2015年05月

2015年05月31日

「厨川停車場」㊦ くわくこう

  きょうは「厨川停車場」の後半、二つの連です。

(えゝと、済みませんがね、
 ぼろぼろの繻子のマント、
 あの汽車へ忘れたんですが。)
(何ばん目の車です。)………
 (二等の前の車だけぁな。)

Larix, Larix, Larix,
青い短い針を噴き、
夕陽はいまは空いっぱいのビール、
くわくこうは あっちでもこっちでも、
ぼろぼろになり 紐になって啼いてゐる。

カッコウ

「繻子」(じゅす)は、繻子織りにした織物。繻子織は、経(たて)糸か緯(よこ)糸かどちらか一方だけを表面に浮かせた織りかたをするのが特徴で、密度が高く地は厚いものの柔らかく光沢があります。帯地によく用いられますが、ここでは「マント」。

賢治の時代、列車の客車は3等級に分かれていました。鉄道開業当初は上等、中等、下等でしたが、「下等」が乗客の感情を害するとして1897(明治30)年に一等、二等、三等に変更。

客車には等級ごと、一等=白、二等=青、三等=赤といった帯色の塗りわけがあったそうです。「二等の前の車」とは、一等でしょうか、三等でしょうか?

「Larix」はマツ科の属の一つ、カラマツ属の学名。マツ属の学名はPinusです。カラマツ(Larix kaempferi)などの種が知られています。樹皮は暗褐色で鱗状。葉はマツより短めの針葉で、20~40本束状に生えます。葉はさほど密集して生えないので、林内はそんなに暗くはなりません。

「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」には「東のそらは、……琥珀色のビールで一杯に」とあります。この詩では「夕陽」を「ビール」に喩えています。このように賢治は、空や陽の光の比喩にもビールを重用していました。

「くわくこう」=写真、wiki=は、ユーラシア大陸とアフリカで広く繁殖し、日本には夏鳥として5月ごろ飛来します。名前はオスの鳴き声に由来します。母鳥は他の鳥の巣に散乱して自分では育てない托卵をすることがよく知られています。

巣の中にあった卵をひとつ持ち去って数を合わせます。ヒナは10日余りと短期間で孵り、巣の持ち主のヒナより早く生まれることが多いそうです。

さびれてしまった様子を「閑古鳥が鳴く」といいますが、閑古鳥とはカッコウのこと。芭蕉に「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」という有名な句もあります。

古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じたようですが、ここでは「ぼろぼろにな」る、と表現されています。「ぼろぼろ」とは、「ひどくいたんでいるさま」や「心身とも疲れきっているさま」などの形容に使われますが、ここではカッコウが「紐」のように列をなして、疲れ切った声で啼いているのでしょうか。

「ビール瓶のかけら」のけむりや「苹果酒〈サイダー〉でいっぱい」の夕方の景色を背景に、「東京で引っぱられた」とうわさされる鼠縞のネクタイの社会主義者、「ぼろぼろの繻子のマント」を忘れてしまったという乗客など、賢治でしかできない比喩表現で、当時の駅の様子が見事に浮き彫りにされている作品だと思います。


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2015年05月30日

「厨川停車場」㊥ 社会主義者

 きょうは「厨川(くりやがわ)停車場」の第2連。突如、社会主義者が登場します。

(あれは有名な社会主義者だよ。
 何回か東京で引っぱられた。)
髪はきれいに分け、
まだはたち前なのに、
三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。

Trotsky_Lenin

「社会主義」は、個人主義的な自由経済や資本主義社会の弊害に対して、生産手段の共有や共同管理、計画的な生産と平等な分配を民主的に実践する社会を目指す思想や運動、体制のことをいいます。

欧米諸国で広まっていた社会主義の思想や運動は、明治初めから国内にも入って来ていました。1897(明治30)年ころからその勢いは増し、社会主義運動とそれに対する政府の弾圧が繰り返されることになります。

1917年2月にはロシア革命が勃発。同年10月にはレーニンやトロツキー=写真、wiki=らボルシェヴィキが主導する社会主義革命に発展します。
 
ロシアでは革命軍と反革命軍との対立が高じて内戦状態になり、共産党(ボルシェヴィキ)による一党独裁体制へと移行していくことになります。

1919年には共産主義の国際組織である第3インターナショナル(コミンテルン)が結成され、支部でもある共産党が各国で設立されていきます。この詩が作られた1922年には、コミンテルン日本支部が、非合法の第1次共産党が結成されています。

こうした緊迫した世界情勢のなか、「何回か東京で引っぱられた」とうわさされる「有名な社会主義者」が、岩手のさほど大きくもない厨川停車場でも見かけられたのです。

その社会主義者は「髪はきれいに分け」て「はたち前なのに、/三十にも見える」、いかにもそれらしい西洋の革命思想を引っさげた知識人の雰囲気をぷんぷん漂わせていたのかもしれません。

「鼠縞」(ねずみじま、ねずじま)は通常、縞木綿の一つで、地糸に紺糸を用い、縞糸にねずみ色の糸を用いた織物をいいます。鼠縞のネクタイが当時流行っていたのか、フォーマルな落ち着きを印象づけたのか、よくわかりませんが、詩人はその「老けやう」と「鼠縞」が妙に気になっているようです。

ところで、非日本共産党系の運動家たちは労農派と呼ばれ、1926年には労働農民党が結成されます。同年12月には花巻で、30人余りによって、労農党稗和支部が結成されました。

賢治は内々にシンパとしてこれに協力。設立の際には、本家の長屋を事務所として借りる世話や机や椅子など備品を提供。選挙のときには借金をしてまでカンパをするなど、経済的な支援も惜しまなかったそうです。


harutoshura at 01:36|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月29日

「厨川停車場」㊤ サイダー

 きょうから「厨川停車場」に入ります。「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」の10日余り後の「1922、6、2」の日付があります。4連からなり、1連目が7行のほかは、各5行の構成です。第1連は――

(もうすっかり夕方ですね。)
けむりはビール瓶のかけらなのに、
それらは苹果酒〈サイダー〉でいっぱいだ。
(ぢゃ、さよなら。)
砂利は北上山地製、
(あ、僕、車の中へマント忘れた。
すっかりはなしこんでゐて。)

三ツ矢サイダー

「厨川」は、岩手県中央部にある旧厨川村、いまは盛岡市の一地区です。南に雫石川、東に北上川が流れています。平安時代後期、安倍氏が滅んで清原氏が東北の覇者となった前九年の役で、安倍貞任が拠った厨川柵跡があるところとしても有名です。

「厨川停車場」は、東北本線下りの盛岡の次の駅として、1918(大正7)年11月に開業しました。開業直前の同年3月に賢治は盛岡高等農林を卒業し、その後は花巻に戻っています。何か厨川へ行く用事があったのでしょうか、それとも新しい駅を見に行ったのでしょうか。

「ビール」は、1868(明治元)年に英国製の「バースビール」が輸入されてから日本でも飲用されるようになり、数年後には国内生産も開始。1876年に札幌麦酒製造所が創立するなど、その後、各地で大量生産されるようになって、明治末には一般にも親しまれていたようです。

ここでは「けむり」の比喩として「ビール瓶のかけら」という、やや突飛にもみえる表現が使われています。ビール瓶といえば私は、濃い茶色、あるいは濃緑色を思い描きます。当時の汽車の煙などには、ビール瓶をイメージさせる色彩や感触があったのでしょうか?

日本の「サイダー」の発祥の地は横浜で、1868年に外国人居留地でイギリス人のノースレーが製造・販売を始めたリンゴ風味の炭酸飲料「シャンペン・サイダー」にはじまるそうです。1907年、平野サイダー(いまの三ツ矢サイダー)が大量生産されるようになって本格的に普及していきました。

「それら」というのは、ひょっとすると「そら」の誤りでしょうか。とすれば、爽快ですがすがしい「そら」を「サイダーでいっぱい」だと感覚的に表現しているといえそうです。

そうした空に、もくもくと焦茶っぽい色の「ビール瓶のかけら」の「けむり」が上がっていく。空と煙の対比が、くっきりと目に浮かんで、ビール瓶の比喩も効果的です。

賢治作品の「イギリス海岸」には、「……また山の近くには細かい砂利のあること、殊〈こと〉に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘〈さきゅう〉の痕〈あと〉らしいものがはさまっていることなどでした。」などとあります。

地質学のことはよくわかりませんが、「北上山地」は「砂利」の宝庫?なのかもしれません。


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2015年05月28日

「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」㊦ 飛騰

 きょうは「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」の最後の2連です。

そこに堕ちた人たちはみな叫びます
わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
堕ちたといふことがあるのかと。
全くさうです、誰がはじめから信じませう。
それでもたうとう信ずるのです。
そして一そうかなしくなるのです。

こんなことを今あなたに云ったのは
あなたが堕ちないためにでなく
堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
誰でもみんな見るのですし また
いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
次いで人人と一緒に飛騰しますから。

infierno2

「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」は、現在残っている原稿は2枚だけですが、冒頭の数枚分が欠如しているとみられています。

前半のかなりの分量が残っていないので、これら最後の2連の意味合いは計りにくいのですが、言っていることの道理はわかりやすく、普遍的で、すんなり頭に入って心に収まります。

仏教では迷いあるものが輪廻すると考えられ、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6種類の迷いある世界があると考えられているそうです。

