2017年04月

2017年04月30日

「夜の鳩」

   夜の鳩

胸毛を逆だて
鳩は梁の上によりそってとまっている。
そこはうまごやの天井のようであり、大伽藍の穹窿のようでもある。
外にはごうごうと風が吹いている。
かんだんなく物の倒壊する音や爆発音がする。

ボールド

「伽藍」は普通、僧侶の住む寺院などの建築物をいいます。サンスクリット語のサンガーラーマの音写語「僧伽藍摩」の略。もともと修行僧が集まって仏道を修する閑寂な場所をいいましたが、のちには転じて寺院の建造物を意味する語となりました。寺院の主要な七つの建物を具備しているのが七堂伽藍。禅宗では、仏殿、法堂、三門、庫院、僧堂、浴室、東司をいいます。

「穹窿」(ボールト)=写真、wiki=、アーチを基本にした曲面天井の総称。最も基本的な形はトンネル状のもので、筒形ボールトと呼ばれます。ローマ人は、2つの筒形ボールトを直角に交差させる交差ボールトを発明し、ポンペイの公共浴場、ローマのコンスタンチヌスのバシリカなどに現れ、ネロの黄金宮殿やトラヤヌス帝の大浴場などに用いられました。ここでは一種の殻構造が形成され、天井の重量が4つの隅部で支えられるため広い柱なしの空間をつくることが可能になりました。

ゴシックの聖堂建築は、交差ボールトの稜線部を肋骨状の太いアーチによって補強したリブ・ボールトを採用、中間の壁体が不要となり、大きな窓や天高く伸びる構造など、ゴシック建築の特徴がこれによって生れました。特にイギリスのゴシック建築では、星状ボールト、扇形ボールト、網状ボールトなどが生み出され、とりわけ装飾的な構成をみせています。

*『火呑む欅』の「爆心地の鳩」とあわせ読んでほしい。「爆心地の鳩」では「物産陳列館」があり、ようしゃなく降る雨があり、くくと啼く鳩がいる。表面忠実な写実であり、何気ない言葉の示すわずかの方向性が読者に識別を求めている。この作品では「うまごやの天井のよう」であり「大伽藍の穹窿のよう」である場所で、外では「物の倒壊する音」「爆発音」がたえまなくしている。この作品では認識から空想へ、存在から行動へ、人をかりたてていく暗示力が生れてくる。《安》


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2017年04月29日

「信号所の上」

   信号所の上

深夜。
どこからか
はげしい連絡者をひびかせて
希硫酸。希硝酸。ベンゾールのごときものがとびきたり
矢のように下をすぎ去る。
そびえる構内燈の照明の中は
うずまく翅虫。

信号所

「信号所」=写真、wiki=は、「専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所」つまり、鉄道路線で分岐器(ポイント)や信号設備が設けられていて運転扱いするものの、旅客や貨物の取扱を行わない停車場をいいます。

最初から信号所として設置された場所のほか、旅客扱いをはじめて信号所から駅に変更されるもの、逆に旅客・貨物扱いをやめて駅から信号所に変更される例もあります。JRの信号所の大半は在来線区間に位置しています。

「ベンゾール」は、炭素原子6個が正六角形の6員環をなしている典型的な芳香族化合物。特有のにおいをもつ無色透明で可燃性の液体で、煤の多い黒い煙をあげて燃えます。その蒸気は有毒で、大気中のベンゾールは有害大気汚染物質と定められ、長期間吸収すると造血器の障害などをおこします。

*この作品は『重油富士』巻頭の作品「虫の声」同様「希硫酸。希硝酸。ベンゾールのごときもの」をいかに受けとめるかにかかっている。「虫の声」では旅行途中の車中からみているが、この作品では信号所の上からみている。《安》


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2017年04月28日

「ハマスゲのたぶさ」

   ハマスゲのたぶさ

坐っている足もと。
手のとどくところに
かさかさに乾いたハマスゲが生えていた。
その茎の二三本を
曲げた人さし指にからませて
手は無意識にそれを地面からひきぬこうとしていた。
けれども一寸やそっとの力ではそれはひきぬけるものではなかった。
ハマスゲの根は凍てついた土中に深くくいこみ
そこで網の目となって四方八方にひろがり
三百米さきの重油タンクをその上にのっけているのであった。
手はこんどはハマスゲの大たぶさをわしづかみにした。
わしづかみにしてぐっぐっぐっとひっぱりはじめた。
やつはそれをひきぬいたかどうか。

ハマスゲ

「ハマスゲ」=写真、wiki=は、カヤツリグサ科の多年草。ほとんど全世界に分布し、日本では関東地方以西の本州、四国、九州の海岸の砂浜、河原や日当りのよい原野に生えます。細い地下茎が横に長くはい、その先端に塊茎を生じます。稈は塊茎から直立し高さ 20~30cm、基部に数枚の葉を叢生します。

葉は線形でやや硬く光沢のある深緑色。夏から秋にかけて、葉の間から花茎を出し、先端に狭線形の総包片を1~3枚生じて、その中心から数本の茶褐色の花序を出します。塊茎からひげ根を焼いて取去り、乾燥させたものを香附子 (こうぶし)と呼んで通経、鎮痙の婦人薬として用います。

葉が数枚出たところで親株から数本の根茎を出し、先端が地上に出葉します。子株の基部が肥大して新しい塊茎を作り、そこから根茎が伸びて増殖を繰り返します。畑地に広く分布し、世界の強害雑草のトップにあげられています。刈り取りに耐性を示すので、ゴルフ場などの芝地で問題となっています。

「たぶさ」は髻、髪の毛を頭の頂に集めてたばねたところ。もとどりのことです。

*「三百米さきの重油タンク」という語があらわれるまでの十行ばかりで読者が受けとるのは、日常的な状態での日常的行為にすぎない。ところが、十行ばかり読み進んだところで突然「重油タンク」があらわれる。曲げた人さし指にからませて「無意識に」ひきぬこうとしていたハマスゲの根の先に「重油タンク」がのっかっているというのだ。そのとき手は「わしづかみにしてぐっぐっぐっとひっぱりはじめた」というのだ。ハマスゲと重油タンクとの突飛。ひきぬく行為の徒労。にもかかわらず、われわれは突飛とも徒労と感じはしない。小野の空想力の勝利である。《安》


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2017年04月27日

「燈の帯」

   燈の帯

暗い
夜の日本海を
ななめにつっきって
戦車をも呑める
巨大などてっぱらを持った
C124四発輸送機が
山陰石見の上空に近づいている。

真白に凍った
小窓をぬぐって
ゆくてを見れば
夜の日本列島はさながら燈(ともしび)の帯だという。
海岸線に沿って
ネオンの都会や、燈のかたまった村々が
夜光虫のような帯をなして
一面につらなっているというのだ。
海と陸との区別もつかぬ真暗な朝鮮の空をぬけて
舞いもどる日本の下界の明るさは
まるでそれはパラダイスだと。

なるほど
境空軍基地の照明燈は
高く煌々とかがやいている。
峰山の基地。岩国の基地。松ヶ崎浜の基地の灯(ひ)も明るい。
舞鶴のキャンプも明るい。
伊丹基地。小松基地。
京都。奈良。大阪のキャンプはさらに明るい。
まさにそれは楽園の灯だ。
岐阜のキャンプ。前橋のキャンプ。
相馬のキャンプ。尾島のキャンプ。朝霞のキャンプ。
御殿場、横須賀のキャンプ。
太田、館林の照明燈。
立川。横田。白井。厚木の滑走路。
全島いたるところの
火薬庫。弾薬庫。
造兵廠。兵器補給所。水槽。石炭貯蔵庫。
そしてキャンプ東京の光芒は
夜霧をまきこんで昼とあざむくばかりだ。

真暗な夜の日本海を
ななめにつっきって
今日も朝鮮からの帰休兵を満載した
C124四発大型輸送機が帰ってくる。
戦車をも呑める
二百人乗の巨大な軍用輸送機の爆音が
いま寝しずまった山陰石見の上空を通過する。

海岸線という海岸線。
都会という都会。
村落という村落。
夜の日本列島はかれらの燈の帯。
光の渦だ。

C-124a

「C-124」=写真、wiki=は、アメリカ合衆国のダグラス社が開発した軍用輸送機。1947年から開発が進められ、1949年に初飛行。冷戦時代初期の戦略軍事輸送の主力でした。全長40m、最大離陸重量98t、乗員6人、最大速度520km/h。

主翼は低翼配置で、4基のレシプロエンジンが設置されています。大型のヘリコプターや戦車も搭載できる二層のキャビンデッキを持って大きな輸送力を備えたとともに、大きな観音開きの貨物ドアとリフトが設置され、迅速な輸送作戦も行われるようになっていました。

1950年5月に実戦配備され、全部で448機が生産されました。朝鮮戦争や、冷戦初期の世界各地に展開するアメリカ軍に物資を送り届けるのに活躍、ジェット軍用輸送機が導入されていたベトナム戦争でも一部では作戦に投入されました。

*「米軍輸送機から全島基地化した日本を俯瞰した」(小野)この作品は、小野が「民科」の夏期自由大学の巡回講師として山陰へ行ったときの浜田の町の記憶と結びついている。「これを書いているときわたしの脳裡に、浜田での『民科』の集りで会った何十人かの青年男女たちの姿が去来した」と小野は書いている。日本列島は燈の帯だという。光の渦だという。「かれら=米兵」にとってはだ。そして石見の町は、日本の町は、日本人の町は、寝しずまっているのだ。驚くべき視点から小野は日本の現実の姿を俯瞰している。《安》


