2015年04月

2015年04月30日

「過去情炎」① 腐植

きょうから「過去情炎」に入ります。「1923、10、15」の日付があります。この詩も、日本が関東大震災後の混乱の最中に作られていることになります。冒頭は――

截られた根から青じろい樹液がにじみ
あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら
きらびやかな雨あがりの中にはたらけば
わたくしは移住の清教徒〈ピユリタン〉です

腐植土

「情炎」は、「情炎を燃やす」というように、火の炎のようにはげしい欲情のことをいいます。

詩「宗教風の恋」の中に「燃えて暗いなやましいもの」とありましたが、賢治にとっての情炎とはそういったものかもしれません。

では何に対する情炎なのか。それについては、作品を読み進める中で考えていきましょう。

「樹液」は、樹木が地中から吸い上げて、生命を維持していく養分としている液体のこと。

「小岩井農場(パート1)」には「幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ」、「原体剣舞連」には「四方の液の鬼神をまねき/樹液もふるふこの夜さひとよ」とあります。

「截られた根から青じろい樹液がにじみ」というのは、読み進めていくとわかるように「ちひさなアカシヤ」を掘る作業でのことのようです。

「腐植」とは腐植土=写真=すなわち、地上の植物によりつくられた有機物が、朽木や落葉、落枝となって地表に堆積し、それらがバクテリアなどの微生物やミミズなどの土壌動物によって分解され、土状になったもののこと。

腐食分解した植物が十分に混じった土壌は、黒色をして、良い耕作地になります。「あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら」からは、新たな耕作地づくりに精を出している様子がうかがえます。

「清教徒〈ピユリタン〉」(Puritan)は、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタントのグループで、市民革命の担い手となりました。

清潔、潔白などを表す「Purity」に由来します。もともとは「バカ正直」などの意味で蔑称的に使われたこともあったそうです。

16~17世紀、イングランド国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派のピューリタンが勢力を持つようになりました。

そのうち、国教会から分離しようとした分離派の中には、祖国での弾圧を逃れて、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した人たちもいました。

この詩では、清廉潔白であるとともに、新しい土地を求めて移住した開拓者のイメージで、ピユリタンという言葉を使っているのでしょう。



harutoshura at 03:29|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月29日

「火薬と紙幣」⑥ ギリヤークの電線

  「火薬と紙幣」をもう一度、通して眺めておきましょう。

萱の穂は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
   古枕木を灼いてこさへた
   黒い保線小屋の秋の中では
   四面体聚形〈しゆうけい〉の一人の工夫が
   米国風のブリキの缶で
   たしかメリケン粉を捏〈こ〉ねてゐる
鳥はまた一つまみ 空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
   赤い碍子のうへにゐる
   そのきのどくなすゞめども
   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
   たれでもみんなきのどくになる
森はどれも群青に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剥げて
酸性土壌ももう十月になつたのだ
   私の着物もすつかり thread-bare
   その陰影のなかから
   逞ましい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはひるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
  だからわたくしのふだん決して見ない
  小さな三角の前山なども
  はつきり白く浮いてでる
栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工〈ぶりきざいく〉のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
   (こんどばら撒いてしまつたら……
    ふん ちやうど四十雀のやうに)
雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

火薬爆発

この詩を読んであらためて気がづくのは、数行ごとに、3字下げや2字下げなど行を下げてはもとに戻し、といった配置の変化を繰り返しているところです。それが「連」とはちがった独自のリズムを作りだしています。

こうした点について、恩田逸夫は次のように解説しています(『宮沢賢治論・2・詩研究』)。この詩の最後に、それを引用しておきます。

この詩の冒頭は、賢治がよくやるように、描写の対象となる風景を一つの構図として示す技法である。「萱の穂」を示し、その奥の上空に「雲」を配して一つの空間をつくりあげている。視点を上下、左右、奥行の諸方向に移動させることによって空間を立体化する風景構成法である。

自然を写したこの四行は、下の三字下げてある五行で点景「人物」を述べている部分と対照させてある。それはまた、この詩を展開させるための素材である「雀」と「工夫」とを冒頭においていち早く提示する技法でもある。

なお、はじめの四行において、赤い萱の穂の「色彩」、苹果の果肉よりもつめたい雲の「触覚」、電線の五線紙の音譜のように飛び散るすずめの「形態」など、状景を生き生きと示す素材を感覚に訴えるように並列している。

とにかく彼の詩の表現技法は、さりげなく書かれているように見えても伏線照応配列などの点できわめて細心に配慮されている場合が多い。

酸性土壌と取り組んで着物もすり切れるほど苦労した「自分」とたくましい体躯の持ち主で食事の用意をしている生活力にあふれた工夫との対照、あるいは「一人」の土方と、「多数」のすずめとの対比、などのように取り合わせによる効果をあげているのである。対偶法は賢治文学全般に通じる顕著な修辞法である。

この作品の全貌をながめ渡して、すぐに気づくことは、三ないし四行ずつの一群を交互に上げ下げして記述していることである。一般に詩において行を下げたり、カッコに入れたりすることは、その行に特殊の機能を付与して読者の視覚印象に訴えるためである。

「行下ゲ」の部分は前の部分の補説や要約として用いられたり、または詩全体の流れの中でふとひらめいた心理の一コマを書きつける場合などがある。それからまた、心理描写がその作品の主流である場合に、行を下げて一つの風景を挿入したり、逆に風景描写を主とするものの中に「行下ゲ」による心理描写をさしはさむこともある。

なお行の高下によって叙景の部分と抒情の部分とを交互に配置する場合なども考えられるであろう。いずれにしても「行下ゲ」の部分を付置することによって、その部分を際立たせて作品の印象を強めたり、あるいは、詩の流れに変化を与えたりしているのである。賢治はこのような「行下ゲ」挿入を巧みに活用して、彼の表現技法の一特色をつくりあげている。

『第一集』巻頭詩の「屈折率」にすでのこの試みがあり、ひきつづき「丘の眩惑」「カーバイト倉庫」(大11・1・12)、「恋と病熱」(大11・3・20)において使用し、詩篇「春と修羅」では「行下ゲ」の部分を挿入するばかりでなく、作品の展開部では行を上下にうねらせて記述することによって、心理の「高揚と沈降」の波動状態を視覚的に写し出している。

「火薬と紙幣」では、「行下ゲ」の部分を挿入するというよりは、行下げを行わぬ部分と一群ずつ交互に配置する手法である。これについては『全集』に採録されている「メモ」に次のように出ている。

〈これらの頁の各々はあるちがった風景に対する一つ一つの窓であると考へられたい。即ち一字又は二字低く書いてある分はその前行の裏側にあるものと考(昭31筑摩版全集第11巻149頁)〉

「火薬と紙幣」はこの種の技法のほとんど完成したものと見てよいであろう。それも、風景と心理とを行の上げ下げでただ機械的に交互に配置するだけではなく、それらはもっと自由に有機的に配列されている。


harutoshura at 01:08|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月28日

「火薬と紙幣」⑤ 大きな帽子

  きょうは、「火薬と紙幣」の最後の部分です。

雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

パナマ帽

「縮れて」の縮れるというのは、しわが寄ってちぢまる、細かく波打ったり巻いたりした状態になることをいいます。

「雲が縮れて」、秋の日差しが「ぎらぎら光」ります。秋の日は残暑をもたらしますが、しだいに爽やかになり、晩秋には日差しも衰えていきます。また冬が近づくころには、「秋の日は釣瓶落とし」といわれるように一気に暮れてしまいます。

この詩からは「ぎらぎら光」りながらも、透明でさわやかな秋の日差しを感じます。

「帽子」が一般に普及するようになったのは、明治に入ってからのこと。明治4年8月9日(1871年9月23日)に出た散髪脱刀令(断髪令)により髷を結う男性が減り、代わって帽子が急激に普及しました。

西洋の帽子は「シャッポ」などと呼ばれ、「紳士たるもの外出時には帽子を着用する」のがあたりまえになったのです。

1900年ころからは、パナマソウの葉を細く裂いた紐を編んだつば付のパナマ帽=写真=や、麦わら帽子の一種で叩くと“カンカン"と音がするほど固いといわれたカンカン帽などが、大流行しました。「大きな帽子」というのはこうした類でしょうか。

リン(燐)は原子番号15の窒素族元素。黄燐(白燐)、紫燐、黒燐、赤燐などの同素体があります。黄燐は蝋(ろう)状の固体で毒性が強く、空気中に置くと自然発火して燐光を発します。19世紀にはマッチの材料としても利用されましたが、自然発火事故や健康被害により20世紀初頭に使用が禁止されました。

リン酸系の化合物は農薬や殺虫剤として使われるケースも多く、かつては化学兵器として研究されるほど強力な毒性を持った製品も開発されました。しかし現在では、それらの多くは使用が中止、リン酸エステル系の殺虫剤が主力になっています。

澄んで爽やかな空気に白い雲が流れる秋の高い空。そんな空の下の野原を、誰にはばかることもなく堂々と歩ける幸せ。

それを満喫できる身には、「火薬も燐も」すなわち兵器・武力やそれらを掌握する権力も武器や権力も、さらには「大きな紙幣」すなわちお金や財力も、「ほしくない」と詩人は言い切ります。

半面、敢えてそのように宣言しているということは前にも見たように、関東大震災で未曾有の犠牲者が出たうえ、戒厳令のもと、この国がどうなってしまうかまったく先の見えない混乱した時代状況が透けて見えるような気もします。

列島を震撼させた大震災の直後にあって、きっと、兵力やお金があっても何にもならない無常感とともに、自然の大きさや生命の尊さを痛感しているのでしょう。


harutoshura at 01:54|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月27日

「火薬と紙幣」④ 四十雀

 「火薬と紙幣」のつづきです。秋の木々がつぎつぎ描写されていきます。 

栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工〈ぶりきざいく〉のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
   (こんどばら撒いてしまつたら……
    ふん、ちやうど四十雀のやうに)

四十雀

「モザイツク」は、小片を寄せあわせて埋め込んで、絵や模様を表す装飾美術の手法のこと。石やタイル、ガラス、貝殻、木などが使われて、建物の床や壁面、工芸品の装飾などが施されます。

古くから世界的に見られ、特にカテドラルやモスクの装飾手法としてよく知られています。

この詩が作られた9月から10月ごろには、実が成熟すると「栗の梢」すなわち枝の先のほうには、いがのある殻斗が裂けて開き、中から堅い果実が1~3個ずつ現れるようになります。

いがやクリの実が顔を出した様子を、自然のモザイクと表現したのでしょう。 

ブリキは、腐食しにくいスズをめっきした鋼板で、銀白色鱗状の模様をしているのが特徴。用途としては、屋根や缶詰など水分と触れあう部材や、ロボット、自動車、電車などをかたどった“ブリキのおもちゃ"などが上げられます。

賢治はブリキの色と模様から、「やなぎの葉」が風で一気に裏返った情景の比喩としてよく用いています。

「まるめろ」は、バラ科マルメロ属の1種である落葉高木で、カリンのこと。中央アジア原産。未熟な実は表面に褐色の綿状の毛が密生し、成熟すると明るい黄橙色で洋梨のようになります。

収穫は10月から11月にかけて。「枝も裂けるまで実つてゐる」というのですから、収穫が間近になってきているのでしょう。ちなみにマーマレードは、まるめろの砂糖漬けが語源だそうです。

「四十雀」(シジュウカラ)=写真=は、スズメ目シジュウカラ科の鳥。日本や韓国を含む東アジアからロシア極東に分布します。

嘴は黒く、脚は淡褐色。スズメぐらいの大きさで、上面は青味がかった灰色や黒褐色、下面は淡褐色の羽毛で覆われます。
 
非繁殖期の秋季から冬季には数羽から十数羽、ときおり数十羽の群をつくり、甲高いよく通る声で「ツィピー、ツィピー、ツィピー」とさえずりながら、樹木を群れて移動します。雑食で、果実、種子、昆虫やクモなどを食べます。

何を「ばら撒いて」しまうのかよくわかりませんが、とにかくそれが、「ちやうど四十雀」が群れて樹木を移動する様子に見えたのでしょう。


harutoshura at 02:41|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月26日

「火薬と紙幣」③ 氷河

 「火薬と紙幣」のつづきを読んでいきます。

森はどれも群青に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剥げて
酸性土壌ももう十月になつたのだ
   私の着物もすつかり thread-bare
   その陰影のなかから
   逞ましい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはひるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
  だからわたくしのふだん決して見ない
  小さな三角の前山なども
  はつきり白く浮いてでる

氷山1
©Jeriff Cheng

「群青」は、ラピスラズリ(瑠璃)やアズライト(藍銅鉱)を原料にした高価な顔料です。やや紫みを帯びた、深く落ち着きのある紺青色。ウルトラマリン (ultramarine) 、あるいはウルトラマリンブルーとも呼ばれます。

賢治は、夕焼けの黄色い空と対比して山並みの青黒さを表したり、この詩のような暗い森、さらには空の色を表すのにしばしば群青を用いています。

日本は雨が多い国です。雨水は大気中の二酸化炭素が溶けるため、酸性になる傾向があります。雨が降ると、土壌や岩石の中の石灰分が溶かし出されて、流されます。

そのため残った土は、塩基性成分であるカルシウムが少なくなり、酸性化します。長い年月、こうした雨に洗われることによって土壌の酸性化が進んでいきます。

こうして日本列島に特徴的な「酸性土壌」が形成されているのです。「酸性土壌ももう十月になつた」というのは、賢治のような土に根ざして生きる農学者の実感なのでしょう。

「thread-bare」は、「(布・衣類が)すれて糸の見える、すり切れた」、「(人が)ぼろを着た、みすぼらしい」、「(議論・冗談など)が古くさい、陳腐な」といった意味。べつに賢治の身なりがみすぼらしいというわけではなく、秋も深まる10月になって、秋ものの衣服もすり切れてきたという意味でしょうか。 

「氷河」は、山や傾斜した地形に氷や雪が堆積し、圧縮されてできた、流動性をもった氷の集合体です。侵食や堆積を活発に行い、独特な氷河地形を形成します。山の頂上にある雪の塊から、氷の舌のようになって谷間に流れ出るタイプを流出氷河といいます。

ここでは、「枯れた野原に注い」でいる「白い雲のたくさんの流れ」を喩えて、「氷河が海にはひるやうに」と述べています。氷河から海に流れ出した氷山=写真=を想像してもいいかもしれません。

流れるたくさんの白い雲の中にある、角ばった氷山のようなかたちの雲を、「わたくしのふだん決して見ない/小さな三角の前山」といっているのでしょうか。


harutoshura at 01:18|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月25日

「火薬と紙幣」② 四面体聚形

 「火薬と紙幣」のつづきを読んでいきます。

   古枕木を灼いてこさへた
   黒い保線小屋の秋の中では
   四面体聚形〈しゆうけい〉の一人の工夫が
   米国風のブリキの缶で
   たしかメリケン粉を捏〈こ〉ねてゐる
鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
   赤い碍子のうへにゐる
   そのきのどくなすゞめども
   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
   たれでもみんなきのどくになる

oct1

ブナ、トチノキなど耐久性の低い樹種を山や製材所でのざらしにしておくと、腐って、枕木には使えません。そのため枕木には、クレオソート油を染みこませるなど防腐処理を施されました。

防腐処理されると、耐久性は飛躍的に上がりました。こうした枕木は古くなっても不腐性が保たれたため、駅のホームや敷地を囲うフェンス、花壇の縁取りなど、さまざまな用途で再利用、重宝されてきました。

線路の安全を保つためには、定期的な保守作業が欠かせません。そのための資材や機具などが置かれる「保線小屋」にも、丈夫な「古枕木」が使われていたのでしょう。

「四面体聚形」とは、いくつかの四面体を集めて作られる、ゴツゴツした複合多面体のこと。正四面体と逆正四面体を組み合せたかたちの宝石、マカバスター=写真=もその一種です。ここでは、がっちりしてたくましい「工夫」の比喩表現として用いられています。

「ギリアーク」は、サハリン中部以北と、その対岸のアムール川下流域に住む少数民族のこと。ロシア革命前の古い呼び方で、近年ではふつう、同民族の自称である「ニヴフ」が用いられています。詩の中では、民族名を地域の名前として転用しています。

鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる

このあたりは、サハリンと日本列島を行き来する渡り鳥の渡りのありさまを、神のような大きな視点で眺めているようにも思えてきます。

渡り鳥は、太陽や星の配置を指標にしたり、地球の磁場を感知するなどして、目的地にたどりつくと考えられています。

当然、鳥たちは丸い地球を渡りながらも空の方へ離れ去ってしまうわけでなく、地面へともどって「電線にあつま」ったりするのです。まさに、「巧に引力の法則をつかつて」もいるわけです。

「碍子」(がいし)は、電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具。多くは磁器を素材としています。日本では、1869(明治2)年に東京—横浜間で公衆用電信線の建設工事あたりから碍子の本格的な利用が始まりました。