輪廻は空間的な事象、死後に趣く世界というのではなく、心の状態としてもとらえられます。

天道界に趣けば、心の状態が天人が住まう天道のような状態にあり、地獄界に趣けば心の状態が、罪人たち行く地獄のような状態である、と解釈されるようです。

それはともかく、優れた存在とされて寿命が長く、苦しみもほとんどない「天人」が「堕ちた」ならば、「わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか」「堕ちたといふことがあるのか」と、「みな叫」ぶのは道理でしょう。

俗なところに引き寄せれば、順風満帆エリートの道を突っ走り、豊かで挫折の経験なく歩んできた人が、突然「堕ち」る憂き目にあったなら、まさに「誰がはじめから信じませう」。「それでもたうとう信ずるのです。/そして一そうかなしくなるのです。」と詩人はいいます。なるほど、頷けます。

そして最終連、なぜこんなことを言ったかというと「あなたが堕ちないためにでなく/堕ちるために又泳ぎ切るため」なのだ、として救いの手を差しのべます。

きのう見たように、天人だって「天人五衰」が待っているわけで、「誰でもみんな見る」のです。そして「いちばん強い人たち」は自らすすんで堕ち、その後で「人人と一緒に飛騰」するのだ、と最後に力強く述べています。

「飛騰」とは、文字通り高く飛びあがること。「熱泉を噴出し、硫気飛騰して煙霧をなす」(末広鉄腸『雪中梅』)などと使われているそうです。

「あなた」というのが誰をさしているのか分かりません(この時期、病に苦しんでいた妹トシのような気もします)が、救済のために自らすすんで「堕ち」、人々とともに苦難を乗り越えようとする賢治の強い意志が感じられ、勇気づけられます。


harutoshura at 01:12|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月27日

「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」㊥ 鹹水

 きょうは「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」のつづきの2連です。

けれども堕ちるひとのことや
又溺れながらその苦い鹹水を
一心に呑みほさうとするひとたちの
はなしを聞いても今のあなたには
たゞある愚かな人たちのあはれなはなし
或は少しめづらしいことにだけ聞くでせう。

けれどもたゞさう考へたのと
ほんたうにその水を噛むときとは
まるっきりまるっきりちがひます。
それは全く熱いくらゐまで冷たく
味のないくらゐまで苦く
青黒さがすきとほるまでかなしいのです。

天人五衰

「鹹水(かんすい)」は、塩化ナトリウムなどの塩分を含んだ水のことです。その代表は海水。海水との境界にある汽水も、鹹水に含まれます。

ほかに海水が閉じ込められてできた化石水、岩塩地帯の塩分を含んだ水など陸上の水にも鹹水が存在します。対義語は淡水です。

「天人」は人間よりも優れた存在とされて、寿命はたいへん長く、苦しみも人間に比べてほとんどないとされています。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすそうです。

しかし天人も煩悩から解き放たれておらず、解脱も出来ません。天人が死を迎えるときは、三島由紀夫の最後の小説のタイトルにもなった「天人五衰」と称される五つの変化が現れるとされます。

天人が人間界などに堕ちる前触れが天人五衰ともいえるのでしょう。仏典によって異なりますが、「大般涅槃経」では、次のものが天人五衰とされるそうです。

・衣裳垢膩(えしょうこうじ) 衣服が垢で油染みる
・頭上華萎(ずじょうかい) 頭上の華鬘が萎える
・身体臭穢(しんたいしゅうわい) 身体が汚れて臭い出す
・腋下汗出(えきげかんしゅつ) 腋の下から汗が流れ出る
・不楽本座(ふらくほんざ) 自分の席に戻るのを嫌がる

「正法念経」では、天人の五衰の時の苦悩に比べれば、地獄で受ける苦悩はその16分の1に満たないと説かれ、「往生要集」では、人間より遥かに楽欲を受ける天人でも最後はこれらの苦悩を免れないと説かれ、速やかに六道輪廻から解脱すべきと力説しているとか。

とすれば、「堕ちる」ことの苦痛をくどいまでに訴える詩人の気持ちもわかるような気がしてきます。

「熱いくらゐまで冷たく」「味のないくらゐまで苦く」「青黒さがすきとほるまでかなしい」と反語的な表現を畳みかけて、頭の中だけで考えていることと実際とが「まるっきりまるっきりちが」うことを強調しています。

これらの反語表現がどこまで効いているかは微妙ですが、「青黒さがすきとほるまでかなしいのです。」の1行は心の中に鋭く響いてきます。


harutoshura at 02:03|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月26日

「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」㊤ 天人たち

 次は、「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」です。冒頭の原稿が欠落。「手簡」から10日ほど後の「1922、5、21」の日付があります。

〔冒頭原稿なし〕
堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。
実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。

まことにこれらの天人たちの
水素よりもっと透明な
悲しみの叫びをいつかどこかで
あなたは聞きはしませんでしたか。
まっすぐに天を刺す氷の鎗の
その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。

氷の槍

「瓔珞(ようらく)」というのは、装身具、ないしは仏堂や仏壇の荘厳具。古くはインドの貴族の装身具として用いられていたものが、仏教に取り入れられ、菩薩以下の仏像に首飾り、胸飾りとしてもちいられているそうです。

菩薩像に用いられる瓔珞は、ふつうの装身具のほかに、髑髏や蛇などが使われることもあります。瓔珞は寺院や仏壇など天蓋などの荘厳具としてもよく用いられます。

「堕ちて来」る「生物たち」というのは、次の連で「天人たち」であることがわかります。

賢治のいう「生物」というのは、私たちが生物学的な意味合いで使っているのとはだいぶ違うようです。やや難解ですが、『語彙辞典』には次のように記されています。

〈賢治における生命体としての生物の認識は、単に生き物といった辞書的なレベルを超えており、はるかに哲学的、宗教的な意味合いをもつ。しかも認識だけでなく、彼における生物の意識は彼の信仰に支えられた求道と実存の過程に生成される。科学的教養と宗教的探究、唯物論的知性と唯心的実践と微妙に交錯するところに、彼の生物の位相があるといえるだろう。

まず最もわかりやすい「なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから」(手紙[四])といった、作品の中でとは違った直接的言明に、賢治の人間中心主義ではない、いうなれば反近代的な、あるいは反ヒューマニズムの、すべての生物体の平等観、「空」の思想が見られる。〉

「天人」とは、仏教用語で天界に住んでいる衆生のこと。道徳的に前生によい生活をおくった者とされます。通常、瓔珞や羽衣をつけて宙を舞う天女が連想されます。

「水素」は原子番号 1 の元素。元素やガス状の分子の内でいちばん軽く、宇宙で最もたくさんあります。地球上では、水や有機化合物の構成要素として存在。水素分子は常温、常圧ではこの詩にあるように無色透明で、無臭の気体。燃焼・爆発しやすい性質もあります。

「水素よりもっと透明な/悲しみの叫び」それは「まっすぐに天を刺す氷の鎗」の「叫び」でもあるのです。賢治ならではの美しい表現です。


harutoshura at 02:32|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月25日

「手簡」㊦ 黄ばんだ陰

  きょうは「手簡」の後半部分です。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出ようと思ひます。
どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一緒にふんで下さい。

Pasillo_oscuro

「あなたは今どこに居られますか」の「あなた」とは誰のことなのでしょう? そもそもこの「手簡」は誰に当てたものなのでしょう。

神、仏、自然など大きな存在、あるいは恋人、友人など特定の人にあてているのか、読者なのか、そういたものが入り交じった漠然とした対象なのか。私にはイマイチ判然としません。

この当時、賢治が仲間と開いたレコードコンサートで知り合った大畠ヤスという恋人がいたといわれています。賢治より4歳下で、宮澤家の近所に生まれ育ち、賢治が農学校に就職した1921年には、敷地が同じだった尋常小学校で教師をしていたとか。

宮澤家では2人の結婚も考えたようですが、周囲に変人扱いされていた賢治の性格を気にしたらしくヤスの母が反対、さらにヤスが結核を患いったこともあって1923年10月ごろには関係が絶えたそうです。

「黄ばんだ陰の空間」という軽妙な比喩には、陰影のはっきりしない半端さとともに、使い古された温かみのようなものも感じられます。その空間は「一層すきとほって強くな」った雨から逃れることができるところのようです。

「咽喉を鳴らす」というと通常は、美味しそうな料理を見て思わず唾を飲み込むことを連想します。それとも、「ぶつぶつ」からは少しはずれるようにも思いますが、カァーっと痰を吐こうとしているのでしょうか。

いずれにしても「子供が噛んでゐ」たり「咽喉をぶつぶつ鳴ら」す音が感知するほど、このときの詩人の感覚と心が研ぎ澄まされていたことは間違えなさそうです。

「どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい」というと恋人へ訴えているようでもあり、「白びかりの巨きなすあしで」というと人間よりも大きな存在をいっているようでもあります。

いずれにせよ、病気や恋など悶々とした不安のなか、「私と一緒にふんで下さい」と拠りどころを求める気持ちが響きわたってきます。


harutoshura at 03:15|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月24日

「手簡」㊥ マント

 きょうは、「手簡」の2連目と3連目です。

私の胸腔は暗くて熱く
もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

雨にぬれた緑のどてのこっちを
ゴム引きの青泥いろのマントが
ゆっくりゆっくり行くといふのは
実にこれはつらいことなのです。

青マント

「胸腔」は、肋骨、胸椎、胸骨、横隔膜によって囲まれた空間をいいます。内部に心臓、肺、大動脈、食道などが入っています。

正常では内面が胸膜で裏打ちされて、中に肺が収容されています。この肺を覆う胸膜に炎症が起こる病気が、胸膜炎。以前は肋膜炎とも呼ばれていました。結核、肺炎などによって発症することが多い病気です。

