2016年12月

2016年12月31日

「塚と風」①

いつの間にか大晦日になってしまいましたが、きょうからふたたび宮沢賢治の『春と修羅 第2集』のつづきに戻り、「一九五 塚と風」を読むことにします。「1924、9、10」の日付があります。

全部で6連から成り、次に見るような2行の前書きがあります。きょうはその前書きと第1連に目を通します。

  一九五 塚と風

          ……わたくしに関して一つの塚とこゝを通過する風とが
            あるときこんなやうな存在であることを示した……

この人ぁくすぐらへでぁのだもなす
  たれかが右の方で云ふ
  髪を逆立てた印度の力士ふうのものが
  口をゆがめ眼をいからせて
  一生けんめいとられた腕をもぎはなし
  東に走って行かうとする
  その肩や胸には赤い斑点がある

角塚

「塚」は、人工的に盛土をした場所のことで、名称は「築く」に由来すると考えられています。墓、祭場、供養のほか、一里塚のように標識として築かれている塚もあります。

塚にはさまざまな伝説がつきもの。多くの戦死者、遭難者らを埋葬したり、供養したところと伝えられる百人塚や千人塚、落武者や山伏などを埋めた七人塚、首塚、山伏塚、行者や修験者が庶民救済のため生きながら入定した場所とする入定塚、行人塚などもあります。

岩手県の「塚」というと、私は奥州市にある角(つの)塚古墳=写真、wiki=を思い出します。日本の最北端に位置する前方後円墳で、「塚の山」「一本杉」とも呼ばれています。標高76メートルの段丘上にあり、出土した埴輪などから5世紀末から6世紀初に造られたと推定されています。

この付近には、高山掃部という長者がいて、その妻は強欲であったため大蛇に変身した。大蛇は農民を苦しめたため、里人は小夜姫という娘を生け贄として差し出すことにしたが、大蛇が現れたとき小夜姫がお経を読んで経文を投げつけると、大蛇は元の長者の妻に戻った。大蛇の角を埋めたところが角塚古墳だ、という伝説があるそうです。

それはともかく、この作品は「一つの塚とこゝを通過する風」とが「あるとき」にあらわにした「存在」の姿を表現しているようです。

『語彙辞典』によると、「この人ぁくすぐらへでぁのだもなす」は、〈この人はくすぐられているのだものね。「この人ぁ」は「この人は」の訛り。「なす」は丁寧な語尾。「ね」「ですよね」に当たる。〉とあります。

また、「髪を逆立てた印度の力士ふうのもの」は、〈杉等の樹木(樹齢を経た巨木であれば、あるいは注連縄等も施されていたとも考えられる)を、褐色の肌をし、上半身は裸で下には腰巻き様の民族衣装を着けた一部のインド人男性に見立てたものと考えられる。〉としています。

「その肩や胸」にある「赤い斑点」というのは、何なのか。樹木が赤い実でも付けているのか、紅葉あるいは、幹をおかした病気か何かなのでしょうか。


harutoshura at 03:58|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2016年12月30日

堀田善衞「しづかに雪が」

     しづかに雪が
   
               堀田善衞
   
  なにを思へといふのだろう
  しづかに雪が降つてくる
  水車は凍えてうごかない
  すべてに休みはあるのだらう

  だまつて埋る野原の草木
  小鳥は死んでゆくのだらう
  小川だけがちろちろと
  どこにも憩ひはないであらう

  雪も怺(こら)へて降つてゐる
  けれどもやがて高まつて
  むせび泣く嗚咽の声が聞えはせぬか

  しづかに雪が降つてくる
  かうした夜にはさびしいものの手を
  ふととりにくるものがゐる

雪水車

凍えて動けないあいだは、じっくりと休めばいい。すべてに休みがあるのだから。


harutoshura at 00:46|PermalinkComments(0)その他(日本) 

2016年12月29日

茨木のり子「水の星」

     水の星

           茨木のり子

  宇宙の漆黒の闇のなかを
  ひっそりまわる水の星
  まわりには仲間もなく親戚もなく
  まるで孤独な星なんだ

  生まれてこのかた
  なにに一番驚いたかと言えば
  水一滴もこぼさずに廻る地球を
  外からパチリと写した一枚の写真

  こういうところに棲んでいましたか
  これを見なかった昔のひととは
  線引きできるほどの意識の差が出てくる筈なのに
  みんなわりあいぼんやりとしている

水の星

人類500万年の歴史ののなかで、20世紀に、はじめて宇宙から地球をながめた人類。「線引きできるほど」の差が出た筈の“21世紀人類”がみつめているものって、なに?

*写真は「ザ・ブルー・マーブル」(1972年12月7日、アポロ17号に搭乗したハリソン・シュミットが撮影した地球)、wikiから。


harutoshura at 01:14|PermalinkComments(0)茨木のり子 

2016年12月28日

中原中也「頑是ない歌」

      頑是ない歌

              中原中也

  思へば遠く来たもんだ
  十二の冬のあの夕べ
  港の空に鳴り響いた
  汽笛の湯気は今いづこ

  雲の間に月はゐて
  それな汽笛を耳にすると
  竦然(せうぜん)として身をすくめ
  月はその時 空にゐた

  それから何年経つたことか
  汽笛の湯気を茫然(はうぜん)と
  眼で追ひ かなしくなつてゐた
  あの頃の俺はいまいづこ

  今では女房子供持ち
  思へば遠く来たもんだ
  此の先まだまだ何時(いつ)までか
  生きてゆくのであらうけど
  遠く経て来た日や夜の
  あんまりこんなにこひしゆては
  なんだか自信が持てないよ

思へば遠く

思えば遠くへ来たもんだ。いつの間にか。でも、そう思って眺めると、案外「あの頃の俺」とさして変わっていないのに気がついたりもする。


harutoshura at 01:17|PermalinkComments(0)中原中也 

2016年12月27日

谷川俊太郎「かなしみ」

     かなしみ
      
            谷川俊太郎
            
  あの青い空の波の音が聞えるあたりに
  何かとんでもないおとし物を
  僕はしてきてしまったらしい
   
  透明な過去の駅で
  遺失物係の前に立ったら
  僕は余計に悲しくなってしまった

天
  
大人になるときに、とんでもなく大切なものをどこかに、置き去りにしてきてしまうものだ。故郷に帰ると、その“おとし物”にはっと気づくことがある。たいていはもう、取り戻すことはできなくなっているけれど。


harutoshura at 00:39|PermalinkComments(0)未分類 

2016年12月26日

西脇順三郎「天気」

     天気

               西脇順三郎

  (覆された宝石)のような朝

  何人か戸口にて誰かとささやく

  それは神の生誕の日

天気

「ある中世紀の物語のさし絵として或る有名な画家が描いたものから暗示されていたと思う。それはあるゴシック建築の内部から窓の外の景色をみたところである。そこにはあるきたならしい街路がみえ、ある家の入口でなにかひそかに話をしている二人の人がいる。その家の中で神か人間がうまれたばかりような気がしたのであった」と西脇は自解している。


harutoshura at 01:08|PermalinkComments(0)未分類 

2016年12月25日

サトウハチロー「クリスマスまでは――」

     クリスマスまでは――

                サトウハチロー

  いうことをきかないと
  クリスマスがきませんよ
  姉はボクに言いました

  おとなしくお風呂にはいらないと
  サンタクロースさんは素通りだね
  これがおふくろのきまり文句

  十二月になると
  毎日毎日何度も
  これをくりかえされたボクなんです

  おそろしいもんです
  なさけないもんです
  これがしみついたんです

  十二月になると
  ポインセチアの一鉢などを買い
  酒もへらしてそれを眺めているボクなんです

クリスマス

くりかえされ くりかえされ しみついて 酒もへらして 今年も 全世界的にクリスマス やってきました。


harutoshura at 00:45|PermalinkComments(0)サトウハチロー 

2016年12月24日

クリスマスイブ(5句)

  聖樹灯り水のごとくに月夜かな   飯田蛇笏

  雪道や降誕祭の窓明り   杉田久女

  花型に蝋涙(らふるゐ)たまるクリスマス   大野林火

  金銀の紙ほどの幸クリスマス   沢木欣一

  黒々と窓辺の海や降誕祭   辻蕗村

クリスマスイブ

「クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。私たちはつつましく貧しい馬小屋の光景から何を学べるだろう」(第265代教皇、ベネディクト16世のフィナンシャル・タイムズへの寄稿から)

*写真は、Carl Larsson(1853?1919)の「スウェーデンのクリスマスイブ」(wikipediaから)


harutoshura at 01:20|PermalinkComments(0)俳句 

2016年12月23日

ハイネ「ふつか酔い」

    ふつか酔い

           ハインリヒ・ハイネ(訳・井上正蔵)
               
  あの灰色のむらがる雲は
  歓楽の海からのぼったのだ
  幸福の泥酔はきのうのこと
  いまその罰を受けねばならぬ
  ああ 美酒が苦蓬(にがよもぎ)にかわった
  猫の身もだえ 犬のあがき
  くるしさはなんとはげしく
  心臓と胃袋を責めたてるのか

ふつか酔い

*ふつか酔いを見ているのは、たいてい灰色のむらがる雲。一年で一番にぎわう街にむらがってくる雲。


harutoshura at 01:11|PermalinkComments(0)ハイネ 

2016年12月22日

尾形亀之助「十二月の路」

     十二月の路

              尾形亀之助

  のつぺりと私をたいらにする影はいつたい何です

  蝶のかげでせうか
  それとも 少女の微笑なのかしら

  晴れた十二月の路に
  私のかげは潰されたよりずつと平らです

十二月の影

低い日差しの道に、いつの間にか、のっぺり、だらりの影。のっぺり、だらりの生きかたの影。


harutoshura at 01:27|PermalinkComments(0)その他(日本) 

2016年12月21日

生野幸吉「雪へのさそひ」

      雪へのさそひ

                生野幸吉

  空からそそぐ
  もう雪めいたひかりのなかで
  外套 この毛質の要塞をわたしは頼む
  うつくしい女のからだのやうに
  一年がみぶるひながらつつまれて
  ふゆ みづからをだきしめるやうに眠るだろう

  太陽に透かしてみた あの木の葉
  あをいいのちの網目もやがて忘却される
  それはわたしのからだのなかで
  みづみづしく青さをはぐくむ組織にかはる
  雪と氷のなかで
  豊富にたましひを生かしてゐよう

  農耕や火器の感触
  おまへのからだのやはらかさ
  いろんな体験をつつんだまんま
  わたしはあるいたりするだらう
  氷る寒気がいきなり色を鮮明にする よるの通りを
  ああ また 枯木のうへのあたりで
  ひかりへ雲が還ってゆく
  あれはとほい雪へのさそひ

