれ」のかなり遅いテンポを表現しています。

「凧」は、平安時代以前に中国から伝わり、江戸時代には正月の子供遊びとして流行するようになりました。3月、5月の節供や盆に揚げるところもあります。本来は、子供の成長を祝い、将来の多幸を祈って誕生祝いなどにも揚げたそうです。

節供がらみの凧でしょうか。「崖の上」では、そんな「こどもの凧の尾」も光っています。

「ひばり」は、上空を長いあいだ停空飛翔したり、草や石の上などに止まりながらさえずります。繁殖期がはじまるとオスがさえずりながら高く上がって行く「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動がよく知られています。

そうした「ひばりの声の遠いのは/そいつがみんな/かげろふの行く高いところで啼くためだ」と賢治らしい理屈を繰り出しています。

「紺の麻着た肩はゞひろいわかもの」たちでしょうか、「ぎゅっぎゅっぎゅっぎゅっはぎしりをして/ひとは林にはひって行」きます。


harutoshura at 17:03|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月28日

「春」㊥ 通商国

 「春」のつづき、を読んでいきます。

烈しいかげろふの波のなかを、
紺の麻着た肩はゞひろいわかものが
何かゆっくりはぎしりをして行きすぎる、
どこかの愉快な通商国へ
挨拶をしに出掛けるとでもいふ風だ
   ……あをあを燃える山の雪……
かれくさもゆれ笹もゆれ

笹

歯と歯をすり合わせたり、歯を強くかみ合わせて音を立てる「はぎしり」。一般に日中に歯ぎしりすることは少なく、たいていは寝ているときです。

①ギリギリと音を発する歯ぎしり(グラインディング)②断続的なくいしばり(クレンチング)③反復しておこる上下の歯の異常接触(タッピング)の3種類に分類されるそうです。

きのう見た「紺の麻着た肩はゞひろいわかものが/何かゆっくり」やっているのは、あえて言うなら②のクレンチングでしょうか。何か、緊張していることによる歯ぎしりのように思われます。

「通商」は、外国と商取引をすること、交易、貿易のことですが、江戸時代の鎖国体制下で関係を保っていた4ヵ国のうち、正式な国交がなく、通商関係だけだったオランダと清を通商国と呼んでいました。

もしも「紺の麻着た肩はゞひろいわかもの」「ドリームランドとしての日本陸中国岩手県」たるイーハトヴの人たちだとすれば、「挨拶をしに出掛ける」という「愉快な通商国」とは、どんな国でしょうか。想像がふくらみます。


harutoshura at 17:05|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月27日

「春」① かげろふの波

 『春と修羅』第2集、きょうから「五一九 春」です。15行の短い作品で、「1925、4、12」の日付があります。

烈しいかげろふの波のなかを、
紺の麻着た肩はゞひろいわかものが
何かゆっくりはぎしりをして行きすぎる、
どこかの愉快な通商国へ
挨拶をしに出掛けるとでもいふ風だ
   ……あをあを燃える山の雪……
かれくさもゆれ笹もゆれ
こんがらかった遠くの桑のはたけでは
煙の青い lento もながれ
崖の上ではこどもの凧の尾もひかる
   ……ひばりの声の遠いのは
     そいつがみんな
     かげろふの行く高いところで啼くためだ……
ぎゅっぎゅっぎゅっぎゅっはぎしりをして
ひとは林にはひって行く

nami

4月12日の森佐一あて書簡に、次のようにあります。

「暗くおそろしい春の虚像がぼくをとり、あらゆる企画はみんな無効を示します。そしてまたそのことが何といふしづかな慰めでせう。雲が風よりも濃く水は雲よりも稠密なつめたい四月のひるまです。準平原の雪が消えたら外山へ行きませう」。

「かげろふ」は、春、晴れた日に砂浜や野原に見える色のないゆらめきのことをいいます。大気や地面が熱せられて空気密度が不均一になり、それを通過する光が不規則に屈折するために見られる現象。

蜉蝣に通じさせて、はかないもののたとえに用いられます。「烈しいかげろふの波」というのも、激しくはかない波という意味でしょうか。

「麻」は、熱帯、温帯に広く栽培されているクワ科の一年草。草丈は 3メートルにも及び、稜があって茎の断面は四角形。長い葉柄のある掌状複葉で、小葉は3~11枚、あらい鋸歯があり裏面に細かい毛が密生します。茎から繊維をとり、昔から麻糸、また織って布として使われています。

原産地は中央アジア、あるいは旧ソ連南部あたり。エジプトでは前 5000年ごろすでにあったといわれ、日本では、登呂遺跡など弥生時代の遺跡などから発見され、その後も重要な衣料として用いられています。


harutoshura at 15:44|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月26日

「朝餐」④ あさひの蜜

 「朝餐」のつづき、きょうは最後の6行です。

こんなのをこそ speisen とし云ふべきだ
   ……雲はまばゆく奔騰し
     野原の遠くで雷が鳴る……
林のバルサムの匂を呑み
あたらしいあさひの蜜にすかして
わたくしはこの終りの白い大の字を食ふ

太陽表面

「speisen」は、食事をする、食べる、食事を与える、給食する、供給する、といった意味をもつドイツ語です。

きのう見た、「白い小麦のこのパンケーキ」すなわち小麦のせんべいを、「競馬の馬がはうれん草を食ふやうに/アメリカ人がアスパラガスを喰ふやうに/すきとほった風といっしょにむさぼりたべる」。「こんなのをこそ speisen とし云ふべきだ」といいます。

なぜ、ここでドイツ語なのかはよくわかりませんが、弾む気持ちが伝わってきます。

「バルサム」は、植物体から自然にまたは傷をつけると分泌するやに。

精油に天然樹脂が溶けるか混合した、流動性あるいは粘々感のある液体で、地名や樹種名を冠してカナダバルサム、トルーバルサム、ペルーバルサムなどと呼ばれます。

水蒸気蒸留などによって、精油と樹脂を分離し、レンズの接合剤、香油、香膏などの用途に向けられます。

爆発現象である太陽フレアやプロミネンス(紅炎)などギラギラした太陽表面=写真、wiki=は、まさに「あさひの蜜」という感じがします。

そして「わたくし」も、「白い大の字」すなわち、「大きいといふ広告なのか」「あの人の名を大蔵とでも云ふの」かは知りませんが、「点の括り字で「大」といふ字を鋳出してある」麦せんべいを口に運びます。


harutoshura at 11:31|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月25日

「朝餐」③ パンケーキ

 「朝餐」のつづき、きょうは14行目からです。

白銅一つごくていねいに受けとって
がさがさこれを数へてゐたら
赤髪のこどもがそばから一枚くれといふ
人は腹ではくつくつわらひ
顔はしかめてやぶけたやつを見附けてやった
林は西のつめたい風の朝
頭の上にも曲った松がにょきにょき立って
白い小麦のこのパンケーキのおいしさよ
競馬の馬がはうれん草を食ふやうに
アメリカ人がアスパラガスを喰ふやうに
すきとほった風といっしょにむさぼりたべる

パンケーキ

「白銅」は、銅に20%までのニッケルを加えた固溶体合金。銅にニッケルを加えていくと、銅赤色が消えてやがて銀白色の合金になるのでこの名があります。現在発行されている100円、50円など、硬貨の材料としてよく用いられます。

この作品が作られたころには、「10銭」や「5銭」の白銅貨幣が使われていました。「10銭」は直径22ミリで、1920〜1932年に6億6050万枚を発行。「5銭」は直径19でこの期間に、4億3200万枚が発行されています。