賢治は、この詩が作られた4年前の1918(大正7)年6月末に、肋膜炎の診断を受けています。このとき同人誌「アザリア」の仲間だった河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされます。

同年7月1日の父への書簡には次のように記されています。

「近来少しく胃の近く痛む様にて或は肋膜かと神経を起し昨日岩手病院に参り候処左の方少しく悪き様にて今別段に水の溜れるとか言ふ事はなきも山を歩くことなどは止めよとの事にて水薬と散薬とを貰い参り候」

「醗酵」というのは、酵母や細菌などの微生物がエネルギーを得るために有機化合物を分解して、アルコールや有機酸類、二酸化炭素などを生成していく過程をいいます。昔から、酒、味噌、醤油、チーズなどの製造に利用されてきました。

ここでは病床にあるのか、「暗くて熱」い「私の胸腔」に宿った結核菌による「醗酵」が「はじめたんぢゃないかと思ひます」と、心細く、不吉な思いに襲われているようです。

「マント」は、袖なしの肩から身体を被う外套の一種。大昔から世界の各地で外着として、防寒、防雨、礼装などに用いられました。

日本へは1874(明治7)年ごろ、フランス軍隊の外套をまねて軍服に取り入れられ、その後、学生や一般にも流行するようになりました。賢治も好んでいたようで、作品にもしばしば登場します。

「ゴム引き」すなわち表面にゴムをコーティングしたマントは、丈夫でハリがあり、防水性に優れています。

土の色は腐植や鉄の含量などによって変化します。腐植土が多ければ暗色に、少ければ淡色になる傾向があります。鉄は酸化状態では黄褐色から赤褐色、還元状態では青灰色から灰色になります。

「青泥」は大陸棚の堆積物で、硫化鉄などを含む青色の泥のこと。「青泥いろのマントが/ゆっくりゆっくり行く」。それが、なんとも「つらいことなのです」と、そのときの思いつめた心象を「手簡」の中で伝えています。


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2015年05月23日

「手簡」㊤ すいば

 きょうから『春と修羅』の補遺に入ります。補遺の9篇は、いずれもブルーブラックインクで書かれた自筆稿がそれぞれ1篇ずつ現存するだけ。最初の詩「手簡」には「1922、5、12」の日付があります。第1連は次のようになっています。

  手簡

雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
ぬれるのはすぎなやすいば、
ひのきの髪は延び過ぎました。

スイバ

「1922、5、12」は、賢治は、稗貫農学校(現花巻農業高等学校)教師になったばかり。妹のトシは病と戦っていた時期で、この年の11月に病死しています。

「手簡」とは手紙のこと。手紙は近世になってから一般に用いられた言葉で、本来の文字としては、文、書、状、柬、箋、「簡」などがあって、これらの組合せで表していたそうです。「手」には、手習いというように、筆の跡、さらには、手みずからの意味や真実を明かすといったニュアンスも感じられます。

雨が降る形容に「ぽしゃぽしゃ」というオノマトペは、新鮮です。因みに、つぶれる、駄目になるといった意味の「ポシャる」は、フランス語で帽子を意味する「シャッポ」の倒語といわれます。帽子だけでは対処できない大粒の雨、という感じがします。

『春と修羅』の「序」に「風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら」とありましたが、ここでの「心象の明滅」も、「明滅する現象」として自分の存在や心象をとらえる賢治ならではの仏教的、認識論的な考えを反映しているのでしょう。仏教の倶舎論の刹那滅の思想に近く、その影響を受けているとの説もあるそうです。

「すぎな」は、シダ植物のトクサ科で最も小柄な多年草。原野や道ばたなど、浅い土のした、地中を這うように長い地下茎を伸ばしてよく繁茂します。春に地下茎から胞子茎を出して胞子を放出します。これがツクシです。

「すいば」=写真、wiki=は、田畑や道端によく見られるタデ科の多年草で、スカンポ、スカンボなどとも呼ばれます。葉が酸っぱいことから名付けられたもので、酸性土壌の目印になる植物としても知られています。高さ50~80センチで、初夏に紅紫色の小花をたくさん付けます。

「ひのき」の和名は「火ノ木」。その枝ぶりは炎のような形に見えて、髪の毛を連想させたりもします。すっくと黒く天に向かって伸びているヒノキの枝ぶりを「ひのきの髪」といっているのでしょう。


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2015年05月22日

「冬と銀河ステーシヨン」⑥ 青いギリシヤ文字

 詩集『春と修羅』の最後におかれた「冬と銀河ステーシヨン」を、もういちど通して読んでおきましょう。

そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげろふや青いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々〈さんさん〉と降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつ赤かに澱んでゐます
川はどんどん氷〈ザエ〉を流してゐるのに
みんなは生〈なま〉ゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚〈たこ〉を品さだめしたりする
あのにぎやかな土沢の冬の市日〈いちび〉です
(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
 あすこにやどりぎの黄金のゴールが
 さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊歯は
 だんだん白い湯気にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です

銀河ステーション

賢治は、花巻から土沢、遠野へとつながる岩手軽便鉄道が好きで、しばしば乗車しました。そのときの経験が『銀河鉄道の夜』にも取り入れられています。

この詩もこの軽便鉄道が題材になっていて、「銀河ステーシヨン」たる土沢駅周辺の冬の朝の活気にあふれた様子が描かれています。

小鳥が飛び交い、かげろうが立ちのぼり、ギリシャ文字のように日光が野はらの雪にきらめく。そうした自然と呼応して「狐や犬の毛皮を着て/陶器の露店をひやかしたり/ぶらさがつた章魚を品さだめしたりする」活気に満ちた人々の営みがある。

それはまさに賢治が「銀河」という言葉を使いたくなるような状景だったのでしょう。恩田逸夫は「宮沢賢治と冬と鉄道」(『宮沢賢治論・2・詩研究』)で次のように解説しています。

〈14行目以下の( )内では、それまで遠→近と移動した視点とは逆に、今度の視線は近くから遠方へと向けられ、はんの木からその向こうにある雲へと延長されます。

そこは、調和的な自然と人事のさらに彼方にある理想的な未来を象徴し、これが銀河鉄道のゴールとも考えられています。「まばゆい雲のアルコホル」とは透明で芳香のあるそしてキラキラした感じの雲ということでしょう。

そこにやどり木で飾ったゴールが濡れたように輝いているとすれば、それは銀河鉄道の到達目標としてふさわしいではないか、というわけです。

17以下は作品の後半部となり、「黄金のゴール」を目指すかのように進行する列車が登場します。後半になると前半のにぎやかさがいっそう強調されます。音楽の指揮者の名を出しているのも、列車がガタゴト陽気な音を響かせていることと関連しているわけです。

機関車の前面につけたマークや前照燈を「にせものの金のメタルをぶらさげ」「茶いろの瞳をりんと張り」として、玩具の汽車のように童話風に擬人化しているのもうららかな雰囲気にふさわしいと思います。

20→26にかけて、「赤い碍子・金のメタル・茶いろの瞳・青らむ天椀・白い湯気」と色彩語が並んでいるのも華やいだ感じで、前半の「青いギリシャ文字・まっ赤なシグナル・黄金のゴール」と呼応しています。〉

さらに恩田は、4行目と27行目に出てくる「パツセン大街道」の「道」の意味が重要だと指摘しています。

〈それは理想へ到達する手がかりであり、人々を連結させるものだからです。鉄道も当然、「道」の性格の発展です。パッセン大街道とは実際には釜石街道ですが、このように造語している点に「道」の意味が強調されているわけです。〉


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2015年05月21日

「冬と銀河ステーション」⑤ トパース

 きょうは「冬と銀河ステーション」の最後の部分です。

パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です

Topaz crystal

「ひのき」は、高さ30メートルにもなる常緑高木で、日本では福島県以南から九州まで分布し、岩手県にはないはずです。

前に見たように「パツセン大街道」を岩手県の遠野と釜石を結ぶ釜石街道とすれば、ヒノキに似ているものの枝や葉がより幅広いアスナロをそう言っているのかもしれません。

それはともかく、冒頭では「パツセン大街道のひのきからは/凍つたしづくが燦々と降」っていたのが「しづくは燃えていちめんに降り」、「青い枝」が「はねあが」ります。

詩の前半部から時間が過ぎて、陽射しが強まり気温が高くなってきた様子が、「ひのき」の水滴の描写によって巧みに表現されています。

「紅玉」はルビーのこと。コランダム(鋼玉)の変種で、特に酸化クロムを含んで赤色をしたものをいいます。最高の色は濃赤色のピジョンブラッド(鳩血)と言われ、透明なガラス光沢をもちます。ダイヤモンドに次ぐ硬さの宝石です。

「トパース」=写真=は、石英(水晶)より少し硬いケイ酸塩鉱物で、黄玉ともいいます。フッ素やアルミニウムを含み、様々な色を呈しますが、宝石としては淡褐色のものが上質とされています。日本もかつては有名な産出国でした。11月の誕生石で、石言葉は、誠実、友情、潔白など。