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2017年04月26日

「むかしばなし」

   むかしばなし

まだ、いるの?
おびえたまなざしで
子供がいう。
添え寝をしているおばあさんが
子供のやせた肩をしずかにたたきながらこたえる。
シッ! いますとも、早くねむらないと――
夜の雨ははげしく海上にふりそそいでいる。
陸の方は真暗だが
元山から見る沖合はほのかに明るい。
そこには
波のうねりに巨体をのせて
幽霊船インディアナポリスが錨をおろしていた。
マストにはだらりと
やぶれた骸骨旗がたれ下っている。

おばあさんの寝ものがたりを
子供はおぼえていた。
それはまだ立ち去ろうとする気配もない。
そこにいる。
昼は大白山脈からも
蓋馬高原からも見えた。

インディアナポリス

「インディアナポリス」(Indianapolis)=写真、wiki=は、アメリカ海軍の巡洋艦。テニアン島へ原子爆弾を運んだ後、1945年7月30日にフィリピン海で日本の潜水艦「伊58」の雷撃で沈没しました。太平洋戦争で、敵の攻撃で沈没した最後のアメリカ海軍水上艦艇です。

インディアナポリスは1932年11月に竣工。太平洋戦争では、広島、長崎へ投下する原子爆弾用の部品と核材料をテニアン島へ運ぶよう命じられ、1945年7月16日にサンフランシスコを出港しました。7月26日テニアン着、その後、レイテ島へと向かいました。7月30日0時15分、北緯12度02分 東経134度48分の地点で、日本海軍の潜水艦伊58(回天特別攻撃隊・多聞隊)が発射した魚雷6本のうち3本が右舷に命中、インディアナポリスは火柱を吹き上げながら前方を海に突っ込み、転覆、沈没。この攻撃で乗員1199人のうち約300名が死亡したとされます。

「元山」は、朝鮮民主主義人民共和国の南東部、日本海に面した港湾・軍港都市。ソウルから東北朝鮮への入口にあたる交通の要衝で、天然の良港である元山港が日朝修好条規によって1880年に開港しました。その後はおもに対日貿易にたずさわり、日本人の大陸や北朝鮮各地への進出の拠点となりました。1929年に起こった、交通・港湾労働者を中心にした労働争議、元山ゼネストでも知られています。

「大白山脈」は「太白山脈」のことでしょうか。朝鮮半島のほぼ中央、半島の日本海側沿い南北500キロメートルにわたって走る。北から南へ、金剛山(1638メートル)をはじめ、雪岳山(1708メートル)、五台山(1563メートル)、太白山(1561メートル)と並び、南下するにしたがって低い残丘を残しています。

「蓋馬高原」(かいまこうげん)は、朝鮮半島北部の中央を占め、面積2万平方キロメートルに及ぶ広大な高原。平均高度は1200メートル。高原の西限は南北方向に走る狼林山脈で、白頭山(2750メートル)から南南東に摩天嶺山脈が走っています。

*「元山沖に錨をおろしたアメリカの航空母艦を骸骨をマストにかかげた海賊船に見立てて、それを孫に寝物語にきかせる老婆を歌った」(小野)この作品は特異な構造を持っている。この「むかしばなし」は眼前の事実がかたられているのであって、過去の事実がかたられているのではない。「まだ、いるの?」「シッ!いますとも、早くねむらないと――」このやりとりがなくなるのは「それ」が立ち去ったときであり、そのときそこの話は本当の「むかしばなし」になるのだ。それにしても「まだ、いるの?」という子供の言葉はなんと強く戦争を告発していることか。そして結びの二行に示されている大白山脈からの蘆原高原からの見据える視力がこの作品を強い確かなものにしている。《安》


harutoshura at 18:13|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月25日

「野の夜」

   野の夜

日向葵は重く
夜、地面に向って
こうべをたれる。
夜霧のかかった地平には
点々と赤い灯をつらねて
四本の巨大なポールがそびえている。
夜をこめて
爆音は絶えまもないのだ。
ときに屋鳴り震動して
それが女の抑臥している寝台のま上を
ななめに擦過するとき
牛小屋の牛は凶暴に床をけり
おびえた鶏どもはとやの中で不吉な鬨をつくる。
あけがた。
ガウンのえりをかき合せて
女がひとり窓ぎわに立って外を見ていることもある。
まだ何もさだかに見えない。
重油のにおいのする小川が
藁ぶき農家がたちならぶ
うす闇の中を
ながれているだけだ。

ヒマワリ

「ポール」とは、 細長い棒、さお。旗ざおや棒高跳び用の棒、野球場のファウルかどうかを見きわめる棒もポールと呼ばれます。測量の目標・尺度として用いる木製の丸棒のポールは長さ2~3メートルで、20センチごとに白・赤交互に塗ってあります。「地平に」そびえている「点々と赤い灯をつらね」た「四本の巨大なポール」というのは、なんなのでしょう。大規模な土木工事や建設事業のために立てられているのでしょうか、それとも詩人の想像の世界にそびえているのでしょうか。

「鬨」(とき)は、一般に戦場でのさけび声をいいます。敵味方が対陣するなかで、戦闘は、それぞれがまず「鬨をつくる」ことから始められました。として勝ったときには勝鬨をあげます。出陣に際して鬨をつくったことは、『吾妻鏡』の宝治合戦(1247)を記す部分に「城九郎泰盛……一味の族、軍士を引率し,……神護寺門外において時声を作る」とあることからも知られます。『和訓栞』には「軍神招禱したてまつる声を時つくるといひ,敵軍退散して神を送りたてまつる声を勝時と名(なづ)くともいへり」とあります。

*「四本の巨大なポール」「爆音」そして「重油のにおい」さえなければ、なにごともない野の夜のはずだが、それらがあるために、日向葵は重くこうべをたれ、肉は凶暴に床をけり、鶏はおびえて不吉な鬨をつくり、女はガウンのえりをかき合せるのだ。ここには絶えぬ爆音に押しつぶされた基地周辺が、むしろ無表情に述べられている。だが一行一行拾っていくとき、そこにあらわれる日向葵も牛も鶏も女も、小川も農家も、すべてが戦争を推し進めるものによって破壊されつつあるのだとしつように訴えていることがわかる。《安》


harutoshura at 18:10|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月24日

「虫の声」

   虫の声

窓をあけると
夜目にもしるく
Caution. Inflammable.
長大油槽貨車四輌つらなって視界をさえぎる。
深夜二時。
虫の声しきりなるところ。

タンク車

きょうから、昭和31(1956)年4月に東京創元社から発行された第9詩集『重油富士』に入ります。

「Caution」は、用心、警戒、警告、慎重、など、「Inflammable」は、燃えやすい、可燃性の、引火性の、といった意味です。

「油槽」は、石油やガソリンなどを貯蔵する大きなタンク。「油槽貨車」は、いわゆるタンク車。鋼材を組み合わせた台枠上に、積載装置である円筒形のタンクを搭載します。

積荷の液体、気体、粉粒状の物質は、直接タンク内に注入されて運搬(バルキー輸送)されます。タンク体を頑丈に作って強度を持たせ、台車取り付け部の枕梁と端梁、そしてタンク体を強く連結するフレームレス構造のタキ9900形が1962年に登場しました。

*「深夜富士の裾野とおぼしきあたりの駅の構内にとまっている油槽貨車の列を歌った」(小野)この作品は、横文字を記した貨車の積まれたものがなぜここにあるのか、何に使用されるのかということを抜きにしては考えられない。《安》


harutoshura at 18:04|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月23日

「雀の木」

   雀の木

夕暮。
六万体の焼あとの
さびしい丘の上で
逆光の中に
木々が震動している。
みればおびただしい雀だ。
なんだ、大阪の雀たちはこんなところで眠るのか。
遠く美術館の森の方にも
音叉のように
それに呼応している木がある。

美術館

大阪についてそれまでに書かれた詩のアンソロジーである第8詩集『大阪』(昭和28年6月、創元社版)に掲載されている作品です。

「六万体」は、大阪の要所、上町台地の中部にある天王寺区の町名。太平洋戦争による空襲で一帯は焼け野原となりました。吉祥寺(曹洞宗)、上島鬼貫墓所などもあります。

「遠く美術館の森」というのは、天王寺公園のなかにある大阪市立美術館=写真=のことでしょうか。昭和11(1936)年5月開館。もともと住友家の本邸があり、美術館の建設を目的に庭園(慶沢園)とともに大阪市に寄贈されたそうです。

大阪市立美術館は、六万体の南、ざっと1キロくらいのところにあります。

*(詩集の)表紙カバーの折り返しに藤沢恒夫と中野重治が書いている。中野の文を一部ここに抜いておく。
「(1939年の『大阪』には)戦争の大きな空気のなかで、大阪という都市、その郊外、その人間と風景とがおそろしい勢で変貌して行くすがた、それが、それに対する詩人の一こくで、しかし澄んだ肉眼を通してそこに示されていた。それは全くあたらしい、水上滝太郎のとも、谷崎潤一郎のとも、あるいは藤沢恒夫のともちがった大阪であった。そうして、それにふさわしく、たとえば朝鮮人にふれて歌ったものなぞは、伏字にされたのであった。詩の言葉が削られたのであった。それは1939年であった。今や1953年であり、この『大阪』がさらに新作を加えて、1953年の、一そう正確には、1939年から53年にいたる『大阪』として印刷されることはわれわれを感動させる」。《安》


harutoshura at 17:59|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月22日

「一本のろうそく」

   一本のろうそく

すきま風に
ろうそくのほのおは
左右にゆれる
いまにも吹つ消えそうだ。
わたしは両の掌で、
ほのおをかこう。
ほのおは一ゆれして
またまつすぐに立ち直る。
闇の中を地ひびきをあげて
十頭の野牛がかけぬける。
風ははげしくなる。
灯は消してはならない。