当初は「赤碍子」と呼ばれるとび色の輸入品が用いられていたそうですから、「赤い碍子」とはそのことを言っているのかもしれません。

ところが、輸入品は不良率が高くて高価だったので、この詩が作られたころには、碍子の国産化が行われるようになっていたようです。

「きのどくそうなすゞめども」というような、作品の中で賢治がしばしば抱く感情はどこからくるのでしょう。はっきりしませんが、賢治の作品で「口笛」が出てくるのはたいてい、寂しさや孤独な思いを伴っているように思えます。賢治は山野を歩きながらよく口笛を吹いていたそうです。


harutoshura at 02:20|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月24日

「火薬と紙幣」① カシユガル

 次は「火薬と紙幣」です。この詩には「1923、9、10」の日付があります。ですが、「10、10」の誤植だろう、と考えられています。
 
 詩の中に「酸性土壌ももう十月になつたのだ」という文があること。さらに、『春と修羅』の配列は作成年月日を追っていて、この詩が「9、30」の「第四梯形」と「10、15」の「過去情炎」の間に置かれているからです。

 詩の書き出しは、次のようになっています。

萱の穂は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ

カシュガル

この年の9月1日に発生した関東大震災の後、混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪や暴動を起こすというデマが広まり、民衆や軍、警察によって朝鮮人、それと間違われた中国人や日本人が殺傷される事件が相次ぎました。

さらに、軍や警察の主導で関東地方には4000もの自警団が組織されて、それらによる集団暴行事件も発生します。この詩が作られたと考えられる10月には、暴走した自警団を、逆に警察が取り締まらなければならない事態になります。

「火薬と紙幣」という不思議な取り合わせは、武力や物騒な社会を「火薬」、災害によって疲弊した経済状況や財力のことを「紙幣」という言葉で象徴的に示し、当時の混乱ぶりが反映されて生まれでたのかもしれません。 

「苹果」(リンゴ)の原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタンあたりとされ、ここからヨーロッパやアジア経由で日本にも広まったと考えられています。

「カシユガル」=写真=は、タリム盆地の西北辺にあり、中華人民共和国新疆ウイグル自治区の西南部に位置する地区。かつては東西交流の要衝で多民族都市でしたが、いまではほとんどをウイグル族が占めています。

カシュガルは特別にリンゴの山地として有名というわけではなさそうですが、リンゴを含め、ブドウ、メロン、ナシ、アンズ、スモモ、ザクロ、イチヂク、サクランボなど「果物が水のようにわきだす」と言われるほどの果物の宝庫。あちこちに果樹園もあるようです。

賢治に、特に「カシユガル産の苹果」についての知識があったというわけではなく、天才詩人ならではの独創的な発想で、つめたいリンゴの果肉の印象を、古い歴史を持つ中国の西の果てにあるシルクロードのオアシス都市と結びつけたのでしょう。

「ラツグ」とは、「ラグタイム」を略してこういったと思われます。ラグタイム (ragtime) は、この詩ができた少し前の1897年から1918年ごろ、アメリカ中心に世界的に流行した音楽ジャンルで、その後ジャズへと発展した黒人音楽。

黒人のミュージシャンたちが、ピアノ演奏を中心に、シンコペーションを多用したメロディとマーチに由来する伴奏を重ね合わせた独特の演奏スタイルを編み出しました。これが、従来のクラシック音楽のリズムと違って、遅く、ずれたリズムと思われたため「ragged-time」略して「ragtime」と呼ばれるようになったようです。

当時、短時間しか録音できなかったレコードなどに取り入れられて急速に広まり、このリズムを用いた楽曲がポピュラーソングとして第一次世界大戦後まで好んで歌われました。

有名なのは、ラグタイム王と呼ばれたスコット・ジョプリン。ジョージ・ガーシュインは、ラグタイム風の楽曲「スワニー(英語版)」を作曲して一躍スターダムにのし上がりました。

*写真は「http://www.kaze-travel.co.jp/silkroad_kiji002.html」から。 


harutoshura at 02:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月23日

マチャードの後継者たち

「崩れ落ちる兵士――1936年9月5日 コルドバ・ムリアーノで」。スペイン内戦に従軍したハンガリー生まれの報道写真家ロバート・キャパ(1913~1954)が撮った「死の瞬間」の写真の題名です。

兵士はフランコ軍から共和体制を守ろうと、地元の民兵組織に入った若い工場労働者だった。正式には「人民戦線兵士の死(Loyalist Militiaman at the Moment of Death, Cerro Muriano, September 5, 1936)」=写真=と呼ばれているこの1枚は、ジャーナリズムの転換点を示す象徴的な写真となりました。

Soldier

それまで戦場写真といえば4×5インチのフィルムを用いて、遠くから撮る動きの乏しい写真がふつうでした。ところがキャパは、機動性と速写性を確保するため、35ミリフィルムでの撮影が可能なライカを用いて戦場に飛び込みました。

しかも、人民戦線の兵士が頭を撃たれて倒れる瞬間を、兵士の前方至近距離から撮影した奇跡的とも思えるシャッターチャンスをものにしたのです。第1次世界大戦中のヨーロッパでロシア革命の始まりを知り、ジョン・リード(1887~1920)がアメリカからロシアへと向かったのは、1917年のことです。

リードがこの年、ウラジーミル・レーニンへのインタビューをはじめロシア革命を克明に記録して描いたルポルタージュ『世界をゆるがした10日間(Ten Days That Shook the World)』は、現代ジャーナリズムの幕開けを告げる古典としていまも読み継がれています。

スペインがすべてを失った1898年。キャパやリードが活躍するようになる前の当時はまだ、時代を記録し、世界で起こっている出来事とその意味を伝える役割の一端を詩人が担っていました。とりわけ「中世のルポライター」ともいえる吟遊詩人らの伝統を受け継いだロマンセが、時代を超えて作られてきたスペインでは、そうした傾向がより強く残っていたと考えていいでしょう。

詩人の言葉がまだ社会的に大きな力をもっていた時代なのです。ホセ・ガルシア・ロペス(José Garcia López)は、スペイン文学史におけるマチャードの詩を、次のように位置づけています。

〈全体としてマチャドの詩は一切の誇飾を省き、質実ながらも深々とした感動に満ちており、彼自身が語っているように《深い精神の鼓動》を表している。そして読者の心に彼自身の言葉を借りれば「ごくわずかな真の言葉で小波のように」その鼓動を伝えるのである。このようにして彼の詩は時代の嗜好の変化を乗越えてスペイン詩の歴史に永遠の輝きを保っていくであろう。彼の詩が現代の抒情詩に決定的な影響を与えているのは、あらゆる唯美主義的態度を排除し、もっとも真正な人間の姿との交感を求める時代の一般的な趨勢に合致しているためである。〉

フランス象徴主義やモダニズムの影響を受けた美しい詩で文壇に登場したマチャードは、これまで見てきたように、スペインの魂として「98年世代」がこだわったカスティーリャに住むようになったのと時を同じくして、その詩風を大きく転換させます。きらびやかな形容詞の飾りを切り捨て、「深い精神の鼓動」を伝えるような動詞の使い方に気を配るのです。

こうして生まれた詩集『カスティーリャの野』には、荒涼たる風景に刻まれた歴史や人々の醜い心の奥処までも描写した14音節の定型詩があるかと思えば、カスティーリャの地に巣くう犯罪の根をさぐる長いロマンセもあります。さらには、人間の真正に迫って小波のように心を振わせるコプラも盛り込まれています。

文学的には時代に逆行した感さえするマチャードの詩の転換や、詩集『カスティーリャの野』の独特な構成の背景には、民俗学者の父をもったといった詩人が育った環境や資質が大きく影響しているのでしょう。と同時に、そこには、当人がどこまで意識していたかは確とは分かりませんが、「98年世代」の課題を誠実に遂行し言葉の力でスペインの再生を純粋に夢見ていた詩人の、相当に意図的な言葉の「戦略」があったと私は思います。

国を再生するのは最終的には、そこに住まう民衆です。彼らが置かれている立場を自覚し変えていくには、当時の世界の潮流がどうであれ、詩人は民衆の言葉で語らなければなりませんでした。スペインの伝統的な詩形であるロマンセや、民衆の歌であるコプラにこだわり、深みへと導きながらもきっちりと言い切る動詞の起用が必要だったのです。

国の近代化を目指したマチャードら98年世代の運動は、結局のところスペインにとってどういう成果をもたらしたのでしょう。その後の政治的混乱、そして内戦、フランコの勝利という歴史的経過からすると、少なくとも表面的には彼らの「夢想」の域を出ることはなく、これといった実のある収穫をもたらすことはできずに挫折に終わった、というのがおおかたの見方だと思います。

そうした「98年世代」の中で最後の最後まで戦いぬいたのが、皮肉にも当初はもっとも政治活動に消極的だったマチャードだったのです。

これまで再三引用したエントラルゴは「この世代が行動の世界にわずかに触れたあと、苦悩からスペインの夢想へ移行したことを、アントニオ・マチャードほど美しく明快に歌った人はいない」 として、『カスティーリャの野』の詩「若きスペイン(Una España Joven)」(1914) をあげています。その第1節に描かれているのは、彼らが青春時代に見出したスペインの実相です。

中傷と欺瞞の時代だった。
その傷口をさぐり当てぬようにと、彼らは
カーニバルの衣装をまとい深手を負ったスペイン全体を、
貧しくやせおとろえ酔いしれたものとした
Fue un tiempo de mentira, de infamia. A España toda,
la mal herida España, de Carnaval vestida
nos la pusieron, pobre y escuálida y beoda,
para que no acertara la mano con la herida.

詩人は、王政復古から間もないスペインの偽の陽気さを、表面的で愚かしい歓声を表現しています。手回し風琴からはチュエカの調べが流れ、祖国の力と安泰をスペイン人に信じこませました。後に「98年の世代」を形成することになる若者たちは、このようなスペインに目を開いたのです。

それは昨日のこと、われわれがまだほんの若者だったころだ。
それは不吉な前兆に満ちた荒れ模様の時代
われわれは裸のキメーラにまたがろうとしていた
そして海は難破者に飽いて眠っていた
Fue ayer; éramos casi adolescentes; era
con tiempo malo, encinta de lúgubres presagios,
cuando montar quisimos en pelo una quimera,
mientras la mar dormía ahita de naufragios.

まもなく彼らはみな、そうしたスペインの脆弱さと苦悩に満ちた運命に気づくことになります。カーニバルの笑い声のかげに1898年の不吉な前兆があったのです。海は眠り、海底には数世紀にわたる漂流のあいだに沈没した船がひしめきあっていました。未来の世代を構成する若者たちは夢想することを、艦隊を組むことを始めます。

汚れたガレー船は港に残し
沖をめざして黄金の船に乗り
陸地を期待せずに航海を楽しんだ
帆も錨も舵も海に投げ捨てて
Dejamos en el puerto la sórdida galera,
y en una nave de oro nos plugo navegar
hacia los altos mares, sin aguardar ribera,
lanzando velas y anclas y gobernalle al mar.

彼らは古いスペインというガレー船を捨てて、夢の船、つまり予測できぬ果てしなき旅に耐えうる夢想せるスペインという船に乗り組んだのです。夢の世界は現実の古い世界の上をさまよい、夢見る人々の目覚ましい働きは、新しい夜明けの光の下に道を開いたかのように思われました。

そのとき、われわれの夢の奥底から
――それは惨めに敗北して遠ざかっていった1世紀の遺産だ
暁の光が昇ろうとしていた、聖なる理念の光が
われらの擾乱と戦っていた
Ya entonces, por el fondo de nuestro sueño—herencia
De un siglo que vencido sin gloria se alejaba—
Un alba entrar quería; con nuestra turbulencia
la luz de las divinas ideas batallaba.

当時の若者たちは、真、善、美という永遠の理念のために戦いました。古びた背景を通して微かに見えると思われた光こそ、これら理念の光だったのです。しばらくのあいだ彼らは、自分たちの夢の勝利を目のあたりにできるのではないかと希望していましたが、じきに四散し、それぞれの道をたどり続けることになります。だれもが、あの過去が内包するバラ色の未来を信じていました。

だが各自おのが狂気の道をたどった
腕を鳴らし、おのが鋭気を頼りとした
鏡のように輝く武器をぬぎ、そして言った
「今日は日が悪い。だが明日は……私のものだ」
Mas cada cual el rumbo siguió de su locure;
agilitó su brazo, acreditó su brío;
dejó como un espejo bruñida su armadura
y dijo: 《El hoy es malo, pero el mañana... es mío》.

彼らの狂気はドン・キホーテの狂気でした。ドン・キホーテは神話の相の下に、ふたたびスペインの大地を馬で行きます。冒険の目的は何でしょうか。失敗以外のものが可能でしょうか。ドン・キホーテの冒険と同じように、この冒険においてもまた分限者フワン・アルドゥードが相変わらず若い召し使いをなぐり、旅籠は城のように見えた後も相変わらず旅籠でした。

今日は昨日のあの明日……そしてスペインはどこもかしこも
汚い飾りのついたカーニバルの衣装を着たまま
貧しく痩せ衰え酔っている
だが今日は苦いぶどう酒だ。それは傷口から滴る血
 Y es hoy aquel mañana de ayer... Y España toda,
con sucios oropeles de Carnaval vestida
aún la tenemos: pobre y escuálida y beoda;
mas hoy de un vino malo: la sangre de su herida.

もはや残された道は、各自の夢と希望のもっとも密かな部屋に入り込むだけ。それは、スペイン人たちのもう一つの伝道突子(カム)が、新たな希望へ、つまり新しくより高遠な冒険への駆りたてを魂の中に感じとるよう希望することでした。

君、青春の只中にいる若者よ、もし意志が
もっと高き頂から君のもとに至るなら、君は冒険に向かうだろう
きらめくダイヤモンドのように、汚れなきダイヤモンドのように
天上の光に目を開き、透き通れ
Tú, juventud más joven, si de más alta cumbre
La voluntad te llega, irás a tu aventura
despierta y transparente a la divina lumbre:
como el diamente clara, como el diamante pura.

エントラルゴが指摘しているように、マチャードはまさに「98年世代」の詩人でした。その精神にしたがって誠実に詩人としての使命を果たそうとしただけでなく、この世代の誕生とその冒険をも歌ったのです。

1939年、詩人は非業の死を遂げ、スペインはフランコ=写真=の独裁による閉ざされた時代へと突入しました。アントニオ・マチャードという詩人は「伝説」となり、スペイン再生を夢見た詩人の「戦略」は、次の世代に受け継がれていくことになります。

20世紀は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」 といわれるほど、才能豊かな個性的な詩人たちが多く現れ、独自の発展を遂げました。清水憲男は「20世紀以降のスペイン文学は、一定の輝かしい小説家の存在を除いて、根本的に詩がその大動脈を形成してきたというのが年来の私見である」とし、その理由として次のように記しています。

「27年世代、あるいはそれに先立つ98年世代のAntonio Machado他の詩人に私淑するにせよ反発するにせよ、詩を読み、詩を書く必要性を主張かつ実践する骨太の感性の持ち主たちが、日本ではまったくと言っていいほど知られないまま、次々に台頭しているからである」 。

これまで見てきたように、フランス象徴主義やモダニズムの影響を受けて詩作をスタートしたマチャードは、「1898年世代」がこだわったカスティーリャに移り住むのと時を同じくして、詩風を大きく変化させます。

きらびやかな形容詞の飾りを捨て去り、近代的、象徴主義的手法からも離れ、ものごとを語り、心の鼓動を伝える動詞を重視、ロマンセなどスペインの伝統的な手法を用いるようになるのです。こうして、「98年世代」の意思を体現しているようにも思える詩集『カスティーリャの野』ができあがったのです。

同詩集には、スペインの源流であるカスティーリャの荒涼たる風景に刻まれた歴史や人々の醜い心を描写した定型詩があるかと思えば、カスティーリャの地に巣食う犯罪の根を探るロマンセ、さらにはロマンセの伝統を受け継いだ短詩であるコプラもたくさん盛り込まれています。

一見、脈略のない寄せ集め的な構成で、文学的には時代に逆行した感さえする詩集です。しかしそこには、高名な民俗学者の父をもったことなどで培ったマチャードの素養とともに、「98年世代」の課題を誠実に遂行し言葉の力でスペインの再生を夢見ていた詩人の、相当に意図的な言葉の「戦略」といえるようなものがあったと考えることができるでしょう。

どん底に落ち込んだ国を再生するのは、最終的にはそこに住んでいる国民であり、民衆たちです。彼らが、祖国の置かれている状況を自覚し、変えていこうとしなければ再生などありはしません。

彼らに言葉を届かせるためには、詩人は民衆の言葉で語らなければならなかったのです。スペインの伝統的な詩形であるロマンセや、民衆の歌であるコプラにこだわり、落ちぶれ果てた現在を描写し、その醜さまでをも語りきる動詞を必要としたのです。

『カスティーリャの野』の序文で、マチャードは「詩人の使命というのは、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると私は思った」 と記しています。その一つが「新しいロマンセを書く」ことでもあったわけです。

「98年世代」的な課題を背負った詩人にとって、大きくのしかかっていた「使命」とは何か。それは、とりもなおさず国の再生という現実的な問題だったはずです。とすれば、「新しい詩を考案」しようというマチャードの試みは、すなわち詩人の「戦略」と位置づけても、さほどに不自然ではないのではないでしょう。

国の近代化と再生を夢見たマチャードたちの運動は、内戦へと向かう社会の混乱や、共和派の敗北、フランコ独裁といったその後の歴史をみると、結局は夢の域を出ず、これといった成果を得られないまま挫折したと考えられます。しかし、「98年世代」の中で最後の最後まで戦い通したのが、当初はもっとも政治活動に消極的だったマチャードでした。

