2015年08月

2015年08月31日

「早春独白」④

 きょうも「早春独白」の続きを読んでいきます。

   ……雨はすきとほってまっすぐに降り
     雪はしづかに舞ひおりる
     妖(あや)しい春のみぞれです……
みぞれにぬれてつつましやかにあなたが立てば
ひるの電燈は雪ぞらに燃え
ぼんやり曇る窓のこっちで
あなたは赤い捺染ネルの一きれを
エヂプト風にかつぎにします

HIJAB

「みぞれ」(霙)は、雨と雪が混ざって降る現象をいいます。地上気温が0℃以上で、上空1500mで-6℃~-3℃のときに霙として降ってくることが多いそうです。 霙は、気象観測では雪と同じ扱いになります。 

「春のみぞれ」は、春の季語。平井照敏偏『新歳時記』には「つめたい日ではあるが、やはり春で、冬の霙とちがう。ずっと濡れていて、雨になりやすい」として、

  限りなく何か喪ふ春みぞれ(山田みづえ)

などの句があげられています。

「雨はすきとほってまっすぐに降り/雪はしづかに舞ひおりる」と、賢治は雨と雪をそれぞれ並行に見つめながら「春のみぞれ」を捉え、そこに「妖し」さを感じ取っています。

春は、ふわふわっと存在感を放っていた牡丹雪が、いつの間にか雨に変わっているのをしばしば目にします。

「すきとほってまっすぐ」な雨と、「しづかに舞ひ」ながら降りてくる雪。春ならではの、異質な形象の驚くべき“変げ”のさまを、さすがに鋭く観察しています。

「捺染」は、型紙を当てて染料をすり込んで押し染めし、模様を描き出す染色法です。主として木綿の染色に用いられますが、ここでは「ネル」とされています。

ネルはフランネル(flannel)の略で、紡毛糸を用いて平織り、あるいは綾織りにして表面を起毛させた柔らかい織物のこと。コートやズボンなどに用いられます。

「かつぎ」はもともと、身分のある女性などが顔を隠すために用いた衣かつぎのこと。賢治は、外国風のベールや野良仕事で使う頬かぶりも「かつぎ」と呼んでいます。

「エヂプト風にかつぎにします」ということは、イスラム教徒の女性らが顔や体を覆うのに用いるヒジャブ=写真=を思い描けばいいでしょうか。


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2015年08月30日

「早春独白」③

 ひきつづき「早春独白」を読んでいきます。 

山の襞もけぶってならび
堰堤(ダム)もごうごう激してゐた
あの山岨のみぞれのみちを
あなたがひとり走ってきて
この町行きの貨物電車にすがったとき
その木炭(すみ)すごの萱の根は
秋のしぐれのなかのやう
もいちど紅く燃えたのでした

砂防ダム

「山の襞」は、山の尾根と谷が作る凹凸によって、ひだのように見えるところ。

「堰堤」は、漢字読みは「えんてい」ですが「ダム」と読ませています。たぶん、水力発電用などのような大規模なダムではなく、砂防ダム=写真=あるいは砂防堰堤のことなのでしょう。

砂防ダムは、小さな渓流などに設置される土砂災害を防止するための設備。目的が土石流などの防止のため、原則として貯水機能はありません。

提体の上流側に砂礫を堆積させて河川の勾配を緩やかにさせて、その河川の侵食力を小さくするしくみになっています。

日本では、1873(明治6)年に、お雇いのオランダ人土木技師ヨハニス・デ・レーケが来日して砂防ダムの基礎を導入、その後、留学した日本人技術者らによって現在の砂防事業の体系が確立されました。

1897(明治30)年には砂防法が成立し、全国各地に設置されるようになりました。

「山岨」は、山の険しいところ、切り立ったがけのこと。車窓から眺める詩人には、霙が降る険しい道を「あなた」すなわち農婦が「ひとり走ってきて」、町へ行く貨物電車に乗せててくれとすがっているように見えます。

根もとの紅い萱でつくった炭俵が、紅葉が深まる秋のしぐれ時のように「紅く燃えた」というのです。車窓から幻のように映るこの農婦の姿には、逝ってしまったトシの姿が重なっていたのかもしれません。


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2015年08月29日

「早春独白」②

 「早春独白」のつづきを読んでいきます。

   ……青じろい磐のあかりと
     暗んで過ぎるひばのむら……
身丈にちかい木炭(すみ)すごを
地蔵菩薩の龕(がん)かなにかのやうに負ひ

地蔵さん

「……青じろい磐のあかりと/暗んで過ぎるひばのむら……」は、下書稿では「……青じろい凝灰岩(タフ)の反射と/いそがしく顫ふモーター……」となっています。

「磐」は平らで大きな岩のことですが、具体的には「凝灰岩(タフ)」すなわち、火山灰や火山砂が凝固した堆積岩のことでしょう。

賢治の「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」によれば、花巻の西方の丘陵地帯(豊沢川、台川の上流)は、「白色淡灰色淡褐色ヲ呈シ〔略〕粗大ナル流紋岩ノ砕屑ヲ混有」する流紋凝灰岩で形成されている、ということです。

青じろい凝灰岩が、電車の灯りが反射して光っているのでしょうか。一方で、暗くなった「ひば」(アスナロ)の叢をも通り過ぎます。

詩人が車窓から見る農婦は、「身丈」ほどある「木炭すご」すなわち炭俵を背負っています。

「龕」というのは、仏像や経文を置くために壁面や塔内に設けられた小室または屋内に安置するための容器のことをいいます。

石窟寺院のように、壁面をうがち、そこに仏像を置いたものが典型ですが、バーミヤン石窟など、仏像そのものが崖壁から削り出されたケースもあります。

龕から発展して、屋内に仏像安置のための容器が使用されるようになり、これは厨子とも呼ばれます。さらに、携帯できるように、観音開きの扉を備えた小型の龕もあます。

ここでは農婦が炭俵を、「地蔵菩薩」すなわち、お地蔵さんの「龕かなにかのやう」に、重そうに、そして大事そうに背負っているのでしょう。


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2015年08月28日

「早春独白」①

 きょうから「早春独白」です。「痘瘡」や「塩水撰・浸種」と同じ「1924、3、30」の日付があります。

 二五  早春独白

黒髪もぬれ荷縄もぬれて
やうやくあなたが車窓に来れば
ひるの電燈は雪ぞらにつき
窓のガラスはぼんやり湯気に曇ります

炭俵

「独白」は、劇や小説で、登場人物が心の中に思っていることを、相手なしでひとり言うこと、あるいはそのせりふ。単に、ひとりごとを意味することもあります。

下書稿には「根もとの紅い萱でつくったすみすごを/頭帛(かつぎ)もぬれて背ひながら、/あなたが電車に乗れば、」とあります。

「すみすご」は、すみだわら(炭俵)の方言です。わら、葦、萱などを編んで作られます。「頭帛(かつぎ)」は、頭にかぶる布。ここでは野良仕事のときにするほおかぶりでしょうか。

きのうも見ましたが、賢治はこの日、農事講演の打合せのため花巻の南部にある飯豊、笹間、太田の役場をまわったと推定されるようです。

とすれば、賢治は、大沢温泉駅と花巻とを結ぶ豊沢川沿線を走る電車(花巻電鉄)のなか、と考えられそうです。

いずれにしても春のみぞれの中、農婦が、髪をぬらし、担いでいる荷物を縛っている縄もぬらして、駅に駆けつけてきた。車窓から、そんな農婦を見つめているのでしょう。

「ひるの電燈は雪ぞらにつき」というのは、電車内の電灯が「窓のガラス」に写り、車窓の景色と二重になっている光景だと思われます。

そんな二重写しの「窓のガラス」が、「ぼんやり湯気に曇」っているというのです。なんとなく幻想的なものが感じられてきます。


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2015年08月27日

「痘瘡」

 きょうは「痘瘡」を読みます。4行の短い作品です。「塩水撰・浸種」と同じ「1924、3、30」の日付があります。

  二一 痘瘡

日脚の急に伸びるころ
かきねのひばの冴えるころは
こゝらの乳いろの春のなかに
奇怪な紅教が流行する

チベット仏教

新校本全集によると、この日(1924、3、30)は日曜日で、賢治は農事講演の打合せのため飯豊、笹間、太田の役場をまわったと推定されるそうです。「つば広の帽子、カーキ色の作業服、ゴムのだるま靴、左肩を斜に上げて右腕を大きく振って残雪を踏み歩く」とあります。

