2024年02月18日
独語詩ノート19 「魚へお説法するパドヴァのアントニウス」
Des Antonius von Padua Fischpredigt(Des Knaben Wunderhorn)
「魚へお説法するパドヴァのアントニウス」(『少年の魔法の角笛』から)
Antonius zur Predigt die Kirche findt ledig!
Er geht zu den Flüssen und predigt den Fischen!
Sie schlagen mit den Schwänzen! Im Sonnenschein glänzen!
Die Karpfen mit Rogen sind all hierher gezogen,
Haben d'Mäuler aufrissen,sich Zuhörens beflissen!
Kein Predigt niemalen den Fischen so gfallen!
アントニウスが説法に来た でも礼拝堂にはだ~れも居ない
そこで聖人川へと出かけ 魚たちを相手に説法をする
魚はひらひら尾をうって 陽にきらきらと煌めいて
卵を抱いたコイたちは みんなこっちへ集まってくる
ばっくり口をあけたまま 耳かたむけて聴いている
魚たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
そこで聖人川へと出かけ 魚たちを相手に説法をする
魚はひらひら尾をうって 陽にきらきらと煌めいて
卵を抱いたコイたちは みんなこっちへ集まってくる
ばっくり口をあけたまま 耳かたむけて聴いている
魚たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
Spitzgoschete Hechte,die immerzu fechten,
Sind eilend herschwommen,zu hören den Frommen!
Auch jene Phantasten,die immerzu fasten:
Die Stockfisch ich meine,zur Predigt erscheinen.
Kein Predigt niemalen den Fischen so gfallen!
いつもはめっぽう喧嘩っ早い ロとんがらがせたカマスたちも
有り難いお方のお話ききに 急いでこっちへ泳ぎよる
あの夢見ごこちの変人たち いつでも断食しているやつら
そんな棒鱈までも 説法聴きに姿を見せる
魚たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
有り難いお方のお話ききに 急いでこっちへ泳ぎよる
あの夢見ごこちの変人たち いつでも断食しているやつら
そんな棒鱈までも 説法聴きに姿を見せる
魚たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
Gut Aale und Hausen,die vornehme schmausen,
Die selbst sich bequemen,die Predigt vernehmen!
Auch Krebse, Schildkroten,sonst langsame Boten,
Steigen eilig vom Grund,zu hören diesen Mund!
Kein Predigt niemalen den Stockfisch so gfallen!
Fisch große, Fisch kleine,vornehm und gemeine,
Erheben die Köpfe wie verständge Geschöpfe!
Auf Gottes Begehren die Predigt anhören!
お偉いかたたち好んで食べる 美味なウナギもチョウザメも
自ずとそうする気になった ご説法を承ろうかと!
自ずとそうする気になった ご説法を承ろうかと!
ザリガニやらカメたちや いつもは愚図な使者たちも
彼の方の声聴いておかんと いそいで川底はいあがる
棒鱈たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
大きな魚も雑魚たちも やん事無きも野卑なやからも
頭もたげてうんうんと 分別のある生きもののよう
神のご意志はいずこにと この説法に耳かたむける
彼の方の声聴いておかんと いそいで川底はいあがる
棒鱈たちは説法なんて ただの一度も聴いたことない
大きな魚も雑魚たちも やん事無きも野卑なやからも
頭もたげてうんうんと 分別のある生きもののよう
神のご意志はいずこにと この説法に耳かたむける
Die Predigt geendet,ein jeder sich wendet.
Die Hechte bleiben Diebe,die Aale viel lieben;
Die Predigt hat gfallen,sie bleiben wie allen!
Die Krebs'gehn zurücke;die Stockfisch bleiben dicke,
Die Karpfen viel fressen,die Predigt vergessen!
さて説法が終わったら 魚ちりぢりもとへともどる
カマス盗人稼業はやまず ウナギは惚れた腫れたのさわぎ
お説法には感じ入っても それはそれまで魚は魚
カマス盗人稼業はやまず ウナギは惚れた腫れたのさわぎ
お説法には感じ入っても それはそれまで魚は魚
ザリガニゆっくり後ずさり バカラオいつも太っちょのまま
コイはぱくっと大食らい お説法など忘れちまった!
=2015年4月7日訳
コイはぱくっと大食らい お説法など忘れちまった!
=2015年4月7日訳
きょうは「ドイツのマザー・グース」とも呼ばれる『少年の魔法の角笛』の中の一篇です。『少年の魔法の角笛』は、19世紀初頭、アヒム・フォン・アルニス(Achim von Arnim、1781・1831)とクレーメンス・ブレンターノ(Clemens Maria Brentano、1778 - 1842)が20代のときに集めて編集した ドイツ語圏空前の大規模な民謡集です。全3巻。第1巻は1806年、2、3巻は1808年に完成。計約1200ページに、恋の歌、兵十の歌、旅人の歌、酒席の歌、労働や職人の歌、死と別れの歌、英雄・聖者・伝説の物語歌(バラーデ)、世相風刺の流行歌、信仰の歌、わらべ歌、子守歌など、723篇の歌のテクストが載っています。グリム兄弟をはじめ85人の友人や知人が聞き書き・抜き書きをして290篇を寄稿。民謡のほとんどに2人が補筆し、多くに手が加えられています。そっくり創作したものもあります。
『少年の魔法の角笛』は民俗学的資料というよりも、新しい民謡の探究、文学的志向が強かったようです。「そうすればよりよい民謡が本のなかに定着するたろうし、新しい歌があとから作られるようになるだろう」(プレンターノの1805年2月15日付アルニム宛手紙)。ブレンターノが親の財力にものをいわせて素材を集め、アルニムがそれらを編集して仕上げる、という役割分担をしていたようです。「たくさんのことがらについて、わたしたちはバベルの塔の大工さながらの不愉快な言い争いをしました」(アルニムの1808年9月29日付ゲーテ宛書簡)ともいっています。『少年の魔法の角笛』は、啓蒙主義の知識人をはじめ総じて不評で、ヨハン・ハインリッヒ・フォスは「ロマン主義者のパロディ」と揶揄しましたが、ゲーテは「ここには芸術が自然とからまりあっている」と好意的でした。
きょうの一篇の主人公であるパドヴァ(イタリア・ヴェネト州にある都市)のアントニオ(Antonio di Padova、1195 -1231)=写真=は、カトリック教 会の聖人。教会博士の一人で、本名はフェルナンド・マルティンス・デ・プリヤオン(Fernando MartinsdeBulhäo)。リスボンで貴族の子として生まれたため、リスボンのアントニオとも呼ばれています。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ に入ムイタリアや南フランスなどを巡って精力的に活動しましたが、30代半ばにパドヴァ近郊で病没しています。彼の肖像や絵は、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンとともに描かれます。祝日は6月13日。