そして、彼の志は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」といわれた20世紀の詩人たちに受け継がれていったのです。私は、スペイン語の「晩生の果実(fruto tardío)」という言葉が好きです。ヨーロッパ諸国の文学の中ですでにすたれてしまったジャンルが、遅れてスペインに移入され、それが独特の興趣を帯びた文学となって実を結ぶことです。

さらには、スペインに以前から存在していたものが、ある種の色付けをされ、時により活気を帯びて再び現れ「継続性」となるのです。マチャードもまた、1898年の破局からの再生という夢に向けて、詩人としての「戦略」を模索するなかで、ロマンセなどスペインの詩に新たな「継続性」を与えるという大きな役割を演じたといえるのではないでしょうか。

一見古くさくもあるそうした「晩生の果実」が将来、ヨーロッパ諸国に逆輸入されて新たな花を咲かせることもあるでしょう。どん底の危機にあえぐ世界のどこかの国で、あるいは、絶望に打ちひしがれて明日が見えなくなった世界のどこかの人に、マチャードがつかみ取った言葉が「再生」への手掛りになることもありうるはずです。

私にとってアントニオ・マチャードは、むかしからずっとやってみたいと思いながらできないでいた「詩を読む」という試みを本気で実行する最初の詩人となりました。これを機に、マチャードだけでなく、日本や世界のいろんな詩や詩論を人生のつづいていく限りじっくりと読み続けていきたいと思っています。それが、ささやかの私の“第二の人生”であり、また、私自身の「再生」への道ではないのか、という気もしています。

2015年04月22日

マチャード「犯罪はグラナダで行われた」

1937年7月、戦禍のはなはだしいマドリードを避けて急きょバレンシアに会場が変更になった第2回国際作家会議には、避難民でごった返す町のなかを友人の車で会場へと駆けつけ、「文化の防衛と普及」というテーマで講演しています。

ちょうど、この会議が開かれたころ、グラナダでロルカが射殺されたというニュースが人々の耳から耳へと伝えられ、世界各国から集まってきていた文学者たちを驚かせ、激怒させました。マチャードは直ちに「犯罪はグラナダで行われた(El crimen fue en Granada)」 と題する詩を作っています。

1 犯罪(El crimen)

ひとは見た かれが銃にかこまれ
長い道をとぼとぼと歩き
まだ星の残っている朝まだき
寒い野っ原に姿を現すのを
やつらはフェデリコを殺した
そのとき 日が昇った
死刑執行人の一隊は
かれをまともに見ることができなかった
やつらはみんな眼をつむって
祈った――神さえもきみを救えはしない!
かれ フェデリコは 倒れ 死んだ
――額から血が流れ 腹に鉛をぶち込まれて
……犯罪はグラナダで行われた!
知ってるか――哀れなグラナダよ
フェデリコのグラナダよ
Se lo vio, caminando entre fusiles,
por una calle larga,
salir al campo frío,
aún con estrellas de la madrugada.
Mataron a Federico
cuando la luz asomaba.
El pelotón de verdugos
No osó mirarle la cara.
Todos cerraron los ojos;
Muerto cayó Federico
—sangre en la frente y plomo en las entrañas—
...Que fue en Granada el crimen
sabed—¡ pobre Granada! —, en su Granada.

2
歩いてゆく2人の姿が見えた……
友よ 建ててくれ
石と夢を――アランブラに
詩人のために
水のすすり泣く 泉のほとりに
そうして永遠に伝えてくれ
犯罪はグラナダで行われたと
かれのふるさとグラナダで行われたと
Se le vio caminar...
Labrad, amigos,
de piedra y sueño en el Alhambre,
un túmulo al poeta,
sobre una fuente donde llore el agua,
y eternamente diga:
el crimen fue en Granada, ¡en su Granada!

憤りをぶつけるように言葉をはき、叫んでいるます。そして最後は、「アルバルゴンサレスの地」がそうであったように、「水のすすり泣く 泉のほとりに(sobre una fuente donde llore el agua)」と水が登場してしめくくられるのです。

1936年7月、第2共和国政府に対する軍部の蜂起によってスペイン内戦が始まりました。人民戦線とも呼ばれる共和国陣営は、ソヴィエトの支援を得て、アナーキストや「アカ」と呼ばれた共産主義者、マルローやヘミングウェイらの参加で知られる国民義勇軍とともに反乱軍をおさえこもうとします。

しかし共和国陣営は、土地と権力を独占していたカトリック教会や聖職者を厳しく弾圧したこともあり、力尽きます。フランコ率いる反乱軍は自らを国民軍と名乗り、ドイツやイタリアの支援のもと、ファランヘ党などファシズム勢力を取り込んで次々と都市を制圧、1939年4月に勝利を宣言しました。

当初は政治には無関心だったマチャードですが、内戦に入ると、共和派のサイドに立ってフランコ率いる反乱軍と最後まで戦うことになります。野々山真輝帆は、スペイン内戦時にとったマチャードの姿勢について、オルテガ、ウナムーノというスペインを代表する2人の思想家と比較して次のように述べています。

「最近になって、スペイン内戦におけるオルテガやウナムーノのような第一線のスペインの知識人の政府参加を調べはじめて、私はかなり失望を味わった。実際に武器を手にして戦ったのは20代、30代のいわば知識人候補者であったのに対して、彼らは世論を指導する立場にあった、真の意味での第一線の知識人であった。しかし共和制の成立のために若い人々を励ました2人の著名な知識人のうち、1人は内戦が始まるや否や足早にスペインを去り、1人はファシスト支持を一時は公然と表明したのである。オルテガは年老いていたし病気だったから仕方がない、と私の友人の1人はいった。しかし、スペインにはオルテガを治療する医者はいないのかという、当時の人民戦線内に起こったオルテガ批判に、私はやはり賛成である。オルテガにとって、スペインが愚劣で無意味と化した時、彼はパリに居を定め、自己の深奥の城に深く閉じこもった。それは、詩人アントニオ・マチャードが戦火のマドリードにあくまで留まろうとした倫理的姿勢とは、まったく対照的であった」

スペインにおけるアントニオ・マチャードという詩人の位置づけについては、近年スペインで大ベストセラーになった、内戦を扱った1冊の小説をみても、その一端をうかがい知ることができるでしょう。2001年春に出版されたハビエル・セルカスの『サラミスの兵士たち』=写真=です。

サラミス

1年以上にわたってスペインの本の売り上げのトップを走り、スペイン語版の総売上数は60万部。日本を含む24カ国語に翻訳されて、世界で100万部以上にのぼりました。2002年には、映画化もされています。ノーベル賞作家のバルガス・リョサは2001年9月3日付の「El Pais」紙で「近年読んだ中で最も優れた作品。大きなテーマを扱った重い文学が、読者をひきつけることを知らしめてくれる」と絶賛しました。

『サラミスの兵士たち』は、ファランヘ党の創設者の1人で理論的指導者だった作家サンチェス・マサスの銃殺未遂事件をテーマに展開します。作者と同じ名前の主人公である新聞記者ハビエル・セルカスが、ある日、内戦終結間近にカタルーニャ山中であった共和国軍による集団銃殺のエピソードを知ります。

フランス国境近くに連行されて仲間と銃殺されかかったサンチェス・マサスは、混乱に乗じて森に逃げ込んだものの、共和国軍の若い兵士に見つかってしまいます。しかし、兵士はなぜかサンチェス・マサスの目を見つめただけで去っていきました。

主人公のセルカスは、この事件を扱った「本質的な秘密」という見出しの記事を書きます。その記事は、内戦で非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの内戦終結60年を記念した追悼特集の企画ということになっているのです。そのあたりの事情について小説には次のように記されています。

「時が流れた。その物語のことを、僕は忘れていった。そんな1999年の2月初めのことだ。内戦終結60年にあたるその年、非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの追悼特集の企画がもちあがった。マチャードは1939年1月、母親と弟のホセをはじめとする数万人のスペイン人難民ととともに、フランコ軍の進軍を避けてバルセロナからフランスに向かい、国境を越えたコリウールにのがれたものの、その直後に亡くなった。これはかなり有名なエピソードだったので、この時期、この話をとりあげないカタルーニャ語(あるいはカタルーニャ語以外)の新聞はなかったと思う。そこで僕も、目新しくもない記事を惰性的に書き起こしはじめたときだった。ふとサンチェス=マサスのこと、つまりマチャードの死とほとんど同時期に、国境の反対側のスペインの山中であった銃殺事件のことを思い出した。」

ここにあるように、アントニオ・マチャードの「かなり有名なエピソード」は、国民の間で繰り返し語られてきた内戦の象徴的な出来事であり、「アントニオ・マチャードの死」は決して風化してはいない、目新しくはないが記憶に留め置くべき出来事とスペインでは見られているのです。こうして書きあげられた「本質的な秘密」という見出しの記事は、次のようなものでした。マチャードの最後のようすがうまくまとめられています。

〈 内戦末期のアントニオ・マチャードの死から60年がたとうとしている。内戦にまつわるエピソードは数々あるが、マチャードの物語はまちがいなく最も切ない物語の一つだ。終わりが悲しいからだ。もう何度となく語られてきた話である。マチャードは、母と弟のホセとともにバレンシアを発ち、1938年4月、バルセロナに到着した。ホテル・マジェスティックに投宿した後、サン・ジャルバジ地区の古い豪邸カスタニェー邸に逗留した。マチャードはバルセロナでも、反乱勃発時からしてきたことをしつづけた。つまり、共和国政府の正当性を擁護する文章を書きつづけた。だが老いて衰弱し、病をわずらい、もはやフランコは倒せないだろうと思っていた。

「もう終わりだ。バルセロナはいつ陥落してもおかしくない。戦略的にも政治的にも歴史的にも、われわれが敗れたのは自明のことだ。しかし、人間として見たらどうなのだろう? ひょっとして、勝ったのはわれわれかもしれない」こう書いている。結びの文が的を射ているかどうかはともかく、前半はまちがいなく正しかった。 1939年1月22日の夜、フランコ軍によるバルセロナ制圧の4日前、マチャードは母と弟とともに貨物列車でフランス国境に向かった。道づれにはコルプス・バルガ、カルラス・リバといった作家がいた。サルビア・デ・テールとフィゲラスに近いファシャット農場で泊まり、27日夜、雨の中を600メートル歩き、マチャード一行はとうとう国境越えを果たした。荷物は途中で置いていくしかなく、金もなかった。マチャードはコルプス・バルガに助けられてコリウールにたどりつき、ブニョル・キンタナ・ホテルに投宿したが、ひと月もせず息をひきとった。母親もその3日後に後を追った。アントニオ・マチャードの外套のポケットにあったメモを、弟のホセが見つけた。辞世の句の書き出しだろうか、そこには次のような文句が書かれていた。「この青き日々、幼き日の太陽よ」〉

小説の中で「アントニオ・マチャードの死」は、内戦を語るときの最も象徴的な出来事であり、読者によく知られた、いってみれば「定番」として語られているのです。マチャードの死というエピソードは、それほどまでにスペイン国民の心に深く刻まれていることになります。

これまでも述べてきましたが、マチャードが詩人として活動したのは、1898年の米西戦争敗北から1939年の内戦終結までの40年余りにぴったりと重なります。こうしたスペインの危機と混沌の時代に、マチャードはスペインの魂をもとめて純粋に言葉を探りつづけました。その志は挫折に終わったものの、一方でそれはアントニオ・マチャードという国民詩人の「伝説」をスペインに深く刻み込むことにもなったのです。

2015年04月21日

スペイン内戦の詩人

『カスティーリャの野』を刊行するという大仕事を終えた直後の1912年8月、肺結核のレオノールが息をひきとります。するとマチャードは、愛妻と暮らした思い出の地であり、また自身の作品に対する反発も少なくないソリアに居たたまれないものを感じたのか、逃げるようにカスティーリャの地を離れ、マドリードで転出希望を願い出ました。

そして、11月1日付で、やはりフランス語教師として北部アンダルシア地方の田舎町バエサに赴任しました。1916年6月には、当時グラナダ大学の学生だったフェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico García Lorca、1898~1936)が、研修旅行でバエサを訪れ、マチャードと会っています。

マチャードは、『カスティーリャの野』の一節や、その年に死んだルベン・ダーリオの詩を朗読。代わりにロルカは、アンダルシア的な発想で作った自作曲を演奏するなどして、2人は深いきずなで結ばれました。

1927年、マチャードは文学者として最高の栄養に輝く学士院会員に迎えられましたが、その生活は、バエサからセゴビアへ、さらに第2共和国発足直後の1931年9月にはマドリードへと、一教師として各地を渡り歩く、決して裕福でも輝かしいものでもありませんでした。

Guiomar

再婚することはありませんでしたが、マチャードの後半生の作品にしばしば登場するグイオマール(Guiomar)=写真=という女性が、彼の人生に深く関わっていたことが知られています。

女流作家のコンチャ・エスピナ(1877~1955)は1950年、マチャードの書き残した手紙を丹念に調査した結果、グイオマールがマドリードに実在した女性のピラール・デ・ヴァルデラマ(Pilar de Valderrama)夫人であることを突き止めました 。

人目をはばからねばならない2人の恋愛関係は1928年から1931年か1932年ころまでの数年間と推定されていましたが、折しも勃発した内乱によって2人は別れ別れとなり、グイオマールはポルトガルで、マチャードはフランスの片田舎の漁村でそれぞれ孤独な死を迎えることになるのです。

1932年夏ごろになると、スペインでは各地で労働者や教員らのストライキが慢性化、爆弾騒ぎやテロの発生は日常茶飯事となり、もはや市民が日常生活を営むのもままならなくなりました。

同年8月10日には、歩兵第31連隊による共和国政府転覆を目論んだ軍事クーデターがセビリアで勃発。クーデターは結局失敗に終わって首謀者はウエルバ州で捕らえられ、10月21日の裁判で一応の決着をみました。

クーデター鎮圧後の反共和主義活動家への弾圧は大規模なものでした。後にファランヘ党の創設者の1人になったホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラも逮捕されます。

事件を報道した「ABC」などの有力新聞は軒並み押収され、マドリード市内へ近郊の軍隊が送り込まれて政府の主要機関の守備にあたりました。事実上の戒厳令下の状態です。

こうした混乱のなか、マチャードは、哲学的思索にのめり込んでいきます。1924年に出版した『新詩集(Nuevas canciones)』は主に、以前にみた人生哲学的な示唆に富んだコプラや「格言と歌」、覚え書き的な短詩から成っています。

内戦に入って作られた『戦争詩(La guerra 1936-1937)』には、政治的でメッセージ性の強い作品が目立ちます。また、1936年に出版されたマチャードの生前最後の著作『Juan de Mairena』には、次のような記述も見られます。

先生は言われた。虚構と同じように美しいものは、真実のほかにはない。
偉大な詩人は、落後した形而上学者である。
偉大な哲学者は、詩の真実を信じる詩人である。
詩人たちの懐疑論は、哲学を刺激するのに役立つ。一方、詩人たちは大いなるメタファーの技法を哲学者たちから習うことができる。それは、教育的に有効であるとともに、詩の値打ちを永遠のものにする。
Después de la verdad decía mi maestro nada hay tan bello como la ficción.
Los grandes poetas son metafísicos fracasados.
Los grandes filósofos son poetas que creen en la realidad de sus poemas.
El escepticimo de los poetas puede servir de estímulo a los filósofos. Los poetas, en cambio, pueden aprender de los filósofos el arte de las grandes metáforas, de esas imágenes útiles por su valor didáctico e inmortales por su valor poético.

