2015年06月

2015年06月30日

「宗谷挽歌」⑪ 灯台

 きょうも「宗谷挽歌」のつづきを読みます。

あちこち電燈はだんだん消され
船員たちはこゝろもちよく帰って来る。
稚内のまちの北のはづれ
私のまっ正面で海から一つの光が湧き
またすぐ消える、鳴れ汽笛鳴れ。
火はまた燃える。
「あすこに見えるのは燈台ですか。」
「さうですね。」
またさっきの男がやって来た。
私は却ってこの人に物を云って置いた方がいゝ。
「あすこに見えますのは燈台ですか。」
「いゝえ、あれは発火信号です。」
「さうですか。」
「うしろの方には軍艦も居ますがね、
あちこち挨拶して出るとこです。」
「あんなに始終つけて置かないのは、

宗谷岬灯台
 
「海から一つの光が湧」いて「またすぐ消え」ます。そして、「火はまた燃える」。賢治は、「燈台」なのかなと思って問いかけています。

日本最初の洋式灯台は1869(明治2)年2月に点灯した観音埼灯台で、着工した1868年(明治元年)11月1日が灯台記念日となっています。

しかし、日本近海は暗礁も多いうえに、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置だけで航路標識の体系的な整備が行われていなかったため、諸外国から「ダークシー」とおそれられていました。

樺太の対岸にある国境の灯台として、宗谷海峡の航路を守る重要な役割を果たしているのは、宗谷岬灯台=写真、wiki=と稚内灯台があります。

宗谷岬灯台は、1885(明治18)年に八角形鉄造の野火方式の初代が点灯。1912(明治45)年には野火方式をやめて2代目宗谷岬灯台が再建されました。また稚内灯台は、現在の稚内分屯地内に1900(明治33)年12月に灯っています。

「さっきの男」というのは、賢治が「船長ではないのだらうか」と思った年長の船員でしょうか。「却ってこの人に物を云って置いた方がいゝ」と感じて再び尋ねると、「いゝえ、あれは発火信号です」の返事でした。

船は、法的問題がないかぎり海上を自由にどこでも走ることができるため、いったん陸を離れて海に出ると、陸上や他の船との間で情報をやりとりするのが困難になります。そこでいろんな手段による情報伝達すなわち船舶信号が考案され、実用化されてきました。

船舶信号には、信号旗による旗旒 (きりゅう) 信号、汽笛などによる音響信号、サーチライト、発光信号機による発光信号、電波による無線通信などがあります。

「発光信号」は、昼間の手旗信号等に代わって主に夜間に用いられるもので、発光信号機(ライトガン)によって特定の方向へ光を断続的に発射します。通信文を送るにはモールス符号を用います。

賢治のサハリンへの旅は、ロシア革命に対する干渉戦争の一つであるシベリア出兵(1918年から1922年)が行われた直後でした。

日本も総数7万3000人というという兵力と巨額の戦費を投入してこれに参戦しています。北の拠点にはまだ、そうした緊張がつづき、「軍艦」も配備されていたのでしょう。


harutoshura at 14:26|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月29日

「宗谷挽歌」⑩ ホイッスラア

 「宗谷挽歌」のつづきです。

この男は船長ではないのだらうか。
 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
  次の点からすぐわかる。
  第一自殺をするものが
  霧の降るのをいやがって
  青い巾などを被ってゐるか。
  第二に自殺をするものが
  二本も注意深く鉛筆を削り
  そんなあやしんで近寄るものを
  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)
ホイッスラアの夜の空の中に
正しく張り渡されるこの麻の綱は
美しくもまた高尚です。

whistler_battersea01

「船長ではないのだらうか」と思われる「この男」というのは、前半に出てきた「潮風と霧にしめった舷に/その影は年老ったしっかりした船員だ。/私をあやしんで立ってゐる。」と記された年老いた船員のことでしょう。

賢治は「誰も居ない夜の甲板」にひとり立っている「私を自殺者と思ってゐるのか」と感じます。自殺者と思われるのがなんとも心外だったようで、自然科学者らしく「自殺者でないこと」を、その根拠を挙げて論証していきます。このあたりも実に賢治らしい感じがします。

自殺をするのに、わざわざ「霧の降るのをいやがって/青い巾などを被ってゐる」はずはない。それから「注意深く鉛筆を削り」などするはずもない、と確かに理屈が通っています。

「ホイッスラア」とは、19世紀後半のアメリカ人の画家、版画家のジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler、1834-1903)のことでしょう。

ホイッスラーには、色調や画面構成など、賢治が好んだ浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的な画家たちとも一線を画した独自の絵画世界を展開しました。

耽美主義の代表的画家とも目され、色彩と形態の組み合わせによって調和のとれた画面を構成することを重んじました。「シンフォニー」「ノクターン」「アレンジメント」などの作品のタイトルに音楽用語を多用するのも特徴です。

ただ、ホイッスラーの用いる色彩は地味で、モノトーンに近い作品も多く、光と色彩の効果を追い求めた印象派の作風とは一線を画しているようです。

ホイッスラーの代表作の1つである、ロンドンのテムズ川に架かる平凡な橋が描かれた『青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ』=写真、wiki=は、単色に近い色彩、水墨画を思わせるにじんだ輪郭線などに日本美術の影響が感じられます。

賢治はこの日の「夜の空」に、こうしたホイッスラーの絵を見ているのでしょう。「正しく張り渡されるこの麻の綱」とは、帆綱のことでしょうか。


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2015年06月28日

「宗谷挽歌」⑨ 舷燈

 きょうも、「宗谷挽歌」のつづきを読みます。

呼子が船底の方で鳴り
上甲板でそれに応へる。
それは汽船の礼儀だらうか。
或いは連絡船だといふことから
汽車の作法をとるのだらうか。
霧はいまいよいよしげく
舷燈の青い光の中を
どんなにきれいに降ることか。
稚内のまちの灯は移動をはじめ
たしかに船は進み出す。
この空は広重のぼかしのうす墨のそら
波はゆらぎ汽笛は深くも深くも吼える。

船

「呼子(よぶこ)」は、合図に使う呼子の笛の略。共鳴胴の中にコルクやストローでできた軽い玉を入れたもので、音は非常に甲高く、「ピリピリピリ…」と短いサイクルで音調が変化する性質があります。

携帯に便利なように小さく、当時は金属製あるいはセルロイドでできていました。船のように雑音の多い環境でも他人の注意を引きやすい音が出るようになっています。

「銀河鉄道の夜」には、「硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出し」とあります。

「舷燈」は、夜間、航行している船舶が左右の舷側につける灯火のこと。ふつう右舷に緑灯、左舷に紅灯をつけるそうなので「青い光の中を」ということは、賢治は右舷を見ているのでしょうか。

出航して、稚内のまちの灯が動き出しました。「たしかに船は進み出」したのです。

「ぼかし」は、「広重」(1797-1858)が好んだ浮世絵の技法。画面の最上部に「うす墨」でぼかしを入れて、天候や季節を表現しわけるものを“一文字ぼかし”と言うそうです。

賢治は花巻農学校の教師時代に浮世絵を収集していてましたが、生前、みんなにやってしまったので現存しないとか。仙台や東京の浮世絵展にも足を運んでいたようです。

広重の“一文字ぼかし”で描かれたのとそっくりの、雪雲の垂れ込めた暗い空をしています。「汽笛は深く」吼えるように聞こえてきます。


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2015年06月27日

「宗谷挽歌」⑧ メーテルリンク

 きょうも「宗谷挽歌」のつづきです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
  (おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

Maurice_Maeterlinck_2

賢治は夜の甲板にひとり立って、トシとの交信を試みようとしています。「われらが上方とよぶその不可思議な方角」への旅の最終的な目的地も近づいてきているのです。

トシは、賢治が信ずる法華経の輪読会に参加するなど、数少ない理解者の一人。単に妹であることを超えた精神的な存在であり、「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」のかけがえのない同伴者だったのです。

「究竟(くきょう)」とは、仏教用語で、「より高い」の意から、究極を意味します。また「事物を徹底的にきわめる」という意味にも用いられます。

法華経は、「衆生を饒益(にょうやく)し安楽ならしめたもう所多き」と、すべての人々の真の「幸福」のために説かれている、とされます。

どのような人でも、動物でも、植物でも、鉱物でもあっても、仏の心(仏性)がそなわっていて、みんな一人ひとりが仏になれる。そして、民衆ひとりひとりが立ち上がり、他の人々も幸福にしてゆく姿が描かれます。

