2014年04月

2014年04月30日

「おえふ」⑤ 清涼殿

 「おえふ」の第4連からです。宮中に仕えての生活が描かれていきます。

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

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詩は、「雲むらさき」すなわち紫雲たなびく宮中へと導かれていきます。むかし中国では、王城の門を九重にしたため、「九重」は宮中の別称としても用いられますが、ここでは大宮内(宮中)を強調するための修飾語として九重を用いています。

「清涼殿」=写真=は、平安京の内裏にある殿舎のひとつ。平安中期には天皇の御殿とされるようになり、日常の政務のほか、四方拝、叙位、除目などの行事も行われました。建物は九間四面で、屋根は檜皮葺の入母屋造。

「雲を彫め濤を刻り」というのは、浜に寄せる波のように雲がかたちを浮きぼりにさせながら寄せてくる様子を、「霞をうかべ日をまねく」は、漢詩文のイメージを生かし、自然の景にたくして、豪華な宮殿の高くそびえる何層もの高楼のさまを表現しているのでしょう。

「玉の台」(たまのうてな)は、玉台すなわち、天帝の住まいにある美しい楼台のこと。広壮雄大な宮殿を形容しています。


harutoshura at 22:30|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月29日

「おえふ」④ 白菫

「おえふ」の生い立ちをうたった最初の3連をもう一度、読みなおしておきましょう。

処女ぞ経ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば

水静なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり

都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな

シロスミレ

以下にあげるのは、吉田精一著『藤村名詩鑑賞』による解説です。

最初の3連は、夢多い幼少年の時代が、それにふさわしいほのぼのとしたことばとしらべをもって歌われている。

  処女ぞ経ぬるおほかたの
  われは夢路を越えてけり

という物語的な歌い出しも、この場合ふさわしい。その次の、

  わが世の坂にふりかへり
  いく山河をながむれば

というのは、あとにあるように平穏な、破綻のない生涯を展開するのであるから、幾らかものものしすぎる表現である。しかし山必ずしもけわしいとはかぎらず河もまた激流とはかぎらぬから、多く非難するにも当らない。とにかくこの第1連で、彼女の半生を絵巻物のようにくりひろげる準備をしたのである。次の、

  水静なる江戸川の
  ながれの岸にうまれいで
  岸の桜の花影に
  われは処女となりにけり

  都鳥浮く大川に
  流れてそゝぐ川添の
  白菫さく若草に
  夢多かりし吾身かな

は、多少重複する所もあるが、桜や、白菫によそえられるこの女性の美しさは、さこそと想像されるであろう。平凡に似ているが、私はこの2連を美しいと思う。「岸の桜の花影に」人となり、「白菫さく若草」をかりてうっとりと夢見勝ちな日を送ったおえふは、心もおっとりとした、ゆたかな家の生れであることが思われる。


harutoshura at 19:30|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月28日

「おえふ」③ ユリカモメ

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女〈をとめ〉となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮く大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草に
夢多かりし吾身かな

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「おえふ」の2連目と3連目です。「江戸川」は、隅田川にそそぐ神田川の上流を指します。「大川」は、東京湾に注ぐ全長23.5kmの隅田川のこと。こうした生い立ちに関する川べりの描写は、青少年のころ隅田川のほとりの浜町で過ごした藤村自身の想いが託されているのでしょう。

「都鳥」は、現在の和名でミヤコドリと呼ばれる鳥ではなく、古来から和歌に詠まれているように、ユリカモメ=写真、wiki=を指していると考えられます。『伊勢物語』の「九段 東下り」には、

なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

とあります。隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤く、シギくらいの大きさ、魚を食べる水鳥とすれば、藤村のこの詩にもぴったり合いそうです。

「白菫」すなわちシロスミレは、スミレ科の多年草。スミレに似ていますが葉数は少なく2枚ほどで、地面から伸びる花柄に直径2センチほどの白い花をつけます。


harutoshura at 04:52|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月27日

「おえふ」② いく山河

「おえふ」は七五調の1連4行12連からなる物語詩的な作品です。まずは1連目から読んでいきます。おえふは、お葉の仮名書き。当時は、女性のごく一般的な名前だったようです。詩は、この架空の未婚少女の生い立ちから始まります。1連目は、次のようになっています。

  処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
  われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
  わが世の坂にふりかへり
  いく山河〈やまかは〉をながむれば

山河

最初の2行は、世の中のたいていの少女たちが過ごすような夢多き日々を、わたしも重ねてきましたという述懐でしょう。

「われは夢路を越えてけり」の「て」は、後の『早春』では「に」に改められ、「われは夢路を越えにけり」とやわらかな響きになっています。

「わが世の坂にふりかへり」とは、けわしい人生行路のなかで、過去をかえりみることができるような一つの「峠」に至って、そこから眺めているのでしょう。

「いく山河」というのは山あり谷ありの人生行路。それは、おえふの言葉であるとともに詩人自身の人生を見つめたものでもあるのでしょう。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月26日

「おえふ」① 六人の処女

きょうからしばらく、藤村の第1詩集『若菜集』の冒頭に出てくる詩「おえふ」を読んでいきます。

この詩は『文学界』48号(明治29年12月)に、総題「うすごほり」と題して発表された6篇(ほかに「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)の最初に置かれています。

『若菜集』に収録された際には総題は省かれましたが、大正6年に出された『改刷版藤村詩集』には「六人の処女」という総題が付けられ、昭和11年の『早春』には「六人の処女一~六」として収められています。

都鳥

   おえふ

処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河〈やまかは〉をながむれば

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮うく大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草〈わかぐさ〉に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿〈せいりやうでん〉の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる曉星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名なの夕暮ゆふぐれに消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲ゆふぐもとほき友を恋〈こ〉ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に來きて見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづか〉にて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命いのちに堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな


harutoshura at 16:30|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月25日

『若菜集』「序」

藤村の『若菜集』は、ひらがなで綴られた次のような「序」にはじまります。五七調のゆったりとしたリズムで、4行1連、3連構成です。

こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ

ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ

そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと

ぶどう棚

さらに序詩につづいて、次のような前書きがあります。

「明治29年の秋より30年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は若葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若葉なるをや。」

1896(明治29)年の秋から翌1896(明治30)年の春にかけて、ということは、藤村が東北学院に赴任して仙台に居たときに作った詩を集めたことになります。

1896年10月には母の死に直面し、故郷を再認識した時期でもありました。『若菜集』が春陽堂から出版されたのは1896年8月のこと。

それは「若葉のかげ深きころ」ではあるけれども「吾歌はまだ萌出しまゝの若葉」であるという思いが込められた詩集だったのです。


harutoshura at 17:00|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月24日

処女詩集

1894(明治27)年5月の北村透谷の自殺について、藤村は後年「その惨憺とした戦ひの跡には拾つても拾つても尽きないやうな光つた形見が残った」(「北村透谷二十七回忌に」)と回想しています。

1895(明治28)年、こうした身辺の打撃や文学上の懐疑から、もう一度、勉強をやり直すことを思い立って「大学選科に入る準備」を開始。12月には明治女学校を退職しています。

1896(明治29)年9月には、明治女学校の同僚小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に赴任します。同学院に籍を置いたのは1年足らずで、翌1897年7月には辞職して帰郷しますが、「仙台へついてからといふものは、自分の一生の夜明けがそこではじまつて来たやうな心持を味ひました」(「『若菜集』時代)と回想しています。

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そしてこの年の8月、第1詩集『若菜集』=写真=を春陽堂から刊行します。七五調を基調とし、冒頭の"六人の処女"(「おえふ」「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)をはじめ、有名な「初恋」、「秋風の歌」など51編が収録。日本におけるロマン主義文学の代表的な詩集として文壇の注目を集めることになります。

『若菜集』について藤村は「『若菜集』は私の文学生涯に取つての処女作と言ふべきものだ。その頃の詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩歌はまだまだ遠い先の方に待つているやうな気がしたが、兎も角も先蹤を離れやう、詩歌といふものをもつともつと自分等の心に近づけやうと試みた。黙し勝ちな私の口唇はほどけて来た」(『改訂版藤村詩集』序)と記しています。


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2014年04月23日

透谷の死

1908(明治41)年10月に出た藤村の長編小説の『春』には、という長編小説があります。二葉亭四迷の勧めで同年4月7日から8月19日まで「東京朝日新聞」に連載、10月に緑陰叢書第2篇として自費出版されました。

春

藤村初の自伝的小説で、そのころ盛んに詩文を発表していた「文学界」の創刊ごろの同人たちとの交流を通して、理想と現実に悩み、苦しみながら、それぞれの道を模索する青春の姿が描かれています。

藤村自身がモデルと考えられる主人公の岸本捨吉は、教え子である勝子(モデルは佐藤輔子)を愛したため、職を捨てて旅に出たものの同人雑誌の創刊の話を聞いて、戻ってきます。

しかし捨吉や同人たちを待っていたのは、俗世の打算を打ち破り自由を求めようとする葛藤と挫折でした。そんな中、捨吉が心から尊敬していた先輩である青木が自殺して、大きな衝撃を受けます。

青木のモデルになったのは、北村透谷でした。透谷は、英国から来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトの影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴。1889年には日本平和会結成に参画し、機関誌『平和』に寄稿するなどしていました。

しかし次第に国粋主義へと流れる時勢にあって、評論『エマーソン』を最後に、日清戦争勃発直前の1894(明治27年)年5月16日、芝公園で首吊り自殺をします。25歳5カ月の若さでした。