このころのマチャードは、詩人と哲学者は深い関係にあり、偉大な哲学者は詩人であり「詩の値打ちを永遠のものにする」には哲学が必要だと考えていたようです。

もともとドイツの哲学者クラウゼ=写真=の思想を取り入れ、自由主義的知識人を育成することを目指した「自由教育学院」で教育を受けたマチャード。 若いころから哲学に興味をもち、パリで学んだベルクソンからも強い影響を受けたといわれます。

当然、「98年世代」の中心人物であるウナムーノには思想的に深く共感していました。当時、パリへの留学で教えを受けたベルクソンらの影響で、マチャードがどのような哲学にたどり着いていたのかを語る見識は私にはありません。

しかし、『カスティーリャの野』で詩人として一つの仕事を終えた彼にとって、政治的、社会的混乱のなかで純粋に新たなスペインを見いだそうとすれば、哲学的な方向に傾斜していったのは、むしろ自然な流れだったように思われます。

「98年世代は識者としてもっともらしい助言はしても、実際の政治的な運動となるとポーズだけでするりと身をかわし傍観者の側に回る」 といった見方をされることがよくあります。「98年世代」のなかでもマチャードは、もともと政治運動にはきわめて消極的でした。

「わたくしという人間はもともと政党にはいって活躍するには何かが欠けているんです。だから一度も政党に加入したことはありません。いや、絶対に入るまいと決心しています。私の政治理念はいつだって変わりません。一般市民の自由な意志を代表している政府でありさえすれば、それが正当な統治機関であるとして受け入れるだけのことです」 。

さらに「現時点における芸術家のあり方」というテーマの対談で、マチャードは記者の質問に対して次のように発言しています。「政治というものはあらゆる領域を侵します。どんな片隅にうずくまっていても、政治力はわれわれの身にぴりぴりと及んできます。これから先、スペインにおいて政治が文化と一体となってぴったりと合致するようなことは滅多にありますまい。だから芸術家や知識人に忠告せねばならぬことは、政治にはできるだけ関与するな、それよりも自分たちで開拓する芸術や学問にもっと力を入れなさいとね」 。

それまでのマチャードの政治活動といえば、1926年にウナムーノらとともに「共和主義者同盟」に参加、1928年にはセゴビアで「人権連盟」の発足時の1人として名前を連ねた、といった程度に過ぎませんでした。しかし「98年世代」的な問題意識を突き詰めていけば当然、政治との接点は避けて通れなくなります。それに、時代は「政治には関与せずに自分たちで開拓する芸術や学問」だけに打ち込むことを許すような状況では到底なくなっていました。

1935年2月には「世界平和連盟」のスペイン支部が発足。マチャードはその声明書に署名しています。1936年には、ウナムーノをはじめ、バレ・インクラン、マエツら親しい文学者たちが次々に帰らぬ人となりました。血なまぐさい戦乱が起こり、持病の心臓病は悪化します。それでも、マチャードは懸命に仕事に打ち込みました。最後の著作となる『Juan de Mairena』は、1934年11月4日付のマドリードの日刊紙「Diario de Madrid」に初めて掲載され、この新聞が廃刊になると「El sol」の時評欄に受け継がれて1936年7月28日まで続きました。

1936年11月、国民派軍の爆撃にさらされ始めたマドリードにとどまって居ることはもはやできなくなり、マチャードは83歳の母アナや弟家族とともにバレンシアへ避難します。そのころレオン・フェリーペとともにマチャード宅を訪ねた詩人ラファエル・アルベルティ(Rafael Alberti Merello、1902~1999)は次のように書き残しています。

「のっそりと家から出てきた大きな体のマチャードの後ろには枯木のように痩せてひからびた年寄りのお母さんが寄り添っておられました。あんな小さくてひ弱な母親から彼みたいな大きな息子がどうして生まれたのか、とまどうほどでした。あの頃のマドリードの家庭では金持ちも貧乏人も区別はありません。燃料がまったく手に入らないから、どこの家でも部屋の中は凍てつくような寒さです。マチャードはマドリードからの退去を勧めに来た私たちの言葉を黙って悲しそうな顔で聞いていましたが、まだこの首都を見捨てる時期が来ているとは思えないんだとわれわれに答えました。

われわれ2人は、説得するためにもう一度訪ねて行かなければなりませんでした。強く彼を言い含めた結果、やっとマドリードを去ることを承諾してくれましたが、今度は持ち前のあの自尊心の強さと勿体ぶりからおめおめとマドリードを後にするのが恥だという気がしたらしく、1人では行かない、母や弟のホアキンやホセと一緒でなくては嫌だと駄々をこねました。われわれは彼の言い分に従うより仕方がありませんでした。弟夫婦2組と母を入れて家族全部で8人なんだ、頼むよ、と彼が言ったのを記憶しています」

こうしてマチャード一家は、バレンシアの郊外のロカフォルトという村の農家の小屋を借りて住むことになりました。マチャードの健康は、心臓の障害などでかなり衰えを見せていたものの、気力はまだまだ旺盛だったようです。1937年7月、戦禍のはなはだしいマドリードを避けて急きょバレンシアに会場が変更になった第2回国際作家会議には、避難民でごった返す町のなかを友人の車で会場へと駆けつけ、「文化の防衛と普及」というテーマで講演しています。

ちょうど、この会議が開かれたころ、グラナダでロルカが射殺されたというニュースが人々の耳から耳へと伝えられ、世界各国から集まってきていた文学者たちを驚かせ、激怒させました。

バレンシアの郊外、ロカフォルト村の農家の小屋を借りて住んでいたマチャード一家。そのころのマチャードの健康は、心臓の障害などでかなり衰えを見せていたものの、気力はまだまだ旺盛だったようです。

2015年04月20日

マチャード「ドゥエロ川のほとりで」

7月のなかば、よく晴れた日だった。
ぼくはひとり、岩山の裂け目をぬって、
くねる軽が落とす影を拾いながら ゆっくりと登っていった。
時おり 足を止め 額の汗を拭い、
喘ぐ胸に 息を送りこんだ。
あるいは 身体を前にかがめて 足を速めた、
右手の 羊飼いの杖を想わず棒切れに
身体をあずけ 身を寄せかけて。
ぼくは 猛禽類、高地の鳥が巣作りする
丘陵をよじ登っていった。
強い香りを放つ 野生の植物――ローズマリー、タイム、サルビア、ラベンダーを踏みしだきながら。
険しい原野に 灼熱の太陽が照りつづけていた。
Mediaba el mes de julio. Era un hermoso día.
Yo, solo, por las quiebras del pedregal subía,
buscando los recodos de sombra, lentamente.
A trechos me paraba para enjugar mi frente
y dar algún respiro al pecho jadeante;
o bien, ahincando el paso, el cuerpo hacia adelante
y hacia la mano diestra vencido y apoyado
en un bastón, a guisa de pastoril cayado,
trepaba por los cerros que habitan las rapaces
aves de altura, hollando las hierbas montaraces
de fuerte olor —romero, tomillo, salvia, espliego—.
Sobre los agrios campos caía un sol de fuego.

soria

「ドゥエロ川のほとりで」は、このように始まります。詩人は、ドゥエロの源流へと険しい岩山を登って行きます。それは同時に、時をさかのぼることでもあるのでしょう。

丘陵をよじ登り、山へとわけ入っていくと、深い青空のなかをハゲワシが一羽、悠然と旋回するのを目にします。

そのあたりから、過去のスペインの歴史のなかへと足を踏み入れることになります。さらに続いて――

広く翼を拡げた ハゲワシが一羽、
空の深い青さのなかを 悠然と旋回していた。
ぼくは見た――はるかに 高く切り立った嶺、
打ち出し模様の盾のような 丸い丘、
朽葉色の大地のうえの 紫の丘、
――さながら 兵どもの古びた甲冑の残骸――、
小さな鋸を想わせる 不毛の丘。そこをぬってドゥエロは流れ、
射手の石の弓さながら 弧を描いて
ソリアを巡る。――ソリアは カスティーリャの塔、
アラゴンまで見渡せる 前哨の町――。
Un buitre de anchas alas con majestuoso vuelo
cruzaba solitario el puro azul del cielo.
Yo divisaba, lejos, un monte alto y agudo,
y una redonda loma cual recamado escudo,
y cárdenos alcores sobre la parda tierra
—harapos esparcidos de un viejo arnés de guerra—,
las serrezuelas calvas por donde tuerce el Duero
para formar la corva ballesta de un arquero
en torno a Soria. —Soria es una barbacana,
hacia Aragón, que tiene la torre castellana—.

   ◇

盾(escudo)、甲冑(arnés)、石の弓(ballesta)、前哨(barbacana)といったメタファーからすると、詩人が見つめているのは、中世のヨーロッパ、イベリア半島中央部にあって、キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)を主導し、スペイン王国の中核ともなったカスティーリャ王国の「残骸」であることがうかがわれます。

ぼくは見た――鈍色の丘で、
槲と 樫の冠で 閉ざされる地平線、
裸の岩地、羊が草を食み、牡牛が草にひざまずき反芻する
つましい牧草地、
夏の明るい陽光にきらめく 川縁のポプラ、
もの音ひとつ立てない はるかな旅人たち、
なんと小さな影!
長い橋を渡っていく
――荷車、騎手、馬方――、そして 石の橋梁の下で、
銀色のドゥエロの川面に
落ちる 黒い影。
   ドゥエロは イベリアとカスティーリャの
樫の芯を貫き 流れる。
        ああ、悲しく 気高い大地よ!
高原と 荒野と 岩だらけの大地、
鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野、
衰微していく町々、旅籠のない街道、
驚きは顔にしても、踊ることも、歌うことも忘れた 田舎の住人たち、
彼らは 火種の絶えた竈を見限り、
カスティーリャよ、そこを流れる長い川のように、
ただ 海へ向かい 流れていくのだ。
Veía el horizonte cerrado por colinas
oscuras, coronadas de robles y de encinas;
desnudos peñascales, algún humilde prado
donde el merino pace y el toro, arrodillado
sobre la hierba, rumia; las márgenes de río
lucir sus verdes álamos al claro sol de estío,
y, silenciosamente, lejanos pasajeros,
¡tan diminutos! —carros, jinetes y arrieros—,
cruzar el largo puente, y bajo las arcadas
de piedra ensombrecerse las aguas plateadas
del Duero.
El Duero cruza el corazón de roble
de Iberia y de Castilla.
¡Oh, tierra triste y noble,
la de los altos llanos y yermos y roquedas,
de campos sin arados, regatos ni arboledas;
decrépitas ciudades, caminos sin mesones,
y atónitos palurdos sin danzas ni canciones
que aún van, abandonando el mortecino hogar,
como tus largos ríos, Castilla, hacia la mar!

詩は再び、カスティーリャの自然風景へと戻ります。裸の岩地、牡牛が草にひざまずき反芻するつましい牧草地、夏の陽光にきらめく川縁のポプラ、荒野と岩だらけの大地、鋤を容れず雑木も生えない原野、衰微していく町々。そして視線は、火種の絶えた竈を見限る人々へと移っていくのです。

それにしても、マチャードの詩に現れる風景のもつ比類のない「存在感」には驚かされます。

そして再び、スペインの過去と現在の時空を往来し、栄光の過去と失われてしまった現在が対比されていくことになるのです。

   ◇

惨めなカスティーリャよ、かつては覇者の夢に充ちていたが、
今は ぼろを身にまとい、「未知」を疎んじ、頑なに心を閉ざしている。
期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか。剣への渇望に
駆られた時に流された血を、いまだに忘れられずにいるのか。
すべてが移ろい 流れ 過ぎ 走り 巡る。
海と山が変容し それを観る眼が変容する。
すべては 終ってしまったのか。神の名を唱えながら 戦に臨んだ
民衆の亡霊が、今なお 荒野をさ迷っている。
Castilla miserable, ayer dominadora,
envuelta en sus andrajos desprecia cuanto ignora.
¿Espera, duerme o sueña? ¿La sangre derramada
recuerda, cuando tuvo la fiebre de la espada?
Todo se mueve, fluye, discurre, corre o gira;
cambian la mar y el monte y el ojo que los mira.
¿Pasó? Sobre sus campos aún el fantasma yerta
de un pueblo que ponía a Dios sobre la guerra.

往時 母は多くの戦士を生み出しはしたが、
今は 賤しい雑役人夫の継母、
カスティーリャに 昔日の寛容な母の面影は もはやない、
ビバールの わがシッド、ロドリーゴが
新たな武勲と財宝を携え 誇らし気に凱旋し、
王アルフォンソへ バレンシアの沃土を献上した時のような。
あるいは その勇猛さを証す冒険のあとで、
新世界の大河征服を
宮廷に上申し、
カラスのごとく略奪し 獅子のごとく戦を交え、スペインへ
帝王のガレオン船に 金銀財宝を満載し 帰還する命を賜った兵士、
戦士、首領たちの母。その母の面影は もはや無い。
La madre en otro tiempo fecunda en capitanes,
madrastra es hoy apenas de humildes ganapanes.
Castilla no es aquella tan generosa un día,
cuando Myo Cid Rodrigo el de Vivar volvía,
ufano de su nueva fortuna, y su opulencia,
a regalar a Alfonso los huertos de Valencia;
o que, tras la aventura que acreditó sus bríos,
pedía la conquista de los inmensos ríos
indianos a la corte, la madre de soldados,
guerreros y adalides que han de tornar, cargados
de plata y oro, a España, en regios galeones,
para la presa cuervos, para la lid leones.

   ◇

時は流れ、世界が変化したいまもなお、カスティーリャは聖戦に挑んでいった熱い戦いの日々のことが忘れられず、ただ時代から取り残されていきます。

シッドが活躍した国土回復時代や、冒険を求めて海のかなたに飛び出した大征服時代の栄光はもう戻ってこないのに、です。

「期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか」と詩人はカステーィリャの運命を問いかけます。しかし、それをになうのは、無為のうちに天の恵みを待つ僧院の哲学者のような人々でしかありません。

   ◇

修道院のスープで身を養なう 哲学者どもは、
ただ平然と 広大な虚空を見つめるばかり。
レバンテの波止場で 商人たちの叫ぶ声が
遠いどよめきのように 彼等の夢に届いても、
馳せ参じ、「何ごとなのか?」と、訊きもしないだろう。
すでに、戦が彼等の家の扉を叩き 押しかけているというのに。
    惨めなカスティーリャ、かつての覇者は、
今はぼろを身にまとい、「未知」を疎んじ、頑なに心を閉ざしている。
夕陽が傾いていく。遠い町から
快い鐘の音が聞こえてくる。
――もう 喪服の老女たちの 晩禱の時刻――
岩影から二匹の小さなイタチが 現われる。
イタチは ぼくに眼をやり、逃げようとしたが、ふたたび、
すがたを現わす。好奇心いっぱいのイタチ!……。原野は 暮れていく。
白い径のかなた、暮れなずむ原野に、
人気の絶えた岩地に 一軒の旅籠の灯が点る。
Filósofos nutridos de sopa de convento
contemplan impasibles el amplio firmamento;
y si les llega en sueños, como un rumor distante,
clamor de mercaderes de muelles de Levante,
no acudirán siquiera a preguntar ¿qué pasa?
Y ya la guerra ha abierto las puertas de su casa.
Castilla miserable, ayer dominadora,
envuelta en sus harapos desprecia cuanto ignora.
El sol va declinando. De la ciudad lejana
me llega un armonioso tañido de campana
—ya irán a su rosario las enlutadas viejas—.
De entre las peñas salen dos lindas comadrejas;
me miran y se alejan, huyendo, y aparecen
de nuevo, ¡tan curiosas!... Los campos se obscurecen.
Hacia el camino blanco está el mesón abierto
al campo ensombrecido y al pedregal desierto.

詩人がここで嫌悪し、怖れているのは「虚空を見つめるばかり」で何もしようとしない「修道院のスープで身を養なう 哲学者ども」です。彼らは、何世紀もの間、宗教のカラの中に閉じこもり、新しい社会思想や近代科学に対して興味を持とうともしません。

そしてまた「ぼろを身にまとい」、「頑なに心を閉ざ」す「惨めなカスティーリャ」に、夕陽は傾いていきます。岩影からは「好奇心いっぱい」のイタチが現われる。小さな隙間でもすり抜けてすばしこく動き回るイタチは、隙あればと触手を伸ばす近代国家たる欧米諸国を暗示しているのでしょうか。

確かに「祖国の偉大と卑小を、彼ほど深く、具体的に、言葉に刻みつけられた詩人は、後にも先にもいない」 のかもしません。『カスティーリャの野』が住民たちが反発するということは、マチャードの詩がそれだけ人々に読まれ、住民たちの琴線に触れるなにかを秘めていた証し、という見方もできるでしょう。

スペインの地を徹底的に描いたのは、マチャードの内面主義が生んだ産物ともいえそうです。荒涼とした大地と、そこにすむ人たちの姿は、スペイン解釈を彼に夢想させました。そして、カスティーリャの野についての詩的描写のなかに、いまや「期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか」わからなくなっているスペインの過去、現在、未来に対する自身の思いを投影したのです。

マチャードにとって、引き裂かれた「二つのスペイン」の深い溝を修復して新しいスペインを見いだすには、このように「カスティーリャ」をとことん描くほかに、すべはなかったのかもしれません。

2015年04月19日

マチャード「スペインの地へ」

以前も触れましたが、『カスティーリャの野』の売上げは好調でした。ウナムーノは詩集を絶賛し、ブエノスアイレスの雑誌『ラ・ナシオン(国民)』の1912年6月25日号に批評を寄せました。

アソリンは、マドリードの日刊紙「ABC」の彼のコラムで、この詩集を讃えました。また、オルテガ・イ・ガセットは「ロス・ルーネス・デ・エル・インパルシアル」誌に「深淵なる世代」としてコメントを寄せています。

しかし、文壇からは絶賛の声が上がった反面で、その舞台となったカスティーリャの住民たちから激しい反発を招いた詩も少なくありませんでした。

これら野に住む人間は松林に火を放ち
その焼け残りを戦利品のようにうかがう
昔からの黒い柏の森を根絶やしにし
山のたくましい樫を切り倒したばかりだ
El hombre de estos campos que incendia los pinares
y su despojo aguarda como botín de guerra,
antaño hubo raído los negros encinares,
talado los robustos robedos de la sierra.

いま哀れな子供たちが家を見捨て
聖なる流れのまにまに嵐が大海原へと
畑の土を洗い流していくのを彼は見送り
呪いの荒れ地に耕作 苦悩 放浪するだけ
Hoy ve a sus pobres hijos huyendo de susu lares;
la tempestad llevarse los limons de la tierra
por los sagrados ríos hacia los anchos mares;
y en páramos malditos trabaja, sufre y yerra.

埃にまみれ 街道の陽を浴びて金色をした
放牧の家畜たちを メリノの羊の群れを
豊沃なエストレマドゥーラへと招く羊飼い
粗野な旅人たちの血筋をひいている
Es hijo de una estirpe de rudos caminantes,
Pastores que conducen sus hordas de merinos
a Extremadura fértil,rebaños trashumantees
que mancha el polvo y dora el sol de los caminos.

