2014年09月

2014年09月30日

「はじめてのものに」⑭完 最後の旅

立原道造の日記や手紙の中に、水戸部アサイが姿を現すようになるのは、石本建築事務所に入って1年後の1938(昭和13)年4月以降のことだ。

その前年の昭和12年10月、道造は突然発熱し、診断の結果、肋膜炎と判明。医師から当分安静にするように命じられている。

翌11月には、静養のため信濃追分へ。「はじめてのものに」の恋の舞台ともなった油屋に滞在していたが、油屋は火災で消失してしまう。

火災の際、道造は辛くも、二階から逃れて助かっている。

病いが刻々と自身の体を蝕んでいくなか、追分で出会った少女たち、すなわち「はじめてのもの」たちとのポエティックな夢想の恋にかわり、アサイとの、ある意味で散文的な、現実の恋愛が展開されていくことになる。

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〈……僕らは今はじめて新しく一歩を踏み出す。『風立ちぬ』としるしたひとつの道を抜け出して〉と、新生への力強い意志を示したエッセー「風立ちぬ」をはじめ、最後の旅から紡ぎ出された「盛岡ノート」「長崎ノート」など、アサイとの現実の愛をよりどころに生まれた晩年の散文作品は、そのころの詩よりずっと輝いているように思う。

道造はアサイを愛するようになって1年後の1939(昭和14)年3月29日、血痰による喀痰不能のため息を引き取る。享年24歳。

三好達治は道造の詩を、「青春の園生に吹く微風の声のような、そこはかとない爽やかなリズムをもった、明るいすがすがしい、そういう年頃の魂のみを訪れる哀感に満ちた、思想的というほどには沈潜した面影のない、軽やかな音楽」と評している。

私はといえば、道造の詩はあまり好きではない。読むと立ち所にむず痒くなる。そんな道造の詩のなか、これまで読んできた「はじめてのものに」は、表現にごたごたしたぎこちなさは感じるものの、それがかえって青春の一断面を実態として浮かび上がらせてくれるようで、心地よく読むことができる。

詩が好きとはいえない、とはいえ、道造の日本語は美しいと思う。たとえば、死の前年の11~12月に病をおして出かけた長崎への旅から生まれた、比類なき珠玉の散文「長崎ノート」。

それを読むと、あの萩原朔太郎でさえ文語へ回帰していった時代に、日常の言葉をここまで高めることができたのか、とあらためて驚く。

道造が逝って半年後の1939年9月、ドイツのポーランド侵攻で第2次世界大戦が始まる。戦争の闇をくぐらず〝青春の詩人〟の軽やかなリズムだけを残していった立原道造。

だからこそ、道造の詩は輝き続けてきたのだろう。でも、戦後を生きていたらどんな(苦渋に満ちた)言葉を残したのか。やっぱり、読んでみたかったなとも感じる。

*写真は、立原道造記念会のHP(http://www.tachihara.jp/)から。 


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2014年09月29日

「はじめてのものに」⑬ アサイ

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

道造は子どものころから、歌舞伎役者の声色や物まねがうまかったという。とりわけ、鹿の真似が真に迫っていたそうだ。信濃追分で出逢い、そして別れていった少女たちにも冗談を言ったりからかったり、笑い声にあふれた夏のひとときを過ごしていたのだろう。

「はじめてのものに」は、第1詩集『萱草(わすれぐさに)に寄す』の中に収められている。松永伍一は、追分の少女たちとの別れについて、次のように指摘している。

〈詩集のタイトルを『萱草に寄す』としたのは暗示的だ。「忘れること」より「忘れさせる」心理の働きが、過ぎ去っていく束の間の夏にこそふさわしかったから。それは、現れたものは初めから消えていくべき運命を夏の日の恋が負うているということを、確認することが詩人立原の流儀だった。

少女とめぐりあうのは、結婚するという通俗の道筋とはまったく無縁のものであった。会うのは所詮別れるためであり、それが詩のテーマとして立ちあがるとき、恋という行為をも「忘れさせる」ことが、かれの正統な手続きであった。そのためには追分の少女たちは去っていかねばならなかった〉

去っていった少女たち。時を同じくして、建築を専攻していた道造の学生生活も終わる。そして今度は、鮮明でたしかな恋愛の対象であり、最後の恋人ともなった女性に出逢うことになる。その出逢いについて、小川和佑著『立原道造 忘れがたみ』には、次のようにある。

アサイ

〈「帝大の立原ですが……」
それが水戸部アサイ=写真=の聞いた最初の立原の声だった。昭和十二年三月、立原は石本建築事務所に来意の電話をかけて来た。石本建築事務所では毎年、東大と早大からその年の最も優れた卒業生を一名ずつ採用することになっていた。立原はその一人だった。

しかし、水戸部アサイは、そうした事情をよく知らされていなかった。電話の声はよく響く太い声だったから、水戸部アサイは、たぶん立原氏というのは帝大の若いが偉い先生かなにかで、所長の石本氏の友人だろうと思った。――だが、その「立原氏」が受付けに現われて見ると、電話の声の印象とはまったくうらはらな、ひどく痩せて、やたらに丈ばかり高い、髪の長い学生だった。

応対しながら、水戸部アサイは、なんだかさっきのひとり合点がおかしかった。この帝大の「立原氏」はひょろ長い足を踏みしめるようにおづおづと事務所に入って来たのだ。それにしても声だけは堂どうと、さっきの電話のように太く、逞しい男性を思わせる声だったので、その不均衡が、なんとなくまたおかしかった。〉

実際にアサイに会ってもいる小川によれば、この女性は「立原が愛したどの少女にも似ていない」という。〈美しさだったら松竹歌劇団の北麗子(今井静枝)に及ばない。才気でいえばあの関鮎子がより勝っている。優雅な物腰や言葉づかいなら、学友柴岡亥佐雄の遠縁の少女横田ケイ子が対照的に思いかえされる〉(同書)。

追分の少女たちになかったアサイの温かく豊かな何かが、道造の心を激しく揺さぶったようだ。


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2014年09月28日

「はじめてのものに」⑫ 分岐点

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「灰の煙の立ち初めた」すなわち、恋のときめきを感じたその日から、幾夜もエリーザベトの悲恋の物語を夢みたというわけだ。

エリーザベトの物語、前回みたシュトルム『みずうみ』を持ち出すまでもなく、追分の少女たちは必然のごとく詩人の前から去っていく。

分岐点

〈去年の秋の頃から、指折りかぞへてゐたらこの頃は、おや指と人さし指しか曲げないで、もう夏休みまでの月日をかぞへられます。

夏が来たら! とばかり思ひつづけたが、かうしてその日々近づくと、去つて行つた少女との再会など思はれ、何のたのしさも湧いて来ません。

諦めきれぬ心のどこかが、その少女の行方とどめる夢とたくらみに波打ちます。風景、季節など何の心もそそつてくれない。しかし、今年の夏は、卒業論文の勉強するのでいそがしいのです。また、論文は美学なのです。〉

「はじめてのものに」を発表した翌年の1936(昭和11)年の5月12日に友人の杉浦明平にあてた手紙の一節には、こんなふうにある。

いっしょに追分を散策した「ゆふすげびと」の関鮎子はちょうどこのころ、内田源太郎という人と結婚している。

そして鮎子は、その4年後、岡崎でこの世を去る。23歳の若さだった。

道造は、杉浦に傷心の手紙を書いた昭和11年夏にも信濃追分を訪れている。そこで再会した、ともにモーツァルトを聴いた今井春枝も、その年の8月に結婚した。

そんな春枝との別れをモチーフにしたと思われる散文「花散る里」には、次のような描写がある。

〈馬車の窓を隔てて青年と少女が顔を見合わせてゐた、彼たちの間に交される言葉はもうなにもなかつた。少女は考へてゐた、その前の夜、青年の口を不用意に洩れた一言を。

――あの娘も秋になるとお嫁に行つてしまうのだ、と。少女はそれがいぶかいかつた、私はこの季節のはじめの明日、お嫁に行くのに、と。

しかし、その意味を悟つたときに、少女の姿はふたつにたちきられたやうだつた。少女はその酷い言葉を今も窓の外に見つめてゐた。

どこにあるとも知れず、村中に咲いてゐる林檎の花のにほひがつめたくこめてゐた〉

*信濃追分は中山道と北国街道の分岐点。写真は、http://karuizawa-kankokyokai.jp/event/4422/ から


harutoshura at 19:30|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月27日

「はじめてのものに」⑪ シュトルム

――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「エリーザベトの物語」というのは、ドイツの作家、テオドール・シュトルム1817-1888)の『みずうみ』(原題:Immensee)のことなのだろう。

みずうみ

『みずうみ』はシュトルムが32歳だった、1849年に発表。その2年後に刊行された"Sommergeschichten und Lieder"(夏の物語と歌)という短篇集に収録されている。