語彙辞典には「白い小麦のこのパンケーキのおいしさよ」について、「麦のせんべいを賢治らしくしゃれて言ったもの」とあります。

「パンケーキ」=写真=は、小麦粉に牛乳、卵、バター、砂糖などを加えて、鉄板上で円形に焼いたケーキ。その代表に厚めのホットケーキがあげられます。

日本では明治30年代初頭に雑誌で紹介されたのがホットケーキの最初といわれ、1914(大正3)年に東京・上野で、現在のホットケーキに似たどら焼きが誕生したとされます。

小麦のせんべいを「競馬の馬がはうれん草を食ふやうに/アメリカ人がアスパラガスを喰ふやうに」食べると、こちらも新鮮でしゃれた比喩を用いています。

「アスパラガス」は、南ヨーロッパ原産で、ヨーロッパでは紀元前から食用に栽培されていました。地下の根茎から毎春高さ1メートルほどの茎を出します。若い茎は太くて軟らかいので食用にされます。

日本へは18世紀にオランダから渡来し、当時は観賞用として庭園に植えられました。明治初期にアメリカやフランスから再移入されて食用として栽培されるようになり、1923(大正12)年ごろから北海道で、缶詰用に軟白したホワイトアスパラガスの栽培が盛んになりました。

農村の「パンケーキ」、麦のせんべいを、みんな「すきとほった風といっしょにむさぼりたべる」のです。


harutoshura at 19:21|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月24日

「朝餐」② 焼いてくらす

 「朝餐」のつづき。作品の前半は、せんべいについての散文的な記述になっています。

苔に座ってたべてると
麦粉と塩でこしらへた
このまっ白な鋳物の盤の
何と立派でおいしいことよ
裏にはみんな曲った松を浮き出して、
表は点の括り字で「大」といふ字を鋳出してある
この大の字はこのせんべいが大きいといふ広告なのか
あの人の名を大蔵とでも云ふのだらうか
さうでなければどこかで買った古型だらう
たしかびっこをひいてゐた
発破で足をけがしたために
生れた村の入口で
せんべいなどを焼いてくらすといふこともある

焼き煎餅

「せんべい」に近い、一口大程度に平たく潰し焼いた穀物製の餅は、吉野ヶ里遺跡や登呂遺跡の住居跡からも、出土しているそうです。

現在のせんべいの一番古い物は、日光街道の宿場町だった草加宿で団子屋を営んでいた「おせん」という老婆が、侍に「団子を平らにして焼いたらどうか」と言われて始めたのだとか。

草加の農家では、蒸した米をつぶして丸め、干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていました、が、宿場町として発展していくと旅人向けの商品として各地に広まっていったそうです。

この作品の先駆形には「はたけのひまな日あの百姓がじぶんでいちいち焼いたのだ」とあります。お百姓さんが農作業の合間に「麦粉と塩で」焼いているのです。

せんべいはふつう、米や麦を粉状にして、粉を蒸したあと練って、粗熱がとれるまで水で冷やします。冷めたら、生地をうすくのばします。

そして、のばした生地の型を抜いて、せんべいの形を作り、乾燥させます。生地の中までしっかり乾燥するまで、かなりの時間がかかります。

水分が完全に抜けたら、生地を網にのせて焼きます。こんがりと焼き上がったら、味付け。最後にもう一度乾燥させてできあがりです。

お百姓さんが焼いたのは、「立派でおいし」いせんべいだったようです。そのせんべいは「裏にはみんな曲った松を浮き出して、/表は点の括り字で「大」といふ字を鋳出してある」と描写されます。

そして詩人は「この大の字はこのせんべいが大きいといふ広告なのか/あの人の名を大蔵とでも云ふのだらうか/さうでなければどこかで買った古型だらう」と思いをめぐらせます。


harutoshura at 19:41|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月23日

「朝餐」① 麦せんべい

 きょうから「五一五 朝餐」という30行の詩に入ります。「1925、4、5」の日付があります。この日は、花巻農学校の入学式が行われています。

苔に座ってたべてると
麦粉と塩でこしらへた
このまっ白な鋳物の盤の
何と立派でおいしいことよ
裏にはみんな曲った松を浮き出して、
表は点の括り字で「大」といふ字を鋳出してある
この大の字はこのせんべいが大きいといふ広告なのか
あの人の名を大蔵とでも云ふのだらうか
さうでなければどこかで買った古型だらう
たしかびっこをひいてゐた
発破で足をけがしたために
生れた村の入口で
せんべいなどを焼いてくらすといふこともある
白銅一つごくていねいに受けとって
がさがさこれを数へてゐたら
赤髪のこどもがそばから一枚くれといふ
人は腹ではくつくつわらひ
顔はしかめてやぶけたやつを見附けてやった
林は西のつめたい風の朝
頭の上にも曲った松がにょきにょき立って
白い小麦のこのパンケーキのおいしさよ
競馬の馬がはうれん草を食ふやうに
アメリカ人がアスパラガスを喰ふやうに
すきとほった風といっしょにむさぼりたべる
こんなのをこそ speisen とし云ふべきだ
   ……雲はまばゆく奔騰し
     野原の遠くで雷が鳴る……
林のバルサムの匂を呑み
あたらしいあさひの蜜にすかして
わたくしはこの終りの白い大の字を食ふ

南部せんべい

「餐」(さん)とは、飲み食いすること、食事、ごちそう。会合などでのあらたまった夕食は、よく晩餐、正餐などと呼ばれますが、最近は「朝餐」という呼び方は聞きません。

あさめし、朝食のことを、ここではあえて「朝餐」と呼んでいます。先駆形では「心象スケツチ朝餐」となっています。

「苔」は、木(こ)毛の意。蘚苔類、地衣類、緑藻など、古木、湿地、岩石などにへばりつくように生えます。ここでは、古木か大きな石にでも生えた苔の上に腰を下ろして「朝餐」を「たべてる」のです。

「麦粉と塩でこしらへ/このまっ白な鋳物の盤の/何と立派でおいしいことよ」とは、麦のせんべいのことでしょう。もともと八戸藩で作られた非常食で、小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作る南部煎餅=写真、wiki=が岩手県では有名です。

南部煎餅は、明治、大正期には、東北や北海道で広く食べられていましたが、当時はここに出てくるように、「麦粉」に「塩」を加えて丸く焼くだけのシンプルなものだったそうです。


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2018年07月22日

「〔はつれて軋る手袋と〕」⑥ 蝗

 「〔はつれて軋る手袋と〕」のつづき、きょうは最後の8行です。

      (わたくしのつくった蝗を見てください)
      (なるほどそれは
       ロッキー蝗といふふうですね
       チョークでへりを隈どった
       黒の模様がおもしろい
       それは一疋だけ見本ですね)
おゝ月の座の雲の銀
巨きな喪服のやうにも見える

ロッキートビバッタ

「蝗」は、「バッタ」あるいは「イナゴ」。バッタ類は、世界で8科約5000種が知られ、とくに熱帯・亜熱帯地方は種類が多く、日本にはこのうち2科約50種が分布しています。 

おもに草原をすみかとしていて、全体に生息環境の色に合わせた体色をもちながら、後翅にはでな色彩を隠しもっているものもいます。

イナゴは、日本に生息するもっとも普通のバッタ類で、イネの害虫として知られます。体長は雌20~40ミリ、雄17~33ミリほどで、全体にイネ科の植物によく似た色をしています。

