2016年10月

2016年10月31日

「鳥」⑪ 君は鳥

  鳥が夢をみた。
  イメージ 1いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

11

鳥も夢をみるのかもしれない。でも、ふうにこの詩を読めば、飛び立とうともがき、なりふりかまわず走る詩人の姿を描いているように思える。でも、それだけなら、なぜそれがわざわざ「鳥」である必要もない。

  君は鳥。
  羽を切られた鳥。
  この庭にすぎぬ
  歩くしかない
  君は鳥。
  歩いて三歩四歩
  垣根のまえに
  立ちすくむしかない
  君は鳥。
    (「鳥は君」から)

  もう一度鳥をとばそうか。
  かわいた固い掌から
  かわいた固い空へ。
  もう一度鳥をとばそうか。
  うすい今日へ。
  なんとか。
  もう一度。
    (「鳥をとばす」から)

ときに「君は鳥」であり、「とばそう」という対象にもなる。安水の「鳥」は、さまざまな立場や位相で作品の中に登場してくる。「詩は言葉でつくるものだ」というマラルメ的な、象徴主義的な「鳥」に近づくこともあれば、具象的、現存する鳥の切実な姿を見せることもある。

ドイツの大数学者ダフィット・ヒルベルトは、「点」や「直線」を「ビールジョッキ」や「机」に置き換えて、「2直線は1点で交わる」を「2つの机は1つのビールジョッキで交わる」としても同じことだ、と現代数学を表現した。もちろん安水の「鳥」は、「恐竜」でも「犬」でも「蟻」でもかまわないというわけではないはずだ。

安水は、「詩学」(1959年9月号)に寄せた「日常の詩」の中で、次のように記している。

〈私は鳥を書きつづけたが、鳥はついに鳥ではなかった。鳥が鳥の世界をつくるはずもなかった。なにも私はあの鳥は私自身であったとかいうのではない。そんなことではない。私が鳥を書いていたとき、鳥の周囲を人間がうろうろしていたのだ。

私もその一人だった。鳥は私たちの間をぬって飛んでいた。そういうことなのだ。だから、鳥がどんなに鳥になり、どんどん飛び、あまりに鳥そのものに近づき、どんどん近づき、そのあげく、鳥になろうとするとき、鳥でなくなってひとつの象徴にかぎりなく近づくとき、私はこの手で鳥を殺さざるをえない。

鳥をとりもどさざるをえない。このような衝動・殺意を、私ははっきりと自覚せざるをえなかった。〉

安水の「鳥」を読んでいると私は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセが自らの「生の理性 (razon vital)」の哲学に関して隠喩的に用いた「私は私と私の環境である」という言葉をしばしば思い出す。

*写真は、http://hablacontusamigos.blogspot.jp/2011/05/me-apunto-volar-claro-pero-seria-mucho.html から


harutoshura at 15:15|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月30日

「鳥」⑩ 希望

  失ったものを
  指折るのもひとつの悲しみ。
  それを忘れようとし
  あるいは忘れてしまったのは――
  深い悲しみの姿。

  失ったもの
  すべて灰のごとく
  風のなかであまりに軽かったが。
  それら風に散ったものを
  忘れ去ることは
  なおさらたやすかったが。

  意味を喪い
  生のなかに死ぬ
  われわれ。
  すでに啄まれて
  腐肉
  跡もない。

1953(昭和28)年、安水が22歳のときに作り、第1詩集のタイトルにもなった詩「存在のための歌」は、四つの章から成っている。その第1章だ。この詩は、安水の詩人としての旅立ちの作品であるとともに、その後も彼の詩作の底にいつも通奏低音のように響きつづけているように思える。

この詩について安水は、自身の『詩作ノート』で、「満州事変の年にぼくは生まれた」という言葉から語りはじめている。

〈満州事変の年にぼくは生まれた。日中戦争の始まった年にぼくは小学校に入学した。太平洋戦争の始まったときぼくは小学校五年生。そして日本が敗れたときぼくは十三歳だった。戦場へは行かず、工場へも行かず、といって集団疎開もせず、中学二年生は街のなかで焼夷弾の雨をじっと待っているだけだった。焼けた街から田舎へ逃亡したぼくはその夏、やせほそった餓えた十三回目の夏を迎えた。

戦後十年。それがつまりぼくの青春なのだろうが、それはまだ手に入っていないのにすでに失ってしまったものを追認しつづける時間であったといってもいいだろう。いったい、ひとはどのようにして年齢を重ねていくものだろうか。

ひとつひとつ獲得していくのか。ひとつひとつ獲得して充実していくのか。その頃ぼくはそうは思わなかった。逆に、ひとつひとつ喪失していくのだとおもった。だから、ひとつひとつの喪失をあやまりなく追認したいとおもっていた。成熟とはつまりは負の認識の累積ではないかとおもっていた〉

10

4章にわたるこの詩には、それぞれ2行のエピグラフ(題辞)が付いている。この第1章には、

      禿鷹は飛び去った
      すでに久しい以前に

2章、3章は、

      虎が吼えるのだ
      痩せさらばえた虎が

      鳩が焼け死んだ
      眼のまえで

「禿鷹」「虎」「鳩」とつづいて第4章は「鳥」。そして、つぎのように締めくくる。

      鳥は常に追われる
      残酷きわまる手に

  ―さあ
  と誰かが誘う。
  ―さあ
  と誰もが応えたいのだ。

  ―さあすべて
   投げ捨て
   すべてやさしきもの
   死をうしろに
   すべてうしろに
   さあ……
   すべてうしろに
   さあ……

  誰もが誘う。
  誰もが応えたいのだ。
  ―われわれ
   なにものでも
   ありえないだろうが
   さあわれわれ
   なにものでも
   ありえないままに
   さあ

「―さあ と誰かが誘う。」ことが起こって欲しいと詩人は願っている。そして「―さあ と誰もが応えたいのだ。」と思う。願望を少しはみ出て、希望の光が射しているように思われる。

この詩が作られてから60年。敗戦の焼け野原に代わって、今度は津波にさらわれた廃墟が。ヒロシマ、ナガサキに代わってフクシマが。大きな喪失感となって、この国を覆っている。

 詩人は60年が過ぎたいま、「鳥は常に追われる」という認識を、どんなふうにとらえ直しているのだろうか。 


harutoshura at 13:36|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月29日

「鳥」⑨  空にいた

〈毎年冬になると、メジロが庭にやって来る。山に食べ物がすくなくなるのだろう、山を降りてくる。サザンカの蜜など吸いに来る。

そこで、ミカンを半分に切って庭の木の枝に刺しておくと、二羽、一羽、また二羽、次々とやって来て、交替でミカンをつっついている。

注意して見ていると、午前中に西隣から植木伝いにやって来て、ひとしきりミカンを食べて、それから下の家に移り、家伝い木伝いに山へ帰っていく。どうやら鳥の道があるらしい。

昨年は地震のあともメジロはやって来た。その鳴き声を耳にして、その姿を目にして、どんなになぐさめられたことか。やがて暖かくなると、ぱったりと来なくなった。山で巣作り子育てが始まったのだろう。またの冬には会おうね。

それが、この冬は一度その声を耳にしただけ。それっきり。年が変わっても、春めいてきても、まったく姿を見せない。どうしたのだろう。

家のまわりはまだ更地だらけ。一軒おいて西の家が、すぐ下の家が取り壊されて。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま。植木もすくなくなってしまって。

そのうえ、あたりはうちつづく取り壊し作業、補修工事、新築工事、さまざまの車が人がひんぱんに出入して、さまざまの騒音に取り囲まれて、メジロは来たくても来れないのではないかしら。家伝い木伝いの鳥の道が地震のあと、とだえたのではないかしら。

それでもとこの冬も、庭の木の枝にいつものようにミカンを刺しておいたのだが、待っても待ってもメジロは来ない。あの食いしんぼうのヒヨさえ、どうしたことか来ない。ミカンは変色して黒く小さくカラカラに乾いてしまった。

サザンカが咲いても、ユキヤナギが咲いても、ハクモクレンが咲いても、聞こえてくるのは、かん高いヒヨの声ばかり。それも時たま。サクラが咲いて、サクラが散って、木々が萌え立ち、春たけなわ。見渡せば町はまだまだ。人はこれから。

鳥よ来い。人よ戻れ。春冷えの愁いは、いかにも深い〉

9

阪神大震災から1年あまり経った1996年4月29日付の神戸新聞に掲載された安水の「鳥の道」と題されるエッセーだ。

一瞬の天災は、すべてのものを一変させる。崩れ落ちた瓦礫、焼け跡。呆然たる喪失感から少しずつ前へと足を踏み出して、瓦礫を片づけ、やっと更地になった。

それでも「一軒おいて西の家が、すぐ下の家が。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま」。植木もめっきり減ったままだ。そして、取り壊し作業や補修工事が続いている。騒々しく、ひっきりなしに車や人が出入りしている。震災からの復興の音だ。

こうした環境の劇的な変化が、影響しているのだろう。庭に来ていた鳥たちが、来なくなった。詩人は、それが気にかかってしかたがない。逆に見れば、一年たってようやくこのころには、愛する鳥をじっくりと見つめ、思いを寄せるゆとりが生じるようになっていたのかもしれない。

5年前の3・11東日本大震災。その時、全国で最大の「震度7」を記録したのは宮城県栗原市だった。震度7は「立っていることができず、はわないと動くことができない」という、これ以上にない“階級”の震度だ。

この栗原市と隣の登米市にまたがって、日本有数の渡り鳥の飛来地「伊豆沼・内沼」=写真=がある。20年以上前、私は1年間ここに住んで、何万もの渡り鳥たちを見つめていたことがある。北から毎年、群れをなして鳥たちがやって来るこの時期になると、あの震災で彼らの渡りに何か変化が起こったのだろうかと気にかかる。

でも、心配はないのだ。一時的にちょっぴり「道」を変えることはあっても、あの6500万年前の、隕石衝突による絶滅の危機からも生き延びた恐竜の子孫たちである。そういえば、安水の詩集『鳥』の中にこんな詩もあった。

      鳥

  ねむっても
  ねむっても
  鳥は空にいた。
  めざめても
  めざめても
  鳥は空にいた。
  いつも
  いつものとおり
  風に支えられて
  鳥は空にいた。
  土や水からは遠いところを
  いつも
  いつものとおり
  飛んでいた。

少しばかり近くで見かけることがなくなったって、鳥は空にいる。いつものように飛んでいるのだ。

*写真は、宮城観光キャンペーン推進協議会公式サイト(http://www.sendaimiyagidc.jp/sight_pps/d_tourist.php?id=0000000150)から


harutoshura at 14:03|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月28日

「鳥」⑧ 震災

1995年1月17日午前5時46分。マグニチュード7・3。安水稔和のまちを、兵庫県南部地震(阪神大震災)が襲った。神戸市長田区の家も半壊、九死に一生を得た詩人にとって、それは

  私たちのまちを襲った
  五十年目の戦争。
     (安水の詩「神戸 五十年目の戦争」=朝日新聞1995年1月27日)

だった。

そのとき私も、西宮市に住んでいて被災した。家の中はメチャメチャ。電気も水も無い生活が続いた。私は、その日から1年、科学ジャーナリストとして震災の報道に追われることになった。ヘリのカメラマンから送られてくる写真からは、安水が住む神戸市長田区の街並みが、煙と炎に包まれているのが見て取れた。