物語は、老いたラインハルトの回想のかたちをとる。 子どものころからラインハルトは、幼なじみの5歳年下の少女エリーザベトに心を寄せ、エリーザベトもラインハルトを慕っていた。二人は休みにはいつもいっしょ、ラインハルトは彼女に童話を読んで聞かせたりした。

やがて、ラインハルトは大学へ進むため、エリーザベトと離れなければならなくなる。復活祭で帰省すると、取った手を引っ込めようとするエリーザベト。ラインハルトは、何かよそよそしいものがはいり込んできたように感じる。そして、エリーザベトの母から、ラインハルトの学友のエーリッヒが湖畔の別邸を父から相続したことを聞く。

2年ほどたって、研究に励むラインハルトのもとに手紙が届く。エリーザベトがエーリッヒからの結婚の申し入れを、ここ3カ月のあいだに2度も断っていたが、とうとう受け入れたという内容だった。

さらに数年たって、ラインハルトはエーリッヒの邸宅を訪れ、結婚したエリーザベトとも再会する。民謡を蒐集する仕事をしているラインハルトは、ある日の夕暮れ近く、エーリッヒ夫妻やエリーザベトの母の前で民謡を朗読する。中に、母のすすめで思い定めた人をあきらめ、別の人と結婚したのを悔いる次のような詩が含まれていた。

  母は欲(ほ)りせり君ならで
  あだし男に添えかしと、
  思いさだめしかの君を
  忘れ果てよとつれなくも、
  されど得堪えじわが思い。

  われは嘆こうわが母の
  とらせし道のたがいてし、
  かからざりせば尊かる
  恋も罪とはなりはてて、
  ああいかにせむこの嘆き!

  なべての誇り喜びに
  かえて得たるはこの悩み、
  ああこの憂い見むよりは
  枯野の上をさまよいて
  物乞う子ともなりはてむ!
     (訳・関泰祐)

読んでいるうちにラインハルトは、紙が震えるのを感じた。彼が読み終えると、エリーザベトはそっと倚子をうしろにずらして、黙って庭へおりていった。開けはなしてあるドアのそばを、蛾がぶんぶんうなりながら飛びすぎていった。

それから何日かたった早朝、ラインハルトは、二、三行の書付を机の上に残して、夫妻に黙って屋敷を出ていこうとする。しかし、それを察したエリーザベトが立っていた。彼女は手を彼の腕の上においた。
「わたしにはわかっていますわ。嘘はおっしゃらないでください。あなたはもう、二度といらっしゃらないのね」

「ええ、もう伺いません」
と彼は言った。彼女は手をおろした。そしてもう一ことも言わなかった。

*写真は、1943年公開の映画『Immensee(みずうみ)』 (http://www.new-video.de/film-immensee/ から)


harutoshura at 16:04|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月26日

「はじめてのものに」⑩ 鮎子

明治、大正生まれの文化人の作品を読んでいると、若くして身につけた教養の深さ、広がりに驚くことがしばしばある。

立原道造にも、詩をはじめ、建築、絵画などに見られる人並み外れた才気だけでなく、さすがは当時の帝大生だけあって、その教養や表現力の成熟ぶりにも目を見張る。

と同時に、その恋愛には、現代の感覚からするとずいぶんと純で、プラトニック、情熱的でありながらなんとなく可愛らしく思えたりもする。

その成熟した教養、表現力と、ウブな若々しさとのギャップがまた魅力となって、いまも瑞瑞しい青春の文学として新鮮さを保ちつづけているのかもしれない。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

さて、夏の信濃追分で出あった「ゆふすげびと」とも呼ばれた「ひと」との交際はどのようになっていったのか。

〈僕は不吉な悲しい恋をしてゐる。相手の人はfianceがあるのだ。しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる。しかも、僕らは果ての日には他人のやうにとほく別れなくてはならないのだ。

相手の人はひとりの女の人を、同時に愛してゐる。そして僕は、友だちを、おそらくは愛さうとはせずに彼からただ愛されようとばかり念つてゐる。……二人の人を、ひとは同時に愛せるのだ。

この不吉な敗北の恋はしかしたのしいみせかけをして、一日一日僕の心とじやれてゐる。うつかり何もかも忘れて僕はうれしくなつてしまふのだつた! だがそれだけのことだつた、不吉に哀しかつた〉

これは、「はじめてのものに」が『四季』(第12号)に載ったころの、1935(昭和10)年11月12日、柴岡亥佐雄にあてた手紙の一節だ。

小川和佑『立原道造・愛の手紙』などによると、ここで「僕の心とじやれ」ながらも、若者らしい恋の不安を感じている対象の女性は、前にもふれた関鮎子らしい。

道造は、1934(昭和9)年7月、植物学者で歌人の近藤武夫に招かれて初めて訪れた信濃追分で、近藤を介して鮎子を識り、いっしょに「岐れ道」や遊女の墓などを散策する仲になった。

再び追分を訪れていた翌35年8月16日には、道造は柴岡の遠縁の一家に招かれて、横田ミサオ・ケイ子姉妹に会い、妹のケイ子に心惹かれる。

が、翌17日には、千葉から来た鮎子と再会。すると鮎子にも心が傾く。しかし、鮎子のほうは近藤の助手の久保秀雄に、より好意を寄せていたようだ。

油屋

鮎子が千葉へ帰ったあと、滞在先の油屋=写真=で、箏曲家今井慶松の次女春枝(北麗子)と親しくなる。いっしょにモーツアルトのレコードを聴き、音楽への理解を深めている。

東京へ帰った10月、道造は、東大のキャンパスで近藤にばったり会った。「近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗つて街道を走つた少女・鮎子ちやんの写真を見せてもらつたけれど近藤さんはケチンボで僕には与えなかつた」(10月26日、柴岡あて手紙)という。

才に長けるが、まだまだ本当の恋愛を知らないウブな帝大生が、恋に恋して、片思いに悶々としている。当時の道造はそんなふうにも見える。


harutoshura at 15:54|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月25日

「はじめてのものに」⑨ 地異

〈この宿屋には、もう夏からずつとゐるのは僕きり。さうしてそのほかのひともゐないゆゑ、この廣い家のなかにも、宿屋の人たちのほかは、僕きり。

さみしいといへばさうかも知れないが、ひとり炬燵にはひり、本をよんでゐれば、たのしいといふ方がいい。よんでゐるのは、藤原定家歌集。

(秋の夜のかがみと見ゆる月かげは昔の空をうつすなりけり。)

(いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ。)

これが萬葉の歌より、いまの僕の心に近いといへば、それは僕の心がかげ日向多く、うつくしきもの念ふことしきりだといふのだらう。萬葉集とは童謡のごとく面白いが、何だか身近ではない。〉

「はじめてのものに」が発表された昭和10(1935)年の9月15日、滞在していた信濃追分の油屋から友人の小場晴夫にあてて送った手紙の冒頭部分だ。

「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」は、定家の自撰家集「拾遺愚草」の中にある一首。「みねに烟の立ち初めけむ」は、恋のはじまりを暗示しているのだろうか。

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

天明

最終連の「いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか」が、道造が敬愛していた定家の「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」によっているというのは、間違いないところだろう。

定家の歌の「みねに烟の立ち初めけむ」のように、道造の詩の「みねに灰の煙の立ち初めたか」も、恋のはじまりを告げているのかもしれない。

今年6月、関連する文化財群とともに世界文化遺産に登録された富士山。その名の由来を、あの“かぐや姫”の『竹取物語』に求める説もある。

物語の最後の場面。帝が「后に来てくれ」と嘆願するが、かぐや姫は「私はこの世の者ではありません。もうすぐ使者がまいります」と言って、昇天していく。

この際、かぐや姫は、不死の薬を帝に渡す。しかし「姫に二度と会えないのに、長生きしても何の意味があろう」と帝は嘆き、武士をたくさん使わして、その薬を富士山の頂上で燃やしてしまう。

帝が「不死」の薬を山頂で焼いたから、あるいはたくさんの「武士」が登ったから、「フジ」と呼ばれるようになったというのだ。

すでに見たように、小場晴夫に手紙を出した1カ月余り前の昭和10年8月5日に、道造は「地異とはまたすさまじいもの」と、当時たびたび起こって被害も少なくなかった浅間山の爆発を初めて見て、強い衝撃を受けている。

源氏物語のころから、並び称せられていた浅間と富士という二つの火山。

詩の「火の山の物語と……また幾夜さかは」というのは、『竹取物語』が道造の念頭にあったのだろうか。

それはちょっと深読みのしすぎで、現に、その身でも実体験している、恋愛という心の異変をも含めた「地異」を、「火の山の物語」といっているのだろうか。


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2014年09月24日

「はじめてのものに」⑧ 奏楽堂

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「それは僕のソナチーネだつた」と言った道造の詩の“音楽性”の秘密は、どこに潜んでいるのだろう。その音数律にあるのだろうか。たとえば、第1連目を見ると――