賢治は「農民芸術概論綱要」で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言っています。

「みんなのほんたうの幸福を求めてなら/私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない。」とは、そうした賢治の信ずる教えにそったものなのでしょう。

『語彙辞典』によると、「タンタジールの扉」は、メーテルリンク=写真、wiki=の人形劇のための象徴劇で、「死」をテーマにした初期の作品群の一つ「タンタジールの死」(4幕)からきた言葉だそうです。

王子タンタジールは、祖母である女王からいつ殺害されるかわからない運命で、姉イグレーヌが助けようとするが、王子は目に見えぬ手に連れ去られ、人間の力では開くことのできない鉄の扉の彼方で息を引き取ってしまう。

作者の運命観を象徴する人物と、稚拙ともいうべきせりふの繰り返しによって成り立つ象徴劇で、動きがなく平板で感傷的、作品そのものの出来はよくありません。

しかし日本では人気を呼び、1912(明治45)年には『歌舞伎』というタイトルで灰野庄平の翻訳が出ました。初演はこの年の4月に自由劇場が帝国劇場で興行。『マーテルリンク全集』(1920年、鷲尾浩訳)など単行本も出ています。

『語彙辞典』では「賢治は幸福の青い鳥を探すチルチルとミチルの兄妹に、賢治とトシを重ね合わせていたのであろう」としています。


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2015年06月26日

「宗谷挽歌」⑦ ちがった空間

 ひきつづき「宗谷挽歌」を読んでいきます。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

魂の交感
 
雨と霧の中を出航する連絡船の甲板で、叫ぶように「とし子」に訴えかけます。前に読んだ「青森挽歌」の中で賢治は、次のように誓っていました。

 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに姚戦しやう)

とうとうここに予告された「宗谷海峡を越える晩」が来たのです。この旅の大きな目的がここにあったのでしょう。 

トシと死別して半年。「青森挽歌」で「われらが上方とよぶその不可思議な方角」に向かっての旅の途上、「私の見えないちがった空間」にいる妹と魂の交感をしようとしています。

「いま自分のことを苦にしないで行けるやうな/そんなしあはせ」の中にあるのか?

もしもそれがなくて、つまり「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでない」のであれば、「あらんかぎり大きな勇気を出し」て、「さまざまな障害を/衝きやぶって」知らせてほしいと痛烈な訴えをしているのです。


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2015年06月25日

「宗谷挽歌」⑥ 鉛筆

ひきつづき「宗谷挽歌」を読んでいきます。

 鉛筆がずゐぶんす早く
 小刀をあてない前に削げた。
 頑丈さうな赤髯の男がやって来て
 私の横に立ちその影のために
 私の鉛筆の心はうまく折れた。
 こんな鉛筆はやめてしまへ
 海へ投げることだけは遠慮して
 黄いろのポケットにしまってしまへ。
霧がいっそうしげくなり
私の首すぢはぬれる。
浅黄服の若い船員がたのしさうに走って来る。
「雨が降って来たな。」
「イヽス。」
「イヽスて何だ。」
「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」
「瓦斯だよ、霧だよ、これは。」

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「鉛筆」は、当初はアメリカなどから輸入されていましたが、1887(明治20)年に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(いまの三菱鉛筆)の創業者、真崎仁六によって量産されるようになりました。

1901年には、逓信省(後の郵政省)が真崎鉛筆を採用し、まずは郵便局内で全国に鉛筆が供給されるようになりました。その後、1920年ごろまでに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えられます。

第1次大戦中の1915年ごろから海外へ輸出されるようになり、日本の主要輸出品の一つになりましたが、まだまだ質が悪く、大戦後は輸出は激減しています。

手帳とともにいつも持ち歩いて詩想を書き留めていた賢治。当時、鉛筆は「小刀」で削り、芯の先を尖らせていたのでしょうが、旅で霧の甲板にいたこの日は「小刀をあてない前に削げ」てしまいます。

さらには、「鉛筆の心はうまく折れた」といいます。それが、「私の横に立」った「頑丈さうな赤髯の男」の「影」によるものだ、というのは随分と奇抜な感もしますが、それほど鋭い「影」に感じるまでに、賢治の心も研ぎすまされ、折れやすい状態にあったのかもしれません。

「しげく」は、文語形容詞「繁し」の連用形。草木が生い茂っている、密生している、たくさんある、絶え間ない意。「ぼしゃぼしゃ降ってゐ」た「霧」がいっそう濃密になってきました。
 
そこへ、空気を変えるように、走ってきた「若い船員」たちによる少しはしゃいだ感じの会話がはじまります。

「瓦斯」は、ガス。英語で気体のことです。語源はカオス(混沌)のフランドル風発音からだそうです。登山などで、山にかかる霧を指す言葉としてもよく使われます。


harutoshura at 11:08|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月24日

「宗谷挽歌」⑤ 銅鑼

 ひかつづき「宗谷挽歌」を読んでいきます。

あかしがつくる青い光の棒を
超絶顕微鏡の下の微粒子のやうに
どんどんどんどん流れてゐる。
 (根室の海温と金華山沖の海温
  大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
帆綱の影はぬれたデックに落ち
津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
下の船室の前の廊下を通り
上手に銅鑼は擦られてゐる。

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「あかし」は、灯り、明かし、ともしび。暗闇の中、港か船かの灯りが織りなす「青い光の棒」のような帯が、流れをつくって見えています。

「超絶顕微鏡」というのは、眼外顕微鏡あるいは暗視野顕微鏡といわれているもの。ふつうの顕微鏡では見られない微小な物体を、暗視野照明による散乱光を用いて輝かせて見せてくれます。

化学の実験で、コロイド粒子などを眼外顕微鏡で観察しているときの印象を思い出しているのでしょう。眼外顕微鏡下の微粒子のように光の帯を「どんどんどんどん流れてゐる」のを眼にしています。

「金華山沖」は、宮城県東方沖の太平洋をいう海域名。牡鹿半島沖の金華山の名によっています。寒流と暖流が交わる海域で、イワシやサンマ、カツオ、マグロなどの好漁場で、海霧が多発することでも知られています。

「ぼしゃぼしゃ降ってゐる」この日の霧。北海道の「根室の海温」は、10年前「大正二年」の、あの海霧で知られる「金華山沖の海温」と似ていると、科学者の眼でがとらえています。

「銅鑼」は体鳴楽器に属する打楽器の一つ。青銅、真鍮、鉄などでできた金属製円盤を枠(ドラスタンド)に吊るして、桴で打ち鳴らします。仏教の法要、民俗芸能のお囃子などのほか、出帆の合図としても広く用いられてきています。

いよいよ出航です。「どらがいま鳴」る、というだけではなく、「下の船室の前の廊下を通り/上手に銅鑼は擦られてゐる」と鋭い観察眼で、そのときを見つめているのです。


harutoshura at 14:35|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月23日

「宗谷挽歌」④ 稚内の電燈

 「宗谷挽歌」のつづきです。いよいよ出航が近づいています。

船は間もなく出るだらう。
稚内の電燈は一列とまり
その灯の影は水にうつらない。
  潮風と霧にしめった舷に
  その影は年老ったしっかりした船員だ。
  私をあやしんで立ってゐる。
霧がばしゃばしゃ降って来る。
帆綱の小さな電燈がいま移転し
怪しくも点ぜられたその首燈、
実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。
降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。

港の霧

「稚内の電燈は一列とまり」とは、港に連なる電灯のうちの一つの列だけ電流が止まっていて、その列の影だけ水に映っていない、ということでしょうか。

「舷」(げん)は、船の側面のこと。船縁、船端とも言います。船首に向かって右側の舷を右舷、左側の舷を左舷と言います。進行方向が他の船にわかるようにするために、左舷に赤色、右舷に緑色の航行灯を普通は点すそうです。

「霧」は、水蒸気を含んだ大気の温度が何らかの理由で下がり露点温度に達したとき、含まれていた水蒸気が小さな水滴となって空中に浮かんだ状態。霧は、大気中の水分が飽和状態に達して出来るので、発生のしくみは基本的に雲と同じ。