8

  目のなかを燃えつづける炎。
  とどめようもなく広がる炎。
  炎炎炎炎炎炎炎。
  また炎さらに炎。

  目もまえに広がる焼け跡。
  ときどき噴きあがる火柱。
  くすぶる。
  異臭漂う。

  瓦礫に立つダンボール片。
  崩れた門柱の張り紙。
  倒れた壁のマジックの文字。
  みな無事です 連絡先は……。

  木片の墓標。
  この下にいます。
  墓標もなく。
  この下にいます。

  これが神戸なのか。
  これが長田のまちなのかこれが。
  これはいつか見たまちではないか。
  一度見て見捨てたまちではないか。
     (同詩)

長田のまちを覆う煙を見た私たちは当初、関東大震災のことを思い描いていた。大正12年 (1923年) 9月1日に発生した関東大震災では、地震が起きた直後から火災が発生し、延々46時間にわたって延焼。犠牲者の9割近くが火災によるものだった。

阪神大震災直後、私は、廃墟と化した神戸に設けられた遺体の仮安置所や警察署を歩き回り、この地震が関東大震災とは性格がかなり違っていることに気がついた。断片的な情報をつなぎ合わせていくと、亡くなった方たちの95%くらいが、地震で潰れたり倒壊した建物の下敷きになった「圧死」が原因だということがわかったのだ。

炎炎炎炎炎炎炎。また炎さらに炎。長田のまちは、阪神大震災では特異的に、火災で焼き尽くされてしまった。しかも、壊れた家の下敷きになって亡くなった人たちもたくさん出た。そういう意味では、詩人は、被災地の中でもとりわけ凄惨な光景の目撃者だったことになる。

そのとき、安水の脳裏には、まだ中学生だった「あの日」が鮮明に浮かび上がっていたに違いない。昭和20(1945)年6月5日、神戸の3度目の大空襲。長田の家を失った安水は幼い妹の手を引いて、焼け野原になった街の海沿いの市電道を煙に包まれて歩いていた。

そして大空襲の後、安水は一家で長田を離れ、母の実家のあった現在の兵庫県たつの市に疎開した。だが「五十年目の戦争」では、「見捨て」ることはなかった。詩人はひたすらに、言葉を刻みつづけた。

  神戸のまち長田のまち
  生きて愛するわたしたちのまち。
  生きて愛するわたしたち
  ここを離れず。

  焼け残った山茶花のかげにきく
  鳥の声。
  倒れた軒の下の砕けた植木鉢に開く
  水仙の花群。
     (同詩)

ここでも詩人は、鳥の声をきいている。

*写真は、海上自衛隊阪神基地隊のHP(http://www.mod.go.jp/msdf/hanshin/about/saigai/)から


harutoshura at 15:02|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月27日

「鳥」⑦ 公害

    鳥よ

  花が咲いてもとっくに散って。
  風が吹いてもとっくに止んで。
  河が溢れてもとっくに涸れて。
  水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
  声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
  声かける。

  ―鳥になれ。
   鳥よ。

1971年に出版された第8詩集『歌のように』の中の詩だ。この詩に限らす、安水稔和は、「―鳥になれ。鳥よ。」の呼びかけを、詩人は自身の作品や講演などさまざまな場面でつづけている。

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〈ここでは、鳥にむかって鳥になれといっているのです。そんな馬鹿なことといってしまわずに、今一度口に出していってみてください。鳥になれ。鳥よ。海になれ。海よ。空になれ。空よ。あなたになれ。あなた。……

つまり、空が空でなくなっていて、海が海でなくなっていて、あなたがあなたでなくなっていて、つまり、鳥が鳥でなくなっていて、この二行は成立しうるわけです。鳥が鳥でなくなっているという認識があれば、なんのことはないありふれた二行なのです。

スモッグの空を空と呼ぶことはできない。ヘドロの海を海と呼ぶことはできない。このような拒否の意識から、ごく自然にこの二行は生まれるのです〉(安水稔和著『鳥になれ 鳥よ』)

  ―鳥になれ。
  鳥よ。

あなたになれ。あなた。それは、本来の鳥に、本来のあなたに戻れ、ということなのか。とすれば、本来の鳥、本来の鳥とは何なのか。それとも、鳥はこういうもの、人はこういものといった捕らわれから自由になって、現存在としての“自分”を見つめよ、という実存主義的な呼びかけなのだろうか。

安水が盛んに「鳥」を書いていたのは、工業化が急激に進んだ高度成長期、大量生産、大量消費のツケが、公害というかたちで噴出した時代と重なる。公害は、環境問題というよりグローバルで、とらえどころなく、よりいっそう困難な問題となって、私たちの前に立ちはだかり続けている。

それにしても、これほどまでに「鳥が鳥である」ことが難しい時代があっただろうか。科学技術などが起爆力になって次々に新たなモノやメディアがもたらされ、価値観を含めて目まぐるしい速さで変わっていく。本来の姿を見い出すことは容易なことではない。

「鳥になれ」と呼びかけているのは詩人である。基本的には、その直感からナチュラルに出てきている言葉であって、みだりに理屈を云々すべきものではないだろう。それにしても、詩人が「鳥になれ」と呼びかけている鳥とは、どんな鳥なのだろう。『鳥になれ 鳥よ』に安水は次のように記している。

〈私の想像力の世界の鳥は、黒い鳥ばかりです。走っても走ってもとびたてません。いつまでも土のうえを走っています。羽根が一枚もないのもいます。赤裸です。首を泥田につっこんでいるのもいます。息絶えています。井戸にはまった鳥。首を大きな手で握られた鳥。太陽のなかへとびこむ鳥。黒こげの鳥。さまざまの、もはや鳥とはいいがたい鳥たちなのです、それは鳥です。でも、鳥ではありません。でも、鳥であってほしい。でも、鳥ではありません。鳥になれ。鳥になれ。鳥になれ。……鳥よ。

つまり、この二行から必然的に、鳥が鳥でないということがどうしても判明するのです。そして、鳥でない鳥という虚体から言葉は動いているのです〉

*写真は、http://blog.bird-rescue.org/index.php/2011/01/remembering-1971-san-francisco-bay-oil-spill/ から 


harutoshura at 15:11|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月26日

「鳥」⑥ 意志

   君は鳥。
   ぼくは鳥。
   飛ぶ意志である。
   ともに飛ぶ意志はない。
   ともに飛ぶとは
   とるにたらぬ時間のなかに
   とびちった籾殻。
   朽ちようとする世界のなかに
   ふりまかれた仮説。
   ぼくは鳥。
   君は鳥。
   時間に犯された
   意志ならぬ意志。
   ただ飛ぶことの意志。
   意志はどこに由来するともしれぬ。
   ただ想像する、
   この世界の外の
   闇のなかにあるいは
   意志するものがいるのかもしれぬと。

詩集『鳥』のなかにある「飛ぶ意志」という詩である。

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この詩など安水の五つの詩作品が入った「鳥について」という混声合唱組曲がある。

1959(昭和34)年に東京都立新宿高校音楽部OBやOGらによって創立され、いまも定期演奏会やコンテストなどいろんな活動をしている市民合唱団「アルベルネ・ユーゲント・コール」の創立40周年委嘱作品。若かりしころ、この合唱団のピアノ伴奏をしたこともあるという池辺晋一郎によって作曲された。

アルベルネ・ユーゲント・コールとは、ドイツ語で「お人好しな若者達の合唱団」という意味で、「20代から70代まで、いろいろな世代で楽しく歌っている」そうだ。そんなアルベルネ・ユーゲント・コールに、安水稔和は次のようなメッセージを寄せている。

〈わたしがまだ若い頃、25、6歳の頃、鳥のことばかり書いた時期があった。原稿用紙を広げてまず鳥と書いた。鳥と書くと不思議に言葉の扉が開いた。次々と鳥が現われた。飛ぶ鳥。いつまでも飛び続ける鳥。落ちる鳥。歩く鳥。走る鳥。いつまでたっても飛べない鳥。坐りこんだ鳥。動かない鳥。羽根のない鳥。泥だらけの鳥。投げこまれた礫。さまざまの鳥たちが日常の世界を駆け抜け、非日常の世界へ飛び立った。

鳥は鳥であって、わたしであって、あなたであって、わたしたちであった。鳥は言葉であり、声であり、歌であった。そんな鳥たちを集めて詩集を作った。詩集の題を『鳥』とした。詩集に閉じこめたはずの鳥たちは、その後も、事あるごとに現われた。さまざまの姿態で、今も。

   あの鳥影に言の葉を引き結べば
   日影揺れる戸口に
   なつかしい人が立つという
   わずかに血のにおう
   あなたの眉のあたりをまた
   鳥の影が過ぎる     (「春は鳥占」終連)

このたびの合唱組曲「鳥について」の詩はいずれも1956年から7年にかけて書いたものである。
「鳥よ」3篇と「飛ぶ意志」は詩集『鳥』(1958年刊)から、第4曲「歌」は詩集『愛について』(1956年刊)から池辺晋一郎さんが選び取られた。

半世紀近く前に飛び立ったわたしの言葉たちが、池辺さんによって新しい翼を与えられ、池田明良さんとアルベルネ・ユーゲント・コールの皆さんによってあらためて飛び立つことになった〉

安水稔和の詩は、私たちの心に、脳の中に、直接に響いてくる詩だ。とやかく言う必要はない。その言葉そのものを、そして詩人の中にある「意志」を、受け取ればいいのだ。歌い、その声を聴けばいいのだ。

*写真は、http://vjvich.blogspot.jp/2011/03/vuela.html から 


harutoshura at 16:36|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月25日

「鳥」⑤  翼をください

     鳥

  あれが鳥だ。
  大空に縛られた存在。
  動くことを強いられた
  被術者。
  世界の外から
  悪意の手によって投げこまれた
  礫だ。

いま読んでいる「鳥が夢を見た。」の「鳥」が入った詩集『鳥』の冒頭の詩だ。

こちらのほうに出てくる「鳥」は、大空を飛びまわる自由な存在という私たちがふつうに抱く鳥のイメージとは正反対だ。空に「縛られた存在」であり、動くことを強いられた「被術者」。そして「悪意の手によって投げこまれた礫」でもあるという。自由を謳歌するどころか、主体性のない「受け身」でしかない存在としての鳥だ。

話はだいぶ飛ぶが、私が中学生のころ、こんな歌が流行っていた。

  いま私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  この背中に鳥のように
  白い翼つけてください
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい

5

そう、フォークグループ「赤い鳥」が歌って1970年代に大ヒット、その後も合唱曲などとして広く歌われている「翼をください」。

この歌が流行りだしたころ、私は中学生。がんじがらめの学校生活にウンザリし始めたころで、心に響き、大好きになった。でも、ちょうど同じころアインシュタインの相対性理論に興味を持つようになって、この曲に対する感じかたが変わった記憶がある。

もちろん当時の私に微分幾何学の知識があるはずはなし、相対性理論がまともに分かったわけではない。だが、

地球は、ニュートン的な力で太陽と互いに引き合いながらまわっているわけではなく、ひときわ質量の大きい太陽の周りの空間そのものが曲がっていて、そのへこみにそって地球は進んでいるだけのこと。

私たちがどんなに速く走れるロケットをつくったとしても、光速に近づくにつれロケットの質量が増えていって加速できなくなり、光には永遠に追いつけない。

といった、相対論っぽい理屈をこねるようになった。そして、私たちが置かれている時空って、勝手に羽ばたいたり、飛び回ったりするようには成っていないんじゃないかと漠然と思いはじめたのだった。

物理学とは縁遠い話だが、考えてみるとその後の人生経験の中で、「それ的」なものをずいぶんと体感し続けてきたように感じる。

「自由な空」ほど、とりとめなく不安で、居場所を見つけるのが難しいところはない。自由に飛ぼうとすれば飛ぶほど、そこにはすさまじいばかりの「抵抗」が待ちかまえ、がんじがらめにされるのがオチだ。