ゲルニカ

日本で「ろうそく」が登場したのは奈良時代で、中国から輸入された蜜ろうそくだったと考えられています。平安時代になると松脂ろうそくの製造が始まり、その後、はぜの蝋や漆の蝋などを使った和ろうそくに変わります。江戸時代にはハゼノキが琉球から伝わり、外出用の提灯のための需要が増えたこともあって生産量が増えました。和ろうそくは裸で使うより提灯などに入れて使うことが多かったので、蝋が減っても炎の高さが変わりにくいように上の方が太く作られていました。

明治以降は、西洋ろうそくが輸入されて、その地位も取って代わられていきます。西洋ろうそくはもともと、溶けた蜜蝋の中に芯を浸しては引き上げ、冷ます、ということを何度も繰り返して次第に太くしてゆく方法で作られました。現在一般的に使われているものは、芯を入れた型の中に、主に石油パラフィンとステアリン酸の蝋を流し込んで一気に成形して作られているそうです。

*詩集『火呑む欅』を刊行した当時、小野は「灯を消してはならない」と云う必要を強く感じていたのだろう。十頭の野牛がかけぬけるイメージは鮮烈であるが、小野調でないのが気になって、たずねたところ、これはピカソの「ゲルニカ」のエッチング(複製)のなかの野牛だということだった。このエッチングは池田克巳からもらったもので、今も小野家の玄関の部屋を飾っている。


harutoshura at 16:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月21日

「わがたてるところより」

   わがたてるところより

風がふく。風がふく。
潮騒のような葦原の葦の葉ずれ。
その音は宇宙のどこできいても同じだろう。
わがたてるところより
ふきなびきよせてゆく大葦原。
この果に海はない。
遠く遠く無限に遠く
オークリッジまで
つづいている。

オークリッジ

「オークリッジ」(Oak Ridge)は、アメリカ合衆国テネシー州東部の科学研究都市。1942年、マンハッタン計画によって、世界最初の原子爆弾用ウラン分離工場用地として町が建設されました。原子爆弾に使用するウラン235とプルトニウム239がここで開発されました。

オークリッジ国立研究所=写真=を中心に、核エネルギー、核物理の研究が行われています。原子炉施設、核燃料などの工場があるほか、45の大学による共同の原子力研究施設やアメリカ原子力エネルギー博物館があります。

「わがたてるところ」から「ふきなびきよせてゆく大葦原」は、この原爆開発都市にまで「つづいている」というのです。

*人をついには行動へ駆りたてる笛の音のような調子がここにはある。好きな詩だ。《安》


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2017年04月20日

「時計」

   時計

子供が
美しい一個の腕時計を
掌の上にのせて
人ごみの中に立つていた。
彼の眼眸は凶悪な光をおびていたが
背中には可愛らしい二枚の翅があつた。
誰れがいま過ぎゆく時間について
正確な知識を持つているか。
俺はただ彼がうしろで
どや、スイスの十五石や
とよびかけるのを
きいただけだ。

腕時計

「腕時計」などの機械式ムーブメントには、時計職人が、歯車用の軸受として摩擦を低減する「石」を入れているため、摩擦が最小限にとどめられています。もともとルビーが用いられましたが、近年では合成サファイアが用いられています。一般的に、時分秒を表示する標準的な機械式時計は原則として、摩擦による摩耗が最も起こりやすい場所に少なくとも15個の受け石、つまり「15石」を入れなければなりません。

時計産業は、17世紀に手工芸的な産業となり、イギリス、フランス、スイス間で激しい技術競争が起こりました。ところがフランスでは、ナントの勅令が1685年に廃止され、ユグノーが多かった時計職人たちは迫害を逃れてスイスへと移住します。そのためジュネーブ、さらにその北東のヌシャテルで時計産業が栄えるようになり、この2都市がスイス時計産業の中心となっていきました。日本製の腕時計が大量生産されるようになったのは20世紀に入ってからで、この詩が作られたころは時計と言えば何といっても「スイス」がブランドだったのでしょう。

*『大海辺』の「日本・冬物語」中に次のような一篇がある。
 自転車といふものはあれは何とも云へぬほど暗いものだ。
 近頃は農家の納屋を覗いても二台位置いてあるが。
 自転車工業などといふ言葉を聞くと私はゾツとする。
 夕暮。公園の横の板を上つていつたら
 チエンの錆びたボロ車体を舗道に立てかけてゐる男がゐて
 大将、五枚にまけとかうと云つた。(「自転車について」)
「誰れがいま過ぎゆく時間について正確な知識を持つているか」は、「自転車工業などといふ言葉を聞くと私はゾツとする」に対応しているが、並べてみると、敗戦直後とその後の時間経過を感じさせもする。
 「街角で」「時計」などの作品が「冬の海から」「舟幽霊」「不知火」などの作品とともに収められているところに、この詩集の成立した時代の困難が如実にうかがわれる。《安》


harutoshura at 17:50|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月19日

「街角で」

   街角で

死が
うつろな眼にきていた。
ぼくは見た。
まぎれもなく真昼間だが
もうとりかえしのつかない
洞穴のように深い大暗黒が
その痩せ細つた子供がへたばつている石だゝみのあたりから
下方に向つてたてに
つまり地面の下に向つて垂直にひろがつているのを。
それはじつにしずかで不動そのもので
ものすごい光景であつた。

マハーカーラ

ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ=写真、wiki=の“マハー”とは、大(偉大)、“カーラ”は暗黒(黒)または時を意味し、大暗黒天大黒天と漢訳されます。青黒い身体に憤怒相をした護法善神です。日本では、神田明神の大黒天(大国天)像のように、神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすこともあります。

最近では、宇宙の成り立ちを説明するうえで「暗黒物質」が欠かせないと考えられています。質量は持つものの電磁相互作用をしないため眼には見えない“暗い物質”。銀河系内に遍く存在してふつうの物質の約6倍もありますが、物質とはほとんど相互作用をしません。それが密集していると強い重力で近くを通る光を曲げ、遠くの天体の姿をゆがめて見せます。

*『抒情詩集』の「犬」では犬のイメージを借りてえがかれた餓死者が、この作品では直接的に深い悲しみと怒りをもってえがかれている。《安》


harutoshura at 17:47|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月18日

「造園術」

   造園術

よろしい。
それならお前の夢は?
それを言つてごらん。
きいているのはぼくだけだから。
思いきつて大胆に。
まずそれはこんなものではないかと思うことを。
お前の夢にあらわれる土地や風景を
どんなかたちででもよい。
自由に描いてごらん。
お前が創造出来ること
こうなれば世界はどんなに美しいかということ。
でなければせめてこんな風になればと思うようなことを
それをいますぐ言つてごらん。
めんどくさいからつて
シルフやフェアリーが遊んでいるアルンハイムの水流を指したり
ゴビの向うにある大きな国をあげたりしたつてだめだ。
スエーデンの消費組合はなどというのもだめだ。
とつさに考えをめぐらして
小さな穴から一条の強烈な光を導入するように
ある朝雨戸をけつたら外はという風に
それを鮮明に
眼のあたりに実現させるのだ。
あゝ、しかしぼくならとんでもないまちがいをしやしないかと思う。
鬱蒼たる木の間に
急傾斜の大破風をもつた
飛騨の白川村の民家のような
そんな聚落があらわれたり
或はオーストラリヤのキャンベラのような
真白な田園都市が浮かんだら
それはまだよい方だろう。
ひよつとすると
ぼくはだしぬけに
たとえば昨日新聞で見たばかりの
長崎港外にある
端島炭礦の遠望写真を想い出して
あすこに見えるあれがなどと言いかねないのだ。
海上はるか
四隅に塔のある中世の城郭のような
そしてその上に束になつて数本の大煙突がそびえているあの断崖絶壁を
せつぱづまつて
ぼくの夢なんですと
言つてしまうかも知れない。

端島

エドガー・アラン・ポーの短編「アルンハイムの地所」では、遠い親戚から巨万の富を相続したエリスンという男が、その金を使って自然に手を加え、究極の楽園を作るという物語です。前半でエリスンが人工的な美を追い求めるに至った経緯を描き、後半はエリスンの死後、アルンハイムを訪れた人々が見た楽園が描写されいます。

眼前にひらけたアルンハイムの楽園には、高い東洋の樹木や鬱蒼たる灌木、金色や深紅色の小鳥の群れ、ユリで縁を囲まれた湖、そして、スミレ、ヒナゲシ、ヒヤシンスなどが生い茂った牧場、金色の小川の長く入り乱れた線などが見える。さらに、半ゴシック風・半サラセン風の大きな建物がそびえ立っている。それは、あたかも「シルフ」(気仙)や「フェアリー」(妖精)などが、力をあわせてつくり出した幻の楼閣のやうに見えたとされています。

「端島」=写真、wiki=は炭鉱開発のために周囲を埋めたてられ、要塞のような人工島になっています。もとは瀬でしたが、埋め立てにより周囲1.2㎞、面積約6.3ha、南北に細長く、長さ約480m、幅約160mの海岸線は、直線的で島全体が護岸堤防で覆われています。炭鉱で採炭される石炭は八幡製鉄所の製鉄用原料炭として供給され、日本の近代化を支え続けてきました。

最盛期の1960年には島内に5267人も暮らしており、東京の9倍という脅威の人口密度でした。炭鉱労働者は所得も高く、大半の人が都会にも無かった高層マンションに暮らし、カラーテレビの普及率が平均10%時代に、この島では100%の人が所有していたといいます。1974年に閉山し、その後35年間は島民でも上陸できませんでした。