  ささやかな【5音】地異は【3音】 そのかたみに【6音】
  灰を降らした【7音】 この村に【5音】 ひとしきり【5音】
  灰はかなしい【7音】追憶の【5音】やうに【3音】 音立てて【5音】
  樹木の【4音】梢に【4音】 家々の【5音】屋根に【3音】 降りしきつた【5音】

5音が確かに多いようだが、日本語に特徴的な、5音、7音を基調にして3音などの破調を交えながら音楽的なリズムを刻んでいる、というようにはどうも感じられない。

近藤基博は「十四行詩の音楽性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊『立原道造』)という論文で、詩の句末の「に」や「た」に注目している。

〈第一連であれば、一行目「そのかたみに」の「に」音が、二・三・四行中の、「この村に」「灰はかなしい追憶のやうに」「樹木の梢に」「家々の屋根に」といった各句末の「に」音と響き合い、四行目「降りしきつた」の「た」音は、二行目「灰を降らした」の句末にある「た」音と響き合っているといった効果である。

これらはまた、「に」音が、二行目「ひとしきり」の「り」音とイ段音同士の響きを作り、「た」音が、一行目「ささやかな地異は」の「は」音とア段音同士の響きを作り上げて、さらに、こうした響き合いは各連中に留まらず、詩全体の各連各句末、あるいは各句中の音韻と反響呼応し合い、複雑な音韻効果を作り出している。〉

そして〈彼の詩の手法に見られる対句や繰り返しが、詩として脚韻といった側面を目立たせることもあるが、日本語の詩において、単に行末の脚韻を踏み揃えただけではその音韻効果はあまり期待出来ない。

むしろ、頭韻・脚韻を含めて、詩句の中に同音・同段音が連続的に繰り返されることによって音楽的効果を持ち得るのであって、立原の詩ではそれに成功しているのである〉としている。

奏楽堂

音楽性についての細かな分析はともかく、1937(昭和12)年6月26日、道造の詩に今井慶明が曲を付けた組曲「ゆふすげびとの歌」が、上野の東京音楽学校奏楽堂=写真=で演奏されている。テナー独唱・酒井弘、ピアノ伴奏・外猟仲一。

道造は「この方の《ゆふすげびとの歌》は《鳥啼くときに》と《わかれる昼に》のふたつから成ってゐて詩集におさめたソナチーネ・1番とはすこしちがつてゐる」(風信子一)と記している。

曲譜は現存していないようだが、こうして道造の「ソナチーネ」は、音楽になったのである。


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2014年09月23日

「はじめてのものに」⑦ クラヴサン

〈重なりあつた夢は、或る日、しづかに結晶した――

僕は風信子叢書の第一篇に《萱草に寄す》と名づけて、楽譜のやうな大きい本を持つことが出来たのだ。

それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために。二つのソナチーネと小曲・夏花の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカットで飾られた。

《萱草に寄す》のうちソナチーネ一番は《ゆふすげびとの歌》とも名づけられる。萱草はゆふすげである。それは高原の叢で夏のころ淡く黄く咲く花だつた。そしてそれは夕ぐれの薄明かりを愛する花だつた。

僕の村ぐらしの日々はその花の影響の下にあるのを好んだ。この詩集は古い師友と日ごろ敬愛する少い知り人とだけに配つた。はじめてのものゆゑ、人知れずそのおもひを身近に愛したかつたために。

 ……僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたう奇蹟をねがふ。

そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ。〉

前回、少しだけ引用した「風信子(一)」に道造は、詩集『萱草に寄す』についてこのように記している。

「ソナチネ」はふつう、クラシック音楽のジャンルあるいは形式名をいう。バロック音楽では、単に短い器楽曲のことを指していたようだが、古典派以降は、わかりやすくて演奏しやすい短いソナタのことを言うようになった。

ソナタ(奏鳴曲)の小さいもの、というところから「小奏鳴曲」とも訳されることもある。たいてい2楽章か3楽章構成で、最初のほうは通常、ソナタ形式で作られるが、展開部や再現部の一部が省略されたりする。

ソナチネと聞いて私が真っ先に思い出すのは、ピアノの練習に欠かせないクレメンティの作品。それから、以前やっていたギターで挑戦したポンセの「南国のソナチネ」。結局、最後まで弾ききれずに終わってしまいましたが。

クラブザン

クラヴサン=写真、Wikipedia=は、ビアノのように弦をハンマーで叩くのではなく、プレクトラム(爪状のもの)で弾いて音を出す撥弦楽器。フランス語読み由来の呼び名で、英語でいうハープシコード、ドイツ語のチェンバロにあたる。

いま読んでいる「はじめてのものに」に始まり、「またある夜に」「晩(おそ)き日の夕べに」「わかれる昼に」「のちのおもひに」とつづく、《ゆふすげびとの歌》である第1のソナチネ。

そして、小曲(夏花の歌)をはさんで、「虹とひとと」「夏の弔ひ」「忘れてしまつて」からなる第2のソナチネ。これら『萱草に寄す』を構成する詩は、すべて14行詩。それらが、楽譜のような本に収まっている。

確かに『萱草に寄す』を通読すると、一つの微妙な音楽的リズムを刻みながら、クレメンティのソナチネのように言葉がすっと流れてくる。私には、この詩集全体が、一つの「小奏鳴曲」のようにも思われる。

道造きっと音楽が相当に好きだったのだろう。それだけでなく、音楽を、詩という言葉とそのリズムで表現しようとする若々しい意気が「聞こえ」てくるような気もする。


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2014年09月22日

「はじめてのものに」⑥ ソネット

「はじめてのものに」は、4行、4行、3行、3行の14行詩だ。道造の詩には、この形式の14行詩が多い。

これらの14行詩は、しばしば「ソネット」といわれるし、道造自身もそういう呼び方をしている。

けれど私は、「ソネット」と呼ぶのには、なんとなく抵抗を感じる。それは、西洋の3行詩を「俳句」と呼ぶのに似た違和感からかもしれない。

ソネットは14行からなるヨーロッパの定型詩。もともと「小さな歌」という意味があるそうだ。13世紀にそれは、厳格な押韻構成と特定の構造を持つ14行の詩を意味するようになった。

ルネサンス期にイタリアで盛んになり、英語詩にも取り入れられて代表的な詩形のひとつとなった。

本来のイタリア風ソネットは、2つの部分に分けられ、前半の8行で問いを投げかけ、後半の6行で答える。それをつなぐ9行目は、「ターン」の役目を担う。

押韻構成は、前半8行が「abab abab」や「abba abba」、後半6行は「cdecde」や「cdccdc」、やがて「cdcdcd」という変化形も採用される。

シェイクスピア

最も有名なソネット詩人といえば、154篇のソネットを書いたウィリアム・シェイクスピア=写真、Wikipedia=だろう。4、4、4、2行からなるシェイクスピア風ソネットの押韻構成は「abab cdcd efef gg」だ。

ソネットは構成や押韻だけでなく、韻律にも特徴がある。伝統的に、英語詩の場合は弱強五歩格、ロマンス諸語では、11音節かアレクサンドラン(12音節)が広く使われている。

道造の「はじめてのものに」を読むと、それが、イタリア風やシェイクスピア風などヨーロッパのソネットの押韻法によってはいないことがわかる。シラブルをきっちりそろえているわけでもなさそうである。

菅原克己著『詩の辞典』のソネットの項をみると、「14行詩。古いドイツの詩形からから出て、イタリア、フランス、イギリスに伝わった。西洋のものはうるさい約束があるが、日本では14行の詩行を、4、4、3、3、或は、8、6に分けて書く程度で試みられている」とあった。

詩集『萱草に寄す』は、「SONATINE NO.1」、「夏花の歌」、「SONATINE NO.2」の3部に分かれ、「はじめてのものに」は「SONATINE NO.1」の冒頭に置かれている。

この詩集について道造は、「それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために、二つのソナチーネと小曲・夏草の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカツトで飾られた」(「風信子一」)と記している。

私には、道造は“ソネットの詩人”だというより、“ソナチネの詩人”と言ったほうが、ぴったりとはまる。 


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2014年09月21日

「はじめてのものに」⑤ 信濃追分

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

それにしてもタイトルの「はじめてのものに」の「もの」とは、何のことを言っているのだろう。関鮎子ら恋愛の対象となった「女性」のことを指しているのだろうか。それとも「恋の思い」そのものなのか。