たくさんの稜をもつガラスが光を分散して虹を作るように、プリズムなどの分光器を通すことで得られる波長ごとの強度の分布を「スペクトル」といいます。

詩の前半が「市場」の賑わいなどの人事が描かれていたのに対し、後半では「はねあがる青い枝」「紅玉」「トパース」「いろいろのスペクトル」と、自然の織りなすさまざまな造形や色彩が、「市場」に盛られた品々のように賑わいを見せて締めくくります。


harutoshura at 02:27|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月20日

「冬と銀河ステーション」④ 天椀

  「冬と銀河ステーション」のつづきです。

(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊歯は
 だんだん白い湯気にかはる)

氷のシダ

「碍子」は賢治作品によく出てくる、電線絶縁のために電柱に取り付ける機器。1869 (明治2)年9月に東京—横浜間で公衆用電信線の建設工事が始まり、本格的に使われるようになりました。

当初は陶磁製が主で、「赤碍子」と呼ばれるとび色の輸入品が用いられていました。「赤い碍子」とは、これのことを言っているのでしょう。

一般に金属のことを英語で「メタル」といいます。特有の光沢を持つ性質からか賢治は、勲章の比喩として用いることもあります。

「にせものの金のメタルをぶらさげて」というのは軽便鉄道が先頭車両についているナンバープレートを、「茶いろの瞳をりんと張り」は茶色っぽいその車体のフロント部分のことを言っているように思われます。 

「天椀」は、前にも出てきましたが、天をドームに見立てた比喩。おわん状にえぐられたような青空と、日が柔らかくのどかに照っている「雪の台地」。そのコントラストの中を、列車は颯爽と走っていくのです。

「羊歯」は、、胞子によって増えるシダ植物のこと。「氷の羊歯」というのは、凍りついて窓ガラスに付着した氷の結晶が、シダの枝分かれした葉脈のように見える様子を表しているのでしょう。

車内の暖房のためか、そうした「氷の羊歯」は「白い湯気」へと変化していきます。きらきらした、すがすがしくて気持ちのいい光景が見事に表現されています。


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2015年05月19日

「冬と銀河ステーシヨン」③ やどりぎ

 ひきつづき「冬と銀河ステーシヨン」を読み進めていきます。

(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
 あすこにやどりぎの黄金のゴールが
 さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり

ヤドリギ

ハンノキ(榛の木)は、カバノキ科の落葉高木。樹高は15~20m、直径60cmほどで、山野の低地や湿地、沼に自生します。過湿地で森林をつくる数少ない樹木です。

花期は12-2月ごろ、冬の寒さの中でいち早く咲きます。雄花穂は黒褐色の円柱の形で尾状に垂れ、雌花穂は紅紫色の楕円形で雄花穂の下につけます。

賢治がこの詩を作ったときの「はんの木」も、あまり目立たないものの味わいのある花を、葉に先だってつけていたのでしょう。

「やどりぎ」=写真、wiki=は、宿木、寄生木。ほかの樹木に寄生する高さ1m足らずのヤドリギ科の常緑低木。早春薄黄色の小花をつけ、やがて球形で黄緑色の実を結びます。「やどりぎの黄金のゴールが/さめざめとしてひかつてもいい」というのは、このときの光景が念頭に置かれているのでしょうか。

「アルコホル」すなわちアルコール(alcohol)は、炭化水素の水素原子をヒドロキシ基 (-OH) で置き換えた物質の総称。エチル・アルコールを酒精、メチル・アルコールを木精とも呼ばれます。

アルコールは生体内での主要代謝物の一つで、体の中にさまざまなアルコール体が見いだされます。脂肪(中性脂肪)は多価アルコールのグリセリンと脂肪酸とが結合した化合物で、糖類もアルコール体です。

ここでは、酒精、木精とも呼ばれる生体内の重要な代謝部である「アルコホル」を「雲」の比喩として用いられ、まるで生体のように活き活きとした「まばゆ」い様子を表現しています。

「Josef Pasternack」(ジョセフ・パスターナック、1881-1940)は、ポーランド生まれでアメリカ国籍の指揮者。1916年からビクター蓄音機会社の音楽監督を務め、ビクター・コンサート・オーケストラを指揮してベートーヴェンの『運命』などたくさんのレコードを出しました。

『語彙集』によると、ビクターのカタログには神経質そうな彼の眼鏡姿の写真とともに、1ページを割いて経歴などの詳しい説明が載っているそうです。賢治もそうしたこの指揮者のレコードやカタログに接していたのでしょう。

「銀河軽便鉄道」とは、具体的には賢治がよく利用していた「岩手軽便鉄道」のこと。枝線は民間の力で、との方針で1910年に公布された軽便鉄道法によって各地につくられた軽便鉄道の一つで、1914(大正3)年に花巻―仙人峠間が開通、後に釜石鉱山鉄道と結ばれて国有化されます。

「あえか」は、きゃしゃで、かよわく頼りないようすをいいます。「まだいとあえかなるほどもうしろめたきに(〈姫君が〉まだほんとうにかよわく頼りないようすなのも気がかりなので)」(源氏物語)


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2015年05月18日

「冬と銀河ステーシヨン」② 章魚

  「冬と銀河ステーシヨン」のつづきを読みます。
 
川はどんどん氷〈ザエ〉を流してゐるのに
みんなは生〈なま〉ゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚〈たこ〉を品さだめしたりする
あのにぎやかな土沢の冬の市日〈いちび〉です

タコ

きのう見たこの詩の冒頭では「そら」「野はら」「ひのき」と、遠景から近景へと視界が移ってきました。そして、いよいよこの詩の主題である銀河ステーション、すなわち土沢の近傍の描写になります。

賢治の「流氷(ザエ)」という詩の中に「見はるかす段丘の雪、/なめらかに川はうねりて、……」というフレーズがあります。賢治は、北上川など、川の中を流れる氷塊のことを「氷〈ザエ〉」と呼んでいるようです。

天然ゴムの樹液中の成分を精製して凝固乾燥させた生ゴム。天然ゴム100%で裏地もないのにポッポッと温かい“ボッコ靴”など生ゴムの長靴は、昔から寒さの厳しい東北や北海道でマタギやりんごの剪定、営林業などの雪上作業用靴として重宝されました。

日本の寒冷地帯では、「狐や犬」などさまざまな「毛皮」を、昔から実用的な防寒衣料として用いてきました。賢治作品にもあちこちに見られます。明治以降は西洋文化の影響で服飾品として多く用いられ、毛皮の襟巻きも流行しました。

一方で、仏教の考えかたから動物を殺したり、皮を剥いだりするのを忌み嫌う側面もあったはず。そのあたりを賢治はどう受けとめていたのか、改めて考察したいものです。

いまのように輸送手段が発達していなかった当時、内陸部では川魚以外の鮮魚を口にするのは困難で、干物や塩物か、タコのような比較的長持ちのする魚介類に限られていました。そんな中、店先にぶらさげられた「章魚〈たこ〉」は、市の主役の一つだったのでしょう。

「土沢」(つちざわ)は、昭和29年(1954年)まで岩手県和賀郡にあった町で、いまは花巻市の一部になっています。「遠野物語」に河童のすむ川として登場する猿ヶ石川に沿って広がっています。

土沢一帯の歴史は、坂上田村麻呂の時代にまでさかのぼります。中世には和賀氏が支配していましたが、戦国時代末期、豊臣秀吉による奥州仕置で和賀氏は改易、近世は南部藩領となりました。

伊達藩と接する重要拠点として1612(慶長17)年には土沢城が築かれました。江戸時代は盛岡から釜石に続く釜石街道の宿場町として栄えました。

盆地の中にあって「ぬくぼ」といわれるほど温暖で、気候がいいため遠野のような凶作もありません。この詩にあるように、「市日」はたいへんな賑わいだったようです。


harutoshura at 00:58|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月17日

「冬と銀河ステーシヨン」① パツセン大街道

 きょうから「冬と銀河ステーシヨン」です。「1923、12、10」の日付があります。冒頭は――

そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげろふや青いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々〈さんさん〉と降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつ赤〈か〉に澱んでゐます

土沢駅

「かげろふ」は、陽炎。局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことによって光が屈折して起こる現象をいいます。

よく晴れて日射が強くて風が強くない日のアスファルトで、自動車の屋根の上などに立ち昇るもやもやしたゆらめきが、その典型です。

「青いギリシャ文字」とは、光の当たり具合で雪がキラキラ光る様がチラチラして、ギリシャ文字のようにくねくねして優美に見えるのでしょうか。 

現代ギリシア語でいう「ギリシヤ文字」とは、大文字、小文字それぞれ24文字。ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ、αβγδεζηθικλμνξοπρστυφχψω、です。

ざらざらした平坦でない雪面で、入射光が様々な角度で反射する拡散反射(乱反射)の様子を、跳んだり跳ねたりする感じのするギリシャ文字に喩えて、「青いギリシヤ文字は/せはしく野はらの雪に燃えます」と表現しているのでしょう。

「パツセン大街道」とは、岩手県の遠野と釜石を結ぶ釜石街道のこと。幕末、釜石鉱山が開発されて以降、釜石へのルートが幹線として重要な役割を果たしました。

「パツセン」という呼び名は、ドイツ語の「passen」から賢治が思いついたのでしょうか。passenには、前肢と後肢が、それぞれ右左同じほうの脚を出す側対歩で、馬が速歩で進むという意味もあります。