私の場合、年を取るにつれて、鳥であろうが、人間であろうが、神さまであろうが、時空に「縛られた存在」以外の何者でもないという思いは深まり、冒頭の安水の詩が実感として分かるようになってきた。

5年前の春、十和田湖畔や、北海道の野付半島、サロマ湖畔で、病原性の強いH5N1亜型鳥インフルエンザウイルスによって死んだとみられれるハクチョウが見つかった。

私は当時、北海道にいてそれを詳しく調べたのだが、専門家たちの見方を総合すると、どうも、中国大陸で流行っていた毒性の強いウイルスが、カモか何かの渡り鳥によって運ばれてハクチョウに感染した可能性が高いことがわかった。

キョクアジサシのように、中には何万キロも移動することもある渡り鳥。それは「自由な」などという生やさしいものではない。生きていくために「動くこと」を強いられているのだ。ある見方をすれば遺伝子の為すがままに、ある見方によれば宇宙の摂理によって。それは、人間でも同じことだ。

そして、自覚してか、知らずにか、「鳥インフルエンザウイルス」に現象として見られるような「悪意の手によって投げこまれた礫」となることもあるのだ。鳥にしても、人間にしても。


harutoshura at 12:58|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月24日

「鳥」④ ダチョウ

ざっと400~500万年ほど前、われわれの祖先は、ボノボやチンパンジーなど類人猿の祖先から別れて人類になったと考えられている。人類と類人猿を分ける決定的な違いは、生物学的には、二足で歩けたかどうかにあるようだ。

たとえば400万年くらい前のアウストラロピテクスは、脳の大きさはチンパンジーとほとんど変わらない。だから知能的には、チンパンジーと大差はなかったとみられる。だが、骨格や骨盤、下肢の形、足跡などから二本足で直立歩行していたとことから、人類に属すると考えられているわけだ。

二足歩行で、前脚、すなわち腕を歩行に使わなくてもよくなったことで、重いものを持って移動することができるようになった。それに、物を投げたり、高度な道具をつくり、使うことも。さらには、頭部が直立した胴体の真上に乗るかたちになり、大きな頭でも支えることもできるようになった。

二足歩行をする動物は決して多くはない。前脚を歩くのに使わず二足歩行するようになった動物の元祖が、かつて1億年以上にわたって地上に君臨した恐竜だ。ヒトの場合、地面と垂直に直立して歩くのに対し、恐竜は地面と平行の姿勢でうまくバランスを取りながら歩いたと考えられている。

4

だいぶ前になるが、慶応大学理工学部の、ヒトの歩き方をコンピュータ解析している研究室を訪ねたことがある。研究室では当時、二足歩行をする姿勢によって、歩くスピードがどんなふうに変わるのかを調べていた。

モデルは、体長10~13メートル、体重約2トンの肉食恐竜アロサウルス。体を円錐状の14の節に分け、足跡から割り出した歩幅で足を振らせたらどんな動きをするかシミュレーションをした。すると、最も安定していたのは、体を水平にしてバランスをとる「水平型」だった。

ゴジラのように直立した姿勢だと、頭や尾の振れが大きくて歩幅が減り、歩きにくいことがわかった。

水平な姿勢で、足と体の各部の振れが合致する自然な歩きをしたときの速さは毎秒1・68メートル、時速約6キロ。マラソン選手なみの時速13~18キロも楽々出せることが推測された。

二本の足を軸に、体を水平にしてシーソーのようにバランスを取る歩き方は、ある意味ではヒトの直立歩行よりずっと“省エネ”で、理にかなったものだったのかもしれない。

恐竜の子孫、いや恐竜の生き残りである鳥もたいていは、人間と同じく二本足で、ちょんちょんと器用に歩き、ときにひたすら走る。ただ、二本足で立って地上でひたすら頭でっかちになっていったヒトに対して恐竜は、前肢を翼に変えて空に飛び立つ道を選んだ。ダチョウ=写真=のような一部の鳥を除き。そうして――

  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

そんな苦しみを味わうことにもなる。だが、それでも、二本足を選んだ人間も、鳥も、飛びたち、羽ばたこうと、けんめいに走る。

*写真は、http://www.wired.co.uk/news/archive/2012-05/10/ostrich-leg-prosthetics から。 


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2016年10月23日

「鳥」③ 恐竜類

詩「鳥」をはじめて読んだ20年あまり前、そのころ私は、カナダで開かれていた恐竜の博覧会で、一つの恐竜の化石に出逢って、すっかり魅せられていた。

シノルニトイデス。「中国の鳥に似た動物」という意味の名がついた小型の恐竜だ。寝ている鳥のように、体を縮めて丸まった形で、化石になった。細い2本の足、3本の足指、指に鋭く曲がったつめがついていた。

シノルニトイデスは、カナダと中国との共同調査で、中国内モンゴルの1億2000万年前の地層から出てきた。
3
もとの姿は、長さ1・2メートル、高さ75~80センチ、体重5キロと推定された。体に比べて頭は大きめで、口には歯があった。小さな爬虫類や哺乳類を食べて暮らしていたらしい。

詳しく調べるとシノルニトイデスは、恐竜としては大きな脳をもつ小型肉食恐竜トゥロオドンの仲間とわかった。トゥロオドンは、絶滅しなかったら人間に進化したものもあったかもしれない、という学者もいるほど脳が発達していたと考えられている。

カナダの世界的恐竜学者、フィリップ・カリー博士が、「トゥロオドンをみても、脳を収容するスペースが鳥なみに大きい。しっかりと前の方を向くようにつくられた眼球のまわりの骨格なども、鳥とそっくり。鳥の祖先は恐竜というよりも、鳥は恐竜の一種とさえいえる」と、そのころ自信たっぷりに話してくれたのを思い出す。

当時すでに恐竜研究者のほとんどが、鳥の祖先は恐竜と考えるようになっていたが、いまや恐竜の一部が鳥になったという認識が一般の私たちにも広まりつつあるように思われる。

鳥はもはや鳥類というよりも恐竜類、その中でも獣脚類に属するマニラプトラ目(すなわちドロマエオサウルスやオヴィラプトルを含むグループ)として位置づける研究者も少なくない。

私がシノルニトイデスに出会った少し後に、映画「ジュラシックパーク」が公開された。スクリーンをけたたましく走り回るヴェロキラプトルを見て、シノルニトイデスもこんなふうに人類が現れる遥か前の地上を走り、その仲間からやがて、地上には居たたまれなくなって空へ飛び立つものが現れたのではないかと想像したものだ。

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

私は、シノルニトイデスと出逢ってすっかり“鳥恐竜”に夢中になった。そして、モンゴル・ゴビ砂漠の発掘現場、中国の博物館などいろんなところを訪ねて、恐竜と鳥との関係に思いを馳せた。そんなとき頭にあったのが、この「鳥」だった。

地上にいた恐竜が、どのようにして鳥として飛び立ったのか。木の上から繰り返し飛び降りているうちに翼が発達していったのか。それとも、地上で獲物の昆虫を取ろうと懸命に飛び回っているうちに「捕虫網」のように翼が発達していったのだろうか。

いずれにしても恐竜たちもきっと、飛びたとうと走っても、走っても、砂をけちらし、水たまりにふみこみ、なりふりかまわず走っても、走っても、を何度も、何度も、幾世代も、幾世代にもわたって繰り返して、未知の空を手に入れていったに違いないと私には思えてならなかったのだ。

*写真は、ウィキペディアの「シノルニトイデス」(http://en.wikipedia.org/wiki/Sinornithoides)から


harutoshura at 15:04|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月22日

「鳥」② 飛びたてぬ

安水稔和は神戸に生まれ、暮らし、創作活動を営む、神戸の詩人である。

1931(昭和6)年9月、神戸市須磨区に生まれた。13歳のとき、神戸大空襲で被災。その際、現在の兵庫県たつの市にあった母の生家に疎開し、終戦の日を迎えている。

敗戦から4年後に神戸に戻り、長田区池田上町に居住。ここで現在まで生活している。

1950(昭和25)年、神戸大学文学部英米文学科に入学。その年の12月には詩誌「ぽえとろ」を創刊。本格的な創作活動に入る。

1954(昭和29)年に大学を卒業し、地元の中・高一貫の女子校に就職。翌年には、第1詩集『存在のための歌』を刊行ている。

以後、詩作をはじめ、評論やラジオドラマ、菅江真澄研究など、旺盛な創作、文筆活動は衰えることなく現在まで続いている。

2

詩集だけをとっても、1954年の『存在のための歌』から近年刊行された『記憶の目印』までに21冊。ざっと3年に1冊のペースで、筆を折ることなく続いている。

子供のときから20回近い転居を繰り返し、大学も、仕事も、迷いに迷ってあれこれ手をつけて、いまだ然したる人生の手応えを感じられずにいる。そんな私からすると、神戸という生まれ育った地でひたすら一つの道を究め続ける安水は、何とも羨ましく、すごいと思う。

いつだったか、物理学、俳句、教育行政の“三足の草鞋”のいずれにおいても、人並みはずれた大きな業績を残している有馬朗人が「物理なら物理、俳句なら俳句、行政なら行政へ徹底的にエネルギーを投じるべきでした。ですから後輩には一芸に徹すべしと言っている」と自省の弁を述べる文章を読んで、こんな“スーパーマン”でもそんなふうに考えているのかと驚いたことがある。

  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

ハタから見れば順風満帆、一筋の道に打ち込む、迷いのない落ち着いた人生のように見えても、たった一つの人生を歩みつづける詩人そのひと自身にとっては、そんなオメデタイだけのものであるはずはない。

「鳥」はだれも、「鳥」になろうとして、飛びたとうとして、羽ばたき、けんめいに走る、なのに、飛びたてない。そんな、ながいながい、にがいにがい夢を見つつ、生きているのだ。

*写真は『安水稔和全詩集』(沖積舎)から 


harutoshura at 14:16|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月21日

「鳥」① 一万種

     鳥

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

1

1958(昭和33)年、くろおぺす社から出版された安水稔和の第3詩集『鳥』の第Ⅰ部、冒頭からはじまる「鳥」の連作の11番目に出てくる詩だ。

安水稔和は若いときからおびただしい数の作品を発表している。そして、高齢になっても詩作への意欲はいっこうに衰えを見せることはない。むしろ老いていっそう冴えをみせているようにも感じられる。

鳥の詩もたくさん書いている。まだきちんと読んではいないが、最近出版されたばかりの第21詩集『記憶の目印』にも、「鳥歌」という作品を見かけた。

鳥は、北極から南極まで地球の広い範囲に生息する。同じように、安水の長大な詩世界のあちこちを「鳥」は、ときに群がり、ときに独りで、飛びまわっているようにも思う。

鳥はくちばしを持つ、卵生の恒温せきつい動物。たいていは体が羽毛で覆われ、歯はなく、翼をもって、飛ぶことができる。二足歩行で、大きさは5センチほどのマメハチドリから、3メートル近いダチョウまでさまざま。

鳥には社会性があり、目でとらえるサインや、鳴き声、さえずりによってコミュニケーションをとる。群れをつくって共同で狩猟をしたり、繁殖を支えたり。道具を加工して使用することが観察されている鳥もいる。

多くは、“一夫一妻”の繁殖形態をとり、卵は巣のなかで温められ両親によって孵化させられる。だが、夫婦関係は繁殖期ごとに替わるのがふつうで、生涯続くことはまれのようだ。

鳥は、世界7大陸で1万種近くが知られ、四肢動物の中で最も種類が多い。飛ぶのに高度に適応したユニークな消化器や呼吸器を持ち、飛行機のような“鉄の塊”に乗らなくても、大空を自由にはばたける。