雪

一年がみぶるひながらつつまれて ふゆ を実感する日がつづく。恋しい外套に、つつまれたくって、っていう日々がつづく。


harutoshura at 01:54|PermalinkComments(0)未分類 

2016年12月20日

吉野弘「たそがれ」

今年も残り10日ほどとなりました。忙しい中ですが、しばらく、このところ目にした詩を読んでいくことにします。

     たそがれ
     
              吉野弘

  他人の時間を小作する者が
  おのれに帰ろうとする
  時刻だ。
  
  他人の時間を耕す者が
  おのれの時間の耕し方について
  考えようとする
  時刻だ。
  
  荒れはてたおのれを
  思い出す
  時刻だ。
  
  臍を噛む
  時刻だ。
  
  他人の時間を耕す者が
  おのれの時間を耕さねばならぬと
  心に思う
  時刻だ。
  
  そうして
  納屋の隅の
  光の失せた鍬を
  思い出す
  時刻だ。

たそがれ

一年でいえば、いまが「たそがれ」の時節にいるはずなのに、毎年のことだが、なんとなく忙しく、騒がしい。


harutoshura at 02:10|PermalinkComments(0)吉野弘 

2016年12月19日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」⑥

来なさい、世界の慰め、静寂なる夜よ!
お前はなんと穏やかにこの山々をわたるのか
空気もすっかり眠りいり
ひとりの船乗りだけが旅につかれ
海にむかい夕べの歌をうたっている
波止場で神をたたえながら

歳月は雲のように流れゆき
私はひとり残されここにある
世界が私を忘れさっているここへ
不思議にお前は足を運んできたのだ
私がここ 騒ぐ森のなかにあって
憂いに沈んで座しているところに

ああ、世界の慰め、静寂なる夜よ!
昼間は私をひどく疲弊させた
果てなき海もすっかり暗くなった
私を欲望から辛苦から解きはなて
永遠なる曙光が
沈黙の森にキラメキをあたえるまで

Dore_jonah_whale
*「大魚に吐き出されたヨナ」(ギュスターヴ・ドレ)

詩「Der Einsiedler(隠者)」にも、子どものころから培われたアイヒェンドルフのキリスト教への深い信仰が顕れているように思われます。

2連目にある「船乗り」というと、私はあの「ヨナ書」を思い出します。

ヨナは、神から、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェに行って「(ニネヴェの人々が犯す悪のために)40日後に滅ぼされる」という予言を伝えるよう命令されます。しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのを嫌い、船に乗って反対の方向のタルシシュに逃げ出します。

このため、神は船を嵐に遭遇させました。船乗りたちはだれの責任で嵐が起こったのか、くじを引きます。そのくじがヨナにあたったので、船乗りたちは彼を問い詰めます。ヨナは、自分を海に投げれば嵐はおさまると船乗りたちに言います。

最初、船乗りたちは陸にたどり着こうと努めましたが激しい嵐のためにできず、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込みました。ヨナは神が用意した大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいましたが、神の命令によって海岸に吐き出されます。

アイヒェンドルフの晩年は文学史や詩の研究などに力を尽くし『ドイツ詩文学史』などを著しました。しかし1855年にルイーゼ夫人が病死すると、ほどなく彼自身も病にかかり、1857年ナイセの家で肺炎のために亡くなりました。69歳でした。


harutoshura at 11:30|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月18日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」⑤

アイヒェンドルフの森に関する詩をもう一つ。「Der frohe Wandersmann(楽しい旅人)」の最初の2連です。

Wem Gott will rechte Gunst erweisen,      
Den schickt er in die weite Welt;                
Dem will er seine Wunder weisen               
In Berg und Wald und Strom und Feld.          
こころから愛する者を
神は広い世界へ送り出し、
神の不可思議をまぢかに見せる、
山や森、川の流れや野において。

Die Trägen, die zu Hause liegen,               
Erquicket nicht das Morgenrot,                
Sie wissen nur von Kinderwiegen,              
Von Sorgen, Last und Not um Brot.             
しじゅう家にいる怠け者は
さわやかな夜明けに心洗われず、
子供の世話にあけくれて
日々の稼ぎと苦労にわずらう。
(檜山哲彦訳)

ナポレオン戦争

彼は、カトリック貴族の両親のもとに生まれ、カトリック系ギムナジウムに通いました。少年時代、最も強く心をとらえたのは新約聖書とキリストの受難史だったといわれます。

ハレ大学で法律を学びますが、プロイセン軍とナポレオン軍との戦争が勃発し、大学は閉鎖されてしまいます。その後、ナポレオン打倒、祖国をフランスの桎梏から解き放とうと、ブレヌラウの義勇軍に入隊しました。

25歳から27歳(1813-1815)にかけて、ナポレオン戦争=写真、wiki=下で軍役につきながら執筆した長編が、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』と並ぶ教養小説とも言われる『予感と現在』でした。

「私は心の底から泣いた、嗚咽するまでないた。私の先生や家中の人たちはこのようなことを長い間知っている筈なのに同じように感動することもなく古くからの仕方で悠々と生活をつづけられていられることが私にはわからなかった」と、『予感と現在』のなかで記しています。

見えるものも見えないものも三位一体の神によって創造され、神のうちに保持されているのだというキリスト教的信条。アイヒェンドルフにとって、自然なキリスト教的生活態度以外の、内的な人生態度はありえませんでした。

「詩人こそ世界の心である」という彼の言葉には、詩人の担う神的な使命を深く自覚していたことがうかがえます。


harutoshura at 13:30|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月17日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」④

来なさい、世界の慰め、静寂なる夜よ!
お前はなんと穏やかにこの山々をわたるのか
空気もすっかり眠りいり
ひとりの船乗りだけが旅につかれ
海にむかい夕べの歌をうたっている
波止場で神をたたえながら

歳月は雲のように流れゆき
私はひとり残されここにある
世界が私を忘れさっているここへ
不思議にお前は足を運んできたのだ
私がここ 騒ぐ森のなかにあって
憂いに沈んで座しているところに

ああ、世界の慰め、静寂なる夜よ!
昼間は私をひどく疲弊させた
果てなき海もすっかり暗くなった
私を欲望から辛苦から解きはなて
永遠なる曙光が
沈黙の森にキラメキをあたえるまで

「Der Einsiedler(隠者)」の一つのキーワードは「Wald(森)」でしょう。「森」のイメージの底にあるのは、アイヒェンドルフの少年時代の楽園、シュレージェン城ルボーヴィツの森への郷愁でしょうか。

Im_Walde
*Im Walde(Ernst Zimmermann)

失われた少年時代の体験は、しばしば人間の失われた詩的神秘的源郷につながっています。

大きな森の領地での狩りや武術、舞踏会、余興、家族で出かけた馬車の思い出。「騒ぐ森」には、零落した貴族の反動的な感情もうかがわれるように思います。

現実の象徴性と意義が絡み合って詩を流れていきます。森は、すべてのものを包んで明るく、暗く、静寂で、ざわめき、やさしく、喜びや驚き、安らぎを与え、魔性をもった生そのものでもあるようです。

アイヒェンドルフは「森」をテーマに、次のような詩もつくっています。

●Im Walde(森の中で) 1836年

Es zog eine Hochzeit den Berg entlang,
ich hörte die Vögel schlagen,
da blitzten viel Reiter, das Waldhorn klang,
das war ein lustiges Jagen! 
山のすそを婚礼の列が通っていった、
小鳥の歌う声が聞こえていた―
ふいにあまたの騎馬の人が馳せかい、角笛が鳴った、
にぎやかな狩りの光景だった!

Und eh ichs gedacht, war alles verhallt,
die Nacht bedecket die Runde,
nur von den Bergen noch rauschet der Wald
und mich schauert im Herzensgrunde.
あっと思うまもなく、物音がはたととだえ、
夜の闇があたりを覆った、
山の方からだけ、まだ森の葉ずれの音がしていた
私はぞっとしてふるえた、胸の奥で、
(西野茂雄訳)


harutoshura at 14:30|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月16日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」③

次に、アイヒェンドルフの経歴をざっと、まとめておきます。

1788年 ラティボア(現ポーランド領)近郊ルボヴィッツ城=写真、wiki=で生まれる。17世紀半ばにこの地に移住してきた旧家。

Łubowice

1801年(13歳) ブレスラウのカトリック系ギムナジウムに入学。劇場通いに熱中。ゲーテ、シラーの戯曲、グルック、モーツァルトの歌劇などに感動する。

1805年(17歳)、ハレ大学に入学、法律を学ぶ。だが、翌年秋にはプロイセン軍とナポレオン軍との戦争が勃発。ナポレオンによってハレ大学は閉鎖。

1810年(22歳) 実家の財政状態が悪化してきたので、法律の勉強をウィーンで完了し、オーストリア政府の官職を望む。
 
1813年(25歳) ナポレオン打倒、祖国をフランスの桎梏から解き放とうと、ブレヌラウの義勇軍に志願入隊すべくウィーンを去る。

1815年(27歳) 『予感と現前』出版。ルイーゼ・フォン・ラーリッシュと結婚。

1821年(33歳) ダンツィヒへ移り、カトリック系の宗教参事に任命される。

1822年(34歳) 「二君に仕えるのは容易でない」。次女アグネスと母カロリーネが相次いで他界。

1824年(36歳) ケーニヒスベルクの州政府参事官。

1826年(38歳) 『のらくら者の日記』がベルリンで刊行され、センセーションを巻き起こす。

1831年(43歳) 『マリーエンブルクの最後の英雄』が上演されるが散々な不評。ベルリンへ移り、プロイセン文部省の臨時職員になる。

1832年(44歳) 三女アンナ死亡。連作詩「わが子の死に」。

1834年(46歳) 長編小説『詩人とその仲間たち』を刊行。

1836年(48歳) 短編小説『デュランデ城』を発表。スペイン文学の研究をはじめ、カルデロンに熱中。

1837年(49歳) 初めて詩作品を一巻の『詩集』にまとめる。

1840年(52歳) シューマンがアイヒェンドルフの詩に曲を付け歌曲集『リーダークライス(作品39)』を編む。

1841年(53歳) プロイセン文部省の専任職。枢密顧問官に任命。全集が刊行される。

1844年(56歳) 退職して年金生活に入る。

1847年(59歳) ウィーンでシューマンと会う。ウィーンの文芸界で「最後のロマン主義者」として顕彰される。

1852年(64歳) 叙事詩『ユリアン』を完成。老いても「ペガサス(詩的霊感)を十分に乗りこなせるかどうか」の試み。

1857年(69歳) ナイセの家で肺炎のため死去。


harutoshura at 05:15|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月15日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」②

「Der Einsiedler(隠者)」は、1830年代に作られ、1837年のドイツ年間詩集(Deutscher Musenalmanach)に掲載されています。

シューマン(Robert Alexander Schumann、1810-1856)が、この詩に曲を付けているので、ご存知のかたも多いかもしれません。1850年に作曲した「 三つの歌 作品83 」のひとつです。

他の二つの詩は、ブッドイス(Julius Buddeus)の「Resignation(あきらめ)」、リュッケルト(Friedrich Ruckert)の「Die Blume der Ergebung(忍従の花)」。

2曲目だけ女声で歌われるので、3曲まとめて演奏されることはあまりないようですが、なかなかに味わいのある歌曲集です。

詩「Der Einsiedler(隠者)」を作ったアイヒェンドルフは、ラティボア(現ポーランド領)近郊のカトリック貴族の旧家に生まれました。

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少年時代は、郷里のルボヴィッツ城=写真=の周りの森に深い愛情をそそいで過ごしました。

後期ロマン主義に属する詩人で、ナポレオン戦争下に書いた小説『予感と現在』などで知られています。

この詩を書いた40代は、家が没落したり、娘を失うなど不幸なことが多かったようです。

曲を付けたシューマンはアイヒェンドルフより22歳年下。二人は、1847年にウィーンでの演奏会で会っています。しかし、アイヒェンドルフの音楽に対する嗜好は、シューマンとはかなり異なっていたようです。