「銀河ステーシヨン」は、「銀河鉄道の夜」の始発駅のモデルとなった駅として知られる岩手軽便鉄道の土沢駅=写真=を指しているのでしょう。

1913(大正2)年10月25日に花巻―土沢間12.7kmが開通。その最初の開業区間の終点の駅として開業しました。1936(昭和11)年に国鉄の駅となって、改軌工事が進められました。


harutoshura at 01:23|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月16日

「イーハトヴの氷霧」

 きょうは2行だけの短い詩「イーハトヴの氷霧」です。「1923、11、22」の日付があります。

けさはじつにはじめての凜々しい氷霧〈ひようむ〉だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した

氷霧

「イーハトーブ」は、よく知られている宮沢賢治による造語で、岩手県をモチーフにして詩人の心象に置かれた理想郷を指しています。

賢治が生前に出版した唯一の童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしには、次のように説明されています。

「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。」

名前の由来については、「イハテのテをエスペラント風にトにしてドイツ語の場所を意味するヴォをつけた」「“無何有の郷”的な意味を持つドイツ語のIch weiß nicht wo.から思いついた」などいろんな説があるそうです。

いずれにしても、賢治作品に「イーハトーブ」が登場した最も早い時期の作品としての意味合いも、この詩には大きなものがありそうです。

「氷霧」=写真=は、霧を構成する水滴が凍り、あるいは空気中の水蒸気が直接昇華して、小さな氷の結晶となって浮かんでいるために視程が妨げられる現象をいいます。気象庁では、視程が1km未満となっている状態を氷霧と規定しています。

空気中に浮かんでいる水滴は過冷却状態となるため、0℃以下でも簡単には凍りません。そのため通常は、気温がマイナス30℃以下になるような、非常に限られた気象条件でしか氷霧は発生しません。

「まるめろ」は、カリンと同じバラ科の落葉高木。中央アジア原産で、1634(寛永11)年に渡来したといわれ、各地で栽培されています。

果実は洋梨形をしていて、秋に熟すと明るい黄橙色になります。果実は甘酸っぱい芳香を放ち、生食よりもむしろ、カリンと同じように果実酒や蜂蜜漬け、ジャムなどに利用されます。

「凜々しい」という言葉からは、氷霧が発生するような厳しい寒さがやってきて、心身ともにきりりとひきしまった様子がうかがえます。

東北の農家に人たちは、ふつうなら、冬の到来を告げる「氷霧」を喜ばしいものとは受けとめないでしょう。

賢治が思い描く理想郷であるイーハトヴの「みんな」、すなわちそのときの詩人の心象にのぼっている人々にとっては、明るい色彩を放つ「まるめろ」までもち出して、「歓迎」したいものなのです。


harutoshura at 01:12|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月15日

「鎔岩流」⑥ 青い縞

 「鎔岩流」の最後に、この詩についての恩田逸夫の解説(『宮澤賢治論・2・詩研究』)をあげておきます。

うるうるしながら苹果に噛みつけば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅〈べに〉や金〈キン〉やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
  (あれがぼくのしやつだ
   青いリンネルの農民シヤツだ)

北上山地
*北上山地(ウィキペディアから)

〈「一本木野」と同じ日の作である「鎔岩流」は、かつての詩章「グランド電柱」の中で、岩手山の山容を古ぼけてきたないものと眺めたが、ここでも柏や松の野原をよぎって眼前に展ける火山塊の風景に対して荒涼たる鬼気をさえ感じている。

この詩では、非常な自然を描くとともに、そのような近づきがたい自然の様相と対比して、人間の営みの行われている北上山地に親しみの情を示している。

むしろ後者に強い愛着を感じているのである。

鎔岩流の付近は植物といったら表面の乾いた白っぽい苔や、または灰色の苔しかない。彼はその中に体を埋めてりんごを食べようとする。

ここでは、もはや「宗教風の恋」の観念性や高踏性は超越されようとしている。

詩章「春と修羅」や同「グランド電柱」とくらべて、現実生活への関心が強まっていることは、この詩に続く作品でわずか二行から成る「イーハトヴの氷霧」と、詩章「グランド電柱」の中の最短のものとを並べて見るとき、こんなところにも詩風の推移が認められるのである。〉

という「イーハトヴの氷霧」を、あすは読みたいと思います。


harutoshura at 01:13|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月14日

「鎔岩流」⑤ 赤い苹果

 「鎔岩流」のつづきです。

とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果〈りんご〉をたべる
うるうるしながら苹果に噛みつけば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅〈べに〉や金〈キン〉やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
  (あれがぼくのしやつだ
   青いリンネルの農民シヤツだ)

りんご

賢治の作品にはリンゴがあちこちに登場します。仮名書きで「りんご」としたり、「林檎」と記されたり。中でも、漢字で「苹果」と書かれるケースがいちばん多いようです。

「林檎」は、もともと日本列島で作られていた小粒の和リンゴの総称として使われてきました。一方の「苹果」は通常、明治期に輸入された西洋リンゴの表記です。

宮澤賢治語彙辞典によれば、西洋リンゴが岩手県で本格的に栽培されるようになったのは1875年、内務省勧業寮から配られた苗木が到着したのにはじまります。1879年には他県に先がけて船便で東京へ出荷、1個25銭の高値が付いたそうです。

花巻での苹果栽培の先駆者は賢治の父政次郎と親交があり、実家の近くにあった武家屋敷、那須川他山邸には苹果の木があって、秋になると赤い実が枝もたわわに実るのが賢治の家から見えたといいます。

そんな家の近くで取れた「赤い苹果」を、山行の友に持参したのでしょうか。ただし、この詩を作ったころ岩手のリンゴ栽培は、病害虫のため苦境の時代。苹果はかなり貴重な存在だったにちがいありません。

「うるうるしながら」というのは、山のなかで、寒さにふるえながら、ということでしょうか?

「白樺の葉」は互生、長さが4〜10cm、幅は3〜6cmほど。卵状菱形あるいは三角状広卵形で、周囲は鋸葉状。秋が深まったこのころは、きれいに紅葉していたはずです。それを「紅や金やせはしくゆすれ」と表現しています。

岩手県東半部に広がる「北上山地」は、地質的には古生代や中生代の地層が広く分布しています。中には、日本で最古の部類に属する地層もあるとか。そうした長い間の複雑な地殻変動で刻まれた地層が「ほのかな幾層の青い縞をつく」っているのでしょう。

「リンネル」は、亜麻から取った繊維で織った薄地の織物の総称です。リネンとも呼ばれます。薄地のさらりとした丈夫で吸湿性がある織物で、素地は白か淡い黄色です。

夏物の衣服のほか、敷布、テーブルクロス、ハンカチ、レース地など用途はさまざま。厚地のものは帆布やカンバスにも使われます。

詩人は北上山地がつくる「ほのかな幾層の青い縞」に、「ぼくのしやつ」、青く染めた「リンネルの農民シヤツ」を見ています。


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2015年05月13日

「鎔岩流」④ すぎごけ

 「鎔岩流」のつづきを読みます。

その白つぽい厚いすぎごけの
表面がかさかさに乾いてゐるので
わたくしはまた麺麭ともかんがへ
ちやうどひるの食事をもたないとこから
ひじやうな饗応〈きやうおう〉ともかんずるのだが
(なぜならたべものといふものは
 それをみてよろこぶもので
 それからあとはたべるものだから)
ここらでそんなかんがへは
あんまり僭越かもしれない

スギゴケ

「すぎごけ」=写真=は、蘚類の一種で、スギゴケ科の総称です。葉の表面に縦に並ぶ板状の突起構造があるのが特徴です。

スギゴケ類は、湿度の高い樹林内、湿原、裸地、岩角地などに群生し、光沢のある美しいマットを作ります。山岳では代表的なコケで、環境によってさまざまな棲み分けをします。

高さ10センチほどで、葉が一見小さなスギの葉に似ているのが名前の由来。賢治が見つけた鎔岩流の跡のほか、鹿の食害が進行している裸地など厳しい環境でもスギゴケは適応できるのでしょう。

「麺麭」はパン。安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来したものの、江戸時代に主食として食べたという記録はほとんど残っていないようです。

一般向けでは、1867(慶応3)年に外国人向けのパン屋が横浜にでき、明治時代に入ると文明開化の波にのって、東京の木村屋や文明軒など各地にパン屋が生まれました。

盛岡でも1885(明治18)年ごろパン屋がお目見えしたようです。しかしパンは、この詩が作られた大正期になっても、コメ志向の強い日本人には主食というより西洋風のハイカラな菓子的な食べ物で、農村で口にされることはあまりありませんでした。

さて、このときの賢治は相当にお腹が空いていたのか、鎔岩流で見かけたその苔が「麺麭(パン)」のように思えて、手厚い「饗応」を受け、もてなされているような喜びを感じたりします。

けれども、厳しい自然環境のなかで健気に生育しているコケを、食べ物と考えたりすることは「僭越かもしれない」と宗教者らしく自戒しているのです。 


harutoshura at 00:49|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月12日

「鎔岩流」③ 岩手火山

  「鎔岩流」のつづきです。

貞享四年のちひさな噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空気のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら清洌な試薬〈しやく〉によつて
どれくらゐの風化〈ふうくわ〉が行はれ
どんな植物が生えたかを
見ようとして私〈わたし〉の来たのに対し
それは恐ろしい二種の苔で答へた

iwatesan07

岩手火山=写真=の噴火記録の中で、1686(貞享3)年の噴火記事が最も大量に残されています。貞享3年3月3日夕方(1686.3.26)に岩手火山山頂部から立ち昇った噴煙は、盛岡城から確認された、とされています。