この詩が『四季』に掲載される直前の1935(昭和10)年8月5日、道造が2度目の信濃追分滞在をしていたとき浅間山が噴火した。

「けさ浅間の爆発にはじめて立ち会つた。それは雲の絶間から眺められたのだが、りつぱなものであつた。地異とはまたすさまじいものであろう」(猪野謙二あて書簡)。

そんな、すさまじい火山の噴火という「地異」が「はじめてのもの」なのだろうか。

これらどれであったにしても、タイトルとしてはあり得るし、どれでなければならない、ということもない。それらすべてを含んだ抽象的な名詞なのだろう。

実際には、かなり具体的な「もの」を指している。にもかかわらず、こうしたある種の“あいまい化”用法を使うことによって、現実的な意味あいを残しながも、そこから距離を置いて人や物を見つめることができる。

追分

「はじめてのものに」が入った道造の第1詩集『萱草に寄す』について、吉本隆明は次のように記している。

「言語的には指示代名詞や人称代名詞を主語として、日本語よりも印欧語的に繁多に繰返し用いることで、景物や事象を代名詞的世界の水準に抽象し、独特な背景の世界を造りだした。そのあいだにごく少数の具象的な草花の名や事物の名をあしらうことによって〈美〉を構成した」(『吉本隆明歳時記』)

吉本のいう「代名詞的世界」の構築には「もの」だけでなく、「私はひとと/窓に凭れて語りあつた」「そのひとが蛾を追ふ手つきを」と確かな実在性をもちながら代名詞的な表現になっている「ひと」もまた大きく寄与している。

道造は柴岡亥佐雄への手紙で〈エリザベートとのめぐりあひをうたつて、「はじめてのものに」といふ詩を書いた。四季の十一月号に出した。「もしエリザベートたちが見ることなどあつたら。」そんなことを考へて、今まで僕のうたつた世界が、いかにdas Lebenにとほかつたか、わかつたやうに思つた〉と記している。

「ひと」は、道造が実際にエリザベートと呼んでいたのは柴岡の遠縁の横田ケイ子なのだろうか。月光の中でともにモーツァルトを聴いた北麗子かもしれないし、ゆふすげの花と同じ黄色い帯をしめた関鮎子なのかもしれない。

そんなことはどうでもいいといってしまえば、その通りだが、ついそんな詮索ができるのも、この詩の「代名詞的世界」の魅力なのだろう。詩人が、そこまで目論んでいたのか、それとも「代名詞的」な表現にしなければなんらかの支障がでてくる事情があったのか。そんな詮索までも、楽しめる。

ともかく、ある女性をイメージしていることは確かだが、それは「ひと」でしかない。憶測をめぐらして周りがじれったくなりそうなあいまいさの間隙をぬうようにして、初めて本当の恋をする心の小刻みな鼓動が聞こえてくる。

あいまいな代名詞的世界であるがゆえに、その心の波動はよりはっきりと、そして、かなしい追憶のように音をたてて降りしきる「地異」と共鳴して響いてくるように思われる。

*写真は、立原道造の油彩「信濃追分にて」。立原道造記念館所蔵(http://yoshiya1220.blog92.fc2.com/blog-entry-17.html から借用)


harutoshura at 19:00|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月20日

「はじめてのものに」④ ユウスゲ

これまで見てきたように、1934(昭和9)年夏、約1カ月にわたって、信濃追分で初めての村ぐらしを体験した道造。

滞在中に20歳を迎えた帝大生である。当然のごとく、年ごろの女性たちとの出会いがあり、恋心がふくらんでゆく。

そんな一人に、関鮎子がいる。

当時18歳だったとされる鮎子は、追分の本陣「永楽屋」の孫娘で、千葉市で弁護士を開業していた関一二の娘。

親のふるさとの追分に、遊びに来ていた。

道造をに追分に招いた近藤武夫の身の回りの世話を彼女がしていたのがきっかけで、親しくなったようだ。道造は鮎子を連れ立って、村外れの「岐れ道」や遊女の墓などをしばしば散策している。

  あの人は日が暮れると黄色な帯をしめ
  村外れの追分け道で 村は落葉松の林に消え
  あの人はそのまゝ黄いろなゆふすげの花となり
  夏は過ぎ……

その年の『四季』第2号に掲載された道造の詩「村ぐらし」の中に、こんな一連がある。
ユウスゲ

ユウスゲ(夕菅)=写真=は、ユリ科の多年草。初夏、淡黄色のユリに似た細長い花が夕方開き、翌日の午前中にはしぼむ。「黄いろなゆふすげの花」となった「あの人」とは、鮎子のことなのだろうか。

道造はほかに、翌1935(昭和10)年夏の追分滞在では、東大の級友、柴岡亥佐雄の遠縁にあたる横田ケイ子、さらには昭和の大検校といわれた山田流箏曲家今井慶松の次女で、松竹歌劇団の今井静枝(北麗子)とも親しくなり、恋慕の情を抱いていたようだ。

立原道造の研究家、小川和佑は著書『立原道造 忘れがたみ』の中で、〈この三人の信濃追分の少女たちが、立原の詩と散文のなかの一人の少女「ゆふすげびと」であった。立原のこの少女たちとの愛は、いって見れば夢と現実の境界が定かでない立原の夢幻の詩的世界のなかに溶解している〉と指摘している。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲(こえ)が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

私たちがいま読んでいる詩「はじめてのものに」に出てくる「ひと」も、信濃追分で出会った三人の少女たちが、立原の夢幻の詩的世界のなかで溶解している「ゆふすげびと」なのだろうか。


harutoshura at 22:00|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月19日

「はじめてのものに」③ 噴火 

  小諸なる古城のほとり 
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なす繁?(はこべ)は萌えず

  若草も藉くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡邊
  日に溶けて淡雪流る

  あたゝかき光はあれど
  野に滿つる香(かをり)も知らず
  淺くのみ春は霞みて
  麥の色わづかに靑し
  旅人の群はいくつか
  畠中の道を急ぎぬ

  暮れ行けば淺間も見えず
  歌哀し佐久の草笛
  千曲川いざよふ波の
  岸近き宿にのぼりつ
  濁り酒濁れる飲みて
  草枕しばし慰む 

島崎藤村の有名な「千曲川旅情の歌」だ。この詩にも出てくる、ゆったりとした雄大な山容、だがしばしば怒りを顕わにするように噴煙をのぼらせる浅間山は、近くに住んでいる人たちにとって、親しくもあり、畏怖の的でもある特別な存在だ。

長野市出身の私もそんな一人。学生時代も、サラリーマンになってからも、「あさま」の車窓から、幾たび標高2568メートルの浅間山を眺め、励まされたことだろう。

2009_ASAMA

浅間山は三つの火山体で構成され、それらは浅間烏帽子火山群ないし浅間連峰と総称される。一帯は数十万年前から火山活動が活発だった。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定。活動レベルに応じて入山規制をしている。

溶岩流や火砕流をともなう大噴火としては、4世紀、1108年、1783年のものが知られている。だいたい700~800年間隔で大噴火が起こっていると考えられるわけだ。

平安時代の1108年(嘉承3年、天仁元年)の天仁大噴火では30億トンに及ぶ大量の噴出物があったと推定されている。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国(いまの群馬県)一帯に達し、田畑がことごとく埋まった。長野県側にも火砕流(追分火砕流)が、約15キロほどかけ下り、湯川や小諸付近まで達したとされる。

1783年の天明の大噴火は、天仁大噴火ほどの規模ではなかったようだが、降ってきた火砕物によって火事や家の倒壊、用水被害や交通遮断などが起こるとともに、火砕流、岩屑なだれ、泥流などによって浅間山北麓から利根川流域中心に関東平野一帯に大きな被害をもたらした。死者1624人、流失家屋1151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余りとされている。

長い噴火の歴史から見ると比較的落ち着いているとはいえ、現在も小規模な噴火は繰り返し起こっている。夏になると浅間山のふもとの信濃追分に滞在していた道造も、その噴火をいく度か近くで体験した。

信濃追分は、いまの長野県軽井沢町追分。軽井沢町の西端に位置し、御代田町と接している。標高1000メートル、美しい森と畑が広がり、軽井沢の都会チックな華やかさはない。

1934(昭和9)年7月22日、その年に東大の建築学科に入学した道造は、初めて信州の地を踏む。軽井沢駅に降りて、堀辰雄を旧軽井沢のつるや旅館に訪ねるものの、掘はあいにく急用で上京した後で行き違いとなった。だが、掘の依頼を受けていた阿比留信(英文学者)の案内で町を見てまわり、室生犀星宅も訪れている。

23日から25日にかけて、神津牧場、志賀、岩村田、小諸をまわり、25日夜から8月20日まで追分にとどまり、初めて“村のくらし”を体験する。そのころの印象が、次のような詩からもうかがえる。