息子宛の手紙などから、彼の詩に関しても、シューマンよりヨーゼフ・デッサウアー(Josef Dessauer、1798-1876)の作曲のほうを好んでいたことがうかがえるようです。


harutoshura at 17:30|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月14日

アイヒェンドルフ「Der Einsiedler(隠者)」①

さて萩原朔太郎からガラッと変わって、きょうからしばらくドイツの歌曲の詩を一つ読んでみることにしましょう。

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ヨーゼフ・カール・ベネディクト・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph Karl Benedikt Freiherr von Eichendorff、1788-1857)=写真=の「Der Einsiedler(隠者)」です。とりあえず、ざっと訳してものを、原文とともに掲載します。
  

  隠者    アイヒェンドルフ

アイヒェニドルフ来なさい、世界の慰め、静寂なる夜よ!
お前はなんと穏やかにこの山々をわたるのか
空気もすっかり眠りいり
ひとりの船乗りだけが旅につかれ
海にむかい夕べの歌をうたっている
波止場で神をたたえながら

歳月は雲のように流れゆき
私はひとり残されここにある
世界が私を忘れさっているここへ
不思議にお前は足を運んできたのだ
私がここ 騒ぐ森のなかにあって
憂いに沈んで座しているところに

ああ、世界の慰め、静寂なる夜よ!
昼間は私をひどく疲弊させた
果てなき海もすっかり暗くなった
私を欲望から辛苦から解きはなて
永遠なる曙光が
沈黙の森にキラメキをあたえるまで

  Der Einsiedler   Eichendorff

Komm, Trost der Welt, du stille Nacht 
Wie steigst du von den Bergen sacht, 
Die Lüfte alle schlafen, 
Ein Schiffer nur noch, wandermüd, 
Singt übers Meer sein Abendlied 
Zu Gottes Lob im Hafen.

Die Jahre wie die Wolken gehn 
Und lassen mich hier einsam stehn, 
Die Welt hat mich vergessen, 
Da tratst du wunderbar zu mir, 
Wenn ich beim Waldesrauschen hier 
Gedankenvoll gesessen.

O Trost der Welt, du stille Nacht! 
Der Tag hat mich so müd gemacht, 
Das weite Meer schon dunkelt, 
Laß ausruhn mich von Lust und Not, 
Bis daß das ew'ge Morgenrot 
Den stillen Wald durchfunkelt.


harutoshura at 15:30|PermalinkComments(0)アイヒェンドルフ 

2016年12月13日

「群集の中を求めて歩く」⑭ 都会彷徨者

     群集の中を求めて歩く

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
  ああ ものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
  おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか
  みよこの群集のながれてゆくありさまを
  ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
  浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
  人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
  ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
  ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
  たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。
  うらがなしい春の日のたそがれどき
  このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
  どこへどうしてながれ行かうとするのか
  私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
  ただよふ無心の浪のながれ
  ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
  浪の行方は地平にけむる
  ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

14

2人の娘を連れて前橋へ引き揚げた朔太郎は1929(昭和4)年10月14日、稲子との協議離婚の手続きを済ませた。

棲みずらい郷里にあれば、またすぐに「いつも都会をもとめる」気持ちが突き上げてきたのだろう、その1カ月後には単身上京して、アパートを借りている。

しかし同年12月、父の密蔵が発病、重体となり、すぐにアパートを引き払って帰郷せざるを得なくなった。翌1930(昭和5)年7月1日、密蔵死去。家督を相続した朔太郎は10月、妹の愛子とふたたび上京する。

満州事変が起きた1931(昭和6)年9月には、母の慶、2人の娘をくわえて一家5人で、世田谷区下北沢新屋敷で暮らすようになった。1937(昭和12)年3月中旬、丸山薫に送った手紙には、次のような記述がある。

「ゲーテは八十歳に近くなつた時、十八歳の小娘に恋愛し、真面目に結婚を申込んで体よく拒絶された。

それを考へれば僕の場合など、まだ大に悲劇性が薄いか知れないが、とにかく悲しいことです。

僕は十九歳の時に初恋を知り、四十二歳の時に一度烈しい恋愛をし、五十二歳の今日になつて、また情火の炎々たるものに悩まされている。

前の場合は、二度とも失恋に終つたが、今度だけは是非成功させたいと思ふ。

この恋がもし失敗したら、僕の余生はおそらく精神上の廃人となるでせう」

手紙を書いた1年後の1938(昭和13)年4月、福島県で酒造業を営んでいた旧知の詩人、大谷忠一郎の妹、美津子と結婚した(入籍はせず)。

新妻は、当時25歳。3度目の「烈しい恋愛」は成就したわけだが、結婚は長くは続かなかったようだ。

太平洋戦争に突入した1941(昭和16)年になると朔太郎は、病でほとんど寝たままの状態になる。そして翌1942(昭和17)年5月11日、肺炎のため世田谷区の自宅で永眠する。満55歳だった。

晩年、東京にあふれる「群集」を朔太郎はどんなふうに見ていたのか。最後に、『新潮』1940(昭和15)年1月号に掲載された「東京風景」という随筆を読んでおこう。

〈この頃の東京市中は、実に雑鬧の巷そのものである。電車もバスもタクシイも、すべての交通機関は満員だし、街路には人間が層をなして満ち溢れてゐる。

百貨店には群集が右往左往し、我がちに買物を争つて居るし、飲食店は座席のないほど混み合つてるし、映画館の前には、いつも入場者が列をなして並んでゐる。これが非常時下の都市風景かと思ふと、ちよつと奇異の感じがするほどである。

すべての物資が欠乏し、ガソリンもなく電気もなく防空演習の不断に行はれてる東京を、新聞等で風聞してゐる国外在住の邦人や外国人やが、おそらく想像にイメーヂしてゐる東京は、暗澹として薄暗く、昼もろくに人通りがないほど、粛条とした暗愁の都にちがひない。

出征軍人の火野葦平が、戦地から帰つて驚いたといふのも当然である。しかしこの群集を、少しく注意して見る人には、彼等が一種特有の意志や感情やを、その表情に示してゐることがすぐ解る。

アラン・ポオの小説に「都会彷徨者(タウントラツタア)」といふのがあるが、今の東京市中を彷徨してゐる群集の姿が、正によくそれに似てゐる。

ポオはその小説で、ある風変りな奇妙な男を、町の一角に発見して、終日彼に尾行しながらその行動を写してゐる。一見失業者のやうな様子をした、その見すぼらしい中年の男は、尾行者があることも知らず、終日繁華な市街を歩き廻つてゐる。

彼はいつもきよときよとして、犯罪人か何かのやうに、落付かない足取りをして歩きながら街の飾窓を順々に覗いて見たり、飲食店の前に立つてみたり、劇場の看板を眺めたり、或は停車場の待合室に這入つたり、勧工場の中を素通りしたりする。

彼は何を買物するでもなく、何を見物するのでもなく、また何の目的があるのでもなく、ただ終日、かうして都会の街々を歩き廻つてゐるのである。ポオは評釈して言つてる。かういふ風変りな男は、大都会には幾人居るかも知れないのである。

おそらくかうした男は、人生で最も孤独なよるべない悲哀の魂を持つた人たちである。なぜなら彼等は、自分で為すべきことの意味を知らず、生活を、希望を失ひ、倦怠に追ひ立てられ、しかも何事にも興味がなく、寂寥の孤独感に耐へない為に、終日さうして居るのだからだ。

私の観察するところによると、今の東京市中の群集も、大部分がこの「都会彷徨者」に似てゐるやうに思はれる。

もちろん彼等の一部分は、戦時景気の小成金で、百貨店の新しい顧客階級でもあるのだろうが、大部分の者は、比較的貧しい財布を持ちながら、繁華な街から繁華な街へと、店の飾窓を覗き込みつつ、あてもなく市街を彷徨して居るのである。

活動写真館の前には、いつも群集が喧囂(けんごう)してゐるが、果して映画のどんな魅力が、群集をひきつけて居るのだらうか。おそらくは別の原因――希望の失喪から来る、居たたまれない空虚の倦怠や焦燥――が、人々を家から追ひ出し、街の座席に倚子を買はせるのではないだらうか。

あわただしく右往左往し、物に追はれてるやうな彼等の歩調は、心に落付きのない生活の不安さをよく語つてゐる。さすがに時局化の民衆は、珈琲店や売春窟の前は避けて通るが、街裏の居酒屋や飲食店は、どこでも満員で混み合つてる。

そして女共は、日用品の窮乏を見込むことから、狂気のやうになつて買物に熱中してゐる。かうした町の繁昌は、しばしば火事場の混雑を連想させる。

いち早く人々は、生活に必要なものだけを、自分の風呂敷に包まうとする。そして途方にくれた人々は、街路を当もなくさまよひながら酒場を求めて飲み歩き、用もない野次馬の群集が、彼等に混つて喧囂してゐる。〉

写真は、昭和10年ごろ、世田谷代田の自宅庭で(『萩原朔太郎全集』第九巻から) 


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2016年12月12日

「群集の中を求めて歩く」⑬ 破綻

〈私が大井町へ越して来たのは、冬の寒い真中であつた。私は手に引つ越しの荷物をさげ、古ぼけた家具の類や、きたないバケツや、箒(ほうき)、炭取りの類をかかへ込んで、冬のぬかるみの街を歩き廻つた。空は煤煙でくろずみ、街の両側には、無限の煉瓦(れんが)の工場が並んでゐた。冬の日は鈍くかすんで、煙突から熊のやうな煙を吹き出してゐた。

 貧しいすがたをしたおかみさんが、子供を半てんおんぶで背負ひこみながら、天日のさす道を歩いてゐる。それが私のかみさんであり、その後からやくざな男が、バケツや荷をいつぱい抱へて、痩犬(やせいぬ)のやうについて行つた。

     大井町!

 かうして冬の寒い盛りに、私共の家族が引つ越しをした。裏町のきたない長屋に、貧乏と病気でふるへてゐた。ごみためのやうな庭の隅に、まいにち腰巻やおしめを干してゐた。それに少しばかりの日があたり、小旗のやうにひらひらしてゐた。

     大井町!

 むげんにさびしい工場がならんでゐる、煤煙で黒ずんだ煉瓦の街を、大ぜいの労働者がぞろぞろと群がつてゐる。夕方は皆が食ひ物のことを考へて、きたない料理屋のごてごてしてゐる、工場裏の町通りを歩いてゐる。家家の窓は煤(すす)でくもり、硝子が小さくはめられてゐる。それに日ざしが反射して、黒くかなしげに光つてゐる。

     大井町!

 まづしい人人の群で混雑する、あの三叉(みつまた)の狭い通りは、ふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつてゐる。どこへ手紙を出すのだらう。さうして黄色い貯金帳から、むやみに小銭をひき出してる。

 空にはいつも煤煙がある。屋台は屋台の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車(ほろばしや)の列がつながつてゆく。

     大井町!