大気中に浮かんでいるものを雲、地面に接しているものが霧ということになります。日本の気象通報では「微小な浮遊水滴により視程が1km未満の状態」を霧と定義しています。

霧に包まれ、潮風が吹きつけて「しめった舷」に、老いてはいるががっしりした体つきの船員らしきが目にとまります。「誰も居ない夜の甲板」に立っている「私をあやしんで」いるように、詩人には思えたのでしょう。

まるで雨のように「霧がばしゃばしゃ降って来」ました。出航するのに必要な処置なのか、帆の上げ下ろしなどに用いる「帆綱」のための「小さな電燈」が移動になって、それが怪しげな顔のように見えたのか。

霧は「ばしゃばしゃ」から「ぼしゃぼしゃ」へと、いっそう重量感を増して降ってきます。さらに、「降ってゐる」というよりも「湧いて昇ってゐる」ようにも思えてきました。


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2015年06月22日

「宗谷挽歌」③ 紫いろのうすもの

 きょうも「宗谷挽歌」のつづきを読みます。

もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
船員たちの黒い影は
水と小さな船燈との
微光の中を往来して
現に誰かは上甲板にのぼって行った。

経帷子

トシが死んだのは、この旅の前年、1922(大正11)年11月27日午後8時30分のことでした。新校本全集の年譜には、そのとき、について次のように記されています。

〈呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索めるように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。トシは二へんうなずくように息をして彼岸へ旅立った。

やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた。重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。

そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。〉

「経かたびら」というのは、真言や経文などが記された麻仕立ての死に装束。以前は女性の親族の手によって、引っ張り合いながら縫い、糸には結び目をつけないなどの習俗があったそうです。

「ひかる立派なひだのある/紫いろのうすもの」というのは、そんな、妹に最後に着せてあげた「経かたびら」のことでしょうか。

きのう見たように、連絡船に乗った賢治は、「とし子」が「呼ぶ必要のないとこ」ろまできていると感じています。そして、「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一緒に行ってやらないだらう」と思うのです。

「船員たちの黒い影」が「微光の中を往来し」、「上甲板にのぼって」いく姿も見られます。いよいよ、出港が迫っています。


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2015年06月21日

「宗谷挽歌」② 因果連鎖

 「宗谷挽歌」のつづきを読んでいきます。

私が波に落ち或いは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。

稚泊連絡船

当時の稚内駅は現在の南稚内付近と考えられます。賢治はそこから歩いて艀に乗り、それから碇泊していた「対馬丸」に搭乗したのでしょう。

稚泊連絡船は、まだはじまったばかり。海難事故がたびたび起こっていた宗谷海峡を渡るのには、まだ相当に危機感を抱いて、のことだったことでしょう。

「波に落ち或いは空に擲げられることがないだらうか」。そんな不安が、賢治の脳裏を過ぎります。

私たちは、無数の因果関係に囲まれて暮らしています。ある事象が他の原因ともなり、その結果は複雑に連鎖します。 一定の結果が導かれるために、どの原因がどれだけ関与するかは、簡単には判断できません。

詩人はそれでも、「私が波に落ち或いは空に擲げられる」ような「因果連鎖」にはなっていないことを確信しています。そう信じる所以には、「トシの死」というものがどこかで関与しているのでしょう。

しかし夜が過ぎて、トシが「どこからか私を呼んだ」なら「もちろん落ちて行く」といいます。

トシとの魂の交信を求めてやってきた目的の地であるサハリンは、もう間近。トシの名を、もう「呼ぶ必要のないとこに居る」のです。

*写真は稚内桟橋に接岸する稚泊連絡船(wikiから)


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2015年06月20日

「宗谷挽歌」① 海峡を越えて

 次は「宗谷挽歌」です。「1923、8、2」の日付があります。次のように、甲板上の場面から始まります。

  宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)

宗谷海峡

旭川で馬車での散策を楽しんだ賢治は、旭川から列車で稚内へと向かいます。たびたび引用させてもらっている『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』によると、午前11時30分発の宗谷本線、稚内行き「急行1号」に乗った可能性が高そうです。

これに乗ると午後9時14分に稚内駅に着きます。賢治は、午後11時30分に稚内を発つ稚泊連絡船に乗り込んだと考えられます。

稚泊連絡船は、国鉄の前身、鉄道省によって北海道の稚内と、当時は日本の領土だったサハリンの大泊の間を航行していた連絡船。稚内―大泊167kmを約8時間で結んでいました。

1922(大正11)年11月1日に、宗谷線が稚内駅まで延びて、翌1923年5月1日に航路開設されました。第1船はこの日の午後9時大泊発の「壱岐丸」でした。同年6月8日には砕氷船「対馬丸」が就航しています。

賢治が稚泊連絡船に乗ったのは1923年8月2日のことですから、航路が開設されてから3カ月しかたっていないころ。新しいもの好きの賢治としては、逸る気持ちもあったのでしょう。

夏季は、偶数日に下り(稚内23:30~大泊7:30)が、奇数日に上り(大泊21:00~稚内5:00)が運行されていました。

北海道の宗谷岬=写真、wiki=とサハリン・クリリオン岬との間にある宗谷海峡は、最狭部の幅は42km、深さは最深部でも60mほどしかないので、最終氷期には間宮海峡とともに陸橋となってサハリンと北海道はユーラシア大陸と地続きでした。

日本海側からオホーツク海のほうへと暖流(対馬海流)が流れているため、北から「やませ」など冷たい風が吹く日には夏でもよく海霧が発生します。船舶内にレーダーなどの装備が普及していなかった当時の宗谷海峡やその周辺では、海難事故がたびたび起こっていたようです。

さて、連絡船に乗った賢治は「誰も居ない夜の甲板」に立ちます。雨が少し降っています。見渡す限り、真夜中の海。詩人の心は「漆黒の闇のうつくしさ」に打たれます。


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2015年06月19日

「旭川」④ バビロン柳

 「旭川」の最後の部分です。

馬車の屋根は黄と赤の縞で
もうほんたうにジプシイらしく
こんな小馬車を
誰がほしくないと云はうか。
乗馬の人が二人来る
そらが冷たく白いのに
この人は白い歯をむいて笑ってゐる。
バビロン柳、おほばことつめくさ。
みんなつめたい朝の露にみちてゐる。

オオバコ

賢治が馬車で向かおうとしている「農事試験場」は、1886(明治19)年に忠別農作試験所としていまの旭川市神居町で創立、未開の地での農作物試作の第一歩を踏みだしました。その後、4度の移転と数度の機構改革を繰り返しています。

1890(明治23)年には、上川農事試作場として同市1条2~3丁目へ移り、1901(明治34)年には北海道庁地方農事試験場として、詩のなかの「旭川中学校」がある同市6条11丁目に引っ越しました。

さらに1908(明治41)年には北海道庁立上川農事試験場として、同市永山6条18丁目へ移転。その後も、組織や名称は変わりますが、1994(平成6)年4月に現在地の比布町に移るまで、この地にありました。

すなわち賢治が行ったときにはもう、作品の冒頭にある「六条の十三丁目」にはなかったのです。永山は、旭川駅から10キロもある市の郊外。列車の乗り換えの間にちょっと行ってみるというわけにはいきません。

そのあたりについて、この詩では何も触れられていません。目指したところに目的の農事試験場はなくても、馬車でのひとときを相変わらず楽しんでいるようです。

「ジプシイ」は、もともとヨーロッパで生活している移動型民族を指す言葉ですが、転じていろんな地域や仕事を渡り歩く人たちに対して比喩的に用いています。

1427年にパリに現れた際、「低地エジプトの出身である」と名乗ったため「エジプトから来た人」、「エジプシャン」の頭音が消えて「ジプシー」 (Gypsy)になったとか。

賢治は「馬車の屋根」の「黄と赤の縞」模様に、こうした「ジプシイ」的な雰囲気を感じているのでしょう。馬に乗って、笑みを浮かべた2人がやってきます。

「バビロン柳」は、古くから街路樹としてよく用いられてきたシダレヤナギのこと。学名の「Salix babylonica」から、こう呼んだのでしょう。

道端にごく普通に生えている「おほばこ」や「つめくさ」。オオバコ=写真、wiki=は、葉が広く大きいことから「大葉子」。漢名の「車前」は、馬車など車がよく通る道端にたくさん生えることからついたそうです。