*写真は http://lifespringblog.wordpress.com/2012/08/10/keep-the-conversation-on/ から 


harutoshura at 15:03|PermalinkComments(0)安水稔和 

2016年10月20日

「落葉松」⑬ 天変地異

「落葉松」の入った詩集『水墨集』が出版された3カ月後の1923(大正12)年9月、東京が壊滅状態となる関東大震災が起きた。

その時、小田原の伝肇寺の竹林に建てた山荘「木菟の家」に、白秋一家は住んでいた。白秋は2階の書斎にいた。あたりは濛々とした土煙。揺れた足をとられて体を泳がせながら、離れへの渡りのところまで来た。

妻の菊子は埃まみれ、長男の隆太郎も無事だった。その時、について震災直後に書いた「その日のこと」で次のように記している。

〈寺の舗道へ出て見ると、一直線であつた舗石がそつくり続いたままよれよれになり、地が亀裂し、卵塔場の墓石は全部が二三間も泳いでバラバラになつてゐた。

榧の木地蔵堂などは見るかげもなく半ばからひしやげ、桃山時代の遺物だといふ山門なぞもくちやくちやにつぶれてゐた。町の方を瞰下すると、ついこの丘の下から煙が上つてゐる。それから丘の向うで盛んに火の手があがつてゐる。

閑院宮邸はと、山の上を振り仰ぐと、松林ばかり見えて、あの魏然とした円頂閣〈ドオム〉は影も形も無くなつてゐる。煙がもくもくと湧きあがつた。
おそろしい事になつたと私は吐息をついた。
そこへ、隣の和尚が顔の色を変へて駆け込んで来た。

「みんな無事か無事か。」
「無事です、無事です。」
「裏藪にゐます。」
私たちは叫んだ。
和尚は裏へすつ飛んで行つた。〉

生前未刊の歌集『風隠集』で次のような歌も詠んでいる。
 
  世を挙げて心傲ると歳久し天地の譴怒〈いかり〉いただきにけり
  この大地震〈おほなゐ〉避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
  大正十二年九月ついたち国ことごと震亨〈しんとほ〉れりと後世〈のちよ〉警め

この大震災は、以前にこの連載でもふれたように、治安維持法、金融恐慌、そして大戦と、激動の社会変動の始まりを告げる天変地異となった。

プロレタリア文学の台頭など文学も大きく変貌するなか、歌壇でも、歌誌『日光』を中心とした歌人たちの新たな活動がはじまった。

13

『日光』は、震災の翌年の1924(大正13)年に創刊。短歌結社が固定化、互いに反目対立して沈滞している状況を打ち破り、自由で明るい歌人たちの活躍の場を作ろうとしたのだ。

創刊から4年後の廃刊まで主要同人として同誌にかかわった白秋は、巻頭言として「日光を仰ぎ、日光に親しみ、日光に浴し、日光のごとく健やかに、日光とともに新しく、日光ととともに我等在らむ」と記している。

このように、白秋の40代以降、昭和に入ってからの創作の中心は、詩作より短歌のほうへと重心が移る。いわゆる幽玄歌風錬磨の時代である。「落葉松」にも見られた伝統的な寂寥感を進めていけば、古代幻想に行きつく。

白秋は記紀歌謡、風土記、祝詞などの世界に分け入って古語を復活し、日本の古神道を現代詩によみがえらそうとする。叙事詩「建速須佐之男命」、長篇交声曲詩「街道東征」などは、そうした試みだ。

だが、日本的な幽玄を盛る器としては、自由詩よりも短歌のほうがはるかに長い歴史と蓄積をもっている。結局、白秋も短歌のほうに精力が注がれ、そうした壮大な現代詩の試みは、実験の範囲にとどまった。

とはいえ、白秋でしかなしえない、自在で巧み、独特の光沢を放つ言葉の世界は、ますます洗練されたものになっていった。1929(昭和4)年に出た詩集『海豹と雲』には、私の好きなこんな詩もある。

     水盤の夏

  光は曲ぐる
  薔薇〈ばら〉の枝、
  水には光る水の影。

  夏は来れり、
  薄玻璃〈うすはり〉に。
  強く寂しくわれ居らむ。

*福岡県柳川市の北原白秋記念館玄関の自動ドアにある白秋の全身写真(ウィキペディアから)

次回からは、安水稔和の「鳥」という詩を読みます。


harutoshura at 11:30|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月19日

「落葉松」⑫ 『邪宗門』

  われは思ふ、末世〈まつせ〉の邪宗〈じやしゆう〉、切支丹〈きりしたん〉でうすの魔法〈まはふ〉。
  黒船の加比丹〈かぴたん〉を、紅毛〈こうまう〉の不可思議国〈ふかしぎこく〉を、
  色赤〈いろあか〉きびいどろを、匂鋭〈にほひと〉きあんじやべいいる、
  南蛮〈なんばん〉の浅留縞〈さんとめじま〉を、はた、阿刺吉〈あらき〉、珍酡〈ちんた〉の酒を

  見目〈まみ〉青きドミニカびとは陀羅尼誦〈だらにず〉し夢にも語る、
  禁制〈きんせい〉の宗門神〈しゆうもんしん〉を、あるいはまた、血に染む聖磔〈くるす〉、
  芥子粒〈けしつぶ〉を林檎のごとく見すといふの欺罔〈けれん〉の器〈うつは〉、
  派羅葦僧〈はらいそ〉の空〈そら〉をも覗〈のぞ〉く伸〈の〉び縮〈ちぢ〉む奇〈き〉なる眼鏡〈めがね〉を。

12

1909(明治42)年、白秋が24歳の年に出した第1詩集『邪宗門』の最初に置かれた「邪宗門秘曲」の冒頭の2連だ。

『邪宗門』の大きな特徴は、その象徴詩的作風にあるといわれる。象徴(シンボル)とは簡単にいうと、観念的、気分的な抽象的ことがらを、具体的な事象によって暗示する修辞。知的な説明では伝えにくいテーマを、感性的、直感的に示そうとする。

文学の象徴主義の起源は、シャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)に求められている。

日本には、1905(明治38)年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』によって、「象徴詩」の概念がはじめて明確にされたといわれている。

日本の象徴詩は薄田泣菫の『白羊宮』(1906)、蒲原有明の『有明集』(1908)などによって、一つの完成を見る。その後、白秋らによって大正期にかけて新たな展開を見せるが、当時は口語自由詩への変遷という問題を抱えることになる。

『邪宗門』に始まる白秋の詩作は、大きく三つの時期に分けられる。①『邪宗門』から『思ひ出』(1911)、『東京景物詩及其他』(1913)に見られる都会的で、官能・唯美的な傾向②『真珠抄』(1914)、『白金之独楽』(1914)の自然を素材にした汎神論的法悦境的な時代、そして③「落葉松」が入った『水墨集』やそれ以降の詩集に見られる、芭蕉的な閑寂境に分け入るような伝統的・古典主義的傾向の時代だ。

〈私の詩風も随分と変遷した。今日に於て、かの「邪宗門」「思ひ出」の狂飆時代を思ふと、あの目まぐるしい絢欄さは何処へ行つたかと思ふ。然し今さらあの青春時の詩風に還らうとは思はぬ、還れも為ない、また還つたところでそれは偽るものである。

兎に角私は此処まで到りついた。それは人としても詩の道を行ふ者としても可なりの悲惨な複雑な曲折を経てやうやうに辿りついたのである。今日の私は無論昨日の私を遥かに振り返る点まで隔って来てゐる。(これを真に知ってくれる人は少い。)

思ふにあの頃の詩風はあの頃ではまことにさうあるべきであつた。その意味で今日の境地も今の私としてはこれより外には無い。詩の香気にも様々の種別がある。寂しければ寂しいままに、何等かの、それは曾て見なかつた、却て本質としての特殊な気品は保たれるものであらう。

ただそれがおのづからのまことのものか否かで詩としての価値は極るのである。兎に角その時代時代をひたぶるに生かしきるものにこそ真の恩寵を見、生かしきつたものにこそ最後の歓呼は聞かされるであらう。生かしきりたいものである。〉

『水墨集』の跋で、白秋はこのように記している。三木卓は自著『北原白秋』で、この部分を引用したうえで「かれがいっていることに、わたしは心打たれた」として、次のように続ける。

〈ほんとうに、あの「目まぐるしい絢爛」とはどうなってしまったのであろう。それを一言でいえば、モチーフの消耗ということになるだろう。すでに述べたように、白秋という人は、得たモチーフは書き続けられだけ書き続けなければ気が済まない人だった。

それは童謡や歌謡にのみ当てはまるものではない。『邪宗門』『思ひ出』も例外ではなかった。両者ともその厚さ、篇数の多いことでもきわだっているが、再刊の機会があると、詩集に入れなかった作品を拾う増補という形で蘇らせたりしている。

かれは興が乗れば、目下関心のあるモチーフはどこまでも書き尽くす、というはなはだいさぎよい詩人だった。おいしいおやつを、そっとしまっておいて、あとで食べようなどというさもしい考えは持ち合わせていなかったのである。

『邪宗門』には若い野心と天性の才能にまかせた力業が、『思ひ出』には人にとって決定的な「生まれた場」という唯一無二のものがあった。『桐の花』には生死のかかった恐ろしい体験があった。そのどれも一度限りの場である(実際、章子に裏切られるという深刻な事態が、俊子のときほどのモチーフにはなり得なかった。白秋にとってはもはや、決定的な体験ではなかったのであろう)。

そのいずれをも白秋は、見事な、それも最大級の文学的結実に結びつけることに成功したのだから、ふつうの芸術家だったら、それで大いによしとするところである。しかし、かれは書きつづけなければならなかった。

そうしている間に、詩壇は象徴詩を置いていってしまった。詩壇は口語詩の時代となり、民衆詩派が前面に出てくるようになった。弟子である、犀星や朔太郎が大いに注目された。白秋は、詩の前線から取り残され、時代遅れになっていたはずである。〔中略〕

おそらくそのときの白秋は、出発時に自分が持っていると意識できたモチーフは、すでに使い果たしていた。あると思えばすべて費消してしまうのが、白秋の創作だからである。かれが「水墨」という世界をここへ持ちだしてきたのは、あらたな美学を自らのうちから掘り起こさなければならないと思いそれを開始した、ということである。

もともと言葉を使うことに対して、白秋は比類ない才能をもっていた。日本語であるかぎり、どのような文体も書き分けることができた。そして常に現在を信じ、現在が最高の表現者であると自分に言い聞かせて、仕事をしていったのだと思う。書き手とは、そう思って仕事をするものなのだ。〉


harutoshura at 15:39|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月18日

「落葉松」⑪ 万物流転

     八

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

最後の第8連は、それまでとは趣を異にして最後に一種の観想を加えたもので、詩に一種の深みをもたせている。

世の中は「あはれ」なのである。「あわれ」は、深く感動したときに使う日本語の特徴的なことば。しみじみとした情趣がある。趣が深い。といった意味でふつう使う。ここで趣が深いのは「常なけどうれしかりけり」という。

「常」とは、変わらないこと、永久不変なこと。だが「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる(この世の中にはいつまでも変わらないものなど何もない。昨日は深い淵だった飛鳥川が今日は浅瀬になるのだから)」(古今集)というように、仏教的な人生観では、この世は「常無し(無常)」とみなす。

つまり「常なけど」には、諸行無常、いってみれば「あきらめ」的な気持ちが込められているわけだが、にもかかわらず「うれし」という。つまり、この世は無常だけれど、それが喜ばしい、満足で快いと肯定的に感じているのだ。

  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

渓流には渓流の音があり、カラマツにはカラマツの風が吹く。森羅万象さまざまなものに違いがあり、個性があり、変化がある。「落葉松」の林の中で詩人は、それらを積極的に受け入れている。