「痘瘡」(とうそう)は、天然痘、疱瘡ともいわれるウイルス感染症。高熱と、全身の皮膚や粘膜にたくさんの水疱性発疹ができて、紀元前から人類史上最も致命率の高い感染症として恐れられてきました。

エドワード・ジェンナーが1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失。WHO(世界保健機関)は1977年、アフリカのソマリアの病人を最後に痘瘡の撲滅宣言が出されました。

それでも、20世紀だけでも2~3億人が死亡したとされています。賢治の時代にはまだまだ、恐い病いだったのでしょう。

「ひば」はヒノキ科の常緑高木。一般に「あすはヒノキになろう」のアスナロと呼ばれます。幹は直立して分岐し10~30mほどの高さになります。樹形は錐形で、樹皮は灰褐色で薄く縦に剥がれます。

小枝を互生的羽状に出し、葉は対生で1つ1つの形は鱗片状。厚質で長さは 5~6mmほど。葉の表面は濃緑色で光沢があり、葉裏は白い。日脚が伸びて、葉の光沢にもいっそう「冴え」が感じられるのでしょう。

「紅教」は、チベット仏教=写真、wiki=の旧派を指します。新教派の黄教に対し、従来からのニンマ(古)派などの保守的な諸宗派のことで、紅衣や紅帽を着用していたことからこう呼ばれるそうです。

「奇怪な紅教」とは『語彙辞典』には、「性欲や生殖を暗示するかと思われる。または、疱瘡や麻疹の患者に昔は赤の衣類を用いたことからの連想であろう」としたうえで、ことわざにも「赤い物を使えば疱瘡軽し」とあるように、発疹を抑えるのにより強力な真紅色が効果的と考えられていた、とあります。

とはいえ、「痘瘡」と 「紅教」がどう結びつくのか、連想されるのか。私はまだきちんと消化するところまでは行けずにいます。


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2015年08月26日

「塩水撰・浸種」⑦

 きょうは「塩水撰・浸種」の最後の部分です。

今日を彼岸の了りの日
雪消の水に種籾をひたし
玉麩を買って羹をつくる
こゝらの古い風習である

 玉フ

「彼岸」(ひがん)は、春分、秋分を中日として前後3日を合わせた、それぞれ7日間をいいます。この期間に行う仏事を彼岸会と呼びます。

仏教の行事の多くはインドや中国から伝わったものですが、春と秋の彼岸会は、日本独特の朝廷の仏教行事として1000年余り前に始まり、江戸時代には宗派を超えて民衆の間に広まったそうです。

春の彼岸のころは、東北も厳しかった寒さが緩み、芽吹き、新緑と花の季節の到来を感じます。農繁期を避け、仏事を修する日本人らしい慣習です。

日蓮聖人は『彼岸抄』で、「それ彼岸とは春秋の時節の七日、信男信女ありて、もし彼の衆善を修して小行をつとむれば、生死の此岸より苦界の蒼波をしのぎ、菩提の彼岸に至る時節なり。故にこの七日を彼岸となづく。この七日のうちに一善の小行を修せば、必ず佛果菩提を得べし。余の時節に日月を運び功労を尽くすよりは、彼岸一日の小善は、よく大菩提に至るなり。誰人かこの時節を知りて小善を修せざらん」としているとか。

彼岸のあいだは善行、悪行ともに過大な果報を生ずる特別な期間だから、悪事を止め善事に精進するよう勧めているそうです。

「種籾」は、種として苗代にまくために選んでとっておくモミのこと。

「麩」は、小麦粉を原料とする加工食品。日本には室町時代初期に禅僧が中国からもたらしたそうです。小麦粉に 80%ほどの水と少量の食塩を加えてよく練ると粘りが出てくる。これに水を加えながらもむとデンプンや水溶性成分が流れ出て、粘りの強い小麦蛋白質 (グルテン) が残ります。これが麩の原料。

原料を焼いた焼麩の一つに、ここに出てくる小さい球状の「玉麩」をはじめ、棒状に焼いた棒麩、板状の板麩(庄内麩)、棒に巻き付けて焼いた車麩などがあります。

「羹」(あつもの)は、「羹に懲りて膾を吹く」(屈原)というように、熱物の意。魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物のことです。

「雪消の水に種籾をひたし/玉麩を買って羹をつくる」という「こゝらの古い風習」。いかにも彼岸らしい、季節感に富んだ清々しさ、温かさが感じられます。


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2015年08月25日

「塩水撰・浸種」⑥

 きょうも「塩水撰・浸種」のつづきを読みます。

みちはやはらかな湯気をあげ
白い割木の束をつんで
次から次と町へ行く馬のあしなみはひかり
その一つの馬の列について来た黄いろな二ひきの犬は
尾をふさふさした大きなスナップ兄弟で
ここらの犬と、
はげしく走って好意を交はす

馬搬

きのう読んだところに「乾田の雪はたいてい消えて」、「すずめのてっぱうも/空気といっしょにちらちら萌える」とありました。3月末、東北でもようやく雪が消えつつあり、空気も萌えるような感じになってきたのでしょう。

「湯気」は、ヤカンを沸騰させたときのように、水蒸気が空中に漂い、目視できるようになったもの。水が気化した水蒸気自体は透明で目に見えませんが、冷えて生まれた小さな水滴が白く見えます。

雪が融けた農村の道が「やはらかな湯気をあげ」ている。長い冬を通り越した東北にやってきた春を実感することができます。

「割木」は、細く割った木、たきぎのこと。

馬と人が山から木材を運ぶ作業は「馬搬(ばはん)」=写真、林野庁のhpから=と呼ばれ、岩手県をはじめ、かつては全国各地で見られました。遠野では、いまも馬搬をする馬方さんがいらっしゃるそうです。

山から切り倒した木材や間伐材を馬が引くそりにつけて運び出します。むかしは、馬が運び出した木で家を建てるのも当たり前だったとか。

馬搬が盛んだった賢治の時代には、木を積んだたくさんの馬の列を見かけることもよくあったのでしょう。そんな「馬のあしなみ」が光り輝いています。

研究社の新英和中辞典によれば、

The dog snapped up the piece of meat.(犬はその肉片に食いついた)

The shark snapped the man's leg off. (サメがその男の足を食いちぎった)

などと、「snap」には、「〈…を〉パクリとかむ、かみつく」あるいは「〈…を〉パクリとかみ取る、食い切る」といった意味もあります。賢治独特のウィットを効かせて、「黄いろな二ひきの犬」に「スナップ」という名を付けたのでしょう。

馬について来た「スナップ兄弟」が地元の犬たちとじゃれつきます。犬とは「やっぱりしょうが合わない」(「丘陵地を過ぎる」)という賢治ですが、ここではそんな犬たちに興味を寄せています。


harutoshura at 17:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月24日

「塩水撰・浸種」⑤

 きょうも引きつづき、「塩水撰・浸種」を読んでいきます。

高常水車の西側から
くるみのならんだ崖のした
地蔵堂の巨きな杉まで
乾田(カタタ)の雪はたいてい消えて
青いすずめのてっぱうも
空気といっしょにちらちら萌える

雀の鉄砲
 
田植え前の東北らしい水田の様子が、目に浮かんできます。

精米など、農村における穀物調整や加工用として活躍した「水車」は、明治期以後増え続け、この作品が作られた大正末期から昭和初期にかけて全盛期を迎えます。

日本の水車の最初の記録は「日本書記」にさかのぼるそうです。水車による米搗きは江戸・享保期のころから見られ、1700年代の中ごろには全国に普及していたようです。

「高常」とは、水車を所有している商店か何かでしょうか。いずれにしても日本で水車といえば、水に恵まれた農村地帯の精米製粉用水車がイメージされます。

「くるみ」は山野の川沿いに生えるクルミ科の落葉高木。樹高は8~20メートルほど。5月から6月にかけて開花し、その後に直径3cm程度の仮果と呼ばれる実を付けます。

仮果の中に核果があり、内側の種子を食用にします。日本に自生しているくるみの大半は、核がゴツゴツとして硬いオニグルミです。

「乾田」は、水を入れないときは田面が乾燥して、畑作ができる水田をいいます。

水田は乾燥度によって深田、湿田、乾田に分けられますが、二毛作が可能なのは乾田だけ。酸素が十分に補給されるので、作物はよく育ちます。

「すずめのてっぱう」=写真、wiki=は、イネ科に属する小型の草本植物。田植え前の春の水田によく、細くて真っすぐな穂を一面に出して群生しています。

草丈は20~40 cmほど。地下茎はなく、根元で多少枝分かれした茎は、少し横にはって立ち上がります。関節は少し膨らみ、葉は細長くて縁は少し波打っています。

春、緑の小花を密生させる3~8cm の棒状の花穂をつけます。花穂を抜き取ると草笛になるので、ピーピー草とも呼ばれます。名前の「スズメの鉄砲」は、穂が真っすぐなところを鉄砲に見立てたものと言われます。