 鉄道工廠(こうしよう)の住宅地域! 二階建ての長屋の窓から、工夫(こうふ)のおかみさんが怒鳴つてゐる。亭主(ていしゆ)は駅の構内で働らいてゐて、真黒の石炭がらを積みあげてゐる。日ぐれになると、そのシヤベルが遠くで悲しく光つてみえる。
 長屋の硝子窓に蠅(はえ)がとまつて、いつまでもぶむぶむとうなつてゐる。どこかの長屋で餓鬼が泣いてゐる。嬶が破れるやうに怒鳴つてるので、亭主もかなしい思ひを感じてゐる。そのしやつぽを被つた労働者は、やけに石炭を運びながら、生活の没落を感じてゐる。どうせ嬶を叩(たた)き出して、宿場(しゆくば)の女郎でも引きずり込みたいと思つてゐる。
 労働者のかなしいシヤベルが、遠くの構内で光つてゐる。

 人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人は自分の思ひを自然に映して、それぞれの景色の中に居住してゐる。

     大井町!

 煙突と工場と、さうして労働者の群がつてゐる、あの賑(にぎ)やかでさびしい街に、私は私の住居を見つけた。私の泥長靴(どろながぐつ)をひきずりながら、まいにちあの景色の中を歩いてゐた。何といふ好い町だらう。私は工場裏の路地を歩いて、とある長屋の二階窓から、鼠(ねずみ)の死骸(しがい)を投げつけられた。意地の悪い土方の嬶等が、いつせいに窓から顔を突き出し、ひひひひひと言つて笑つた。何といふうれしい出来事でせう。私はかういふ人生の風物からどんな哲学でも考へうるのだ。
 どうせ私のやうな放浪者には、東京中を探したつて、大井町より好い所はありはしない。冬の日の空に煤煙! さうして電車を降(お)りた人人が、みんな煉瓦の建物に吸ひこまれて行く。やたら凸凹(でこぼこ)した、狭くきたない混雑の町通り。路地は幌馬車でいつもいつぱい。それで私共の家族といへば、いつも貧乏にくらしてゐるのだ。〉

13

朔太郎40歳、1925(大正14)年、待望の東京生活をはじめたころを描いた「大井町」という散文詩だ。

朔太郎は「大井町へ移住してき来た時、ひどい貧乏を経験した。田舎の父から、月々六十円宛もらふ外、私自身に職業がなく、他に一銭の収入もなかつた」(「ゴム長靴」)と書いている。

当時の60円は、一家4人で生活するのにそんなに少ない額ではなかったようだが、それまで金銭に不自由することのなかった朔太郎にとっては、初めての「貧乏」体験だったのだろう。

この年の8月には『純情小曲集』を新潮社から刊行、9月には室生犀星や萩原恭次郎らの発起で、出版記念会が銀座で開かれた。しかし11月には、妻稲子の健康が優れないため、神奈川県の鎌倉へ移り住んだ。

翌1926年秋には詩話会の解散が決まり、有力な発表媒体だった『日本詩人』が廃刊となる。この年12月に朔太郎一家は、現在の東京都大田区馬込に転居している。

1927(昭和2)年6月から7月にかけて伊豆湯ヶ島に滞在。7月25日、旅館の朝食時に芥川龍之介の自殺を知る。「何事か、ある説明のできない不安な焦燥と、恐怖に似た真青の感情とが、火のやうに自分の全神経を駆けまはつた」(「芥川龍之介の死」)と記している。

1928(昭和3)年12月には、構想・草案から10年を費やし、「書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した」という『詩の原理』を第一書房から出版した。

しかし当時、稲子の所業をめぐって家庭内が紛糾し、もはや修復不可能な状態になっていたようだ。1929(昭和4)年7月初めには、室生犀星に「いよいよ僕は決心した。家庭を破壊してしまふのである」と手紙を書いている。

7月下旬、ついに、稲子(当時31歳)と離婚する。都会を求めて郷里を出てから4年半でのことだ。朔太郎は、2児を連れて、前橋に引き揚げる。8月22日付の室生とみ子宛書簡に、朔太郎は次のように書いている。

〈もとより事情の此所に至るは、結婚の当初より定まつて居たことでして、言はば宿命的に決定して居たのでした。今日迄外面平和にすごし居たるは、小生の無関心と物臭さと、一つには子供のために忍従し居た為でして、本来ならば八年も昔に今回の事件が起つたわけでした。

室生君もこの件では色々小生のために義憤してくれましたが、近来に於ける家庭のふしだらは、昔から彼女の性向に気質してゐた自然性が、たまたまその機会によつて外面の実行々事に現はれただけでして、小生としては別に驚くことでもなく、全く当然の結果と見て居ります。

故に小生の理由としては、それらの事実によつて離別するのではなく、たまたまそれを機会として、多年の間の忍従と宿題とを解決したにすぎないのです。しかし目下の事態として、子供の養育には全く困惑して居る次第です。

いつまでもこのままで居ることは出来ませんし、後に別の妻を迎へるとしても、継母と子供との間が円満に行かないことは解つて居ます。さうなつては子供が可哀さうであるし、その精神上にあたへる打撃や従来の教育上のことを考へる時、むしろ暗然として将来長く独身生活で居ることを決心されます。

今日迄小生が長く不満の境遇に忍従して居たのも、実に子供についての未来を考へ、この一事のためでありましたが、いよいよ今の事態となつては、さらに痛切にこれが感じられる次第であります。〉

離婚。夢の大都会、東京での家庭生活は破綻し、2児を抱へて痛恨の思いで故郷に帰る。そのときのことを朔太郎は、次にあげる「帰郷」という詩にしている。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。
  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子供等は眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
  鳴呼また都を逃れ来て
  何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未来は絶望の岸に向へり。
  砂礫(されき)のごとき人生かな!
  われ既に勇気おとろへ
  暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
  いかんぞ故郷に独り帰り
  さびしくまた利根川の岸に立たんや。
  汽車は曠野を走り行き
  自然の荒寥たる意志の彼岸に
  人の憤怒(いきどほ)りを烈しくせり。

*写真は、「東京府下馬込村の小学校裏にて 左より長女葉子 次女明子 昭和二年夏と思われる」(『萩原朔太郎全集』第11巻から) 


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2016年12月11日

「群集の中を求めて歩く」⑫ ギンブラ

〈震災以後の銀座には昔の「煉瓦(れんが)」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔帳場格子(ちょうばごうし)からながめた向かいの下駄屋(げたや)さんもどうなったか、今三越(みつこし)のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。

十二か月の汁粉屋(しるこや)も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町(おわりちょう)のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。

谷中(やなか)の寺の下宿はこの上もなく暗く陰気な生活であった。土曜日に尾張町へ泊まりに行くと明るくて暖かでにぎやか過ぎて神経が疲れたが、谷中(やなか)へ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。

こういう墓穴のような世界で難行苦行の六日を過ごした後に出て見た尾張町(おわりちょう)の夜の灯(ひ)は世にも美しく見えないわけに行かなかったであろう。今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。

みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座(ぎんざ)の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。

しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。

自分の知った範囲内でも、人からは仙人(せんにん)のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。

日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰(じんかん)を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。

心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。

F屋喫茶店(きっさてん)にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。〉

寺田寅彦が、1933(昭和8)年2月の『中央公論』に発表した「銀座アルプス」という随筆だ。

12

関東大震災の後の「ギンブラをする人々の心」に、若かった「三十年前の自分のそれに似たもの」を重ねている。

久保田忠夫はこの文章の一部を引用したうえで、朔太郎は前者、すなわち「人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似」たタイプに属し、それは遅くとも中学時代にあらわれていると指摘している。

〈「彼等は往来を歩くにも、わざと淋しい通を選んだ、何故ならば繁華の道は俗であるといふのだ、然るに私はいつもいつも賑やかな処人混の中を好んで歩いた、」と明治四十五年六月三日づけ萩原栄次あて書簡で回想している。

こらには生来的なもののほかに、前橋という田舎の小都市の環境が加わっていよう。だから、「上京当日(都に来たりて)」のような詩もあるわけである。

  わがよろこびは身うちより
  銀の小針をぬきすつる
  いさみて行けば浅草や
  舗石道に落つる日は
  灯燃ゆる如(ごと)く烈しかり
  橋の酒場の磨(みが)かれし
  玻璃(はり)の扉(とびら)を開くとき
  我身につらき故郷は
  いまぞ消えさる如くなり
  はるばる鳥のすぎ行ける
  都の空は茜(あかね)さし。

東京への、前橋脱出に、解放感を満喫しているのである。しかし、やはり、生来的なものが主なのであろう。

大正四年二月に伊豆大島へ旅行したときのことを萩原栄次に「今度の旅は非常にあわたゞしい旅でした、小田原から伊東をめぐり一夜にして伊東を立つて大島へ渡りました、しかも大島に二晩とは落付けないで東京へかへりました、汽船で東京の霊岸島へついたときは夜でした、築地の町の明るい電燈や、いろいろな町の物音や派手な風俗をした男女の群集を見たときは我知らず歓喜の声を発しました、矢張東京がいちばん美しいところだと思ひました」(大正4・3・15づけ)と報じている。

  みよこの群集のながれてゆくありさまを
  ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
  浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
  人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない

この「群集のながれ」の描写はよく出来ている。漸層法を用いて、次第にひろがって行くありさまが、言語の音とかたちとの一つになったものによってうつし出されている。そして、その浪にもまれて、人のもつ憂いと悲しみとが、洗い流されて行く有様も。〉(久保忠夫編『鑑賞日本現代文学⑫萩原朔太郎』)

ところで、せっかくのゴールデンウィーク。あなたは「ごみごみとした人いきれの銀座を歩く」ほうを選びますか、それとも「広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなる」質ですか?

*昭和初期の銀座大通り(https://www.1101.com/edo/note-051012.html から借用) 


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2016年12月10日

「群集の中を求めて歩く」⑪ 東京

  ここには自然がある、
  おそろしく大きな手もつけられない自然がある、
  田舎のすべてのものの上におほひかぶさつてゐる重くるしい陰鬱な自然である、
  ああ、自然、
  なんといふ冷酷な意地のわるい言葉であらう、
  ああまたなんといふ恐ろしさで、
  この自然が私の心の上にのりかかつてくることであらう、
  私のたましひはその重みにくろずみ、
  くるしくたへがたく土壌の下にすすりなきをするむぐらもちのやうだ、
  そのいきづまるやうな陰気なたましひ、
  ひろびろとした曠野の中にふるへてゐるひとつの病みたるこころね、
  こゑをかぎりにさけびをあげるひとつの生命、
  ひとつの高き樹木のうへにひろがる無限の空、
  無限にひろがりゆく青ざめたるひとつの感情、
  ああ、じつになんといふ恐ろしさで、
  この陰鬱な自然が私にのりかかつてくることか、
  みよ、みよ、その鉄板のやうな重たさが、
  私のいのちをまつかうから押しつぶし、
  は弱い神経の繊維をがりがりとかじりつめる、
  ああはやこの恐ろしい自然は私のいのちの骨までもがりがりと食ひ尽す、
  食ひ殺す。

  私はかなしい瞳をあげて、ときどき遠方の空を思ふのです、
  かしこに晴れたる青空あり、
  その下には無数の建築、無数の家根、
  遠く大東京の雑鬧はおほなみのやうな快よいひびきをたてて居るではないか、
  ああ心よいまはかがやく青空のかなたにのがれいでよ、
  そしてやすらかに安住の道をもとめてあるけよ、
  見知らぬ人間の群と入り混みたる建築の日影をもとめて、
  いつもその群集の保護の下にあれよ、
  ああ、わがこころはなになればかくもみじめな恐れにふるへ、
  いつも脱獄をしてきた囚徒のやうに、
  身も知らぬ群集の列をもとめてまぎれ歩かうとするのか、
  このふるへる、みすぼらしい鴉のやうな心よ、
  しきりに田舎の自然をおそれる青ざめたるそのひとつの感情よ、
  いまも私のかんがへてゐることは、
  盛りあがるやうな大東京の雑鬧と、そのあてもなき群集のながれゆくひとつの悲しき方角です。