     静物

  堡塁のある村はづれで
  広い木の葉が揺れてゐる

  曇つた空に 道は乾き
  曲ると森にかくれた 森には
  いりくんだ枝のかげが煙のやうだ

  雲が流れ 雲が切れる
  かがやいてとほい樹に風が移る

  僕はひとり 森の間から
  まるい石井戸に水汲む人が見えてゐる
  村から鶏が鳴いてゐる ああ一刻 夢のやうだ

*写真は、浅間山小規模噴火(2009年2月2日撮影、気象庁の浅間山火山防災連絡事務所のHPから)


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2014年09月18日

「はじめてのものに」② 建築科

立原道造=写真=は1914(大正3)7月30日、立原貞次郎、トメ夫妻の長男として日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)に生まれる。荷造り用の木箱製造を家業としていた。「立原」は母方の家系で、近い祖に水戸藩の儒者立原翠軒、画家立原杏所がいる。

道造

1919(大正8)年、5歳のとき父の死去により家督を相続するが、家業は母が取り仕切り、後に弟の達夫が継いでいる。

1927(昭和2)年、東京府立第三中学校に入学。まだ13歳だったが、アートや文学など旺盛な活動をはじめる。パステル画に抜群の才能を発揮したほか、国漢教師の橘宗利について作歌を学び、北原白秋を訪ね、口語自由律短歌を『学友会誌』に発表。自選の歌集『葛飾集』、『両国閑吟集』、詩集『水晶簾』をノートにまとめている。

1931(昭6)年、第一高等学校理科甲類入学。当初は、天文学を志していたという。一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に続けて投稿する。物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載され、学内で注目される。秋には堀辰雄を識り、以後兄事するようになる。

1932(昭7)年には同人誌『こかげ』を創刊。一高文芸部の編集委員に選ばれ、杉浦明平らの上級生に伍して活躍する。この年に『さふらん』、翌年、『日曜日』、『散歩詩集』と続けて手づくり詩集を作る。

1934(昭9)東京帝国大学工学部建築学科に入学。岸田日出刀の研究室に所属した。1学年下に丹下健三や浜口隆一が、2学年下に生田勉がいた。この年、同人誌『偽画』を創刊。夏、初めて軽井沢を訪れ、それから毎夏、信濃追分の油屋に滞在するようになる。室生犀星、萩原朔太郎を識る。

この年、堀辰雄を中心に創刊された『四季』(第2次)に、三好達治、丸山薫、津村信夫とともに編集同人となる。第2号に組詩「村ぐらし」「詩は」を発表し、詩壇に登場することになる。

1935(昭10)年には、課題設計「小住宅」で、建築の奨励賞である辰野賞を受賞。同人誌『未成年』を創刊。そして、立原の詩作の主要な舞台となった『四季』の11月号に「はじめてのものに」を発表している。

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

詩を発表した前年から夏を過ごすようになっていた信濃追分は、世界有数の活火山、浅間山(標高2,568メートル)のふもとにある。道造が訪れていた当時も、しばしば噴火を繰り返し、灰を降らし、山火事を起こし、空振で戸障子やガラスが破損するといった被害も少なくなかった。

そんな「地異」がもたらした灰が「かなしい追憶のやうに 音立てて」降りしきった村で、若い二人は、灰を降らせた山の見える「窓に凭れて語りあつた」。怖いもの知らずの青春。詩人は、なんとなく別れを予感させる恋の中にいる。


harutoshura at 16:30|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月17日

「はじめてのものに」① 『四季』

きょうから、ふたたび日本の近代詩人の作品にもどります。

     はじめてのものに

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

立原道造(1914~1939)の「はじめてのものに」は、第2次『四季』の12号〈1935(昭和10)年11月号〉に発表されている。

『四季』は、昭和を代表する同人詩誌の一つ。1933(昭和8)年に堀辰雄らを中心に創刊されたが、2号だけでおわった「第1次」から、1984(昭和59)年に創刊し1987(昭和62)年の第11号で終刊となった「第5次」まで、通算すると半世紀以上にわたって昭和の有力な抒情詩人たちの創作の舞台となった。

なかでも1934(昭和9)年に創刊、戦中の1944(昭和19)年の第81号まで続いた「第2次」の同人には、堀をはじめ三好達治、丸山薫、津村信夫、井伏鱒二、桑原武夫、神西清、神保光太郎、竹中郁、田中克己、辻野久憲、中原中也、萩原朔太郎、室生犀星などが名を連ねる。『四季』が絶頂期を迎えた時期だった。

立原は堀に才能を認められ、第2号に「村ぐらし」を発表して詩壇に登場する。その後『四季』は、立原にとって作品発表の主要な場であり、創作のよりどころとなる。

『四季』に「はじめてのものに」を発表したとき、道造は21歳。東京帝国大学工学部建築学科の学生だった。掲載された「第2次」の昭和10年11月号は、次のようなラインナップになっている。

  短編「詩と雄弁について11(アラン)」 桑原武夫訳 
    散文詩「夜が私に歌って聞かせた・・・(ジャム)」 三好達治訳 
    詩「『未成年』といふ雑誌の扉におくる」  丸山薫 
  詩「はじめてのものに・またある夜に」 立原道造 
    詩「詩人は辛い」 中原中也
    詩「日暮の街」 竹村俊郎
    随筆「詩人の故郷」 辻野久憲
  感想「燈下言」 三好達治 
    詩「何でもない詩抄」 竹中郁
    詩「その人」 蔵原伸二郎
    詩「夏の嘆き」 伊東静雄 
    詩「嵐」 笹沢美明
    詩「三十歳」 村野四郎
    詩「挽歌」 内田忠
    詩「巷の風・八月にしるす・後醍醐天皇の島」 杉山平一
    詩「四季だより」 Y・K 
    感想「僕の言葉」 三好達治

「はじめてのものに」は、『四季』に発表された2年後の1937(昭和12)年5月に出た、第1詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』に収められた。

わすれ草

『萱草に寄す』は、まるで楽譜のような感じの大きな本だ。「SONATINE NO.1」「夏花の歌」「SONATINE NO.2」に分かれて、合わせて10篇の詩から成っている。

道造は『萱草に寄す』について〈「ソナチネ」(小ソナタ、小奏鳴曲)それも「クラヴサンとフルートのソナチネだ」〉と述べている。そんな第1詩集の冒頭を飾っているのが「はじめてのものに」だ。


harutoshura at 14:59|PermalinkComments(0)立原道造 

2014年09月16日

「犯罪者」④ 鉄環絞首刑 

 『カスティーリャの野』にある「犯罪者(UN CRIMINAL)」の粗訳のつづきです。今日は最後の、10、11連。 

 弁護士は長広舌をふるって弁護する
手で机を打ちつけながら
書記は紙に落書きをしている
 そのあいだ検事は関心なさげに
誇張した声高の弁論を聞いている
 ざっと裁判記録を読み直したり
 かと思えば指で金縁のめがねの
澄んだレンズを撫で回したりしながら

廷吏は「救済される余地はない」という
若いカラスは寛大な措置を待ち望む
大衆 絞首台の肉体 厳格な
正義は悪人を罰することを待っている

h4

El abogado defensor perora,
 golpeando el pupitre con la mano;
 emborrona papel un escribano,
 mientras oye el fiscal, indiferente,
 el alegato enfático y sonoro,
 y repasa los autos judiciales
 o, entre sus dedos, de las gafas de oro
 acaricia los límpidos cristales.

 Dice un ujier: «Va sin remedio al palo».
El joven cuervo la clemencia espera.
 Un pueblo, carne de horca, la severa
 justicia aguarda que castiga al malo. 

スペインでは、鉄環絞首刑(Garrote)という、椅子に座らせた死刑囚の首を鉄の輪で絞めて後ろを捻ることで首を絞める絞首刑で死刑を執行していた。この方法は、拷問道具としても使用される。
 相当に残酷な方法で、映画『サルバドールの朝』の中でサルバドール・プッチ・アンティックへ執行される様子が詳細に再現されている。
 死刑囚のかなりがETA(数多くのテロ事件を起こした民族組織「バスク祖国と自由」)だ。ETAが仲間の死刑執行の報復として1973年12月にルイス・カレロ・ブランコ首相を暗殺するなど大きな社会問題も起きている。
1974年3月2日に2人に対して死刑が執行されたのが最後。1978年に新憲法が承認され、立憲君主制に移行すると同時に死刑制度が廃止された。


2014年09月15日

「犯罪者」③ スミミザクラ

 『カスティーリャの野』にある「犯罪者(UN CRIMINAL)」の粗訳のつづきです。今日は7~9連。

 狙っているのは財産の相続 ああ懐かしい
緑と薄暗い果樹園のスミミザクラにクルミ
 そして夏の穀物倉をいっぱいにした
白麦の金色の刈り穂

そしてかれは壁にだらりとぶら下がった
斧を思い出すのだった ぎらぎら光り
鋭く研がれた 根元から切った
 オークの枝から薪を作る頑丈な斧を

………………………………………

被告人の前には 古ぼけた喪服のような
 ゆったりとした服を着た裁判官たち
 そして暗い眉間と卑俗な表情で
列をなして連なる陪審員たち

h3

Quiso heredar. ¡Oh guindos y nogales
 del huerto familiar, verde y sombrío,
 y doradas espigas candeales
 que colmarán las trojes del estío!.
 Y se acordó del hacha que pendía
 en el muro, luciente y afilada,
 el hacha fuerte que la leña hacía
 de la rama de roble cercenada.
 .......................................
 Frente al reo, los jueces con sus viejos
 ropones enlutados;
 y una hilera de obscuros entrecejos
 y de plebeyos rostros: los jurados.