グスタフ・マーラー(Gustav Mahlem 、1860 - 1911)は、1892年から1898年にかけて作曲しされた10曲からなる『少年の魔法の角笛』という歌曲集を出していますが、この中の6曲目に、この詩の曲も含まれています。パドヴァのアントニオは、優れた説法で、生前から大衆にたいへんな人気があったそうですが、この詩では、さまざまな魚たちへと説法の範囲がひろがっています。
「コイ」は、中欧や東欧では昔からよく食べられています。特にスラヴ人にとっては聖なる食材とされ、伝統的なクリスマス・イヴの夕食には欠かせないとか。東欧系ユダヤ教徒が安息日に食べる魚料理「ゲフィルテ・フィッシュ」の素材としてもよく用いられてきました。イースターまでの40日間などキリスト経の戒律で肉を食べてはいけない日は獣肉に代わる魚肉を供給することが僧院に求められましたが、17世紀にはオーストリアの僧院を中心に、成長が早くて大型になるコイをめざした品種改良がさかんに競われたそうです。
きょうの一篇の主人公であるパドヴァ(イタリア・ヴェネト州にある都市)のアントニオ(Antonio di Padova、1195 -1231)=写真=は、カトリック教 会の聖人。教会博士の一人で、本名はフェルナンド・マルティンス・デ・プリヤオン(Fernando MartinsdeBulhäo)。リスボンで貴族の子として生まれたため、リスボンのアントニオとも呼ばれています。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ に入ムイタリアや南フランスなどを巡って精力的に活動しましたが、30代半ばにパドヴァ近郊で病没しています。彼の肖像や絵は、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンとともに描かれます。祝日は6月13日。
グスタフ・マーラー(Gustav Mahlem 、1860 - 1911)は、1892年から1898年にかけて作曲しされた10曲からなる『少年の魔法の角笛』という歌曲集を出していますが、この中の6曲目に、この詩の曲も含まれています。パドヴァのアントニオは、優れた説法で、生前から大衆にたいへんな人気があったそうですが、この詩では、さまざまな魚たちへと説法の範囲がひろがっています。
「コイ」は、中欧や東欧では昔からよく食べられています。特にスラヴ人にとっては聖なる食材とされ、伝統的なクリスマス・イヴの夕食には欠かせないとか。東欧系ユダヤ教徒が安息日に食べる魚料理「ゲフィルテ・フィッシュ」の素材としてもよく用いられてきました。イースターまでの40日間などキリスト経の戒律で肉を食べてはいけない日は獣肉に代わる魚肉を供給することが僧院に求められましたが、17世紀にはオーストリアの僧院を中心に、成長が早くて大型になるコイをめざした品種改良がさかんに競われたそうです。
「カマス」は、細長い円筒形の体型をもち、全長は20~30cm ほどから2mにも達するオニカマスまで種類はさまざま。ロは大きく、やや突き出た下顎には鋭く強靭な歯を備えています。海水魚で主に沿岸域に生息。サンゴ礁や岩礁の周囲で群れを成して活発に泳ぎ回り、人に攻撃的。地域によっては、サメより危険と見られているとか。「棒鱈」は、タラの塩漬けの干物。南ヨーロッパ諸国、中南米、北欧諸国を中心に食べられています。塩漬けで数カ月乾燥させると三角形の平らな形となり、保存性が高く、持ち運びが楽で重ねて積むこともできるので、航海中の食料に適しています。南欧や中南米では聖金曜日を含む四旬節の最後の1 週間、セマナ・サンタ(聖なる1週間)の象徴的な食べ物とされます。
「ウナギ」は、古代から食用魚として利用された長い歴史を持ちます。沿岸や河川で捕獲される個体が成熟した卵をもっていないことは古代ギリシャ時代から知られ、アリストテレスは地中からヨーロッパウナギが生じると信じていたそうです。19世紀までは、河口に大量に押し寄せていました。1887年にイタリアのメッシーナ海峡で成熟卵をもっ雌が発見され、干物、塩漬け、燻製、フライ、煮込み、焼き魚などヨーロッパ各地でさまざまな調理法で利用されています。一対の大きなハサミをもつ「ザリガニ」は、河川や湖沼に生息し、体色は青緑から黒褐色までさまざま。 繁殖期は 10 ~ 11 月で、 翌年 5 月ころまで卵を守ります。 ヨーロッパでは食材として利用され、 フランス料理ではエクルヴィスと呼ばれます。
「チョウザメ」は、古代魚の一つ。名前の通り、体表にある硬鱗が蝶の形、全体的な形がサメに似ているのが特徴。燻製、キャビア(卵の塩漬け)などとして食されます。「カメ」は、ギリシャ神話では変身譚の一つとして「ケローネー」(ギリシャ語で亀を意味する言葉)の物語があります。ケローネーはニュンペーの1人で、ゼウスとヘ一ラーとの結婚式を馬鹿にして出席しなかったため神々の怒りを買い、ヘルメースによってカメの姿に変えられます。有名な『イソップ寓話』の「ウサギとカメ」。「アキレスと亀のパラドックス」では、俊足の英雄に対し、歩みの遅いものの象徴として用いられます。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
天高き八百八町飛行雲
虫のなき虫籠とほる風の声
窓塞ぐおにぎり山や薄紅葉
(りいの2014年12月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月17日
独語詩ノート18 メーリケ「徒の旅にて」
Eduard Mörike ; Auf einer Wanderung
メーリケ「徒(かち)の旅にて」In ein freundliches Städtchen tret ich ein,
In den Strassen liegt roter Abendschein.
Aus einem offnen Fenster eben,
Über den reichsten Blumenflor
Hinweg, hört man Goldglockentöne schweben,
Und eine Stimme scheint ein Nachtigallenchor,
Dass die Blüten beben,
Dass die Lüfte leben,
Dass in höherem Rot die Rosen leuchten vor.
とある快い小さな町へ入ってゆく
まっ赤なタ焼けが街路をそめて
開きはなたれたーつの窓から
あふれるように咲く花のうえを
開きはなたれたーつの窓から
あふれるように咲く花のうえを
ただよいゆく金色の鐘の音が耳にとどく
あるひとの声が小夜啼鳥のコーラスのようにひびく
盛りの花々は身をふるわせ
そよ風は活き活き息づいて
盛りの花々は身をふるわせ
そよ風は活き活き息づいて
薔薇はひときは紅くかがやく
Lang hielt ich staunend, lustbeklommen.
Wie ich hinaus vors Tor gekommen,
Ich weiss es wahrlich selber nicht.
Ach hier, wie liegt die Welt so licht!
Der Himmel wogt in purpurnem Gewühle,
Rückwärts die Stadt in goldnem Rauch;
Wie rauscht der Erlenbach, wie rauscht im Grund die Mühle,
Ich bin wie trunken, irrgeführt –
O Muse, du hast mein Herz berührt
Mit einem Liebeshauch!