「落葉松」が入っている『水墨集』のなかに次のような詩がある。

     境涯の讃

             朝顔にわれは飯食ふ男かな  芭蕉

  句はおのづからのもの、
  境涯のもの、
  松ゆゑに松の風、
  椎ゆゑに椎の涼〈すず〉かぜ。

11

「境涯」とは、「この世に生きてゆく上で置かれた、人それぞれの立場。身の上。境遇」と広辞苑にはある。

詩の前書きにある芭蕉の句は、其角の「草の戸に我は蓼〈たで〉くふほたる哉」を受けたもの。「自らを蓼食う蛍にたとえた君と違い、私は朝顔の花を見ながら飯を食べる男なのだ」といった意味だ。

奔放磊落な其角の個性と句風を認めたうえで、平凡で無骨な生き方のなかにも俳諧の道があること示した句ともいわれている。

芭蕉は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といい、「乾坤の変は風雅のたね也」(『赤冊子』)として、天地のさまざまなものの変化が俳諧の根源にあることを説いている。

この世は、常に変化してやまない。だが、これを突きつめていけば、それぞれが、それぞれのかけがえのない個性を発揮し、万物が変化流転してやまないことこそが、宇宙の本源ともいえるのだ。

  薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク。

  ナニゴトノ不思議ナケレド。

     (『白金之独楽』の「薔薇」)

白秋にとって自然は、感覚的な対象ではなく即物的であり、また、自らと交響しあい生を享受しあう存在だった。

「落葉松」が発表になった1921(大正10)年に出された歌集『雀の卵』には次のような歌もある。

  この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風

*写真は、与謝蕪村が描いた芭蕉(ウィキペディアから)


harutoshura at 10:26|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月17日

「落葉松」⑩ 人生行路

恩田逸夫の解説(『北原白秋』)にしたがって、詳しく「落葉松」をみてみよう。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

冒頭の第1連でまず、詩人の位置や詩想の焦点を示す。カラマツの林を歩いて「過ぎ」、カラマツを「しみじみと」眺めていった。この観照によって、自然と人生の「さびし」さに思いいたる。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

第2連ではカラマツの林をつぎつぎに通ってゆく歩みを述べ、1~2連で作品の輪郭が手際よく示されている。「しみじみ」「さびし」「細く」などの語感も、これから展開する主想を暗示している。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

第3、第4連の中心は「道」だ。「また細く道はつづけり。」(第2連)を受けて、「道」が6回繰り返される。「からまつの林の道」は、「われ」がゆく道であり、「ひと」も通る道。そして、「雨」や「かぜ」と交流する道でもある。

自然も、人生も、「からまつの林の道」に集約されている。「ほそぼそと通ふ」「さびさびといそぐ」のは、カラマツ林の道であるとともに、当然、人生の行路も意味しているのだろう。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

第5、第6連では、ふと立ち止まる。それまでゆるやかに進んできたリズムが一時中断し、印象が新たになる。「歩みひそめつ」「けぶり立つ見つ」の「つ」の完了の助動詞も、「ぬ」でなく、短切な完了という語感を示しているという。

6

以前にも少しふれたところだが、「からまつとささやきにけり。」は、「われ」と「からまつ」とがささくのか、それとも「からまつ」同士がささやいているということなのか。恩田は次のように説明している。

〈「風」の幽かなささやきや「から松」の幽かなささやきが、作者の幽かな微妙な心の動きと同じであるというのであるから、ここは、から松の幽かなひびきの意味を作者が理解すること、すなわち作者が自然との一体感を覚えることであろう。

つまり、から松に当たるかすかな風のひびきの中に、風やから松やその他万象を生み出し統一支配している、宇宙の根源的生命力の存在を直感しているのである。

このように、から松も自分も、ともにこの根源力・神の力によって生かされていると直感するところに、この力を媒介とする、から松と作者との連帯感が生まれ、「風とそのささやきはまた我が心のささやきなるを」「からまつとささやきにけり」ということになるのである。

「浅間嶺にけぶり立つ見つ」は、いままで歩いていた林の道を出はずれて、急に視界の開けた感じがよくあらわれている。それに、単に一般的なから松の林でなく、浅間山という具体的な固有名詞を出して印象を強めている。

なお、この詩句を二度くり返している声調には、謡曲の詞章の気分が感じられる。この詩が、中世的な幽玄の気分を主調としているためかもしれない。〉

そして最後の二つの連では、「中世芸術の、美の伝統を受けつぐ、芭蕉的閑寂境が中心となる」という。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

第7連は「憂き我を淋しがらせよかんこ鳥」「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」の句境をふまえて、かんこ鳥や時雨の音、8連目の川の音やからまつに吹く風など、聴覚的要素で統一、それまでの歩行による運動感覚や視覚と対照している。最後に自然と人生を統合した世界観を述べて、全篇の結論としているという。


harutoshura at 15:54|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月16日

「落葉松」⑨ 切れ

〈純粋に詩集としては本集こそ「白金の独楽」以来のものである。「白金の独楽」以来、いろいろな事情の下に私は単行の詩集公刊の機会を失つて了つた。三崎詩集「畑の祭」その他がそれである。

綜合詩集には兎に角収拾は為たが、単行詩集の気品はまたさうした別種の味があるので、何となく済まぬ心もちで今日に到ったのであった。

小唄、民謡、童話集はその前後を通じて可なり公刊したが、「畑の祭」以後、私は主として短歌の製作に専心したので、純粋の詩作は極めて少なかつた。葛飾、動坂で少々、小田原お花畑で少々、天神山の生活で「観相の秋」ぐらゐのものであつたろう。

十年の十月、突然の感興が湧いて「落葉松」第二十五章の詩が成つた。これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た。それ故に特に「落葉松」数章は私にとつて忘るべからざるものとなつた。〉

詩人であり、歌人であり、童謡作家であり、白秋ほど詩歌の広い世界で、次々に新しい境地を切り開いていった作家は、近代日本でほかに見あたらない。

詩集に関しては『白金之独楽』を1914(大正3)年に出してから、「落葉松」の入った『水墨集』を1923(大正12)年に刊行するまで、10年近い間隔がある。きわめて多作な白秋からすれば、30代のこの時期、詩作から遠ざかる、ある意味ではスランプの時期だったといえるかもしれない。

9

以前にもみたように、『白金之独楽』を出した年に最初の妻俊子と離婚、『水墨集』刊行までに、章子との結婚と離婚、佐藤菊子との結婚と私生活で落ち着かない出来事がつづいた。菊子との結婚で、はじめて平穏な家庭生活を手に入れることができた。

菊子との結婚は、白秋の作風にも大きな影響を与える。「これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た」という「落葉松」も、軽井沢のカラマツ林を菊子と散策したのがきっかけで生まれた詩だ。

穏やかさと広がりを加え、いっそうおおらかで、自由な白秋ならではの境地を展開することになる。

閑寂さを深め、洗練されていぶしのかかった華やかさもただよう。「水墨」の名のとおり、閑寂淡彩な世界だ。

詩「落葉松」は、最終連を除いて第7連までどれも「からまつの林」という書き出してはじまっている。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

第1連では、「からまつの」「からまつを」「からまつは」と冒頭の3行にわたって「からまつ」を連ね、「の」「を」「は」の助詞を使い分けながら、動いてゆく微妙な音感を示している。そして、3行目と4行目で「さびしかりけり」を重ねて、落ち着きを与える。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

さらに第2連も、最初の3行で「からまつの林」が繰り返される。「出でて」「入りぬ」「入りて」と、少しずつ変化する動作をあらわす3音の動詞によって、連続的な動作が足元をフィルムで見るように映し出される。落葉松の道は、「わが通る」人生の道でもあるのだ。

第3連では「けり」「なり」「なり」と、切れのある助動詞が続き、「霧雨のかかる道なり。/山風のかよふ道なり。」といった対句を随所にもりこむことで、韻律的な表現効果を高めている。

恩田逸夫は『北原白秋』の中で、「落葉松」について「類似の表現が多いので、作品の展開は、一見まとまりがないように思われるが、実は、細かく配慮された緊密な構成である。

二連ずつが一組で、序(第一、二連)から展開部(第三~六連)を経て結論(第七・八連)に至る経路が整然としていて、しかもその各部はゆるやかなリズムで接続している」としている。

*写真は、大正10年4月28日、佐藤菊子と結婚した際のもの(新潮日本文学アルバム『北原白秋』から)


harutoshura at 16:17|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月15日

「落葉松」⑧ 推敲

白秋は生涯にわたって、自分の作品の推敲や修正を加えつづけたことで知られる。

「落葉松」も、1921(大正10)年の『明星』には前の7章で発表されたが、1923(大正12)年の『水墨集』には、全体の順序を変えるなどしたうえ、最後の8章が加えられている。

「この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし、響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。

何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから」(大正11年9月『詩と音楽』創刊号)と書いている。

8

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。


  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

4行8連、計32行の詩のなかに、「からまつ」という言葉が、ひらがなで17回登場してくる。

からまつ林を通り過ぎながら、詩人は、すぎゆく木々をしみじみ見つめた。わきたってくるさびしさ。それは、出あい、別れる、旅のさびしさ。人生のさびしさ。

からまつ林を抜けても、その先にはまだ、からまつの林。そこに細々と道が、奥のほうまでつづいている。霧のように細かな雨が、降りそそぐ道。山から吹き下ろす風が、通り抜けてゆく道。

その道は、私だけでなくだれもがたどる道。どうにかこうにか、ひきつづき通ってゆく道。さびしい心を抱きながら、いそいで通る道。

からまつ林を通り過ぎ、ふと歩調をゆるやかにする。山風にかすかに音をたてるからまつたち。そんな、からまつ林のささやきと、詩人の心が共鳴してゆく。

からまつを抜けると、そこにあるのは浅間山。林のうえ、火口付近から煙を立てているのを見る。

霧雨はさびしく(「さびしけ」は形容詞「さびし」の已然形の古い形だという)降りそそぎ、あたりはいよいよ静まりかえる。ただカッコウ(かんこ鳥)が、鳴くだけ。からまつは濡れつづけるだけ。

人の世は、しみじみとした情感のあるもの。さだめなくはかないけれど、心なぐさめられるもの。山の渓流には、渓流の音。からまつには、からまつの風がある。万物には、それぞれの趣があるのだ。

*写真は、カラマツ林と浅間山(http://hitofusanobudou.com/?p=312から借用)


harutoshura at 15:34|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月14日

「落葉松」⑦ 五七調

  からまつの はやしをすぎて
  からまつを しみじみとみき
  からまつは さびしかりけり
  たびゆくは さびしかりけり

  からまつの はやしをいでて
  からまつの はやしにいりぬ
  からまつの はやしにいりて
  またほそく みちはつづけり

  からまつの はやしのおくも
  わがとおる みちはありけり
  きりさめの かかるみちなり
  やまかぜの かよふみちなり

「落葉松」の最初の三連を、試しに、すべて平仮名にするなど書きなおしてみた。ご覧のように、五音、七音の順番で繰り返す「五七調」で書かれていることがわかる。

万葉以降、日本の詩歌は、五音と七音がの基本単位になってきた。五七調は、五音に七音が続く二句がまとまりをなすときの調べ。七五調は、七音に五音が結合するときの調べだ。

五・七・五・七・七が基本形の短歌の場合、2句目あるいは4句目で切ると、五・七/五・七/七となって五七調に、1句目や3句目で切ると五/七・五/七・七と七五調になる。

7

万葉集では、初め短い五音と次の長い七音の「五・七」2句が韻律的にも意味的にもまとまりをもち、切れる五七調の歌が多い。その後、平安期に入ってからできた古今和歌集では、逆に七・五調の歌が主流になってくる。