*スミミザクラ(酸実実桜、学名:Prunus cerasus)は、ヨーロッパや南西アジアに自生するバラ科サクラ属サクラ亜属に属する植物。セイヨウミザクラに近いと考えられるが、スミミザクラの実のほうが酸味が強く、料理に用いられる。 
 木の高さは、4-10m。枝がたくさん生え、実は黒っぽく、その茎は短い。赤黒い果実を生らすレッドモレロ種と、明るい赤色の果実を生らすアマレル種がある。
スミミザクラの果実は酸っぱいため生食には不向きだが、スープや豚肉料理などに使われることが多い。砂糖と調理することで、酸味を抑え香りや風味を引き出すことができる。
スミミザクラの果実のシロップ、あるいは実そのものを使ったジュースやリキュール、デザート、保存食もある。  


2014年09月14日

「犯罪者」②  ブドウ畑

 『カスティーリャの野』にある「犯罪者(UN CRIMINAL)」の粗訳のつづきです。今日は4~6連。

かれの犯罪はひどいものだ ある日
世俗の本にも神の書にもうんざりして
ラテン語の転置法の誤りを正している
無駄な時間が重くのしかかるように感じた

 かれは可愛い女の子に恋をした
 ブドウ畑の黄金の液体のように
恋情は頭にまでのぼせ上がり
生来の残忍さを呼び起こしたのだ

夢のなかに――ほどほどの資産をもつ
農民である――両親が炉端の赤い輝きに
顔を火照らせているのを見た
日焼けした田舎者らしい顔を

h2

Fue su crimen atroz. Hartóse un día
 de los textos profanos y divinos,
 sintió pesar del tiempo que perdía
 enderezando hipérbatons latinos.

 Enamoróse de una hermosa niña,
 subiósele el amor a la cabeza
 como el zumo dorado de la viña,
 y despertó su natural fiereza.

 En sueños vio a sus padres ―labradores
 de mediano caudal―iluminados
 del hogar por los rojos resplandores,
 los campesinos rostros atezados.

ブドウ畑は、ワインの原料となるブドウを生産する農場。ワイン醸造用以外の加工用・生食用ブドウや、ブドウ狩りに供するためのブドウを生産する農場を指すこともある。
ブドウ栽培は、紀元前3000年ころ、カフカース地方から地中海東部沿岸地方にわたる地域で、セム族あるいはアーリア人によって始められとされる。最初の栽培種はヨーロッパブドウで、ワイン醸造も同時に始められた。
その後、セム族はエジプトへ、アーリア人はインドへ、それぞれブドウ栽培とワイン醸造を伝えた。旧約聖書(創世記9章20節)には、ノアがアララト山にブドウ畑を作ったと記されている。
ブドウは、排水や保水がいいレキを含んだ重い土壌を好む。比較的やせていて生育期に雨が少ない土地で良い果実が得られる。世界のブドウ生産地では、垣根仕立て、棒仕立てが多いが、日本では多雨多湿な気候に適する棚仕立てにして、木を大きく育てる。 


2014年09月13日

「犯罪者」①  ブルゴス

 『カスティーリャの野』にある「犯罪者(UN CRIMINAL)」の粗訳に入ります。今日は1~3連。

 被告は青白くヒゲも生えていない
眼にはどんより曇った火が燃えている
子どもっぽい顔つきやおとなしく
信心深い態度にそれはそぐわない

陰うつな神学校の保守的雰囲気
 慎み深い気質 それに地面や祈祷書を
見下ろすくせを残している

罪人の母なる
 マリアの帰依者
 身分の低い聖職を
素早く得たブルゴスの得業士

h1

El acusado es pálido y lampiño.
 Arde en sus ojos una fosca lumbre,
 que repugna a su máscara de niño
 y ademán de piadosa mansedumbre.

 Conserva del obscuro seminario
 el talante modesto y la costumbre
 de mirar a la tierra o al breviario.

 Devoto de María,
 madre de pecadores,
 por Burgos bachiller en teología,
 presto a tomar las órdenes menores.

ブルゴス(Burgos)は、カスティーリャ・イ・レオン州、ブルゴス県の県都。サンタ・マリーア大聖堂(ブルゴス大聖堂)=写真=は、ユネスコの世界遺産に登録され、中世の英雄エル・シッドとその妻などが埋葬されている。

アルランソン川沿いにある、バスクとカスティーリャ地方を結ぶ交通の要所。古代からケルト人の集落があったが、9世紀末、アストゥリアス王国によって城塞都市が建設された。標高850メートル程度の丘陵地帯にあり、レコンキスタ(再征服運動)の軍事上の根拠地となった。

11世紀からはカスティーリャ王国の都。エル・シッドの出身、活躍の地とされ、街にはエル・シッドの像が建てられている。スペイン内戦では、フランコ側の拠点となった。街の郊外にはアタプエルカ遺跡があり、人類化石が出土している。 


2014年09月12日

「スペインの地へ」④  ケンタウロス

 『カスティーリャの野』にある「スペインの地へ」の粗訳の続き。きょうは、最後の7連目と8連目です。

これらの野の守護神は血なまぐささと残忍さだ
黄昏が近づいてくると遠い小さな丘の上に
 ひとりの射手の姿が君らに大きく見えるだろう
矢を構えた巨大なケンタウロスのような

君たちに見えるのは戦いの平原と禁欲者たちの荒野
――聖書にいう楽園はこの野にはなかったのだ――
ワシのためにある大地 カインの影が
 さすらい横ぎる惑星の切れ端なのだ

s4

El numen de estos campos es sanguinario y fiero: 
 al declinar la tarde, sobre el remoto alcor, 
 veréis agigantarse la forma de un arquero, 
 la forma de un inmenso centauro flechador. 

 Veréis llanuras bélicas y páramos de asceta 
—no fue por estos campos el bíblico jardín—: 
son tierras para el águila, un trozo de planeta 
 por donde cruza errante la sombra de Caín.

ケンタウロスはギリシャ神話で、上半身は人体、下半身は馬の形の怪物。テッサリアのペリオン山に住み、ラピテス族と争って滅ぼされたとされる。いて(射手)座は、アルテミスから狩猟を学んだケンタウロスであるケイローンが弓を引く姿として親しまれている。ヘーラクレースが誤って放った毒矢が当たり、苦痛のためゼウスに死を願い、彼の死を悼んで天に上げられて星座となった。 勇者オーリーオーンを刺した功績で星座とされたさそりが、天上で暴れたときのため、いて座の弓は常にひかれたままであるとされている。

いて座は、黄道十二星座の1つ。冬至点や銀河の中心がこの星座の領域にある。銀河系の中心がある方向なので、天の川の密度はこの付近が最も濃い。いて座は、シュメール文明に起源を持つ。バビロニアのネブカドネザル1世時代(紀元前1300年頃)のものとされる境界石標に、射手とサソリが合体し羽根を生やしたサソリ人間として描かれている。 アシュールバニパル時代にはパ・ビル・サグと呼ばれ、半人半馬でサソリの尾を持った姿で「ギルガメッシュの叙事詩」にも登場する。 


2014年09月11日

「スペインの地へ」③ 大罪

 『カスティーリャの野』にある「スペインの地へ」の粗訳の続き。きょうは5連目と6連目です。

くすんだだぶだぶの服の下に卑怯な魂を隠し
狂った悪徳や獣のような犯罪を犯しかねない
七つの大罪の虜であるような
田舎の 村落の悪人は数知れない

妬みや悲しみにいつも濁った眼で
獲物を見張り隣人の得るものに涙を流す
逆境に耐えることも豊かさを享受することもない
幸運も不幸もかれを傷つけ苦しめるのだ

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Abunda el hombre malo del campo y de la aldea, 
 capaz de insanos vicios y crímenes bestiales, 
 que bajo el pardo sayo esconde un alma fea, 
 esclava de los siete pecados capitales. 