1年に1回発生して、成虫は夏から秋にかけて現れ、秋ごろ地中やイネ科植物の根際に産卵します。卵のまま越冬して、5~6月に孵化、6~7回脱皮し、7~9月に成虫になります。

成虫、幼虫ともイネ科植物の葉や茎を食べ、ウンカやニカメイガなどとともにイネの大害虫となります。被害地域では栽培ができなくなるため、住民の間に食糧不足や飢饉をもたらすことが多く、1950年代に殺虫効果の強力な農薬が出現するまで農家に莫大な被害を出しました。

「ロッキー蝗」とは、ロッキートビバッタ (Melanoplus spretus)=写真、wiki=が念頭に置かれているのでしょう。19世紀末まで、アメリカ合衆国の西半分全域と、カナダ西部の一部に生息し、大規模な蝗害を起こしたことで知られています。

このバッタは暖かく乾いた砂地を好んで産卵します。成虫になると、アメリカ北部中央に流れているジェット気流を利用して大規模な移動を開始。

群れの大きさは昆虫の中では最大規模で、その面積はカリフォルニア州全域よりも大きくなることもあり、群れの大きさは少なくとも12兆5000億匹、総重量2750万トンともいわれています。

ロッキートビバッタが最後に大規模な群れを作ったのは1873年から1877年にかけてのことで、この時にはコロラド州、ネブラスカ州を始めとする地域で2億ドルの農被害をもたらしたそうです。

「わたくしのつくった蝗を見てください/なるほどそれは/ロッキー蝗といふふうですね」といった対話が生まれるように、「蝗」は当時の農家では、自分たちの生活を左右する、大きな意味合いを持つ動物だったわけです。

「月の座」というと、連歌・連句で、一巻(ひとまき)のうち、月の句を詠むように定められたところ(月の定座)が思い浮かびますが、ここでは、星座のように、天球上に占める月の見かけの位置のことを「月の座」といい、月光にかかったまぶしい「雲」のかたまりが「巨きな喪服のやうにも見える」といっているのでしょう。


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2018年07月21日

「〔はつれて軋る手袋と〕」⑤ 三郎沼

 きょうも「〔はつれて軋る手袋と〕」のつづき、後半の30行目からです。

あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
   ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
   ……霰か氷雨を含むらしい
     黒く珂質の雲の下
     三郎沼の岸からかけて
     夜なかの巨きな林檎の樹に
     しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……

三郎堤

「好意や戒め」が「安易である」からと「ことさら嘲けり払ったあと」に残ったのは、「乱れる憤りと/病ひに」移り変わるのに困って疲れはてるばからだといいます。何らかの精神疾患でも絡んでいるのでしょうか。

「氷雨」はもともと、暖候期に降る固体降水である「霰」(あられ)や雹(ひょう)をさしていました。現在は寒候期に降る冷たい雨をいうことが多い。雨に雪が混じってみぞれになったり、雨滴が氷点に近くて雨氷現象がおきたりする。

「珂」は、玉の名前で、白瑪瑙(めのう)のことをいいます。瑪瑙は本質的には水晶で、火山岩中に生じた空洞内にできます。空洞の形に応じて発達していくために断面が縞状をなし、石英がコロイド状に集った白色部分や、赤鉄鉱などによる赤褐色部分など、宝玉細工や装飾目的の材料として利用されます。

白い部分の瑪瑙が白瑪瑙、すなわち珂ということになります。白瑪瑙は、心が洗われるような輝きを放つ石です。

「三郎沼」は、三郎堤=写真=のこと。岩手軽便鉄道(現JR釜石線)の小山田駅近くにある三つの溜池です。平安時代に奥州藤原一族泉三郎忠衡により整備された堤ともいわれています。

「夜なかの巨きな林檎の樹」で、「磁製の鳥」が「しきりに鳴きか」っているという、なかなか絵になる光景です。


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2018年07月20日

「〔はつれて軋る手袋と〕」④ 黄色い芝

 「〔はつれて軋る手袋と〕」のつづき、きょうは17行目からです。

丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらへあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
     かなしいあの眼に象って……

黄色い芝

「芝」は、春の立ち上がりの時節、茎や葉の成長が先行して、根は成長が遅れがちになるため、根からの栄養吸収が追いつかずに栄養バランスが崩れて黄化現象が起こることがあります。

また、「芝」は、水不足で土壌に水分が無いと栄養を根から吸収することができず、栄養バランスが崩れて黄化したり、日照不足や鉄不足が原因となることも多いようです。

理由はともかく、「こゝ」では「黄いろな芝がぼんやり敷いて」いて、「笹がすこうし」さやさやと音を立てています。

さやぐきり

「さやぐ」は、草木の葉などが、さやさやと音を立てること。万葉集に「葦辺(あしべ)なる荻(をぎ)の葉さやぎ」とあります。

そして詩人は、「ねむたい空気の」また「ひそかな空気の」沼を感じています。

「正方体」という呼びかたは、あまり聞きません。正方形の三次元版という意味合いで単純に考えれば、立方体のことを言っているのでしょう。中国語圏では、立方体のことをよく正方体と呼んでいるようです。

「板やわづかの漆喰から/正方体にこしらへあげて」というのが何を言っているのか、よくわかりませんが、板きれに、少しばかりの「漆喰」による塗壁仕上でこしらえた、小さな家か小屋なのでしょうか。

そんなところで「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」。そんな慎ましやかな「やさしいことを/卑しむこともなかったのだ」と悟りのものいいをしています。

そして、きのうも見た「……眼に象って/かなしいあの眼に象って……」のリフレインが続きます。


harutoshura at 16:48|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月19日

「〔はつれて軋る手袋と〕」③ 松山

 「〔はつれて軋る手袋と〕」のつづき、きょうは9行目からです。

北で一つの松山が
重く澱んだ夜なかの雲に
肩から上をどんより消され
黒い地平の遠くでは
何か玻璃器を軋らすやうに
鳥がたくさん啼いてゐる
   ……眼に象って
     泪をたゝへた眼に象って……

アカマツ

「松山」として日本に広く分布するものとしては、アカマツ=写真=やクロマツが考えられます。中でも北海道南部から屋久島まで全国に広く分布するアカマツについては、岩手県が日本一の産地。

たとえば久慈地域では、森林の約3分の1をアカマツが占め、樹から自然に種が落ちることでつくられた「天然下種更新」によるアカマツ天然林が多いことも特徴です。

マツの樹形は一般に、モミやトウヒに比べると、より環境の影響を受けやすく不定形です。

苗木のうちはきれいなクリスマスツリー状の円錐形ですが、大きくなるにつれて先端は鈍く丸まり、広葉樹のような外観になるものもたくさんあります。高山に生育する種では、上に伸びず匍匐状に横に広がるものも知られています。

こうした「松山」を人間に見立てて、「重く澱んだ夜なかの雲に/肩から上をどんより消され」ているといいます。

「玻璃(はり)器」は、ガラスのうつわのこと。大正時代にはガラスの国内自給が可能になり、生活のなかに入り込んでいきました。

ガラスが軋(きし)むような音をあげて「鳥がたくさん啼いてゐ」るといいます。

前に「……眼に象って/かなしいその眼に象って……」とありましたが、「かなしいその眼」を「泪をたゝへた眼」に変えてリフレインされています。


harutoshura at 13:02|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月18日

「〔はつれて軋る手袋と〕」② 春のキメラ

 きょうは「〔はつれて軋る手袋と〕」の3行目からです。 

県道(みち)のよごれた凍(し)み雪が
西につゞいて氷河に見え
畳んでくらい丘丘を
春のキメラがしづかに翔ける
   ……眼に象って
     かなしいその眼に象って……