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の  辺(へ)にこそ死なめ

これは、太平洋戦争中の戦果発表のラジオ放送で、玉砕を伝えるとき冒頭でよく流されたという軍歌『海行かば』だ。『万葉集』の大伴家持=写真、wiki=の歌からとられているが、確かに五七調になっている。

  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉(し)くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
  日に溶けて淡雪流る

島崎藤村の有名な「小諸なる古城のほとり」(落梅集)も五七調。一方、

  春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 
  巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝(え)分け出(い) でし
  昔の光今いづこ

土井晩翠作「荒城の月」は、七五調で書かれている。

一般に、五七調は素朴で力強く、重厚な感じを与え、これとは対照的に七五調は、軽妙な響きをかなで、優しく優雅な感じを与えるとされる。明治以降に作られた詩や唱歌には、五七調より七五調のほうが多いようだ。

詳しいことは知らないが、韻律論的にみても、五七調に比べて七五調のほうがずっとリズミカルになるらしい。

五七調は2拍の繰り返しが2回しかなく、十分リズムに乗りきらずに「七」に移るため重たい感じになるが、初めに2拍を3回繰り返す七五調では、十分に助走がつけてから「五」でコンパクトにまとめることができる。

そんな説をどこかで目にした覚えがある。逆に考えると、七五調にすると、リズミカルで調子がよくなりすぎて、場合によっては軽薄な感じになってしまうこともある。

とすれば、荘重な自然を歌う「落葉松」のような作品には五七調のほうが向いていそうだ。

「落葉松」が収められている詩集『水墨集』には、〈落葉松〉というタイトルで、「落葉松」のほか「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の四つの詩が収められている。

     ふる雨の(一)

  ふる雨のひとつひとつも
  こまかには観る人ぞなき。
  ひとすぢの雨はひとつぶ、
  松の葉に玉とむすぶを。

のように、五つの詩どれもが五七調だ。そこには、きっと白秋のメッセージが隠れているのだろう。


harutoshura at 14:05|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月13日

「落葉松」⑥ 天下の雨敬

カラマツは、マツ科カラマツ属の落葉針葉樹。日本の固有種で、日当たりのよい乾燥した場所が生育に適する。東北地方南部から、関東、中部地方の亜高山帯から高山帯に分布する。

中国の絵画である唐絵のマツに似ているのが名前の由来だ。日本の針葉樹のうちで、唯一の落葉樹であることから白秋のように「落葉松」と書くこともある。

樹高20-40m、幹の太さは1mに達する。枝は長枝と短枝という二形性を示し、長枝は10-50cmになる。短枝はひとつの芽のみからなり、1-2mmしか無い。葉は針形。白い粉に覆われた薄い緑色で、長さは2-5cm。

秋には葉を黄金色に染め、北海道や信州などの秋の景色を美しく彩り、晩秋になると、褐色の冬芽を残して葉を落とす。

樹皮は灰黒色から暗い赤褐色。表面は短冊状に剥がれる。

松かさは長さ2.0-3.5cmで、中に30-50個の種子を生産する。松かさははじめ緑色だが、受粉後4-6ヶ月して十分に熟すと茶色に変化して、種子を散く。古くなった松かさは樹にそのまま残り、鈍い灰黒色に変色している。

180px-Ame-mia_u1

白秋の「落葉松」の舞台になった軽井沢の開発で欠かせない人物として、前回も名前を出した雨宮(あめのみや)敬次郎(1846-1911)=写真、wiki=があげられる。

近代化のうねりのなか、「天下の雨敬」「投機界の魔王」などと言われ、養蚕、鉄道、製鉄などいろんな分野で活躍した大実業家だ。

雨宮は山梨の名主の息子として生まれ、生糸、養蚕業で財を成した。1876~1877年、生糸貿易を世界に展開しようとアメリカからヨーロッパへと渡った。

外遊の際のアメリカ大陸横断旅行で、不毛の地が開墾によって生まれ変わる姿を目の当たりにした。そして、荒野を開拓植林して都市を作る壮大な事業を、浅間山麓で実現しようとした。

1883(明治16)年、現在の軽井沢ゴルフやプリンスホテルがある中心部から、人気の別荘地である上ノ原や、千ケ滝近くまで、当時は避暑地の片鱗すらない軽井沢の原野を購入。山麓に邸宅を構えて、ワイン用のブドウ栽培に乗り出したり、近代農場の開拓を試みたりした。

しかし、寒冷で耕地に適さない土地に阻まれてことごとく失敗。やむなく落葉松を植林したところ、これが環境にあった。そして、七百万本の植林事業化に成功した。雨宮は次のように述懐していたという。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。

 「(カラマツの)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。

 私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」

戦後になってからも、将来の需要を見込んで、全国各地で木材資源として適しているスギやヒノキなどの大規模な植林活動が展開された。木を植えることは将来に向けて貯金するのと同じ、と言われ、急峻な斜面を登って苗木を植え、育てていったのだ。

海抜が高い地域や痩せ地では植林に適した樹種が見あたらなかった。その中で選ばれたのがカラマツだった。育苗が簡単で、根付きも良く、成長も速い。そのため、大量に生産する樹種としては最も適していた。

長野県では、造林面積の半分はカラマツで占められた。私の父は、長野県の営林局に勤めていて、県内の山地のあちこちを転勤して回っていた。どこに住んでも、私の近くには、遊びの空間であり、底知れない宇宙に誘ってくれるような神秘の場でもあったカラマツ林が広がっていた。

ブナ帯ではスギの植林は成功しにくく、美林には仕立てにくい。浅間山麓のような火山灰の痩せ地も同様だ。このような立地でも生育が比較的良好なカラマツが注目されたわけだが、植栽した時点で、十分な用材利用の見通しがあったわけではない。

カラマツ材は、割れや狂いが出やすく、当時の技術水準では板材として使いにくいので、将来は炭鉱や工事で使う杭木や電信柱として使う計画だった。

ところが、収穫期を迎えるようになったころには、電信柱の材料には、鋼材やコンクリートがもっぱら使われるようになっていた。杭木の用途はなくなり、せっかく成熟したカラマツも用途は極めて限られることになった。

最近の木材の利用・加工技術の進歩などによってようやくカラマツの欠点が克服され、積極的にカラマツ材を使う動きがでてきた。主に合板としての用途が多いが、強度があって、比較的廉価なので梱包材としても利用されている。

さらには、腐朽しにくく適度な弾力性をもつ木質から、ガードレールなどの材料として、また、寸法の小さい板材を接着剤でつなぎ合わせて作る「集成材」という加工技術を使い、建築材としての用途も広がっている。


harutoshura at 15:30|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月12日

「落葉松」⑤ 植林

菊子と結婚した1921(大正10)年の1月、白秋は、画家の山本鼎、文芸評論家片上伸、口演童話の岸辺福雄とともに『芸術自由教育』という雑誌を創刊している。

白秋はその巻頭言で次のように述べている。

「予は詩を以〈もつ〉て児童の世界を極楽たらしめる。児童本来の稟質〈りんしつ〉は詩そのものだ。神秘の蔵だ。

自由、正直、無邪、天真、而も俊雋〈しゆんしゆん〉限りなき感覚のピンだ。彼等は単純だ。然〈しか〉し此の単純は既に成人の種々相を包含した光り輝く感性の酵母体だ。

予は詩の無き教育を極端に排斥する。詩の無き処に自由は無い。教育は初め母のその子に乳房を含ますが如く真の愛と滋味とを滴らすことだ。子守歌の温かさだ。揺籃のリズムだ」

そして、同年8月には「自由教育夏期講習会」を、軽井沢の星野温泉で開いた。

星野温泉は、軽井沢西部、中軽井沢地区から北軽井沢地区へ国道146号線を1.5キロほど北上した浅間山の麓にある温泉地。

美しいカラマツ林に囲まれ、日本3大野鳥繁殖地に「野鳥の森」に隣接した、鳥のさえずりが聞こえる閑静な避暑地にある名湯だ。

夏期講習会には、講師として鈴木三重吉、巌谷小波、島崎藤村、弘田竜太郎、それに飛び入りで内村鑑三が参加した。講習会の印象について白秋は次のように記している。

「此度の星野温泉の講習会は全く楽しかつた。非常に親しく飾り気がなくて、活き活きとしてゐて面白かつた。

何より第一気に入つたのは、あの材木小屋の会場で挽〈ひ〉きつぱなしの無雑作に造らへた講壇や卓に、それから土間一面に鋸屑〈のこくず〉が敷いてあつた事だ。

講壇に上がつて見ると左手の窓に新鮮なキャベツ畑が目に入つたのも嬉しかつた。

右手の落葉松〈からまつ〉山もよかつたが、何にしても明けつぱなしで日光は明るいし、風は吹き通すし、渓川の音、蝉時雨、時たまにはがらがら通る幌馬車の軋〈きし〉りなどまことにさすが山の中の温泉地らしくてよかつた」(『芸術自由教育』大正十年九月号編輯後記)

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

5

「落葉松」は、この講習会での滞在中に、軽井沢の「落葉松山」のカラマツ林を散策して生まれたとされる。

なお、「材木小屋の会場」は、軽井沢高原教会として、現在まで受け継がれることになったようだ。同教会のホームページには、次のようにある。

〈ここ軽井沢高原教会は、1921(大正10)年に開かれた「芸術自由教育講習会」を原点に誕生しました。前身であった質素な講堂に、キリスト教者であり思想家である内村鑑三をはじめ、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文化人が集い、「真に豊かな心」を求めて、熱く語り合ったのです。

「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。芸術自由教育講習会からひとつの理念が芽生えました。遊んで楽しむ、大いに結構、心から楽しいと感じればそこからまた何かを学び取れる、素晴らしいことではないか。

何事においても慎みが求められた時代にあって、芸術自由教育講習会は、感じたことを感じたままに表現し、自由に討論できる空間でした。

その空間をこよなく愛した内村鑑三は「星野遊学堂」と名づけ、布教の場としました。そして、芸術自由教育講習会の理念は、この地で受け継がれていくこととなったのです。〉

ところで、白秋を作詩に駆り立てた軽井沢のこの高原には、天然生のカラマツすなわち天落葉はあまりない。明治初期、農用林野として用いられていたため、毎春、野火がつけられて野草地になっていたからだ。

1883(明治16)年に、甲州財閥の雨宮敬次郎が、官有地500町歩、民有地600町歩を買い入れ、700万本におよぶカラマツを植林した。1921(大正10)年に白秋が見たカラマツ林は、植林から40年近くたった人工林だったのか。

*写真は、軽井沢高原教会(http://www.jalan.net/yad306320/blog/entry0002071639.htmlから)


harutoshura at 16:44|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月11日

「落葉松」④ 白金ノ独楽

「我はこれ畢竟詩歌三昧の徒」と称した白秋。俊子との短い結婚生活で、三崎、小笠原と転々とする中でも、文学的な収穫には、相変わらず豊穣なものがあった。

俊子と別れた直後の1914(大正3)年の12月には、こんな序にはじまる詩集『白金之独楽』を刊行した。

〈苦シミハ人間を耀カシム、空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇豆ノ如シ。大海ノハテニ煙消エズ、地上ニ鳩白日交歓ノ礼ヲ成ス。林檎ハジメテ音シ、水ハ常ニ流レテ真実一路ノ心ヲアヤマラズ。麗ラカナルカナ、十方法界。ワガ身ヲ周ルハ摩羅ヲ頭ニイダク摩暹仏、麦酒樽ヲコロガス落日光ノ男。桶ノ中ニ光リツメタル天ノ不二。……〉

人間的な悲痛から脱却しようとする一念から、一気に書き上げた詩集だった。部屋に閉じこもったまま食事もしない兄を案じて、そっとにぎりめしを障子の外に置く妹に、次にあげる「白金ノ独楽」をはじめ、出来たばかりの詩を朗々と読んで聞かせたという。