そんな尊敬する先輩の死後、「共同の事業」に疲れてきた「文学界」の同人たちの中にあっても「自分は自分だけの道路(みち)を進みたい」と思う捨吉は作家として生きることを決意し、一切を捨てて東北の学校へ赴任するのでした。


harutoshura at 15:30|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月22日

輔子

明治学院を卒業した藤村は、友人の世話で東京四谷にあった明治女学校高等科の英語の教師になりました。1892(明治25)年の9月、藤村21歳のときのことです。

翌年、交流を結んでいた北村透谷や星野天知の雑誌『文学界』に参加して、同人として劇詩や随筆を発表します。

ところが、まもなく藤村は、教え子の佐藤輔子=写真=という1歳年上の生徒を愛してしまいます。

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輔子の父親は、岩手県の花巻出身で、第1回岩手県選出国会議員の佐藤昌蔵。国会議員となった父に伴って上京、明治女学校に通学するうち英語の教鞭をとっていた藤村と相知ることになったのです。

輔子には親の定めた鹿討豊太郎という許婚者がいて、藤村との板ばさみの恋に苦しみました。明治28年5月、鹿討豊太郎とともに札幌に移り住みました。

その年の8月、24歳で病死しています。ちなみに北海道大学総長を務めた佐藤昌介は、輔子の異母兄にあたります。

輔子を愛した藤村は、教師として自責の念からキリスト教を棄教し、辞職します。その後関西へとあてのない旅に出ます。1894(明治27)年には女学校に復職しましたが、兄事した北村透谷の自殺という衝撃的なできごとに遭遇するのです。

当時のことは、後に『春』に描かれます。この小説で佐藤輔子は、捨吉の恋人の勝子のモデルとされています。


harutoshura at 11:30|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月21日

透谷との出あい

明治20年、藤村が入学したころの明治学院は西欧風の教育が特徴で、教授陣もほとんど外国人でした。在学中は馬場孤蝶や戸川秋骨と交友を結び、台町教会で木村熊二によってキリスト教の洗礼を受けています。

学生時代には、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ワーズワースなど西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典や、二葉亭四迷の『あいびき』や『めぐりあい』、森鴎外の諸作品など、近代文学の黎明を肌で感じつつ、自らを啓蒙していきました。

「樹木の多い、静かな場所」だった開校当初の学院について「学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いたものだ。自然というものが、私の眼に映り始めたのも丁度其時分であった」(「明治学院の学窓」)とも記しています。

明治学院を卒業後は、巌本善治の主宰する『女学雑誌』の編集を手伝い、同誌に翻訳文を発表するなどして文学の道を歩み始めます。とりわけ同誌を介して知った北村透谷からは、文学的にも精神的にも決定的な影響を受けることになります。

透谷

北村透谷(1868-1894)=写真、wiki=は、本名は北村門太郎。相模国足柄下郡で没落士族の家に生まれ、両親とともに上京して東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。

1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学。自由民権運動に参加しましたが、大阪事件の際に同志から活動資金を得るため強盗をするという計画の勧誘を受けて絶望、運動を離れました。

1889年『楚囚の詩』を自費出版しましたが、出版直後に後悔し自ら回収。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明しました。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は藤村に衝撃を与えたといわれています。1893年に創刊された『文学界』誌上には「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆していました。


harutoshura at 04:36|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月20日

明治学院

馬籠村の庄屋の家に生まれた藤村は、1878(明治11)年、6歳のとき神坂学校に入ります。このころから学問好きの父正樹から『孝経』や『論語』の素読を受けています。

1881(明治14)年、9歳のとき、三兄友弥とともに上京し、京橋区鎗屋町(現在の中央区銀座4丁目)の、長姉そのの嫁ぎ先である高瀬薫方に寄宿。泰明小学校に通いました。

高瀬一家が木曽福島へ帰郷してからは知人の家などに身を寄せて、幼くして独りで生きていかなければならなくなります。

小学校を卒業した後の明治19(1886)年には、同郷の武居用拙から『詩経』『春秋左氏伝』の教授を受けています。また絵画に親しんだり、ナポレオン伝を読んで政治家にあこがれたりもしていたようです。

さらに三田英学校(錦城学園高等学校の前身)、共立学校(開成高校の前身)など、当時の進学予備校で学び、明治20(1887)年、16歳のとき、創立したばかりの明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)へ入りました。

明治学院

明治学院=写真、wiki=の起源は、1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」にさかのぼります。1880年には築地へ移転、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設けられました。

1883年には、横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称し、大学と予備科を整える学校となりました。後に予備科は神田淡路町へ移転し「英和予備校」となっています。

一方、1877年には、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立されています。

1886年にはこれら、一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」となることが決定。翌1887年には、設立の認可が下りました。

これによって東京一致神学校は「明治学院邦語神学部」に、一致英和学校、英和予備校はそれぞれ「明治学院普通部本科」および「予科」へと名前を変更。キャンパスは、荏原郡白金村(後に芝区白金今里町=現在の港区白金台)に設けられました。


harutoshura at 13:00|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月19日

父・正樹

藤村の父、島崎正樹(1831-1886)は天保2(1831)年5月4日、信濃(長野県)馬籠宿の本陣、そして庄屋、問屋をかねた家に生まれました。

系譜によれば島崎氏は、相模国三浦の出。永正10(1513)年、島崎監物重綱が木曽氏に仕えてその祖となり、その長男七郎左衛門重通が永禄元年(1558)木曽馬籠に移って郷士となったそうです。

正樹

正樹は重通から降って17代に当たります。23歳で、隣村妻籠の本陣から同族の島崎与次右衛門重佶の妹ぬいを娶り、四男三女をもうけました。その末子が藤村ということになります。

正樹は幼くして四書五経の句読をうけ、長じて中津川の医師馬島靖庵に国学を学びます。文久3(1863)年には江戸の平田鉄胤の門をたたき、平田派国学の門人に加わりました。これが終生彼の思想の拠り所となります。

尊皇攘夷の波が、木曽谷の山中にまで押し寄せてくる時代でした。皇女和宮御降嫁の通行、水戸天狗党の武田耕雲斎一行の西上、中山道鎮撫総督の東征の通行など、正樹は草莽の士としてこれらを応援し歓迎しました。

維新後は戸長、学事掛をへて教部省考証課雇員になります。一方で、政治的な活動にも関与しています。

禁伐林とされた木曽山林の明山の解放、官有地と民有地の境界再調査、補償金の下付請願などを明治政府に求めた木曽の山林解放運動を展開。明治7年には、天皇の輿(こし)に憂国の歌をかいた扇をなげた疑いで、不敬罪に問われました。

正樹は明治新政府に大きな夢を抱いていました。しかし時代の流れは、彼の国粋思想、拝外思想とは相容れなかったようです。また、旧家の特権が奪われ、山林解放運動に頓挫するなど、家政の衰運はとどめようもありませんでした。

時代の歩みから取り残された正樹は悶々として、ついに発狂してしまいます。晩年、岐阜県水無神社宮司をしていましたが、帰郷して明治19年11月29日に死去します。満55歳でした。


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2014年04月18日

騒動

「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」と宣言した島崎藤村の「新体詩」とはいったいどのようなもので、"明治"という近代化の時代にあって、それはどのように生まれていったのでしょう。

そんな、このブログのテーマを探る旅のはじめにまずは、藤村というひとの生い立ちをしばらく眺めてみることにしましょう。

藤村

島崎藤村=写真、wiki=は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村に、大作『夜明け前』のモデルともされる父・正樹と、母・縫の4男として生まれました。

筑摩(ちくま)県は、藤村が生まれた前年の1871(明治4)年に、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置されています。現在の長野県の中信・南信地方、それに岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたります。

1874(明治7)年、馬籠村は湯船沢村と合併して神坂村になります。さらに1876(明治9)年には、筑摩県の信濃国分が長野県に、飛騨国分は岐阜県に編入されたため筑摩県は廃止。

これによって藤村が生まれた馬籠は、長野県筑摩郡神坂村に入ることになりました。その後、1958年(昭和33)年の合併で、西筑摩郡山口村に編入。このとき「島崎藤村」騒動ともいわれる大きな騒ぎが起こっています。

神坂村議会は当初「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決しました。しかし「文豪島崎藤村の生誕地を岐阜県に持っていかれたら大損失」と長野県議会が、これに猛反発。

村は越県合併派、県内合併派に分裂していがみ合い、とうとう警察の機動隊が常駐する始末になりました。最終的に国の裁定で「越県合併を認めるが、馬籠など北部3集落は長野県に残す」というかたちで幕引き、馬籠は西筑摩郡山口村に編入されました。

1968(昭和43)年には、西筑摩郡は木曽郡と改称されて、長野県木曽郡山口村にある木曽谷の馬籠宿として観光客の人気を集めます。ところが平成の大合併で再び越県合併の話が持ち上がり、山口村は2005年、岐阜県中津川市に越県合併されることになりました。


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2014年04月17日

「椰子の実」

私が子どものころから親しんできた『現代詩』(学燈社)で、吉田精一は島崎藤村の『若菜集』(1897)を、「近代詩のあけぼのを告げ、詩もまたじゅうぶんに芸術的要求を満たす表現様式であるということを証明した」と位置づけています。さらに、

「藤村は一方では西洋の死、ことに英詩から学び、一方では『古今和歌集』以来の和歌の伝統、芭蕉以降の俳諧、さらには杜甫・李白の漢詩など、東洋の叙情から生命をくみあげ、西洋的なものと、伝統的なものとを、一つにとけ合わせて新しい詩集を組み立てたのである」

「藤村の詩は五七調、もしくは七五を基準とし、それ以外の破格が少ない。詩語も詩情も自然でなだらかである。その詩情は優美で、せつない物のあわれを、胸いっぱいにつつみながら、ひかえめに表現するところに、純情なうたいぶりが強い。なげきとためいきの激しさが、彼の恋愛詩や、漂泊の旅情をうたうにふさわしい」

などとしたうえであげているのが、有名な「椰子(やし)の実」です。

ヤシの実

  名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ

  故郷(ふるさと)の岸を 離れて
  汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

  旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる

  われもまた 渚(なぎさ)を枕
  孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて 胸にあつれば
  新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