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2015年06月18日

「旭川」③ 無上菩提

 「旭川」のつづきです。

この黒布はすべり過ぎた。
もっと引かないといけない
こんな小さな敏捷な馬を
朝早くから私は町をかけさす
それは必ず無上菩提にいたる
六条にいま曲れば
おゝ落葉松 落葉松 それから青く顫へるポプルス
この辺に来て大へん立派にやってゐる
殖民地風の官舎の一ならびや旭川中学校

旭川中学

早朝から小さくて敏捷な、お気に入りのハックニーを自分だけのために走らせている。さっきから黒布が気にはかかっているようでが、気分はすこぶる快適なようです。

「無上菩提」とは、最上、完全な悟りをいいます。語彙辞典によると、菩薩には①声聞の菩薩②縁覚の菩薩③仏の菩薩の三種類があって、このうち、最高の悟りの仏の菩薩のことを指すそうです。

馬車は師団通をまっすぐ北へと進んで六条通の角を曲がります。ポプラス(Populus)はポプラの学名で、「震える」という意味があるとか。通常、明治期に入ってきた外来種をポプラと呼びます。

カーブを曲がった馬車の上の賢治の目には、落葉松やポプラなどの街路樹が飛び込んできます。ポプラなどはいまも残っています。

「旭川中学校」とは、6条通11~12丁目にある、いまの北海道旭川東高校です。1903年 5月に北海道庁立上川中学校として上川外2郡農会事務所を借りて授業を開始しました。1915年 4月に校名を、北海道庁立旭川中学校に変更しています。

賢治が通ったであろう旭川東高校の南側、バス停のすぐそばに「旭川」の詩碑が立っています。 2003年、同校の創立100周年、定時制の80周年を記念してつくられたそうです。

この年の8月2日に除幕式が行われました。詩碑には、宮沢賢治記念館に所蔵されている直筆の原書を写し取った文字が彫り込まれているのだそうです。


harutoshura at 16:35|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月17日

「旭川」② ハックニー

 ひきつづき「旭川」を読んでいきます。

黒布はゆれるしまるで十月の風だ。
一列馬をひく騎馬従卒のむれ、
この偶然の馬はハックニー
たてがみは火のやうにゆれる。
馬車の震動のこころよさ

ハックニー

賢治は旭川で、農事試験場までの道程を馬車を走らせています。その愉快な様子が歯切れ良く描写されていきます。

「黒布」というのは、馬車の窓の黒いカーテンか何かでしょうか。馬車に揺られて肌に感じられるのは、8月の、ではなくて「十月の風だ」と、詩人は北海道にいることを実感しています。

当時、旭川には帝国陸軍第7師団の主要部隊が置かれていました。第7師団は、北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体に、1896(明治29)年5月に編成。

日清戦争後、徐々に騎兵の兵力拡充が図られ、師団における騎兵の編制は、1中隊159人、5個中隊からなる騎兵連隊が標準とされ、旭川には騎兵第7連隊が置かれていました。

そんな近代陸軍の「騎馬従卒のむれ」と出会したのでしょうか。

「ハックニー」=写真=は、脚を高く上げて馬車を引く優雅な仕草で知られ、馬車用としては最上級とされる馬の品種。イギリス原産で、被毛が美しく、栗毛、鹿毛、黒鹿毛と青毛の毛色を持ちます。小さな頭に小さな耳、大きな目をして、首は長く、筋肉の発達がよいのが特徴です。

頑健で持久力に富み、勇気があり、馬車を引かせてもスピードと持久力が落ちない。軍馬としても評価が高く、強健な後肢で立ち上がり、敵の騎馬を威圧して踏み倒す馬術も取り入れられていました。

明治から昭和初期まで、実用馬として日本でも生産されました。1902(明治35)年には小岩井農場が種牡馬のブラックパフォーマーを輸入。1919年(大正8年)までに328頭の産駒を輩出したそうです。


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2015年06月16日

「旭川」① 六条の十三丁目

 きょうから「旭川」を読みます。こんなふうに始まります。

  旭川

植民地風のこんな小馬車に
朝はやくひとり乗ることのたのしさ
「農事試験場まで行って下さい。」
「六条の十三丁目だ。」
馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす。

上川農業試験場
 
萩原昌行によれば、1923(大正12)年8月1日の午後1時45分に、函館桟橋発の網走・根室行きの列車に乗った賢治は、2日午前4時55分に旭川に着いたと考えられます。

アメリカがイギリスなどの植民地であった時代の建築や家具で、ヨーロッパのデザインをまねた中にもシンプルさや機能性を求めたものをコロニアル(植民地風)といわれます。

北海道の大地に降りたって乗った「小馬車」に、賢治はそれに類する「植民地風」なものを感じたのでしょうか。列車での長旅での疲れも、吹き飛んで、すっかり元気になったようです。

北海道のほぼ中央の上川盆地の中心部にある旭川は、石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川など大小130の河川が流れています。内陸特有の気候で年間の気温差が大きく、夏は緯度の割に暑く、冬は北海道の中でも屈指の寒さになることで知られています。

明治以降、富山県東部などからの移住者たちによって開拓されました。1916(大正5)年の人口は64,391人。賢治のサハリンへの旅のの前年の1922(大正11)年8月1日に市制が施行され、北海道旭川区から旭川市になっています。

馬車に「ひとり」乗って「農事試験場」へと向かいます。賢治はここで何をしようとしたのか。以下、萩原昌行『宮澤賢治「銀河鉄道」への旅』からの引用です。

〈「言うまでもなく旭川の農事試験場を視るためであるが、現在では北海道立上川農業試験場である。本場は旭川市永山六条十八丁目三〇二番地(JR永山駅より南東へ約一キロメートル)。旧屯田兵練兵場跡(『北海道上川農業試験場百年史』一九八六年)。

これによると、地番が異っているのが気にかかるところであるが、北海道在住の賢治学会員の斎藤征義氏によると、これでも農事試験場にはさしさわりがないとのことである。また、こんな早朝に馬車は出るかとの問いにも、農業に携わる人のために早く馬車を出したとのことである。

これ以上のことは分らないけれど、賢治が早朝に馬車に乗って上川農事試験場へ向かったのは事実であろう。ここで賢治は何を見たのか。恐らくは大農方式による水稲栽培法に注目したと考えられる。……水稲に限らず、馬鈴薯、その他の作物も栽培していたので、それらも見学したであろう。〉

*写真は上川農業試験場(http://www.agri.hro.or.jp/kamikawa/index.htmlから)


harutoshura at 13:17|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月15日

「駒ヶ岳」㊦ 傘雲

 きょうは「駒ヶ岳」の後半部分です。

いまその赭い岩巓に
一抹の傘雲がかかる。
  (In the good summer time, In the good summer time;)
《ごらんなさい。
 その赭いやつの裾野は
 うつくしい木立になって傾斜スロープもやさしく
 黄いろな林道も通ってゐます。》
「全体その海の色はどうしたんでせう。
青くもないしあんまり変な色なやうです。」
「えゝ、それは雲の関係です。」
何が雲の関係だ。気圧がこんなに高いのに。

傘雲

「赭」は、火口の近くでよく見られる赤土(赭土)のことを指してます。「巓」(てん)は
山のてっぺん、いただきのこと。「その赭い岩巓」とは、まさに駒ヶ岳の頂上のことを言っているのでしょう。

「傘雲」=写真、wikiから=は、山や山脈で、風と地形の影響によって山頂付近を湿った空気が昇る際に断熱冷却されてできます。「一抹の」といっているところからすると、数十分で消えてしまう一時的な雲だったのかもしれません。

「In the good summer time」は、K.Shields作詩、G.Evans作曲で1902年にできたポピュラーソング。原曲名
は「In the good old summer time」となっています。賢治はこの曲に自ら作詞した「ポランの広場」を作っています。