  感涙ナガレ、身ハ仏、
  独楽ハ廻レリ、指尖ニ。

  カガヤク指ハ天ヲ指シ、
  極マル独楽ハ目ニ見エズ。

  円転、無念無想界、
  白金ノ独楽音モ澄ミワタル。

4

翌1915(大正4)年には、弟の鉄雄と阿蘭陀書房を創立して、雑誌『ARS』をはじめる。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』を出版している。

1916(大正5)年、生活は苦しいものの、心にようやく安らぎを得るようになった白秋は、詩人の江口章子=写真=と知り合い、再婚。葛飾に移り住む。

「今度の妻は病身だが、幸い心は私と一緒に高い空のあなたを望んでゐてくれる。さうして私を信じ、私を愛し、ひたすら私を頼つてゐる」と友人に書き送り、章子も「北原はほんとうに痛痛しい赤ん坊です」と理解を示していた。

1917(大正6)年、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立する。この時期、白秋は詩よりも短歌のほうに情熱を注ぎ、推敲に明け暮れして新たな原稿をほとんど書かなかった。

  咳すれば寂しからしか軒端より雀さかさにさしのぞきをる

家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の要請で『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当することになって新たな道が開ける。

新しい感覚の童謡を次々と発表するようになるとともに、1919(大正8)年には、処女小説『葛飾文章』、『金魚』を発表。ようやく生活に落ち着きをみせる。

  ゴンシヤン ゴンシヤン 何処へ行く。
  赤いお墓の曼珠沙華〈ひがんばな〉、
  曼珠沙華、               
  けふも手折りに来たわいな。

  ゴンシヤン ゴンシヤン何本か。
  地には七本血のやうに、
  血のやうに
  ちやうどあの児の年の数。

この年、よく知られた「曼珠沙華」などが入った、最初の童謡集『とんぼの眼玉』も出版している。

それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付けた。1920年(大正9年)には『雀の生活』を出し、『白秋詩集』の刊行も始まった。

そんな折、伝肇寺境内の自宅の隣に山荘を新築した建前の祝宴で、事は起きた。小田原の芸者総出という派手さに、白秋の生活を支えてきた弟らが反発し、章子を糾弾したのだ。

それに対して、着物のほとんどを質入れするなどしてきた章子は、非難されるいわれはないと反発。その晩、章子は出入りの新聞記者と行方をくらましてしまう。白秋は不貞を疑い、章子と離婚することになる。

翌1921(大正10)年、白秋は、国柱会会員で、田中智學のもとで仕事をしていた佐藤菊子と3度目の結婚をする。この年、信州滞在に想を得て、名作「落葉松」を発表することになる。

*写真は、http://www.pref.oita.jp/10400/viento/vol02/p14_17.html から借用。


harutoshura at 01:28|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月10日

「落葉松」③ 白い月

    白い月
       ――わかかなしきソフイーに

  白い月が出た、ソフイー、
  出て御覧、ソフイー、
  勿忘草(わすれなぐさ)のやうな
  あれあの青い空に、ソフイー。

  まあ、何んて冷(ひや)つこい
  風だろうね、
  出て御覧、ソフイー、
  綺麗だよ、ソフイー。

  いま、やつと雨が晴れた――
  緑いろの広い野原に、
  露がきらきらたまつて、
  日が薄すりと光つてゆく、ソフイー。

  さうして電話線の上にね、ソフイー。
  びしよ濡れになつた白い小鳥が
  まるで三味線のこまのやうに溜つて、
  つくねんと眺めている、ソフイー。

  どうしてあんなに泣いたのソフイー、
  細かな雨までが、まだ、
  新内のやうにきこえる、ソフイー。
  ――あの涼しい楡の新芽を御覧

  空いろのあをいそらに、
  白い月が出た、ソフイー、
  生きのこつた心中の
  ちやうど、かたわれでもあるやうに。

3

俊子との恋に苦悶していた1912年4月に作られた詩だ。この年の7月、姦通罪によってり告訴された白秋は、2週間、未決監に拘置されるが、上京した弟らの尽力で和解が成立して告訴は取り下げられた。

心に深い傷を負った白秋は翌1913(大正2)年1月、死を思い立って三浦三崎へ渡る。しかし「どんなに突きつめても死ねなかった、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかった」(「朱欒」後記)

一方の俊子は、ホテルのバーのホステスなどをしていたようだ。まわりには売春をする女たちがいたり、外国人が相手の洋妾になれとママにいわれたりしていたという。

一時は、二人の仲は終わったと思っていた白秋だが、文通がはじまると恋心はよみがえってくる。当時、俊子にこんな手紙も送っている。

〈僕はあなたを高いものにしやうと思つて失敗した、たゞあなたは美しい僕の白栗鼠だ、美しい美しいお跳ねさんだ、あの人妻だつた時の怪しさ美しさ、いまでもあんな誘惑を僕に投げかける事ができるかしら、僕はね恐ろしい事だが、この頃人の細君さへ見るとあなたとの怪しい愉楽を思ひ出す、さうして一種の人妻病といふものに罹りはしないかと思ふまで、誘惑される。

かういふ恐ろしい事がまたと世の中にあるだろうか、――ああ自分たちの昔のゆめ、たつた半年前の事だが千年も経つた昔のやうな気がする。も一度あのゆめを取りかへしたい、然しもうあなたは人妻でない。

会うと思へば何時でも会へる身の上だ、それにしてもそのつまらなさを充分に償ふだけ今のあなたの生活は僕に怪しい誘惑を投げる、而して新らしい美しさを二人の昔の恋の上に輝かす。

あなたの生活が果してあなたのいふ通りか、あなたの心が果たしてあなたのいふ通り信実か、疑へば疑ふだけ苦しさと美しい好奇心とが僕の胸をかきむしる。何でもいい、焼木杭に火がついたのだ、ゆくところまで二人はゆかねばならぬ。

逢つて見たい、とは思ふが、逢つてもしや気まづい思をしたら、それこそ取りかへしのつかない不幸だ、まあ当分のうち逢はずにゐて、もつと苦しんで、逢はねば死んでしまうといふ心もちになつた時はじめてキユツと抱きしめたい――あなたはさうは思はないか。〉

こうした死ぬか生きるかの激しい色恋沙汰の騒ぎのなかにあっても、白秋の文学的な意欲は衰えを見せていない。この年、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行した。

とりわけ、白秋が汚名の挽回をも期した『桐の花』は、直截で流麗なロマンティズムに彩られた作風で、これにより歌壇でも独特の位置を占めるようになる。

俊子とのよりは戻って同棲、やがて結婚することになる。1913(大正2)年5月父の長太郎や弟鉄雄ら一家をあげて三崎向ケ崎異人館に転居した。だが、長太郎らは事業に失敗。万事に派手好きの俊子と両親の間にも溝が次第に生まれ、一家は東京に引き上げる。

1914年3月、胸を病んでいた妻を伴って白秋は、小笠原父島へ渡る。だが、単調な島の生活にあきた俊子は6月には島を離れ、翌月白秋も帰京する。待っていたのは、両親たちと妻とのいやしがたい不和だった。そして1年足らずの夫婦生活で、白秋と俊子は別れることになる。『雀の卵』輪廻三鈔の序には次のようにある。

「我深く妻を憫(あはれ)めども妻の為に道を棄て、親を棄て、己を棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決して相別る」

*写真は、歌集『桐の花』と、白秋によるその欄画草案(『新潮日本文学アルバム・北原白秋』から)


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2016年10月09日

「落葉松」② 母の乳

     母

  母の乳は枇杷より温〈ぬ〉るく、
  柚子〈ゆず〉より甘し。

  唇〈くち〉つけて我が吸えば
  擽〈こそば〉ゆし、痒〈か〉ゆし、味よし。

  片手もて乳房圧し、
  もてあそび、頬を寄すれ。

  肌さはりやはらかに
  抱かれて日も足らず。

  いとほしと、これをこそ
  いふものか、ただ恋し。
  母の乳を吸ふごとに

  わがこころすずろぎぬ。
  母はわが凡て。

S3-Koka007-4

生まれたばかりのころの感触をよりどころに、母といものの肉体そのものをとらえた北原白秋の比類のない作品だ。

白秋は、1885(明治18)年1月25日、熊本県の南関にある母の実家で生まれた。まもなく、福岡の柳川にある自宅に戻る。父は長太郎、母はしけ。二人の間に生まれた長男は、隆吉と名付けられた。

北原家は江戸時代以来栄え、「油屋・古問屋」の屋号で九州中に知られた海産物問屋。当時は酒造を本業としていた。1887年には弟の鉄雄が誕生。この年、白秋に大きな影響を与えた乳母のシカがチフスで死んでいる。

1897(明治30)年、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高校)に進んだが、数学の教師の陰険な管理教育に反発して幾何1科目を落として落第する。そして、このころから詩歌に熱中し、雑誌『文庫』、『明星』などを濫読し、文学に熱中するようになる。

1901(明治34)年、大火で北原家の酒蔵が全焼し、家産が傾き始める。家運を立て直そうとしていた長太郎は、息子の落第、文学狂いを許そうとはしなかったが、白秋は禁じられた文学書を畳の下や砂に埋めるなどして隠れ読んでいたという。この年から「白秋」の号を用いている。

1904(明治37)年、長詩『林下の黙想』が河井醉茗に認められて『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、上京して早稲田大学英文科予科に入る。このころ号を「射水」と称し、同郷の好で親しくなった若山牧水や友人の中林蘇水とともに「早稲田の三水」と呼ばれた。

1905(明治38)年には「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞一等に入選し、新進詩人として注目されるようになる。翌明治39年には、新詩社に参加。与謝野鉄幹、晶子夫妻、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛され、文壇に名が広まっていった。

1908(明治41)年には、象徴詩「謀叛」を「新思潮」に発表。鉄幹の新詩社を脱退し、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加する。この会には吉井勇や高村光太郎も加わって、象徴主義、耽美主義的詩風をめざす文学運動の拠点となった。

翌1909(明治42)年には、『スバル』創刊に参加。また第1詩集『邪宗門』を出版、官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となる。だが、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。このころから、脚光をあびて登場した新進詩人の行く手に暗雲がさしはじめる。

1910(明治43)年、『屋上庭園』第2号に掲載した「おかる勘平」が風俗紊乱にあたるとされて、発禁処分になる。またこの年の9月、転居した隣家に美貌の人妻、松下俊子=写真=がいた。

サディスティックな夫の暴行で生傷が絶えなかった俊子は、夫が連れ込んだ混血の情婦からもいびられ、乳飲み子を抱えて日夜泣き暮らすという異常な状況にあった。垣根越しの同情はやがて愛に変わった。俊子も青年詩人への憧れを抱くようになった。

1912(明治45・大正元)年、俊子の夫が白秋を姦通罪で訴え、俊子と白秋は市ヶ谷未決監に二週間拘留されることになる。この出来事に、「文芸の汚辱者」などと世評をあおるものもいて、白秋の盛名は一時、失墜することになる。

世評以上に、白秋自身の愛の苦悩、罪の意識は大きく、放免となったときは、狂気寸前の錯乱状態に陥っていたという。ときに白秋、27歳。『朱欒』の大正元年9月号に、次のように記している。