  海の日の 沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

  思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
  いずれの日にか 国に帰らん

吉田は「この詩は、漢詩調の体言止めによって、感傷の激しさをうち出すのに成功している」としています。


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2014年04月16日

「潮音」

さて、マチャードからふたたび国内にもどり、きょうから当分のあいだ島崎藤村の詩を読んでいくことにします。

    潮音

  わきてながるゝ
  やほじほの
  そこにいざよふ
  うみの琴
  しらべもふかし
  もゝかはの
  よろづのなみを
  よびあつめ
  ときみちくれば
  うらゝかに
  とほくきこゆる
  はるのしほのね

潮騒

これは、島崎藤村の最初の詩集『若菜集』に入っている一篇です。

「ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね」。そんな春の潮騒のように、明治という"青春"の時代に、日本の近代詩は産声を上げました。

島崎藤村(1872-1943)は、『若菜集』(1897年8月)を皮切りに、『一葉舟(ひとはぶね)』(1898年6月)、『夏草』(1898年12月)、『落梅集』(1901年8月)の4詩集を立て続けに出版、さらに4冊を合本した『藤村詩集』を1904年9月に出しています。

「若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に」という前書きが付いた『藤村詩集』の「自序」は、有名な「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」という文句で始まります。

日本の近代詩の"誕生宣言"とも受け取ることもできる若々しく意気軒昂な「自序」を、とりあえずここにあげておきましょう。その内容については、折に触れて少しずつ検討していきたいと思います。書かれたのは、明治37(1904)年夏となっています。 

〈遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。

 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
 明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。

 新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。

 詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
 なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。

 誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

 われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
 藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。

 あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。〉


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)島崎藤村 

2014年04月15日

「アルバルゴンサレスの地」㊦ 水

このロマンセで際立っているのが、川の流れをさかのぼってたどり着く源流の泉から、底の無い沼にいたるまで、「水」によって醸し出される比類のない映像的、聴覚的な効果でしょう。

試みに、このロマンセの自然描写のカギになると思われる単語がどれくらい使われているか調べてみると、次のようになりました。

カスティーリャの自然の基調をなすと考えられる「山(monte)」、「谷(valle)」、「松林(pinar)」はそれぞれ6回、「岩(roca)」や「樫(roble)」は3回ずつ。

一方、水にかかわる単語では「水(agua)」が13回、「沼(laguna)」10回、「泉(fuente)」9回、「ドゥエロ川(Duero)」6回、「川(río)」5回などとなっていました。

自然描写のなかでも特に「水」に関する記述を重視し、特別な役割をもたせていることがうかがえます。

アグア

殺人者の2人の兄弟がドゥエロ川の上流へと向かい、ラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着く最後の場面「人殺し(Los Asesionos)」 には、次のような描写があります。

アルバルゴンサレスの 上の2人の息子
フアンとマルティンは ある日
夜明けとともに ドゥエロ川の
上流をめざして 重苦しい道をゆくことにした
Juan y Martín, los mayores
de Alvargonzález, un día
pesada marcha emprendieron
con el alba, Duero arriba.

明星が 青みがかった
空に瞬いていた
谷や渓谷を埋めた 濃く白い霧が
薔薇色に染まっていた
鉛色の雲が
ドゥエロ川の水源となる
ウルヴィオンのそそり立つ峰を
ターバンのように取り巻いていた
La estrella de la mañana
En el alto azul ardía.
Se iba tiñendo de rosa
La espesa y blanca neblina
de los valles y barrancos,
y algunas nubes plomizas
a Urbión, donde el Duero nace,
como un turbante ponían.

かれらは泉に近づいた
澄んだ水が流れていた
流れはまるで 千回も言い古された
昔話をつぶやいているようだった
そしてこれから千回も
繰り返すことになるだろうと
Se acercaban a la fuente.
El agua clara corría,
sonando cual si contara
una vieja historia, dicha
mil veces y que tuviera
mil veces que repetirla.

野をよぎって流れる水は
その単調さでものがたる
「私は犯罪を知っている 犯罪ではないのか 
水のほとりの 生命への」
Agua que corre en el campo
dice en su monotonía:
Yo sé el crimmen, ¿ no es un crimen,
cerca del agua, la vida?

2人の兄弟が通りかかると
綺麗な水がまた語りかけた
「泉のかたわらで
アルバルゴンサレスは眠っていた」
Al pasar los dos hermanos
relataba el agua limpia:
“A la vera de la fuente
Alvargonzález dormía.”


暗みがかった空にまたたく星。険しい岩山、闇に包まれた松林、深い谷底。そんな中から沸き立ってくる「水(agua)」の声がやがて人を暴き立てます。

「alba」「arriba」「alto azul ardía」などと、前半で語頭が「a」の単語を並べて頭韻的な響きを作り出しています。

「千回(mil veces)」のリフレインをはさんで、招きこむように「水(agua)」が四つ繰り返され、殺人の「証人」である泉は、目撃した犯罪について語っていきます。告発者の川は声高らかに罪をあばいていくのです。

それがやがて村人の耳に届き、川の水が音を立てて流れるように、犯罪を告げるコプラ(短詩)が人々の口から口へと伝えられていくことになります。

「泉から沼までの水による聴覚的効果は全てに勝っている」 のです。

ロマンセでは、殺人を犯した2人の心のうちを記述するのに長行を費やしている。彼らは自分たちが犯した恐ろしい行為を十分に承知して後悔します。

薄暗い森の中で2人は、罪を犯したあの日を思い出して震え出します。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」で詩人は、自分のあり方を宇宙的な時間にまで広げたときにどのように位置づけられるかを、スペイン国民ひとりひとりに問いかけているようにも思えます。

そして、その答えは、後に生きる人々の問題として未来に開かれているのです。

世界と人間の生を問いながら、アルバルゴンサレスの地、すなわちカスティーリャ性の「黒沼」に埋没しているスペインの人びとに対して、再生への指針をほのめかした作品と言えるのかもしれません。

詩集『カスティーリャの野』にセットで入っている散文とロマンセの「アルバルゴンサレスの地」は、前にもふれたようにストーリーは極めてよく似ています。

ただ一つ決定的に違うのは、末の子ミゲルの運命です。

散文のほうではミゲルは兄たちに殺されてしまうのですが、ロマンセでは生きながらえます。

生き続けることでミゲルは、父親の生をふたたび生きなおすことになるのです。

ミゲルは、父親と同じように幸せな結婚をして、父親が耕した同じ土地を耕します。

ロマンセの終わりは始まりへとつながり、次の世代による「再生」を予感させます。

そこにはマチャードのカスティーリャへの、すなわちスペインに対して抱いている願いが込められているように思われます。

良きものを殺してしまった「家」にあっても、そこが終焉なのではなく、次の世代へと受け継がれてゆくものが残っているのです。

詩人はそこに、希望を見いだそうとしているように思われます。

「千回も言い古された 昔話をつぶやいているよう」に、「そしてこれから千回も 繰り返すことになるだろうと」というように、カスティーリャには「澄んだ水」が繰り返し、繰り返し流れていくのです。

2014年04月14日

「アルバルゴンサレスの地」㊥ 黒い沼

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」は、実際の出来事にインスピレーションを得て作られました。芸術性の高い創造の産物ですが、ロマンセの特徴である写実性やルポルタージュ的性格も備えています。

ヴィヌエサから遠くないところにあることになっているアルバルゴンサレスという場所は見あたりませんが、イアン・ギブソンによれば「地名を創作するうえで、ソリアとブルゴスの県境に位置するヴィジャルヴァロの村名が影響している可能性がある」 といわれます。

父親が投げ込まれ、2人の兄弟が自殺を遂げる作品の舞台「黒い沼(laguna Negra)」=写真=は、実際にウルヴィオン山麓の標高1.753m に存在します。ただし、底なし沼というのは伝説で、実際の深さはせいぜい10m程度のようです。

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イアン・ギブソンによれば、マチャードがソリアにやってきた1907年春から、この付近では森林火災がひっきりなしに起こり、近くの町村で殺人や凶暴な犯罪も続きました。

マチャードは1910年秋、地域の友人たちとドゥエロ川を上って、暴風雨の中、ウルヴィオンの山頂を踏破するなどしています。ロマンセの舞台となるドゥエロ川源流へのこうした旅がきっかけとなって、「松林で覆われた地」で起こった凶悪事件をかなり注視していたようです。

「10月初旬の朝、彼はドゥエロ川の源流まで上ってみることを決心して、ブルゴスからシドネスまで行く乗合車にソリアで乗った。運転手の近くの前の列には、メキシコから、松林に囲まれた辺境にある生まれ故郷の村へ帰る“アメリカ帰り”、それに、2人の息子を連れてプラタに向かう、バルセロナから来た老いた農民が乗っていた。違う言葉を話す人たちと出あうことなくカスティーリャの草原を横断することはできない。“アメリカ帰り”はベラクルス訛りで私に話しかけた。また私の耳には、運転手と最近起こった犯罪について論じている農民の話が聞こえてきた。ドゥエロ川沿いの松林の中で、1人の若い羊飼いが人を刺し殺し、強姦までしていたのが見つかった。農民は、ヴァルデアヴェラノの金持ちの牧場主を、野蛮な悪事をした疑いようのない犯人としてソリアの刑務所に収監するように告発した。しかし、犠牲者が貧乏だったという理由で正義が信用されなかった」