氷河

馬車交通の発展しなかった日本では、明治初期に、徒歩の時代から鉄道の時代へと突入していきます。政府は鉄道中心の陸上交通政策をとりましたが、自動車保有台数が20万台となった1938年にも、舗装率は国道16%、「県道」(府道も含む)は、2.6%という状態でした。

童話「雪渡り」では、「堅雪かんこ、凍み雪しんこ」と繰り返されます。「凍み雪」は「堅雪」と同じように、表面が溶けてから再凍結して堅くなった雪のことをいいます。

降雪量が融雪量を上回る地域では、残雪が万年雪となり、さらに圧縮されて空気を通さない氷になります。氷は自重によって、低い方へ徐々に流れ出ます。この流動する氷塊が「氷河」です。

「県道」の凍ってかたまったよごれ雪が、西のほうにずっと続いて「氷河」に見えます。

遺伝子の異なる細胞を一つの体にあわせもっている生物のことを「キメラ」といいます。ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を持ったギリシャ神話に登場する怪獣に由来します。

「春のキメラ」を文字通りにとれば、遺伝子の異なる細胞がまざりあった「春」ということになります。そんな「春」が静かに翔(か)けていきます。その姿は「かなしいその眼」に表れているというのです。


harutoshura at 16:38|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月17日

「〔はつれて軋る手袋と〕」① 月の鉛

 賢治の『春と修羅』第2集。きょうから「五一一」の付いた48行の作品です。きのうまで読んだ「発電所」などと同じ「1925、4、2」の日付があります。

   ……はつれて軋る手袋と
     盲ひ凍えた月の鉛……
県道(みち)のよごれた凍(し)み雪が
西につゞいて氷河に見え
畳んでくらい丘丘を
春のキメラがしづかに翔ける
   ……眼に象って
     かなしいその眼に象って……
北で一つの松山が
重く澱んだ夜なかの雲に
肩から上をどんより消され
黒い地平の遠くでは
何か玻璃器を軋らすやうに
鳥がたくさん啼いてゐる
   ……眼に象って
     泪をたゝへた眼に象って……
丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらへあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
     かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
   ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
   ……霰か氷雨を含むらしい
     黒く珂質の雲の下
     三郎沼の岸からかけて
     夜なかの巨きな林檎の樹に
     しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……
      (わたくしのつくった蝗を見てください)
      (なるほどそれは
       ロッキー蝗といふふうですね
       チョークでへりを隈どった
       黒の模様がおもしろい
       それは一疋だけ見本ですね)
おゝ月の座の雲の銀
巨きな喪服のやうにも見える

月

「はつれ」の終止形「はつる」は、ほどける、ほつれる。ここでは、はずれる、という意味でしょうか。

「軋(きし)る」は、堅い物が強くすれ合って音を立てること、すれ合わんばかりに近づけること。

冒頭、「手袋」が、手からはずれて、すれ合って音をたてる。それに「盲ひ凍えた月の鉛」が対比してとらえられています。

「鉛」は、鉱石からの金属の抽出が容易なため、約5000年前のものと思われる鉛の鋳造品が発見され、最も古くから人類が使用した金属として知られます。

中国や日本では古く、黄金(金)、白金(銀)、赤金(銅)、黒金(鉄)とならんで、鉛のことを「青金(あおがね)」と呼んで、五色の金(かね)の一つとして扱われました。

青金と呼ばれたというのが物語るように、鉛は本来、青白色の金属です。しかし空気に触れてさびやすく、黒色に変わるので、西洋では最も黒く最も重い金属と考えられました。

「盲ひ凍えた」、すなわち目が見えなくなって、寒さでからだの感覚がなくなった「月の鉛」というと、うす気味悪い青白色の月がイメージされます。


harutoshura at 22:37|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月16日

「発電所」⑥ トランス

 「発電所」のつづき、きょうは最後の7行です。

大トランスの六つから
三万ボルトのけいれんを
塔の初号に連結すれば
幾列の清冽な電燈は
青じろい風や川をわたり
まっ黒な工場の夜の屋根から
赤い傘、火花の雲を噴きあげる

変圧器

「トランス」は、変圧器=写真、wiki=または変成器。1つの共通磁心のまわりに、2つ以上のコイルを巻いて、電磁誘導作用により、相互に交流電圧あるいは電流の変換を行う電気機器です。

商用周波電圧の昇降に用いる大容量電力用変圧器から、電気通信、電子機器に使用される小型、小容量のものまで多種多様のものがあります。「大トランス」というのですから、大容量電力用変圧器のことをいうのでしょう。

電力用変圧器では、大多数が油入り変圧器です。変圧器油の任務は、高電圧に対する絶縁と冷却。最近では高温に耐える絶縁物の開発により、風冷式の乾式変圧器が、かなり大容量のものまでつくられるようになっています。

こうした大変圧器にかかった電気が送電されていく様子を「三万ボルトのけいれんを/塔の初号に連結すれば」と言ってのける。賢治のすごいところです。

「電燈」は、長い鎖国時代が明けて文明開化の時代、街にモダンな西洋文化があふれ出した象徴の一つです。1882(明治15)年に東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、連日大勢の人が見物に訪れました。

初めての発電所が登場し、電灯は東京を中心に急速に普及します。さらにエレベーターや電車など、電気は動力用としても利用され、次々と発電所が建設されていきました。

「幾列の清冽な電燈は/青じろい風や川をわたり/まっ黒な工場の夜の屋根から/赤い傘、火花の雲を噴きあげる」には、そうした文明の伊吹が地方にも行きわたってきた時代を感じさせます。


harutoshura at 16:32|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月15日

「発電所」⑤ 電圧計

 「発電所」のつづき、きょうは11行目からです。

むら気な十の電圧計や
もっと多情な電流計で
鉛直フズリナ配電盤に
交通地図の模型をつくり

電圧計

発電所は、電気を生み出すところですから「電圧計」=写真、wiki=や「電流計」は必需品でしょう。

電流計は回路に直列に、電圧計は回路に並列につなぎます。接続する端子は電流計、電圧計ともにプラス端子が1つとマイナス端子を3つ持っています。

3つのマイナス端子にはそれぞれ計れる電流(電圧)の最大値が表示してあります。電流計(電圧計)は、針がたくさんふれたほうが正確に計れるため、たくさんふれる端子を選んで計ります。

回路に流れる電流(電圧)の大きさが分からない場合は一番大きな値の端子から計っていきます。「むら気な十の電圧計や/もっと多情な電流計で」というのは、そうした計器の様子を巧みに表現しています。

「フズリナ」は、原生動物有孔虫のうちの一群で、形態から紡錘虫ともいわれます。古生代(石炭紀~ペルム紀)に全盛期を迎えた有孔虫で、存続した期間は約1億年。石灰質の殻を持っていたことから、石灰岩中に現れる化石として知られています。