《ごらんなさい。……》や「全体その海の色はどうしたんでせう。……」は、列車の同乗者たちの会話でしょう。

海水もバケツに汲んでみれば無色透明なのに「海の色」が青く見えたりするのは、太陽の光の散乱によると一般に考えられています。

太陽光は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、の7色のスペクトルに分解できます。このうち青の光は海水に対する透過率が最も高くて、深いところまで光が届きます。

青い光が、水分子や海水中の物質、海に浮かんでいる物などにぶつかって跳ね返る散乱現象により、青く見えるというわけです。

海はいつも青いわけではなく、その時の気象や環境によって光の散乱のあり方が変化して、エメラルドグリーンに見えたり、黒っぽく見えたりすると考えられます。

「あんまり変な色」も、この日の太陽光の散乱反射のなせるものなのでしょう。
 
雲は、水蒸気を含む空気が上昇して冷やされることによってできます。大気中では、上空ほど気圧が低くなるため、上昇した空気は膨張します。断熱膨張すると、温度は下がります。

一定量の大気中に存在できる水蒸気量には限界があります。存在できる最大の水蒸気量を飽和水蒸気量といい、この状態を飽和といいます。

飽和水蒸気量は温度が下がるほど少ないため、飽和していない空気でも温度が下がっていくと、空気中の水蒸気量の方が飽和水蒸気量より多い過飽和の状態になります。

過飽和の状態になってあふれ出した水蒸気に、海水のしぶきからできた塩の小さな粒や火山の噴煙や工場煤煙などの粒子がタネになって水滴になり、次第に大きくなって雲が形成されるわけです。

高気圧の下の地表付近は周囲より気圧が高いため、周囲との気圧の差により風が吹き出しています。それを補充するために空気が上空から降りてきます。これを下降気流といいます。

高気圧の中では一般に雲が発生しにくくなっていますが、低気圧では逆に周囲との気圧差により、中心に向かって空気が集まり上昇気流が発生します。

こうして上昇気流があると、先に述べたしくみで雲ができ、雨が降りやすくなります。低気圧が発達するほど、中心に流れ込む風は強くなるために、上昇気流も強くなって大規模な雨雲ができます。

こうしたメカニズムを知っている賢治は「何が雲の関係だ。気圧がこんなに高いのに」と科学者の目で話を聞いています。


harutoshura at 15:03|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月14日

「駒ヶ岳」㊤ 三千六百五十尺

 きょうから「駒ヶ岳」を読みます。冒頭は―――

弱々しく白いそらにのびあがり
その無遠慮な火山礫の盛りあがり
黒く削られたのは溶けたものの古いもの
 (喬木帯灌木帯、苔蘇帯といふやうなことは
  まるっきり偶然のことなんだ。三千六百五十尺)

北海道駒ヶ岳

「駒ヶ岳」には日付はありませんが、「津軽海峡」につづく、サハリンへの旅の途上で作られたと考えられます。

青函連絡船で北海道の函館にたどりついた賢治は、萩原昌好によると、1923(大正12)年8月1日の午後1時45分に、函館桟橋発の網走・根室行きの列車に乗ったと考えられます。きっと、その列車の車室から、駒ヶ岳を望んでいるのでしょう。 

北海道の駒ヶ岳=写真、wiki=は、渡島半島のランドマークとなっている、森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1,131mの活火山(成層火山)。蝦夷駒ヶ岳、渡島駒ヶ岳とも呼ばれます。

山頂部には直径約2 kmの火口原があり、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せています。山頂直下からガリ侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上にあります。

大沼方面からみると横に長く、なだらかで優美な女性的印象で、馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来とされています。森町方面や鹿部方面からみると一変して荒々しい山肌の男性的な激しい姿を見せます。

地質は安山岩質で、軽石などの火山砕屑物が山の周辺に厚く堆積しています。那須火山帯に属し、噴火活動は、3-4万年前から断続的に行われてきたと考えられています。

賢治が訪れたことも、火砕流を伴う小規模な水蒸気噴火を繰り返していた時期にあたります。

「火山礫」は、火山噴火により生じた火山岩片で、直径2 ~ 64 mmのものをいいます。ちなみに直径64 mm以上のものは火山岩塊、直径2 mm未満のものは、火山灰と呼ばれます。

 「喬木帯灌木帯、苔蘚帯」は、山に自生する植物の帯域のこと。「喬木」は高木ともいわれ、おおよそ人間の背丈より高いものをいいます。それより低いのが「灌木」で、低木ともいわれます。「蘚苔」は、コケ類のこと。

「三千六百五十尺」は、1,100mくらい。標高を言っているのでしょう。


harutoshura at 07:03|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月13日

「津軽海峡」⑧ くるみ色

 きょうは「津軽海峡」の最後の部分です。

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

くるみ色

「くるみ色」は、クルミの樹皮や果皮を染料として染めた淡い茶色で、平安時代にすでに、布地や紙の染色に使われていました。表は香色、裏は青の襲かさねの色目の名でもあります。

明治になって、貿易港となった神戸や横浜などに日本でもインド人が住み着くようになり、神戸にはインド人コミュニティーも生まれていました。

排気筒の下に座っている自身のことを「印度の移民」といったのは、当時インドからの移民は船室に入れてもらえなかった、というようなことがあったからでしょうか。

イルカにも期待した、賢治が待ち焦がれているトシからの通信。しかし、「眼をとぢ」たとき空から来るのは「にせもののピンクの通信」。すなわち、トシからのものではないのです。

「ピンク」は明度が高く彩度の低い赤色。心理的に、興奮状態を落ち着かせ、緊張をほぐし、リラックスさせる色として知られますが、このフレーズからすると賢治は、ピンクにあまり良いイメージを持っていなかったようです。 

「船艙」は、ふなぐら。船舶で、貨物を積んでおくところで、上甲板の下方にあり隔壁で囲まれています。

「かつぎ」は、「蕎麦屋のかつぎが(漱石「三四郎」)」のように、物をかついで運ぶこと、または運ぶ人のことです。 

「黒いかつぎのカトリックの尼さん」は『銀河鉄道の夜』で、「ジョバンニのうしろには、いつから乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、虔んで聞いているように見えました」(七、北十字とプリオシン海岸)として登場します。

「ブラス」は黄銅のこと、真鍮ともよく呼ばれます。銅と亜鉛の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいいます。

適度な強度、展延性を持つ扱いやすい合金として、350年ほど前から広く利用されています。適度な硬さと展延性から、精密機械や給水管など微細な切削加工を要する金属部品の材料として使われています。

この詩のようにして、賢治は「津軽海峡」を渡って函館へとたどりついたのです。


harutoshura at 11:21|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月12日

「津軽海峡」⑦ 責善寮

 ひきつづき「津軽海峡」を読んでいきます。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはひれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

船首
 
確かにイルカは「ぬるぬる」という感じがします。でも実際はヌルヌルというよりは、ツルツルした感じで、ゴムのような手触りのようです。

マイルカは、たいてい10頭から50頭くらいの群れをなして、ジャンプして水をはねたり非常にアクティブに行動します。

イルカは魚やイカが主食。カモメの食性は雑食で、主に魚類、動物の死骸などを食べます。あの「かなし」そうな声を上げながら、餌を求めてイルカのあとを追うようについて来ているのでしょう。

イルカは「キリキリ」というように聞こえる音を出して、エコロケーション(音響定位)で周囲の状況を把握したり、仲間間のコミュニケーションをとったりするそうです。

潮吹き穴の下で出した音を額の内側にあるメロンという器官で調整して発射、反響してきた振動をとらえて、魚の群れなど対象までの距離、大きさ、形、さらには水温まで認知できるとか。

こうした能力によって、人間にはできない高度なコミュニケーション能力があるとも考えられています。

しかし、死んだ妹トシの魂との交信をめざした旅の途上で、実際にイルカと眼前で接してみて「信号だの何だのみんなうそだ」とがっかりしています。

「小石川の責善寮」というのは、妹のトシが通っていた日本女子大学校の寄宿寮のこと。現在はありませんが、昔の東京府北豊島郡高田村の大学に隣接していたそうです。

イルカは高度な「信号」をもつ神聖な生き物、というイメージを賢治も持っていたのでしょう。

でも、それは「どこかちがった処へ行ったおまへ」と交信できるようなものではなかった。イルカも単なる「けだもの」でしかなかったのです。


harutoshura at 14:16|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年06月11日