と、マチャードは回想しています。

かつてはあたりで一番恵まれていたものの、いまでは狼が徘徊する惨めなアルバルゴンサレスの村。

詩人は、あるときは慎ましく善良に生きる彼らの姿を肯定的に見つめ、またあるときは、彼らの内に潜む醜い心に目をこらし、貧相な価値観に根ざす道徳性をあばき出します。

いずれにしてもマチャードは彼らの生の奥底に、ある種の悲しみを感じ取り、同じ人間として孤独な荒地に暮らす姿がいたたまれなく思われたのでしょう。

  野に働く人々には
  カインの血が多量に流れている
  Mucha sangre de Caín
  Tiene la gente labriega,

と作品の冒頭(「導入部分」のⅢ)で歌われます。

カインとその弟アベルは、旧約聖書の創世記(第4章)にあるアダムとイヴの子。カインは長じて農耕を営み、アベルは羊飼いになりました。

2人は供え物をしますが、主はアベルとその供え物は顧みたものの、カインのほうは顧みませんでした。カインはそれに憤って、アベルを野に誘い殺してしまいます=写真、wiki。

人を殺すという犯罪の始まりです。ロマンセを語るにあたり、カスティーリャの田舎で起こった悲劇の語り部はまず、カインの血をもつすべての人間に対して問いを投げかけているわけです。

物語が進むにつれて読者は、アルバルゴンサレスの村の出来事にスペインの骨格であるカスティーリャの姿を重ねて見ることを余儀なくされます。

「98年世代」の詩人は、アルバルゴンサレスの地にスペインを見ているのです。

父親の時代のアルバルゴンサレスの地は、かつての黄金期のスペインであり、目前にひろがる荒廃したアルバルゴンサレスの地は、すべてを失って行き先の見えない、いまの貧しいスペインなのです。

アルバルゴンサレスの地の荒廃の歴史は、すなわちスペインの荒廃の歴史に重なってきます。良きものを殺してしまった結末が、荒れ果てすさみきったスペインの現在なのです。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」では、ゴツゴツとした岩山におおわれたカスティーリャの荒涼たる自然が克明に描き出されています。

それらがむしろ主体性を持っているかのように物語に割って入り、ときに醜さや脆さをさらけ出す人間なる存在の営みを浮き彫りにしているようにも思えます。

2014年04月13日

「アルバルゴンサレスの地」㊤ あらすじ

きょうからしばし、アントニオ・マチャードのロマンセについて検討します。マチャードのロマンセ「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzález)」は、以前ふれたように、「善良な農夫アルバルゴンサレスの強欲な息子2人が、父の財産すべてを手に入れようと、父を殺して底なし沼へ投げ込む。その後2人は、呪われた日々の中で絶望し、父が沈む沼んでいる身を投げる」というあらすじの物語です。

初稿には「盲人のロマンセ」という副題が付けられ、「ラ・レクトゥラ(読書)」という雑誌の1912年4月号に掲載されました。その後、修正がくわえられて、最終的な形態では「ファン・ラモン・ヒメネスへ」という添え書きが付けられました。

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10章構成で、総行数は712行になります。 ここでは、その構成と内容をざっと眺め、第1章(①)から順に要約していきます。

① 導入部分 Ⅰ(16行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(20行)、Ⅳ(16行)

中くらいの財産の持ち主、この地では“お金持ち”と呼ばれていた若者アルバルゴンサレスが縁日のある日、1人の娘に惚れて1年後に結婚した。

結婚式は、笛、太鼓、ギター、マンドリンの音が村中に流れ、ヴァレンシア風の花火、アラゴンの踊りなど豪華なものだった。

アルバルゴンサレスは、土地を愛し幸せに暮らしていた。3人の子を授かり、ひとりを果樹園の仕事に、もうひとりを羊飼いに就かせ、末っ子を教会に入れた。農民たちの家には「カインの血」が流れている。

この田舎の家でもそうだった。家に来た2人の兄の嫁は、子を産む前に不和の種を生んだ。田舎者の強欲さは遺産相続の分け前では満足せず、欲しいものを手に入れようとする。

末っ子は教会へ入ったものの、ラテン語よりも娘たちのほうが好きだった。ある日、僧服を脱ぎ捨てて遠い国へ渡った。母は泣き、父は財産の分け前を与えて幸運を祈った。

アルバルゴンサレスのいかつい額には、皺が刻み込まれていた。秋のある日、彼は1人で家を出た。澄んだ泉にたどり着き、その傍らで眠り込んだ。

ひきつづき、第2章(②)と第3章(③)の要約です。

② 夢(El sueño) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(10行)

家の戸口で子供たちが遊んでいる。上の2人の間からカラスが飛び立った。妻が縫い物をしながら見守っている。かまどに薪が積み上げられている。

長男が火をつけようとするが、炎は燃えあがらない。弟が柏の幹の上に燃えやすい小枝を投げるが、燠火は消えてしまう。

末っ子が台所の煙突の下で火をつけると燃え上がり家中を照らす。アルバルゴンサレスは末っ子を膝の上に座らせ、お前がいちばん可愛いという。

物思いにふけり、出て行った2人の兄に、斧の刃がきらめく。

③ あの夜…(Aquella tarde...) Ⅰ(8行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(18行)、Ⅳ(12行)、Ⅴ(6行)、Ⅵ(8行)

息子たちは澄んだ泉のほとりで、眠り込んでいる父親を見た。父は眉をしかめる。その顔は斧の傷跡のような暗い影に曇っている。

息子たちが彼を刺し殺す夢を見る。目が覚めると夢がほんとうだったことに気づく。アルバルゴンサレスは、心臓と脇腹を4回、短刀で刺され、首に斧の一撃を受けた。

2人の殺人者は、ブナの森へと逃げ込み、ドゥエロ川の源流にあるラグナ・ネグラ(黒沼)まで死者を運ぶ。そして足に石をくくりつけて墓石とし、彼らは父を沼に沈めた。

底なしの沼に、近くの村人たちは近づこうとはしなかった。ドゥエロ川をぶらぶらしていた行商人が罪を負わされ、縛り首になった。数カ月後、母親が心痛で息絶えた。

こうして息子たちは、1軒の羊小屋、庭、麦畑、ライ麦畑、上等な草の生えた牧場、古い楡の木の上のミツバチの巣箱、鋤を引かせる2組の馬、番犬1匹を手に入れた。

そして、第4章(④)から第6章(⑥)までは――

④ またの日々(Otras días) Ⅰ(18行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(24行)、Ⅳ(18行)、Ⅴ(48行)

アルバルゴンサレスの2人の息子たちは険しい坂道を通り、灰色のラバに乗ってヴィヌエッサの松林の中を進んでいった。

彼らは家畜を見つけて村へ連れて帰ろうと、ドゥエロ川をさかのぼり、石橋のアーチを渡り、賑やかなインディオの町を後にした。

川の流れは谷底で鳴り響き、ラバの蹄鉄が石をたたく。ドゥエロの向こう岸では悲しげな声が歌っている。

「アルバルゴンサレスの土地は、豊かな稔りに満たされるだろう。しかしこの土地を耕した男は、この土地の下に眠っていない」

⑤ 罰(Castigo) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(30行)

畑には血の色をしたヒナゲシが生えた。黒穂病がカラス麦と小麦の穂を腐らせた。遅霜が果樹園の果樹を花のうちに枯らした。

さらに不運が襲い、羊たちを病気にした。アルバルゴンサレスの息子たちは、土地に呪われた。窮乏した1年間の後には、悲惨な1年がつづいた。

ある冬の夜、2人の息子は消えかかった燠火をじっと見つめていた。薪もないし、眠れもしない。寒さはつのる。燻るランプ。

風に揺られた炎が2人の殺人者の思いにふける顔に、赤みを帯びた光を投げる。しゃがれたため息をつきながら沈黙を破って、兄が叫ぶ。なんという悪事をおれたちは働いたことか!

⑥ 旅人(El viajuero) Ⅰ(12行)、Ⅱ(10行)、Ⅲ(10行)、Ⅳ(28行)、Ⅴ(18行)

突風の中をひとりの男が馬でやってきた。「ミゲルです」。遠い国へ出かけていった末の弟の声だった。海の向こうへ冒険を求めてアメリカ大陸へと渡り、財産をつくって帰ってきたのだ。

父親に似て堂々としていた。彼はみんなに愛され、たくましかった。3兄弟は黙って、寂しい炉を見つめている。「兄さん、薪はないんですか」とミゲルが尋ねると、「ないんだよ」と長兄。

そのとき鉄の閂でしっかり閉められた扉を1人の男が開けた。男は父の顔をしている。薪の束をかつぎ、手には鉄の斧。金色の火の輪が、その白髪を縁取っている。

 最後に、第7章(⑦)から最終章(⑩)までを要約します。

⑦ アメリカ帰り(El indiano) Ⅰ(30行)、Ⅱ(12行)

ミゲルは、この呪われた土地の一部を兄たちから買った。信念と情熱に燃えて土地を耕し、黄金色の穂、重い小麦の実をつける。ミゲルの畑には豊かな夏がやってきた。

それでも村から村へと語られていく。殺人者たちの呪いが彼らの土地には刻まれているのだ、と。ある晴れた午後、ミゲルは猟銃で武装し、2匹の猟犬を連れて、街道の緑のポプラ並木を歩いていった。

すると歌声が聞こえてきた。「あの人は土の中に葬られていない。死んだ父親を彼らは運んだ。レヴィヌエサの谷の松林の中をあのラグナ・ネグラ(黒沼)まで」

⑧ 家(La casa) Ⅰ(74行)、Ⅱ(55行)

アルバルゴンサレスの家の周りには、風に吹かれて、楡の木の葉が散り敷いている。教会の広場の3本の丸いアカシアの枝には、まだ緑が残っている。

実をつけたマロニエは、ところどころ葉が抜け落ちている。ふたたびバラの木は赤い花をいっぱいにつけ、秋の東屋は牧場の中で陽気に輝いている。

おお、スペインの真ん中、アルバルゴンサレスの地よ。貧しい土地よ。悲しい土地よ。あまりに悲しく、この土地には魂があるようだ。

草原を狼がよぎってゆく。月の光に吠えながら。森から森へ。崩れ落ちた岩がごろごろして、人の気配もない。

そこに禿鷹に啄まれた白い遺骨が光っている。哀れな、淋しい野よ。道もなく宿屋もない。呪われた哀れな野。わが祖国の哀れな野よ。

⑨土地(La tierra) Ⅰ(6行)、Ⅱ(20行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(8行)