石灰質の殻をもち、大きいものでは長径1cmにもなり、世界各地の熱帯〜亜熱帯の海成層から100属以上、約5000種が知られています。

日本では、北上山地をはじめ、秋吉台などの石灰岩中に多量に存在することで知られ、進化の系統がよく研究されています。

古生代末に突然絶滅するので、中生代への転換期に起きた大量絶滅を証明する化石としても注目されます。

単細胞の原生動物ですが、初期は円盤形で、球形、紡錘形と進化していきます。最終的には複雑な殻の形態、1センチにも及ぶ大きな体を獲得する種も現れました。

温暖な地域の海底付近に住んでいたと考えられています。浮遊する時期もあったと考えられ、生息域とは離れた環境に堆積し、後に石灰岩化したものも存在します。

「鉛直フズリナ配電盤」というのは、配電盤の形がフズリナに似ているために、賢治らしいこのような命名をしたのでしょう。


harutoshura at 22:10|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月14日

「発電所」④ 水車

 「発電所」のつづき。きょうは、その7行目からです。

くろい蝸牛水車(スネールタービン)で
早くも春の雷気を鳴らし
鞘翅発電機(ダイナモコレオプテラ)をもって
愴たる夜中のねむけをふるはせ

フランシス水車

「水車」は、高い所から落下してくる水や勢いよく流れ込んでいる水の力を受けて回転する水力発電所の心臓部です。鉄管によって導かれた高速・高圧の水の流れを勢いよく回転させます。ここで水のエネルギーを、回転する機械エネルギーに変えることになります。

水の圧力と速度をランナーと呼ばれる羽根車に作用させる構造で、10~300メートルの広い範囲の落差で使用できるフランシス水車=写真、ノズルから強い勢いで吹き出す水をおわん形の羽根に吹きあてて回転させるペルトン水車などがあります。

「蝸牛水車(スネールタービン)」というのは、流体を動翼にあて、流体の運動エネルギーを回転エネルギーに変えるタービンの形と蝸牛(かたつむり、スネール)の形をみごとに契合させた言葉です。

「雷気」というのは、雨がザーッと降って「もしかして来るかな?」という気配でしょうか。それを賢治は「蝸牛水車(スネールタービン)」と表現しているのでしょう。 

「鞘翅」は、昆虫のコウチュウ類のこと。上翅(前翅)が鞘(さや)状になって背面をおおうことからついた名前で、昆虫の中でも最も巨大かつ多様なグループ。オサムシ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、クワガタムシ、コガネムシ、タマムシ、ホタル、カミキリムシなど、0.3mmにみたないものから10cmを超える虫までさまざな。

「発電機」は水車と同じ回転軸でつながっており、水車の回転の力が発電機に伝えられて発電が行われます。水力発電所の出力は水量と、放水路の水面からダムの水面まで落差によって決まります。

「鞘翅発電機(ダイナモコレオプテラ)」も、蝸牛水車(スネールタービン)と同様、昆虫の鞘翅類の羽音と発電機の機械音を一体化させたおもしろい造語です。

愴(ソウ、いたむ)は、悲しみに打ちひしがれること。「愴たる夜中のねむけ」というのもまたユニークです。


harutoshura at 18:54|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月13日

「発電所」③ 余水吐

 「発電所」のつづき、きょうは4行目からをみていきます。

わづかに赤い落水管と
ガラスづくりの発電室と
  ……また余水吐の青じろい滝……

余水

一般的な水力発電装置は、河川に建設されたダムの水面よりも低い位置に発電装置を配置し、ダムから「落水管」を通して導いた水を発電装置に供給して、水のもつ位置エネルギーを電気エネルギーに変換するようにしています。 

上部のダムや貯水池から発電所の水車に水を導いて、水車を停止したときには落差に相当する静水圧と、管内の流速の変化によって生ずる水撃圧とがかかるので、じょうぶな鉄管(水圧管)が必要となります。

ダムや堰の余った水を放流するための設備が「余水吐」(よすいばき)=写真、wiki=です。堤体や貯水池を壊すことなく、貯められた水を安全に、流路として想定されていない場所を流れることがないように放流することが求められます。

堤体の一部に放流機能を持たせる付属型、独立した設備を堤体に隣接して設置する隣接型、および堤体から離れた場所に設置する分離型があります。

日本の水力発電は、1888(明治21)年7月に、宮城紡績が設置した三居沢発電所で自家用発電を開始したのにはじまり、紡績や鉱山会社によって発電所の設置が続いていきました。

1891(明治24)年には、琵琶湖疏水の落差を利用した水路式の蹴上水力発電所が、運用を開始。一般営業用の日本初の水力発電所となりました。

その後、大正から昭和初期にかけて大規模な水力発電所がたくさん作られ、1950年代まで、電力の大半は水力発電によるものでした。

「ガラスづくりの発電室」という言葉からは、生活や産業の原動力たる電力を生み出す前線基地たる発電所の華々しい姿がうかがえます。


harutoshura at 20:12|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2018年07月12日

「発電所」② ギャプロ

 「発電所」のつづきです。次にあげる冒頭の3行には、「鉄」「ギャプロ」「錫」など鉱石関連の言葉が目立ちます。

鈍った雪をあちこち載せる
鉄やギャプロの峯の脚
二十日の月の錫のあかりを

220px-Gabbro

「ギャプロ」(gabbro)は、斑れい岩=写真、wiki。深成岩の一種で、火山岩の玄武岩に対応します。有色鉱物の角閃石や輝石を多く含み、岩石全体が黒っぽいもの、あるいは、大きな結晶からなるペグマタイト質のものは斜長石の白い部分が目立つこともあります。磁鉄鉱が含まれることもあります。

名前は、イタリアの工芸家が呼んでいた石材名「gabbro」に由来するとされます。1884年に小藤文次郎が「gabbro」に対して斑れい岩という訳語を作りました。

れい(糲)は、くろごめ、玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味のようです。明治初期には、かすり模様という意味で、飛白石、カスリイシの訳もつけられました。どちらも白い斜長石と黒い輝石が白黒の斑点に見えることを意味するようです。

「鉄やギャプロの峯の脚」というのは、釜石を中心とした鉄鉱石や斑れい岩体などが織り成す北上山地の嶺のことを言っているのでしょう。

スズは、錫石(すずいし)などに含まれている。比較的精錬や加工のしやすい金属として、古くから用いられてきた。青銅器などの材料として有名である。

スズの元素記号のSnはラテン語の「stannum」に由来しているものの、元来この単語は銀と鉛の合金のことだった。それが4世紀頃より、スズのことを「stannum」と呼ぶようになった。

金属スズを曲げると、結晶構造が変化することによりスズ鳴き (tin cry) と呼ばれる独特の音がする。同様の現象は、ニオブやインジウムでも見られる。

「二十日の月」というと、通常は更待月(ふけまちづき)のこと。臥待月よりさらに月の出が遅くなって午後10時ごろになるため、「夜が更けるのを待つ」の意味になります。

「錫」(スズ)は、柔らかく展延性を有した結晶性の高い白銀色の金属で、金属スズに力をかけて変形させると「スズ鳴き」と呼ばれる変形による亀裂音を発します。賢治は、錫を光の微妙な変化の描写などに使っています。


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2018年07月11日

「発電所」① 文明の灯

賢治の『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「五〇八 発電所」に入ります。きのうまで読んだ「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」と同じ、「1925、4、2」の日付のある21行の作品です。

鈍った雪をあちこち載せる
鉄やギャプロの峯の脚
二十日の月の錫のあかりを
わづかに赤い落水管と
ガラスづくりの発電室と
  ……また余水吐の青じろい滝……
くろい蝸牛水車(スネールタービン)で
早くも春の雷気を鳴らし
鞘翅発電機(ダイナモコレオプテラ)をもって
愴たる夜中のねむけをふるはせ
むら気な十の電圧計や
もっと多情な電流計で
鉛直フズリナ配電盤に
交通地図の模型をつくり
大トランスの六つから
三万ボルトのけいれんを
塔の初号に連結すれば
幾列の清冽な電燈は
青じろい風や川をわたり
まっ黒な工場の夜の屋根から
赤い傘、火花の雲を噴きあげる