 Los ojos siempre turbios de envidia o de tristeza, 
 guarda su presa y llora la que el vecino alcanza; 
 ni para su infortunio ni goza su riqueza; 
 le hieren y acongojan fortuna y malandanza. 

七つの大罪は、キリスト教の西方教会、おもにカトリック教会における用語。罪そのものというよりは、人間を罪に導くと見なされてきた欲望や感情のことを指すもので、日本のカトリック教会では七つの罪源と訳している。
 現代の「カトリック教会のカテキズム」では、「七つの罪源」について、ヨハネス・カッシアヌスやグレゴリウス1世以来伝統的に罪の源とみなされてきたものとして言及され、高慢、物欲(貪欲) 、ねたみ(嫉妬)、憤怒 、貪食、色欲(肉欲)、怠惰。 
ダンテの叙事詩、『神曲』煉獄篇でも、煉獄山の七つの冠で、死者がこの罪を清めることになっている。
2008年、ローマ教皇庁は新たな7つの大罪として、遺伝子改造、人体実験、環境汚染、社会的不公正、貧困、過度な裕福さ、麻薬中毒を上げている。

 *写真は、ヒエロニムス・ボスの『七つの大罪と四終』  


2014年09月10日

「スペインの地へ」② エストレマドゥラ

 『カスティーリャの野(CAMPOS DE CASTILLA)』にある「POR TIERRAS DE ESPAÑA(スペインの地へ)」の粗訳の続き。きょうは3連目と4連目です。

メリノ羊の群れを 街道で埃にまみれ
陽を浴びて金箔を帯びた放牧の家畜たちを
肥沃なエストレマドゥラへと導く羊飼いたち
 それは粗野な旅人たちの血を引く息子たちだ

小柄ですばしこく 辛抱強いがずる賢い
 くぼんで疑い深く はしこいその眼
 肉付きの悪い 大弓のアーチのような顔
 頬骨は突きだし 眉はひどく太い

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Es hijo de una estirpe de rudos caminantes, 
 pastores que conducen sus hordas de merinos 
 a Extremadura fértil, rebaños trashumantes 
 que mancha el polvo y dora el sol de los caminos. 

 Pequeño, ágil, sufrido, los ojos de hombre astuto, 
 hundidos, recelosos, movibles; y trazadas 
 cual arco de ballesta, en el semblante enjuto 
 de pómulos salientes, las cejas muy pobladas. 

エストレマドゥーラ州(Extremadura)は、スペインを構成する自治州。北はカスティーリャ・イ・レオン州、東はカスティーリャ=ラ・マンチャ州、南はアンダルシア州、西はポルトガルと接している。州都はメリダ。

 北部にはタホ川、南部にはグアディアーナ川が流れる。モンフラグエ自然公園があり、野生動物が保護されている。メリダには多くのローマ建築が残されている。

 「エストレマドゥーラ」の語源は「ドゥエロ川の向こう」。キリスト教諸国から見たドゥエロ川以南のイスラム支配地を指した。レコンキスタの初期にはドゥエロ川のすぐ南がエストレマドゥーラだったが、レコンキスタの進展とともに南下し、最終的に現在のカセレス県とバダホス県の地域がエストレマドゥーラと呼ばれるようになった。

 大航海時代にエストレマドゥーラは、コルテス、ピサロ、ペドロ・デ・バルディビアなど多くのコンキスタドールの出身地となった。このため、アメリカにはエストレマドゥーラの地名にちなんだ都市が多い。メキシコやベネズエラには「メリダ」の名を持つ都市がある。

 *写真は、http://www.spanien-heute.de/extremadura.html から。


2014年09月09日

「スペインの地へ」① カシ

 次に『カスティーリャの野(CAMPOS DE CASTILLA)』にある「POR TIERRAS DE ESPAÑA(スペインの地へ)」をこれから数回に分けてみていきます。きょうは最初の2連。

松林を焼き払って そこに残ったものを
戦利品のように見張っているこの畑野の主は
このあいだ黒カシの林を根絶やしにし
山並みのがっしりしたオークの林を切り倒したばかり

いまの彼は哀れな子どもたちが家を捨て
嵐が畑の土を泥土と化して 畏敬すべき川の
まにまに洗い流していくのを見送っている
そして呪われた荒地に働き 苦しみ 彷徨う

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El hombre de estos campos que incendia los pinares 
 y su despojo aguarda como botín de guerra, 
 antaño hubo raído los negros encinares, 
 talado los robustos robledos de la sierra.

 Hoy ve a sus pobres hijos huyendo de sus lares; 
 la tempestad llevarse los limos de la tierra 
 por los sagrados ríos hacia los anchos mares; 
 y en páramos malditos trabaja, sufre y yerra. 

*カシは、ブナ科の常緑高木の一群の総称。常緑性であり、葉には表面につやがあり、鋸歯(葉の縁のギザギザ)を持つものが多い。コナラ亜属の常緑性のカシは、温暖だがやや乾燥した地域に多く、東から東南アジア以外にも南ヨーロッパやアメリカ大陸にも分布する。
樹皮が黒いカシには、イチイガシ・アラカシ・ツクバネガシなどがある。 


2014年09月08日

「ドゥエロ川のほとりにて」⑧ イタチ

  詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第6連です。

きのうの覇者 惨めなカスティーリャは
 ぼろ切れに身を包み 知らないものすべてを軽蔑する
日が沈んでゆく 遠い街並みから
心地よい鐘の音が私のところまで届く
――喪服の老婆が祈りに赴くところなのか――
岩山の影からかわいらしい2匹のイタチが現れて
私を見つけて逃げるように遠ざかり また
姿を見せる 物珍しいのか! 野は暗くなってゆく
白い道のかなたに 宿場が見える
 たそがれの野と不毛の岩地のかたわらに

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*イタチ=写真、wiki。 食肉目イタチ科イタチ属に属する哺乳類。日本でイタチというとふつうニホンイタチ (学名:Mustela itatsi)を指すが、この場合のイタチは、日本ではイイズナ、コエゾイタチと呼ばれている種類(学名:Mustela nivalis)にあたる。
 食肉目最小の種。北米、北アフリカ、ユーラシア大陸中部から北部に広く分布し、日本では北海道、青森県、岩手県、秋田県に分布する。雄は頭胴長14-26cm、尾長1.6-3.5cm、体重25-250g[3]。雌は雄よりやや小さい。夏は背側が茶色で腹側が白色。冬は全身純白になる。
 気性が荒くて動きは俊敏。深い森林や平野、田畑などに棲む。ネズミ類が主食だが、小鳥、昆虫類、両生類、死肉も食べる。 


2014年09月07日

「ドゥエロ川のほとりにて」⑦ レヴァント

 詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第5連の後半です。

   修道院のスープで身を養う哲学者たちが
  平然として広大な天空を覗き見ている
  夢の中で彼らを 遥か遠くのざわめきのように
  レヴァントの桟橋の商人の叫びが襲ってきたとしても
  駆けつけて行って「どうしたの」と問うことはないだろう
  すでに戦いがその家の扉を押し開いたというのに

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*レヴァントは、東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。広義にはギリシャ、トルコ、シリア、キプロス、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルを含む地域を指すことが多い。もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。

 肥沃な三日月地帯の西半分にあたるレバントは、最初の農耕が始まった場所とされる。かつて東部地中海沿岸のアナトリアからシリア、パレスチナ、エジプトにかけては多数の富裕な港があり、イタリアのヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ピサ、アマルフィなど海洋都市国家は競ってこれらの港と貿易を行い、その利益をめぐり互いに戦争を行うほどだった。

この貿易をレヴァント貿易(東方貿易)と呼び、その港のある東部地中海沿岸をレヴァントと呼んだ。イタリアの海洋都市国家がレヴァントとの貿易で輸入したのは、これら地中海沿岸で生産された農産品や織物もあったが、遠くインドや東南アジア、中国、あるいはアフリカからなどから運ばれてきた絹、スパイス、胡椒、象牙など高価で希少な、ヨーロッパではぜいたく品とされた品々が主だった。 


2014年09月06日

「ドゥエロ川のほとりにて」⑥ エル・シッド

  詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第5連の前半です。

 往時には多くの名将の生みの母であったというのに
 いまや卑しい荷物運びたちのまま母でしかなくなってしまった。
ミオ・シッド・ロドリーゴ・デ・ヴィバールは
新たな幸運と豊かな財宝をもって
誇り高く凱旋し アルフォンソ王へ
 バレンシアの果樹園を贈った。
あるいは その武勇の信を高めた冒険の後には
西インド諸島の大河の征服を請うたのだ
大鴉のように獲物を狙い 獅子のごとくに戦い
銀貨 黄金を華麗な帆船に満載して
 スペインへと帰還するであろう兵隊 
 戦士 武将らの母である宮廷へと