harutoshura at 17:55|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月23日

「塩水撰・浸種」④

 きょうもゆっくり「塩水撰・浸種」のつづきを読みます。

湿田(ヒドロ)の方には
朝の氷の骸晶が
まだ融けないでのこってゐても

湿田

「湿田」=写真=は、低湿な平野部でいつも湛水している水田をいいます。ふつうは一毛作で、裏作をするには高畝の必要があります。

酸素が十分に供給されないので作物の生育には悪く、農作業もしずらく、機械化も困難です。

「ひどろ」は、水たまりや溝などの、濁ったところのこと。排水が悪くて水が引かない泥田、湿田のことを「ひどろだ」と北日本各地でいうそうです。 

「骸晶」は、結晶の隅および稜の部分のみが急速に成長して,結晶面の中央部の成長が遅れたために面が形成されず,その結果凹んだ不完全な面に囲まれた結晶の形状をいう.

不完全な結晶の形で特定の方向のみに成長するか,または平行連晶の集まった形となるもので,枝分れした中空の形や燕尾服のような形を示すことがある

氷の結晶からなる雪は、その成長過程における、気温や湿度など大気中の環境条件によって、その形が大きく変わることが知られています。

だいたい、気温が0から-3 ℃付近では「角板」状、-3 から-10 ℃付近では湿度が低いと「角柱」、中程度では角柱が中空になった「骸晶角柱」、高いと「針」や針が中空になった「鞘」。

-10 から-22 ℃付近では、湿度が低い方から順に「厚角板」「骸晶厚角板」「角板」「扇形」、-22 ℃以下では湿度が低い方から「角柱」「骸晶角柱」「鞘」になるとか。

「湿田の方」で「骸晶」が見られるということは、3月末としてはかなり冷え込んだ「朝」だったのでしょう。

それが「まだ融けないでのこってゐて」というのですから、昼くらいになってもまだ気温が低い状態が続いているようです。


harutoshura at 15:22|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月22日

「塩水撰・浸種」③

 きょうも「塩水撰・浸種」のつづきです。

かすかにりんごのにほひもする
笊に顔を寄せて見れば
もう水も切れ俵にうつす
日ざしのなかの一三二号
青ぞらに電線は伸び、
赤楊はあちこちガラスの巨きな籠を盛る、
山の尖りも氷の稜も
あんまり淡くけむってゐて
まるで光と香ばかりでできてるやう

ハンノキ

「にほひ」は、草花はもちろん、樹木や果物、空、雲、風、山、薬品、ガラスにいたるまで、賢治作品にはあちこち、にぎやかに登場します。

「りんご」も、色彩や味覚の表現以上に「にほい」の表現が目立つように思われます。「りんごのにほひ」が少年や乳児を暗示することもあります。

「塩水撰」も終わり、水を切って「もう水も切れ俵にうつ」します。

「赤楊」=写真、wiki=は、ハンノキのこと。カバノキ科ハンノキ属の落葉高木で、山野の低地や湿地、沼に自生します。湿地に適するので畦などに植えて稲架木として利用することもあります。

樹高は15mから20mで、湿原のような過湿地で森林を形成する数少ない樹木です。褐色の雄花は尾状にたれさがり、褐色で球状の雌花は雄花の花序の下の葉腋に数個つきます。

2月から3月に開花しますが、花そのものはあまり目立ちません。雄花穂は黒褐色の円柱形で尾状に垂れ、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び、雄花穂の下につけます。

賢治は「ガラス」を、光るものや透明なものの喩えによく使います。黒褐色の雄花穂や紅紫色の雌花穂を垂らしたハンノキがあちこちで「巨きな籠を盛る」ような形をして光り輝いて見えるのでしょう。

3月末だとまだまだ、岩手山をはじめ山々は、雪氷の稜線を連ねています。そうした稜線や頂が、陸羽132号の「塩水撰」の作業や「巨きな籠を盛」った「赤楊」の背後で「淡くけむってゐ」るのです。

「まるで光と香ばかりでできてるやう」なキラキラした輝きに「りんごのにほひ」も添えられた光景が、絶妙な筆致で描かれています。


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2015年08月21日

「塩水撰・浸種」②

 「塩水撰・浸種」のつづきを読んでいきます。

陸羽一三二号
これを最後に水を切れば
穎果の尖が赤褐色で
うるうるとして水にぬれ
一つぶづつが苔か何かの花のやう

陸羽

「陸羽一三二号」=写真=は、1922(大正10)年に農事試験場陸羽支場で育成された、日本の人工交配品種のさきがけとなったイネの品種です。

陸羽132号の親は、冷害に強い「陸羽20号」と良食味の「亀ノ尾」。東北各地に冷害が頻発していた当時、これらの長所を活かそうというのが交配のねらいでした。

それまでの在来品種に比べて病害虫や冷害に強く、反当たりの収穫量も多く、新品種として国も作付けを奨励しました。

コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれなど、現代の花形品種も、このイネの優れた遺伝子を受け継いでいます。

陸羽132号がとりわけ真価を発揮したのは、昭和期初めの大冷害のときでした。賢治はこのころ「君が自分でかんがへた/あの田もすつかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行つた/肥えも少しもむらながないし/いかにも強く育つている」(「稲作挿話」)という作品を作っています。

「穎果」(えいか)はイネ科植物に見られる果実。乾燥した果皮と密着して一体化し、ふつうは種子のように見えます。

穎果の外側をさらに外穎と内穎、さらには籾殻がつつんでいます。穎果を穀物として食べるとき、外側のこれらの構造がじゃまになります。そのため多くの穀物で籾摺りと精白が行われます。これは籾殻や、一体化した果皮と種皮の除去を目的とするものです。

「塩水撰が済んでもういちど水を張」って「最後に水を切」ったときの様子が「穎果の尖が赤褐色で/うるうるとして水にぬれ/一つぶづつが苔か何かの花のやう」と写実的に見事に描かれています。


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2015年08月20日

「塩水撰・浸種」①

 きょうから「塩水撰・浸種」に入ります。「1924、3、30」の日付があります。次のような1行からはじまります。

塩水撰が済んでもういちど水を張る

塩水

「塩水選」=写真=は、稲や麦の播種に先立って、良好な生育の望める種子を選別する選種法です。

種子を一定の濃度の食塩水に入れて、浮いたものを取り除き、沈んだものを種子として採用し、比重の大きな実入りのいい種子を選び出します。

まず、濃厚な食塩水を水槽に入れます。これをコップなどに取って一握の種子を入れ、もし沈むものがなければ槽内に水を加えて薄めるなど調整します。

こうして少量の種子が沈んだら、ザルを沈んだ種子の上に置いて水を少しずつ入れていけば、ある比重に達すると一度に多量の種子が沈むようになります。

ここで選別を終え、大半の種子が沈んだ後もなお水面に浮かぶ種子を取り除いてザルを引き上げれば種子を選別できます。種子全体の半分から3分の2がザルに残るのが普通のようです。

「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という言葉で知られる農学者、横井時敬(1860-1927)が創案、1891年(明治24年)に『重要作物塩水撰種法』を著しています。

「浸種」は、種子などを水に浸すこと。種に水を吸わせて発芽に必要な水分をあたえ発芽をそろえるのがねらいで、ふつう、種の重さが25%くらい増えるまで水を吸わせます。

水に浸す日数は水温と関係し、平均水温が10度なら12日間、15度なら8日間というように、平均水温を足して120度(積算水温)になる日数がだいたいの目安になります。