発電所

明治の文明開化の時代、街にはモダンな西洋文化があふれるようになります。その象徴の一つが電灯でした。1882(明治15)年、東京・銀座に日本初の電灯が灯されると、大勢の人が見物に訪れました。

1883年には、東京電燈株式会社が創立、1887年末には、火力発電所を東京5カ所に設置する工事を始め、直流送電を行いました。

1891年には、京都市で一般供給用としては日本初の蹴上(けあげ)発電所=写真、wiki=が送電を開始しています。この発電所は琵琶湖疏水による水力発電による、80kWの直流発電機と1300灯分の交流発電機から成り立っていました。

1907年には東京電燈が山梨県桂川に駒橋発電所を建設、15000kWの発電電力を、55kVで東京に送電。1914年には、猪苗代水力電気会社が猪苗代第一発電所を建設し、37500kWの発電電力を115kVで東京に送電しました。

発電所が登場して、電灯は東京を中心に急速に普及していきます。そしてエレベーターや電車など、電気は動力用としても利用され、次々と発電所が建設されていきます。

岩手県でも1905年に盛岡電気が創業。1912(大正元)年には花巻電気会社が創業して1914年には東北初の電気鉄道(花巻温泉電気鉄道)もお目見えします。

しかし、一般家庭に広く電気灯が普及するのは、盛岡や花巻の豊かな町家に限られていました。1915年に電灯のともる家は岩手県内で2万戸にも満たなかったそうです。

ただ、公共施設や工場などは大正期に入ると、電気が原動力になって一気に近代化を遂げていきます。

こうした電気を作る「発電所」があちこちに出来ていった時代に、賢治は生きていたのです。


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2018年07月10日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」⑥ 種山

 「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」のつづき、きょうは最後の8行です。

ぎざぎざの黒い崖から
雪融の水が崩れ落ち
種山あたり雲の蛍光
雪か雲かの変質が
その高原のしづかな頂部で行はれる
  ……まなこつぶらな童子をば
    しばらくわれに貸せといふ……
いまシグナルの暗い青燈

種山

「種山」=写真、wiki=は、北上高地の南西部、東西11㎞、南北20㎞に及ぶ平原状の山。北上高地の脊梁部にあたり、標高870mの物見山(種山)を頂点に、大森山、立石など標高600~870mの隆起準平原からなり、総称して種山高原とも呼ばれています。

古くから放牧地となり、江戸時代、仙台藩直営の放牧地の一部であったともいわれます。明治34(1901)年には、軍馬補充部六原支部種山出張所の夏季放牧地として利用され、昭和22(1947)年には、種山国営牧野、31年に岩手県種山牧野と改名されています。

童話『風の又三郎』、戯曲『種山ヶ原の夜』など、宮沢賢治の作品に数多く登場します。

『語彙辞典』には、「種山ケ原は浄福な天上により近い高原であると同時に、ダイナミックに急変する天候、風や雲の変幻自在な一大空間は彼の心象風景に呼応した」。

「種山高原はまさしく生命体としての宇宙との生動する交感の場なのであり、風や雲や霧たちは宇宙生命の生きた言葉であり表情であった」とされています。

作品に出てくる「雲の蛍光/雪か雲かの変質」という空の模様も、賢治の心象風景に呼応しているのでしょう。

16~17行目の「まなこつぶらな童子をば/舞台の雪と青いあかりにしばらく貸せと」は、最後に来て「……まなこつぶらな童子をば/しばらくわれに貸せといふ……」として繰り返されています。

そして最後、この前の「〔硫黄いろした天球を〕」では赤いシグナルだったのが、「いまシグナルの暗い青燈」。「停止」から「行け」に変化していますが、それは「暗い青燈」なのです。


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2018年07月09日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」⑤ 菩薩

 「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」のつづき、きょうは20行目からです。

そこではしづかにこの国の
古い和讃の海が鳴り
地蔵菩薩はそのかみの、
母の死による発心を、
眉やはらかに物がたり
孝子は誨へられたるやうに
無心に両手を合すであらう
     (菩薩威霊を仮したまへ)

地蔵菩薩

「そこでは」とは、きのう見た農民劇団の「舞台」のことなのでしょう。

「和讃」とは、仮名まじりの平易な言葉で,仏や菩薩、経典、祖師などをたたえた歌。七五調4句を1章とする今様風が鎌倉時代以後の主流となっています。親鸞の「三帖和讃」、一遍の「別願和讃」など平安末〜江戸期に盛行し、御詠歌としても歌われました。

「地蔵菩薩」=写真、wiki=は、大地のように広大な慈悲で生あるものすべてをすくうとされる菩薩。釈迦入滅後、弥勒菩薩が如来としてあらわれるまでの無仏の間、衆生を救済するとされます。

菩薩でありながら、ふつう僧形で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠をもちます。日本では平安時代からひろく信仰され、とくに子供の守り仏とされています。

「発心」は、発菩提心 (ほつぼだいしん) の略称。仏陀の悟り (菩提) を得ようと決意することをいいます。『華厳経』には「初めて発心するときは、すなわち正覚を成ず」とあります。

「孝子」は、父母によく仕える子供のこと。中国では儒教において「孝」は最も重要視された徳目の1つで、昔から顕彰の対象とされました。

日本でも儒教の影響を受けて、律令法に孝子を顕彰する規定が定められました。江戸時代には領主により孝子に対する褒賞も行われました。

明治8年(1875年)7月10日に内務省が出した第121号布達「孝子貞婦義僕奇特ノ者賞與常例」にあるように、明治政府でも孝子などに対する褒賞が続けられました。

「誨」(おし)える、というのは言葉でていねいにおしえさとす。わからない人にわからせること。「威霊」は、威力ある神霊、神威。


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2018年07月08日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」④ 鉄橋

 きょうは、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の14行目からです。

おまへのいまだに頑是なく
赤い毛糸のはっぴを着せた
まなこつぶらな童子をば
舞台の雪と青いあかりにしばらく貸せと
  ……ほのかにしろい並列は
    達曾部川の鉄橋の脚……

橋梁

先駆形の「農民劇団」という題名からすれば、「おまへのいまだに頑是なく/赤い毛糸のはっぴを着せた/まなこつぶらな童子」を「舞台の雪と青いあかり」のあたりに、登場してもらおうといっているのでしょうか。

「はっぴ」という言葉は、古代、束帯を着る際に袍(ほう)の下に着た、袖のない胴衣である半臂(はんぴ)に由来するとされています。

「達曾部」(たっそべ)は、現在の遠野市宮守町達曽部。1955年まで達曾部村と呼ばれました。アイヌの言葉では、樺皮の多い滝川を意味するそうです。

この地では達曾部川が南流し、岩根橋付近で猿ヶ石川に合流します。むかしは猿ヶ石川を通って、渓流をサケやサクラマスも遡上してきました。渓流の周りには、うっそうとした森があって、樺の皮を剥いで生活の道具などを作っていたようです。

「達曾部川の鉄橋の脚」というのは、正式には達曽部川橋梁といい、旧岩手軽便鉄道の鋼板桁橋のことです。いまは、橋台、橋脚をそのまま鉄筋コンクリートで固めています=写真