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東京放浪の生活を切り上げて前橋に帰って4年、1917(大正6)年の「文章世界」6月号に発表された「都会と田舎」という詩の後半部分だ。

「いつも脱獄をしてきた囚徒」のように「群集の列をもとめてまぎれ歩かう」とする「ふるへる、みすぼらしい鴉のやうな心」で東京の群集に思いを寄せている。

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

「群集の中を求めて歩く」が収容された『青猫』が出版された2年後の1925(大正14)年、40歳の節目を迎えた朔太郎は、妻と娘2人を連れて出郷し、待望の東京生活をはじめた。

2月に関東大震災後の新興住宅地となった東京市外大井町の借家に入り、2月には田端に移った。その近くには室生犀星や芥川龍之介が住んでいて、ひんぱんに往来している。

朔太郎は、大正14年5月18日付の読売新聞に「身辺雑記」として次のように記している。

〈都会に来てから三ヶ月あまりになる。
「君! 東京に落つきましたかね。」と逢ふ人毎に質ねられる。
「さうですね。まだ少しも。」
さう答へながら、私は反省してみるのである。

落付くといへば、ほんとに私のやうに落付きのない人間はない。田舎にゐる間は、絶えず焦れついた気持ちでゐて、一日も生活に落付くことができなかつた。

狭い一軒の家の中に、両親や、兄妹や、それから私の家族子供たちがゴタゴタと棲んでゐるので、机を置くべき居間といふものがなく、一人で物を考へることもできないし、勿論書くこともできなかつた。仕方がなくて長屋の裏二階に間借したり、友人と一室に同居したりしてゐた。

この住居に落付きがないから、益々私はいらいらしてきた。
「いつそ書斎を建てたらどうです。」
私の身辺を知つてゐる人たちは皆さう言つて忠告した。

しかし収入が全くなく辛うじて衣食の恵を親から受けてる自分に、そんな自由なゼイタクが空想さるべくもないのである。其上私は、郷土に安住しようといふ意志がなかつた。

郷土における私は、どうしても周囲と調和できない異人種であつた。無理解な誹謗と侮辱の中で、私は忍従の限りを尽くしてゐた。

  我れをののしるものはののしれよ
  このままに
  よも故郷にて朽ちはつる我れにてはあらじかし。

北風の寒い日にも、私は歯を喰ひしめながら、心に泣きつつ向町や才川町の場末を彷徨してゐた。落日の家根を越えて利根川がかうかうと鳴つてゐるのである。

  ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ。

さうして遂に東京へ出て来た。東京は私の恋びと、青猫の家根を這ふ都会である。しかしながらこの都会が、私に何の落付きをあたへるだらう。まいにち銀座通りを歩いてゐても、心の生活はさらに田舎の時と変りがない。

不安と、焦燥と、忌はしい倦怠とは、一日でも私の周囲を離れはしない。いまはとにかく書斎を持つてゐる。書くための机も持つてゐる。けれども長い過去の習慣が、私の浮浪人(ボヘミアン)の気質をあたへてしまつた。

今は周囲に味方もゐる。私をはげましてくれる友人もゐるけれどもそれが何んだらう。依然として、私には何の幸福もなく、何の平和も有りはしない。都会に来てからは、ただ性質が烈しくなつてきた、田舎で抑圧してゐた満腔の不満が、噴火口を見つけた火山のやうに、一時に怒りを爆発させる。

理由なく、私は怒りつぽくなり、酔つては必ず人を叱罵する。性質がすさんで悪くなつてきた。そして、げにそれだけが、今の生活の変つてきたものにすぎないのだ。

  いかならん影をもとめて
  みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
  そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
  このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

人生はどこも同じことだ。肉体の飢を充すものはあつても、心の飢餓を充す世界はどこにもない。所詮私のやうなものは、さびしい街路の乞食にすぎない。ゴミタメの中の葱でも拾つて居よう。

都会に来てからは、しかしながら苦痛がすくなくなつた。なぜならば友人や、酒場や、自動車や、玩具や、ゼイタク品や、その他の感覚的事物があつて、それが気分を紛らしてくれるからだ。

そして鬱屈する人生が、次から次へと感覚的刺激の興味に紛れてゆく。しかしながらただ感覚的にである。精神の満足する如き、ほんとの快楽といふものは全くない。それは田舎に無い如く、都会にも実際無いのである。〉

*1924(大正13)年、出郷して東京での生活をはじめる直前の朔太郎(『萩原朔太郎全集』第8巻から) 


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2016年12月09日

「群集の中を求めて歩く」⑩ 日比谷焼打事件

「ヨーロッパ人の現在の社会生活のなかには、よかれあしかれ、なによりも重要な事実が一つある。その事実とは、大衆が社会的勢力の中枢に躍りでたことである。本来のことばの意味からいって、大衆はみずからの生存を管理すべきではないし、また、そんなことはできない。

まして、社会を支配するなどは問題外である。だから、右の事実は、民族、国家、文化が忍びうるかぎりの深刻な危機に、ヨーロッパが現にさらされていることを意味する。

しかし、この危機は、歴史のなかで一度ならず生じたのである。その特徴とその結果は、わかっている。その名もまた、知られている。それは、大衆の反乱と呼ばれる。〉

現代大衆化社会の到来をいちはやく予告した、として知られるスペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセー(1883~1955)の『大衆の反逆』(1929年)の冒頭だ。オルテガは引き続き、「大衆の反乱」の主役である「群集」について言及する。

「この歴史的現象を把握する最善の方法は、おそらく、われらの時代の特徴のなかで、はっきりと目に見えるものをとりだして、視覚的経験に訴えることであろう。この特徴を分析するのは簡単ではない。だが、記述するのは、いたって容易である。

私はこれを、密集、《充満》の事実と名づける。都市は人で充満している。家々は借家人でいっぱい。ホテルは旅行客でいっぱい。汽車は旅客でいっぱい。喫茶店はお客でいっぱい。散歩道は歩行者でいっぱい。知名な医者の診察室は病人でいっぱい。

時期はずれでなければ、劇場は観客でいっぱい。海岸は海水浴客でいっぱい。以前には問題にならなかったことが、ほとんど慢性的になりはじめた。それは、場所を見つけることである。〔中略〕

これらの群集をつくる個体は、以前にも存在していたのであるが、それは群集としてではなかった。小さな集団に別れ、あるいは孤立して、外見上、多様な、無関係な、たがいに離れた生活を送っていたように見える。

それぞれ――個人または小さな集団――が、農村、田舎町、小都市の、あるいは大都市の一区域のなかで、一つの場所、おそらく自分自身の場所を占めていたと考えられる。

いまや突然、群集が一種の塊となって出現してきた。われわれの目は、どこにでも、群集を見る。どこにでも? いや、そうではない。

群集はまさに最良の場所を、すなわち、以前には小さなグループのために、つまり少数者のためにとっておかれた、人類文化の比較的洗練された創造物にほかならぬ、最良の場所を占めているのである」(寺田和夫訳)

このようにオルテガによって、ヨーロッパではっきりと見出されるようになった「群集」。それを、急速な近代化を図るアジアの片隅、日本の詩人もみつめていたのだ。

  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ

群集という「おほきな感情をもつた浪」は、ときに大きな暴動を巻き起こし、時の政権を覆す力にもなる。

10

朔太郎が20歳のとき、1905年9月5日に日比谷焼打事件が起こっている。

東京の日比谷公園で行われた、日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した暴動事件だ。

1905年、日露戦争は日本の勝利で終わった。

しかし、ポーツマス条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務がなかったため、多大の犠牲者や戦費を払ったにも関わらず直接的な賠償金が得られなかった。

そのため、世論の非難が高まり、各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれた。

9月5日、日比谷公園で民衆による決起集会=写真、wiki=では、暴走した民衆たちが、内務大臣官邸、御用新聞の国民新聞社、交番などを襲って破壊するまでにいたる。

群集の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、米国公使館や教会まで襲撃対象となった。翌9月6日、戒厳令が出て騒動を収まるが、死者は17人、負傷者は500人以上、検挙者は2000人以上に達した。

日比谷焼打事件で示された民衆運動は、ついに政権を覆す力にもなる。大正政変だ。

朔太郎が3年間にわたる“東京放浪”をしていた1912(大正元)年。軍部の圧力で西園寺内閣が倒れ、長州閥の桂太郎が組閣すると、政党、実業家有志、ジャーナリストらが閥族打破、憲政擁護を掲げて運動を起こした。

翌年1月には「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆らがこれに参加。2月9日の憲政擁護第3大会には2万人が集まり、翌10日には数万の民衆が議会を包囲する。

議会が停会すると、憤激した民衆は警察署や交番、国民新聞社などを襲撃。騒ぎは、大阪、神戸、広島など各地へも飛び火した。

2月20日、桂内閣は発足からわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。それは、藩閥政治の衰退と民主政治の高まりを示すこととなり、普選運動など大正デモクラシーの流れをつくっていく。

群集の中に身を投入することで、精神的には群集から独立する詩人。中筋直哉がいう「自己精神定立の肯定的媒介としての群衆」の中にあった朔太郎も、こうした時代を生きていた。 


harutoshura at 15:47|PermalinkComments(0)萩原朔太郎 

2016年12月08日

「群集の中を求めて歩く」⑨ 民族共同体主義者

きのうに続き、中筋直哉『群衆の居場所』をよりどころに「群集の中を求めて歩く」を読んでみよう。中筋は次のように考察をすすめていく。

  うらがなしい春の日のたそがれどき
  このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
  どこへどうしてながれ行かうとするのか
  私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
  ただよふ無心の浪のながれ
  ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
  浪の行方は地平にけむる
  ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

〈最終行の「方角」の詩句はこの詩の窮まるところを指し示す。

この詩句は後世の文芸評論家によって、来たりつつあるファシズム社会体制への予言としてしばしば評価されてきた。

この評価によれば朔太郎は無邪気な民族共同体主義者ということになる。

しかしこれは後世の歴史と社会科学上の定式化された物語を後づけする暴論である。

ただこの評価が、自閉した精神の共同体への溶融という論理をこの詩に見出したことには注意すべきである。はたしてそれは当たっているか。朔太郎の群衆論の構図とは、自己精神溶融の肯定的媒介としての群衆であるのか。

その当否は、この詩句に加えられた改変の過程をたどれば明らかになる。雑誌『感情』に掲載された1917(大正6)年の第一稿では、この行は「ただひとつの悲しい方角をもとめるために」と結ばれていた。

一方、1936(昭和11)年の『定本青猫』に収録された第三稿では、この連は直前の行とともに削除され、代わりに「もまれて行きたい」のリフレインが付された。以上三稿を並べてみれば、いずれも結句において詩人が、再び自らの精神のありように焦点を戻そうとしたことが見てとれよう。

9

「ひとつの『方角』」とは、自閉した精神を溶融させた共同体のことではなく、群衆の中にいてはじめて安らかな感情のもと解放されるはずの詩人の自発的な意志と愛欲のことにほかならない。