〈獄舎の経験は何よりの貴い省察と静思の時間を与へて貰ひました。これが為に若し今後の芸術上の作品に真に信実な感情の光と曾て見なかつた新しい思想の芽生とをもたらす事が出来たら〉


harutoshura at 14:23|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月08日

「落葉松」① 明星

きょうから、北原白秋の有名な詩「落葉松」を読むことにします。次のように八つの節から成り立っています。

    落葉松

     一 

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

     二

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

     三 

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

     四 

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

     五

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

     六

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

     七

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

     八 

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

1

北原白秋の「落葉松〈からまつ〉」は、1921(大正10)年、与謝野鉄幹がはじめた月刊文芸誌「明星」の11月号に掲載された。このとき白秋は36歳。前年に妻と離婚、この年4月に佐藤菊子と再婚している。

「落葉松」は、その後、大正12年6月18日にアルスから発行された詩集『水墨集』の中に収められた。

同詩集には、〈落葉松〉として「落葉松」「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の順に5篇の詩が載っている。また〈落葉松〉には、「落葉松について」と題して、次のような前書きがある。

〈落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。〉

*写真は、秋のカラマツ林(http://www.shinrin-ringyou.com/tree/karamatu.php から借用)


harutoshura at 22:50|PermalinkComments(0)北原白秋 

2016年10月07日

『おくのほそ道』メモ㉓ 構成論の意味

さらに平井敏照は『おくのほそ道』にちりばめられた句の配置に注目します。全六二句の三一番目の句が「涼しさや」で、三二番目の句が「雲の峰」の句で、芭蕉が作った五〇句の二五番目が「涼しさや」、二六番目が「雲の峰」になるというのです。

「句の配置に大いに神経を使った芭蕉のことだから、句の配列の中心に出羽三山をもってきたことは、十分意識していい」として、「出羽三山は、ウラの水源であるだけでなく、また『ほそ道』のピーク、分水嶺にもなるのではないか」とも指摘しています(平井敏照「俳諧師のオモテ、ウラ」(『『おくのほそ道』を読む』講談社、一九九五年五月)。

湯浅の「円弧説」にもとづいた平井の「前後二部構成説」は、『おくのほそ道』の全体構成を前半と後半を対照的にとらえるという点では、前半部の「松島」「平泉」、後半部の「出羽三山」「象潟」を帆船の四本マストになぞらえ、松島ー象潟、塩竈の明神ーけいの明神、雲岸寺ー立石寺などの対応をみようとする上野洋三の「前後対照説」とも重なります。

また二部構成とみる点では、奥羽の歌枕、名所・旧跡などに接する願いはかなえられ「出羽の旅の終った象潟の章をもって一応完結したのではあるまいか。芭蕉はここまでで『おくのほそ道』の旅の目的は終ったと思った」などとしたうえで、「第一部は象潟までで、「酒田の余波日を重ねて」以後は第二部だ」とする井本農一の二部構成説とも似たところがあります。

こうして諸説を眺めてみると、それぞれに説得力は感じますが、一長一短いずれも決め手に欠ける感も否めません。平井の主張は分かるが、上野や井本の説を凌駕する裏付けがあるようにも思われません。

大垣
「奥の細道画巻」大垣=逸翁美術館所蔵

掘切実は「『おくのほそ道』には、今日便宜的に分けられているような章段意識が厳密にはないに等しい」としたうえで、「旅程中心の構成論にしても、綿密にみてゆくと、諸説ともかなり強引で、不自然な感じがある」と指摘しています。

芭蕉の創作意識に関わる研究の進展などで、今後、より説得力のある構成論へと集約していく可能性はあるでしょう。しかし、そもそも『おくのほそ道』という作品を、このように単純に図式化してみることにどれほどの意味があるのか。そうした基本的な吟味もまた、同時に必要となるのではないでしょうか。


harutoshura at 19:57|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月06日

『おくのほそ道』メモ㉒ 湯殿山

平井照敏は、月山を重視する理由としては、ここに来て『おくのほそ道』が、花も月も、さらに雪や恋までもまとめて出している点をあげています。

花は、芭蕉がオモテで苦心したテーマでした。江戸の出立が三月二七日(陽暦五月一六日)。花の季節が過ぎてから江戸を発っているのに、上野・谷中に花が咲いているように書くなど、咲いているはずのないものを、なんとか出そうと工夫を重ねてきたのです。

その花を、月山から湯殿山=写真=にくだったあたりで、ついに目にすることができた。

湯殿山神社紅葉

その感動が「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ」と嬉しげに記されたというわけです。

行尊僧正の歌というのは、『金葉集』におさめられた「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」のことです。平井は「この歌を使って花に結着をつけようとする演出だったのかもしれなかった」とも推測しています。

月については、山そのものの名が「月山」であり、その1979メートルの山頂に立つこと自体「日月行道の雲関に入るかとあやしまれ」る経験でした。だから、芭蕉自身大いに修験行法をつくしたと信じたのだろう、とみています。

そこから、月をうたう意欲と自信を得て「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峰幾つ崩て月の山」とうたいはじめ、敦賀の名月へと調子をたかめてゆくというのです。


harutoshura at 19:54|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月05日

『おくのほそ道』メモ㉑ 月山

平井照敏は、湯浅説を「対応の一々には多少異論もありうるだろうが、ほぼ大筋のところは受け入れられる」と受けとめて、こうした図式化も結局は、オモテとウラが強く意識されていて、そのおのおのが互いに対応しているであろうとする観察の結果だとみています。

たとえば「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」という松島と象潟などは、芭蕉自身もはっきり意識されていた対応だ、というわけです。

月山

とりわけ平井が注目しているのが平泉と月山=写真=の対応で、オモテのクライマックスが平泉にあるとすれば、ウラ全体を支配しているのが「出羽三山くだり」にあると主張します。

オモテの部分では、焦点の平泉を最後に置き、那須では与一を出し、飯坂では義経、弁慶、佐藤庄司と二人の嫁を、塩竈では和泉三郎を出して、だんだん調子を高めていく。

そうした伏線が平泉で一気に結集して、高館の丘で懐旧の情をあふれさせる。だが、それにしては平泉のくだりは、「意外に小ぢんまりと」している。

これに比べると、出羽三山、特に月山に登るあたりの高揚には壮大なものがある。このようにとらえたうえで平井は、「ウラ全体にひろがる恋も月も花も、すべてがこの月の山の高揚からあふれ出、ながれ出るもの」であると力説するのです。


harutoshura at 15:00|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月04日

『おくのほそ道』メモ⑳ オモテとウラ

『おくのほそ道』の旅は、江戸から太平洋寄りに平泉まで進み、その後、本州を横断して酒田に出て、今度は日本海沿いに象潟まで北上、そして敦賀までくだります。

それはちょうど、表日本、裏日本という呼び方に符合する旅のオモテ、ウラといえると平井照敏はみて、「歌仙では、初折、名残折の二枚の懐紙のそれぞれにオモテとウラがあるが、実際の旅では、もちろん折は一つだけで、それにオモテとウラがあった」と主張しています。

地図
*三重県のWebサイトから

平井はまず、湯浅信幸が、ペンギン・クラシックスに収めた芭蕉作品の英訳集の前文で示した「円弧説」に注目します。

ここでは、全旅程を時計回りに描かれた円弧で示し、その主要地点が江戸ー大垣、日光ー敦賀、白河ー市振、仙台ー福井、松島ー象潟、平泉ー月山というように、対応関係にあることを点線でつないで図示しているのです。

それを見ると、ちょうど本州の中央山脈を折り目にして重ね合わせた形で、白河ー市振と仙台ー福井の点線が交差する外はすべて平行線を描く対応関係にあります。

湯浅は『おくのほそ道』の特色は変化と統一にあるとして、訪れた土地が、円弧の図のように互いに関係するものとして相関的に描かれていると指摘。

「バラエティ」を通して「ユニティ」を実現するために、芭蕉は出来事の順序を変えたり、架空の出来事を作り出したりしているとしているのです。


harutoshura at 18:00|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月03日

『おくのほそ道』メモ⑲ 旅程の分析

馬場錦江は『奥細道通解』(安政五年)に「市振」の条について「此条は此紀行に恋を出せる一巻の模様なるべし」と記しています。

『おくのほそ道』が連句の式目をふまえた構成があると指摘しているわけです。このように、連句的構成に関するさまざまな論考が江戸時代からなされてきました。

とともに、旅程の分析などを通じた全体構造や構成についての説もいろいろと生まれ、今日に至るまで盛んに論じられてきています。

事典

たとえば『おくのほそ道解釈事典』=写真=では、こうした「旅程を中心にして分析する」諸説を①三分法・四分法②円孤説③三角形構図説④前後二部構成説⑤前後対照説⑥一部・二部構成説の六つに整理しています。

ここでは、これら諸説の中から、全体の旅程を懐紙のオモテ(表日本)とウラ(裏日本)に二分し、それぞれの対応をみる平井照敏の「前後二部構成説」を取り上げ、他の説と比較しながら考察してみます。


harutoshura at 03:30|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月02日

『おくのほそ道』メモ⑱ 遊女

「市振」の段では、芭蕉一行は伊勢詣での遊女2人と同じ屋根の下に隣り合わせることになり、翌朝、遊女たちからあとについて行くことを許してほしいと頼まれます。

あちこち寄るところがあることを理由に遊女たちの頼みを断わりますが、その哀れさに芭蕉は心を動かし、「一家に遊女もねたり萩と月」という句を作る、ということになっています。

遊女
*「奥の細道画巻」市振の宿=逸翁美術館所蔵

『おくのほそ道』の中でも、特別になまめかしさと物語性を帯びた一節です。大輪靖宏は、『おくのほそ道』を一巻の連句と見立てた場合に、恋にあたる個所がこの「市振」であるとみています。

曾良の『随行日記』によれば、遊女とのこうしたやり取りは実際はなかったようで、芭蕉の「一家に」の句も曾良の『俳諧書留』に記されてはいません。

つまり本当は、芭蕉が旅をする遊女を見かけたとか、遊女が同じ宿に泊まっているのに気付いたとかいう程度のことらしいのです。

「それをわざわざこのような短編小説的構成にまで仕立て上げているのは、芭蕉がこの市振の項を、恋の場として、『おくのほそ道』の中のひとつのヤマ場にしようとしているからであろう」と大輪は推測しています。

こうして見てきたように、『おくのほそ道』における人物造型や描写には、全体の構成やバランスが配慮されるとともに、能の擬態にもとづく“俳諧”を試みたり、連句的な恋の場面を設定したりといった心憎いばかりの工夫が随所に施されているのです。


harutoshura at 08:00|PermalinkComments(0)松尾芭蕉 

2016年10月01日

『おくのほそ道』メモ⑰ 貞室

仏五左衛門に見られる性格は、尾形仂も指摘するように「宮城野」の段の画工加右衛門や「福井」の段の等栽にも通じるところがあるのでしょう。

有馬に次ぐ名湯ともされる山中温泉の段では、この旅の16年前に世を去った著名な俳諧師「貞室」が、鮮やかな筆さばきで描かれています。

安原貞室(1610~1673)は、京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に出入りし、慶安4年(1651)42歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承応2年(1653)師の貞徳が没するや、政治的手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年貞徳二世を名乗った、とされます。

山中

この段は、珍しく「山中や菊はたおらぬ湯の匂」という発句にはじまり、菊慈童が永遠の若さを保った菊の滴りをもしのぐほどだと誉め讃えてから、宿の「あるじ」が「いまだ小童也」と紹介されています。そして俳諧を好んだこの少年の父の時代のこととして貞室の逸話へと導いていきます。

上野は「貞室の逸話は、この導入における構成のみごとさに負うところが多い。事実を追えばおそらくぎくしゃくしたものになったであろう一話が、この草画風の軽い筆使いを前提としたために、「風雅に辱められて」で必要十分になったのだ。逆に「判詞の料」を受け取らなかったことまでが、わざとらしさのない、一種すがすがしい畸人伝として読まれる」と指摘しています。


harutoshura at 19:30|PermalinkComments(0)松尾芭蕉