当時は、真新しい「鉄橋」が「ほのかにしろい並列」を成して並んでいるのが目新しく、目だったのでしょう。


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2018年07月07日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」③ ホップ

 きょうは「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の6行目からです。

老いた野原の師父たちのため
老いと病ひになげいては
その子と孫にあざけられ
死にの床では誰ひとり
たゞ安らかにその道を
行けと云はれぬ嫗のために
  ……水音とホップのかをり
    青ぐらい峡の月光……

ホップ

この詩の先駆形には「農民劇団」という題が付けられ、「この国の老いた野原の人たちのために」のあとに、「……水音とホップのかをり/青ぐらい峡の月光……」がつづいています。

「1020」の番号が付いた「野の師父」という詩には、「師父よあなたを訪ねて来れば/あなたは縁に正しく座して/空と原とのけはひをきいてゐられます/日日に日の出と日の入に/小山のやうに草を刈り/
冬も手織の麻を着て/七十年が過ぎ去れば/あなたのせなは松より円く/あなたの指はかじかまり/あなたの額は雨や日や/あらゆる辛苦の図式を刻み/あなたの瞳は洞よりうつろ」とあります。

「野原の人たち」には、「縁に正しく座して/空と原とのけはひをきいて」いるような、父親のように親しみ敬っている「師父たち」や「老いと病ひになげいては/その子と孫にあざけられ/死にの床では誰ひとり/たゞ安らかにその道を/行けと云」うような「嫗」(おうな)すなわち、年をとった女がいるということなのでしょう。

「ホップ」=写真、wiki=は、クワ科の多年生のつる草で、セイヨウカラハナソウともいいます。植物体全体にとげのような粗毛があり、葉は卵形か卵円形で掌状に3~5裂し、あらい鋸歯があって長い柄で対生。夏の終りころ、淡黄色の花が咲きます。

ヨーロッパ原産で、ビールに苦みと芳香をつけるのに用いるため、世界中で栽培されています。日本でも明治初期に初めて栽培され、ビールの需要の増加に伴い、本州中北部や北海道などの冷涼地で栽培されています。岩手県でも明治以降栽培されていました。

「峡」(かい)は、動詞「交(か)う」の連用形「交い」から、交差するところの意。両側に山が迫っている所、山かいをいいます。


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2018年07月06日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」② 昴

 それでは、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の冒頭から少しずつ見ていくことにします。

そのとき嫁いだ妹に云ふ
十三もある昴の星を
汗に眼を蝕まれ
あるいは五つや七つと数へ
或いは一つの雲と見る

すばる

「昴の星」というのは、おうし座にある散開星団のプレアデス星団のことです。地球から約410光年。

肉眼でも見分けられる3~5等級の星9個を中心に、数百個の恒星が天球上の直径2度ほどの領域に集まって、その全体を希薄な無定形星雲が取り巻いています。

9個の星には、ギリシア神話で天を支える神アトラスと后のプレイオネ、それと、その間に生まれたアルキュオネら7人姉妹の名がつけられています。

ふつう肉眼で確認できるのは、6個ほど。肉眼で25個もの星を見たという記録もあるとか。ガリレオは望遠鏡を使って36個の星を観察しています。

日本ではむかしからプレアデス星団をすばる(昴)と呼んでいました。「すばる(統ばる)」あるいは「すまる(統まる)」という言葉は、「一つに集まっている」「統一されている」といった意味をもっています。

平安時代に作られた百科事典『和名類聚抄』の中には「昴星 宿耀経云昴音与卯同和名須波流六星火神也」とあり、昴星の和名が「須波流」と記されています。

有名なのは、清少納言の著した『枕草子』の一節(第236段)。「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて」とあります。


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2018年07月05日

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」① シゲ

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「506」のついた作品です。「1925、4、2」の日付がついています。

そのとき嫁いだ妹に云ふ
十三もある昴の星を
汗に眼を蝕まれ
あるいは五つや七つと数へ
或いは一つの雲と見る
老いた野原の師父たちのため
老いと病ひになげいては
その子と孫にあざけられ
死にの床では誰ひとり
たゞ安らかにその道を
行けと云はれぬ嫗のために
  ……水音とホップのかをり
    青ぐらい峡の月光……
おまへのいまだに頑是なく
赤い毛糸のはっぴを着せた
まなこつぶらな童子をば
舞台の雪と青いあかりにしばらく貸せと
  ……ほのかにしろい並列は
    達曾部川の鉄橋の脚……
そこではしづかにこの国の
古い和讃の海が鳴り
地蔵菩薩はそのかみの、
母の死による発心を、
眉やはらかに物がたり
孝子は誨へられたるやうに
無心に両手を合すであらう
     (菩薩威霊を仮したまへ)
ぎざぎざの黒い崖から
雪融の水が崩れ落ち
種山あたり雲の蛍光
雪か雲かの変質が
その高原のしづかな頂部で行はれる
  ……まなこつぶらな童子をば
    しばらくわれに貸せといふ……
いまシグナルの暗い青燈

妹

賢治には3人の妹がいました。長女トシ(1898-1922)、次女シゲ(1901-1904)、三女クニ(1907-1981)です。

この詩の日付の際には、トシは独身のまま、1922年11月27日に結核のため亡くなっています。シゲは、1922年1月2日、親戚の岩田豊蔵と結婚していました。クニは花巻高等女学校補習科を卒業して1年ほど経ったころです。

「嫁いだ妹」というのが賢治の実際の妹だったとすれば、シゲのことのようです。シゲは、結婚したときを次のように振り返っています。

〈――私が岩田にかたづくことは大分前に定めたらしいのですが、姉の病気で延ばしておりました。

岩田の父という人はカリエスを12年も病んでいまして、息子の結婚を遠慮しながらも急いでいたらしく、大正11年1月2日、寒い時期にもかかわらず、かんたんに式を挙げることになりました。

そのとき姉は豊沢町の家に休んでおりましたので、仕度ができたときちょっと病室にいって、何時間もかかった化粧をクシャクシャにしてしまったことでした。ほんとに後髪をひかれる思いでの嫁入りでした。

そのころですから人力車でしたが、暗くなった表へ兄が提灯をもって送ってくれて、「大丈夫、しあわせになるからな」といってくれました。私は涙の底でしあわせになって、みなに安心させると思いました。〉


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2018年07月04日

「〔硫黄いろした天球を〕」④ 大豆

 きょうは「〔硫黄いろした天球を〕」の最後の4行です。

  ……大豆(まめ)の玉負ふその人に
    希臘古聖のすがたあり……
積まれて酸える枕木や
けむりのなかの赤いシグナル

大豆

「大豆(まめ)」は、マメ科の一年草で、世界各地で栽培されている重要な農作物の一つ。中国では古くから栽培され、日本へは8世紀以前に伝えられました。

果実は長い莢で、中に1~4個の種子を作ります。種皮の色は黒色 (クロマメ)、緑色 (アオバタマメ、リョクズ)、黄白色など種によってさまざまで、栽培品種の数は1000以上にも達します。

種子は「畑の肉」といわれ、蛋白質や脂肪を多量に含みます。豆腐,味噌、醤油、枝豆、きな粉、煮豆、納豆、豆乳、菓子、大豆油などさまざまなかたちで食用とされています。

日本では古くから、大豆は占いや呪術的行事に用いられ、いまも節分の豆まきが行われるなど、儀礼的にも大切な作物です。

「希臘(ギリシア)古聖」というのですから、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった人物の「すがた」を想像すればいいのでしょう。