小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く
Pequeño, ágil,sufrido, los ojos de hombre astuto,
Hundidos, recelosos, movibles; y trazadas
cual arco de ballesta, en el semblante enjuto
de pómulos salientes, las cejas muy pobladas.

野や村に悪しき人が溢れる
不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ
黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者
七つの大罪の奴隷
Abunda el hombre malo del campo y de la aldea,
Capaz de insanos vicios y crímenes bestiales,
Que bajo el pardo sayo esconde un alma fea
esclava de los siete pecados capitales.

つねに羨望と悲しみで濁った目は
自分のものを固守し隣人が手に入れたものに涙する
おのれの不運を受けとめず、またおのれの富を享受することもしない
幸運と悲運は彼を傷つけ、彼を悲嘆にくれさせる
Los ojos siempre tubios de envidia o de tristeza,
guarda su presa y llora la que el vecino alcanza;
ni para su infortunio ni goza su riqueza;
le hieren y acongojan fortuna y malandanza.

狂った悪癖と獣のような罪を犯しかねない
七つの大罪のしもべであるような
褐色の仕事着に醜悪な魂を隠した
田舎の 村の悪人は数知れぬ
Abunda el hombre malo del campo y de la aldea,
capaz de insanos vicios y crímenes bestiales,
que bajo el pardo sayo esconde un alma fea,
esclava de los siete pecados capitales.

ねたみや悲しみに曇った眼でいつも
獲物は取り込むが隣の利得には涙を流す
不幸に耐えるでも豊かさを楽しむでもない
幸運も災禍も彼を傷つけ苦しめる
Los ojos siempre turbios de envidida o de tristeza,
Guarda su presa y llora la que el vecino alcanza;
ni para su infortunio ni goza su riqueza;
le hieren y acongojan fortuna y malandanza.

カスティーリャ (1)

ここにあげたのは同詩集の「スペインの地へ(Por Tierra de España)」 という詩です。

14音節(Alejandrino)、ababの脚韻を基調とする4行、8連のこの定型詩は、当初は「ソリアの地(Tierra Soriana)」という題が付けられていました。

ところが、地元ソリアの反発を配慮して「ドゥエロの地へ(Por Tierras Del Duero)」に変更になり、さらに「スペインの地へ」へと変更が繰り返されています。

イアン・ギブソンは「ソリアの地」が「ドゥエロの地へ」として再出版されたころの詩集に対する地元の受け止め方を次のように見ています。

〈マチャードがソリアに滞在したのは1907年春ごろからだが、そのころこの地域の村では森林火災がひっきりなしに起こされ、殺人や他の暴力犯罪も多発し治まるきざしはなかった。

そうした中での憂鬱な意気をそがれる雰囲気が「ドゥエロの地へ」の下書きの多くの修正や抹消、見直しにみられ、最終的に詩が組み立てられるまでに長く困難な詩作の行程があったことは明らかである。

それはともかく「ドゥエロの地へ」は、幾人かの市民たちの激しい反発を招いた。ソリア全体の秩序を乱す攻撃だと解釈されたからだ(確かにそこには、オンカラ峠の5メートルの積雪の中で起きた冷酷で残忍な瞬間が描かれていた)。

よそ者による攻撃は受け入れられなかった。しかも、学校のフランス語の教師が発言したということであればなおさらのことだ。イデアル・ヌマンシア(Ideal Numantino)」という新聞の1月13日の紙面には次のように記されている。

私たちが読んだマチャード氏の「ソリアの地」は美しい詩である。しかし、その内容は薦められるものではない。「ソリアの地」の住民たちをマチャード氏は公正に見ていると考えることはできない。

中には確かにマチャード氏が指摘するような悪い行為もある。しかし、詩人が作品の中では認めていない多くの美徳のなかのごくまれな例外的なものでしかないことは明白だ。

最も強力な攻撃をしたのは、1月14日付の「ソリア・ニュース」だった。

「この詩は悪意と遊びに満ちたパロディであり、間違いであり、盗作に近いものである。言及されているような破滅的な光景など見られず、ソリアの農民たちは高潔で森に火をつけることなどできないし、まして殺人を犯すことなどできはしない。」〉

「ソリアの地」から「スペインの地へ」というように題名を一般化することによって、地域に対する攻撃的な色彩を薄めたとはいえ、この詩は、歯に衣を着せぬ、なんとも強烈な物言いをしています。

たとえば「野や村に悪しき人が溢れる/不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ/黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者」「つねに羨望と悲しみで濁った目は/自分の物を固守し隣人が手に入れたものに涙する」などといった表現を見れば、「我らがまち」に対する容赦なき悪口雑言を並べたてている、と受け止められても不思議ではありません。

その地に生まれ地道に暮らす人たちからすれば、血筋や姿かたちまで貶されてはたまったものではないはずです。書き出しの「これら野に住む人間は…」からして、なんとも意味深長です。

この土地に人間が存在しているということそれ自体に対して、詩人は「呪いの荒れ地」と決めつけているようです。そして、そこに住む人びとは、キリスト教でもろもろの罪の原因となると考えられている、①虚栄あるいは尊大②貪欲③法外かつ不義なる色欲④暴食および酩酊⑤憤り⑥妬み⑦怠惰の「七つの大罪」の奴隷だというわけです。

『カスティーリャの野』では、一方で人生の真実に迫るような鋭いコプラが並んでいるかと思えば、かたや、愛する妻と暮らた場でもあったはずのカスティーリャの地の姿を、執拗なまでにあばき出します。

マチャードの本意はもちろん、住民たち個々の姿形やその行為を糾弾することではなかったでしょう。彼らの根っこにあるものに、詩人は眼を向けているのです。

とんでもない窮地に追い込まれた祖国を再生するには、言葉の力で、その「病弊」の根底にあるものを詳らかにすることが詩人の使命であると信じているかのようでもあります。

小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く

この詩の中で、ソリアの農民の肖像画を肉体と精神の両面からこんなふうに描写しているところにライン・エントラルゴは注目し、同詩集の「イベリアの神(El dios Ibero)」 を引用して、次のように指摘しています。

〈こうした肉体的外見に、実に嫌悪感をもよおす倫理的条件の総体が呼応している。醜い魂―七つの大罪の奴隷、妬みと悲しみ、血を好む残忍さ。いや、そうではない。この肖像画には、わが国の高地地方の農民はよく描かれていない。彼はイベリア人なのだ。すなわち、

もしも歌曲の博徒
大弓師のように
穂に石を降らせ、
秋の収穫を取りそこねた神に投げつける
歌矢(サエタ)があったなら……

と願う男なのだ。しかし、イベリア人に対するアントニオ・マチャードの考えは、これに尽きるのだろうか。否、そのはずはない。彼の魂には希望が失われていない。彼も、世代のすべての仲間同様、可能性としてのスペイン人の到来を待望し、またその必要性を感じている。

  わが心は、黄褐色の大地のいかつい神が
  カスティーリャの樫に
  彫り刻むであろう
  たくましき腕のイベリアの男を待っている〉

マチャードがスペインの「醜い魂」を厳しい目で見つめ続けたのは当然、祖国への深い愛に支えられたもので、「たくましき腕のイベリアの男」に希望を託して、のことなのでしょう。

エントラルゴはさらに、「マチャードによれば、真の詩人は、時間の――己の時間の――はかなさを鋭く生き、同時に、それ独自の表現によって、それを永遠化しようとする。詩人がその野心的な目的を達成するには、そうした表現はどのようなものでなければならないのであろうか。

その答えは、詩的感動とは無縁な人の耳には逆説的に響くであろう。つまりその表現は、表現された瞬間の一回性とはかなさを、もっとも生きいきと暗示的に示さなければならないのだ。……

もし詩人が瞬間のはかない一回性を生きいきと暗示することができるなら、その一瞬は生き残り、生き続けるであろう。なぜなら詩人のおかげで、それは一種の不朽の美的永遠性を獲得したからである」と指摘しています。

マチャードの詩の対象は、エントラルゴが示唆するように、常に時間の中でとらえられています。

そして、詩人がいま見つめている「スペイン」という対象についても、過去から現在、そして未来へと流れていく時間、すなわち歴史の中でとらえていこうとします。

そうしなければ「時間のはかなさを鋭く生き」、その一瞬を生き残らせ、生き続けさせることはできないからです。そうした詩人の真意は、必ずしも読者に容易に伝わるものではないのですが。

「カスティーリャの景色の心理的解釈に、マチャードの場合、カスティーリャの歴史的解釈が加えられる。アントニオ・マチャードにとって――“98年代”の人々にとっても同様――カスティーリャの大地は、スペインの運命の瞑想に招く開かれた木のようなものである」 とヘスス・アリエタはいいます。

カスティーリャの悲しく、気高い大地の現実における低迷は、その岩山や荒野、荒んだ町とともに栄光の過去を詩人の胸に蘇らせます。

そして、過去の栄光と現在の衰退という光と影のコントラストによって浮きぼりにされた「時間のはかなさ」を、詩人は「鋭く生き、同時に、それ独自の表現によって」永遠化しようとするのです。

こうした「真の詩人」たる表現が典型的に見られるのが、以前に少し触れた「ドゥエロ川のほとりで(A oriillas del Duero)」でしょう。次回からは、この詩について、掘り下げて考えてみることにします。

2015年04月18日

マチャードのコプラ

アントニオ・マチャードの詩集『カスティーリャの野』には、これまで見てきた、700行を超えるロマンセ「アルベルゴンサレスの地」のような長編詩があるかと思えば、一方で「ことわざと歌(Proverbios y Cantares)」としてまとめられた53篇など、多くの短詩が収録されています。

その多くは「copla(コプラ)」、「歌謡曲(cantar popular)」などといわれる、人々の生活に根ざした民謡や大衆歌謡によく使われる詩の形式です。

コプラについてマチャードは、晩年の散文集『フアン・デ・マイレーナ(Juan de Mairena)』(1936年)の中で、次のように述べています。

「スペインの魂の誠実な記録であるコプラの魅力は、その純真性にある。そのなかには人生経験を経てえられた人間のありようが明示されている。ときに、それを失ったときにおちいる窮地の正体を明らかにする。それはしばしば厚かましいほど、ありふれている。そこにコプラの真髄があると思われる。」
(La copla ――un documento sincero del alma española―― me encanta por su ingenuidad. En ella se define la hombría por la experiencia de la vida, la cual, a su vez, se revela por una indigencia que implica el riesgo de perderla. Y este a veces, tan desvergonzadamente prosaico, me parece la perla de la copla. )=Antonio Machado: Juan de MairenaⅠ, Edición de Antonio Fernández Ferrer, p.266

民俗学者だった父親の影響もあって、子どものころからそうした歌に接していたアントニオ・マチャードにとって、「スペインの魂の誠実な記録」であるコプラは、ロマンセとともに「98年世代」としてのメッセージを人々に届ける格好の表現手段と考えていたのでしょう。

コプラなどの短詩は、カスティーリャ体験を経た中期から後期にかけて、より頻繁に作られるようになります。特に1924年に出版された『新詩集(Nuevas Canciones)』以降は、マチャードの詩の主流となったといってもよさそうです。

コプラ(Copla)は、もともとラテン語で「束縛」あるいは「結合」といった意味をもつ「copula」に由来します。3行あるいは4行で構成されるスペイン詩の中で最も小さな詩形式です。

18世紀にスペインで確立し、ラテンアメリカにも広まった。スペイン人に最もなじみ深い1行8音節、オチョシラボス(octosilabos)で作られるのがふつうです。

構成は、クアルテタ・デ・ロマンセ(cuarteta de romance)ともいわれる、8音節で偶数行が韻を踏む4行詩が多くなっています。つまり韻律や構成からすると、コプラはロマンセの一種、あるいは「ロマンセの継承者」と考えてもいい詩形なのです。

たとえて言えば、日本の近世に発展した文芸である俳諧連歌のうちから発句が自立し、やがて俳句として盛んに作られるようになったのと、どこか似たところがあるのかもしれません。

ロマンセと同じようにコプラは、民衆の歌と密接な関係を持っています。犯罪を訴え、歴史を語り、日常のできごとを描写します。愛を、嫉妬を、失望を語るのです。

昔から歌われてきた歌謡の一部をはしょったり、居酒屋で聞いたロマンセの中の一部から題材が取られたりもします。話し言葉であけっぴろげ、滑稽さ、とりわけ好色な効果を出すため、しばしば詩句に二重の意味を折り込むこともあります。

マチャードがこの詩形を好んだことについて、ヘスス・アリエタは「この庶民的な表現方法を用いているのは、la coplaとかel cantar popularにこそ詩的感情、詩的理念の本質的統合が、飾り気のない素朴な、最小限の手段で達成されると確信していたことによる」* としています。

  僕はたそがれの道を
  夢心地にゆく、金色の
  丘よ、みどりの松
  ほこり白き柏!……
  この道はいずこへ行くのか?
  野道をつたい旅の身を
  僕はうたいつつゆく……
  ――夕日が沈む――
  「かつてこの心を
  とがめし情熱の棘
  抜け去りし時より
  はや心をも感じえず」
  Yo voy soñando caminos
  de la tarde. ¡Las colinas
  doradas, los verdes pinos,
  las polvorientas encinas!…
  ¿Adónde el camino irá?
  Yo voy cantando, viajero
  a lo largo del sendero…
  -la tarde cayendo está-.
  “En el corazón tenía
   la espina de una pasión;
   logré arrancármela un día:
  ya no siento el corazón.”

これは、広く知られているマチャードの「僕は夢心地に行く(Yo voy soñando caminos)」という詩です。夕暮れの散歩。黄昏時に響いてくるコプラに、夢見心地の詩人の心が吸い寄せられていきます。

最後の4行「かつてこの心を/とがめし情熱の棘/抜け去りし時より/はや心をも感じえず」は、たびたびスペインの人々の口にのぼるポピュラーなコプラです。

そこには、誰もが感じることのある、なかなかに深い人生哲学が込められているように思われます。

ときに詩人は自分の思想を、大衆的な方法でろ過しようとします。マチャードの志向したような実存的なテーマは、しばしば、短い言葉のなかに抒情的に凝縮されることがあります。

そうした、民衆が口にのぼりやすいコプラを作品の中に忍ばせておく。それによって人々の心をひきつけ、やがて民衆の詩として広がっていく。私はそんなあたりにも、マチャードの国民詩人としての深い資質と、言葉の天才ならではの「戦略」を感じるのです。

 「かつてこの心を
  とがめし情熱の棘
  抜け去りし時より
  はや心をも感じえず」
 “En el corazón tenía
  la espina de una pasión;
  logré arrancármela un día:
  ya no siento el corazón.”

マチャードの詩「僕は夢心地に行く(Yo voy soñando caminos)」のなかに出てくる、人生のたとえとしての「道」は、マチャードの詩に再三登場するテーマです。

詩人は、時の流れにそって人間をとらえようとするとき、その最も適したイメージの一つを「道」に見いだします。

人生は旅。旅人の1人である詩人は「夢心地で」、「うたいつつ」道を行くのです。

詩集『カスティーリャの野』には、スペイン人ならだれもが口ずさめる、ともいわれるマチャードの代名詞的なコプラも組み込まれています。

  道ゆくひとよ きみの足跡こそが
  道なのだ ほかにありはしない
  道ゆくひとよ 道などないのだ
  歩くことで 道はつくられる
  Caminante, son tus huellas
  el camino y nada más;
  caminante, no hay camino,
  se hace camino al andar.

帰らざるとき、ともいえる永遠のテーマが「道」というイメージのなかで語られています。

ひとたび道を歩いたならば、もはや歩かなかったことにはできません。ふたたび歩き直すこともできないのです。

道は足跡でしかないのです。歩くことでしか、道をつくることはできません。

「道」は1人の人間の人生を指すだけにとどまらず、いまやすべてを失ってしまったスペインという祖国の歴史にもつながるのでしょう。

もはや「黄金の世紀」にもどることも、歴史をさかのぼって異なる道を歩き直すこともできはしません。ただ、これからを歩くことによってしか、道を、歴史をつくることはできないのです。

  道ゆくひとよ きみの足跡こそが
  道なのだ ほかにありはしない
  道ゆくひとよ 道などないのだ
  歩くことで 道はつくられる
  Caminante, son tus huellas
  el camino y nada más;
  caminante, no hay camino,
  se hace camino al andar.

「道」のコプラは、さらに続いていきます。

  歩くときに 道はできる
  そして振り返ればそこに
  もう二度と踏むことのない
  道が見える
  道ゆくひとよ 道などありはしない
  ただ海のうえの航路にすぎないのだ
  Al andar se hace camino
  y al volver la vista atrás
  se ve la senda que nunca
  se ha de volver a pisar
  Caminante, no hay camino
  sino estelas en la mar

そもそも、わたしたちが頼りとするような道などありはしません。海に描かれる航跡のように、歩めばすぐに過去の中に消されてしまうのです。

Columbus

ここで私は、まだ見ぬ世界へと漕ぎ出していったコロンブス=写真、wiki=の海を、無敵艦隊が進軍し敗れ去った海を、そして「日の沈まない国」が築かれ、すべてが失われていった海のことを思い描きます。

詩集『カスティーリャの野』にはさらに、こんなコプラもあります。

すべて過ぎ去り すべては残る
けれどわれわれが成すのは 過ぎること
道を開いて過ぎるのだ
海上の道を
Todo pasa y todo queda,
pero lo nuestro es pasar,
pasar hasiendo caminos,
caminos sobre la mar.