驚きと歓喜に胸ふたがれて長く
私は立ちつくしていた どうやって
まちの門を出たのかなんの覚えもない
ああこの地、この世界はなんとも明明と広がっている!
空はもつれあう深紅の雲に波うち
ふりむけば金色のもやに街はけむっている
榛の木の小川さざめき谷底の水車ざわめく
私は陶然として迷い込んだのだ
ああ詩神よ おまえは私の心を
愛の気息でふれ 動かした!
=2015年3月3日訳
榛の木の小川さざめき谷底の水車ざわめく
私は陶然として迷い込んだのだ
ああ詩神よ おまえは私の心を
愛の気息でふれ 動かした!
=2015年3月3日訳
ドイツのロマン主義詩人、メーリケ(Eduard Friedrich Mörike、1804 - 875)=写真=は、テュービンゲン大学で神学を学んだ後、聖職に就き、1834年にはヴァインスベルク近郊のクレーファーズルツバッハの牧師に就任しました。一方で、いわゆるシュワーベン詩派の詩人として活躍、『Gedichte (詩)』(初版1838年、第22版1905年)も刊行しています。
きょうの詩は、メーリケが、母を失った直後の1841年8月12日、メーリケは妹のクララらとノイエンシュタットの親戚の家を訪ねる途中でできた詩(「2人の女性歌手に寄せて」)をもとに、1846年3月7日の『朝刊紙』第57号に発表。『詩集』(第2版)に収録されました。また、1888年にはヴォルフによって曲が付けられ、彼のメーリケ歌曲集(全53曲)に加えられています。
第1連の「とある快い小さな町」というのはノイエンシュタット・アム・コッハー(Neuenstadt am Kocher)のことでしょう。ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の、コッハー川沿い、ブレタッハ川が注ぐ河口に面した小都市です。17~18世紀にはヴュルテンベルク・ノイエンシュタット公が宮廷をおきました。1945年4月まで、樹齢1000年といわれた菩提樹の木があり、「an der Linde(菩提樹のそばの)」という代名詞がつけられました。
「あるひとの声」は、いとこのマリー・メーリケ(1819 - 1909)と考えられます。ノイエンシュタットに住む薬剤師カール・アブラハム・メーリケの夫人で、歌の才に恵まれていました。メーリケはたびたびこの親戚を訪ねています。音楽が与える効果についてメーリケは「実際音楽は言い表しがたい効果をぼくに与える。まるで病気のようなものだ。普通とは違う、解明する光の中ですべてをぼくに見せてくれる」と述べているそうです。
「小夜啼鳥」(サヨナキドリ)は、スズメ目ヒタキ科の鳥。西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声が美しく、ナイチンゲール、ヨナキウグイスなどとも呼ばれます。体長16cmほど。体の上面の羽毛は褐色で下面は黄色がかった白色、尾はやや赤みをおびます。ヨーロッパ中・南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布。森林や藪の中に生息し、夕暮れ後や夜明け前によく透る声で鳴きます。
2連目の「榛の木」(ハンノキ、Erlenbach)は、カバノキ科ハンノキ属の落葉高木。山野の低地や湿地、沼に自生する。樹高は15~20m、直径60cmほど。湿原など過湿地で森林を成す数少ない樹木。川岸に護岸用に植栽されることも。花期は冬の12~2月で、葉に先だって単性花をつけます。葉は長楕円形で、縁に細鋸歯があります。
2連目の「榛の木」(ハンノキ、Erlenbach)は、カバノキ科ハンノキ属の落葉高木。山野の低地や湿地、沼に自生する。樹高は15~20m、直径60cmほど。湿原など過湿地で森林を成す数少ない樹木。川岸に護岸用に植栽されることも。花期は冬の12~2月で、葉に先だって単性花をつけます。葉は長楕円形で、縁に細鋸歯があります。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
涼しさや見舞ひし母に見送られ
十七の少女の誓ひ原爆忌
十七の少女の誓ひ原爆忌
蜩やおまけを残し鳴きやみぬ
(りいの2014年11月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月16日
独語詩ノート17 ゲーテ「変転のなかの持続」
Johann Wolfgang von Goethe ; Dauer im Wechsel
ゲーテ「変転のなかの持続」
Willst du nach den Früchten greifen,
Du nun selbst! Was felsenfeste
Jene Hand, die gern und milde
波のようにこちらへ寄せては
Laß den Anfang mit dem Ende
=2015年2月17日訳
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
朝焼や仕事場までの九十九折
夏雲やスマトラ虎の縞太し
鷲掴みして青林檎齧りをり
噴水のさざめく声や手術待つ
(りいの2014年10月)
ゲーテ「変転のなかの持続」
Hielte diesen frühen Segen,
Ach, nur eine Stunde fest!
Aber vollen Blütenregen
Schüttelt schon der laue West.
Soll ich mich des Grünen freuen,
Dem ich Schatten erst verdankt?
Bald wird Sturm auch das zerstreuen,
Wenn es falb im Herbst geschwankt.
ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう
Willst du nach den Früchten greifen,
Eilig nimm dein Teil davon!
Diese fangen an zu reifen,
Und die andern keimen schon;
Gleich mit jedem Regengusse
Ändert sich dein holdes Tal,
Ach, und in demselben Flusse
Schwimmst du nicht zum Zweitenmal.
きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
ゲリラ豪雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみはニ度とふたたび泳ぐことはない
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
ゲリラ豪雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみはニ度とふたたび泳ぐことはない
Du nun selbst! Was felsenfeste
Sich vor dir hervorgetan,
Mauern siehst du, siehst Paläste
Stets mit andern Augen an.
Weggeschwunden ist die Lippe,
Die im Kusse sonst genas,
Jener Fuß, der an der Klippe
Sich mit Gemsenfreche maß.
いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
ロづけによっていちどは
救われたくちびるも
不断にちがうまなざしで見つめている
ロづけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたっ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ
あの足も 消えうせてしまったのだ
Jene Hand, die gern und milde
Sich bewegte, wohlzutun,
Das gegliederte Gebilde,
Alles ist ein andres nun.
Und was sich an jener Stelle
Nun mit deinem Namen nennt,
Kam herbei wie eine Welle,
Und so eilt's zum Element.
喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そして いまそれらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ波のようにこちらへ寄せては
すぐさまよろずの素子へと還る
Laß den Anfang mit dem Ende
Sich in eins zusammenzieh'n!
Schneller als die Gegenstände
Selber dich vorüberflieh'n.
Danke, daß die Gunst der Musen
Unvergängliches verheißt:
Den Gehalt in deinem Busen
Und die Form in deinem Geist.
始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
きみ自身を過ぎてされ!