ゴボウが、カラス麦が、毒麦が、呪われた土地を蔽っている。つるはしもすきも歯が立たない。すきが畑の中を掘り裂いて進んでゆく間にも、掘られた畝溝はふさがれてしまう。

「人殺しのフアンが耕作にとりかかっても、畝溝が畑に掘られるよりも早く彼の顔にしわが刻まれるだろう」。

東のほうでは、紅い斑点に蔽われた満月が果樹園の壁の背後で輝いていた。マルティンの血は恐怖で凍りついた。土の中に打ち込んだシャベルが血に染まっていた。

“アメリカ帰り”は故国でちゃんと根を張ることができた。金持ちで美しい娘を妻にめとった。アルバルゴンサレスの財産はいまや彼のものだ。

⑩ 人殺し(Los asesiones) Ⅰ(26行)、Ⅱ(16行)、Ⅲ(6行)、Ⅳ(16行)、Ⅴ(8行)、Ⅵ(18行)

アルバルゴンサレスの上の息子フアンとマルティンは、ある日の夜明け、ドゥエロ川の上流を目指して、骨の折れる道を歩むことにした。

谷間の濃く白い霧がバラ色に染まった。鉛色の雲がドゥエロ川の水源、ウルヴィオンのそそり立つ峰をターバンのように取り巻いていた。

2人の人殺しはラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着いた。水は澄み透り、黙り込んでいた。取り囲む高い岩壁には禿鷹が巣を作り、木霊が眠る。澄んだ水を山の鷲が飲みにやってくる。

父さん!兄弟は叫んだ。穏やかな沼の底に、彼らは身を沈めていった。

2014年04月12日

「東岩手火山」⑨ 鉄いろ

 きょうはこの詩の最後の部分です。次のように締めくくられます。

きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液(しよたうようえき)に
また水を加へたやうなのだらう
東は淀み
提灯(ちやうちん)はもとの火口の上に立つ
また口笛を吹いてゐる
わたくしも戻る
わたくしの影を見たのか提灯も戻る
  (その影は鉄いろの背景の
   ひとりの修羅に見える筈だ)
さう考へたのは間違ひらしい
とにかくあくびと影ぼふし
空のあの辺の星は微かな散点
すなはち空の模様がちがつてゐる
そして今度は月が蹇(ちぢ)まる

鉄色

「蔗糖」は、ショ糖、スクロースのこと。グルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)が結合した糖で、無色結晶、甘味があります。水溶性が高く、25°Cにおいて、1gの水に2.1g溶けます。

約170°Cに加熱すると、カラメル(キャラメル)と呼ばれている独特の香りを持つ褐色の物質に変化。カラメルはカスタードプディングなどに使用される。ショ糖の結晶を大きく成長させると氷砂糖になります。

山から見た空気の流れを、濃い蔗糖の溶液に水を加えたときに出来る流れの模様みたいなもの、にたとえています。

東の空は薄明のなか、淀んでいる。鉄色は、呉須(ごず)という陶器の釉薬(うわぐすり)に用いる藍色顔料の色に鉄分を含んでいることからきたもの。 

「わたくしの影」は、暗い鉄色の空を背景にした「ひとりの修羅」に見えるにちがいないと、ここでも修羅としての自分をみています。

「あくびと影ぼふし」には夜を徹して山を登ってきたさすげに疲れたのでしょう。空が白みはじめ、明るい星が点在するだけになってきた。薄明で月の輝きも弱まり、縮まったようです。


harutoshura at 22:27|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月11日

「東岩手火山」⑧ ラビスラズリ

さらに「東岩手火山」はつづきます。

かすかに光る火山塊の一つの面
オリオンは幻怪〈げんくわい〉
月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄
あくびと月光の動転〈どうてん〉
    (あんまりはねあるぐなぢやい
     汝〈うな〉ひとりだらいがべあ
     子供等〈わらしやど〉も連れでて目にあへば
     汝〈うな〉ひとりであすまないんだぢやい)
火口丘〈くわこうきう〉の上には天の川の小さな爆発
みんなのデカンシヨの声も聞える
月のその銀の角のはじが
潰れてすこし円くなる
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚〈より〉になつて飛ばされて来る

ラビスラズリ

火山岩塊のひとつの面が薄明によって光り出す。空の様子が変わり、オリオンも奇怪な姿に見える。

瑠璃はラビスラズリ=写真、wiki=。藍色がかった青色不透明な宝石。特に中近東諸国で愛好される。粉末は高価な青絵の具としても使われる。聖書のサファイアはラピスラズリのこと。等軸晶系の結晶をもち、成分は硫黄やナトリウムなど。硬度は5と軟らかい。

父叱る声が、幻聴として聞こえて来る。「あんまりはしゃぎまわるんじゃない。自分一人ならいいが、子どもたちを連れていてひどいめにあったら。お前ひとりだけではすまないんだぞ」

火口丘の上に白鳥座からカシオペ ア座にかけての天の川が、ほのかに光っている。

デカンショは、でかんしょ節、すなわち明治末の花柳界、学生の間の流行歌。兵庫県篠山のデッコンショ節に発するといわれる。東京高等師範教授の亘理章三郎によって旧制一高生の間に広まり、第二次大戦前まで全国各地の学生に歌われた。「デカンショ、デカンショで半年暮らす、ヨイヨイ、あとの半年や寝てくらす、ヨーイヨーイデッカンショ」。もともと「出稼ぎしょ」に発するようだ。デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字を集めたものともいわれる。

鋭い角度をもっていた月も薄明のなかで端がつぶれて少し円くなる。雲海とそれを構成するオパール色の雲。ふっとねじられ、渦になって飛ばされてくる。


harutoshura at 23:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月10日

「東岩手火山」⑦ 雲平線

 「東岩手火山」のつづきです。

この石標は
下向の道と書いてあるにさうゐない
火口のなかから提灯が出て来た
宮沢の声もきこえる
雲の海のはてはだんだん平らになる
それは一つの雲平線(うんぴやうせん)をつくるのだ
雲平線をつくるのだといふのは
月のひかりのひだりから
みぎへすばやく擦過した
一つの夜の幻覚だ
いま火口原の中に
一点しろく光(ひか)るもの
わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか
私は気圏オペラの役者です
鉛筆のさやは光り
速かに指の黒い影はうごき
唇を円くして立つてゐる私は
たしかに気圏オペラの役者です
また月光と火山塊のかげ
向ふの黒い巨きな壁は
熔岩か集塊岩 力強い肩だ
とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
あすこからこつちへ出て来るのだ
なまぬるい風だ
これが気温の逆転だ
  (つかれてゐるな
   わたしはやつぱり睡いのだ)
火山弾には黒い影
その妙好(めうかう)の火口丘には
幾条かの軌道のあと
鳥の声!
鳥の声!
海抜六千八百尺の
月明をかける鳥の声
鳥はいよいよしつかりとなき
私はゆつくりと踏み
月はいま二つに見える
やつぱり疲れからの乱視なのだ

雲

「石標」は、石の道標。「下向の道」は、下山の道のこと。「宮沢」は賢治の教え子で、稗貫農学校を1922(大正11)年10月に退学している宮沢貫一と考えられている。

「雲平線」は賢治の造語。地平線や水平線のように、山頂から雲海を見下ろした際、かなたが一直線に見える壮観な眺めを表現したのだろう。

雲平線などとたとえてみたことにやや照れて、おれは月光の左から右へと素早くすり抜けた「夜の幻覚だ」としている。

「一点しろく光る」のは、火口原から出てきた生徒の提灯の明かりだろうか。「呼んでゐる」ように感じる。いや、そう感じただけなのだろうか。賢治の思いのわずかな動きをリアルにスケッチしている。

空に屹立したように立っている「私」は、壮大な大気の層の舞台で歌う「気圏オペラの役者」なのだ。さっきからずっと、手帳に鉛筆でつづっている。「鉛筆のさやは光り」「速かに指の黒い影はうご」く。自らの感動を高揚した気分をリアルタイムでスケッチしてゆく。

「黒い巨きなは壁」は、頂上に近い外輪山の一角か。「集塊岩」は、火山砕屑岩で、やや角張ったり円形に近い火山弾が大量に凝灰岩の基質に埋まっているものをいう。こうした火山性の岩石が「力強い肩」のような形をしている。目に浮かんでくるような風景だ。

「お鉢廻り」は、すり鉢のような形をした外輪山を一周すること。標高二千メートル近い山の上なのに「なまぬるい風」が吹いてくる。科学を学んできた詩人らしく、それは暖かい空気が冷たい空気の上に重なるときに起こる「気温の逆転だ」と思う。空気のなまぬるさに、徹夜で登山してきた疲れから眠気が襲ってきた。

「妙好」とはもともと白蓮華を意味し、泥の中に育ちながら浄い花を咲かせる蓮華のように浄らかな信心をもつ仏教徒を「妙好人」と呼ぶそうだ。ここでは火口原のなかにある小さい火口丘を指しているのだろう。