均一に水を吸わせないと発芽が不ぞろいになるため、種袋を水の中で上下に揺らしたりして水の吸収を助けます。


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2015年08月19日

「晴天恣意」⑧

 きょうは「晴天恣意」の最後の部分です。

アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉(ドア)を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです

連星
 
「アンドロメダの連星」とは、アンドロメダ座の2等星、γ星アルマク(Almach)=写真、国立天文台のhpから=のことのようです。天体望遠鏡を使うと、美しい「連星」として見ることができます。

太陽系から200光年、アンドロメダの左足にあたるところにあります。主星から10秒離れたところに5等星の伴星が輝き、主星はオレンジ色、伴星は青緑色で美しい対比をなしています。

アルマクは、アラビア語でヤマネコの一種である“カラカル”を意味するアナーク・アル=アルドが縮んだアル=アナークに由来すると考えられているそうです。

下書稿では、「わたくしの夏の恋人、あの連星もしづかに過ぎると思はれる」となっています。賢治もひときわ好んだ星なのでしょう。

「碧瑠璃」は青色の瑠璃または、その色のこと。「碧瑠璃をたたえた湖」などと、青々と澄みとおった水や空の喩えとして使われます。

「排して」とは、ここでは、押し開く、押しのけるといった意味でしょう。「くしゃくしゃの」は、整っていない、雑然としているさま。

野外で、美しい「碧瑠璃の天」を眺めて、いまやすっきり「わたくしのまなこも冴え」かえります。そんなところから、わけのわからない数字が雑然と並んでいる水沢緯度観測所の部屋のなかへとまた入っていく。

「碧瑠璃の天」と「くしゃくしゃの数字」の対照が、それが詩人の気持ちとも重なって、目に浮かぶようです。


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2015年08月18日

「晴天恣意」⑦

 きょうも「晴天恣意」のつづきです。

さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り

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「雲量計」は、文字通りに読めば空の中での雲の覆う割合を計測する器機ということのようです。

パリのモンスリー気象台のベッソンが考案した「櫛型測雲計」のこと、という説もあるとか。賢治が訪ねたころの水沢緯度観測所の天頂儀室の外に、これが仕掛けられていたそうです。

ベッソン型は、高さ3mほどの支柱の柱頭に、水平な腕木が7本渡され、腕木は柱頭を中心に回転できるようになっていて、腕木には釘歯状の突起が等間隔に植えられています。 

雲がちょうど腕木の中央の釘歯ごしに見える位置に観測者の眼を置き、腕木を回転させて雲の進行方向に一致させ、その釘歯から隣の釘歯まで雲が移動するのに要した時間を計る。

要するに、櫛型の7本の棒を雲の通路と平行にすることで、雲の移動方向や速度を測るというわけです。

「ひるの十四の星」は、賢治の想像上のイメージと考えられています。下書稿には「さて天頂儀の蜘蛛線を/ひるの十四の星も截り、」とあります。

「天頂儀」は天頂付近で南中する恒星を観測するための機器。木村榮記念館(国立天文台・水沢)のサイトに「浮遊天頂儀座標測定器」=写真=がありました。

天頂の南北で子午線をほぼ同時に通過する一対の恒星の天頂距離差をメイクロメーターで測定することで、観測地の緯度を測定します。このマイクロメーターの接眼部には蜘蛛線が何本か張ってあります。

『語彙辞典』には、「草下英明によると当時国際規約で、一晩に16個の星が観測されていたから、あるいは賢治はそれらのことをうろ覚えのまま詩に使ったのであろうか。

〈ひる〉とあるのは、秋の夜空に輝く星は、ちょうど反対の3月には昼の空の彼方にあるため、賢治はそこにあるはずだと、想像して書いたものか」とされています。


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2015年08月17日

「晴天恣意」⑥

 「晴天恣意」のつづきです。

もしも誰かがその樹を伐り
あるいは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧(お)し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます

アヤメ

「塚」は「築 (つ) く」から生まれたといわれる言葉で、高く築いたところをさし、人工的に土を丘状に盛った場所をいいます。畏怖の対象になったり、神聖視されることがよくあります。

古来、平地よりも一段高くなったところを神聖視する考えがありました。塚は、その場所が墓所だったとか、かつて祭場、祭壇だっとも考えられます。

「イリス」=写真、wiki=は、アヤメ、ノハナショウブ、カキツバタなどアヤメ属の学名(Iris)です。多年草で、地下に球茎・根茎があり、葉は剣形でふつう根生し、茎に跨状に互生します。

花を総状につけ、外花被片と内花被片が3個ずつ。外花被片は大型で先が広がり下に垂れ、内花被片は小型で直立します。世界の温帯に約150種、日本では9種が知られ、うち7種が自生しているとか。

「玉髄」(カルセドニー)は、非常に細かい石英の結晶が網目状に集まって緻密に固まった鉱物の変種。しばしばブドウ状の外観を呈し、美しいものは宝石として扱われます。

石器時代には石器の素材として珍重され、江戸時代には火打石としても用いられました。賢治は、若いころから玉髄に親しみ、この詩のように特に雲の喩えによく用いています。

「八雲」(やくも)は、幾重にも重なりあった雲。スサノオが詠んだ「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を(古事記)」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされます。

「夢幻」は、ゆめとまぼろし。また「夢幻のこの世」などと、はかないことの喩えに使われます。

「樹を伐」ったり「塚をはたけにひら」いたり、「あんまりひどくイリスの花をと」ったりすると、「八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ」る。

そして、「そらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になる」、いわば地獄へ堕ちると「ひとびとはいまも信じて恐れます」というのです。


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2015年08月16日

「晴天恣意」⑤

 「晴天恣意」のつづきを読んでいきます。

もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でもありますので

緯度観測所

この詩の第1形態は、赤罫詩稿用紙1枚の表裏の罫を用いて、鉛筆できれいに書かれたもので、タイトルには「晴天恣意」に添えて、「(水沢緯度観測所にて)」とあります。

「水沢緯度観測所」=写真=は、1899(明治32)年に、現在の岩手県奥州市水沢区の、北緯 39度8分の線上に設けられた、世界6カ所の一つ。当初は臨時緯度観測所という名称でしたが、1920年に緯度観測所へと組織変更になっています。

初代所長の木村栄は1902年、緯度の変化から極運動を計算するのに、自転軸の傾きに関する式に加えて観測所ごとに経年変化する「Z項」を加えて計算すると精度が向上するという、世界的な発見をしました。

賢治はこの観測所に非常に大きな興味を抱き、たびたび訪れていました。『風野又三郎』には、水沢の緯度観測所でテニスに興じる「木村博士」も登場します。

「空輪」の「空」はサンスクリット語の「アーカーシャ」の訳で、虚空とも訳されます。「五輪峠」の下書き稿には、次のようにあります。

「五輪は地水火風空/空といふのは総括だとさ/まあ真空でいゝだろう/火はエネルギー/地はまあ固体元素/水は液態元素/風は気態元素と考へるかな/世界もわれわれもこれだといふのさ/心といふのもこれだといふ/いまだって変らないさな」

「真空」とは、「空」、虚空と同じような感じでとらえていたのでしょう。「秘奥は更に二義あって」の「二義」とはどういうものかは分かりませんが、「五輪の塔」を、そうした「名もはゞかるべき/高貴の塔」だとしています。

空を真空、「火はエネルギー/地はまあ固体元素/水は液態元素/風は気態元素と考へるかな」などと、仏教と科学とを対応させて考えている賢治にとって、「五輪の塔」と「緯度観測所」も何らかのかたちで結びついているのでしょう。


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2015年08月15日

「晴天恣意」④

 「晴天恣意」のつづき、読点で区切られた行がつづきます。

石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗班糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん

arrhenius

「花崗班糲」(かこうはんれい)岩は、深成岩の一種で、正長石を含む石英斑糲岩。花崗閃緑岩に似た岩石ですが、塩基性斜長石を含む点が異なり、有色鉱物は輝石、角閃石または黒雲母となっています。

「アレニウス」(写真、nobelprize.orgから)はスウェーデンの科学者のSvante August Arrhenius(1859–1927)。物理化学の創始者の1人で、1903年に電解質の解離の理論に関する業績でノーベル化学賞を受けています。