「津軽海峡」⑥ 錫いろの陰影

 きょうも「津軽海峡」のつづきです。

向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

マイルカ

「水の中でものを考へるさかな」とは、詩の後半に出てくる「いるか」のことでしょう。イルカとクジラに、分類学上の区別はありません。日本では、だいたい体長4mを、クジラとイルカの境界と考えることが多いようです。

イルカは体重に占める脳の割合がヒトに次いで大きいため「頭がいい」のではないかと、知性をもっている可能性が古くから指摘されています。ただ、イルカの脳はサイズは大きいもののグリア細胞が多く、ニューロン自体の密度はそれほど高くないともいわれます。

イルカはまた、高い周波数をもったパルス音を出して、物に反射した音からその特徴を知る能力を持っています。これを用いることによるコミュニケーション能力は高く、人間のようないじめをすることもわかっているとか。

この詩に出てくるイルカは、水族館でよく目にするハンドウイルカではなく、“真のイルカ”、マイルカ=写真、wiki=でしょう。好奇心が旺盛で人懐っこいハンドウイルカに比べて神経質な性格とされ、飼育例はあまり多くありません。

イルカは、船がつくる船首波のあたりを飛び跳ねることが良く知られています。その光景が「黒く尖った尾と/滑らかに新らしいせなかの/波から弧をつくってあらはれる」だったのでしょうか。

「錫」は、炭素族元素に分類される金属で、錫石に含まれます。常温、常圧での結晶構造は正方晶で、白銀色のβスズ(白色スズ)と言われる金属。高温(161 °C以上)でγスズ(斜方スズ)、低温(13 °C以下)で灰色をしたαスズになります。

金属スズを曲げると、結晶構造が変化して“スズ鳴き”と呼ばれる独特の音がします。「錫いろ」は、染め色の名としてはふつう、白みを帯びたねずみ色、ぎんねずのことをいいます。賢治は、波や光の微妙な変化の描写に「錫」をよく用いています。。

「浅黄」は文字通り、薄い黄色、淡黄色。〈大きな荷物をしょった、汚ない浅黄服の支那人が、きょろきょろあたりを見まわしながら、通りかかって、いきなり山男の肩をたたいて言いました。「あなた、支那反物よろしいか。六神丸たいさんやすい。」〉(「山男の四月」)など、この色は賢治作品にしばしば登場します。

船員が待っている「問」というのは、「私」が、その魚は何なのかを尋ねることなのでしょう。答えを用意して待ち構えているのが、「少しわらってゐる」ところに察知されるのでしょう。


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2015年06月10日

「津軽海峡」⑤ うみがらす

 きょうも「津軽海峡」のつづきを読みます。

船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)

うみがらす

「塩焼く煙かすかにたなびきて」(源氏・明石)というように、物の形や音がかろうじて認められる程度である様子、勢いがなくて弱々しいさまが「かすか」。

船が「かすか」に左右にゆれるのに対応して、鉛筆の影が「すみやか」に動きます。「すみやか」は、速やか。「御船すみやかに漕がしたまへ」(土佐日記)のように、速度や物事の進行がはやいさまをいいます。

日本では長く文書を毛筆で書くしきたりがあり、鉛筆の普及は遅れました。1885年、英語教育に関する本が相ついで発刊されたのに伴って大量の鉛筆がアメリカから輸入されました。このころから、学校では徐々に鉛筆が使われはじめるようになりました。

日本で最初の鉛筆の量産は、1887年に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の三菱鉛筆)創業者、真崎仁六によってはじまります。1901年に逓信省がこの真崎鉛筆を採用し、郵便局内だけでしたが全国に鉛筆が供給されるようになりました。

1920年ころまでに、小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活にも浸透するようになったと考えられています。ちょうどそんなころ、この詩が作られているわけです。

賢治は、常に鉛筆やシャープペンシルを持ち歩いて、手帳に書き記していました。その「鉛筆の影」でしょうか。

「日光は音なく注いでゐる。」はなんということもない表現ですが、「船」と「鉛筆の影」との対比につづくと、実に効果的で美しく響きます。そして、「三羽のうみがらす」が登場します。

「うみがらす」=写真、wiki=は、チドリ目ウミスズメ科に属する海鳥。体長40cmほどあり、ウミスズメ科の中で最も大きい種類です。背中は暗褐色で、腹は白い。くちばしが長くて、脚は尾の近くにあり翼も尾も短いので歩いている姿はペンギンを想像させます。

日本周辺ではサハリンの海豹島、海馬島、ハバロフスク周辺、歯舞群島などに分布し、冬期には本州の北部まで南下します。かつては北海道羽幌町天売島、松前町渡島小島などで繁殖し、その鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれていました。

「うすれ日や微かな虹」の中に映えていた「岬の白い燈台」でしたが「もう空の網でめちゃめちゃだ」といいます。

賢治の童話「インドラの網」に、「私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました」とあります。

インドラとは、帝釈天のこと。帝釈天の宮殿にかかっているのがインドラの網で、網は宝珠で結ばれ、無数の宝珠は互いに映じ合い、映じた宝珠はまた映じあって無限に続くとされます。

一の中に一切を含み、一切の一つ一つの中にまた他の一切を含むという一即一切の思想を視覚的に表現しているものといわれます。賢治が見ている「空の網」とは、このインドラの網と絡んでいるのでしょうか。


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2015年06月09日

「津軽海峡」④ 帆綱

 きょうも「津軽海峡」のつづきを読んでいきます。

さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。

帆綱

「帆綱」は、ほづな、ほなわは。帆を上げ下げしたり、つなぎとめたりする帆装用の綱を総称していいます。

「伯林青」はプルシャンブルーのこと。ふつうは、紫色を帯びた暗い青色で、紺青のことを指しています。1704年にドイツのベルリンでディースバッハ (Diesbach) によってこの顔料が発見されました。

発見地であるドイツの旧王国名プロイセンから、プルシアンブルーと呼ばれるようになりました。七年戦争当時は、プロイセンの歩兵と砲兵とはこの染料で染めた青い制服を使用していたそうです。

「方処」は文字通り、方向と場所のことです。「我国四周大海、外賊の来る―なし」(公議所日誌・一二)

「呼子」は、呼子笛(よびこぶえ)のことでしょう。ホイッスルと同じ意味で使われることもあります。共鳴胴の中にコルクやストローでできた軽い玉を入れた笛で、ピリピリピリ…」と短いサイクルで音調が変化する、非常に甲高い音を出します。

原義は「人を呼ぶ合図に吹く小さな笛」で、目明しなど江戸時代の警察機構の構成員によって用いられたことによるそうです。

水に濡れても遠くまで音が響くので、船舶をはじめ、海上保安庁、ライフセーバー、ボーイスカウトなど、水に濡れることが多い場面でよく用いられています。

波は深い伯林青、帆綱をぴんと張り、呼子笛が鳴る。海のうえのすきっとした気持ちのいい雰囲気がつたわってきます。

地球を包んでいる大気の占める領域が「気圏」ですが、自身を海底に住む修羅に喩えていた賢治は、気圏を海中のイメージでとらえていたようです。

甲板上の景色から、心象風景へと視線が移っていきます。


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2015年06月08日

「津軽海峡」③ ブラウン氏運動

 きょうも「津軽海峡」のつづきを読んでいきます。

向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛へ
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。

ブラウン

「ブラウン氏運動」とは、ブラウン運動(Brownian motion)のこと。液体のような溶媒中に浮遊するコロイドなどの微粒子が、周りある物質分子の熱運動の影響でランダムな運動をする現象のことをいいます。

1827年に、イギリスの植物学者ロバート・ブラウン(1773–1858)=写真=が、水の浸透圧で破裂した花粉から水中に流れ出し、浮遊した微粒子を顕微鏡で観察中に発見しました。

この現象は長く原因が不明でしたが、アインシュタインが、特殊相対性理論など革命的な論文をまとめて発表し「奇跡の年」と呼ばれる1905年に、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引き起こされてることを解明しています。