寺神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを
=2015年2月17日訳
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)=写真=は、いうまでもなく、ドイツ最大の詩人。フランクフルトに生まれ、ライプチヒ、ストラスブールなどの大学に学んあ後、シュトルム・ウント・ドラングの芸術運動に参加。25歳のとき『若きヴェルテルの悩み』で名を馳せ、「西東詩集』『詩と真実』『ヘルマンとドロテア』『ヴィルヘルム・マイスター』『ファウスト』など多くの名作を残しました。
この詩は1803年、54歳のときの作。同年5月15日にシュトゥットガルトの出版者コッタに出版をゆだねています。ヴィーラントとゲーテの編集による『1804年の小型本』に初出。その後、1806年の作品集では「歌謡」という題で、1815年には「楽しみの歌」という題でまとめられた詩篇のなかに加えられました。1827年の決定版全集には「神と世界」というテーマで収められています。「神と世界」は、晩年に作られたゲーテの自然科学的、哲学的見解を反映した22篇からなっています。
この詩は1803年、54歳のときの作。同年5月15日にシュトゥットガルトの出版者コッタに出版をゆだねています。ヴィーラントとゲーテの編集による『1804年の小型本』に初出。その後、1806年の作品集では「歌謡」という題で、1815年には「楽しみの歌」という題でまとめられた詩篇のなかに加えられました。1827年の決定版全集には「神と世界」というテーマで収められています。「神と世界」は、晩年に作られたゲーテの自然科学的、哲学的見解を反映した22篇からなっています。
ゲーテは、1798年初めにヴァイマルの北東約川キロのオーバーロスラウに上地を購入し、そこで田舎生活を楽しんでいました。第1連は、 こでの田園生活の思いが込められているように思われます。生命の芽生えとその発育の中にあふれる活力、 歳月を重ね初老に入った人間の過ぎ去った若き日々への郷愁。 時の流れ、自然の移りゆきの早さ。春の恵みは3行目ではもう花を満開にさせ、4行目では西風に吹かれて散り始めます。
第2連では、人の目にはとらえにくい、変化のありさまをうたいます。時は私たちの逡巡を待ってはくれません。一瞬の機会を逃せば、永遠に失われてしまう。旬の果実は素早くつみ取らなければ、熟れごろを逃してしまう。南国の果実のイメージは、イタリア旅行(1786~88年)の反映でしょうか。5~6行 目では、驟雨が降るごとに変化する谷間の風景をうたい、7、8行目は、まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(「方丈記』)の世界。紀元前5世紀、ギリシャの哲人へラクレイトスが言ったという「同じ川に2度はいることはできない」にも通じます。
第3連と第4連では、自身の周辺について語っています。城壁や宮殿など岩のように堅くて変わらないものでも、見る側はたえず違った眼差しで見つめています。人もまた時とともに衰える。喜ぶ力も若々しさも失われていく。やさしく動いた手も、形の整った手も変わってゆく。外界の対象物が変化するとともに、それを知覚する人間の目も唇も足も手も変化し、結局すべてが違うものになる。この世のすべてのものが永遠の生成の中で把握されています。身体の変化にもかかわらず、主体があくまでも同一性を保っていると信じているのは、かろうじてその主体が同一の「名前」で呼ばれているからです。しかし名前で呼ばれて意識に固定されているように見えるものも、川の水のようにあるものは衰え、新たなものが芽生えてきます。波のように寄せ、波のように砕けて、それを構成する元素に回帰します。
第5連では、それまでの時間の力に代わって詩人の積極的な生き方が前面に出てきます。過去は終わってしまったものではなく、現在の中に生き続け、過去と現在は未来を規定します。 過去と未来、初めと終わりは首尾一貫した全体を構成しなければなりません。始めと終わりを備えた時間の中で「私」の自己同一性を確保しつつ、同時に固定的な不変性を逃れて変わります。そのような生を実現してくれるであろう「詩神の恩ちょう」に感謝せよ、という命令で詩はしめくくられます。詩神は、不滅なるものを約束してくれるというわけです。
この詩は、同時代の精神医学者ライル(J.Chr.Reil、1759-1813)の『精神錯乱に対する精神療法の応用に関するラブソデイ』( 1803 )を、ゲーテが詩的に表現した、とも考えられています。
ライルによれば、ひとりの人間を取り囲む外界の事象は時々刻々変化しているが、人間はそれらの事象と自分の意識とを区別できるので、「多数の人格に分裂してしまう」ことはない。しかし「我々の意識の中で非常に粘り強く持続するこの自我は、実際にはきわめて変化しやすいものである。老人は、自分が 80年前の自分と同じものだと信じる。けれども彼はもはや同じではない。どんなに微細な部分といえども80年前のものはまったく残っていないからだ」。それゆえライルからすれば「我々が常に同一の人格であるという固い信念」は奇妙である。
「生体は一時的にも継続的にも物質代謝を行う。生体は絶えず破壊し、また破壊したものを再び創り上げる」。総体としての自然にとっては、このような破壊と生成の反復運動は半永久的な自己保存にとって不可欠だが、ひとりの人間にとっては、その運動は最終的に死によって停止するがゆえに むしろ無常観をもたらす。観察される外界の変化は、不動の自己意識の存在を確信させてくれるのではなく、むしろ自らの老化と、不可避な死を予感させる。この詩は、そのような無常観から我々を救済し不滅なるものを約束してくれるのが詩神であるというメッセージで結ばれている、というのです。
ライルによれば、ひとりの人間を取り囲む外界の事象は時々刻々変化しているが、人間はそれらの事象と自分の意識とを区別できるので、「多数の人格に分裂してしまう」ことはない。しかし「我々の意識の中で非常に粘り強く持続するこの自我は、実際にはきわめて変化しやすいものである。老人は、自分が 80年前の自分と同じものだと信じる。けれども彼はもはや同じではない。どんなに微細な部分といえども80年前のものはまったく残っていないからだ」。それゆえライルからすれば「我々が常に同一の人格であるという固い信念」は奇妙である。
「生体は一時的にも継続的にも物質代謝を行う。生体は絶えず破壊し、また破壊したものを再び創り上げる」。総体としての自然にとっては、このような破壊と生成の反復運動は半永久的な自己保存にとって不可欠だが、ひとりの人間にとっては、その運動は最終的に死によって停止するがゆえに むしろ無常観をもたらす。観察される外界の変化は、不動の自己意識の存在を確信させてくれるのではなく、むしろ自らの老化と、不可避な死を予感させる。この詩は、そのような無常観から我々を救済し不滅なるものを約束してくれるのが詩神であるというメッセージで結ばれている、というのです。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
朝焼や仕事場までの九十九折
夏雲やスマトラ虎の縞太し
鷲掴みして青林檎齧りをり
噴水のさざめく声や手術待つ
(りいの2014年10月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月15日
独語詩ノート16 アイヒェンドルフ「隠者」
Joseph von Eichendorff ; Der Einsiedler
アイヒェンドルフ「隠者」Komm, Trost der Welt, du stille Nacht!
Wie steigst Du von den Bergen sacht,
Die Lüfte alle schlafen,
Ein Schiffer nur noch, wandermüd,
Singt übers Meer sein Abendlied
Zu Gottes Lob im Hafen.