自身の化学の理論が一般に受け入れられるようになると、化学の理論を用いて生理学の問題を研究するなど他の分野に興味を移していきます。

地質や天文、現代宇宙論、天体物理学などを手がけ、恒星間の衝突によって太陽系が生まれたとする説を提唱したり、彗星の尾、太陽のコロナ、オーロラ、黄道光を放射圧で説明したりもしています。

大正期には、『宇宙開闢論史』(一戸直蔵・小川清彦訳、大倉書店、1912年)、『宇宙発展論』(一戸直蔵訳、大倉書店、1914年)、『最近の宇宙観』(一戸直蔵訳、大鐙閣、1920年)など、アレニウスの著書が次々に翻訳され、日本の天文学界にも大きな影響を与えました。

『宇宙発展論』には、「グスコーブドリの伝記」の中の、放電によって窒素肥料を降らせる方法や噴火によって大気温を上げる方法のもとになった部分があり、『最近の宇宙観』には、「銀河鉄道の夜」の午后の授業に出てくる、牛乳と脂油による天の川のたとえ話のヒントになった箇所があるとされます。

「白くまばゆい光と熱、/電、磁、その他の勢力は/アレニウスをば俟たずして/たれか火輪をうたがはん」といった記述は、アレニウスが主張した大気の帯電現象に関する電導説が下敷きになっているようです。

宇宙を構成しているとする地、水、火、風、空の五つの要素を、仏教では、五大、あるいは五輪と呼び、先日見たように、この考えに基づく「塔婆」として五輪塔がつくられます。

そんな五輪の中に、「地輪」、「水風輪」、「火輪」もあります。

「地輪」は、大地や地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質のこと。「水輪」は、流体や無定形のもの、流動的な性質を、「風輪」は、成長、拡大、自由を表します。

「火輪」はふつう、力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表します。賢治は、光、熱、電気、磁気、その他、科学的に解明されつつある大気圏のエネルギーを「火輪」として捉えようとしています。


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2015年08月14日

「晴天恣意」③

 「晴天恣意」のつづきです。

あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち

水平線

「天末」は天際、天末線、スカイラインのことです。ふつうは、地面と空との境界を地平線、海と空の境を水平線と呼んでいます。

賢治は、「天末の青らむ」あたりなどの、空の透明な青さを、清浄さの極致としてこよなく愛していました。それを表すにはやはり、「地平」ではなく「天末」という言葉がぴったりだったのでしょう。

地球は球体なので、地球の半径と同じ半径をもつ円弧となります。水面に立つ観察者からみた水平線=写真、wiki=までの距離は5kmくらいと、案外近いところにあります。観察者が高ところへ行くほど水平線は遠くなります。

「きらゝ」は、雲母(うんも)のこと。変成岩、酸性火成岩などに普通に含まれるケイ酸塩鉱物の総称です。電気関係ではマイカと呼ばれることもあります。

多くは六角板状の結晶で産し、何枚にも薄くはがれるのが特徴です。ガラス状の光沢をもち、きらきら輝いて見えるのでキララ、キラの呼称もあります。

日本画の技法では、雲母を粉末にしたものをキラとよび、キラを顔料と混ぜて光沢を持たせた絵の具として彩色に用いられます。

ガラス状の光沢をもち、薄くはがれそうに繊細な雪氷のエリアを、「きらゝに氷と雪とを鎧ひ」と、真に絶妙に表現しています。

「石塚」とは、積石塚を連想すればいいのでしょうか。石を積み上げて墳丘を構築する古墳を、積石塚あるいは石塚とよびます。ケルンともいい、世界各地に分布します。

「白く巨きな仏頂体」であり「大塔婆」である「積雲」の空から視線を下げてくると、「きらゝに氷と雪とを鎧」った「天末の青らむま下」に、森や「樹」、人間の営みも感じられる「石塚」も並ぶ。なんとも雄大な眺望です。


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2015年08月13日

「晴天恣意」②

 「晴天恣意」のきのうの続きを読んでいきます。

とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です

仏塔

「塔婆」=写真、wiki=は、仏の遺骨や遺髪などを埋めた上につくった建造物。梵語の「ストゥーパ」の音訳で、卒塔婆ともいわれます。前の作品に出て来た五輪塔をはじめ、三重塔、五重塔、多宝塔などがあります。

もともとは釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚のことをいいましたが、仏教が各地へ広まるとストゥーパが建てられ、仏舎利を祀るようになりました。

さらに、ストゥーパが増えて仏舎利が不足してくると、宝石、経文、高僧の遺骨などが仏舎利とみなされるようになります。

古代インドで貴人は、頭上に傘蓋(さんがい)をかざして歩いていました。傘蓋は尊貴のシンボルとされ、それが幾重にも重なり、供養のための楼閣、塔となっていきました。

塔の「いたゞき」につけられる相輪は、原初的な仏塔にある傘蓋が発展したものと言われています。

また、ストゥーパの形を模して作られた木製の長い板、板塔婆のことをいう場合もあります。亡くなった人のために板塔婆を立てることを卒塔婆供養と言い、法要ごとに新しい卒塔婆に変えていきます。

尺は、東アジアでひろく使用されている尺貫法の長さの単位。日本では、1尺=(10/33)メートル = 約303.030 mm(曲尺の場合)、鯨尺では曲尺の1.25倍とされ、中国では、1尺=(1/3)メートル(約333.333mm)と定義されています。

人体の尺骨が、この尺とほぼ同じの長さであることに由来するそうです。また「尺」という文字は親指と人差指を広げた形をかたどったもので、もともと手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺でもありました。

「八千尺」を単純に計算すると、2424メートル。アルプス一万尺とも言われますが、岩手県最高峰の岩手山の標高は2038メートル。見ている「積雲」について「再考すれば」、岩手山よりも高い「大塔婆」だ、というのです。

「厳浄」は、おごそかで汚れのないこと、戒律などを正しく守ること。それに「光」を冠したのは賢治の造語のようです。

「塔婆」に見立てた「積雲」がそびえ立つ、青空に光を浴びている荘厳な様子を「光厳浄」と表現したのでしょう。


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2015年08月12日

「晴天恣意」①

 きょうから「晴天恣意」です。「人首町」と同じ「1924、3、25」の日付があります。

 一九  晴天恣意

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です

積雲

「恣意」は、自分の思うままに振る舞う心、気ままな考え。「晴天恣意」というタイトルについて『語彙辞典』には、「うららかな晴天にいざなわれて、想像力が自在に展開してゆく詩の内実にふさわしい題名である」とされています。

「蒼穹」(そうきゅう)は、大空のこと。古代から中世まで、天はドーム状と考えられていました。むかしの人たちは、天のドームの穴から、外の世界の光がもれてくるのが星だと考えていました。

「仏頂」は、仏教、特に密教で信仰される仏の一種で、如来の肉髻(頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したものをいいます。

頭頂部には神秘的な特別の力が宿るとされ、これが仏頂尊です。如来の優れた頭脳、人々を救済する知性を神格化したものともされます。

一般的に、仏頂尊は装身具を身に纏った菩薩と同じような姿で表され、「転輪聖王のごとし」とも言われます。ただし菩薩などと違って、肉髻の上に更に髪を結い上げた「重髻」をしています。

無愛想な顔、不機嫌な顔をいう“仏頂面”は、仏頂尊の恐ろしい面相にたとえた、ともいわれます。この詩では「仏頂体」として、「積雲」の形を仏頂に見立てています。

「散乱」は科学的には、光やX線などがいろんな微粒子に当たって方向を変え、散らばることをいいますが、仏教的に、凡人の心が対象によって散乱して一所に定心しないことを意味するそうです。

「積雲」=写真、wiki=は、晴れた日によく発生する綿のような形をした雲をいいます。綿菓子にも喩えられ、綿雲とも呼ばれます。

上に向かって成長し上部はモコモコ形がよく変わりますが、雲底は平たくほとんど成長しません。雲粒の密度が高く、日光が当たったとき明暗がくっきりと表れるのも特徴です。

主に、日射で地表や水上の空気が暖められることによる上昇気流で発生します。午後に発生してむくむくと成長していき、夕方には消えてしまうことがよくあります。


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2015年08月11日

「人首町」③

 きょうは「人首町」の最後の部分です。

つめたい風の合間から
ひばりの声も聞えてくるし
やどり木のまりには艸いろのもあって
その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある

ヤドリギ

スズメ目ヒバリ科の「ひばり」は、野原や河川敷から、さえずりながら空高く舞い上がり、春を告げる鳥としてよく知られています。

全長17cm。羽は土色で保護色。頭には小さな冠羽があります。空中のほかに、牧柵、石の上など周りより少し高い場所に止まって、よくさえずります。

ヨーロッパでヒバリは、夜の愛をうたうナイチンゲールと対をなす、朝を象徴する鳥。その歌声は清浄な愛をあらわすとされています。

賢治作品には「ひばりじゅうじゅくじゅうじゅく鳴らす」(詩「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」)など、ヒバリのユニークな鳴き声があちこちに登場します。

「やどり木」=写真、wiki=は、ヨーロッパと西部・南部アジア原産の、ケヤキ、ブナ、クリ、ミズナラなど他の樹木の枝の上に生育する半寄生の灌木。茎はいくつかに分かれ、黄色みを帯びた緑色の厚い葉をつけます。

早春、淡黄色の小花をつけ、球形で黄緑色の実を結びます。これをついばんだ鳥のくちばしや羽に種が付いて他の木に運ばれます。

賢治の作品には、栗の木についたやどり木などがよく出てきます。やどり木は大きくなると直径50、60cmのこんもりとした球状になります。これを「やどり木のまり」と呼んでいるのでしょう。

「艸」は、屮+屮の会意文字で、草のことです。


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2015年08月10日

「人首町」②

 「人首町」のつづきを読んでいきます。

五輪峠のいたゞきで
鉛の雲が湧きまた翔け
南につゞく種山ヶ原のなだらは
渦巻くひかりの霧でいっぱい

種山

「鉛」は、人類の文明とともに広く使われてきた代表的な重金属。錆で覆われた表面は鉛色と呼ばれる青灰色となります。

比較的錆びやすく、すぐに黒ずみますが、酸化とともに表面に酸化皮膜が形成されるため、腐食が内部に進みにくい性質があります。

鉛は軟らかい金属で紙などに擦り付けると文字が書けるので、古代ローマ人は羊皮紙に鉛で線および文字を書き、これが鉛筆の名称の起源となったそうです。

西洋占星術や錬金術では、土星を象徴しています。錆を生じて黒く重い鉛が、肉眼で確認できる惑星のなかで、最も暗く、動きの遅い土星と似ていると考えられたからだそうです。

また鉛は、魂の牢獄としての肉体、老化、鈍さなども象徴します。「鉛の雲」という比喩からは、鉛のこうしたさまざまな性質や考え方がイメージされてきます。

「翔(か)け」るというのは、鳥や飛行機などが空高く飛ぶ、飛翔すること。

「種山ヶ原」=写真、wiki=は、北上山地南西部に広がる隆起準平原。奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とした標高600-870メートルの高原地帯です。

賢治がこよなく愛した高原として知られ、種山ヶ原の風景や気象をテーマに、名作の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』をはじめ多くの詩や短歌を残しました。

浄福な天上により近い高原であるとともに、ダイナミックに変化する天候や風、雲の変幻自在な一大空間は、彼の心象風景に呼応していたともいわれています。

「なだら」は、傾斜がゆるいさま、平らなさまのことをいいます。


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2015年08月09日

「人首町」①

 きょうから「人首町」を読みます。「丘陵地を過ぎる」の翌日「1924、3、25」の日付がある12行の短い作品です。

 一八 人首町

雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
あさましいまで光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い五輪峠

人首町

「人首(ひとかべ)町」=写真=は、かつての江刺市人首町。江刺市は2006(平成18年)年2月、水沢市、胆沢郡胆沢町、前沢町、衣川村と合併して奥州市となっため、現在は奥州市に属しています。

南北朝時代以来、人首氏が領主だった地。もともと、坂上田村麻呂が討伐した悪路王の子で、評判の美青年だったとされる人首丸にちなんでいるといわれています。

人首丸は、悪路王が討たれてからも、川をさかのぼって種山に近い大森山に要塞を築いて立てこもったものの、政府軍の田村阿波守兼光によって首を取られてしまいます。

人首町は盛街道の要所で、1922(大正11)年に水沢と盛の間に乗合自動車が運行されるようになりました。種山ヶ原や五輪峠にも近く、賢治はしばしば訪れていたようです。

水沢から人首、種山ヶ原を越えて気仙郡に入り、世田米から白石峠を越えて盛(大船渡市)へとつながる盛街道は、三陸沿岸地方と内陸部の交易に大きな役割を果たしました。

「丘のはざま」の一本道である盛街道に沿って開かれた人首町を「いっぽん町」と呼んでいるのでしょう。

「あさましいまで」というのは、はなはだしく、ひどく、といった意味。「のっそり白い五輪峠」をバックに、街道沿いの伝説の町がくっきりと映し出されます。


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2015年08月08日

「丘陵地を過ぎる」⑥

 きょうは「丘陵地を過ぎる」の最後の部分です。

ははあきみは日本犬ですね
  生藁の上にねそべってゐる
  顔には茶いろな縞もある
どうしてぼくはこの犬を
こんなにばかにするのだらう
やっぱりしゃうが合はないのだな
  どうだ雲が地平線にすれすれで
そこに一すぢ白金環さへつくってゐる

日本犬

「日本犬」は、古くから日本に住んでいる犬の総称。特に、秋田犬(大型)=写真、wiki=、甲斐犬(中型)、紀州犬(中型)、柴犬(小型)、四国犬 (中型)、北海道犬(中型)の6つの在来犬種をいうことが多いようですが、かつては各地に数多くの地犬が存在しました。

しかし、明治期に入ると、輸入された洋犬による日本犬の雑種化が意図的に行われ、大正末期までには純粋な日本犬は、特に都市部ではほとんど姿を消してしまいました。 

岩手犬、あるいは南部犬とも呼ばれ、秋田から岩手にかけての山々で猟犬として使われた地犬もあります。中型の秋田犬とされたこともありましたが、闘犬用として大型化した秋田犬と区別されます。

マタギの減少とともに、個体数は減少。かつては保存会を結成する運動もあったそうですが、個体数が減って絶滅したとされたため、立ち消えになってしまったようです。

ピンとした三角の立ち耳、吻のとがったくさび形の頭部、クルリと巻いた巻き尾などの特徴があり、素朴、忠実、勇敢といった性質が日本犬らしいとされます。

稲や麦の茎を収穫した後で乾燥させたものが藁ですが、新しい藁のことをここでは「生藁」といっているようです。

賢治は詩「犬」で、吠える犬に対して「それは犬の中の狼のキメラがこわい」と記しています。このように、犬とは生来「やっぱりしゃうが合はない」、彼にとっては苦手な存在だったのでしょう。

「白金環」は、細い白金線の先を小さく輪に閉じたものをいいます。バーナーで熱すると、赤みがかった白熱光を発します。ここでは、雲の縁辺が作り出す形状を白金環に喩えています。


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2015年08月07日

「丘陵地を過ぎる」④

 「丘陵地を過ぎる」のつづきを読んでいきます。

さあ犬が吠えだしたぞ
さう云っちゃ失敬だが
まづ犬の中のカルゾーだな
喇叭のやうないゝ声だ
  ひばがきのなかの
  あっちのうちからもこっちのうちからも
  こどもらが叫びだしたのは
  けしかけてゐるつもりだらうか
  それともおれたちを気の毒がって
  とめようとしてゐるのだらうか

Enrico_Caruso

「カルゾー」は、歌劇王とも呼ばれる有名なテノール歌手エンリコ・カルーソー(Enrico Caruso、1873-1921)=写真、wiki=のこと。

イタリアのナポリで生まれ、1894年から演奏家としての活動をスタート。翌年ミラノで大きな成功を収め、最初の20回のレコード録音を行いました。

カルーソーはイタリアオペラを中心に約60作品ものオペラをレパートリーにしていました。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったため、蓄音機の普及を助け、それがいっそう彼の知名度もも高めました。