その翌年、1687(貞享4)年にも「貞享四年丁卯三月七日より十六日迄 御山霧霞鳴渡り」といった噴火の記録が存在します。因みに、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、生類憐れみの令(殺生を禁止する法令)を制定したのがこの貞享4年にあたります。

しかし『盛岡藩雑書』の祭礼関係の記録などから最近は、1686年に始まった噴火が継続していたというより、噴火年代を貞享4年とする記事は貞享3年が誤記されたもの、と考えられるようになってきています。

それはともかく、「貞享四年のちひさな噴火」から「およそ二百三十五年」たって、その火山地形が「どれくらゐの風化」し「どんな植物が生え」ているのか調べに来た詩人。それなのに、期待は裏切られて苔は2種類しか生えていなかった、ということのようです。

「炭酸瓦斯」は炭酸ガス、すなわち気体の二酸化炭素のことです。地球上で最も代表的な炭素の酸化物であり、炭素や有機化合物の燃焼によって簡単に生成されます。

学校の理科実験で、二酸化炭素を石灰水に通すと白濁したという記憶がおありのかたも多いことでしょう。これは、炭酸カルシウムが生じたために起こった反応です。

「空気のなか」に「酸素」は5分の1の容積をしめ、炭酸瓦斯は大気中に0.03%含まれているそうです。

「風化」は、水などが関係した化学反応によって地殻の表層にある岩石が分解、溶解したり、風雨で破壊されたりする作用のことをいいます。

「試薬」は、化学実験で反応させる目的でつくられた薬品をさします。この詩の中では「空気のなかの酸素や炭酸瓦斯」という“天然の産物”を「清洌な試薬」と呼んでいます。


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2015年05月11日

「鎔岩流」② 鬼神

  「鎔岩流」のつづきを読んでいきます。

わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空気も深い淵になつてゐて
ごく強力な鬼神たちの棲みかだ
一ぴきの鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊〈ブロツク〉をふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊〈ブロツク〉の黒いかげ

溶岩流詩碑
*「焼走り熔岩流」に立つ詩碑

熔岩流の表面には波紋状の凸凹があって、これがトラの縞模様のように見えるため虎形とも呼ばれているそうです。

きのうも見たように、噴出時期が比較的新しい焼走り熔岩流は、風化が進んでおらず、その表面にはまだ土壌が形成されていないため植生に乏しく、噴出当時の地形を留めています。
 
「曠原」とは、広原すなわち広々とした野原のこと。「情調」は、「エキゾチックな情調がある」など、そのものからにじみ出てくる特別の趣のことをいいます。

地形や地質に詳しい賢治は、焼走り熔岩流にはきっと、明るい広々とした野原の趣を「ばらばらにするやうなひどいけしき」がひらけていると予想していました。

ところが実際に足を踏み入れると、地形・地質だけでなく「ここは空気も深い淵になつてゐて」と、日常とは異質な空気感をもつ空間がそこにはあり、「鬼神たちの棲みか」であると感じるのです。

「鬼神」は、ふつうの人の耳目ではとらえることができない、変幻自在な超人的な能力をもつ存在をいいます。人間の死後の霊魂や鬼、化け物など、あるいは害を与える低俗な神々を指すこともあります。

「鬼神たちの棲みか」には「一ぴきの鳥さへも見え」ないのです。そして、岩塊をふんで小高いところにのぼって見渡すと、峰から冷たい風が吹き、雲があらはれてはつぎからつぎと消える殺気だった気配さえするのです。

「火山塊〈ブロツク〉」すなわち火山岩塊は、固体の状態で火山から噴出された64mm以上の岩石の断片を指すそうです。黒いゴツゴツとした火山塊の黒いかげ。それは、詩人の心象風景をも映しているのでしょう。


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2015年05月10日

「鎔岩流」① 喪神

 きょうから「鎔岩流」に入ります。「一本木野」と同じ「1923、10、28」の日付があります。冒頭は――

喪神のしろいかがみが
薬師火口のいただきにかかり
日かげになつた火山礫堆〈れきたい〉の中腹から
畏るべくかなしむべき砕塊熔岩〈ブロツクレーバ〉の黒

溶岩流

タイトルの「鎔岩流」=写真=というのは、岩手山中腹から流出した熔岩流により形成された岩原である「焼走り熔岩流」のこと。岩手県八幡平市にあり、国の特別天然記念物に指定されています。

岩手山の北東斜面の山腹から山麓にかけての標高約550-1200メートルに広がっています。天然記念物に指定されているのは149.63ヘクタール、熔岩流の延長は約4キロメートルに及びます。

岩手山は、1686年から1934年の間に何度も爆発と熔岩流が噴出した記録が残されています。焼走り熔岩流は山頂部の噴火活動ではなく、中腹部にできた噴火口から流れ出したもの。

焼走り溶岩流が形成された火山活動は、1719(享保4)年正月(旧暦)に起こったと一般に考えられています。表土や樹木に覆われず、地衣類や蘚苔類が少し見られる程度で、岩の塊が累々と重なっています。

真っ赤な熔岩流が山の斜面を流れ下るのを見た人々が「焼走り」と呼んだのが名前の由来といわれているそうです。

「喪神」は一般的には、正気を失ってぼんやりしている状態をいいます。賢治の場合は「喪神の森の梢から/ひらめいてとびたつからす」(「春と修羅」)のように、生気のないほの白い太陽の表現によくこの言葉を使います。

賢治の「喪神」には、本来の意味よりも神秘的なニュアンスが強く、修羅を意識した心象イメージも込められているように思われます。

賢治はキラキラ輝く光のことをよく「かがみ(鏡)」という言葉で表しています。また、雲や霧にさえぎられた太陽を白や銀の鏡として表現することもあります。

「喪神のしろいかがみが/薬師火口のいただきにかかり」ということは、生気のないほの白い太陽の光が、東岩手火山外輪山の最高峰である薬師岳の山頂付近にさしかかったということでしょう。

「火山礫堆」は、火山噴火によって放出された熔岩の岩片が堆積したもののこと。岩手山全体が、火山礫堆といえますから、岩手山そのものを指していると考えられます。

「砕塊熔岩〈ブロツクレーバ〉」は、溶岩の巨大な堆積が火山、ここでは岩手山に黒くて粗い素肌をさらけ出している様子をいっているのでしょう。


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2015年05月09日

「一本木野」⑥ ひばり

 最後に、「一本木野」をもういちど通して読み返しておきましょう。

松がいきなり明るくなつて
のはらがぱつとひらければ
かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
ベーリング市までつづくとおもはれる
すみわたる海蒼〈かいさう〉の天と
きよめられるひとのねがひ
からまつはふたたびわかやいで萌え
幻聴の透明なひばり
七時雨〈ななしぐれ〉の青い起伏は
また心象のなかにも起伏し
ひとむらのやなぎ木立は
ボルガのきしのそのやなぎ
天椀〈てんわん〉の孔雀石にひそまり
薬師岱赭〈やくしたいしや〉のきびしくするどいもりあがり
火口の雪は皺ごと刻み
くらかけのびんかんな稜〈かど〉は
青ぞらに星雲をあげる
   (おい かしは
    てめいのあだなを
    やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)
こんなあかるい穹窿〈きゆうりゆう〉と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりへんなをどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦〈よし〉のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはひつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月〈みかづき〉がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる

ヒバリ

前半で「一本木野」の自然が描かれ、後半で、この自然美にひたることに対する恩恵を讃えています。この詩に関する恩田逸夫の解説(『宮沢賢治論2・詩研究』)を、以下、引用しておきます。

「松がいきなり明るくなつて/のはらがぱつとひらければ」の書き出しによって松林から歩み出した瞬間の視界の拡がりを写している。

次に眼にとびこんでくる広い平原、かぎりなく続く黄色の枯草、それは無限の北方にまで連なっているような電柱の列に移り、さらにすみきった青色の天空にまで延びる。

そして現実の天空と心象としての天空とが混じり合って「すみわたる海蒼の天と/きよめられるひとのねがひ」という観念が生み出されるのである。

ふたたび視点は眼前の風物に注がれ「からまつ」の色が、若々しい春の芽吹きのごとき感じでとらえられると、その連想として、風の音は春の「ひばり」=写真=として聞かれる。明るく楽しい気分である。

それに続く「七時雨(山の名)」「やなぎの木立」「薬師岳」「くらかけ山」などの自然物は、いずれも眼前の空間を形成するための風景描写であるとともに、この時の彼の心理状態と照応して用いられているのである。

彼は自然の快さを強く感じながらもそれを率直に受け取るのでではなく、そこに何か無理がある。

詩章「春と修羅」や同「グランド電柱」に多く見られるような自然の様相をそのまま描写したものではなく、自然をどう受け取るか、が問題とされ、それにはどこか歪められた心理が感じられるのである。


harutoshura at 00:15|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月08日

「一本木野」⑤ 未来派

  「一本木野」の最後の部分を読みます。

   (おい やまのたばこの木
    あんまりへんなをどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
蘆〈よし〉のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはひつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月〈みかづき〉がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる

未来派
*未来派のウンベルト・ボッチョーニ『都市の成長』

「やまのたばこの木」すなわち柏の木が「あんまりへんなをどりをやる」というのは、あちらこちらに伸びた木の枝や葉っぱが、変わった踊りをしているように見えるというのでしょう。 

「未来派」(フトゥリズモ)は、20世紀初めにイタリアを中心に起こった前衛芸術運動。

伝統的な芸術を徹底的に破壊し、機械化によって実現された近代社会のスピードやダイナミックな運動感覚を礼賛、表現しようとするもので、美術、建築、文学、音楽など広い分野で展開されました。

未来派は1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティが、フィガロ紙に「未来主義創立宣言」を発表したのに始まります。

「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい」という有名な言葉で知られています。

しかし、この詩が作られた1920年代には、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美するなど、イタリア・ファシズムと結びついていきます。

日本では、1909年に森鴎外による未来派宣言の翻訳が「スバル」誌上に掲載。その後、1917年のロシア革命を避けてロシア未来派のメンバーが日本に移住して各地で展覧会を開くなど、国内にも知られるようになります。

この詩が作られた1923年の1月には、本格的な未来派の紹介書『未来派とは?答へる』(デ・ブルリユツク、木下秀)が出版され、美術家や文学者に広く影響を与えました。

「つつましく折られたみどりの通信」とは、蘆の葉っぱのことを言っているのでしょう。蘆の葉は、茎から直接伸びて、高さ20~50cm、幅2~3cmほどで、細長いかたちをしています。

「蘆のあひだをがさがさ」歩いていくと、折れた蘆の葉っぱがポケットに入っているというのです。「つつましく」といった表現からも、この「みどりの通信」を、ラブレターのように愛おしく大切なものと考えているようです。 

森や野原を歩いていると衣服に引っかかる、俗に「ひっつき虫」と呼ばれる植物の種子があります。逆さとげを持つセンダングサ、細かい鉤が密生するヤエムグラなど、種類はさまざま。

「三日月がたのくちびるのあとで/肱やずぼんがいつぱいになる」とは、こうした「ひっつき虫」が、からだのあちこちにくっついた状態が連想されます。

賢治は、愛するひとに求めるような眼差しを自然へと向けています。この詩からは、自然を恋人のように愛おしく感じ、いやされる姿が伝わって来ます。

それは、自然に湧き出てくるだけのものだけなのでしょうか。それとも“やせ我慢”のような要素も交ざっているのでしょうか?


harutoshura at 00:36|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月07日

「一本木野」④ かしは

 「一本木野」のつづきです。

   (おい かしは
    てめいのあだなを
    やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)
こんなあかるい穹窿〈きゆうりゆう〉と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか

カシワ

ここでは「おい かしは」と柏=写真=に呼びかけています。柏は高さ15メートルにもなる、ブナ科の落葉高木。やせた乾燥地でも生育し、岩手山麓のような火山地帯でも、群落がよく見られたようです。

葉が大きく、縁に沿って丸く大きな鋸歯があるのが特徴です。塩漬けにして柏餅を包むのに用いられるほか、昔はこの葉に食物を盛ったので「炊葉」とも呼ばれました。

賢治作品には、この詩のように擬人化された柏の描写がよく出てきます。当時、農民たちが、たばこの代わりに柏の葉を吸うというような話があったのでしょうか。

「てめいのあだなを/やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか」と、問いかけます。

「穹窿」は、弓形に見える天空、大空、半球状のもの、円みをつけた天井などをいいます。ここではドーム状のかたちをした小山か丘を穹窿と呼んでいるのでしょう。

明るく晴れた空のした、草に覆われた円い丘のうえを「はんにちゆつくりある」いていられる。そんな幸せを「なんといふおんけいだらう」と、ありがたく感じています。

「はりつけとでもとりかへる」「こひびととひとめみることでさへさうでない」などと、ずいぶんと大げさな感じも受けますが、開放された野原を歩くことの壮快さを、さほどに強調したい心持ちなのでしょう。



harutoshura at 02:04|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月06日

「一本木野」③ 孔雀石

 「一本木野」のつづきを読んでいきます。

天椀〈てんわん〉の孔雀石にひそまり
薬師岱赭〈やくしたいしや〉のきびしくするどいもりあがり
火口の雪は皺ごと刻み
くらかけのびんかんな稜〈かど〉は
青ぞらに星雲をあげる

孔雀石

「天椀〈てんわん〉」は、天を「穹窿〈きゆうりゆう〉」すなわちドームに見立てた比喩です。「椀」は飯や汁物などを盛るため、中をえぐり取った木製の容器をイメージしています。

「孔雀石」=写真=は、銅鉱床の酸化体に生ずる、もっとも一般的な銅の二次鉱物。銅鉱石が大気中の二酸化炭素や地下水の作用によって風化して銅の化合物が濃集、銅鉱石の周辺などに分布します。

ぶどう状を呈して絹糸光沢を持ち、不透明ですが孔雀の羽を思わせる美しい縞模様を作ります。以前読んだ「噴火湾(ノクターン)」に、「東の天末は濁つた孔雀石の縞」とありました。

この詩では、青緑色の美しい縞模様を描いた空のもと「ひそまり」かえった状景が設定されています。

「薬師岱赭〈やくしたいしや〉」とは、東岩手火山外輪山の最高峰の薬師岳(標高2041メートル)のこと。火山の火口付近には溶岩流などによる皺状の地形がよく見られます。

「火口の雪は皺ごと刻み」とは、そうした火山の皺状の地形に沿って「雪」が皺を刻んでいるように見えるということでしょう。

「くらかけ」は、岩手山南東に位置する鞍掛山(標高897メートル)。岩手山の寄生火山といわれますが、賢治は鞍掛山のほうが古い山と見ていたようです。

岩手山東麓の原野である一本木野からは、岩肌がむき出した荒々しいコニーデ型の東岩手火山と、その左に小さく盛り上がった「くらかけ」が空の中に突きだしています。

「くらかけのびんかんな稜〈かど〉」が「青ぞらに星雲をあげる」という表現は、そうした光景を、なんとも詩的でファンタスティック、見事に描ききっていると思います。


harutoshura at 01:46|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月05日

「一本木野」② チモシイ

 「一本木野」のつづきを読んでいきます。

すみわたる海蒼〈かいさう〉の天と
きよめられるひとのねがひ
からまつはふたたびわかやいで萌え
幻聴の透明なひばり
七時雨〈ななしぐれ〉の青い起伏は
また心象のなかにも起伏し
ひとむらのやなぎ木立は
ボルガのきしのそのやなぎ

チモシー
 
詩「樺太鉄道」に、次のような一節があります。

 (濁つてしづまる天の青らむ一かけら)
いちめんいちめん海蒼のチモシイ

「海蒼」とは海のような蒼い色、具体的には牧草として利用され、鮮緑の美しい葉をもつチモシイ(オオアワガエリ)=写真=をイメージしているようです。

「きよめ」は、心身の汚れをはらい清めること。ここでは澄みわたる空に「ひとのねがひ」も清められるといいます。

実際には音がしていないのに聞いたように感じるのが「幻聴」。賢治作品には、ひばりの鳴き声のユニークな表現が目立ちますが、ここでは「透明なひばり」の声を聴いています。

「からまつ」は、日本の針葉樹の中でただ一つの落葉性高木です。この詩の日付(10、28)のころは、もう秋も深まり、葉は黄色く色づいて褐色の冬芽を残して落葉しているころです。

ところが、この詩では「からまつはふたたびわかやいで萌え/幻聴の透明なひばり」と、詩人は早くもひばりの春を告げる声を聴き、萌え出る芽吹きを捉えています。

「七時雨〈ななしぐれ〉」は七時雨山のこと。盛岡の北約40キロ、西根町と安代町の境にある標高1060メートルの山です。天気が変わりやすいため、この名が付いたそうです。

コニーデ型の古い火山で、中央にカルデラがあります。すそ野にある内山放牧場は、南部馬の産地として知られています。

「ボルガ」は、ロシア連邦の西部を流れる全長3,690kmのヨーロッパ最長の川。水系にはロシアの主要な都市があり、「ロシアの母なる川」ともいわれます。

ボルガ河畔の「やなぎ」の典拠は分かりませんが、ヤナギ科の落葉高木の木立がぴったり似合うところのように思えてきます。

いずれにせよ、詩人の心象には時空を超えた遥かなヨーロッパの大河周辺の光景が映っているのです。


harutoshura at 01:43|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月04日

「一本木野」① ベーリング市まで

 きょうから「一本木野」に入ります。この詩には、次の詩「鎔岩流」とともに「1923、10、28」の日付があります。この日は日曜日。どちらの詩も、岩手山麓を歩いた様子が描かれています。冒頭は――

  一本木野

松がいきなり明るくなつて
のはらがぱつとひらければ
かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
ベーリング市までつづくとおもはれる

一本木野

「一本木野」は、現在の岩手県滝沢市一本木にある野原。一本木原とも呼ばれます。岩手山の東側の裾野で「柳沢」の北方にあたります。

かつては松の木の多い原野でしたが、いまでは一部の酪農地のほかは、自衛隊の広大な演習場になっています。

年譜によると、盛岡中学の3年生、15歳だった賢治は、1911(明治44)年9月30日、一本木野付近で行われた発火演習に参加、この地に野営するという経験もしています。