賢治は、化学の実験などでブラウン運動を実際に目にしていたでしょうし、アインシュタインの業績についても注視していたのでしょう。

「亜鉛張りの浪」で、「まっ白に湛へ」た海上を動く、「小さな黒い漁船」を、ブラウン運動をしている運動体として捉えています。

賢治には、船から眺めている海が、地球というシャーレの中に浮かんでいる上澄み液のように見えているのでしょうか。その絶妙で新鮮な観察眼と、視野の大きさにはいつもながら驚かされます。

「パナマ帽」は、パナマソウの葉を細く裂いた紐で作られる、夏用のつば付の帽子。起源はパナマではなくエクアドルのようです。1834年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まったともいわれています。

パナマソウの葉を細く裂いた紐を編んで作ります。丈夫で軽い素材なので、高級なものだと数十年使い続けられるとか。日本では戦前、紳士用の正装としてカンカン帽と共に夏に愛用されていたようです。

「麦稈」(ばっかん)は麦わら帽子のこと。「デック」は、船の甲板、デッキのことでしょう。もとはオランダ語の「dek」で、原義は中期オランダ語で「覆い」「屋根」などを意味したようです。

子が親に似るという「遺伝」を科学的に説明する遺伝学が誕生するきっかけになったメンデルの法則は、オーストリアのグレゴール・ヨハン・メンデルによって1865年に報告されましたが、当初はあまり注目されることはありませんでした。

ところが1900年に、カール・エリッヒ・コレンス(ドイツ)、エーリヒ・フォン・チェルマク(オーストリア)、ユーゴー・ド・フリース(オランダ)の3人の独立した研究により再発見され、その考え方は爆発的に世界的に広まっていきました。

賢治のような農学者たちも、科学的に解明されはじめた「遺伝」を、品種改良などにかかわる最新の話題として注目していたことでしょう。


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2015年06月07日

「津軽海峡」② かもめ

 きょうは、「津軽海峡」のつづき、5行目から12行目です。

中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいベーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)

カモメ

「中学校の四年生のあのときの旅」とは、1912年、明治から大正に変わった年の5月27~28日に行われた旧制盛岡中学の修学旅行のことでしょうか。

5月27日(月)、4年生84人で、午前3時30分盛岡駅を発。一関へ出て、北上川畔狐禅寺まで徒歩4キロ。ここから川蒸気外輪船岩手丸70トンで石巻へ向かい、下船後、日和山に登って海を見ます。この日は石巻に一泊。

翌28日(火)には、船で金華山へ向かう予定でした風が強かったため変更になり、10時ごろ船で松島へ向かいましたが、海が荒れて吐く者が続出しました。冒頭のフレーズは、その時の経験を指しているのかもしれません。

この日はその後、瑞巌寺を見物してから塩釜へ。賢治は教師の許可を得てひとり、塩釜駅東南約7キロの菖蒲田に病気療養中の伯母平賀ヤギを大東館に訪ね、いっしょに磯を歩き、そこで一泊しています。

実験室で少量の気体を発生させる際、雪だるま状に縦に三つに並んだガラス製の容器、いわゆるキップの装置を使って砒素を入れると、砒化水素ができます。それを燃やすと、かざした板に真っ黒くてツヤのある砒素が付きます。それが鏡のようなので、賢治は「砒素(ひそ)鏡」と表現しています。 

「かもめ」=写真=は、海上に群棲するチドリ目カモメ科の、たいてい白色をしたカラスくらいの大きさの鳥。海の風物詩として昔から、多くの詩歌や歌謡に登場します。夏には頭部から頸部にかけて斑紋が無く、冬は頭部から頸部にかけて淡褐色の斑点が入ります。

アラスカと東シベリアの間の「ベーリング海峡」をはじめとする北極域の海氷面積は、2月末に最大となり、9月半ばに最小となます。7~8月には通常、北極域で融解が急激に進みますが、賢治は「今年はまだみんな融け切らず」と、寒冷な年であることを実感しているのです。

日本海を北上する暖流は底の浅い津軽海峡に入ると急に潮流が早くなります。逆に、太平洋側から水温20度ほどの「寒流」が流れ込み、複雑な潮流を形成しています。津軽海峡の潮流は早いところで時速12kmに達するそうです。


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2015年06月06日

「津軽海峡」① チーク

 きょうから「津軽海峡」に入ります。「青森挽歌」「青森挽歌 三」と同じく、賢治の北海道・サハリンへの旅の2日目「1923、8、1」の日付があります。

  津軽海峡

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。

津軽海峡

「津軽海峡」=写真=は、北海道と青森県との間、日本海と太平洋とを結ぶ海峡です。東西約130km、最大水深は約450m。青函トンネル(海峡線)が1988(昭和63)年3月に開通。2005(平成17)年5月には同トンネルを通る北海道新幹線が着工しました。

1908(明治41)年から、青函トンネルが開通する1988(昭和63)年までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間は青函連絡船で結ばれていました。実距離は61海里、旅客営業キロ程113.0km、貨物営業キロ程300km。

1908年(明治41年)3月に帝国鉄道庁(国鉄)が運航を開始。最新鋭の蒸気タービン船「比羅夫丸(ひらふまる)」が就航し、青森 ~函館間を4時間で結びました。

1910(明治43)年には、函館側で艀(はしけ)を使って乗降していたのが、岸壁からの直接乗降になります。青森側は地盤が悪く工事が難航しましたが、賢治が渡った1923(大正12)年からは直接乗降に切り替わっています。

萩原昌好の推定によれば、8月1日午前5時20分に青森に着いた賢治は、7時58分の青函連絡船に乗船しています。「津軽海峡」はその船上で作られたようです。

当然ですが、「津軽海峡」は朝の場面からはじまります。「稀薄」とは、液体や気体などの濃度や密度がうすいこと。「夏の稀薄」ということは、夏だけれども津軽海峡の早朝もなると、大気も相当に冷え込んでいるのでしょう。

「玉髄」(カルセドニー)とは、石英の非常に細かい結晶が網目状に集まり、緻密に固まった鉱物の変種です。不透明、短灰色で、しばしばブドウ状の外観を呈します。賢治は、雲のたとえにしばしば使っています。

「亜鉛」は青味を帯びた銀白色で、鈍い光沢を放つ金属。湿った空気中では錆びやすく、灰白色の塩基性炭酸亜鉛で覆われます。

「亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き」というのは、波の色はもちろん、光沢やうねりの厚さ、質感まで、びったりの比喩。これぞ天才、と思わせるこの上なく美しい表現です。

「チーク」は、シソ科チーク属の落葉高木の総称です。高さは30~40m。材質は堅くて伸縮率が小さく、水に強くて耐久性があるので、甲板・内装などの船舶用材をはじめ家具などの用材、建築材として広く使われています。名前はインドケーララ州の言葉マラヤーラム語の「thekku」に由来するそうです。


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2015年06月05日

「青森挽歌 三」⑤ 苹果青

 きょうは「青森挽歌 三」の最後の部分です。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。
「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍靛に光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

祝

「その声」とは、きのう読んだ「何だ、うな、死んだなんて/いゝ位のごと云って/今ごろ此処ら歩てるな」という、「さう叫んだ」にちがひない「私」の声ということになるのでしょう。

しかしその声は、風の中へと攪乱されてしまいます。「私は風の中に分散してかけた」というのは、夢うつつの半覚醒状態に入って行ったことを指しているように思われます。

「太洋を見はらす巨きな家の中で」から「苹果をたべると云ふんですか」まで、「巡査」や「高等学校の先生」の先生が登場する状景が描かれていますが、とりとめのない描写で脈絡はよくつかめません。

脳が半覚醒状態になったときに見るという明晰夢のなかにいるのでしょうか。明晰夢は、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のこと。夢の状況を自分である程度コントロールすることができるといわれます。

覚醒時に入力された情報を整理する前段階で、前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられています。無意識の夢と意識的な想像の中間的な状態で、悪夢を自分に都合の良い内容に変えたりすることもできるとか。
 
「藍靛」(らんてん)は、藍(あい)の色素成分でインジゴのこと。藍の葉を刻んで水に浸して、かき混ぜながら2週間ほど置くと、徐々に沈殿物ができてきます。その塊が藍靛。染色に用いられ、古くはローマ時代からインドの特産品として知られていました。

この詩には「8月1日」の日付があります。「いまごろまっ赤な苹果はありません。/爽やかな苹果青のその苹果」というのは、8月中旬ごろ成熟期を迎える青色をした早生の小玉リンゴ「祝」=写真=ではないでしょうか。