美男とはいえないものの、その声域の広さ、ドラマチックな力強さと表現力の豊かさなどにより、世界各地の歌劇場で活躍。当時の最も著名なスター歌手となりました。

1903年からニューヨーク市のメトロポリタン歌劇場(メト)で歌い、その年から、米ビクター社にレコード録音を開始。メトの出演は600回に達しました。1920年、メトでの舞台中に喀血、故郷ナポリで療養中の翌1921年に48歳の働き盛りで亡くなりました。

カルーソーのレコードが日本へ輸入されたのは大正期初めのこと。1925(大正14)年のビクターのカタログには、カルーソーのレコードが160面くらいあったといいます。賢治も聴いていたのでしょうか。

「喇叭」(ラッパ)は、唇の振動する音を先の広がった金属管で増幅して吹き鳴するおなじみの楽器ですが、日本には幕末に入り、楽器としてより軍用ラッパとして広く使われました。

賢治の母校の旧制盛岡中学をはじめ、授業の開始・終了の合図にラッパを用いる学校も多かったようです。

「ひばがき」は、アスナロの垣根のことか。「あすは檜になろう」に由来するアスナロは、ヒノキ科の常緑高木。葉はヒノキに似ていますが、背は低く、高さ10~30メートル。樹皮は灰褐色で、むかしは火縄銃の火縄に用いられたそうです。

吠えだした犬の声は、力強くて表現力豊かな「失敬だが/まづ犬の中のカルゾーだな」と思えるように、美しく「喇叭のやうないゝ声だ」といいます。

そして、犬の美声に呼応するように「ひばがきのなか」のあちこちの「うち」から「こどもらが叫びだした」というのです。


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2015年08月06日

「丘陵地を過ぎる」③

 「丘陵地を過ぎる」のつづきを読んでいきます。

白樺は林のへりと憩みの草地に植ゑるとして
あとは杏の蒼白い花を咲かせたり
きれいにこさえとかないと
お嫁さんにも済まないからな
雪が降り出したもんだから
きみはストウブのやうに赤くなってるねえ
  水がごろごろ鳴ってゐる

アンズ

きのうの「ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし」につづいて、今度は「白樺」。「林のへりと憩みの草地に植ゑる」といいます。

どういう目的の植林かは知れませんが、「林のへり」や「憩(やす)みの草地」に植えるなどと随分と壮大です。

「白樺」は「白い樹皮のカンバの木」を縮めた呼び名。東アジア北部温帯に分布する落葉性の高木で、日本では中部地方から北、東北地方、北海道で見ることができます。

気候のあった冷涼地では土質を選ばずによく育ちます。植え付けの適期は、この詩が書かれた時期にあたる2月中旬~3月だそうです。

大きな木を植える場合は、倒れないように支柱を立てたりする必要もあります。シラカバは一度植え付けると、他に移植するのはむずかしい木のようです。

「杏」(アンズ)=写真、wiki=は、バラ科サクラ属の落葉小高木。3月下旬から4月ごろ、桜よりも少し早く、ここでいう「蒼白い」、あるいは淡紅の花を咲かせ、初夏にウメによく似た実を付けます。

耐寒性があり比較的涼しい地域で栽培されます。美しい花を咲かすため、花見の対象になることもあります。苗は接ぎ木によって増やされます。

「きれいにこさえとかないと/お嫁さんにも済まないからな」は、雑誌「銅鑼」に発表された「丘陵地」では「さう云ふにしてきれいにこさえとかないと/なかなかいいお嫁さんなど行かないよ」となっています。

とすると、「お嫁さんにも済まない」というのは、これから「きみのところ」に来てくれるであろう「お嫁さん」にすまないということでしょうか。

日本では古くから、コタツや火鉢が一般的でしたが、江戸時代に西欧の暖炉から発展した「カッヘル・オーフェン」が「置き暖炉」として国内に入ってきたのが「ストウブ」のはじまり。

安政3(1856)年、開拓のため北海道に渡った人々のために、カッヘル・オーフェンをモデルに鋳物職人が作ったのが国産第1号だといわれているそうです。

当時のストーブは鉄板や鋳物製で、燃料は主に薪か石炭でした。明治の末にはガスや電気のストーブも登場しましたが、まだまだ庶民には手の届かない代物だったようです。

「きみはストウブのやうに赤くなってるねえ」の意味合いはよく分かりませんが、雪が降り出して次々と薪をくべて炎を赤々とくゆらすストーブのやうに、「きみ」は温かみのある存在感を増している、ということなのでしょうか?


harutoshura at 13:37|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月05日

「丘陵地を過ぎる」②

 きょうも「丘陵地を過ぎる」の続きを読みます。

いつころ行けばいゝかなあ
ぼくの都合はまあ来月の十日ころ
仕事の方が済んでから
木を植ゑる場所や何かも決めるから
ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし
やまならしにもすてきにひかるやつがある

ヤマナラシ

「きみのところ」へ行くのは、「来月の十日ころ/仕事の方が済んでから」が都合がいい、といいます。「木を植ゑる場所や何かも決めるから」ということは、どこかに植林をする計画があるということでしょうか。

「ドイツ唐檜」は、マツ科トウヒ属の常緑針葉高木で、オウシュウトウヒとも呼ばれます。名前のとおりドイツでよく見られる木で、シュヴァルツヴァルト(黒森)の多くがこの木。アルプスの山岳地帯やスカンジナビア半島の北方針葉樹林の主要樹種にもなっています。

花期は5月ころ。公園や庭園によく植えられ、モミの木とともにクリスマスツリーとしてもよく使われます。高さ50m、直径2m近くになることもあり、10cmを超える独特の球果をつけます。

寒冷に強く、土壌は選びません。日当たりを好み、乾燥を嫌い、浅根性で成長が早く移植に対して耐性があるのも特徴です。苗木は比較的安く手に入ります。

賢治の母校である岩手大学(旧盛岡高等農林)にも見事なドイツ唐檜が植えられているそうです。

「バンクス松」はマツの一種で、名前はイギリスの植物学者ジョゼフ・バンクスに由来します。北米大陸北部、ロッキー山脈以東のカナダ、アメリカ北東部のミネソタ州からメイン州 にかけての地域を原産地としています。

分布域の北限は年間最高気温30℃の等温線とほぼ同じ。分布の北限は永久凍土地帯に及びます。乾燥して砂や砂利で構成されるような、他の植物がとても生きていけないような土壌でも生育できます。

火災に適応したマツで、火災の頻度が高いと優勢となる木でもあります。日本には、大正期に見本樹や庭園樹として入ってきて、東北や北海道など比較的寒冷なところの演習林や植物園、公園で見かけられます。

「やまならし」=写真、wiki=は、ヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木で、ハコヤナギのこと。葉がわずかな風にも揺れて葉が擦れ合い、鳴るような音を出すため“山鳴らし”の名があります。

高さ5メートルほど。「すてきにひかるやつがある」といっているように、日当たりのよい産地に生えます。葉は丸みを帯びて5~10センチほど。早春、尾状花穂に青褐色の小花をたくさんつけます。


harutoshura at 09:31|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月04日

「丘陵地を過ぎる」①

 きょうから「丘陵地を過ぎる」を読みます。「五輪峠」と同じ「1924、3、24」の日付があります。冒頭は―――

きみのところはこの前山のつづきだらう
やっぱりこんなごつごつ黝い岩なんだらう
松や何かの生え方なぞもこの式で
田などもやっぱり段になったりしてゐるんだな

安山岩

 「1924、3、24」の前日、3月23日(日)は、賢治が教えていた花巻農学校の卒業式がありました。「岩手日報」の3月24日付夕刊1面には、次のようにあります。

「県立花巻農学校第三回卒業証書授与式は去る二十三日午前十時仝校講堂において挙行されたるが来賓は羽田県視学 高日花高等女学校長千葉松村花巻両町小学校長 三田郡視学 吉川矢沢小学校長 梅津川口町長 阿部湯口村長 宮沢佐藤宮沢町議其他父兄有志百三十余名」

春休みに入って晴れ晴れとした気分で五輪峠などへと出かけ、「丘陵地を過ぎ」ていったのでしょうか。

この作品に手を入れたと見られる「丘陵地」という作品が、草野心平編輯兼発行の同人誌「銅鑼」5号(1925年10月27日発行)に発表されています。「丘陵地」の冒頭4行は、