そこには火山物質が流れた痕跡である軌道のあとがある。ちょうど鳥が鳴いて月明のなかを翔けて行く。夜明けが近づいたのだ。空には疲れによるのか、細い月が二重に見える。

harutoshura at 23:44|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月09日

「東岩手火山」⑥ 仙人草

さらに「東岩手火山」はつづきます。

  三つの提灯は夢の火口原の
  白いとこまで降りてゐる
  《雪ですか 雪ぢやないでせう》
  困つたやうに返事してゐるのは
  雪でなく 仙人草のくさむらなのだ
  さうでなければ高陵土〈カオリンゲル〉
  残りの一つの提灯は
  一升のところに停つてゐる
  それはきつと河村慶助が
  外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる
  《御室〈おむろ〉の方の火口へでもお入りなさい
  噴火口へでも入つてごらんなさい
  硫黄のつぶは拾へないでせうが》
  斯んなによく声がとゞくのは
  メガホーンもしかけてあるのだ
  しばらく躊躇してゐるやうだ
  《先生 中さ入〈はひ〉つてもいがべすか》
  《えゝ おはひりなさい 大丈夫です》
  提灯が三つ沈んでしまふ
  そのでこぼこのまつ黒の線
  すこしのかなしさ
  けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ
  大きな帽子をかぶり
  ちぎれた繻子のマントを着て
  薬師火口の外輪山の
  しづかな月明を行くといふのは

仙人草

「仙人草」=写真、wiki=は、山野に生えるキンポウゲ科の多年生つる草。茎は長く、葉柄は曲がりくねって物にからみつく。秋、花径が3センチくらいの白い小花をたくさん付ける。

「高陵土」。高陵は、中国語の音はガオリンで、中国・江西省景徳鎮産の陶器(九江焼)の原料、高陵土の産地。ガオリン鉱物を主成分とする粘土で、陶磁器の原料となる粘土のうちで最も純粋なものとして重用され、磁土ともいわれる。ふつう白色で、純白のものは製紙の填料として、ほかにセメントなど窯業製品の原料としても使われる。

「河村慶助」は、川村慶助。賢治の教え子で、このとき稗貫農学校3年生。

「御室」は、複式火山である岩手山の新しい火山(東岩手外輪山)の一つで、現在も活動している。

「メガホーンもしかけてあるにだ」と言うことは、それくらいよく聞こえるのだろう。あたりが静寂に包まれている。

「繻子」は、縦糸と横糸が五本以上からなる絹織物の一種。縦糸か横糸のどちらか一方だけを表面を浮かせたもので、滑らかで光沢がある。多くは帯地に用いられる。16世紀末、中国から製法が伝わり、京都で織られるようになる。江戸時代には小袖や帯に用いられた。密度が高く地は厚い。斜文織よりも柔軟性に長けるが、摩擦や引っかかりには弱い。


harutoshura at 19:30|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月08日

「東岩手火山」⑤ 山中鹿之助

きょうも「東岩手火山」のつづきです。

 はてな わたくしの帳面の
 書いた分がたつた三枚になつてゐる
 事によると月光のいたづらだ
 藤原が提灯を見せてゐる
 ああ頁が折れ込んだのだ
 さあでは私はひとり行かう
 外輪山の自然な美しい歩道の上を
 月の半分は赤銅(しやくどう) 地球照(アースシヤイン)
《お月さまには黒い処もある》
 《後藤(どう)又兵衛いつつも拝んだづなす》
 私のひとりごとの反響に
 小田島治衛(はるゑ)が云つてゐる
《山中鹿之助だらう》
 もうかまはない 歩いていゝ
   どつちにしてもそれは善(い)いことだ
二十五日の月のあかりに照らされて
薬師火口の外輪山をあるくとき
わたくしは地球の華族である
蛋白石の雲は遥にたゝへ
オリオン 金牛 もろもろの星座
澄み切り澄みわたつて
瞬きさへもすくなく
わたくしの額の上にかがやき
 さうだ オリオンの右肩から
 ほんたうに鋼青の壮麗が
 ふるへて私にやつて来る

山中

今まで書き留めてきた手帳がたった三枚だなんて変だ。人をだます月光のいたづらにちがいないと思う。

「藤原」は、藤原健太郎。賢治の教え子で農学校の二回生。かれが見えやすいように帳面の上に提灯を掲げてくれる。だが実は、すでに書いたページを おりこんでしまっていたのだ。

火口を囲む外輪山の美しい歩道のようになっているところを、明るくなるまで歩いて過ごそうという。

「地球照(アースシヤイン)」は、地球の反射光によって月の影の部分がわずかに明るくなる現象。そこは赤銅色に染まっている 。

「小田島治衛」も農学校二回生の学生。

「後藤又兵衛」、「山中鹿之助」=<b>写真</b>、wiki=ともに戦国時代の武将。鹿之助は尼子氏に仕え、毛利に降伏した後も尼子氏の再興に努めた。秀吉の中国征伐に従い上月城を落としたが、毛利氏に攻略され殺されたとされる。

三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られ、月山富田城跡に建つ銅像もこの姿。戦勝を祈って月を拝んだと言われる。

だいぶ明るくなって来たから、もう危険も無い。歩いてもいい。

後藤又兵衛だろうが、山中鹿之助だろうがどっちでもいい。ともかく月を拝むのはいいことだというわけだ。

「金牛」は、おうし座。オリオン座の右上のほうにある。

「鋼青」は文学的色彩の造語。鋼質の鉱物的感覚でとらえた青っぽい色か。賢治は具体的には、鋼を加熱加工して表面に生じる酸化被膜の色をさしている。


harutoshura at 15:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月07日

「東岩手火山」④ オリオン座

 「東岩手火山」のつづきです。

《それではもう四十分ばかり
寄り合つて待つておいでなさい
さうさう 北はこつちです
北斗七星は
いま山の下の方に落ちてゐますが
北斗星はあれです
それは小熊座といふ
あの七つの中なのです
それから向ふに
縦に三つならんだ星が見えませう
下には斜めに房が下つたやうになり
右と左とには
赤と青と大きな星がありませう
あれはオリオンです オライオンです
あの房の下のあたりに
星雲があるといふのです
いま見えません
その下のは大犬のアルフア
冬の晩いちばん光つて目立めだつやつです
夏の蝎とうら表です
さあみなさん ご勝手におあるきなさい
向ふの白いのですか
雪ぢやありません
けれども行つてごらんなさい
まだ一時間もありますから
私もスケツチをとります》

オリオン

賢治は夜行登山で、生徒達に星座の説明をしながら登山をつづけている。この夜、「空は底抜けに澄んでいて良く晴れ、満月だった」という記録もあるそうだ。

「縦に三つならんだ星(オリオン座の三つ星)」、「赤と青と大きな星(ペテルギウスとリゲル)」、「オリオン(オリオン座)」、 「星雲(M42:オリオン座大星雲)」、「大犬のアルフア(シリウス)」などを、はっきりと観察することができたのだろう。

オリオン座(Orion)は、トレミーの48星座の1つで、ギリシャ神話オライオン=写真、wiki=を題材としている。天の赤道上にあり、おうし座の東にある冬の星座。中央に三つ星が並んでいるのが目印になる。

大きく明るい星が多いため、とりわけ有名な星座で、文学作品にもよく登場する。冬の星座だが、賢治たちが観察したように、夏の夜明けころにも見ることができる。

オリオン座は他の星を見つける目印にもなる。シリウスはベルトのラインを南西へ拡げることによって見つかる。α星は、全天21の1等星で、ベテルギウスと呼ばれる。

ベテルギウスと、おおいぬ座のα星シリウス、こいぬ座のα星プロキオンの1等星で、冬の大三角をつくる。β星も、全天21の1等星で、リゲルと呼ばれる。δ星、ε星、ζ星は、3つ並んだ2等星で、オリオンの帯、日本では三つ星と呼ばれる。

オリオン座の明るい星は年齢や物理的特徴がよく似ている。オリオン座付近に巨大分子雲があり、オリオン座を構成する星の多くがこの同じ分子雲から生まれたためと考えられている。

ギリシャ神話では、巨人オライオンは海の神ポセイドーンの子で優れた猟師だった。しかし「この世に自分が倒せない獲物はいない」とおごったため、地中から現れたサソリ(サソリ座)に毒針で刺し殺されてしまった。その後オライオンとサソリは天にあげられて星座となったとされる。

harutoshura at 23:47|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月06日

「東岩手火山」③ 蛋白石

 きょうも「東岩手火山」のつづきを読みます。

  (柔かな雲の波だ
   あんな大きなうねりなら
   月光会社の五千噸の汽船も
   動揺を感じはしないだらう
   その質は
   蛋白石 glass-wool
   あるいは水酸化礬土の沈澱)
《じつさいこんなことは稀なのです
わたくしはもう十何べんも来てゐますが
こんなにしづかで
そして暖かなことはなかつたのです
麓の谷の底よりも
さつきの九合の小屋よりも
却つて暖かなくらゐです
今夜のやうなしづかな晩は
つめたい空気は下へ沈んで
霜さへ降らせ
暖い空気は
上に浮んで来るのです
これが気温の逆転です》
 御室火口の盛〈も〉りあがりは
 月のあかりに照らされてゐるのか
 それともおれたちの提灯のあかりか
 提灯だといふのは勿体ない
 ひはいろで暗い

蛋白石

雲海の「柔かな雲」。ゆったりとした「大きなうねり」なので、「月光会社」の5000トンの汽船もそんなに揺れることはないだろう、という。月光会社は、雲海を照らす月からイメージした幻想の産物だろう。

「蛋白石」=写真=は、オパールのこと。主に火成岩または堆積岩のすき間に、ケイ酸分を含んだ熱水が入り込んでできる。透明なものから半透明、不透明なものまであり、光沢のあるものは宝石として扱われる。

色は、乳白色、褐色、黄色、緑色、青色など。雲の色を蛋白石と形容して「glass-wool」と言い換えている。ガラスの繊維、グラス・ファイバーを連想しているのか。

「水酸化礬(ばん)土」は水酸化アルミニウム。アルミニウム塩水溶液にアンモニア水を加えると沈殿する白くふわふわしたゲル。 

「つめたい空気は下へ沈んで……」と、サイエンスの教育を受けた先生らしく、逆転層について解説している。ふつうなら高度が上昇のにともなって気温が低下するのに、逆に上昇している現象。