「すべて過ぎ去り すべては残る」、そのあとにも果てしない海がひろがり、われわれを待ち構えている。人がたどる道は海を歩むこと。われわれのできることは、航跡のようにやがては消えていくのであろう海の道をきり開き、過ぎゆくこと。

それは、どん底に追い込まれながら、それを自覚するに至っていないスペイン国民への呼びかけであり、励ましのようにも思えます。

後述するように、内戦へと向かう厳しい時代にあって、マチャードの夢はかなうことなく、やがて悲惨な終焉を迎えることになります。

しかし、彼の思いを込めて作られたコプラの多くは、深く民衆の心をとらえ、現在にいたるまで広く歌い継がれています。

たとえば、私の手元にある『喜びは我らに(El gusto es nuestro)』というCDを聴いていると「Caminante, son tus huellas」ではじまるマチャードのあのコプラに出あいました。

『喜びは我らに』は、フランコ独裁に逆らって歌いつづけた、ちょうどビートルズと同世代の3人のシンガーソングライター、ジョアン・マヌエル・セラー、ミゲル・リオス、ビクトール・マヌエルが、1996年の8月から9月にかけてスペイン27都市を巡ったコンサートのライブ・アルバム。

マチャードのコプラは、アルバムの14曲目、セラーが作った「Cantares」という歌に挿入されています。ライブでは、セラーとリオスがかけあいでこの歌を熱唱。

その中でこのコプラが叫ぶように朗読されると、観客たちの歓声はひときわ高まりをみせました。マチャードの詩はいまも言葉の力を失っていないのです。

2015年04月17日

「第四梯形」④ 琥珀

 「第四梯形」のつづきを、また少し読みます。

夜風太郎の配下と子孫とは
大きな帽子を風にうねらせ
落葉松のせはしい足なみを
しきりに馬を急がせるうちに
早くも第六梯形の暗いリパライトは
ハツクニーのやうに刈られてしまひ

  ◇

「風の又三郎」は、東北や新潟で広まっている風の神(妖精)「風の三郎」伝説に基づいています。新潟では、農家が台風などの災害に備える「二百十日」そのものを「風の三郎」と呼んで風神祭をしたそうです。

風は自然現象の代表的なもので、伝承や信仰で神格化されることがしばしばあります。この詩では、三郎ではなくて「太郎」。「夜風太郎」とは、夜を司る風の神か妖精、ないしは首領、大元締めといったあたりを想定しているのでしょうか。

うねらせは「畝(うね)」を動詞化したもの。曲がりくねらせる、波打たせるといった意味でしょう。

「落葉松(カラマツ)」は、樹高20-40mになる落葉針葉樹です。東北地方南部から関東地方、中部地方の亜高山帯から高山帯にかけて分布。育苗が簡単で成長が速いので、造林に適し、北海道や長野県とともに、岩手県でもでも盛んに造林されました。

カラマツは、日本の針葉樹の中で唯一の落葉性高木です。秋には葉は黄色く色づき、褐色の冬芽を残して文字通り落葉します。「せはしい足なみ」という詩句からは、葉が色づき、落葉を始める、この季節のあわただしさが感じられます。

「リパライト」は、火山岩の一種。マグマの流動時に形成される斑晶の配列などによる流れ模様が見られる流紋岩に対し、流理構造の見られないものをリパライト(石英粗面岩)と呼んでいましたが、現在では流紋岩として統一されています。

色は白っぽいことが多く、噴出条件や結晶度などによってさまざまに変わります。「第六梯形の暗いリパライト」と、「七つ森」の一つの山を表現するのに、その地質学的、岩石学的特質からズバリと言ってのける。そんなあたりにも、他の詩人が真似のできない賢治の独創性があります。

「ハツクニー」は、イギリス原産の輓馬。おとなしくて耐久力が強く、多くは軍馬として活躍しました。1898年ごろ岩手県にも輸入されました。馬どころの岩手には、1900年ごろ10万頭の馬がいたそうです。

「第六梯形の暗いリパライトは/ハツクニーのやうに刈られてしまひ」というのは、「第六梯形」が「ハツクニー」の馬体のような滑らかな曲線を描いているというイメージでしょうか。なんともスケールが大きな表現で、私には消化しきれないところが残ります。

 次は「第四梯形」の最後のところです。

ななめに琥珀の陽〈ひ〉も射して
  《たうとうぼくは一つ勘定をまちがへた
   第四か第五かをうまくそらからごまかされた》
どうして決して そんなことはない
いまきらめきだすその真鍮の畑の一片から
明暗交錯のむかふにひそむものは
まさしく第七梯形の
雲に浮んだその最後のものだ
緑青を吐く松のむさくるしさと
ちぢれて悼む 雲の羊毛
    (三角〈さんかく〉やまはひかりにかすれ)

琥珀

賢治が活躍したのは、量子力学や相対性理論など現代物理学が形成されつつあった時代と重なります。そうした新しい科学が生まれる息吹を賢治は感じ取り、大きな関心を抱いていました。

今日では、光は粒子性と波動性の両方の性質もあわせもつものとして、量子論的にとらえられています。しかし賢治の時代はまだ「光は粒子か、波か」をめぐって大きな議論を呼んでいました。賢治も光の波動説への興味を強く抱いていたようです。

詩「春と修羅」には「琥珀のかけらがそそぐとき」、童話「まなづるとダァリヤ」には「日光は今朝はかヾやく琥珀の波です」とあります。賢治は、その色などから、太陽の光そのものを「琥珀のかけら」や「琥珀の波」と表現しています。

「琥珀(コハク)」=写真=は、松柏科類の植物樹脂が化石化したもので、多くは黄色を帯びたあめ色をして美しい光沢をもっています。バルト海沿岸で多く産出するため、ヨーロッパでは古くから宝飾品として珍重されてきました。

日本では岩手県久慈市周辺や千葉県銚子市などで産出されます。賢治は若いころから、久慈郊外、大川目の第3紀層産出の琥珀に親しんでいました。

「真鍮」は、黄銅のこと。銅と亜鉛の合金で、亜鉛が20%以上のものをいいます。亜鉛が多くなるにつれて色は銅赤色から黄色に変わります。金に似ているので、ニセ金とも呼ばれるとか。この詩では畑の色の比喩として用いています。

斜めに射してきた太陽の光に目が眩んだのか、「一つ勘定をまちが」えて「第四」梯形か「第五」梯形かはっきりしなくなります。それを面白いことに、「うまくそらからごまかされた」と空のせいにしています。

けれどもほどなく、「いまきらめきだ」した畑の明暗が入り混じる向こうのほうに、「雲に浮んだ」七つ森の最後の山「第七梯形」を見出します。

この第七梯形については、「第六」の「ハツクニーのやうに」といった形容とは異なり、銅が酸化してできる青緑色の錆を意味する「緑青」を吐く「むさくるしい」松、「ちぢれて」いたんだ「羊毛」のような「雲」などと、かなり辛辣な表現が目立ちます。

そして最後は、「(三角やまはひかりにかすれ)」という、最初のほうにあったフレーズの繰り返しで締めくくられます。

それにしても、この詩のタイトルである「第四梯形」が直接出てくるのは、「第四か第五かをうまくそらからごまかされた」というフレーズくらいです。あえて第四梯形という題にした賢治の意図がどこにあったのか、私にはまだよくわかりません。

harutoshura at 00:14|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月16日

「第四梯形」③ ラテライト

 さらに「第四梯形」は次のようにつづきます。

ラテライトのひどい崖から
梯形第三のすさまじい羊歯や
こならやさるとりいばらが滑り
   (おお第一の紺青の寂寥)

ラテライト

「ラテライト」=写真=は熱帯雨林やサバンナ地帯に見られる赤みがかったレンガ状の土壌です。微生物の働きで珪酸が溶けて、鉄やアルミニウムの酸化物が集積して赤みを帯びます。

語源は、レンガを意味するラテン語のLater。湿潤土壌に分類されるもので、ラトソル、ラトゾル、あるいは紅土とも呼ばれます。

構成する鉱物は、針鉄鉱、ギブス石、ダイアスポアなどで、インドシナ半島やインド、キューバなどに広く分布。世界の地表の3分の1を占めるともいわれます。日本では小笠原諸島に見られます。

痩せた土なので農業には向いていませんが、インドではレンガをつくる原料に用いられています。カンボジアのアンコールワットでは、建築石材として使われているそうです。

「羊歯」すなわち、いわゆるシダ植物は、茎の中を縦に走る柱状の組織の集まりである維管束をもつ維管束植物のうち、花を咲かせない非種子植物のことをいいます。

葉は羽根状に切れ込みがあり、裏面に胞子嚢があって多くの胞子を蔵しています。羊歯の由来は、羊(ひつじ)の歯に似ているから、羊の角のように巻いている様子から、など諸説があるそうです。

「こなら」は、ブナ科の落葉広葉樹。日本の主要なナラであるミズナラの別名のオオナラと対比してコナラと名づけられました。雑木林に多く見られ、葉は長楕円型で縁にとがった部分があります。

花は4~5月、若葉が広がる時に咲き、秋に実(ドングリ)が熟します。樹皮は灰色。落葉樹ですが、秋に葉が枯れた時点では葉が落ちずに茶色の樹冠をみせます。

材は、木炭の原料やシイタケの原木に使われます。菌類と菌根をたくさん作るので、コナラ林には多くのきのこが出現します。むかし東北地方の山村では、コナラのドングリはミズナラのドングリとともに重要な食料でした。

特に岩手県の森林にはドングリがみのるコナラやミズナラの巨木がたくさん自生し、食用とされてきました。しかし大正期以降、こうした森林は、首都圏への燃料供給地として伐採され、巨木が生い茂った森林は失われてきました。

賢治の作品の中にしばしば出てくる、木を切ることに対する罪悪感には、こうした背景があるのかもしれません。

「さるとりいばら」(猿捕茨)は、サルトリイバラ科(またはユリ科)に分類される多年生落葉低木。草丈70〜350cmほどで、這うように伸び、棘がところどころに生えます。葉は円形または広楕円形で先端が尖り、食物を包むのにも用いられてきました。

「紺青」は、ローヤルブルー、鮮やかな藍色の顔料です。群青と同成分で、金青ともいわれます。「寂寥」は、ひっそりとして物寂しいさま。

赤茶色をしたラテライトの崖から「羊歯や/こならやさるとりいばら」が滑るというような、急な動きのある「梯形第三」。それと対比的に、鮮やかな藍色の「第一」は、静まりかえっています。

 「第四梯形」のつづきです。

縮れて雲はぎらぎら光り
とんぼは萱の花のやうに飛んでゐる
   (萱の穂は満潮
    萱の穂は満潮)
一本さびしく赤く燃える栗の木から
七つ森の第四伯林青〈べるりんせい〉スロープは
やまなしの匂の雲に起伏し
すこし日射しのくらむひまに
そらのバリカンがそれを刈る
    (腐植土のみちと天の石墨)

「縮れ」そして「ぎらぎら光り」と、秋の「雲」は目まぐるしい動きを見せていきます。

「萱」すなわち茅は、茎が屋根を葺くのに好適な細長い葉と茎を立てている草本植物で、主要なものにチガヤ、スゲ、ススキなどがあります。

たとえばすすきの花を見ても、確かに「とんぼは萱の花のやうに飛んでゐる」という直喩は、ぴったりイメージにはまるように思われます。

「栗の木」は、9月から10月ごろ実が成熟すると、いがのある殻斗が裂けて茶色っぽくなり、中から堅い果実が1~3個ずつ現れれます。こうしたクリノミ(栗の実)をたくさんつけた木が一本。「さびしく赤く燃える」ように見えたのでしょうか。

「伯林青」は、プルシアンブルー。すなわち伯林(ベルリン)を首都としたプロシャの青。暗い紫色を帯びた青色で、紺青に似た感じ。

フォーヴィスム(野獣派)のフランスの画家ブラマンクが好んだ色としても有名です。私はタバコの「ピース」の箱の色を思い浮かべます。

賢治には作花くばりの屋台に伯林青を塗り込んだりする作品もありますが、この詩では七つ森の「第四」梯形の稜線を伯林青、すなわちプルシアンブルーの「スロープ」とざっくり捉えています。

「やまなし」は山梨、オオズミ(大酢味)とも呼ばれます。ナシの野生種で、山野に自生するバラ科の落葉高木。果実は直径2~3センチほどと小さく、熟すと黄や紅色になります。山の子どもたちは自然のお菓子として楽しみにしていたようです。

しかし実際は、果肉が硬くて酸っぱいため、あまり食用には向かないようです。ここでは、七つ森の「第四」梯形にまとわりつく雲の匂いの比喩として「やまなし」を用いています。

「すこし日射しのくらむひまに/そらのバリカンがそれを刈る」は、私には今一どういうことなのかわかりませんが、少し陽射しが眩んだかと思うと空の影がバリカンで刈り取ったように進んできた、という感じでしょうか。

「腐植土のみちと天の石墨」。地には、腐食した植物がたくさん混ざった肥えた土壌の道。天には、鉛筆の芯などに使われる「石墨」、すなわち、うろこ状の結晶をしていて電気をよく通し、層状にはがれやすい性質をもつ鉱物。

どちらも黒っぽい似た色をしているものの、性質はかなり異なる天と地が、対比的に描出されています。

harutoshura at 01:47|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月15日

「第四梯形」② バリカン

 「第四梯形」のつづきを読み進めます。

あやしいそらのバリカンは
白い雲からおりて来て
早くも七つ森第一梯形〈ていけい〉の
松と雑木〈ざふぎ〉を刈〈か〉りおとし
   野原がうめばちさうや山羊の乳や
   沃度の匂で荒れて大へんかなしいとき
   汽車の進行ははやくなり
   ぬれた赤い崖や何かといつしよに

バリカン

「バリカン」は、明治政府による散髪脱刀令、いわゆる断髪令が出て髪の形が自由になったことや、1873(明治6)年の徴兵令の公布で、兵士の髪を衛生上の理由で丸刈りにしたために広く普及するようになったそうです。

そういえば、よく見かける肖像写真からすると、賢治も丸刈りにしていたようです。「バリカン」の愛用者だったのでしょうか。

「あやしいそらのバリカン」というのは、バリカンで刈り上げたように、雲の影がさあっと山林や野原をおおっていった様子を表現しているように私には思われます。

「うめばちさう」は、山地帯や丘陵の日当たりのいい湿地に生えるユキノシタ科の多年草。高さは10~40cmほどで、初秋に梅鉢形をした2cmほどの白い清楚な花をつけます。国内では北海道から九州に分布。水田のあぜに見られることもあります。

「沃度」はヨウ素のこと。常温で暗紫色の金属光沢をもつ結晶で、揮発性があり紫色の蒸気を出して昇華します。単体のヨウ素は、医薬用外劇物に指定されています。

賢治は主に、その匂いを比喩表現として使うことが多いようです。薬品のヨードチンキを連想して読んでおきましょう。

目に映る「そらのバリカン」と鼻腔でとらえた「沃度の匂」によって、「野原が」「荒れて大へんかなしい」姿(それは詩人の心象風景でもあるのでしょうが)を、立体的に演出しています。

  「第四梯形」のつづきを読んでいきます。

七つ森第二梯形の
新鮮な地被〈ちひ〉が刈り払はれ
手帳のやうに青い卓状台地〈テーブルランド〉は
まひるの夢をくすぼらし

   ◇

「地被」は、地表を低くおおう植物の総称で、ササ類や芝、クローバーなどの草本やコケなどをいいます。裸地の緑化や庭園の下草とされます。

現存している賢治の「手帳」は、1928(昭和3)年ごろから1932年ごろまでに使っていたと思われる15種だけのようですが、他にもたくさんの手帳を使っていたのでしょう。

戸外に出るときも、首から吊したシャープペンシルを取り出して、たびたび手帳にメモをしていたそうです。賢治の短歌に、

  白雲は露とむすびて立ちわぶる手帳のけいも青くながれぬ

という一首があります。「手帳のやうに青い」とは、賢治の所持した手帳の色、あるいは、けいの色に似ていたということでしょうか。

卓状台地〈テーブルランド〉は、地形の浸食によって形成されたテーブル状の台地のことで、世界的にはスペイン語で「テーブル」を意味するメサ (mesa)と呼ばれることが多いようです。

上位に硬い水平な地層、下位に浸食されやすい柔らかい地層があるときは、下の地層が浸食されて急崖を形づくり、上部は浸食されないためにテーブル状の台地となります。

主に乾燥地帯に発達する地形で、アメリカ合衆国西部に多くみられます。日本では、香川県の屋島や大分県の万年山などにメサの例がみられるそうです。

「まひるの夢」とは、要は、白昼夢と考えればいいのでしょうか。目覚めている状態で見る、現実味を帯びた非現実的な体験や、現実から離れて何かを考えている状態のこと。

「くすぼらし」の「くすぼらす」は、ラ行四段活用の動詞「燻ぼる」の未然形「燻ぼら」に、使役の助動詞「す」が付いたかたち。

火がよく燃えずに、煙ばかりが多く出る様子。目立った動きがなかったのが、再び表面化しそうな状態である場合にも用います。

「まひるの夢をくすぼらし」て、このあたりからまた、地球スケールの賢治らしい自在な比喩表現が展開されていきます。

harutoshura at 02:01|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月14日

「第四梯形」① 七つ森

 きょうから「1923、9、30」の日付がある「第四梯形」です。冒頭は――

   青い抱擁衝動や
   明るい雨の中のみたされない唇が
   きれいにそらに溶けてゆく
   日本の九月の気圏です

七つもり

タイトルにある「梯形」とは、台形の旧称です。念のため、台形って何だったかというと、少なくとも一組の対辺が平行な四角形をいいます。平行な2本の対辺を台形の底辺といい、片方を上底、他方を下底、もう一組の対辺を台形の脚とよびます。