*この詩にあっては「夢」が正面から問われている。それならお前の夢を云ってごらんと。とっさに考えをめぐらしていますぐ云ってごらんと。「いってみれば、死を無際限の夢と視、黒を白、微視を巨視といいかえる式の、かなり強引な自己催眠が意識的に演出されている」と安東次男は述べている。小野がこの種の「強引な自己催眠」によって「意識的に」なにを果そうとしているかは、『風景詩抄』以後この『火呑む欅』に至ってかなり明らかになったといえる。「冬の海から」以下8篇に、そしてまた「不知火」以下6篇に、「西班牙」「造園術」の2篇にあらわれた「夢」をのせてすかしてみるといい。「せつぱづまつて」これがぼくの夢ですといってしまうという「せつぱづまつた」情勢のなかにおいてなお「ビクともしない感性の不動の秩序」を求めているのだろう。そして小野が常に考えているのは「問題の方向に動く想像力」であろう。この詩の最後で小野は「せつぱつまつて」長崎港外端島炭礦遠望写真を持ちだしたように書いているが、それは小野の手管であって、「せつぱつまつて」しか「夢」はいいだせないのだし、せっぱづまった夢から問題の方向へ歩いていけるのだという自信のようなものをむしろ感じる。『異郷』『垂直飛行』など最近の詩集において小野の「夢」は不鮮明を脱してまことに鮮やかに奔放に展開する。《安》


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2017年04月17日

「西班牙」

   西班牙

若さに
そんなに
まともな理由なんかありやしない。
神だとか自然だとか
永遠の観念だとかいう酢つぱい食物を
口にして吐き出したまでだ。
昼も夜も
あやしげな酒場で酔つぱらい
ごたくをならべては
相手も場所もかまわず
喧嘩を吹つかけたり
むちやくちやな恋愛をしたりしていたころの何かが
まだここのところに
少うし残つているのだ。
ひそかな願望はと言えば
愛する仲間の心や
信頼する組織の抱擁性と深さに甘えて
かれらから時々しようがないやつだと思われたいことだ。
いつまで若いということに
その他に何か秘密があるか。
夢はしずかだが
ここはスペインの岩石砂漠だ。
到るところに中世の暗い城郭が聳えているのだ。
荒れ狂う血の古さがあるのだ。
同じ陽ざしでも
カタロニヤの
これは夕暮だ。

カタロニア

「西班牙」(スペイン)の「カタロニヤ」=写真、wiki=は、スペイン北東部の地方カタルーニャの英語読みです。古くからギリシア人、フェニキア人が植民市をつくり、古代ローマ時代には、ヒスパニア・タラコネンシスとよばれる属州の一部でした。5世紀から西ゴート人が、8世紀からは北西アフリカのイスラム教教徒であるムーア人が侵入し、この地を支配します。8世紀末にはフランク王国のカール大帝が侵入し、9世紀初めにスペイン辺境領とし、後にバルセロナ伯領として独立しました。

レコンキスタ(国土回復戦争)の進展する過程で、12世紀から15世紀初めまでアラゴン王国と同君連合でしたが、この間、カタルーニャは地中海貿易を独占して繁栄しました。15世紀末のアラゴンとカスティーリャ両王国の合併と大西洋航路の発見によって、スペインにおけるカタルーニャの地位は低下しましたが、カスティーリャに反抗して政治的、言語的な自治を要求し続けました。

19世紀後半には、カタルーニャはスペインの労働運動の中心地となり、マドリードからの分離・自治権獲得運動も活発となります。十三郎も興味を抱いていたアナキズム、サンジカリズムが有力なことが、この地の労働運動の特色です。スペイン第二共和国の成立によって1932年に自治権を得て、1936~39年のスペイン内戦においては人民戦線派の拠点となり、内戦の最後までフランコ軍に抵抗しました。

*「一篇の詩に語らせた自叙伝と読んでもよいし、詩法ともいえよう。あらかじめ用意された、墓碑銘でもあるようだ」と安東次男は述べている。前半は小野の心情が生ででているとみていいだろう。「愛する仲間の心や/信頼する組織の抱擁性と深さに甘えて……」というあたりの告白体は自伝的考察『奇妙な本棚』にしばしばあらわれるものである。《安》


harutoshura at 17:42|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月16日

「唐辛子の歌」

   唐辛子の歌

朝鮮料理は
なぜ辛いか。
キムチという漬物にいたるまで
トオガラシを使用しないものは一つもない。
蕃紅色の大粒の朝鮮トオガラシ。
きみはそれを炊きたての飯の上にふりかけ
汗もかかずかつかつと貪り食つた。
ぼくらは別にたのしい会食をしたわけではない。
また料理というほどのものを味わつたわけでもない。
へんなまわり合せで
日本のある大工場で一年有半
蒸気すいさんのまずいめしを共に食つてくらしたに過ぎないが
破けた小包のはしからこぼれおちた朝鮮のトオガラシを見たとき
俺も一しよになつて
ふしぎに切ない郷愁をおぼえた。
辛さにも北朝の辛さがあり
大韓民国の辛さもあるだろう。
いまそのいずれが痛烈たるや知らない。
俺はただあの頃毎日君らの朝食のために
四斗樽一ぱいのヒジキの味噌汁が朱に染るほど薬味を利かせたことを想い出す。
それでもきみらは
まだまだ、まだまだと云つたものだ。
蕃紅色の大粒の朝鮮トオガラシ。
乾燥して血の色をしたやつ。
ほんとうの豪華な朝鮮料理では
さてそれをどう使うのか。
きみらの食慾の
ますます旺盛ならんことを
ねがうのみ。

唐辛子

「唐辛子」(トウガラシ)=写真、wiki=は中南米原産のスパイス。数千年前から、広く栽培されていましたが、15世紀末の新大陸発見以後ヨーロッパに持ち込まれ、その刺激的な辛みの魅力と強い繁殖力のため、50年ほどでアジアからアフリカにまで普及しました。現在ではもっとも重要なスパイスの1つとして、世界中の料理に欠かせない存在となっています。

インド、韓国、メキシコ、東南アジアなどの料理はもちろん、日本料理でも麺類の薬味や漬けものの風味付けに欠かせません。韓国ではキムチ、チゲなど、多くの料理で使われています。キムチに使われる唐辛子は、韓国特有の辛みが少ない大きめの唐辛子で、ほんのりと甘みがあります。男児が誕生すると縄に唐辛子をはさんで戸口に掲げる習慣があるそうです。

「蕃紅(サフラン)色」は、アヤメ科の球根草サフランの花の柱頭を乾燥させて作った顔料の赤みがかった濃い黄色。古くから香料、染料、食品の着色などに用いられてきました。色名は調理器具、文房具、日用雑貨、自転車など幅広く用いられています。

1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させました。これによって、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、当事国間の「国境」となったわけです。建国後、南北両政府の李承晩大統領は「北進統一」を、金日成首相は「国土完整」を主張します。ここから「北朝の辛さがあり/大韓民国の辛さもある」という状態が始まったわけです。

*小野が朝鮮人を歌うと「妙に異常な愛情」があらわれると北川冬彦がいっていることは、『大海辺』の「惜別」のところですでに述べたが、この詩も例外ではない。唐辛子にたくして率直な愛情が手ばなしで語られている。《安》


harutoshura at 22:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月15日

「落葉」

   落葉

山では
芒つ原が
ほんとうの黄金色に照り映えている。
宇宙の外に吹つとんだか
小鳥の啼き声もしない。
しんしんとした山中で
高い梢から
最後の葉が枝をはなれるさまは
天から一ひらの羽毛が舞いおちてくるような
何かが爆発したあとに似ている。
地に達してはじめて
それは終わるのだ。

落葉

「芒」(すすき)は、イネ科の多年草。秋の七草の一つです。高さ1~2メートルに達し、8~10月、稈頂に花序を出します。北海道から沖縄、朝鮮半島、中国に分布、平地や山地の日当りのよい地に群生します。

集落の近くや焼け跡に自生するため、稈の根元から刈り取って屋根を葺く材料とし、古くからカヤ(茅)とよんで利用しました。茅葺き屋根の大部分は、この植物を乾かして使用します。炭俵、草履、箒などにも利用されてきました。

『古今集』には秋の代表的な景として「秋の野の草の袂(たもと)か花薄(すすき)穂に出(い)でて招く袖(そで)と見ゆらむ」(在原棟梁)とあります。また、コメ、ムギなどイネ科の植物の小穂の先端にある棘状の突起のを、芒(のぎ)といいます。

天から舞いおちてくる「一ひらの羽毛」というのは、天使の翼の羽毛がイメージのどこかにあるのでしょうか。

「最後の葉が枝をはなれるさま」が「何かが爆発したあとに似ている。/地に達してはじめて/それは終わるのだ。」というと、やはり、小さな原子の核分裂反応がもたらす莫大なエネルギーによって大きな被害をもたらした原子爆弾が連想されます。

*小野はものにつけ、ことにつけ、心動かすというタイプの詩人ではない。だが、とるにたらぬとおもえるほどのことに小野の心が動くとき、そのときそこには事件があるのだ。小野の短い詩に一瞬の力技のごときものがあらわれるときがある。「群雀」にしても「落葉」にしてもその好例といえよう。《安》


harutoshura at 15:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月14日

「群雀」

   群雀

遠くに
群雀が飛ぶ。
かれらの一団の飛翔のなかには
絶えず何かがはじけ
絶えず何かが爆発しつづけている。
血のような収穫の日の残照!
地がさかさまに
天に映える。

スズメ

「雀」はもともと樹上に営巣する鳥で、地上2~10メートルの樹上にたくさんの茎葉を使って丸い横型の巣をつくります。隣どうしの巣がつらなって集団営巣のようになることもあります。長い年月、人間とかかわり合って穀物の味を覚えたからか、巣づくりも樹上から人家の構造物に移動する傾向もあります。営巣期は早春から夏にかけてで、秋になると農耕地に集まり、夜は葦原、竹やぶなどを集団のねぐらとしますが、稲穂を食害するので、農家からは嫌われる存在です。