一般に高温の大気は密度が低いため上に移動し、対流が起こる。しかし逆転層があると上の方が密度が低いため、対流は起こらない。逆転層は、秋や冬の夜間に風が弱いとき、放射冷却で地表面温度が低下することでできやすい。

「今夜のようなしづかな晩」ということは「つめたい空気は下へ沈んで」いるので、山の上では空気の対流はなく穏やかで静かな夜なのだろう。 
 
「ひわいろ」は、小鳥のヒワの雄の胸羽のような黄緑色。提灯の光に照らされているなんて無粋なことは言うのは「勿体ない」と感じているのだろう。


harutoshura at 13:00|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月05日

「東岩手火山」② 早池峰

 「東岩手火山」は次のようにつづいていきます。

 黒い絶頂の右肩と
 そのときのまつ赤な太陽
 わたくしは見てゐる
 あんまり真赤な幻想の太陽だ
《いまなん時です
三時四十分?
ちやうど一時間
いや四十分ありますから
寒いひとは提灯でも持つて
この岩のかげに居てください》
 ああ、暗い雲の海だ
《向ふの黒いのはたしかに早池峰です
線になつて浮きあがつてるのは北上山地です
 うしろ?
 あれですか、
あれは雲です、柔らかさうですね、
雲が駒ヶ岳に被さつたのです
水蒸気を含んだ風が
駒ヶ岳にぶつつかつて
上にあがり、
あんなに雲になつたのです。
鳥海山〈ちやうかいさん〉は見えないやうです、
けれども
夜が明けたら見えるかもしれませんよ》

早池峰山

「絶頂」すなわち山頂付近にたどり着いた。時間は「三時四十分」ごろ。日の出まで「四十分」はある。「まつ赤な太陽」が現れるのを思い描きながら、生徒たちと待ちかまえる。

夜明けまでの暗闇のなか、「暗い雲の海」が迫っているのが分かる。周辺の山々など夜明け前の自然現象が、あたりの静けさとあいまった幻想的な雰囲気をつくりだしている。 

岩手山から見た夜の「向ふの黒いのはたしかに早池峰」。そして「線になつて浮きあがつてるのは北上山地」だとわかる。あたりに陽が射してくるのを、じっと息を潜めて待っている。

「早池峰(はやちね)」=写真=は岩手県にある標高1,917mの山。北上山地の最高峰で日本百名山。六角牛山、石上山とともに遠野三山と呼ばれる。山頂は宮古市、遠野市、花巻市の3つの市の境界となっている。

全山が超塩基性岩のかんらん岩や蛇紋岩でできているため、ハヤチネウスユキソウやナンブトラノオ、ナンブイヌナズナ、ナンブトウウチソウなどを代表とする、蛇紋岩地帯の植生となっている。本州で唯一、アカエゾマツが自生している山でもある。

山域の固有種率が高く、高山植物愛好者の憧れの山となっている。山地帯から高山帯にいたる植生の垂直分布がはっきりと見られる。

山頂と麓の岳集落には早池峰神社があり、神仏習合の時代から山岳信仰が盛ん。麓の岳集落で伝承される刀を手に勇壮に踊る早池峰神楽が知られている。

岩手山と早池峰山は仲が悪く、姫神山を取り合っていたという神話がある。逆に、岩手山が姫神山を憎んでおり、送り山という山に頼み、姫神山を遠くへ送らせようとしたが、送り山がその役目を果たさなかったため、怒った岩手山が剣を抜いて、送り山の首をはねたという話も伝えられている。

岩手山の右わきに乗っている小山が、送り山の首とされる。『遠野物語』では、早池峰山の女神が、力を授けてくれるように祈願した力士に対して、大力を授ける話がある。

「駒ヶ岳」は、秋田県と岩手県にまたがる火山、秋田駒ヶ岳だろう。十和田八幡平国立公園の南端で、標高1,637m。高山植物の豊富な山として知られる。


harutoshura at 22:37|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月04日

「東岩手火山」① 巨きなゑぐり

きょうからまた賢治の『春と修羅』にもどり、「1922・9・18」の日付がある「東岩手火山」を読みます。

   東岩手火山

 月は水銀 後夜〈ごや〉の喪主〈もしゆ〉
 火山礫〈れき〉は夜〈よる〉の沈澱〈ちんでん〉
 火口の巨〈おほ〉きなゑぐりを見ては
 たれもみんな愕くはづだ
  (風としづけさ)
 いま漂着〈ひやうちやく〉する薬師外輪山〈ぐわいりんざん〉
 頂上の石標もある
  (月光は水銀 月光は水銀)
《こんなことはじつにまれです
向ふの黒い山……つて それですか
それはここのつづきです
ここのつづきの外輪山です
あすこのてつぺんが絶頂です
向ふの?
向ふのは御室火口です
これから外輪山をめぐるのですけれども
いまはまだなんにも見えませんから
もすこし明るくなつてからにしませう
えゝ 太陽が出なくても
あかるくなつて
西岩手火山のはうの火口湖やなにか
見えるやうにさへなればいいんです
お日さまはあすこらへんで拝みます》

東岩手火山

岩手山(標高2,038m)は、山体の3分の2を占める西岩手火山と、その外輪山の東に寄生火山として覆い被さった東岩手火山が重なってできている。東岩手火山=写真=の外輪山の最高点が岩手山の山頂になっている。

1922(大正11)年9月18日、賢治は農学校の生徒を引率して岩手山に登っている。そのときの夜の東岩手火山や、そこからの眺めがこの詩には描かれている。【新校本全集】の年譜には、その時について次のように書かれている。

【9月17日(日)】午後、生徒五、六人をつれ岩手登山に赴く。二年生藤原健太郎は汽車賃のないことを打ちあけ、つれていってもらった。おにぎりも持ってきてくれたという。夕方六時ごろ滝沢から九合目まで登って山小屋に泊る。この夜は旧暦八月一五日の満月で、岩手山頂上から拝むとおわんのような恰好に見え、その中から仏さんが三体現れると藤原は聞かされた。

【9月18日(月)】午前三時ごろ頂上近くで読経。藤原は目ざめて提灯をもって登り、その後ろに立った。読経後スケッチブックに何か書きだす。

「後夜」は、寅(とら)の刻。夜半から夜明け前の、現在の午前4時ごろ。また夜明け前に行う勤行のこともいう。

「火山礫」は噴火のときに放出される溶岩の砕片で、胡桃大くらいのものをいう。

「火山礫は夜の沈澱」といった表現には、気圏をコロイド溶液や化学溶液とみる賢治ならではの空間把握がみられる。

「薬師外輪山」。東岩手火山の火口を取り囲む外輪山。この最高峰を薬師岳ともいう。

「御室火口」は複式火山である岩手山の新しい火山の火口。現在も活動中。

harutoshura at 20:28|PermalinkComments(0)宮澤賢治 

2014年04月03日

「変転のなかの持続」㊦

ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう

きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
激しい雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみは二度とふたたび泳ぐことはない

いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
口づけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたつ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ

喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そしていま それらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ
波のようにこちらへ寄せては
すぐさま四大へと還っていく

始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
詩神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを

ヘラ

ゲーテは、1798年初めにヴァイマルの北東約10キロのオーバーロスラウに土地を購入。そこで田舎生活を楽しみますが、5年後には手放しています。

第1連は、ここでの田園生活への思いが込められているようです。生命の芽生えとその発育の中にあふれる活力、初老に達した人間の過ぎ去った若き日々への郷愁の気持ち。時の流れ、自然の移りゆきの早さ。春の恵みは3行目ではもう花を満開にさせ、4行目では西風に吹かれて散り始めます。

第2連では人の目にはとらえにくい、変化のありさまを表現しています。時は私たちの逡巡を待ってはくれません。一瞬の機会を逃せば、永遠に失われてしまう。旬の果実は素早くつみ取らなければ、熟れ頃を逃してしまうのです。南国の果実のイメージは、イタリア旅行の反映でしょうか。

5、6行目では、驟雨が降るごとに変化する谷間の風景をうたい、7、8行目は、まさに「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」(『方丈記』)。

また、紀元前5世紀、ギリシャの哲人ヘラクレイトス=写真、wiki=は「同じ川に2度はいることはできない」といったと伝えられています。

第3連と第4連では、自身について語っています。城壁や宮殿など岩のように堅くて変わらないものでも、見る側はたえず違った眼差しで見つめます。人もまた時とともに衰えるのです。喜ぶ力も若々しさも失われていきます。

やさしく動いた手も、形の整った手も変わってゆく。外界の対象物が変化するとともに、それを知覚する人間の目も唇も足も手も変化し、結局、すべてが違うものになる。この世のすべてのものが永遠の生成の中で把握されています。

身体の変化にもかかわらず、主体があくまでも同一性を保っていると信じているのは、かろうじてその主体が同一の「名前」で呼ばれているからでしょう。

しかし名前で呼ばれて意識に固定されているように見えるものも、川の水のようにあるものは衰え、新たなものが芽生えてきます。

波のように寄せ、波のように砕けて、それら一切を構成する四大(地、水、火、風の4元素)に回帰します。ここでは、中でも「水」を指しているのでしょう。

第5連では、それまでの時間の力に代わって詩人の積極的な生き方が前面に出てきます。過去は終わってしまったものではなく、現在の中に生き続け、過去と現在は未来を規定します。

過去と未来、初めと終わりは首尾一貫した全体を構成しなければならない。始めと終わりを備えた時間の中で「私」の自己同一性を確保しつつ、同時に固定的な不変性を逃れて変わる。

そのような生を実現してくれるであろう「詩神の恩ちょう」に感謝せよ、という命令で、この詩は、やや強引と思われなくもないしめくくらかたをします。詩神は、不滅なるものを約束してくれるというわけです。