面積は「上底」足す「下底」掛ける「高さ」割る「2」となる、あの図形です。1本の底辺の両方の内角が互いに等しいとき、特に等脚台形といいます。

盛岡市の西方、雫石市との境目あたり。いわゆる秋田街道沿いに、賢治の作品にしばしば登場する「七つ森」=写真=があります。

小岩井駅の南西約1キロほど、標高300メートル前後のこんもりとした小山群で、「大森(おおもり)」「石倉森(いしくらもり)」「鉢森(はちもり)」「稗糠森(ひえぬかもり)」「勘十郎森(かんじゅうろうもり)」「三角森(みかどもり)」「見立森(みたてもり)」の順に並ぶ七つの山からなります。

賢治は七つ森を順に第一梯形、第二梯形と呼んで、それぞれの樹木の様子や色の違いをダイナミックなイメージにしていました。確かにどの山もずんぐりとした等脚台形に近い形をしているようにも見えます。どっちから数えたとしても、第四梯形ということは「稗糠森」を指しているということになるでしょうか。

冒頭の「青い抱擁衝動や/明るい雨の中のみたされない唇な」とは、エロチックで妖しげであるとともに何となくぎこちなくもある表現ですが、要するに性的欲求のことなのでしょう。

性欲は、動物の生殖本能の自然な現れと思われますが、仏教では基本的に煩悩の一つとされ、不道徳な性行為を行うことを戒める不邪淫戒という戒律もあります。キリスト教でも色欲を人間の七つの大罪の一つ。多くの宗教で、不適切な性欲を罪としています。

「9月」は大型の台風が日本に来襲することが多く、昔から「二百十日」「二百二十日」などと恐れられてきました。大きな被害がでている洞爺丸台風や伊勢湾台風は9月に来襲しています。

この年は特に、9月に入った直後に関東大震災という自然災害も起きています。まさに憂鬱の月。一方で、9月は初秋の季。浜辺の雑踏はなくなって海は本来の姿を取り戻し、山々も落ち着いたたたずまいを見せます。

「気圏」というと、ふつうは地球の大気の占める領域のことが頭に浮かびますが、詩「春と修羅」で「まばゆい気圏の海のそこ」と表現しているように、賢治は海の中のイメージでも用いています。詩人が生きている舞台であり、感じている世界・宇宙のことを、気圏と言っているのかもしれません。

ともかく、自然の中、車窓から七つ森の姿を追いかけているときの「日本の九月の気圏」は、こうした性的な衝動も「きれいにそらに溶けて」自然に解消されていくような、すっきりとして爽快なものだったのでしょう。

 「第四梯形」のつづきを読んでいきます。

そらは霜の織物をつくり
萱〈かや〉の穂の満潮〈まんてう〉
     (三角山〈さんかくやま〉はひかりにかすれ)

   ◇

「男心と秋の空」、あるいは「女心と秋の空」とも言われるように、秋の空は変わりやすく、さまざまな表情を見せてくれます。

  上行くと下来る雲や秋の空(凡兆)

というように秋の空は、上層と下層をしきりに気流が動いています。逆に、激しい気流で空が一掃されるので、澄み切ったさわやかな表情も見せてくれるのかもしれません。

そんな秋の高い「そら」にかかっている薄雲、片雲を、「霜の織物」とズバリ表現しています。

空気と接触している物の表面が0℃以下になると、空気中の水蒸気が昇華し、物の表面に微細な結晶構造を持つ氷が成長します。この結晶が「霜」。

視覚に鮮明に刻まれる「霜の織物」という表現は、雲の本質にも肉薄するような、賢治ならではの卓抜した比喩だと思います。

「萱」は、イネ科植物のススキ、ヨシ、チガヤ、カルカヤ、カヤツリグサ科植物のスゲなど、屋根を葺くのに用いられる丈の高い草の総称。カヤという特定の植物があるわけではありません。

イネやムギなどの茎は水を吸ってしまいますが、萱の茎は油分があるので水をはじき、耐水性が高いのだそうです。そのため以前は、屋根を葺く重要な材料となりました。

他にも、家畜の飼料や田畑の肥料、燃料などいろんな用途があり、農村では集落周辺の一定地域を萱場として、適宜、火を入れて森林化を防ぎながら大切に育てていたようです。

そうした萱場をいっぱいに埋めて、たたわに繁っている「萱の穂」の様子を、「満潮」といい切っています。こちらも、さすがです。

「三角山」は、宮澤賢治語彙辞典によると「三角森のことではなく、乳頭山の南東にそびえる三角山(標高1419m)のことであろう」とされています。七つ森の位置からは、南東の方角にあたります。

三角山の鞍部に広がる千沼ヶ原は、尾瀬に匹敵するといわれるほどの高層湿原だそうです。

harutoshura at 00:43|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月13日

「昴」⑤ 大沢温泉

 次の詩に移る前に、きょうは「昴」を通して読み返しておきましょう。

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴〈すばる〉がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く 松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神〈さうしん〉のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝〈スガタ〉から来て善逝〈スガタ〉に至る

大沢温泉

この日、1923(大正12)年9月16日は日曜日。賢治は、花巻の西北、豊沢川に沿って花巻電鉄で大沢温泉=写真=方面に向かいました。

豊沢川沿いには松倉、志戸平、渡り、大沢、山の神、高倉山、鉛、新鉛の8つの温泉があって、花巻南温泉峡とも呼ばれます。峡谷にあるため、温泉郷ではなく「温泉峡」と名乗っています。

でも、賢治はこの日、温泉につかりに行ったわけではなく、大沢温泉のすぐ西にある五間森(標高569メートル)付近に出かけて行き、立木を切るのに立ち合うという用事などがあったようです。

それが「山へ行つて木をきつたものは/どうしても帰るときは肩身がせまい」という、後ろめたい気持ちににつながっているのでしょう。

栗原敦著『宮沢賢治』(NHK出版)によれば、夕刻、新造して間もない「渡り橋」を渡り、松原の停留所から電車に乗って戻って来たと推測されるそうです。

この年9月14日の「岩手日報」によれると「花巻駅前救護事務所で調べた当駅下車の罹災民は3日より12日まで707名」に達していたといいます。関東大震災は岩手県でも、とうてい他人事ではあり得なかったわけです。

この9月16日には、大震災後、戒厳令が発せられていたさなか、アナキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一の3人が憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で殺され遺体が井戸に遺棄された甘粕事件が起こっています。

電車の中の賢治にこの事件を知る術はなかったでしょう。しかしこの時、私たちが東日本大震災の原発事故で感じたような底の知れぬ、持って行く場のない不安や恐怖を、賢治は人並みはずれて鋭く感じ取っていたに違いありません。

栗原は、そんな賢治の思いについて同書で次のように述べています。

「東京、神奈川の中心部分を壊滅状態に陥らせた関東大震災の被害に、華やかに見える都会の放縦な文化の危うさ、頼りがたさを痛感し、自らの日々のあり方を反省して、あるべき理想の世界の探求に向かう、宗教的、社会的使命感が激しく揺さぶられる思いであったろう」


harutoshura at 04:04|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月12日

「昴」④ 花巻電鉄

 きょうは「昴」の最後の部分です。

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝〈スガタ〉から来て善逝〈スガタ〉に至る

花巻電鉄

花巻電鉄=写真、wikiから=は、花巻に点在する各温泉郷と花巻駅を結ぶ唯一の交通機関として、湯治客らを運ぶとともに、鉛線沿線に鉱山があったこともあり、鉱物や木炭などを運搬する交通機関として、物流の面においても重要な役割を果たしていました。

1両のデハ(電動車のついている3等車両)が、1-2両のサハ(モーターのついていない付随車)や貨車を牽引する列車になっていて、場合によっては続行運転をしていたそうです。

同社の軌道線で使用されていた車両の多くは、昭和初期に雨宮製作所で製造されたもので、車体幅が約1.6mと極端に狭く、前から見るとウマの顔のように縦長な細長いかたちをしていました。

その特徴ある姿から「馬面電車」、あるいは全体の形が似ていることから「ハーモニカ電車」などと呼ばれていました。必然的に車内も狭く、ロングシートの場合は向かい合った乗客の膝が触れることもあったようです。

「この貨物車の壁はあぶない/わたくしが壁といつしよにここらあたりで/投げだされて死ぬことはあり得過ぎる」ということは、乗客の多い時は、貨物車に客を乗せて運転することもあったのでしょうか。

それにしても、「金をもつてゐるひとは金があてにならない/からだの丈夫なひとはごろつとやられる/あたまのいいものはあたまが弱い/あてにするものはみんなあてにならない」という表現には、関東大震災という自然の脅威にさらされた人間の無力感が表現されているように思われてなりません。

それは、わたしたちが4年前の東日本大震災で実感した思いにもつながっていると思います。

「(もろもろの徳は善逝から来て/そしてスガタにいたるのです)」という言葉がこの詩の前半にもありましたが、詩のエンディングでも再び「そしてそれらもろもろの徳性は/善逝から来て善逝に至る」と繰り返されます。

前に見たように「善逝〈スガタ〉」は仏陀と同じ意味で用いられる「十号」の一つで、無量の智恵で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいいます。

何もかもあてにならないこうしたご時世にあって、あらゆる徳性は如来のもとにあるのだと述べているのでしょう。


harutoshura at 15:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月11日

「昴」③ 関東大震災

 「昴」のつづきを読んでいきます。

市民諸君よ
おおきやうだい これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神〈さうしん〉のあざやかさ)

NAGATA_Hidejiro

1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の地震によって起こった関東大震災。

神奈川県、東京府を中心に千葉県、茨城県、静岡県東部まで広い範囲に大きな被害をもたらし、190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされています。

「昴」が書かれた「1923、9、16」は、この未曾有の大災害の発生から半月後のことです。

「市民諸君」と聞くと私は、関東大震災後の新たな街づくりのための区画整理事業に際して時の東京市長、永田秀次郎=写真、wiki=が行った、「市民諸君に告ぐ」と題する次のような演説のことを連想します。

〈市民諸君、我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ……〉

この演説が行われたのは、震災の翌年1924年3月のことですから、この演説から「市民諸君」という言葉が取られたのではないでしょうが、震災直後の混乱の中で「市民諸君」といった訴えが連日つづけられていたことが想像されます。

「ドラゴ」は、Draco、初夏の北天の星座の1つ、竜座のことです。龍座流星群が夜空をにぎわすことでも知られています。

ギリシャ神話ではヘルクレスに課された12の冒険の11番目が、この100の頭を持つ竜(ラードーン)が守っているリンゴを取ってくることでした。この竜はヘルクルスに倒されたとも、直接対面することはなかったともいわれます。

いずれにせよ、このりんごは神しか取ることができないので、ヘルクレスはアトラースに代わりに取りに行ってもらいました。ヘルクレス座は竜座と隣同士になっています。

「蝎」はサソリ座のことでしょう。夏の夕方、南の空低く天の川に大きなS字型で横たわり、独特な形をしています。最も明るい星座の一つで、α星は全天に21ある1等星の1つで、アンタレスと呼ばれています。

ギリシャ神話では狩人オリオンの高慢に怒った女神ヘラに使わされて、オリオンを毒殺したといわれています。アンタレスの赤さが好きだったのか、蠍の毒虫としての生き方にひかれたのか、賢治はこの星座をとりわけ好んでいたようです。

この詩では「蝎」や「ドラゴ」が、軌道から青い火花を散らしながら走る電車の形容に用いられています。

「豆ばたけのその喪神のあざやかさ」とは、豆畑が青白っぽく見えるということなのか、あるいは正気を失って放心状態になるほど鮮やか、という意味でしょうか。

賢治は、神秘的なニュアンスを伴った修羅の意識ともかかわる心象のイメージとして「喪神」という言葉を用いていたようです。


harutoshura at 11:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月10日

「昴」② 善逝

 きょうも「昴」のつづきを、読み進めていきます。

また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く 松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか

如来

「山へ行つて木をきつたものは\どうしても帰るときは肩身がせまい」と、木を切るという行為が、世間に対して面目が立たず、居ごこちが悪い、相当に後ろめたいこと考えていたようです。それは、賢治の自然保護や仏教思想、地域の問題などいろいろと絡んでくるのでしょう。そのあたりについては、あらためて少しずつ考察していきたいと思います。 

「善逝〈スガタ〉」は、梵語のSugataの漢訳で、音写は修加陀。善く因より果に逝きて還らぬという意味で、無量の智恵で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいいます。また、仏陀と同じ意味で用いられる10種の称号「十号(じゅうごう)」の一つでもあります。

十号とは、①如来(にょらい、tathāgata)②応供(おうぐ、arhat)③正遍知(しょうへんち、samyak-saṃbuddha)④明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇa-saṃpanna)⑤善逝(ぜんぜい、sugata)⑥世間解(せけんげ、loka-vid)⑦無上士(むじょうし、anuttra)⑧調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruṣa-damya-sārathi)⑨天人師(てんにんし、śāstā-deva-manuṣyāṇām)⑩仏世尊(ぶつせそん、buddho-bhagavān)。

法華経にみられる十号では、如来のほかに10種類の称号があるとされているそうです。

岩手県は、古くから県北の山間部から県南部にかけて地鶏である「鶏」が農家の庭先でされ、肉が郷土料理に用いられて美味だと定評がありました。岩手地鶏は、30品種以上いる日本鶏の中で、羽数が少ない尾長鶏、声良鶏、比内鶏など17品種の史跡名勝天然記念物に含まれています。

「そば」(蕎麦)は、タデ科ソバ属の一年草。日本では主に実を製粉して蕎麦粉として利用されます。草丈は60-130cm。茎の先端に総状花序を出し、夏から秋に6mmほどの花を多数つけます。花の色は白、淡紅などで畑中が雪が降ったように見えるとともに、鶏糞肥料のような臭いを放ちます。

原産は中央アジアで、中国南部説が有力なようです。高知県南国市の田村遺跡など各地の弥生遺跡から、ソバ、イネの花粉が検出され、弥生時代から焼き畑農法で利用されていたと考えられています。

東北地方では、4-5月に種蒔きをし7-8月(夏ソバ)の収穫と、7-8月に種蒔きをし9-11月の収穫(秋ソバ)が行われます。

「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ\電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか」と詩人が自信を持ってすすめるそば畑の光景、眺めてみたいものです。


harutoshura at 11:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月09日

「昴」① 散開星団

 きょうから 『春と修羅』の次の詩「昴」に入ります。冒頭は――

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴〈すばる〉がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈

昴

この詩も「宗教風の恋」「風景とオルゴール」「風の偏倚」と同じ「1923、9、16」の日付があります。電車で大沢温泉から帰る途中のようです。

昴とは、おうし座の散開星団であるプレアデス星団=写真=の和名です。約130の星の集団で、誕生したばかりの高温の青い星で構成され、母体となったガスが残っています。

比較的近距離にある散開星団なので、狭い範囲に小さな星が密集した特徴的な景観で、肉眼でも輝く5~7個の星の集まりを見ることができます。そのため昔から多くの記録に登場し、いろんな星座神話が作られてきました。

「すばる(統ばる)」という言葉はもともと、他動詞の「すべる(統べる)」に対する自動詞形。「統一されている」「ひとつにまとまっている」といった意味があります。

清少納言の『枕草子』(第236段)には好きな星として「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星)。よばひ星(流れ星)、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて(尾をひかなければもっとよいのだが)」は、よく知られています。

晩秋の南天で輝くため、農作業やイカ釣りと結びつくことが多く、賢治も好んで使っています。古代には、プレアデス星団が太陽から離れて、初めて暁の東天の地平線に姿を現す現象は、重要な出来事とされていました。ユリウス・カエサルは5月の暦にこの日を記したといわれています。

「二つの星」というのは、文脈からすると「オリオン」と「青い電燈」のことでしょう。「青い電燈」は、電車の窓から見える人家の明かりか、街灯をと言っているのでしょうか。

「オリオン」は、天の赤道上にあって明るい星が多く、おうし座の東にある星座です。ベテルギウスと、おおいぬ座のα星シリウス、こいぬ座のα星プロキオンの3つの1等星で冬の大三角を形成。他の星を見つける目印にもなります。

怪しいまでに輝くオリオンの星と電灯が、「沈んだ月夜の楊の木の梢」に「逆さまにかか」っているように見える。当時の夜の闇の有り様が垣間見られるような気がします。


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2015年04月08日

「風の偏倚」⑧ 花穂

 そして次は「風の偏倚」の最後の部分です。

空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈つてゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
  (どうしてどうして松倉山の木は
   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
  あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを越える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
 レールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる

すすき

一般に「透明」とは、光との間に相互作用が起こらず、吸収や散乱が生じないということを意味します。たとえば水は光を吸収しないためまとまった量では透明に見えますが、細かい粒子になると光を散乱するため不透明となります。霧や湯気が白くみえるのはこのためである。

ですから、透明かどうかは、対象とする光の波長を特定しないと行えません。通常の窓ガラスは可視光線にはほぼ透明ですが、紫外線はあまり通さないので、紫外線を感知する生物には透明ではありません。逆にX線をキャッチする眼からすれば、人間は半透明なものとして観察されるでしょう。

それはともかく、この詩人の眼には「空気の透明度は水よりも強く」と感じられているのです。

「すすき」は、イネ科の、ごく普通に見られる多年生草本。尾花ともいわれ、茅と呼ばれる有用植物の主要な一種です。高さ1~2m、地下には短いがしっかりした地下茎があり、多数の花茎を立てます。夏から秋にかけて茎の先端に長さ20~30cm程度の十数本に分かれた赤っぽい色の花穂=写真=をつけます。

「呼吸のやうに月光はまた明るくなり」、「不思議な黄いろになつてゐる」と、賢治はここでも「月」を、息をしながら姿を変える生きもののように扱っています。それに対して「わたし」は静寂に動きのない一つのの「帽子」なのです。

鉱物を特定の方向から見たとき、赤、黄、青などの干渉色を現す現象を「遷色」といいます。平行な割れ目や包有物などによる光の反射・干渉で起こります。賢治は、「雲」にこれに類した干渉色を見ているのでしょう。

「可塑性」は、変形しやすい性質。外から力を加えて変形させた後、力を取り去っても歪が残ってもとに戻らず形を変えてしまう性質をいいます。

「レールとみちの粘土の可塑性」を、賢治は「変厄」と呼んでいます。「厄」というと、昔は特に疫病をもたらすのは神のなせる業と信じられ、その神を厄病神、厄神などと呼んでいました。

そして、こうした厄神が来るのを防ぐため、あらかじめ路上でもてなす道饗祭 (みちあえのまつり)、村境の路上に注連縄 (しめなわ) を張る道切りなどの行事が行われたといいます。

詩人は、変形しやすい「レールとみちの粘土」を、変厄、すなわち厄が変わる、というような視線で眺めているのでしょうか?