*『火呑む欅』の巻頭を飾るこの詩については小野の自作解説がある。戦後まもない頃、近鉄に乗って伊賀の上野まで炭の買い出しに行った小野は子供の炭のかつぎ屋部隊と乗り合わせて話をする。
「毎日、時には日に二往復して伊賀まで炭の買い出しに行く子供のかつぎ屋仲間の間には、きいてみると一つの賭けの習慣があって、帰りの電車の窓から、村雀の大群が飛んでいるさまを見るか見ないかが、彼らにとって重大事であったのだ。大和か河内の野の果てに村雀がばめきのようにわきたったり、波状をなして飛んでいる光景を車窓から見た日は、終着駅に着いても、買い出し取り締まりの経済警察の網にひっかからないで無事大量の炭俵ををかついで改札を通りぬけられるという一種の縁起かつぎが、子供たちの間にあることが、話をきいていてわかった。私はその日、帰りの電車が、伊賀、大和を過ぎて河内の国にさしかかった時、私のそばに炭俵を置いて立っていた少年が、窓の外を透かし見るようにして、突然発した奇声を忘れることができない。その日、同車していた子供の大かつぎ屋部隊は、めでたいことに、彼らが念願していた村雀の大群を遠くの野末に発見したのであった。私の目にも、遠くに、電車の速力と競うように、波状を描いて村を飛び越え、森を飛び越えて、どこまでもどこまでもついてくる雀の大群の姿が映った。『群雀』という詩は、この時に生まれたといってもよい」(『現代詩鑑賞講座』第一巻角川書店「荒廃の季節とわが詩作」)
 もちろん出来あがった詩からは子供たちは姿を消していて「群れ飛ぶ雀の形象でもって、自己の願望のありかを探る詩」(同書)がわれわれの前にあるだけだ。小野の雀の詩に目をつけた長谷川龍生はその系譜をたどったうえで「小野十三郎は一羽の雀である。一羽の雀でありながら、自己との対立した社会から、社会への自己の拡大化、社会への参加、一羽の雀の目の中にある百万羽以上の雀の大群。小野十三郎の芸術的昇華が社会的に大きな意味をもっているのは、自己に対して、自己が忠実な命令を下したためであろう」(『日本詩人全集』第26巻新潮社「人と作品」)


harutoshura at 21:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月13日

「トリスの空壜に」

   トリスの空壜に

あけがた。
富士を
八年ぶりに見た。
それははじめはこれまでと
ちよつとちがつた方角に
幻影のように現われて消えた。
きみはよく眠つていたから
知らなかつただろう。
トリスの空壜にうつつたあの小さな富士は
それからどうなつたか。
岩淵では製材工場の構内の電燈がまだついていた。
朝の電気の光芒は冴えて
悲しい。

トリス

「トリス」は、サントリーが販売するウイスキーのブランド。戦後、粗悪品の焼酎などが横行するなか、1946年に本格発売され、うまさと低価格で人気いなりました。1958年には、マスコットキャラクターのアンクルトリスが誕生しています。

1950~1960年代には「トリスバー」という安酒場が流行しました。トリスハイボールとつまみのピーナッツを安価で提供し、安心して洋酒が安く飲めるバーと言うことでサラリーマンや学生の人気を集め、最盛期には全国に約2万店舗にまで増殖したといわれます。

1960年にはハイボール缶「ウイスタン」を販売、各地でハイボール「トリハイ」が飲まれるようになります。1980年代になると焼酎ブームによってトリスの人気は落ちましたが、2003年にボトルと味をリニューアルして再登場し、アンクルトリスも復活しました。

「富士」で「岩淵」ということは、静岡県東部の富士市岩淵でしょう。富士市は工業の盛んな街。なかでも豊富な地下水を利用した製紙業が盛んで、特にトイレットペーパーは生産量日本一を誇っています。

明治時代に入り、洋紙の製造技術が導入され、王子製紙が近代的な製紙工場を開設。その後、中小製紙会社も次々と設立されて栄えましたが、戦後の高度成長期、製紙工場の排水で田子の浦港にヘドロが溜まり、水質悪化や大気汚染で社会問題も起こっています。

そんな、あちこちに工場が立ち並ぶ街には「製材工場の構内の電燈がまだついてい」る。24時間の交代制でフル稼働しているのでしょうか。それを「朝の電気の光芒」ととらえ、その「冴え」た明りに「悲し」さを感じています。

*つまり問題は「正確に対応する心の習慣」であり、さらに「問題の方向に働く創造力」である。トリスの空瓶にうつった小さな富士がそれからどうなったかという設問は、この点を押えないかぎり無意味なものになってしまうし、「冴えて悲しい」という表現も単なる個人の内的現実に対応するしかなく、時に感傷にさえ堕さざるをえなくなる。「不知火」以下の数篇のもつ重大な方法的意味はまさにこのあたりにあるのだ。


harutoshura at 17:19|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月12日

「深夜の富士」

   深夜の富士

乗ると
すぐねむつてしまつたが
ふと眼がさめた。
いつのまにか丹那はすぎて
沼津の近くだ。
ぼうばくとしたすそのの斜面をのぼつて
天のなかほどまで点々と灯がついている。
「――あゝ、富士ですね。」と
その時向いに坐つていた顔色の悪い青年がはじめて口を利いた。私に。
窓の外を透かしてみるようにして。
私はうなずいた。
しかしそれは
かれのひとりごと
だつたかもしれない。

富士

「丹那」は、静岡県東部、箱根外輪山南麓の町である函南(かんなみ)町の丹那地区。北は神奈川県境に接し、北西部は沼津・三島両市に隣接しています。箱根十国峠ケーブルカーからは富士山の見事な眺望が開けます。酪農、ニンジンなどの根菜類やスイカ、イチゴの栽培が盛んで、都心からのアクセスがいいので、東京・神奈川のベッドタウン・別荘地としても発展しています。また、函南町から伊豆市まで約30キロメートルにわたる活断層「丹那断層」でも知られています。静岡県東部700年から1000年周期で大地震が起こると考えられ、1930年の北伊豆地震で最大3.3メートルの横ずれが生じました。

また、丹那トンネルは、東海道本線の熱海駅〜函南駅間にある複線規格のトンネルです。総延長7804m。1918年に工事に着手しましたが難航をきわめ、1934年に完成しました。「いつのまにか丹那はすぎて/沼津の近くだ。」ということは、詩人は東海道本線の列車で、東京のほうから大阪方面に向っていることがわかります。

*この詩について小野は、加藤周一の「書かれていることはわからないことはないが、なぜこのような詩が書かれねばならなかったかわからない」という言葉、壺井繁治の「この詩のモチーフはよくわからぬ」という言葉、岡本潤の「『大海辺』以後の小野の詩にはぼくが現代詩に対してもつ疑問が集中的にあらわれている」という言葉を挙げたのち、次のように反論している。
「なぜこのような詩が書かれねばならなかったかわからないという加藤さんの言は一寸作者たる私には解せないのです。この詩がかりにただ夜汽車の中で『向いに坐つていた顔色の悪い青年が』『あゝ、富士ですね』と云ったが、自分に云われたのか、かれのひとりごとだったかわからなかったということを書いたものに過ぎないものとすれば、加藤周一が云ったように、それはただよくありそうな些細な話で、詩に書くには価しなかったでしょう。しあし若し作者が、たまたま同車したこの顔色の悪い青年に、一種の戦争犠牲者ともみなすべき廃疾者や結核病者の姿を見、そしてこういう青年が真夜中に汽車の窓から富士山を望見したときに、それが国家的象徴としての霊峰富士に観念聯合して、あの戦争当時の記憶を蘇らせ、どんな感慨を彼に抱かせるだろうかということを想像してみたとすれば、それは充分書くに値することであって、一つの詩のモチーフに充分なり得るものであると私は考えます。青年が真夜中の富士を見て、ひとりごとを云ったというようなこととはわけがちがうのです。」(『工作者の口笛』国文社「激動から秩序へ」)
 小野はさらに「今日多くの人たちの心の中から、心の奥底に湛えられている、しめやかな、根強い反戦詩をひきだしたい」といい、「この一篇が、今日の段階に於てそれに正確に対応する心の習慣となっているかどうか疑問」だとしながらも「そういう問題の方向に、諸君の想像力が少しでも働いたならば、いろいろ難点のあるこの詩もまあ六部通りは成功している」といっている。これらの云い方のなかで小野が目指していたことは明白である。


harutoshura at 17:15|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月11日

「爆心地の鳩」

   爆心地の鳩

土砂ぶりの
雨の中に
くくと鳩が啼いていた。
爆心地にすみついた鳩のなきごえだ。
日暮までまだ間があるのに
あたりはうすぐらい。
物産陳列館の円屋根には大きな穴があいていて
雨はそこからようしやなくふりこんでいた。

原爆ドーム

「爆心地」は、ふつう原子爆弾など核兵器の爆発の中心地をさします。現在、広島の原爆の爆心地は、相生橋の南東、島病院であると考えられています。1969年に行われた調査によると、東経132度27分29秒、北緯34度23分29秒、高度580メートルが爆心であるとされています。「物産陳列館」(原爆ドーム)は、爆心地から西へおよそ200メートルの地点にあります。

「物産陳列館」=写真、wiki=は、広島県広島市中区大手町にあった建物で、いまでいう原爆ドーム。広島湾に流れる太田川河口の三角州にあって、1915(大正4)年に建てられた広島県産業奨励館(当初の名称が広島県物産陳列館)が、1945(昭和20)年、広島に投下された原子爆弾によって破壊され、鉄骨をむきだしにした天井ドームとレンガの壁だけが残っています。

煉瓦と鉄筋コンクリートで造られた3階建てで、正面中央の階段室を5階建てドームとしていました。第2次世界大戦後、危険建造物の撤去が始まるなかでその存廃が議論されましたが、撤去は取り止められて「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