原産はアメリカで、1800年代初めころからある古い品種。日本では、青森県で1875(明治8)年に配布された苗木を篤農家が試作し、それが大導寺繁禎園で初結実するなど、明治期から栽培が盛んになりました。

当初は地方によって呼び名が違っていましたが、1900(明治33年)年、祝に統一されたそうです。樹齢130年、青森県柏村(現・つがる市)にある日本で最も古い祝は、「りんごの樹」として青森県の天然記念物に指定されているそうです。


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2015年06月04日

「青森挽歌 三」④ 酵母のやうな

 「青森挽歌 三」のつづきです。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
(それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。

酵母

「酵母」は、発酵に用いられるなど工業的に重要な酵母菌のこと。基本的に真核で単細胞性の微生物で、運動性はなく細胞壁を持っています。

形は特徴の少ない白色の円形、楕円、雲形をしています。出芽または分裂によって増え、増殖した細胞が、互いに不完全にくっついて樹枝状を呈する場合もあります。

賢治は、形や色からの連想で雲あるいは、この詩のように雪や吹雪に見立てたりしています。

トシを亡くした喪失感は尋常なものではありませんでした。生涯、間断なく大量の詩を書き続けた賢治ですが、1922年11月27日付けの「無声慟哭」から7カ月間、詩を書かなくなります。

その間の、まだ、トシの死を自身の中でどう受け入れたらいいのか戸惑っている時期の回想が、この詩の中に盛り込まれています。

勤め先の農学校から坂を走って降りてきたとき「柳沢洋服店のガラスの前」で、日暮れ間近、濃い青である「藍色」がかった雪煙のなか、現実なのか、幻なのか知れませんが、トシによく似た女性を見かけたのでしょう。

「屈折」は、光がある物質から別の物質に進むときに境界で進行方向を変える現象。その女性が「ちょっとわらったやうにさへ見えた」のを、風と雪との屈折の違いによると、賢治らしいいつもの発想をしています。

「うな」は、お前、あなたを意味する二人称代名詞。「死んだなんて、いい加減なことを言って」と叫んだに違いないはずなのです。


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2015年06月03日

「青森挽歌 三」③ 法隆寺の停車場

 「青森挽歌 三」のつづき、きょうは15行目から30行目までです。

青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはひるとき
或いは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。
私が夜の車室に立ちあがれば
みんなは大ていねむってゐる。
その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。
「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

hou

月が「青ぞらで溶け残る」とは、月が青空にかすかな輪郭を留める様子のことでしょう。実に美しい表現です。こうした瞬間に、きのう読んだ、

巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

という「現象」が「必ず起る」といっています。

「青ざめたあけ方の孔雀のはね」は次に出てくる「やはらかな草いろの夢」のことを意味しているのでしょう。

「くわらす」という言葉の意味はよくわかりません。こういう方言があるのでしょうか。「くらわす」それとも「くゆらす(おだやかに立ちのぼらせる)」といった意味合いで使っているのでしょうか。

文意から類推すれば、草いろの夢に「見えてくるのは」「現れてくるのは」といった意味に取ることもできそうです。

寝ぼけてぼんやりした「仮睡硅酸」の明け方のまどろみにあって、車室に眠りこんでいる人たちの「右側の中ごろの席」にいる人が、死んだ「とし子」のように見えてきました。

そして、いつかの旅の途上「法隆寺の停車場」で父が見かけた「わらす」(童子、子ども)に「まるっきり肖たものもあるもんだ」と言った言葉がよみがえってきます。

この詩を作った2年前の1921年4月、賢治の突然の東京出奔を心配して上京した父政次郎と、関西旅行をしています。政次郎はこの旅で、息子の信仰心を国柱会から改心させようと思っていたようです。

旅は比叡山伝教大師千百年遠忌、聖徳太子千三百年遠忌参詣などを兼ねたもので、この際、奈良の法隆寺にも参詣しています。


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2015年06月02日

「青森挽歌 三」② 軟玉と銀のモナド

 きょうは「青森挽歌 三」の続き、5行目からです。

それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

巻積雲

この5行目から14行目までと「青森挽歌」の213~222行目は、ほぼ同じです。

「軟玉」とはネフライトのこと、緑色不透明な角閃石の繊維状鉱物です。硬玉(ジェダイト)に対して、硬度が低いためこう呼ばれます。

中国では軟玉しか採れず、古くは玉と呼ばれ、古代から中国で価値ある宝石として多く使われていました。日本ではネフライトとジェダイトは翡翠と総称され、昔は似た鉱物と考えられていました。

ライプニッツによれば、どこまでも分割されるものは真の実体ではなく、ただ精神だけが分割されない真の実体とされ、それを「モナド」と呼んでいます。

モナドは出入りする窓を持たないが、宇宙を映す生ける鏡でもあるとされます。モナドはそれ自身が独立していながら、すでに世界を内包している。個にして全であるわけです。

「それはおもてが軟玉と銀のモナド」の「それ」とは、「仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に」空から射し込んでくる光のことでしょうか。光り輝く物質の微粒子に「モナド」を加えることで精神的な色合いを加味しようとしているように思えます。

「巻積雲」=写真=は、白く陰影のない極小さな雲片が群れをなし、魚の鱗や波のような形をした雲をいいます。5~15kmほどの空高くに浮かび、雲を構成する粒は氷の結晶からできています。

うろこのような無数の塊は、層状雲の上辺が放射冷却によって一様に冷却されることによる細胞状対流の産物です。

温暖前線や熱帯低気圧の接近時には巻雲に次いで現れ、これら二つの雲が順にみられると、天気が悪化する前兆といえます。

そんな巻積雲の「はらわたまで/月のあかりは浸みわたり」それが「あやしい蛍光板」となって、「いよいよあやしい匂か光かを発散し/なめらかに硬い硝子さへ越えて来る」。賢治の観察眼の鋭さがうかがえます。


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2015年06月01日

「青森挽歌 三」① 硅酸

 つぎは「青森挽歌 三」です。『春と修羅』の本篇にあった「青森挽歌」と同じ「1923、8、1」の日付があります。冒頭は――

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。

珪酸
 
「青森挽歌 三」と「青森挽歌」は全体で9行分、共通したところがあるため、「青森挽歌」の異稿という見方もできそうです。しかし、「青森挽歌」には見られない描写やディテールがあり、また違った味わいが楽しめるように思われます。

「青森挽歌」を読んだときにもふれましたが、賢治は1923年7月31日、青森から、北海道、樺太へと渡る旅行に出発しました。表向きは教え子の就職を斡旋するため、ということでしたが、実際は、この前年に死んだ妹トシとの魂の交信を求める傷心旅行でした。

8月1日には、夜の0時半に青森発の連絡船に乗り、函館に5時着。札幌で時間を調整して、夜行で旭川へと向かっています。

「仮睡硅酸」は、賢治独特の用法で、寝ぼけてぼんやりしている状態のことを言っているのでしょう。「仮睡」は、「交代で仮睡する」というように、少しの間眠ること、仮眠、仮寝、うたたねをいいます。

「硅酸」=写真、wiki=は、白い結晶で、ガラスや乾燥剤、吸着剤として用いられます。熱水やアルカリに溶け、冷水にもわずかに溶けますが、酸には溶けません。濃硫酸や無水エタノールによって脱水されます。

こうした化学的な性質なども十分に頭に入れたうえで、賢治は「仮睡硅酸の溶け残った」といった絶妙な比喩表現を生みだしたのでしょう。

賢治作品には「苹果」の彩りや形、味覚だけでなく、ここにあるような「匂」の表現にもよく用います。

青森は、明治の初めに西洋リンゴが入ってから栽培が拡大、当時すでに日本一の産地でした。1922(大正11)年は、生産量250万箱と大豊作。実際にリンゴの匂いがしてきても不思議ではないでしょう。

「青森挽歌」には「紐になってながれるそらの楽音」という一節があましたが、リンゴの匂いが「透明な紐になって流れて来る」というのもまた、独創的な表現です。

嗅覚でとらえる匂いや見えないはずの音が、詩人の眼には紐状になって見えていたのかもしれません。 


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