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2015年04月07日

「風の偏倚」⑦ ペガスス

 ひきつづき、きょうも「風の偏倚」を読んでいきます。

杉の列には山鳥がいつぱいに潜〈ひそ〉み
ペガススのあたりに立つてゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

ペガスス

「ペガスス」(Pegasus)=写真=は、ペガサス、ペガソスともいう秋の星座。ギリシャ神話に出てくる翼を持った天馬が、天に昇って星座になったとされます。

ペガススは、勇者ペルセウスがメドゥーサの首を切って倒したときに、クリューサーオールと共に胴体から生まれた天を駆ける羽のある白馬です。

生れ出たペガススは飛び立って、ムーサたちの住むボイオーティアのヘリコン山にたどり着きました。ペガススがムーサたちを喜ばせようと岩を蹄で撃ったところ、そこから泉が湧き出たといいます。

ペガススは後に勇者ベレロポーンの乗馬となりました。リュキア王イオバテースから怪物キマイラ退治の命を受けたベレロポーンは、ペイレーネーの泉で水を飲んでいたペガススを女神アテーナーから授かった黄金の手綱で捕らえて自らの乗馬とします。

ペガススに乗ったベレロポーンは、空中から矢と槍でキマイラを打ち倒しました。増長したベレロポーンは神の仲間入りをしようとペーガソスに乗って天を目指しましたが、ゼウスの遣わした虻を嫌ったペーガソスに振り落とされて墜死します。

隣のアンドロメダ座の主星とペガスス座のα、β、γの3つの星からなる4角形は、ペガススの大四辺形、あるいは「秋の大四辺形」として知られています。

「散兵」は、歩兵の戦闘隊形の一種です。歩兵が縦や横に密集隊形を組んで戦った時代には、密集隊形の前面と側面に、部隊の一部を間隔を置いて散開させて散兵線を敷きました。密集隊形同士が衝突する前に、遠隔攻撃を加えて敵に損害を与え、隊形を崩しておくことがその役割。

散兵は密集隊形の兵と異なり、戦場で素早く動けるようにふつう軽装備でした。散兵は密集隊形の前面に出て、矢や投槍を敵に浴びせかけ、攻撃が終わると密集隊形の後ろに退避しました。また機動性を生かして、偵察や敵の側面の包囲といった役割も担いました。

「雲は一せいに散兵をしき」とは、密集隊形をとった雲の前のほうと側面に、間隔を置いて散開した雲が空に敷かれているということでしょう。それら雲の隊形は、整然ととして「極めて堅実にすすんで行」きます。目に浮かんでくるような、天の光景です。

「硅化」というのは、珪酸の侵入や外界物質との接触による変質でより珪質な物質に変化することをいいます。童話の「台川」に「流紋凝灰岩だ。凝灰岩の温泉の為に珪化を受けたのだ」とあります。「硅化流紋凝灰岩」とは、凝灰岩が変成して流紋化、無水珪酸を多く含む花崗岩質の岩石なのでしょう。

「川尻断層」は、賢治が生まれた4日後の1896(明治29)年8月31日に起きた陸羽地震で生じた断層。陸羽地震は、秋田県と岩手県の県境にある真昼山地の直下で発生した逆断層型の内陸直下型地震です。


harutoshura at 14:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月06日

「風の偏倚」⑥ 虹の交錯

 きょうも「風の偏倚」のつづき。次の3行です。

そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす

niji

「B氏」とは誰のことかは分かりませんが、科学者か誰かの頭文字でしょうか?。

「虹」は、雨上がりなどに太陽の反対側の空にできます。空気中の水滴に当たった光が屈折して、水滴の内壁で全反射してできるスペクトルの一種。

山野の一人歩きが好きだった賢治は、虹の美しさに対する特別な憧憬の思いを抱き、また、その移ろいやすさに無常観のようなものを感じていたようです。

「顫」は、訓読みでは「ふる」と読みます。小刻みにふるえ動くことを顫動(せんどう)、顫動音とは、巻き舌で発音するラ行の子音のように、流れ出る呼気によって細かくふるわせるようにして出す音をいいます。

また、音楽の「トリル」のことを顫音と訳されます。トリルは、装飾音の一種で、ある音と、それより2度上または下の音とを代わる代わる速く出す奏法。

こうみてくると、スペクトルとしての「虹」の「顫ひ」というのも、振動あるいは音でもある波動が、イメージとして伝わってくるように思われます。

「ハロウ」とは、大気中の水蒸気による光の屈折作用が作り出す光冠などをいいます。水の粒子が小さいほど回折角が大きくなるため、光冠の直径も大きくなる傾向があります。また、波長が長い光ほど回折角が大きくなるため、内側が紫、外側が赤の色の順序となります。

光冠の一番内側の太陽や月に接しているところは青白い円盤状の光芒で、その縁は赤っぽい光の輪となっています。外側にさらに虹のように色づいた光の輪が、内が紫、外が赤の順に繰り返し取り巻いていることもあります。

賢治は、視線にある「半月」とその周りにある光冠とを合わせた形を、「未熟」な「苹果(りんご)」と表現したのでしょう。卓越した比喩です。


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2015年04月05日

「風の偏倚」⑤ 黒真珠

 「風の偏倚」のつづきです。

  (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
  (杉の列はみんな黒真珠の保護色)

オパール

「峻儼」(しゅんげん)は、いかめしくきびしいこと、山などが高くけわしいさまをいいます。山も林も、「ひじやうに峻儼」に見える日であり、詩人の心の状態なのでしょう。

「微塵」は量を表す仏教語。物質の最小単位である極微(ごくみ)を中心に、上下四方の六方から極微が結合したきわめて小さい単位をいいます。極微は原子、微塵は分子に喩えられます。

微塵は人間の目には見えませんが、天人や菩薩の目には見えるとされています。「善業は微塵ばかりも蓄へなし」(「平家物語」10)、「微塵となり、粉灰となり、四方へはっと立ちにけり」(「お伽草子」天狗の内裏)など。

「雲は月のおもてを研いで飛んで」いきました。すでに「ひるまのはげしくすさまじい雨」が、「微塵からなにからすつかりとつて」空気や風景をすっきりとしてくれています。

そしてさらに「月の彎曲」すなわち、弓なりに曲がった月の内側から「あやしい気体が噴」いて、「一きれの雲がとかされ」るというのです。

理屈からすれば、月と雲は隔たったところにあるので、月にかかわる何らかの作用によって雲がとかされることはあり得ないはずですが、空における月と雲のやり取りのように見られる光景の克明な描写が、天気や時間の移り変わり、心象の微妙な変化をも映し出しているように思えてきます。

「黒真珠」=写真=は、クロチョウガイ(黒蝶貝)から産する真珠。主にタヒチ(仏領ポリネシア)や沖縄県で養殖されています。ほかの真珠を染色処理して黒真珠と呼んでいるものもあります。黒蝶貝という名前の由来は、二枚貝を開いた形がちょうど蝶が羽を広げている姿を連想させるところからきたようです。

黒真珠といってもただ単に黒いわけではなく、黒系、緑系、グレー系、赤系などさまざまな色があります。近年では、深い緑に赤みがかった反射のある「ピーコックグリーン」と呼ばれる黒真珠に人気があり、美しいと評価されているそうです。


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2015年04月04日

「風の偏倚」④ 月の噴火口

 きょうも「風の偏倚」のつづきを読んでいきます。

きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
  (それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために
みちはなんべんもくらくなり
  (月あかりがこんなにみちにふると
   まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
   いまはその小さな硫黄の粒も
   風や酸素に溶かされてしまつた)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる

月

「断雲」は、きれぎれの雲、ちぎれぐものこと。前に読んだ「風とオルゴール」に続いて「風の偏倚」も、車窓からの風景描写になっています。

詩の日付である強い風の吹く1923年(大正12)年9月16日、賢治は、かつて花巻と近郊の温泉郷を結んでいた花巻電鉄で、大沢温泉まで出かけたようです。

ちょうど、この年の5月に、志戸平温泉―湯口(大沢温泉)間が開通したばかりでもありました。

「氷片の雲」とは、いまにも雹でも降らせそうな雲なのでしょう。「硅酸」は、化学式 [SiOx(OH)4−2x]n で表されるケイ素、酸素、水素の化合物の総称。白い結晶で、ガラスや乾燥剤、吸着剤として用いられます。

「硫黄」は火山噴出物として産し、さまざまな化学原料やマッチ、花火、殺菌剤などとして使われます。

花巻電鉄沿いには、志戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉、西鉛温泉など多くの温泉がありました。また、鉛温泉の北、高狸山の中腹には鶯沢硫黄鉱山がありました。

「まへにはよく硫黄のにほひがのぼつた」というのは、温泉の臭いのことをいっているのでしょう。月が「水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる」というのは、写実的な実に美しい表現です。


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2015年04月03日

「風の偏倚」③ 蛋白彩

 「風の偏倚」のつづきを読んでいきます。

五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息〈たんそく〉との中にあらゆる世界の因子がある)

蛋白石

生物学や医学でホルモンの働きなどを調べるため、ラットやマウスなど同種の2匹の動物を体の一部で縫合することを「副生」といいますが、ここでは「月」が生命のような感じで「小さ」な副生物になっていくようです。

仏教でいう「意識」とは、五感の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と区別される第6番目の心(第六識)とされています。

自覚的という意味でよく「意識する」といわれますが、それは仏教では心所(個別の心作用)の作意などに求められます。前五識が現在の事象のみを対象とするのに対し、意識は過去、未来、現在の三世を対象とするそうです。

また、前五識はいわば無分別のあり方によって対象を認識するのに対して、意識には、過去を再構成したり推理したりする働きがあり、分別のあり方が顕著とされています。

「蛋白彩」は、オパールの和名である蛋白石=写真=から連想しているのでしょう。詩「東岩手火山」では、雲の色を蛋白石と形容して、「glass-wool」と言い換えたりしています。ここでも乳白色の雲を、そう喩えています。

実際はオパールには、無色のものから乳白色、褐色、黄色、緑色、青色などいろんな色のものがあり、透明、半透明、不透明などさまざまあるようです。

「嘆息」は、悲しんだりがっかりしたり、なげいてため息をつくこと。甚だしく嘆くことをいいます。「嘆息をもらす」「不運をかこって嘆息する」とかいいます。

「因子」というのは、ある結果を成り立たせるもとになる要素。あるいは、個体の形や性質、働きに大きな影響を与えている要因をいい、広くは環境を、狭くは遺伝子をも指します。

「風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある」とは、まさに賢治ならではの独得の世界観を表現しているように思われます。


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2015年04月02日

「風の偏倚」② アマゾナイト

 それでは、冒頭の部分から詳しく見ていきましょう。

風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜〈あんこくさんりよう〉や
  (虚空は古めかしい月汞〈げつこう〉にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる

アマゾナイト

「クレオソート」は先日みたように、イヌブナの木の乾溜によって得られる油で、淡黄色刺激臭のある液体。殺菌力が強く、下痢止め(正露丸など)、肉の防腐剤などとして使われますが、この詩にもあるように賢治は、主に木材の防腐剤としての用法が中心です。

「暗黒」というのですから、背景の星や銀河などの光を軒並み吸収してしまう暗黒星雲のように、まったく光の射さない真っ暗な暗闇。確かに存在するが、その正体が明らかになっていないものを指すこともあります。

「山稜」は、山頂から山頂へ続く峰すじ、山の尾根のこと。夜の闇の中に置かれることで不気味に存在感を放ち、「逞しくも起伏する」のでしょう。

「汞」は、もともと水銀のこと。漢字では古来「汞」(gǒng)の字をあて、中国語でも水銀は通称で、正式にはこちらの表記を用います。水銀の元素記号「Hg」 は、古代ギリシア語の「水」+「銀」に由来するラテン語hydrargyrum の略。大和言葉では「みづかね」と呼びました。

水銀は銀白色の金属光沢を持ち、常温で液状である唯一の金属。湿気中で表面が酸化されて灰白色に変化します。賢治は、水銀の特有な光沢を比喩的に用います。「月汞」は、銀色の独得の光沢をもつ月光のことを表しているのでしょう。

「虚空」は、仏教語で虚(無)なる空間を意味します。賢治は、仏教的な意味をも含みながら、エーテル(光素)の充満する自然界の空間あるいはその原理として用いるなど、はるかに幅広くオリジナルな使い方をしています。

「天河石」(てんがいし、アマゾンストン)は、微量の鉛によって色付いている青緑色の微斜長石(amazonite、アマゾナイト)=写真=をいいます。ブラジルのアマゾン河で発見。古代エジプトでは宝石として利用されました。

緑青色の強いものは翡翠に、空青色の強いものはトルコ石の色に似ています。日本でも長野県で産出されます。天河は、天の川のことでもあります。

「天盤」は、一般には鉱山で坑道や切羽の天井をいいますが、賢治は天空の比喩として感覚的に用いています。「盤」は大きな受け皿の意。上下を逆にするとドーム状になります。

「研ぎ澄まされた天河石天盤の半月」などのまさに「錯綜した雲やそらの景観」を、こんどは「すきとほつて巨大な過去になる」と、4次元空間のもう一つの座標軸である「時間」のほうへと導いていきます。


harutoshura at 16:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2015年04月01日

「風の偏倚」① ベクトル

 次は「風の偏倚」です。まずは通して読んでおきます。

風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜〈あんこくさんりよう〉や
  (虚空は古めかしい月汞〈げつこう〉にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息〈たんそく〉との中にあらゆる世界の因子がある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
  (それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために
みちはなんべんもくらくなり
  (月あかりがこんなにみちにふると
   まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
   いまはその小さな硫黄の粒も
   風や酸素に溶かされてしまつた)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
  (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
  (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
杉の列には山鳥がいつぱいに潜〈ひそ〉み
ペガススのあたりに立つてゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈つてゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
  (どうしてどうして松倉山の木は
   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
  あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを越える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
 レールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる

風

「宗教風の恋」「風景とオルゴール」と同じく「1923、9、16」の日付があります。

「偏」は、かたよる。「倚」は、よりかかるの意。合わせて「一方にかたよる」ことをいいます。

有島武郎の『惜みなく愛は奪う』には、「肉と霊とを峻別し得るものの如く考えて、その一方に偏倚するのを最上の生活と決めこむような禁慾主義の義務律法はそこに胚胎《はいたい》されるのでは...」。

風は、空気の流れ、あるいは流れる空気自体のことです。ふつう気流と呼ばれているものに近く、風に対して無風の状態を凪といいます。

古来、風という言葉は眼に見えないものを象徴するためにも使われれます。「逆風が強い」とか「**風のファッション」とか、全体的な雰囲気のベクトル的な意味で「風」という言葉が使われる例もたくさんあります。

風の偏倚、風が一方にかたよると聞いて頭に浮かぶ言葉の一つに「偏西風」があります。

北緯または南緯30度から60度付近にかけて中緯度上空にみられる定在的な西寄りの風で、熱帯地域の加熱によるハドレー循環と極地域の冷却による極循環の二つの循環の層厚の違いにより発生すると考えられています。


harutoshura at 04:16|PermalinkComments(0)宮澤賢治