この詩が作られた後の1966(昭和41)年に、広島市議会は原爆ドームの永久保存を決議しています。第2次大戦末期における原爆投下の歴史的事実と人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える遺跡で、核兵器廃絶と恒久平和を求めるシンボルとなってきました。

*爆心地ということで、この詩の読者の磁石の針は案外容易に一定の方向を指すのではないか。だが注意すべきは、この作品もまた前出の二・三の作品と変りのない手つきで書かれていることである。鳩がえがかれているのではない。雨がえがかれているのではない。鳩に雨に向いあっている人間の存在のあり方が読者に問われているのだ。


harutoshura at 20:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月10日

「播州平野」

   播州平野

その野は
いつまでもいつまでも
窓の外につづいた
海のようだつた。
近く遠くところどころに
誘蛾燈が光つていた。またたきもなく。
あゝそれらの誘蛾燈の
鮮烈な一つの灯と灯のあいだは
なんと大きな暗い空間だつたろう。
かゝる美麗なる暗黒を
はじめて見た。
誘蛾灯

「播州平野」は、兵庫県南西部、瀬戸内海の播磨灘(なだ)に面する平野で、播州平野、姫路平野ともいわれます。東西約55km、南北約10~20km。海岸部は複合三角州を形成。沿岸部は江戸時代には一面、塩田地帯で、現在は沿岸の埋め立て地に金属・鉄鋼・化学などの近代工場群が立地し、阪神工業地帯に連続する工業地帯として発展しています。東部の加古川中・下流域は酒造用米で知られる県第1の穀倉地帯でしたが、近年は宅地化が著しくなっています。

「誘蛾燈」=写真=は、昆虫の走光性を利用して、害虫を誘い、殺滅する蛍光灯、ブラックライト、高圧水銀灯などの照明装置をいいます。昔は光源に石油ランプ、アセチレン、60W電球などを用いられました。光に集まる害虫を、水面に油滴、中性洗剤を落とした水盤に落下溺死させたり、殺虫剤を入れた箱、袋に集めて死亡させます。

主にイネのメイガ類、ダイズのコガネムシ、果樹のシンクイガ、ハマキガの幼虫の捕殺に使用されました。昭和の初期から第2次世界大戦直後にかけて、鏑木外岐雄らが、ニカメイガが330~440nmの紫外線によく誘引されることを明らかにし、同範囲の光を効率よく出す青色蛍光灯を開発しました。

*「かゝる美麗なる暗黒」といってもそれがいかなる暗黒であるかは明白ではない。ただこの10行ばかりをていねいに読み進むとき、鮮烈な灯、灯と灯とのあいだの大きな暗い空間に向きあっている人間の存在のあり方が浮かびあがってくる。「美麗なる」とは暗黒の形容ではない。暗黒に向きあっている人間の感動のあり方を示している。この詩もまた戦争を抜きにしては正しく捕えられないだろう。《安》


harutoshura at 18:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月09日

「火呑む欅」

   火呑む欅

暗い空が
水たまりにうつつている
きみのエンピツ書きの地図は正確か。
焼跡、変電所はあつた。
酒屋もあつたよ。
その通りにやつてきたが、
さあ、わからなくなつたぞ。
ねちまつているんだ、冬の武蔵野はもう。
僕は手を口にあてゝ
十一年会わないきみの名を大声でよんでみた。
すると、どこかでたしかに一つの物音がして
また、しんとなつた。

ケヤキ

「欅」(けやき)=写真、wiki=は、木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じ、堅くて摩耗にも強いので、家具や建具の指物に使われています。日本家屋、神社仏閣などの建築材としてむかしから用いられてきましたが、最近は高価で庶民にはなかなか手に届きません。

伐採してから乾燥するまでのあいだに欅は大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えません。大黒柱に大木を使うと家が歪むほど反りかえるので、大工泣かせの木材ともいわれます。そうした内に秘めた激しい性質も「火呑む欅」という言葉と絡んでいるかもしれません。

「変電所」は、発電所からの電力を利用者に送る過程で、変圧器や整流機器によって交流電力を異なった電圧の交流または直流電力に変える施設。明治後期になって、都市から遠く離れた水力発電所が建設されて数万ボルトの送電線が用いられるようになり、現在の変電所が誕生しました。電力需要が増大するにつれて次々と高電圧が採用され、変電所も高電圧・大容量となるとともに、いろんな系統との連系で役割が重要になってきました。

「武蔵野」は、東京都と埼玉県にまたがる洪積台地。だいたい南は多摩川から、北は川越市あたりまでで、古くは牧野、江戸時代から農業地に開発され、雑木林のある独特の風景で知られました。戦後の復興期、宅地化が進行し、現在では一部の公園や農地、緑地を除くと市街地が隙間なく東京郊外の武蔵野地域にひろがっています。

*十一年とは戦争が奪った時間だ。「なかまというなかま/ともだちというともだちが/みな消息をたつて/生死も不明になつたとき」(「人間の土地」)なのだ。生死不明の時代と意識を抜きにしてはこの詩の意図するところは全く不明になってしまうだろう。「火呑む欅」とは内に激しさを持つもののイメージだ。《安》


harutoshura at 03:28|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月08日

「不知火」

   不知火

ひとびとは
ふかいねむりにおちている。
波もおさまつて
しずかな夜だ。

有明海にちらばつた
さびしい島の
そのいやはてに立つている
火見櫓。
舟の帆柱の上。

まつくらな海上を
灯をつらねて
ごうごうと
すぎてゆくものがある。

不知火

「不知火」(しらぬい)=写真=は、有明海と八代海の沿岸で真夏にみられる光の異常屈折現象をいいます。海上の漁火が、実際よりもずっと多く明滅し、横に広がってみえる奇観を呈します。夜になって干潟と海面の温度に差が生じると、それらのうえの空気の密度も異なります。風があると密度の異なるこれらの空気かたまりが湾内を満たし、それがレンズと同じような作用をして光が不規則に屈折して起こると考えられています。

福岡市博多区の一地区「板付」は、第二次世界大戦前は寂しい農村でしたが、大戦中に滑走路が完成した蓆田(むしろだ)飛行場を戦後アメリカ軍が接収して、板付飛行場として整備拡張しました。この詩のモチーフになっている朝鮮戦争時には、日本本土内では最前線基地となりました。1951年から民間航空に開放されて福岡空港となり、1972年に全面返還されました。

*朝鮮戦争にかかわる詩の一つであって、小野は「九州板付基地から発進するアメリカ空軍中距離爆撃機の編隊の行方を追った」作品と述べている。「ふかいねむり」「しずかな夜」とつづく静寂を「灯をつらねて/ごうごうと/すぎてゆくもの」が刺しつらぬく。この微妙な対置のなかにこの詩は直立している。読者はこれらの言葉を慎重に測って自己の磁石の針の方向を見定めなければならない。《安》


harutoshura at 16:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月07日

「日本の新聞」

   日本の新聞

夕ぐれ
まだ灯のいらぬ街の
新聞売場に
荒縄でしばられた
夕刊の束がどさりとつく。
待ちかまえていた子供たちは
それを地べたでほぐして
一枚々々すばやくおりたゝみ
白木の組立台に
社名の耳をそろえて
きれいにならべる。
そしておもしの小石を
その上にのつける。

ビルから吹きおろす風に
十数種類の日本の新聞がはたはたとそのへりをひるがえす。
それは何ともいえないかなしい音だ。

それはかなしい音だ。
千を越す日本の新聞が
どれもこれもただ一つのことをしかうたわずうたえぬ日本の新聞が
戦争の匂いのする日本の新聞が
それでもまぎれもないわれらの日本語で縦に組まれた日本の新聞が
いま夕ぐれのこの時刻に
われらが祖国のいたるところで
はたはたとその青白いへりをひるがえしている。
北海道の果でも。九州の街々でも。

私は見た。
舗道に散つた
刷りたてのその一枚が
風をはらんで
巨大な生物(いきもの)のように起ち上つたのを。
それは横断道路をなゝめにつつ走り
ロータリーの
枯れ銀杏の根つこに
二枚折れにへばりついたと見るまに
たちまち
中天に舞いあがった。

夕刊

夕刊を専門に発行する夕刊紙の第1号とされるのは、1877年11月創刊の「東京毎夕新聞」とされ、その後、東京日日新聞など大手の新聞も続々夕刊を創刊させました。

太平洋戦争の激化による新聞の統廃合や製紙事情によって1944年に夕刊はいったん廃止されますが、しかし、大手全国・県域紙が夕刊発行のための子会社などを設立し、戦後の1950年前後から夕刊が復活しています。

戦後、大阪市では、「大阪新聞」「大阪日日新聞」「関西新聞」「新大阪」など夕刊紙がたくさん発行されていました。大阪府の地方紙は、すべて夕刊だったそうです。

駅の売店に行列ができ、分厚く積み上げられた新聞の山があっという間になくなっていく。新聞社の発送の搬出口では大八車が待ち構え、待たせないように印刷部門では、水を含ませた布を当てて、輪転機の過熱を冷やしながら回し続けました。

中でも戦前からの歴史のある大阪新聞はダントツの人気でした。大阪新聞が誕生したころの日本新聞年鑑には「此の新聞の本領は無色透明の大阪第一主義で……一寸亜米利加の州新聞の生立と似てゐる」と紹介されています。

大阪新聞は、全国紙の産経新聞のバックアップ体制から取材、紙面づくりは他紙を圧倒しました。織田作之助、司馬遼太郎など数多くの作家を輩出した新聞としても知られています。

*おもしの小石のしたでひるがえっている夕刊をとらえる眼。北海道から九州まで日本全国いたるところでひるがえっている夕刊を捕える眼。巨大な生物のように起ち上って中央に舞いあがる一枚の夕刊を捕える眼。広角、望遠、あらゆるカメラを駆使して小野は戦争の臭いをあばく。力のこもった作品だ。《安》


harutoshura at 15:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月06日

「小鳥の国」

   小鳥の国

グワツときた音。
グワツときたその向うがわは
いや、もうその音の中が
小鳥の天国だ。
黒い湖をかこんで
糸杉かなんかの森が見える。
そしてきみはそこですでに
あおじのようなかれんなものになつてしまつている。
ぼくはいつかこんな映画を見たことがある。
それはフランスの映画だつたが
生と死の境に一枚の大きな鏡が立てかけてあつて
みるみる水面のように小波立つたその鏡の中へ
白い手袋をはめた一人の若者が
何かをまさぐるような手つきで
はいつてゆくのだつた。

しかしきみは極めてかんたんだ。
夜の明け方。少しばかりはがねの匂いのする地面にうつ伏せになつたまゝ
きみははいつていつた。小鳥の国へ。
きみのからだの上に向つて
しやにむにばく進してくる重量音の
その中から!