いまではコンクリートなど木以外の材質が主流ですが、賢治の時代は「枕木」の名前通り、木が使われていました。日本ではクリ、ヒノキ、ヒバなどの耐久性のあるものやブナが多かったそうです。

「酸える」というのは、クレオソート油など枕木の腐朽対策として防腐剤が発している匂いでしょうか。

「シグナル」というのは、腕木式信号機なのか色灯式信号機なのかは分かりませんが、汽車の「けむりのなか」に、「停止」を示す「赤いシグナル」が見えています。


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2018年07月03日

「〔硫黄いろした天球を〕」③ 古生山地

 「〔硫黄いろした天球を〕」のつづき、きょうは5行目からです。

最後に湿った真鍮を
二きれ投げて日は沈み
おもちゃのやうな小さな汽車は
教師や技手を四五人乗せて
東の青い古生山地に出発する

サンヨウチュウ

「真鍮」(しんちゅう)は、黄銅のことで、銅に亜鉛を加えた合金で、亜鉛が20%以上のものをいいます。色は亜鉛が多くなるにつれて、赤黄色から黄色へと変っていきます。

きのう見た「硫黄いろした天球」「亜鉛の屋根」の「硫黄」や「亜鉛」につづいて今度は「真鍮」です。

金に似ているため、「真鍮」はニセ金とも呼ばれます。賢治もあまりいい意味には用いず、にせもののイメージ、反感の感情を込めて用いています。

しかも、ここに出てくる「真鍮」は、乾いているのではなく「湿った」ものだというのです。

日本の「汽車」は、最初は車両もレールも鉄橋も外国製で、機関車の運転もダイヤの作成もお雇い外国人がやっていました。その後、外国に学びながら徐々に技術力を蓄え、順次国産化していきました。

1911年には、最初の純国産機である6700形。1913年に完成した9600形は貨物用テンダー機関車で770両生産されました。翌年には、8620形が完成し687両が造られました。1923年にはD50形の貨物機が完成しています。

「おもちゃのやうな小さな汽車」がどういうものなのかははっきりしませんが、国産のいろんな「汽車」が続々と登場していた時代であったことは確かでしょう。

岩手県の土台となっている基盤岩類は、南部北上山地にみられます。最古の化石が出ている古生代シルル紀の地層よりもさらに古い(約4億3800万年以前)岩石で、氷上山の花崗岩、早池峰山の超塩基性岩、水沢市東方の変成岩などがこれにあたります。

古生代のシルル紀からペルム紀(約4億3800万年~2億4800万年前)をとおして、南部北上山地は浅い暖かい海でした。このことは、シルル紀の床板サンゴ、ペルム紀のフズリナ、あるいは各時代の砂岩や頁岩のなかからみつかる三葉虫=写真、wiki=や腕足類などの化石からわかります。

こうした、全国的にも珍しい古生代の地層を調査するため、「教師や技手を四五人乗せて/東の青い古生山地に出発する」のでしょう。


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2018年07月02日

「〔硫黄いろした天球を〕」② 亜鉛葺き

 作品「五〇四」のつづき、きょうは冒頭の4行を詳しく見ていきます。

硫黄いろした天球を
煤けた雲がいくきれか翔け
肥料倉庫の亜鉛の屋根で
鳥がするどくひるがへる

トタン屋根

冒頭、「天球」が「硫黄いろした」ものとして登場します。きのう見たような黄色っぽい、ときおり陽が射しこんでくるのであろう天球を、「煤けた雲」が翔(か)けていくというのです。

天体はきわめて遠方にあるので、その距離は実感できず、すべての天体は観測者を中心とする巨大な「球面」の上にのっているように見えます。こうした、すべての天体をのせた仮想の球面を「天球」といいます。

天球は仮想的な球面なので、その半径は本来不定です。ただ、単に「空」などというよりも「天球」とすることで、観測者と天体を結ぶ視線のベクトルをしっかりと意識させる表現になります。

「亜鉛」は、銀白色の金属で、湿った空気中では灰白色となります。薄い鉄板上を融けた亜鉛の薄層で覆ったトタンは、鉄よりもイオン化傾向の高い亜鉛で鉄を覆うことにより鉄の腐食を防ぐようにしたものです。

「亜鉛の屋根」というのは、このように薄い鉄板に亜鉛めっきを施したトタンを材料に使った屋根ということでしょう。

むかしの屋根の多くは、草葺きでした。木材を組み合わせ家の骨組みを作り、その上から土や葦、ススキなどの植物で屋根を作っていたのです。

瓦屋根が民家に普及するようになったのは、江戸時代のころから。大火を防ぐために奨励され、軽量の「桟瓦」も開発されました。明治維新以降、鉄道の普及とともに金属屋根が増えていきます。

蒸気機関車が走る沿線の家屋の火災を防ぐには不燃性の材料で屋根を葺くことが必要だったのです。その後、関東大震災などで瓦屋根の脆弱さが認識されて、亜鉛鉄(トタン)板で葺く屋根が広まっていきました。

こうした火災や地震に強い新しい時代の「亜鉛の屋根」が用いられていたということは、農家にとって「肥料倉庫」がとても大切な存在であったことを示しているのでしょう。

そんな「亜鉛の屋根」のうえで、「鳥がするどくひるがへ」っているのです。


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2018年07月01日

「〔硫黄いろした天球を〕」① 硫黄いろ

 賢治の『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「五〇四」の番号が付いた作品です。「1925、4、2」の日付があります。

硫黄いろした天球を
煤けた雲がいくきれか翔け
肥料倉庫の亜鉛の屋根で
鳥がするどくひるがへる
最後に湿った真鍮を
二きれ投げて日は沈み
おもちゃのやうな小さな汽車は
教師や技手を四五人乗せて
東の青い古生山地に出発する
  ……大豆(まめ)の玉負ふその人に
    希臘古聖のすがたあり……
積まれて酸える枕木や
けむりのなかの赤いシグナル

硫黄

「硫黄」=写真、wiki=は、古くから知られている非金属元素です。最近は石油の脱硫により大量に作られますが、以前は自然硫黄や硫黄鉱石から取られていました。

単体の硫黄には3種の固体の同素体 (斜方晶系、単斜晶系、無定形) があります。

常温では黄色の斜方硫黄、95.5℃以上では濃褐色の単斜硫黄、119℃以上では黄色い液体のλ硫黄、褐色のμ硫黄が安定的です。

「硫黄いろ」というのは常温の、温泉で見かけるような黄色をした非金属性固体をイメージするのが常識的でしょう。

硫黄は、硫酸、群青、クロロスルホン酸、硫化リン、火薬、マッチ、抜染剤、染料の製造、さらにはゴムの加硫、碍子などに用いられます。

花巻には鶯沢硫黄鉱山がありました。西鉛地方の北方約6キロ、豊沢川の支流、鶯沢の最上流です。花巻ー西鉛間は電車の便がりましたから、賢治も身近に感じていたでしょう。

1886(明治19年)6月、鉛地区に住んでいた藤井善吉が硫黄の路頭を発見。1916(大正5)年3月には、東京の小田良治代が鉱業権者となります。

1916(大正5)年には7,500トン、翌大正5年には8,800トン、大正6年には10,600トンと生産を伸ばしていきましたが、大正8年には第1次大戦の余波で休山しました。

1938(昭和13)年には第2期計画に着手しましたが、昭和37年3月、硫黄の自由化貿易のため採算が合わなくなって閉山しています。

詩は、「硫黄いろした天球」という大きな景観からスタートします。


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