「ベーリング市」は、ユーラシア大陸とアメリカ大陸を隔てるベーリング海峡を念頭に置いて名付けた都市なのでしょう。

ベーリング海峡は、アラスカのスワード半島と東シベリアのチュクチ半島との間、北はチュクチ海、南はベーリング海に面し、長さは96kmに及びます。

1728年に海峡を通過し、二つの大陸を隔てる海峡であることを発見したロシア人ヴィトゥス・ベーリングの名が付けられています。

約3万~1万3000年前ころの最終氷期には、ベーリング海峡の一帯は陸地化、いわゆるベーリング地峡となっていました。

ユーラシア大陸のモンゴロイドは、これを渡ってアメリカ大陸に進出。そして、遅くとも1万年前には南アメリカ大陸の最南端まで達していたと考えられています。

4次元の世界を想定している賢治の頭の中では、空間的にも時間的にも遥か遠く、陸でつながっていたころのベーリングの都市が思い描かれていたのかもしれません。

眼前にいきなり広がる松の木が広がる原野。そこから一気に近景から遠景へと視点が移動して、白い碍子を連ねた電信柱が遥かベーリングにまでつづく。

そうした壮大な展開とともに、イメージが加速度的に広がっていきます。それは、賢治の心理的な描写をもともなって、のことなのでしょう。 


harutoshura at 01:36|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年05月03日

「過去情炎」④ 情炎

  きょうは「過去情炎」の最後の部分です。

そんならもうアカシヤの木もほりとられたし
いまはまんぞくしてたうぐはをおき
わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに
応揚〈おうやう〉にわらつてその木のしたへゆくのだけれども
それはひとつの情炎〈じやうえん〉だ
もう水いろの過去になつてゐる

ニセアカシア

「アカシヤ」は、本来はインドやアフリカ産のマメ科の常緑樹をいいますが、日本ではニセアカシア=写真=のことを一般にアカシヤと呼んでいます。賢治の作品に出てくるアカシヤも、ニセアカシアのようです。

ニセアカシアは、高さ15メートルほどになるマメ科の落葉高木。北アメリカ原産で世界各地に移植、日本には1870年代に渡って来ました。

葉は、初夏、白い15センチほどの総状花序の房を下げ、蝶形の白い小花をたくさん付けます。枝には鋭いトゲがあるのが特徴です。

1950年代まで、家庭の暖房や炊事、風呂の焚きつけなどの火力は、ほとんどが薪や炭でした。

生育が早く痩せ地でも育ち材が固くゆっくり燃焼するので火持ちが良い、湿っていても燃えるなどの性質から、ニセアカシアは薪炭材として最適でした。

また、耐久性が高いため、線路の枕木、木釘、船材、スキー板など他にもさまざまな用途がありました。

きっと「アカシヤの木もほりとられたし」というような作業は、あちこちで行われていたのでしょう。因みに花巻農学校跡のニセアカシアは賢治が植えたものと言われているそうです。

「たうぐは」は、鍬の一種で、厚くて丈夫な刃が特徴的な唐鍬のことでしょう。「とうが」とも呼ばれます。長方形の鉄板の一端に刃をつけ、他の端に木の柄をはめたもので、開墾や根切りに使います。植樹や道づくりの際には欠かせない道具です。

「応揚」は、「詩経」から来た「鷹揚」(おうよう)と同じ意味でしょう。鷹(たか)が大空をゆうゆうと飛ぶさまから、ゆったりと振る舞うこと、余裕があって目先の小事にこだわらないことや、そのさまをいいます。

「待つてゐたこひびとにあふ」ようにもとめて行った「それ」とは、この前に出てきた「雫」のことでしょう。それへの思いは「情炎」と言いたいほど激しく熱いというのです。

私のような凡人には少々大げさのようにも思われますが、ひどくたよりなげでありながら世界を「をさめ」るレンズでもある雫が、天才詩人の眼にはあまりに美しく、愛おしい存在に見えたのでしょう。

ところが、アカシヤを掘り起こし終えて念願の雫のところまで行ってみると、雫は消えていたのか、落ちてしまったのか、それとも様相が変わって詩人の気持ちが変化したのか。

「情炎」は「水いろの過去になつて」しまっていたというのです。そのはかなさの形容として、また「情炎」との対比として、「水いろ」という言葉でぴったりはまり、実に効果的です。


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2015年05月02日

「過去情炎」③ まゆみ

  「過去情炎」のつづきです。

えりをりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
企らむやうに肩をはりながら
そつちをぬすみみてゐれば
ひじやうな悪漢〈わるもの〉にもみえようが
わたくしはゆるされるとおもふ
なにもかもみんなたよりなく
なにもかもみんなあてにならない
これらげんしやうのせかいのなかで
そのたよりない性〈せい〉質が
こんなきれいな露になつたり
いぢけたちひさなまゆみの木を
紅〈べに〉からやさしい月光いろまで
豪奢な織物に染めたりする

マユミ

背広やワイシャツの襟のように、折り返すように仕立てた襟を総称して「えりをり」、あるいは折襟などといいます。 漱石の『三四郎』には「折襟に、幅の広い黒繻子を結んだ先がぱつと開いて胸一杯になつてゐる」。

現代のシャツの形式は、ボタン使用が普及した19世紀にほぼ確立しました。この時期に、上流階級だけでなく民衆に広く普及。それ以前は立襟が一般的でしたが、19世紀、非常に高い立襟が流行した後に、折襟が初めて登場しました。

「悪漢」とは、現在のピカレスク小説などでは別の意味合いも帯びるようになっていますが、本来の意味は悪人、ならず者のこと、特に男性を指します。

「げんしやう」というのは、『春と修羅』の冒頭「序」にあった「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」の「現象」でしょうか。

あるいは、詩「奏鳴的説明」には「雲がぎらぎらにちぎれ/木が還照のなかから生えたつとき」と、「還照」(げんしやう)という言葉も用いられています。

「奏鳴的説明」の生前発表形では「還」は「幻」、「幻照」(げんしやう)だったようです。「幻照」には「幻燈」とも重なる、照り返しのイメージがあります。

いずれにしても、「仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明」でしかないような、「たよりなく」「あてにならない」世界が「げんしやう」なのでしょう。

「まゆみ」(檀、真弓、檀弓)=写真=は、ニシキギ科の落葉小高木。ヤマニシキギ(山錦)とも呼ばれます。日本と中国の林に自生し、秋に果実と種子、紅葉を楽しむ庭木としても親しまれています。

初夏、淡緑色の小花を多数つけます。秋には果実が淡紅色に熟し、熟すと果皮が4つに割れて、鮮烈な赤い種子が4つ現れます。材質が強い上によくしなるため、昔から弓の材料として用いられ、名前の由来になりました。弓の美称として、真弓ということもあります。

「げんしやうのせかい」における「たよりない性質」は、小さな「まゆみの木」をも「紅からやさしい月光いろまで/豪奢な織物に染めたりする」といいます。

賢治ならではの、独得の世界観と美意識を感じ取ることができる表現です。


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2015年05月01日

「過去情炎」② 短果枝

  「過去情炎」のつづきを読んでいきます。

雲はぐらぐらゆれて馳けるし
梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて
短果枝には雫がレンズになり
そらや木やすべての景象ををさめてゐる
わたくしがここを環に掘つてしまふあひだ
その雫が落ちないことをねがふ
なぜならいまこのちひさなアカシヤをとつたあとで
わたくしは鄭重〈ていちよう〉にかがんでそれに唇をあてる

枝の雫

「梨」は、高さ15メートルほどの落葉高木。葉は長さ12cmほどの卵形で、縁に芒状の鋸歯があります。花期は4月ごろ、葉が展開されていくとともに5枚の白い花弁からなる花をつけます。

8月下旬から11月ころにかけて、黄褐色または黄緑色でリンゴくらいの大きさの球形の果実がなります。甘くて果汁が多く、しゃりしゃりとした独特の食感が特徴です。

「葉脈」は、葉の全体に筋が走っているように見られる、樹枝状ないし網目状の構造をいいます。その内部には維管束が通っていて、茎の維管束と連結して水や養分を供給したり、デンプンなどの合成産物を運ぶ通路となっています。

葉脈は、葉が茎とつながっている葉柄の部分から始まります。枝分かれしながら、葉の先端や縁のほうにいくにしたがって次第に狭くなり、ところどころ融合しながら網状になります。

「短果枝」とは、実のつく短い枝のことをいいます。長さによって短果枝、中果枝、長果枝と分けて呼ばれ、短果枝は10cm以下の枝を指すことが多いようです。

花芽がつきやすいので、短果枝を増やすことが園芸のポイントとされます。
 
アカシアを移植しようとしている賢治。その作業をしている最中、すぐ近くの梨が眼にとまり、実のついている短い枝に「雫」が、ぶら下がっているのを発見します。

それは水滴のレンズとなって、この世界の「すべての景象ををさめてゐる」のです。そんな小さな雫に、賢治は計り知れない愛おしさを感じます。その思いは天性の詩人にとって、恋情に近いものだったのでしょう。

アカシアを掘り起こしたら、最愛の女性に対するように「鄭重にかがんでそれに唇をあて」たいと心待ちにしています。そのために、作業がおわるまで「雫が落ちない」でほしいと純粋に願っているのです。


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