アオジ

「小鳥」は、ふつう漠然と小形の鳥をさしていい、どの程度の大きさかは人によって異なりますが、メジロ、ブンチョウ、ジュウシマツなど全長約10センチメートル以下のものをさすことが多いようです。ただし、ウグイス型やスズメ型でない、シギ、チドリ、インコ、ハト、カワセミ、キツツキなどの鳥でも小形なら小鳥とよぶ人がいる一方、そうした体型の鳥はいくら小さくてもそう呼ばない人もいます。

「あおじ」=写真、wiki=は、スズメ目ホオジロ科。全長 14~16cm。雄は地色が頭部から背、肩が暗い灰緑色、翼や腰は茶色、背、胸腹部は黄緑色で、肩や翼、胸、脇に黒い縦縞があります。

尾羽は両端の二枚が白く、ほかは褐色。雌の羽色は全体に雄より淡い。シベリア東部、中国東部、サハリン島、千島列島、日本のほか、中国雲南省北部と湖北省から甘粛省にかけて繁殖します。

日本では北海道の平地の原野や林と、本州中部以北の山地や高原で繁殖します。巣はわん型で、林縁の地上や灌木の低い位置につくり、繁殖期には昆虫類や草の種子をとります。冬季は本州中部以南の低地や山麓に移動し、疎林や林縁、低木の茂み、農耕地などにすんで、おもに草の種子を食べます。

*小鳥の国とはなにか。そして小鳥の国へはいっていくとはどういうことか。それは「死の国」であり「死ぬ」ということであるだろう。それはどんな死なのか。「きみは極めてかんたんだ」という云い方、「少しばかりはがねの匂いのする地面」という表現、「きみのからだの上に向つて/しやにむにばく進してくる重量音」という表現からは、当然戦争の臭いがしてくる。「きみ」の死はだからbe killedなのだ。戦場で「きみ」は殺されたのだ。一人の若者の死に対する鋭い痛みのような悲しみに溢れた作品である。《安》


harutoshura at 18:30|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月05日

「地下要塞」

   地下要塞

たしかに日本国内だが
それはどこか
人里離れた山の中であつた。
すうつとからだが墜ちてゆくように思つたらエレベーターだつた。
どうしてこんなところにきたのかわからない。
そのまま二十階ほど降下すると
扉が左右にひらいて
そこで私は待ちかまえていたたくさんの人たちに笑顔で迎えられた。
ふしぎなことに
かれらはみな胸に十字に古風な弾薬帯をかけていた。
東京郊外に住んでいる友だちや
その家族の人たちの顔もまじつていた。
かれらはだまつて私に手をさしのべた。
おじさん、いらつしやいと
声をかけてくれる中学生くらいの少年もいた。
それはまばゆいばかりに煌々と蛍光燈がともつている
ひんやりとした地の底であつた。
ドーリヤ柱列(オーダー)の溝彫りがある大円柱が無限につづいていた。
そしてそこには
かすかにエンジンの響がながれていた。
おまたせしましたと云つて
私が外に出ると
これでみな来た
全部! と
だれかが云つた。

ドーリア式

「要塞」とは、敵の攻撃に対抗できるように、軍事技術や建築工学を応用して造られる堅固な構築物のことをいいます。国境や海岸、重要都市などに築かれる永久要塞は、敵の攻撃にできるだけ長くもちこたえられ、味方の安全な避難場となりうるように、煉瓦、コンクリート、石などで入念に築かれます。旅順要塞や、フランスの対ドイツ要塞であるマジノ線があげられます。

「ドーリヤ柱列」のドーリア式は、古代ギリシア建築における建築様式(オーダー)のひとつで、イオニア式、コリント式と並んいで三つの主要なオーダーに位置づけられています。ドーリア式のオーダーが用いられている代表的建造物としては、アテナイのパルテノン神殿=写真、wiki=バチカン市国のサン・ピエトロ広場などがあげられます。

紀元前6~5世紀のアーカイック時代には、ポリスの守護神をつくり、それを中心の丘に神殿を建てて祭る儀式が始まりました。まず、ペロポネソス半島に入ったドーリア人とイオニア人がそれぞれの様式で神殿を造るようになりました。

これらがドーリア式、イオニア式といわれるようになり、少し遅れてコリント式が生まれた。それらの違いは列柱の上部の飾りの違いに、鮮明に現れています。ドーリア式は、列柱が短く、ほとんど装飾を用いずに屋根を支えています。ふつうは「荘重」という印象で語られることが多いようです。

*「砦」の幻想がはじめてあらわれた作品である。この作品にしても、『重油富士』の「高いところ」にしても、そのイメージは案外黒四ダムあたりから発したものではなだろうか。一方『とほうもないねがい』の「山狩」や『異郷』の「城砦」は、子供の頃の裏山での陣地づくりに発しているようだ。それにしてもこの作品は奇妙な魅力を持っている。異常なありえないことが、全く日常のこととして書いてあって、幻想へのいささかのちゅうちょもない。「これでみな来た 全部!」という声は幻想の完結性とともにこれからこの世界でなされようとしていることの充実感を暗示するとともに、詩人が「最後にたどりついた者」であるという別の命題をも提示しているようだ。『垂直飛行』中でも小野は「グゼンの里」と題して山中の地下要塞行を再度書いている。《安》


harutoshura at 22:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月04日

「橋 」

  橋

APカメラマン、マツクス・デスフオー作「平壌の避難民」(1951年ピユリツツア写真賞)を見て

ひらめき
旋回し 反転し
落下し また直上し
天空を
縦横十文字に
飛び廻つている一コの眼球が
びゆつと地上寸尺を擦過して
弾ねあがろうとしたとき
猛烈な速力で風をきつている宇宙の大風車に
矢になつて
突きささつた。
天地が一ゆれして
静止したところ
その真正面の空間に聳え立つたのは
爆破された大同江の鉄橋だ。
曲りくねつたアーチ。
たれ下つた鉄骨。
巨大な蟻塚のようなものが
高く真赤に
東洋の夕陽に映え
眼をこらせば
その上を二列になつて
おびただしい難民の群が動くともなく移動している。

無辺の天に
弾ねかえらんとして
眼はその場に
釘づけになつた。

Bridge_1950

日本の敗戦後、北緯38度線によって南北に分断された朝鮮半島では、1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を突破して南下、以後、53年7月27日の休戦協定調印まで朝鮮戦争が続きました。

韓国軍を釜山(プサン)まで追い詰めた北朝鮮軍は、米軍主体の国連軍の仁川(インチョン)上陸で中国国境の新義州(シニジュ)まで敗走します。その際、中国の義勇軍が参戦し、韓国軍・国連軍を退却させました。

中国軍は、1950年12月4日に平壌(ピョンヤン)を奪還し、1950年12月中旬までに、北朝鮮のほとんど全地域を掌握しました。

1950年12月4日の戦闘で、平壌を流れる大同江(テドンガン)の鉄橋が爆破される場面を、朝鮮戦争を取材していたAP通信のカメラマン、マックス・デスフォー(Max Desfor)が撮影=写真、wiki=し、翌年のピューリッツァー賞に輝きました。

この写真にはまさに「天地が一ゆれして/静止したところ/その真正面の空間に聳え立つたのは/爆破された大同江の鉄橋だ。/曲りくねつたアーチ。/たれ下つた鉄骨。/巨大な蟻塚のようなものが/……/眼をこらせば/その上を二列になつて/おびただしい難民の群が動くともなく移動している。」様子が写し出されています。

朝鮮戦争は、以来戦闘は38度線沿いに続けられ、休戦協定によって38度線と斜めに交わる軍事境界線(休戦ライン)が設定された。これが今日の南北の事実上の国境線となり、南北の分断を固定化した。

*この作品を書いたときのことを小野は次のように書いている。
「それは北鮮軍が破竹の勢で南下しつつあった朝鮮戦争もまだ初期のころであった。ある朝、わたしは新聞で、マックス・デスフォーというAPのカメラマンが撮った『平壌の避難民』という写真を見た。報道写真として掲載されたているのでなく、学芸欄のコラムみたいなところに小さく出ていたので、この1951年のピュリッツァ写真賞を獲得した作品も、うっかりすると見過してしまうようなものであったが、わたしの眼は食いいるように小さな写真にひきつけられたのである。そこで、起きぬけに、二階の書斎にかけ上って、写真とにらめっこしながら一気にこの詩を書きあげた。相手はアメリカの報道カメラマンが撮影した一枚の写真である。しかるに、それはわたしを奇妙に興奮させた。想像力はそれをとっかかりとして、さらに視角を変え、おそらくこのAPカメラマンの予想もせぬだろう方向に無限に拡大して行った」(『奇妙な本棚』)
 この作品にあっては、まず「眼球」の激しい運動と突然の静止がわれわれに衝撃を与える。「眼」が見たものは、やがてゆっくりと迫ってくる。その意味でこの作品は「舟幽霊」と奇妙に似たところを持っているのに読後気づくだろう。


harutoshura at 17:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月03日

「大怪魚」

   大怪魚

かじきまぐろに似た
見あげるばかりの
大きな魚の化物が
海からあげられた。
おきざりにされて
砂浜には人かげもない。
ひきさかれた腹から
こやつは腹一ぱい呑みこんだ小魚を
臓腑もろとも
ずるずると吐きだして死んでいる。
その無気味さつたら。
おどろいたことに
その小魚どもがどいつもこいつも小魚を呑みこんでいるのだ。
海は鈍く鉛色に光つて
太古の相を呈している。
波しずかなる海にもえらい化物がいるものだ。
ひきあげてみたものの
しまつにおえぬ。
生乾しのまゝ
荒漠たる中に幾星霜。
いまだに
死臭ふんぷんだ。