そして、群衆の中にいる他の人びともまた詩人と同じく自発的な意志と愛欲のままに、それぞれ「ひとつの『方角』ばかりさしてながれ行く」のである。だからこそ群衆の姿は、重なりつつもゆるぎひろがっていく浪に象徴されたのだった。

逆に、群衆の中にいない精神が憂いと悲しみの感情に自閉しているのは、そこでは彼の自発的な意志と愛欲を解放させる機会が得られず、それゆえそれを孤立させるからである。

共同体に溶融されているのは、むしろ群衆の中に居ない時の精神の方なのである。〉

朔太郎は、1925(大正14)年に出版した『純情小曲集』で、「出版に際して」として次のように記している。

〈郷土! いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。

単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。」さう言つて人人は舌を出した。

少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓抜なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうに巣を食つていつた。

  いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故郷の家をのがれ、ひとり都会の陸橋を渡つて行くとき、涙がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鉄路の涯へ、汽車が走つて行くのである。〉

この文章の中に出てくる詩句は、『純情小曲集』に収められた「小出新道」の一行だ。

  ここに道路の新開せるは
  直(ちよく)として市街に通ずるならん。
  われこの新道の交路に立てど
  さびしき四方(よも)の地平をきはめず
  暗鬱なる日かな
  天日家竝の軒に低くして
  林の雜木まばらに伐られたり。
  いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
  われの叛きて行かざる道に
  新しき樹木みな伐られたり。

中筋は、ここでみた朔太郎の群衆と詩人の関係について、身体の次元における詩人の群衆への投入=解放と、精神の次元における詩人の群衆からの独立=許容と位置づける。

そして、前回にみた「Ⅰ自己精神定立の否定的媒介としての群衆」「Ⅱ自己精神溶融の肯定的媒介としての群衆」に対して「Ⅲ自己精神定立の肯定的媒介としての群衆」と名づけ、「それは大衆社会論でも集団心理学でもない、新しい群衆論の構図である」と指摘している。

*写真は、http://www.desdeelexilio.com/2010/10/20/comprendiendo-la-economia-capitulo-3-el-metodo-cientifico-en-la-ciencia-economica-ii-la-naturaleza-humana/muchedumbre/ から 


harutoshura at 14:28|PermalinkComments(0)萩原朔太郎 

2016年12月07日

「群集の中を求めて歩く」⑧ 意志と愛欲

「詩人は好むままに自己みずからでありまた他人であるという、この比類のない特権を愉しむ。肉体を求めてさ迷う魂のように、彼は望む時に、人々の人格の中へはいる。」(ボードレール「群集」)

 前回みたボードレールと朔太郎の「群集」の性格の違いについて、社会学者の中筋直哉は『群集の居場所』(新曜社)のなかで次のように述べている。

〈ボードレエルが自らの身体を投げ入れた群衆は、王を郊外の楽園より引きずり出し、都会の真中で斬首するような暴力的な存在である。精神の優位は、それ自体の内部に幻想されるほかはない。

ボードレエルにとって群衆と詩人の関係は、身体の次元における後者の前者への監禁/参入と、精神の次元における後者の前者への対立/支配である。この詩に結晶された群衆論の構図を、Ⅰ自己精神定立の否定的媒介としての群衆と名づけよう。〉

これに対して朔太郎の詩は、ボードレールよりもむしろ、E・A・ポーの「群集の人」のほうに近いと中筋は指摘する。

「群集の人」(The Man of the Crowd)は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーが1840年12月に発表した、ロンドンの雑踏で見かけた奇妙な男の行動を、語り手が追跡していく様子を描いた短編小説だ。

8

ある秋の日暮れ、数カ月患った病気が快方に向かっていた語り手が、ロンドンのカフェに腰を下ろしている。

窓ガラスに額をあてて群集を観察していると、65歳か70歳くらいの老いぼれの顔が視界に飛び込んできた。

男は小柄でひどく痩せこけ、体はかなり弱っていた。服は薄汚れてぼろぼろだが、ランプの光で照らされると生地はなかなか上等と見受けられた。

語り手は、この男に異常な興味を覚え、尾行を始める。

「先ほどまで人波にあふれていた大通りを老人は物憂げに数歩あるいてから、ふと大きく溜息をつき、今度はテムズ川のほうに向きを変えると、幾多の曲がりくねった路地に入り込み、最終的に出てきたところは、大劇場のひとつが見える広場だった。

劇場は終演を迎えたころで、観衆が出口からぞろぞろと流れ出てきた。すると、老人はいきなりこの群れに身を投じ、安堵したように大きな息をついた。心なしか、老人のはげしい苦悩の表情がやわらいだように見えた。が、ふたたび顎をぐっと胸に沈めると、老人はまた最初に見たときの姿にもどった。

見ていると、老人は観衆の大多数が向かった方向についていくのだった――だが、それにしても、この老人の気まぐらな行動をどう理解すればよいのか、私はすっかり途方にくれた。

進むにつれ、群れはだんだん散漫になり、それにつれて老人の不安と動揺がまたしても戻ってくる。しばらくのあいだは十人かそこいらの酔漢の一群のあとについていくのだが、そのうち酔漢も一人また一人と脱落していき、気がついたときには、狭く陰気な路地に来ていて、残党はわずか三人ということになった。

すると老人は立ちどまり、しばらくのあいだ物思いにふけっていたかと思うと、ありありと動揺の色を見せて、さすがに慌てたようすで足早に歩きだしたが、その行く先はロンドン市のはずれの、これまでわれわれが歩いてきた場所とは似ても似つかぬ界隈に通じていた。」(八木敏雄訳)

最後に語り手はこの放浪者のまえに立ちはだかったが、男はそれに目もくれず粛々と歩行を続ける。語り手はとうとう「この老人こそ深甚なる罪の化身にして真髄なのだ。老人は孤独でいることを拒む。彼は群集の人なのだ」と悟る。

中筋はつづける。〈朔太郎の詩が唱うのは「群集の人」の感情のありようである。彼は自らの身体を群衆の中に投げ入れて、群衆に共有された感情を自らの感情を媒介に用いて表現する。このとき詩人の感情は、群衆の誰か一人のもつ感情以上の何ものでもない。

  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
  ああ ものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
  おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか
  みよこの群集のながれてゆくありさまを
  ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
  浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
  人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
  ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
  ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
  たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。

朔太郎にとっても、詩の主題は群衆の中にいる精神の新しいありようにある。しかしそれは群衆を踏み台にして、そこからただ一人優越する存在ではない。なぜならば、「ひとつのぐるうぷ」の詩句が示す通り、彼は群衆の中にいる自己と他者たちとの関係を優劣や対立・支配と予定しないからである。

精神の新しいありようとは、「憂い」と「無心」、「悲しみ」と「やすらかさ」の対句が示す通り、群衆の中にいることによってはじめて安定した感情のもとに解放される「意志と愛欲」の集合態である。

群衆の中にいないとき、人びとの精神は「ひとりひとりの憂いと悲しみ」の感情に自閉している。群衆の中にいることによって、人びとは、自閉した精神から解放されることと自発的な意志と愛欲を解放させることの、二重の解放を得る。

重なり合う浪が象徴すると通り、群衆とは、その中にいる人が自閉した精神から解放されることを相互に許容し合う、ひとつの連動態である。詩人もまた群衆の中にいて、群衆と諸共に自閉した精神を解放し、やすらかで無心な感情のもと自らの意志と愛欲を解放させる。

この詩において、朔太郎は自閉した精神の共同体への溶融を夢想しているかのようにみえる。こうした夢に織り込まれた群衆論の構図を、Ⅱ自己精神溶融の肯定的媒介としての群衆と名づけよう。〉

*ハリー・クラークによるポーの「群集の人」(The Man of the Crowd)の挿絵。wikiから 


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2016年12月06日

「群集の中を求めて歩く」⑦ 半世紀

〈群集の中に浴(ゆあ)みするということは、誰にでも出来ることではない。群集を愉しむことは一つの芸術である。ただ選ばれた者のみが、――幼い時に守護の妖精によって、仮装と仮面との趣味を、定住への嫌悪と旅行への情熱を、彼の揺籃(ゆりかご)の中へ吹き込まれた者のみが、人類の犠牲に於て、ひとり恣(ほしいまま)に生活を享受することが出来るのである。

 群集multitudeと孤独solitudeと。勤勉にして実り多い詩人の手になる時、互に対であり、互に意味を交換し得る二つの言葉である。己の孤独を雑沓によってみたす術(すべ)を知らない者は、多忙な行人の群の中にあって最早ただ一人であることは出来ない。

 詩人は好むままに自己みずからでありまた他人であるという、この比類のない特権を愉しむ。肉体を求めてさ迷う魂のように、彼は望む時に、人々の人格の中へはいる。彼の眼が見る限り、すべての人は空席である。そしてもし何等かの席が彼の前に閉されていると思われる時には、それはただ、彼の見るところ、その席は訪れるに値しないという理由に由る。

 孤独な、考え深い散歩者は、こうした普遍的な魂の交遊に、独自の陶酔を感じ取る。た易く群集と結婚する者は、熱狂的な快楽を知っている。それこそ、箱のように閉ざされたエゴイストや、軟体動物のように足を奪われたなまけ者には、永久に未知のものである。そして彼は、その時々に彼の前に示されたあらゆる職業、あらゆる悦び、あらゆる惨めさを、自分のものとして味わう。

 ふと姿を見せた不測の人、側を過ぎて行く未知の人に、詩も慈悲も、自らの全部をあげて捧げることの出来る、この魂の聖なる売淫、言葉に尽きせぬ饗宴と較べるならば、人間が愛と名づけたものも、如何に限られた、小さな、弱弱しいものであろう。

 この世の幸福な人々に、よし一時彼等の愚かしい自負心を傷つけるにすぎないとしても、彼等よりまさった、更に広く、更に洗練された幸福というものがあると、時々教えてやるのは悪いことではない。植民地の建設者、人民の牧師、地の果へまで流浪した伝道僧、彼等は疑いもなく、これら神秘な陶酔を、いくらか心得ているに違いない。そして彼等の天分がつくりなした、人類という広大な家庭のさなかにあって、変転する彼等の運命を、清純に過ぎた彼等の生活を、気の毒に思う人々に対して、時折は、憫みの微笑を洩らしていることであろう。〉

7

“近代詩の父”といわれるシャルル・ボードレール(1821~1867)=写真、wiki=が、1861年11月1日号の「幻想派評論」に発表した「群集」という散文詩の福永武彦訳だ。有名な『パリの憂愁』の中に入っている。

日本の近代詩を切りひらいた朔太郎が「群集の中を求めて歩く」を最初に発表したのは、1917(大正6)年。ボードレールの「群集」から、半世紀たっている。

ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの ためいきの……」など、ヨーロッパの象徴詩を日本に初めて紹介したことで知られる上田敏の『海潮音』が出版されたのは1905(明治38)年10月。

『海潮音』に入っている訳詩は、1902年12月以降『明星』などの雑誌に発表されたものだ。

すでに見たように、1903(明治36)年7月には『明星』に朔太郎の短歌3首が初めて掲載されている。

おそらく『明星』などを通して、若いころからフランス象徴詩やボードレールに、相当関心を抱くようになっていただろう。東京放浪から前橋へ帰った1913(大正2)年には、有名なこんな詩も発表している(『朱欒』5月号)。