来なさい、世界の慰め、静寂なる夜よ!
お前はなんと穏やかにこの山々を登るのか
空気もすっかり眠りいり
空気もすっかり眠りいり
ひとりの船乗りだけが旅につかれ
海にむかいタベの歌をうたっている
波止場で神をたたえながら
海にむかいタベの歌をうたっている
波止場で神をたたえながら
Die Jahre wie die Wolken gehn
Und lassen mich hier einsam stehn,
Die Welt hat mich vergessen,
Da tratst Du wunderbar zu mir,
Wenn ich beim Waldesrauschen hier
Gedankenvoll gesessen.
歳月は雲のように流れゆき 私はひとり残されここにある
世界が私を忘れさっているここへ
不思議にお前は足を運んできたのだ
私がここ 騒ぐ森のなかにあって
憂いに沈んで座しているところに
O Trost der Welt, Du stille Nacht!
Der Tag hat mich so müd gemacht,
Das weite Meer schon dunkelt,
Lass ausruhn mich von Lust und Not,
Bis dass das ew’ge Morgenrot
Den stillen Wald durchfunkelt.
ああ、世界の慰め、静寂なる夜よ!
昼間は私をひどく疲弊させた
果てなき海もすっかり暗くなった
私を欲望から 辛苦から解きはなて
永遠なる曙光が
果てなき海もすっかり暗くなった
私を欲望から 辛苦から解きはなて
永遠なる曙光が
沈黙の森にキラメキをあたえるまで
=2014年11月4日訳
アイヒェンドルフ(Joseph Freiherr von Eichendorff、1788-1857)は、シュレジエン(シロンスク)生まれ。貴族の出ですが父の死とともに土地を手放し、プロイセンの官吏となる一方、ドイツの自然や若者の心情をうたう抒情詩を作り、後期ロマン派を代表する詩人となりました。民謡風な素朴な表現で自然の魅惑と放浪の心をうたい、その詩句は幻想の自然を呼び出し、無限の広がりを見せます。熱心なカトリック教徒で、敬虔な魂と質実な生活を取り戻そうとする信仰心も彼の文学の重要な要素になっています。
この作品も、そんなアイヒェンドルフらしい抒情詩の一つ。初出は1837年、『Deutscher Musenalmanach(ドイツ文芸年鑑)』に掲載されました。1831~1836年に作られたようです。彼の作品には、シューマンやヴォルフらの作曲で歌曲として、また民謡として親しまれている詩も少なくありません。この「Der Einsiedler 」も、シューマン(Robert Alexander Schumann)が1850年に「三つの歌作品83」の一つとして曲を付けています。他の二曲は、ブッドイス(Julius Buddeus)の「Resignation (あきらめ)」 とリュッケルト(Friedrich Ruckert)の「Die Blume der Ergebung (忍従の花)」です。地味だがなかなかに味わいのある歌曲集になっています。
1連目に「Ein Schiffer(ひとりの船乗り)」とありますが、「ョナ書」によれば、ヨナは神から、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェに行って「(ニネヴェの人々が犯す悪のために) 40日後に滅ぼされる」という予言を伝えるよう命令されます。しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのを嫌い、船に乗って反対の方向のタルシシュに逃げ出します。このため、神は船を嵐に遭遇させました。船乗りたちはだれの責任で嵐が起こったのか、くじを引きます。するとくじがヨナにあたったので、船乗りたちは彼を問い詰めます。ヨナは、自分を海に投げれば嵐はおさまると船乗りたちに言い、船乗りたちはそのとおりに彼の手足をつかんで海に投げ込んだ。すると、ヨナは神が用意した大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたものの、神の命令によって海岸に吐き出された、とされます。
2連目、3連目に出てくる「Wald (森)」というと、アイヒェンドルフにとっての少年時代の楽園、シュレージェン城ルボーヴィツの森への郷愁が根底にあるのでしょう。大きな森の中の領地での狩りや武術、舞踏会、余興、家族での馬車でのドライブ。そこには最後のバロック文化があり、失われた少年時代の体験は人間の失われた詩的神秘的な源郷でもあった。「森」は故郷であり、誠実なもの、不変なものであり、すべてのものを包んで明るく、暗く、静寂さと、ざわめきと、やさしさと、真剣さと、歓喜と恐怖と驚きと安らぎを与える。そして魔的な生そのものを内蔵しているのです。
2連目、3連目に出てくる「Wald (森)」というと、アイヒェンドルフにとっての少年時代の楽園、シュレージェン城ルボーヴィツの森への郷愁が根底にあるのでしょう。大きな森の中の領地での狩りや武術、舞踏会、余興、家族での馬車でのドライブ。そこには最後のバロック文化があり、失われた少年時代の体験は人間の失われた詩的神秘的な源郷でもあった。「森」は故郷であり、誠実なもの、不変なものであり、すべてのものを包んで明るく、暗く、静寂さと、ざわめきと、やさしさと、真剣さと、歓喜と恐怖と驚きと安らぎを与える。そして魔的な生そのものを内蔵しているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
アメ横で水蛸仕入れ夏始
猩猩緋色のくちびる瓜をはむ
何時の間に並木連なり蝉時雨
(りいの2014年9月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月14日
独語詩ノート15 ギュンターグラス「わらべうた」
Günter Grass ; Kinderlied
ギュンターグラス「わらべうた」Wer lacht hier, hat gelacht?
Hier hat sich's ausgelacht.
Wer hier lacht, macht Verdacht,
daß er aus Gründen lacht.
ここで笑ってるのはだれ 笑ったのは?
ここで笑いとばすことなどないはず。
ここで笑ってるのって "わけあり"
だから笑ってるって疑われる。
だから笑ってるって疑われる。
Wer weint hier, hat geweint?
Hier wird nicht mehr geweint.
Wer hier weint, der auch meint,
daß er aus Gründen weint.
ここで泣いてるのはだれ 泣いたのは?
ここで泣くことなんてもうなにもない。
ここで泣いてるのって "わけあり"
だから泣いてるってまた思われる。
だから泣いてるってまた思われる。
Wer spricht hier, spricht und schweigt?
Wer schweigt, wird angezeigt.
Wer hier spricht, hat verschwiegen,
wo seine Gründe liegen.
ここでしゃべってるのはだれ しゃべって默ったのは?
黙っているのは 告げ口される。
ここでしゃべってるのは
じぶんの"わけあり"かくしてる。
Wer spielt hier, spielt im Sand?
Wer spielt, muß an die Wand,
hat sich beim Spiel die Hand
gründlich verspielt, verbrannt.
ここで遊んでるのはだれ 砂場で遊んでるのは?
遊んでるのは壁の前 立たされ撃たれなきゃならぬ。
遊んでるのは 手をよごし
遊びくらして 火事にして。
遊びくらして 火事にして。
Wer stirbt hier, ist gestorben?