ブリューゲル

16世紀に活躍した現在のオランダの画家、ブリューゲルの「大きな魚は小さな魚を食う」=写真、wiki=と題した絵は、1556年に下絵が書かれ、翌年コックがそれを版画にしました。テーマは、当時のフランドル地方でよく知られていたことわざで、人間社会の弱肉強食を投影し、民衆に強く訴えるものがあったのでしょう。

巨大な魚が大きな口をあけて小さな魚を吐き出し、大きな魚の腹には小さな魚が詰まっている。鎧兜をまとった人がナイフで大魚の腹を裂くと、中からまたたくさんの小魚が踊りだしてくるのです。驕れるものはいつかは自らが迫害される立場に立つことを表わしてるのでしょうか。

そして、小舟に乗った父親が子に「あれをごらん」と指さしています。絵の右端には、「エビでタイを釣ろう」としている道化がいます。左端では、足の生えた魚が魚をくわえて一目散にその場を離れていきます。利をむさぼる者たちばかりの世にあって、魚がゆうゆうと空を飛んでいます。

*この作品の出発点には二つのことがらがある。「この詩を私に書かせた直接の動機は、日本の政治の腐敗、眼にあまる政治家や官僚たちの汚職沙汰であります。それに対する怒りというよりも、はげしい嫌悪が私にこのような詩を書かせたのです」(『工作者の口笛』国文社「ダブルイメージ」)。これがその一。

「私のこの詩のバックには、何をかくそう、このブリューゲルの原画によって、ジェローム・コックが版画にした悪夢の奇々怪々な幻想絵画のイメージがあります」(同書)。これがその二。

だがわれわれはもちろん出発点その一も出発点その二も、知らなくってもいいのだし、忘れてしまってもいいのであって、むしろ出発点に足をとられて、それだけのことしかこの詩から読みとれないとしたら困ったことである。

小野自身「見あげるばかりの大きな魚の化物が、ただ汚職政治家共を意味し、またそれがどんらんな資本家の太鼓腹のイメージをよびおこしても、もしそれがゴヤの『夢の妄』やブリューゲルの絵に見るような、人間性の暗い所で結ばれる超現実的ともいうべき無気味な夢につながらなければ、私のこの詩は決して生れなかったでしょう」(同書)と述べ、また別のところで「私が気になるのは、この詩が一篇の幻想絵画的な詩として、私自身が半ば造型して放り出したイメージの後半部を読者が各々の想像力によって補い、一つのものにしてくれたか、またそれだけの力をこの詩が持っているかどうかということである。(『現代詩手帖』創元社)と述べている。《安》


harutoshura at 21:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月02日

「舟幽霊」

   舟幽霊

深夜の日本海に
長鼓の音がする。
犬の吠え声がする。
陰にこもつて巫女歌(のれからく)のごとくだ。
見ればかなたに
石油ランプをともして
大きな筏がたゞようている。
筏の上には田があり畑があり
泥でかためた家や
鶏小舎なども見える。
それらは暗い夜のうねりにのつて
ぼうばくとして果しがない。
どこにゆきつこうとするのか。
その巨大な筏は
浮島のように陸をはなれて
あてなく深夜の海上を漂流しているのだ。
禿山も見える。
白いかさゝぎが舞つている。

長鼓

「長鼓」=写真、wiki=は、朝鮮の大きな鼓形の太鼓。「杖鼓」ともいいます。中国の杖鼓を原型とする胴が細くくびれた太鼓で、右側の皮面は細い笞で、左側は左手掌で打ち鳴らします。日本の鼓を大きくしたような形で、松の木を削った胴に羊、馬、牛、犬などの革を張ります。

胴は全長約70~73cm、細腰部20~23cmが標準の一木作り。右側の皮は薄くて左側の皮は厚く、両面は真紅の木綿の紐で締められています。杖鼓は器楽、歌、踊りに欠くことのできないリズム楽器。宮廷雅楽や民間の俗楽、民謡、農楽、巫女楽などほとんどあらゆるタイプの音楽に用いられます。

「長鼓の音」「犬の吠え声」の比喩として用いられている「巫女歌」というのが、どういうものかはよくわかりませんが、巫女(みこ)が舞う神楽あるいは祝詞のようなものをイメージすればいいのでしょうか。

「かさゝぎ」は、カラス科の鳥。全長約45センチ。雑食性で、尾が長く、肩と腹が白く、ほかは緑色光沢のある黒色をしています。ユーラシア大陸と北アメリカ西部に分布。日本では佐賀平野を中心に九州北西部の人里近くにすんでいます。

*小野は「南北二つに割れた朝鮮を、その禿山や、かささぎの舞ってる田園や、悲しい巫女歌の音とともに、暗夜の日本海をあてどなく漂流する一そうの筏の上に乗せた」作品だと述べている。この作品にあたっては、イメージによって示された現実があるのではない。まず幻視がわれわれに衝撃を与える。そのさきに現実があらわれてくるのだ。だがそれはむしろ「読後」「詩後」のことといっていい。深夜の日本海をただよう大筏。小野でなくては書けぬ壮大な幻想である。《安》


harutoshura at 15:00|PermalinkComments(0)小野十三郎 

2017年04月01日

「こだまのニンフ」

   こだまのニンフ

高い木々は
霧氷をあびたように白い。
そして背後の空は真黒だ。
木賊や羊歯の葉つぱのぎざぎざ。
らつぱ百合の大花冠
それらの花や葉つぱの影のいりみだれた中から
鳥頭人身の異形のものが首を出した。
それは絶対に人の眼にふれない
深山のこだまだ。

こだまは飛びおきたのだ。
風の音ではない。潮騒ともちがう。
あきらかにそれとわかる一つの楽の音が
そのときどこからともなくしずかにながれてきた。
なかほどに二度はいるあのぞつとする大太鼓。
こだまは己の耳をうたがつたがまぎれもないのだ。
まぎれもないそれは「君が代」の奏楽なのだ。

日本から相距る五百万哩くらいはあるか。
玄武岩の屏風でかこまれた
山の奥の奥の
木賊や羊歯のしげみの下の
その地下の
鍾乳洞の底にいて
人間どもから完全に姿を消しているこだまにそれが達するのだ。

鳥頭人身と化しても
きこえるのだ。

ニンフ

「こだまのニンフ」――マックス・エルンストの絵

ここでいう「こだまのニンフ」というのは、マックス・エルンスト(Max Ernst)の1936年の作品「The Nymph Echo」=写真=をいっているのでしょう。

「マックス・エルンスト」(1891-1976)は、ダダ、シュールレアリスムの代表的な画家。ドイツのブリュールに生まれ,ボン大学で哲学と美術史を学んでいます。1914年にケルンで画家のアルプ(1887-1966)と出会い、1919年、互いに関係のない写真や印刷物を貼りあわせて意外な視像を現出させる〈コラージュ〉を試み、ケルンでダダ運動をおこします。翌年、ブルトンらと交友し、やがてシュルレアリスムに加わることになります。1922年パリへ移住し、詩人エリュアールとの共編《不死者の不幸》を出版。1925年には、目の粗い物体の表面に紙をあて鉛筆などでこすって視像をえる〈フロッタージュ(摩擦画)〉の技法を発見しました。

「木賊」(トクサ)は、山中の湿地に自生する常緑のシダ植物。茎は直立していて、中空で節があります。茎は触るとザラついた感じがして、引っ張ると節で抜けます。節のところにギザギザのはかま状のものがあって茎がソケットのように収まっていますが、このはかま状のぎざぎざが葉に当たります。

「鳥頭人身」というと、インド神話のガルダを前身とする、仏教の守護神、迦楼羅天(かるらてん)を思い出します。インド神話の神鳥ガルダが仏教に取り込まれ、仏法守護の神となりました。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされる。ふつう鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もあります。

*この詩は第一詩集『半分開いた窓』の「野の楽隊」を想い出させる。「野の楽隊」できこえるのは「ケームリモミエズクモモナク」という楽隊の音楽であり、きいている「ぼく」はいくらもがいてもついついつりこまれて歩調が合ってしまうのだが、この「こだまのニンフ」では「君が代」の奏楽が日本をへだてること五百万哩の山中のこだまのニンフに達するというのだ。人間はありのままの現実や、ありのままの自然の進行に極度に退屈すると、「オルフェ」の死後の世界のガラス売りの男とか、「こだまのニンフ」という鳥頭人身の異形のものとか、そのようなものを見ると小野は書いている。ただおそろしく退屈することだけが必要だと書いている(『奇妙な本棚』)。これらの言葉のなかの「退屈」を「嫌悪」と置きかえてみると、この作品を支えているものが語られていることがわかる。「冬の海から」で「またもや」という一語で古い秩序のよみがえりを突いた鮮やかな手つきがこの作品においてみられないのはマックス・エルンストへのこだわりが逆目に出たのだろうか。《安》


harutoshura at 17:00|PermalinkComments(0)小野十三郎