     旅上

  ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままなる旅にいでてみん。
  汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに。

「群集の中を求めて歩く」は、あこがれのパリの群集をうたったわけではなく、上京したときに見た実際の東京の群集を日常の言葉で描いた。詩の素材として「群集」という社会的現象を選び、体験を通して描いているのだ。

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
  ああ ものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
  おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか

ボードレールは「群集」のなかで、詩人ないしは芸術家の群集における精神のありようを描いている。群集の中にあって言葉を奏でているという意味では朔太郎も同じだが、群集に向かう詩人の立場は、正反対といっていいほどに違っているように思う。

*写真は、Emile Deroy (1844)作。 


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2016年12月05日

「群集の中を求めて歩く」⑥ 『感情』

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
  ああ ものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
  おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか
  みよこの群集のながれてゆくありさまを
  ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
  浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
  人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
  ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
  ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
  たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。
  うらがなしい春の日のたそがれどき
  このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
  どこへどうしてながれ行かうとするのか
  私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
  ただよふ無心の浪のながれ
  ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
  浪の行方は地平にけむる
  ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

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詩誌『感情』の1917(大正6)年号に掲載された「群集の中を求めて歩く」について、 那珂太郎は『名詩鑑賞 萩原朔太郎』の中で次のように鑑賞している。

〈都会の群集を浪にたとえ、その浪にもまれてながれて行こうとの思いをうたうこの作品は、ことば自体あたかも浪のようなうねりをもって、ゆるやかなリズムで移行しています。

ここで作者は、群集と個人とを対比的に、群集に関しては「たのしき」、私ないし個人の感情は「かなしい」と、つねに形容のことばを使いわけることによって、作品の主題を強調しているのを注意すべきでしょう。

ここにあるのは都会へのあこがれであり、作者は群集を求めることによって逆におのれの孤独感をうったえているのです。

彼はのちにも、「群集の中に居て」という作品を書いていますが、それをあわせ考えると、彼の言うところは大体次のようになります。

――群集の中にあるとき、「だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない」ゆえに、「私」の孤独は保証される。しかも群集は「全体としての綜合した意志をもつてる」ゆえに、それとともにあるとき、「私」の孤独感、その「憂ひと悲しみ」は、その中に包まれて解消される。

一方でおのれの孤独を保証し、一方でその孤独感を解消してくれるもの、それが群集であって、そこに無上のなぐさめを求めるほどに自分の孤独の意識はふかい、――以上が朔太郎の気もちですが、これは、「群集をたのしむのは一つの芸術だ。」といったボオドレエルと共通した近代的心理を示していますが、ボオドレエルに比べ、朔太郎のこの作品は、より素朴に抒情的、詠嘆的です。

それは、当時の朔太郎にあっては、都会の生活はじゅうぶんに現実的なものというより、なお待ちのぞまれる憧憬(あこがれ)の対象だったからでありましょう。〉

ここに出てくる「群集の中に居て」というのは、雑誌『四季』の1935(昭和10)年2月号に掲載された次にあげる散文詩。題名に「群集は孤独者の家郷である。ボードレエル」と添えられている。

〈 都会生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣(はんさ)な交渉もなく、その上にまた人人が、都会を背景にするところの、楽しい群集を形づくつて居ることである。

 昼頃になつて、私は町のレストラントに坐つて居た。店は賑(にぎ)やかに混雑して、どの卓にも客が溢(あふ)れて居た。若い夫婦づれや、学生の一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に坐つて、彼等自身の家庭のことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人人と関係がなく、大勢の中に混つて、彼等だけの仕切られた会話であつた。そして他の人人は、同じ卓に向き合つて坐りながら、隣人の会話とは関係なく、夫夫(それぞれ)また自分等だけの世界に属する、勝手な仕切られた話をしやべつて居た。

 この都会の風景は、いつも無限に私の心を楽しませる。そこでは人人が、他人の領域と交渉なく、しかもまた各人が全体としての雰囲気(ふんいき)(群集の雰囲気)を構成して居る。何といふ無関心な、伸伸(のびのび)とした、楽しい忘却をもつた雰囲気だらう。

 黄昏(たそがれ)になつて、私は公園の椅子に坐つて居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の坐つてる前を通つて行つた。どの組の恋人たちも、嬉(うれ)しく楽しさうに話をして居た。そして互にまた、他の組の恋人たちを眺め合ひ、批判し合ひ、それの美しい伴奏から、自分等の空にひろがるところの、恋の楽しい音楽を二重にした。

 一組の恋人が、ふと通りかかつて、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑ひながら、羞(はに)かみながら嬉しさうに囁(ささや)いて居た。それから立ち上り、手をつないで行つてしまつた。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さへも、全く認識しないやうであつた。

 都会生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別別の人間が別別のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活――群集としての生活――なのである。その同じ都会の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何処(どこ)へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり並んで坐つてる、浅草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯(ひ)ともし頃の都会の情趣を、無限に侘(わび)しげに見せるのである。

 げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の単位であつて、しかも全体としての綜合(そうごう)した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考へ、為(な)し、味(あじわ)ひ、人人と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、思い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都会は私の恋人。群集は私の家郷。ああ何処までも、何処までも、都会の空を徘徊(はいかい)しながら、群集と共に歩いて行かう。浪の彼方(かなた)は地平に消える、群集の中を流れて行かう。〉

*写真は、詩誌『感情』創刊号(大正5年6月)。『萩原朔太郎全集』(第4巻)から


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2016年12月04日

「群集の中を求めて歩く」⑤ 『月に吠える』

〈詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。

ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。

この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。

ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のやうにも考へて居た。

或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。

併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。

私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。

その看護婦の乙女が詩である。私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。

月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。

私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。〉

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1917(大正6)年に自費出版した『月に吠える』の序には、こうある。明確なものを何ら示すことなく人間の深い底にある不安を暗示する、特異な新しい言葉を紡ぎ出したこの詩集は出版されるや大きな成功をおさめる。

新聞各紙が絶賛。北原白秋は読売新聞で、詩集への序文を発表した。高村光太郎は「言葉そのものに詩が具象化する道を開いた」と、森鴎外は「日本語ではじめて書かれた真の象徴詩」と評価した。

詩集の成功の勢いに乗って朔太郎は、同年5月の「文章世界」に「三木露風一派の詩を追放せよ」という評論を書いたり、谷崎潤一郎、芥川龍之介ら文豪との交際をはじめるなどしている。

  ああ ものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
  おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか

私たちがいま読んでいる「群集の中を求めて歩く」は、ちょうどこのころ、室生犀星主宰の詩誌『感情』(大正6年6月号)に発表されている。

しかし「ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れ」ることが無くなったのか、翌1918(大正7)年4月の『感情』に、次の「憂鬱の川辺」など2篇を発表した後、3年余りにわたり詩の発表が途絶える。

     憂鬱の川辺

  川辺で鳴つてゐる
  蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい
  しぜんに生えてる
  するどい ちひさな植物 草本の茎の類はさびしい
  私は眼を閉ぢて
  なにかの草の根を噛まうとする
  なにかの草の汁をすふために 憂鬱の苦い汁をすふために
  げにそこにはなにごとの希望もない
  生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
  梅雨だ
  じめじめとした雨の点滴のやうなものだ
  しかし ああ また雨! 雨! 雨!
  そこには生える不思議の草本
  あまたの悲しい羽虫の類
  それは憂鬱に這ひまはる 岸辺にそうて這ひまはる
  じめじめとした川の岸辺を行くものは
  ああこの光るいのちの葬列か
  光る精神の病霊か
  物みなしぜんに腐れゆく岸辺の草むら
  雨に光る木材質のはげしき匂ひ。

詩を発表しない間、朔太郎は、詩論や雑ぱくな事柄に関する散文を書いていた。1922(大正11)年に散文アフォリズム『新しき欲情』をまとめた。また1919(大正8)年5月には、上田稲子と結婚している。

〈ともかく、この時期は朔太郎にとって一つの文学的転機となった。というのも、朔太郎は『新しき欲情』の概説で、叙情詩が詩人としての自分を表すなら、アフォリズムは「思想家」としての自分を表すとし、その後も、たとえば一九三五年出版のアフォリズム第三集『絶望の逃走』の自序でのように、「詩人と文明批評家(すなわち、思想家)の名は、常に同義字(シノニム)として考えられて」いると主張し続けたが、事実上、朔太郎の詩人としての創造力に富む時期は、一九二三年早々に出版された第二詩集『青猫』をもって終わるとしていいからである。

これ以後、散文作家朔太郎は益々多産になるのにたいし、詩人朔太郎は詩を書くよりも詩のことを語ることの方が主体となっていく。〉(佐藤紘彰「朔太郎小伝」)

*写真は、『月に吠える』初版本のカバーと表紙。筑摩書房の『萩原朔太郎全集』(第一巻)から。 


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2016年12月03日

「群集の中を求めて歩く」④ 犀星

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの

1913(大正2)年5月、朔太郎の詩が掲載された『朱欒(ザンボア)』の同じ号に、室生犀星の「小景異情」と題する6篇の組詩が載った。これを読んで深く感動した朔太郎は、犀星と文通を始める。

翌1914(大正3)年2月には犀星が前橋を訪れ、1カ月近く滞在。朔太郎28歳、犀星25歳。初めて会ったときの粗野な印象は、朔太郎が詩を読んで描いていた犀星像とはかなり違っていたようだが、次第に共鳴し合うものを感じていく。

犀星が東京へ戻った直後の4月、今度は朔太郎が上京。犀星の近くに下宿をして「荒唐無稽」な生活をする。詩人たちとの交流を深め、6月には山村暮鳥を加えた3人で、詩、宗教、音楽などの研究をする人魚詩社を立ち上げている。

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こうして詩人としては順調なスタートをきったものの、いざ故郷の前橋に戻ると、朔太郎にとってそこは到底、落ち着いて生活できる場所ではなかった。周りからいつも「あのノラクラ者が」と白眼視されているように思われた。

「在京中はたびたび御邪魔にあがり失礼いたしました。帰郷してから私はほんとにみじめな姿になりはてました。いちにち中ぢつと自分の書斎に座つてあさましいことばかり考へて居ります。

それといふのもあんまり孤独にすぎるからです。周囲がさびしすぎるからです。過去に於て私は最も大胆なるそして最も愚かなる生命の浪費者でありました。今は悔恨より外に何も所有して居りません。

ほんとにいちにち中何もしないで自分の醜悪の姿をみつめているといふのは苦しいものです、仕事がないから近い中にどこにかへ旅行します。かういふ時に自分の崇敬してゐるお方から御手紙をいただくことが出来ればたいへん幸福になれると思ひます」

同年7月17日付の敬愛する北原白秋へ送ったはがきだ。このころ朔太郎には、精神錯乱的な症候がみられるようになっていたようだ。それは、病的ともいえる研ぎすまされた感覚による新しい詩が量産された時期とも重なる。

翌1915(大正4)年元旦にはそんな詩の一つ、よく知られた「竹」を作っている。

  光る地面に竹が生え、
  青竹が生え、
  地下には竹の根が生え、
  根がしだいにほそらみ、
  根の先より繊毛が生え、
  かすかにけぶる繊毛が生え、
  かすかにふるへ。