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ミオ・シッド・ロドリーゴ・デ・ヴィバールは通称エル・シッド(El Cid、1045年? - 1099年6月)11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族で、叙事詩『わがシッドの歌』の主人公として知られる。
ブルゴスの北にある小さな町ヴィバールで生まれる。シッドの父はディエゴ・ライネスと呼ばれていたことが知られ、幾つかの戦いに参加した軍人である事が知られている。
 若き日のシドは、そういった縁もあって、サンチョ2世付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。1063年の春頃にグラウスの戦いが起こり、シッドはサンチョ2世と共にこの戦いに参加している。
サンチョ2世は1072年に暗殺されてしまう。その首謀者ともされるアルフォンソ6世が王位を継ぐと、シッドはカスティーリャから追放されてしまう。追放の後も、彼を慕う多くの兵士達が集った。シッドはバレンシアの征服に乗り出し、1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回する。バレンシア平定後、シッドは幽閉されていた妻子を呼び寄せた。その後5年間の統治を経て亡くなっている。

 *写真は、エル・シッドの肖像画(1791年)WIKIから 


2014年09月05日

「ドゥエロ川のほとりにて」⑤ カスティーリャ

 詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第4連です。

きのうの覇者 惨めなカスティーリャは
 ボロきれを身にまといながら 知らないものすべてを軽蔑する
待っては眠り あるいは夢みて? 剣に熱を帯び
身を焼いていたころ まき散らされた血を思い出すのか?
すべてが動き 流れ 移り 走っては回る
海も山も それらを見つめる眼も変わる
 これで終わりなのか? いや 神を戦いへと導いた
民族の焼き印を捺された幽霊がまだ野をさまよっている

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カスティーリャ(Castilla)は、スペインの歴史的な地域名。中世にカスティーリャ王国に属していた地域の中心部を指す。
 現在、地方行政区分としての「カスティーリャ」は存在しない。
だがカスティーリャ・イ・レオン州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州の2つの自治州に「カスティーリャ」の名称が使われている。
もともとはカンタブリアの南、ブルゴスを中心とする地域を指した。9世紀以降のレオン王国によるレコンキスタの最前線となった地域で、イスラム教徒に対抗して城(カスティーリョ)が数多く建てられたため、「カスティーリャ」の名が付いた。
 11世紀初め、ナバラ王サンチョ3世はカスティーリャ伯領を併合したが、その死後に領土が分割相続され、カスティーリャ王国が誕生した。
カスティーリャ王国とレオン王国は同君連合となり、12世紀から13世紀にかけてイベリア半島中部と南部の征服を進めた。
 1479年にはアラゴン王国と同君連合となってスペイン王国が成立した。
 伝統的に旧、新、2つのカスティーリャに分かれる。旧カスティーリャは10世紀にカスティーリャ伯領が置かれた地域を中心とし、新カスティーリャは11世紀にアルフォンソ6世が征服したトレド王国の領域である。
 1978年憲法で自治州制度が導入されてからは、旧カスティーリャとレオン地方は合わせてカスティーリャ・イ・レオン州となり、カンタブリア州とラ・リオハ州が分離した。新カスティーリャはマドリード州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州に分けられた。
カスティーリャ王国の発展、カスティーリャ王権がその後の統一スペインで中心的役割を果たしたため、カスティーリャ地方で話されていたロマンス語が、現在のスペイン語(español)、国家の言語となった。  


2014年09月04日

「ドゥエロ川のほとりにて」④ オーク

 詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第3連の後半部分です。

ドゥエロはイベリアとカスティーリャの
 オークの木の芯を縦断している
 ああ 悲しくも貴い大地よ
高原と荒野と岩だらけの
鋤を使うことも小川も木立もない耕地
 老いさらばえた町村 宿屋のない街道
そして 踊ることも歌うこともない放心の田舎者たち
消えかかった暖炉を カスティーリャを捨てて
 その長大な川のように なおも海へと向かってゆく

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*オーク(roble)=写真=は、落葉樹であるナラと常緑樹カシの総称。ヨーロッパナラが代表的。数百種以上が知られ、亜熱帯から亜寒帯まで北半球に広く分布する。
ヨーロッパのオークの多くは日本でいうナラ。カシは南ヨーロッパ以外ではまれだ。明治時代の翻訳家が落葉樹のオークをカシと誤訳したため、いまも混同されやすい。
 加工しやすく、ヨーロッパでは家具や床材、ウィスキーやワインの樽の材料などに広く使われる。
 木肌は中程度から粗めの堅い木材で、木目がはっきりし、特に柾目面に美しい模様として現れる。
 虎斑(とらふ)と呼ばれる虎の斑紋のような模様が現れることも特徴だ。
ヨーロッパナラの葉はカシワに似た特徴的な形で、オークリーフという意匠として知られている。  


2014年09月03日

「ドゥエロ川のほとりにて」③ メリノ種

 詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第2連の後半部分です。

 私は地平線が カシやコナラが茂る
薄暗い丘で閉ざされているのを見た
 さらけ出された岩だらけの土地 メリノ羊が牧草を食み
雄牛が 草野上にひざまづいて反芻を繰り返す
河川のまわりでは 夏の明るい太陽のもと
 ポプラ並木の緑が輝いている
 なんと小さな!――荷車 騎手 荷車引き――
それらが長い橋を渡っていくのを そして
石でできた橋のアーチの陰影のなか流れる
 ドゥエロ川の銀色の水を見た

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*メリノ種の羊は、 紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。イベリア半島では、土着のウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種が登場した。

 理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えることになった。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。だが18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出。羊毛生産におけるスペインの優位性が失われることになった。

イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせ、新産業がおこった。1796年、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアの主流であるメリノ種の始祖になったといわれている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた。

メリノ種はいずれも、乾燥した土地に適し、毛質は優れているが、産肉性は劣るとされている。 


2014年09月02日

「ドゥエロ川のほとりにて」② ソリア

 詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて)」のつづき、第2連のはじめの部分です。

 威厳のある翼をゆっくりと広げたハゲタカが一羽
 澄み切った青空を孤独な姿で過ぎった
私ははるか遠くに見た 高く鋭く切りたった峰を
彫りものの模様のついた盾のような丸い丘を
褐色の地にもり上がった紫色の小さな丘を
――戦いで甲冑の残骸が散らかっているだけの――
ドゥエロ川が湾曲して流れる禿げた山々を
 それらはソリアを囲んで射手の胸にたわむ大弓を形どる
――ソリアはアラゴンに対する城門を守るやぐらだ
 カスティーリャの塔を備えている

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*ソリア県(Provincia de Soria)は、スペインの北部に位置する県でカスティーリャ・イ・レオン州東部にある。東側にアラゴン州のサラゴサ県と接している。県都はソリア。スペインの50ある県の中でも人口が最も少ない。人口密度は9.2人/km²、EUの中でも最も人口の少ない地域のひとつ。人口は95,101人(2009年)で、県人口の41.6%が県都ソリアに居住する。
 平均高度は1,025mで、北部にはこの地の気候を条件づける山地=写真=が広がっている。 


2014年09月01日

「ドゥエロ川のほとりにて」① タイム

 「カスティーリャの野(1907-1917)」(CAMPOS DE CASTILLA)の2番目の詩「A ORILLAS DEL DUERO」(ドゥエロ川のほとりにて」を、何回かに分けて読んでいきます。

   ドゥエロ川のほとりにて

(第1連)

 7月の半ば 晴れわたった日だった
私はひとり 岩山の割れ目をよじ登っていった
日影にになる岩の角をたどってゆっくりと
 ときおり立ち止まっては額の汗をぬぐい
荒い息づかいを整えるべく休息をとって
 あるいはまた 歩きを速めて前かがみになり
右手にかたむいた体を 牧人の杖のような
一本の棒っきれにあずけながら
高みにいる強欲な鳥どもが巣喰うという岩山を
強烈なにおいを放つ山の藪の中へと
足を踏み入れていった――ローズマリー、タイム、サルビア、ラベンダー――
荒野には灼熱の太陽が照りつけていた

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*タイム (thyme) =写真=はシソ科イブキジャコウソウ属 (Thymus) の植物の総称。樹高40センチメートルほどの小低木で、ハーブの一種として知られる。原産はヨーロッパ、北アフリカ、アジア。日本ではタチジャコウソウのことを一般にタイムと呼ぶことが多い。花は頂部末端に集中し、長さ4–10ミリの白、ピンク、または紫の花冠を持つ。
 古代エジプトでは、ミイラを作る際の防腐剤として使われていたとされる。ギリシャ人は、タイムが勇気を鼓舞すると信じ、入浴時や神殿で焚く香として使った。中世には、悪夢を防ぎ安眠を助けるようにと、枕の下に敷かれた。また、女性はしばしば騎士や戦士にタイムの葉を添えた贈り物をした。