きみのところはこの丘陵地のつゞきだらう
やっぱりこんな安山集塊岩だらう
そすると松やこならの生えかたなぞもこの式で
田などもやっぱり段になったりしているだらう

となっています。二つの作品を比較してみると、「きみ」がいるところは、いま居る「丘陵地のつゞき」にあって、そこも「ごつごつ黝(あおぐろ)い岩」すなわち「安山集塊岩だらう」といいます。

「安山岩」は、有色鉱物である角閃石、輝石、磁鉄鉱、無色鉱物である斜長石などを含む火成岩の一種。環太平洋造山帯に属する日本の火山の95%が安山岩といわれています。

こうした安山岩質の角礫が火山灰で固められてできた岩石が「安山集塊岩」です。学問的には、岩片の大きさが3.2cm以上の大きい岩片の集合体を「集塊岩」と呼んでいるそうです。


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2015年08月03日

「五輪峠」⑥

 きょうは「五輪峠」の最後のところです。

あ何だあいつは
     いま前に展く暗いものは
     まさしく北上の平野である
     薄墨いろの雲につらなり
     酵母の雲に朧ろにされて
     海と湛へる藍と銀との平野である
向ふの雲まで野原のやうだ
あすこらへんが水沢か
君のところはどの辺だらう
そこらの丘のかげにあたってゐるのかな
そこにさっきの宇部五右エ門が
やはりきせるを叩いてゐる
     雪がもうここにもどしどし降ってくる
     塵のやうに灰のやうに降ってくる
     つつじやこならの灌木も
     まっくろな温石いしも
     みんないっしょにまだらになる

温石

「異空間」が共感しているような状態のなかからふと、「何だあいつは」と見つめると、視界に「展」けてきた「暗いものは/まさしく北上の平野」でした。

「薄墨いろの雲」につらなっているのは、賢治がよく喩えに使う白色円形をした「酵母の雲」。そして、そこには「藍と銀との平野」が広がっていたのです。

「水沢」は、岩手県の内陸南部にかつてあった市で、現在は奥州市の中心部に位置する水沢区にあたります。商人の街、鋳物の街、みちのくの小京都などとして知られています。

胆沢川によって形成された胆沢扇状地の東端にあり、南北に北上川が流れます。東には北上山地の山並みが連なり、西部は扇状地の肥沃な大地が広がり胆沢町と接しています。

「みちのくの小京都」と称される水沢は、水沢城を居城とした留守氏(水沢伊達氏)1万6000石の城下町で、いまも住時をしのばせる武家屋敷が残されています。

市南東部にある正法寺は日本一の茅葺屋根で有名な古刹。黒石寺は東北地方最古の寺院で、奇祭“蘇民祭”などで知られています。

江戸時代から続く鋳物や南部鉄器、さらには漁綱(水沢綱)の産地としても知られています。また、日本の天文学で重要な役割を担った緯度観測所(現・国立天文台水沢観測所)もあります。

さて、視線はふたたび異空間へと移っていったのか、「丘のかげ」には「宇部五右エ門が/やはりきせるを叩いてゐ」きます。そうしているうちに、雪が「塵のやうに灰のやうに」たくさん降ってきました。

「温石」(おんじゃく)=写真=は、平安から江戸時代にかけて、軽い石を火で温め、真綿や布などでくるんで懐中に入れて、胸や腹などの暖を取るために用いた道具のことをいいます。懐炉の原型とも考えらます。

温める石は、滑石、蝋石、蛇紋岩、角閃岩などが好んで使われました。それが「温石いし」。防寒だけでなく治療の効果も期待され、漢方医学では、熱熨法(温罨法)と呼ばれる治療に用いられました。

禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐため温石を懐中に入れていたことから、茶の席で出す一時の空腹しのぎ程度の軽い料理、あるいは客人をもてなす料理を懐石料理と呼ぶようになったという説もあるそうです。

こうした「温石いし」や「つつじやこならの灌木」がいっしょにまじりあったり、濃淡を成したりした風景で、この詩はしめくくられています。


harutoshura at 20:36|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月02日

「五輪峠」⑤

 「五輪峠」のつづきを読んでいきます。

   宇部五右衛門が目をつむる
   宇部五右衛門の意識はない
   宇部五右衛門の霊もない
   けれどももしも真空の
   こっちの側かどこかの側で
   いままで宇部五右衛門が
   これはおれだと思ってゐた
   さういふやうな現象が
   ぽかっと万一起るとする
   そこにはやっぱり類似のやつが
   これがおれだとおもってゐる
   それがたくさんあるとする
   互ひにおれはおれだといふ
   互ひにあれは雲だといふ
   互ひにこれは土だといふ
   さういふことはなくはない
   そこには別の五輪の塔だ

dimension

賢治は、仏教的な宇宙観とも絡んで、われわれの世界あるいは銀河系の外に「異空間」が実在すると考えていたようです。

人間も他の生物も、いろんな物質も、現代の物理学的な言い方をすれば、クオークやレプトンといった素粒子が、量子力学的に集まって成り立っているということができるでしょう。

昨日も見ましたが、まだ素粒子論が無かった賢治の時代には、「物質原子は更に小なるそして驚くべき勢力を有する『電子』といふ微粒子に分別されることが明らかにされた」(『科学大系』)といった認識だったのです。

こうした当時の最新の科学的な認識に立って、賢治は「わたくし」を、「わたくしとして感ずる電子系のある系統」(詩ノート[黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり)]としてとらえ、すべての物質は「電子に帰」し、互いに共感できると考えていたと思われます。

そして、「こっちの側かどこかの側で/いままで宇部五右衛門が/これはおれだと思ってゐた」というような現象が、「ぽかっと」とどこかで起これば、「類似のやつが/これがおれだとおもってゐる」というようなことが「たくさんある」と考えることができます。

こうすることによって、「互ひにおれはおれだといふ」、「互ひにあれは雲だといふ」、「互ひにこれは土だといふ」というように共感が、「なくはない」のだというのです。


harutoshura at 18:49|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年08月01日

「五輪峠」④

 ひき続き「五輪峠」を読んでいきます。

地図ももたずに来たからな
   そのまちがった五つの峯が
   どこかの遠い雪ぞらに
   さめざめ青くひかってゐる
   消えようとしてまたひかる
このわけ方はいゝんだな
物質全部を電子に帰し
電子を真空異相といへば
いまとすこしもかはらない

atom-electrons

「峠がみんなで五っつあって/地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと/たったいままで思ってゐた」のが、実は「古い五輪の塔」だとわかりました。

けれども、その「まちがった五つの峯」が存在することを、詩人は疑いません。「どこかの遠い雪ぞらに/さめざめ青くひかってゐる/消えようとしてまたひかる」というのです。

現代では「電子」は、クォークとともに宇宙を構成する物質の基本的な構成要素であるレプトンに分類される素粒子と考えられています。素粒子論の標準模型では、第1世代の荷電レプトンに位置付けられ、電荷-1、スピン1/2のフェルミ粒子とされます。

「電子」は1897年、イギリスの物理学者ジョセフ・ジョン・トムソンが、磁気と電気を用いて陰極線の正体が負に荷電した粒子、すなわち電子であることを発見しました。

その後、電子は原子核の周りを惑星のように回っている古典的な電子像が形作られました。賢治の時代にはもちろん、現代のような素粒子論的、量子力学的な電子像は確立されていません。

「物質原子は更に小なるそして驚くべき勢力を有する『電子』といふ微粒子に分別されることが明らかにされた」(『科学大系』)といった知識はあったはずです。

さらに賢治は、詩人の天才的な直観から「電子」に満ちた「真空」などをよりどころにして、異空間の実在へと想像をめぐらしていたようです。

「異相」とは仏教でいうと、万物の生滅、無常の姿を表す四相、すなわち生まれる生、存在する住、変化する異、なくなる滅の一つ。

また地質学では、たとえば河口付近の礫岩層が、河口から離れるにつれて砂岩層になり、内湾では泥岩に変るといった同時期に堆積した地層が場所によって層相が異なるのを同時異相といっています。

こうしたいろんな「異相」をイメージしながら、賢治は異空間を見つめているのでしょう。


harutoshura at 20:42|PermalinkComments(0)宮澤賢治