  かたき地面に竹が生え、
  地上にするどく竹が生え、
  まつしぐらに竹が生え、
  凍れる節節りんりんと、
  青空のもとに竹が生え、
  竹 竹 竹が生え。

同年4月26日付の白秋あてのはがきを見ると、錯乱状態はより著しくなっていたことがうかがえる。

「きのふ、も少しで絶息するところでした。実に苦しい日でした、おとゝひ大酒をしたのでれいの病気が(神経系統の)出たのです、私のこの病気は「赤い花」の作家ガルシンが悩まされたものと全く同じ奴です、肉行のあとで笑つたうす白い女の唇や醉中に発した自分の醜悪な行為や言語などが言ひがたい恐しい記憶ではつきりと視えたり聴こえたりするのです、その度に神経が裂けるやうな恐ろしい苦痛をする、きのふは柱に何度も頭を叩きつけたので今朝まだいたい、狂気になるかとさへ思ひました。

御葉書久しぶりでなつかしく拝見しました、何か不愉快のことがある様子ですが私に関することならばきかせて下さい気にかかるから、決してかまひません、」とある。

1917(大正6)年2月、第1詩集『月に吠える』を出版する。内務省がクレームをつけた「愛憐」と「恋を恋する人」を削除しての発禁寸前での発行だった。日本の口語象徴詩の確立をつげる歴史的な詩集は次の詩からはじまっている。

     地面の底の病気の顔

  地面の底に顔があらはれ、
  さみしい病人の顔があらはれ。

  地面の底のくらやみに、
  うらうら草の茎が萌えそめ、
  鼠の巣が萌えそめ、
  巣にこんがらがつてゐる、
  かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
  冬至のころの、
  さびしい病気の地面から、
  ほそい青竹の根が生えそめ、
  生えそめ、
  それがじつにあはれふかくみえ、
  けぶれるごとくに視え、
  じつに、じつに、あはれふかげに視え。

  地面の底のくらやみに、
  さみしい病人の顔があらはれ。

*写真は、30歳のころの室生犀星。http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/outline/picture.htmlから借用


harutoshura at 18:56|PermalinkComments(0)萩原朔太郎 

2016年12月02日

「群集の中を求めて歩く」③ 何の学歴もなく

1906(明治39)年、朔太郎は、前橋中学を卒業する。この年、20歳。以後、熊本、岡山、そして東京と、落第と放浪の生活がつづくことになる。

早稲田中学補習科を経て、1907(明治40)年、第五高等学校(いまの熊本大学)に入学し、寮生活に入る。冬休みに、群馬県からいっしょに入学した2人の学友と別所温泉に遊ぶなどしている。

1908(明治41)年、2学年への進級に落第。9月には、五高を退学して、第六高等学校(いまの岡山大学)に入学するが、こちらも、2学年への進級に落第。1910(明治43)年5月には六高を退学した。

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
  群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

六高を退学してから1913(大正2)年2月まで、3年間「都会のにぎやかな群集の中」に身を置く、東京での放浪生活がつづけられることになる。朔太郎の「自叙伝」には、次のような記述がある。

「一しきり私は埃にまみれた場末の居酒屋の縄暖簾を毎晩のやうにくぐつた。ほのぐらい軒燈の下に心細い三味線の音じめを聴きながら耽溺の幾夜を過したことも珍らしくなかつた。

ある時はまた怪しげなレストランの窓にもたれてかはたれ時のうすらあかりと自分の宿世をしみじみと淋しいものに思ひ比べて見ることもあつた。さういふ時不覚の涙はつめたい盃の中に落ちて漂つた。

例の浅草へは毎日のやうに行つた。活動写真の人混みの中で知らない女に手を握られることが私のADVENTUREを欲する心を満足させた。

毒毒しい絵看板のペンキの匂ひに唆られて幼稚なローマンスの世界に憧憬する、可憐な不良少年の幾人かは、その辺の支那料理店で毎夜の様に私と顔を合わせた。

迷路のやうなあの東洋のモンマルトルをほつき歩くことも花瓦斯の光眩ゆい大門をくぐることも、最早私にとつて何等の意義をもなさない程その頃の神経は荒廃し切つて居た。

そんな時例の吾妻橋側の酒場(バア)で芳烈な電気ブランを飲むことを決して忘れなかつた。斯うして私は刺激から刺激を求め歩いた。

歓楽の後に歓楽を追うて止まなかつた。でなければ実際私には生きて居ることが出来なかつたのである。けれども歓楽を追求するといふ事は実際には苦痛を求めるといふことである。

刺激を漁るのは、つまり憂愁と死に向つて突貫する様な者である。軈〈やが〉て私の心のどん底に今まで曾知らなかつた苦い苦い哀傷と空虚といふ薄気味の悪い虫けらがその巣を張りつめて居た事を発見したときに私は何事にも興味を失ふ人と成らなければならなかつた。

私は空(カラ)ツポの盃を充たすあるものを求めようとして無益に狂ひ廻つて居たことを知つた時に遂に泣くことも出来ない人になつて居た。

そして痛痛しい程デリケートになつた官能のコイルばかりが昼はひねもす、夜は夜ぴとい高麗鼠のやうに、せはしなく神経の繊維をめぐりめぐつて突(つつ)いて居た。

何人に向つて訴へる由もなき此の苦痛、何物を以てしても慰める事の出来ない此の哀傷、かういふいらいらした心のありさまを私は詩や歌に作つて自ら低唱して居る外に方法は無かつた」

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東京での放浪生活中の1911(明治44)年の5月には慶応義塾大学部予科に入学するがすぐに退学。このころマンドリンを習っている。11月、父の密蔵が喀血し、妹幸子の夫津久井惣治郎が山形から前橋に戻り萩原医院を助けるようになった。

この年、朔太郎は25歳。うらやましいことに、それでも勝手なことをしていられるほど父密蔵は裕福だったのだ。1912(大正元)年6月、大磯に遊ぶ。9月には、京大の選科を受験するが失敗。その後、生涯にわたって「何の学歴もなく」という意識をもちづづけることになる。

1913(大正2)年2月、東京放浪の生活を切り上げて前橋に帰る。他の道はないと感じたらしく、このころ本腰を入れて文学に取り組むようになる。

5月には、北原白秋主宰の「朱欒(ザンボア)」に、「みちゆき」など5篇の詩が載って詩壇にデビュー。この年の10月6日付の上毛新聞には、朔太郎の次の詩が掲載されている。

     ふるさと

  赤城山の雪流れ出で
  かなづる如くこの古き町に走り出づ
  ひとびとはその四つ辻に集まり
  哀しげに犬のつるむを眺め居たり
  ひるさがり
  床屋の庭に石竹の花咲きて
  我はいつもの如く本町裏(ほんまちうら)の河岸(かし)を行く
  うなだれて歩むわが背後(うしろ)に
  かすかなる市人(いちびと)のささやききこえ
  人なき電車はがたこんと狭き街を走り行けり
  我が故郷(ふるさと)の前橋

*写真は、高校をやめて帰郷しているころ(『新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎』から) 


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2016年12月01日

「群集の中を求めて歩く」② 若きウエルテルの煩ひ

「眼病また起り、萩原の診察をうく」。1896(明治29)年10月29日、当時、前橋中学(旧制)で教えていた津田左右吉の日記にこうある。この「萩原」が、朔太郎の父、密蔵だ。

萩原家は大阪で代々、医業を営んでいた。3男だった密蔵は、群馬県立病院の医師として前橋へ赴任。その後、この地で開業医をしていた。

萩原朔太郎は津田の日記の10年前、1886(明治19)年11月1日に密蔵とその妻ケイの長男として、現在の前橋市千代田町で生まれた。

「長男で朔日生れの太郎であるから、簡単に朔太郎と命名された」(「名前の話」)という。

幼いころの朔太郎は、神経質で病弱、学校では「冷たい敵意」を感じて周辺になじめず、一人で手風琴やハーモニカを奏でる孤独な子だった。

1900(明治33)年4月、前橋中学(旧制)に入学した。この年、朔太郎の家で書生をしていた密蔵の兄の長男栄次が、大阪医学校を卒業して前橋へ戻り、密蔵の代診をするようになる。朔太郎が文学に興味をもつようになったのに、栄次の存在が大きくかかわっていたようだ。

「僕は八歳の兄として君を仕上げた責任の大部分を負はねばならぬ。〔中略〕何等の思慮も分別もない少年の僕は最も肝心な君の学齢期を指導する自然の位置にあつた。君の柔い精神を動かして君をして僕自身の好尚に同化せしめた。是が凡ての禍の源であつたかも知れぬ」と後に密造は記している。

学校へ行くと家を出たものの、郊外の野原で寝転んだり、林を歩きまわったり。授業に出ても身が入らず、いつも窓から空を眺めていた。そして、短歌に熱中するようになる。それは恋を知った時期と重なる。

後にまとめた自筆歌集『ソライロノハナ』に入っている「自叙伝」(一九一三、四)には次のように書かれている。

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「私の春のめざめは十四歳の春であつた。恋といふものを初めて知つたのもその年の冬であつた。若きウエルテルのわづらひはその時から初まる。

十五歳の時には古今集の恋歌をよんで人知れず涙をこぼす様になつた。その頃従兄の栄次氏によつて所謂新派の歌なるものの作法を教へられた。鳳晶〈オホトリアキ〉子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になつてしまつた。

十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。此の集の第一頁に出て居る二首がその処女作である。此の時からウエルテルの煩ひは作歌によつて慰められるやうに成つた。

然し又歌そのものが私の生命のオーソリチイであつたかも知れない。何となれば私は芸術と実生活とを一致させる為にどれだけ苦心したか分からないのである。

たうとう私の生活が芸術を要求するのでなく芸術が私の生活を支配して行く様になつて仕舞つた。春のめざめ時代の少年にとつてこれ程痛ましい事はない。

私は朝から晩までミユーズやアポロの聖堂を巡拝するために漂泊して歩かなければならなかつた」

この歌集の「若きウエルテルの煩ひ」は次のような歌からはじまっている。

  柴の戸に君を訪ひたるその夜より
  恋しくなりぬ北斗七星

  春ここにここに暫しの花の醉に
  まどろむ蝶の夢あやぶみぬ

  えにし細う冷たき砂にただ泣きぬ
  恋としもなき浜のおぼろ月

  朝ざむを桃により来しそぞろ路
  そぞろ逢ふひとみな美しき

  忍びつつ人と添ひ来し傘の一里
  香は連翹の黄と迷ふ雨

1902(明治35)年4月には、校友会誌「板東太郎」に「ひと夜えにし」と題した短歌5首を発表している。前年に出た与謝野晶子の『みだれ髪』の影響が強いものだった。級友と「野守」という回覧雑誌もその前後に出している。

このころ「朔ちやんが六十五銭の写真機を買つて来て、屋根の上から鐘撞堂を撮す」と栄次の日記にある。これが朔太郎が買った最初の写真機。以後、生涯にわたって写真機に興味をもちつづけた。

翌1903(明治36)年7月1日発行の『明星』に、短歌3首が載った。翌月号には、「無花果」5首が掲載。才能のある若い歌人として、すでにかなり注目を浴びるようになっていたようだ。

ところで学校のほうはというと、1904(明治37)年3月の及第会議では落第と判定され、4年生を2回やることになった。2度目の4年生の秋、妹ワカの馬場ナカに恋をしている。

*写真は、妹ワカ(左)と。『新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎』から 


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