Wer stirbt, ist abgeworben.
Wer hier stirbt, unverdorben,
ist ohne Grund verstorben.
ここで死ぬのはだれ 死んだのは?
死ぬのは ひき抜かれたひと。
けがれずここで死ぬものは
わけのないまま死んだもの。
=2014年10月7日訳
わけのないまま死んだもの。
=2014年10月7日訳
ギュンター・グラス(Günter Grass、1927 - 2015)=写真=は、ダンチヒ(現ポーランド領グダニスク)生まれのドイツの作家です。第二次大戦後、米軍の捕虜として収容所で過ごしたのち、詩や戯曲の創作活動を始めました。1959年、ダンチヒを舞台に、3歳で成長が止まった少年の視点からナチスの時代を風刺した長編小説『ブリキの太鼓』を発表。同じようにダンチヒを舞台にした『猫と鼠』『犬の年』を加えた「ダンチヒ三部作」が高い評価を受け、1999年にはノーベル文学賞を受けました。
きょうの詩は、『ブリキの太鼓』が発表された翌1960 年に刊行された第二詩集『グライスドライエック駅』所収。1958 年ころの作と考えられています。
各4行5連からなり、連続的に重韻をふんで音楽的な響きを生み出しています。恐怖政治のもとに置かれた人間を描いている作品でしょうか。次に示すように、「kinderlied」に投影されている詩人の少年時代は、ナチスが政権を獲得してから第二次大戦中と重なります。
1933年1月、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され政権獲得 → グラス5歳
各4行5連からなり、連続的に重韻をふんで音楽的な響きを生み出しています。恐怖政治のもとに置かれた人間を描いている作品でしょうか。次に示すように、「kinderlied」に投影されている詩人の少年時代は、ナチスが政権を獲得してから第二次大戦中と重なります。
1933年1月、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され政権獲得 → グラス5歳
1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソビエト連邦に侵攻 → 13歳
1945年5月8日、連合国に対して無条件降伏。ドイツの分割占領へ → 17歳
1949年5月6日、米英仏占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立。これを受けて10月7日にはソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツの国家と民族は東西に分断 → 21歳
1949年5月6日、米英仏占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立。これを受けて10月7日にはソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツの国家と民族は東西に分断 → 21歳
グラスは「詩作について」(1958年、訳・飯吉光夫)という文章の中で、次のように述べています。
自分が書く詩においてぼくは、鋭すぎるほどのリアリズムによって対象を、あらゆるイデオロギーから解放するよう試みる。対象を分解し、再度組み立てるよう試みる。遺体担ぎ人があまりに深刻ぶった顔つきをしているので、かえって死んだ人間に心からなる同情を寄せていないことが暴露され、儀式ばった態度がお笑いになってしまうような、つまり、そのようになお体裁ぶりが困難になる状況に対象を投じるよう試みる。ぼくのもうひとつの職業が助っ人に駆けつけて、定着すべき対象をいろんな側から描いてみることがよくある。そのあとはじめて、詩が書き下ろせる。詩を書くことの使命は、ぼくには、対象を暗くするのではなくて、明瞭にさせることにあるように思われる。——しかしときおり、電球のありかをはっきりさせるために、あかりを消さねばならぬこともある。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
草笛や肩書消ゆる身の在処
艶帯びし大和言葉や柿若葉
(りいの2014年8月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月13日
独語詩ノート14 リルケ「秋の日」「秋」
Rainer Maria Rilke ; Herbsttag
日時計のうえにあなたの影を投げかけて
草原に風を送りたまえ
いま孤独にあるものは 長く孤独にとどまるだろう
夜めざめて書を読み 長い手紙を書く
そして木の葉まい散るときには並木道の
あちこち 落ちつくことなく彷徨うだろう
Rainer Maria Rilke ; Herbst
遥かな天の庭園が 枯れしおれたかのように
かぶり振りつつ はらはら落ちる
きょうは、リルケの「秋」についての短い詩2篇です。「Herbsttag」 は 1902年9月21日 、「Herbst」 は同年9月11日にいずれもパリで作られ、どちらも『形象詩集(Das Buch der Bilder)』(1902、1906 年)に収録されています。
1901年12月には一人娘のルートが生まれますが、間もなく父からの援助が断ち切られることになり、生活難がリルケを襲います。そこで、クララは弟子をとって彫刻の教授を始め、リルケも知人に仕事の斡旋を頼み、画家評論『ヴォルプスヴェーデ』と『ロダン論』執筆の仕事を得ました。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
屋上のクレーンくの字春の雲
夜桜や癌病棟の窓明り
なだらかに鋸屑の山春日影
ほどほどに屈伸体操恋の猫
(りいの2014年7月)
リルケ「秋の日」
Herr: es ist Zeit. Der Sommer war sehr groß
Leg deinen Schatten auf die Sonnenuhren,
und auf den Fluren laß die Winde los.
主よ いまがその時です 夏はとても偉大でした日時計のうえにあなたの影を投げかけて
草原に風を送りたまえ
Befiehl den letzten Früchten voll zu sein;
gieb ihnen noch zwei südlichere Tage,
dränge sie zur Vollendung hin und jage
die letzte Süße in den schweren Wein.
残る果実には 熟すようにとお命じください
もう二日だけ 南方の日の恵みを与えて
完熟をもたらし出来あがった
もう二日だけ 南方の日の恵みを与えて
完熟をもたらし出来あがった
最後の甘みを 豊かなワインに充填したまえ
Wer jetzt kein Haus hat, baut sich keines mehr.
Wer jetzt allein ist, wird es lange bleiben,
wird wachen, lesen, lange Briefe schreiben
und wird in den Alleen hin und her
unruhig wandern, wenn die Blätter treiben.
いま家をもたぬものは もはや家をつくれまいいま孤独にあるものは 長く孤独にとどまるだろう
夜めざめて書を読み 長い手紙を書く
そして木の葉まい散るときには並木道の
あちこち 落ちつくことなく彷徨うだろう
Rainer Maria Rilke ; Herbst
リルケ「秋」
Die Blätter fallen, fallen wie von weit,
als welkten in den Himmeln ferne Gärten;
sie fallen mit verneinender Gebärde.
木の葉が落ちる 遠いかなたからのように落ちる遥かな天の庭園が 枯れしおれたかのように
かぶり振りつつ はらはら落ちる
Und in den Nächten fällt die schwere Erde
aus allen Sternen in die Einsamkeit.
そして夜には 重き地球の大地が落ちる
すべての星々からはなれ 孤独の中へと落ちる
Wir alle fallen. Diese Hand da fällt.
Und sieh dir andre an: es ist in allen.
われらみんなが落ちる ここのこの手も落ちる
辺りを見つめるがいい あらゆるものが落ちるのだ
Und doch ist Einer welcher dieses Fallen
unendlich sanft in seinen Händen hält.