よく知られる『方丈記』第1段「その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」にも、この詩と共通するところを含んでいそうです。

「変転のなかの持続」は1803年、ゲーテが54歳の壮年期、当時とすれば初老にさしかかったころの作品です。その前後のゲーテの歩みを追ってみると――

1784年には、ヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見しています。

ゲーテは骨学に造詣が深く、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考案し、脊椎がこれにあたると考えました。「原型(Urform)」という思想のはじまりです。

1790年に著した『植物変態論』では、この考えを植物に応用しています。

すべての植物は「原植物(Urpflanze)」から発展したものと考え、花弁や雄しべなど諸器官は様々に変化した「葉」が集合してできた結果であるとしました。

そしてリンネの分類学を批判し、進化論の先駆けとも言われる「形態学(Morphologie)」という新分野を提唱しています。

1794年、イェーナでの植物学会で会ったのを機に、シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759-1805)と親交を深めていきます。

1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を二人で制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評しました。ドイツ文学の古典主義時代の確立の時期に当たります。

自然科学研究にのめりこんでいたゲーテに、シラーは「あなたの本領は詩の世界にあるのです」とアドバイス。この年には教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、翌年には叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させています。

1806年、『ファウスト』第1部を完成。イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻。ゲーテは腎臓を病んで頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。

なお1774年刊の『若きウェルテルの悩み』に、詩「変転のなかの持続」の思索と関連すると思われる一節(高橋義孝訳)がありましたので、最後にあげておきましょう。

〈ぼくの魂の前に引かれていた幕は落ちてしまった。無限の生なる舞台は、ぼくの眼前で、永遠に口を開いている墓穴の深淵に変ってしまった。君は「それはある」といえるが、すべては移ろい流れるのに。

いっさいは稲妻のような速さで流転し、存在の全き力が持続するのはまれで、悲しいかな、変転の流れに引き入れられ水底に没して岩に当って砕け散るのに、君や君の周囲の親しい人々をむしばまない一瞬間もなく、君自身が破壊者であり、あらねばならずにすむ一瞬もない。

無心の散歩でさえ幾千の哀れな小虫は生命を奪われ、踏み出すたった一足が営々と築かれた蟻の塚をくずし、小さな世界はふみにじられて忌わしい墓場と化する。村々を洗い流す大洪水、都市をいくつものみこむ大地震、そういうまれにしか起らぬ大災害なんか、実はどうだっていいんだ。

自然万物の中に隠れている浸蝕力、自分の隣人や自分自身をさえ破壊しないような何物をもつくることのなかった浸蝕力、こいつがぼくの心を掘りくつがえす。

こう考えると、ぼくの足は不安のあまりよろめいてしまう。天と地とぼくの周囲のつくりはたらくもろもろの力と。ぼくの眼には、永遠にのみこみ永遠に反芻する怪物の姿しか見えないのだ。〉

harutoshura at 21:24|PermalinkComments(0)ゲーテ 

2014年04月02日

「変転のなかの持続」㊤

ここで、賢治からヨーロッパへとさっと飛んで、ドイツの大詩人ゲーテ=写真=の「Dauer im Wechsel(変転のなかの持続)」をちょっとだけ、読んでみます。まずは、ざっと訳をつけてみました。

Dauer im Wechsel

Hielte diesen frühen Segen,
Ach, nur Eine Stunde fest!
Aber vollen Blütenregen
Schüttelt schon der laue West.
Soll ich mich des Grünen freuen,
Dem ich Schatten erst verdankt?
Bald wird Sturm auch das zerstreuen,
Wenn es falb im Herbst geschwankt.

Willst du nach den Früchten greifen,
Eilig nimm dein Teil davon!
Diese fangen an zu reifen,
Und die andern keimen schon;
Gleich mit jedem Regengusse
Ändert sich dein holdes Tal,
Ach, und in demselben Flusse
Schwimmst du nicht zum zweitenmal.

Du nun selbst! Was felsenfeste
Sich vor dir hervorgetan,
Mauern siehst du, siehst Paläste
Stets mit andern Augen an.
Weggeschwunden ist die Lippe,
Die im Kusse sonst genas,
Jener Fuß, der an der Klippe
Sich mit Gemsenfreche maß.

Jene Hand, die gern und milde
Sich bewegte, wohlzutun,
Das gegliederte Gebilde,
Alles ist ein andres nun.
Und was sich an jener Stelle
Nun mit deinem Namen nennt,
Kam herbei wie eine Welle,
Und so eilts zum Element.

Laß den Anfang mit dem Ende
Sich in Eins zusammenziehn!
Schneller als die Gegenstände
Selber dich vorüberfliehn!
Danke, daß die Gunst der Musen
Unvergängliches verheißt,
Den Gehalt in deinem Busen
Und die Form in deinem Geist.

変転のなかの持続

ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう

きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
激しい雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみは二度とふたたび泳ぐことはない

いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
口づけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたつ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ

喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そしていま それらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ
波のようにこちらへ寄せては
すぐさま四大へと還っていく

始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
詩神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを

ゲーテ

ゲーテの「変転のなかの持続」は、1803年に作られました。同年5月15日、シュトゥットガルトの出版者コッタに宛てて出版をゆだねられ、ヴィーラントとゲーテの編集による『1804年の小型本』で初めて公になります。

その後、1806年の作品集では「歌謡」という題で、1815年には「楽しみの歌」という題でまとめられた詩に加えられました。1827年の決定版全集には「神と世界」というテーマの詩篇に収められています。

「神と世界」は、晩年に作られたゲーテの自然科学的、哲学的見解を反映した22篇からなります。この詩も最終的には、思想詩的な位置づけがされていたことになります。

この詩は、精神医学者ライル(J.Chr.Reil、1759-1813)の『精神錯乱に対する精神療法の応用に関するラブソディ』(1803)という著作を、ゲーテが詩的に表現したとされています。

ライルによれば、一人の人間を取り囲む外界の事象は時々刻々変化していますが、人間はそれらの事象と自分の意識とを区別できるので、「多数の人格に分裂してしまう」ことはありません。

しかし「我々の意識の中で非常に粘り強く持続するこの自我は、実際にはきわめて変化しやすいものである。老人は、自分が80年前の自分と同じものだと信じる。けれども彼はもはや同じではない。どんなに微細な部分といえども80年前のものはまったく残っていないからだ」。

そのためライルからすれば「我々が常に同一の人格であるという固い信念」は奇妙であって、「生体は一時的にも継続的にも物質代謝を行う。生体は絶えず破壊し、また破壊したものを再び創り上げる」のです。

総体としての自然にとっては、このような破壊と生成の反復運動は半永久的な自己保存にとって不可欠ですが、一人の人間にとっては、その運動は最終的に死によって停止するが故に、むしろ無常観をもたらします。

観察される外界の変化は、不動の自己意識の存在を確信させてくれるのではなく、むしろ自らの老化と、不可避な死を予感させます。

この詩は、そのような無常観から我々を救済し不滅なるものを約束してくれるのが詩神であるというメッセージで結ばれている、とこれまで通常は読まれてきました。

harutoshura at 21:57|PermalinkComments(0)ゲーテ 

2014年04月01日

「滝沢野」

つぎは「1922・9・17」の日付がある「滝沢野」という詩です。

   滝沢野

光波測定〈くわうはそくてい〉の誤差〈ごさ〉から
から松のしんは徒長〈とちやう〉し
柏の木の烏瓜〈からすうり〉ランタン
  (ひるの鳥は曠野に啼き
   あざみは青い棘に遷〈うつ〉る)
太陽が梢に発射するとき
暗い林の入口にひとりたたずむものは
四角な若い樺の木で
Green Dwarf といふ品種
日光のために燃え尽きさうになりながら
燃えきらず青くけむるその木
羽虫は一疋づつ光り
鞍掛や銀の錯乱
   (寛政十一年は百二十年前です)
そらの魚の涎〈よだ〉れはふりかかり
天末線〈スカイライン〉の恐ろしさ

烏うりの実

「滝沢野」は、岩手山の東南麓、滝沢村に広がる原野の一部。奥州街道にそって種畜牧場、農業試験場、林業試験場、園芸試験場などが集まっているが、このころはまさに“原野”。東岩手山への入口でもある。

賢治は滝沢野から岩手山とその南東にそびえる鞍掛山などを望んでいるようだ。太陽は、賢治のいるところから西のほうにある。陽光を背にした山々の稜線が魚の歯のように見え、「涎れ」が不気味にふりかかるように恐ろしく感じられたようだ。

「徒長」とは、植物の枝や茎が間延びして伸びること。日照不足になると、草花は日の光を求めて伸びるので徒長になりやすい。光の加減で、から松の背丈が間延びして伸びたように見えたようだ。

「烏瓜」は、ウリ科のつる性多年草。果実=写真、wiki=は直径5~7cmの卵型。熟する前は縦の線が通った緑色をしているが、10月から11月末に熟し、オレンジ、朱色になり、冬に枯れたつるにぶらさがった姿がポツンと目立つ。「ランタン」は提灯のこと。オレンジ色をした烏瓜の実は、確かに提灯のような感じもする。

「Green Dwarf」、グリーン・ドウォーフの「Dwarf」はこびとのこと。ここでは、盆栽など小型のわい性植物のことのようだ。 「銀の散乱」は、「一疋づつ光り」つづける多くの羽虫、それとも陽を背に光り輝く鞍掛山の稜線をさしているのか?

「寛政11年」(1799)が何のことかはわからないが、に何があったかは分からないが、この年は、修験道の開祖とされる 役行者千百年忌で、役行者に神変大菩薩の号を賜る。幕府が、近藤守重を蝦夷地に派遣する。高田屋嘉兵衛が、択捉島への航路を開拓し、国後島から択捉島へ着く。といった出来事があった。

harutoshura at 21:39|PermalinkComments(0)宮澤賢治