けれどひとりのかたがいる 落ちるのをいつまでも
やさしく両手に受けとめて 支えくださるかたがいる
きょうは、リルケの「秋」についての短い詩2篇です。「Herbsttag」 は 1902年9月21日 、「Herbst」 は同年9月11日にいずれもパリで作られ、どちらも『形象詩集(Das Buch der Bilder)』(1902、1906 年)に収録されています。
リルケは、1900年8月、北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでいたフォーゲラーの招きでこの地に滞在するようになります。ここで画家のオットー・モーダーゾーン、女性画家パウラ・べッカーら若い芸術家たちと交流。翌1901年4月には、彼らの一人であった彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村、ヴェスターヴェーデ(Westerwede)に藁ぶきの農家を構えました。
1901年12月には一人娘のルートが生まれますが、間もなく父からの援助が断ち切られることになり、生活難がリルケを襲います。そこで、クララは弟子をとって彫刻の教授を始め、リルケも知人に仕事の斡旋を頼み、画家評論『ヴォルプスヴェーデ』と『ロダン論』執筆の仕事を得ました。
1902年8月末、リルケはヴェスターヴェーデでの生活を切り上げ、『ロダン論』執筆のためパリに渡ります。そして、同年9月1日、初めてロダンを訪問しています。また、パリのさまざまな美術館や図書館に通い、ボードレールなどフランス象徴主義の詩集を耽読するようになります。
妻クララも娘を自分の実家に預けてパリに渡り、ロダンに師事しました。が、貧しさのため夫妻は同居できず、それぞれ別々に仕事をしながら日曜にだけ会う生活だったといいます。以後、リルケはヨーロッパ各地を転々としたため一家は離散状態となりました。
夏の終りに、北ドイツの僻村から訪れた大都会パリ。そして、9月に入るとともに偉大な彫刻家ロダンとの大いなる出会いがありました。しかし、リルケのほうはといえば、まだパリの知人は少なく 、 言葉もままならない異国の一青年でしかありませんでした。 パリの並木道にはもう、木の葉が舞い落ちはじめていたことでしょう。「Herbsttag」 も「Herbst」も、ちょうどそんなころ作られたのです。
「秋の日」の第1連の「die Sonnenuhren(日時計)」は、有名なシャルトル大聖堂の日時計でしょうか。シャルトル大聖堂は、パリから南西80長mほどのシャルトルにある大聖堂。建築、彫刻、ステンド・グラスなどのほとんどが12~13世紀の面影を残す貴重なゴシック建築で、彫刻家ロダンは〈フランスのアクロポリス〉と絶賛しました。ひょっとするとリルケは、ロダンとともにここを訪れたことがあったのかもしれません。
第3連の「木の葉まい散るときには並木道の/あちこち 落ちつくことなく彷徨うだろう 」は、漂白のわが身を秋の情景と結び付けているように思われます。
夏の終りに、北ドイツの僻村から訪れた大都会パリ。そして、9月に入るとともに偉大な彫刻家ロダンとの大いなる出会いがありました。しかし、リルケのほうはといえば、まだパリの知人は少なく 、 言葉もままならない異国の一青年でしかありませんでした。 パリの並木道にはもう、木の葉が舞い落ちはじめていたことでしょう。「Herbsttag」 も「Herbst」も、ちょうどそんなころ作られたのです。
「秋の日」の第1連の「die Sonnenuhren(日時計)」は、有名なシャルトル大聖堂の日時計でしょうか。シャルトル大聖堂は、パリから南西80長mほどのシャルトルにある大聖堂。建築、彫刻、ステンド・グラスなどのほとんどが12~13世紀の面影を残す貴重なゴシック建築で、彫刻家ロダンは〈フランスのアクロポリス〉と絶賛しました。ひょっとするとリルケは、ロダンとともにここを訪れたことがあったのかもしれません。
第3連の「木の葉まい散るときには並木道の/あちこち 落ちつくことなく彷徨うだろう 」は、漂白のわが身を秋の情景と結び付けているように思われます。
詩「秋」は、冒頭から「fallen(落ちる)」が多用されます。9行の詩のなかに、「fallen」 が 5 回、「fällt 」 が 2回。 空から舞い降りてくる木の葉を見ていると、天国の庭が枯れて、そこから葉が落ちてく るように感じたのかもしれません。
「すべての星々からはなれ 孤独の中へと落ちる」は、星々との共存関係からひとり離れて、 永遠の沈黙、 虚空の中へと落下している地球をイメージしているのでしょうか。 なめるような即物性、 ものを断ち切るよ う な鋭い感性が効いています。
そして最終連、「fallen(落ちる)」ものを受けとめ、支えている「Einer(ひとりのかた)」とは、やはり「神」のことなのでしょう。
「すべての星々からはなれ 孤独の中へと落ちる」は、星々との共存関係からひとり離れて、 永遠の沈黙、 虚空の中へと落下している地球をイメージしているのでしょうか。 なめるような即物性、 ものを断ち切るよ う な鋭い感性が効いています。
そして最終連、「fallen(落ちる)」ものを受けとめ、支えている「Einer(ひとりのかた)」とは、やはり「神」のことなのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
屋上のクレーンくの字春の雲
夜桜や癌病棟の窓明り
なだらかに鋸屑の山春日影
ほどほどに屈伸体操恋の猫
(りいの2014年7月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月12日
独語詩ノート13 マイヤー「レーテ―」
Conrad Ferdinand Meyer ; Lethe
C・F・マイヤー「レーテー(忘却の川)」
Jüngst im Traume sah ich auf den Fluten
Einen Nachen ohne Ruder ziehn,
Strom und Himmel stand in matten Gluten
Wie bei Tages Nahen oder Fliehn.
近ごろ私は 大波のうえで夢を見た
舵のない小舟にゆられながら
舵のない小舟にゆられながら
流れと空が 疲れきった炎熱のなかにあった
近づいては過ぎさる日々のなかにあるように
近づいては過ぎさる日々のなかにあるように
Saßen Knaben drin mit Lotoskränzen,
Mädchen beugten über Bord sich schlank,
Kreisend durch die Reihe sah ich glänzen
Eine Schale, draus ein Jedes trank.
そこにはロトスの花輪をつけた少年たちがいた少女たちが水辺でしなやかに身をかがめて
その列は円を描く 私は輝くものを見た
それはおのおのが飲んだ おわん
Jetzt erscholl ein Lied voll süßer Wehmuth,
Das die Schaar der Kranzgenossen sang –
Ich erkannte deines Nackens Demuth,
Deine Stimme, die den Chor durchdrang.
いま甘く哀愁に満ちたリートが響いた花輪をさずかった隊列がうたった
私には覚えがあった 慎ましいきみのうなじ
コーラスに貫き通った きみの声
In die Welle taucht’ ich. Bis zum Marke
Schaudert’ ich, wie seltsam kühl sie war.
Ich erreicht’ die leise zieh’nde Barke,
Drängte mich in die geweihte Schaar.
私は波のなかへ潜った ひえびえと骨の髄まで身を震わせるまで
私はしずかに進むポートにたどりつき
神聖なる隊列のなかへ入りこんだ
Und die Reihe war an dir, zu trinken
Und die volle Schale hobest du,
Sprachst zu mir mit trautem Augenwinken:
„Herz, ich trinke dir Vergessen zu.“
水を飲む順番がきみに来た
きみはいっぱいのおわんを持ちあげて
私に親密なウインクを送り 話しかけた
きみはいっぱいのおわんを持ちあげて
私に親密なウインクを送り 話しかけた
「愛する人よ 私はあなたの忘却に乾杯します」
Dir entriß in trotz’gem Liebesdrange
Ich die Schale, warf sie in die Flut,
Sie versank und siehe, deine Wange
Färbte sich mit einem Schein von Blut.
熱い愛にあらがって きみを引きはなし私はおわんを大波のなかへ投げ人れた
それは沈み 見やればきみのほお
血の輝きに染まった
Flehend küßt’ ich dich in wildem Harme,
Die den bleichen Mund mir willig bot,
Da zerrannst du lächelnd mir im Arme
Und ich wußt’ es wieder – du bist todt.
私は願いを込めて 悲嘆に暮れるきみにキスをした
ころよく私にさしだされた蒼白の唇に
その時きみは私にほほえみ腕のなか 溶けて消えた
そして私はふたたび知った―— きみは死んだのだ
=2014年7月15日訳
ころよく私にさしだされた蒼白の唇に
その時きみは私にほほえみ腕のなか 溶けて消えた
そして私はふたたび知った―— きみは死んだのだ
=2014年7月15日訳
C・F・マイヤー(Conrad Ferdinand Meyer、1825 - 1898)=写真=は、スイスの詩人・小説家。母親から憂鬱症、神経衰弱の気質を受けつぎ、自分に閉じこもり自殺衝動に悩む不安定な青年期を過しました。1956年、母の自殺が自己回復の契機となり、イタリア旅行でのミケランジェロ体験などにも導かれて作家を志します。1864年には、第1詩集『あるスイス人の二十 篇のバラード』を出版。1871年にはドイツ帝国成立に対する感激から書かれた叙事詩『フッテン最後の日々』が成功をおさめ、1876年には、長篇小説『ユルク・イェーナチュ』で名声を確立しました。
この詩は1860年の作。各4行7連。5脚のトロへーウス、abab・・・・・・の交差韻を踏む定型詩です。1926 年には、プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner、1869 - 1949)が「バリトンと管弓玄楽のための《忘却の川》」として曲を付けています。
この詩は1860年の作。各4行7連。5脚のトロへーウス、abab・・・・・・の交差韻を踏む定型詩です。1926 年には、プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner、1869 - 1949)が「バリトンと管弓玄楽のための《忘却の川》」として曲を付けています。
タイトルの「Lethe (レーテー)」は、(冥府の)忘却の川、忘れ川の意。レーテーは、「真実」つまり 「非忘却」 「非隠匿」 を意味するギリ シア語「a-lethe-ia」と関連があるようです。 ギリシア神話のレーテーは、黄泉の国にいくつかある川の1つ。川の水を飲むと、完璧な忘却を体験します。また、古代ギリシア人の一部では、魂は転生の前にレーテーの川の水を飲まされるため、前世の記億をなくすのだと信じられていたといいます。
この詩の「私」は、小舟に揺られながら夢を見ます。第2連の「ロトス」というのはキリシャ神話で、その果実を食べると、楽しく、忘我におちいり、故郷に帰ることも忘れるという植物です。夢の中で愛しい「きみ」に出会いますが、川の水で乾杯してすべてが消えてしまい、現実にもどった「私」が気づいたのは「きみは死んだのだ」というのです。この詩をよみながらふと、画家アルノルト・ベックリンの絵『死の島』を思い浮かべていました。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
旭湯に鬼瓦あり忘れ雪
春燈や顕微鏡下に開く宇宙
白魚を軍艦巻に搭載す
(りいの2014年6月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月11日
独語詩ノート12 ベルゲングリューン「最後の公現祭」
Werner Bergengruen ; Die letzte Epiphanie
ヴェルナー・ベルゲングリューン「最後の公現祭」Ich hatte dies Land in mein Herz genommen,
ich habe ihm Boten um Boten gesandt.
In vielen Gestalten bin ich gekommen.
Ihr aber habt mich in keiner erkannt.
私はこの国を 私の心のなかにいだいていた
私はそこに使いを送る ある使いを
たくさんの姿をして 私はやってくる
私はそこに使いを送る ある使いを
たくさんの姿をして 私はやってくる
でもあなたは 私を少しも知ってはいない
Ich klopfte bei Nacht, ein bleicher Hebräer,
ein Flüchtling, gejagt, mit zerrissenen Schuhn.
Ihr riefet dem Schergen, ihr winktet dem Späher
und meintet noch Gott einen Dienst zu tun.
私は夜中に戸を叩いた 一人の蒼白なユダヤ人
追われるひとりの逃亡者 ぼろぼろの靴を履いた
あなたは手先を呼んだ あなたはスパイに合図した
追われるひとりの逃亡者 ぼろぼろの靴を履いた
あなたは手先を呼んだ あなたはスパイに合図した
それでなおも言う 神の思し召しにより仕えていると
Ich kam als zitternde, geistgeschwächte
Greisin mit stummem Angstgeschrei.
Ihr aber spracht vom Zukunftsgeschlechte
und nur meine Asche gabt ihr frei.
私はふるえ 衰弱したからだでやってきた
おし黙って悲痛な叫びを あげる老婆
おし黙って悲痛な叫びを あげる老婆
でもあなたは 来たるべき時代に悪いからと言う
あなたが自由をあたえるのは 私の遺骨だけなのだ
Verwaister Knabe auf östlichen Flächen,
ich fiel euch zu Füßen und flehte um Brot.
Ihr aber scheutet ein künftiges Rächen,
ihr zucktet die Achseln und gabt mir den Tod.
私は東方の平地に立つ 孤児となった子ども
あなたの足元にひざまずき 一切れのパンを懇願した
でもあなたは 未来につながるロの奥をおそれたのだ
あなたは肩をふるわせ 私に死をあたえた
でもあなたは 未来につながるロの奥をおそれたのだ
あなたは肩をふるわせ 私に死をあたえた
Ich kam, ein Gefangner, als Tagelöhner,
verschleppt und verkauft, von der Peitsche zerfetzt.
Ihr wandtet den Blick von dem struppigen Fröner.
Nun komm ich als Richter. Erkennt ihr mich jetzt?
私は捕虜として 日傭いとしてやって来た
拉致され売りとばされ 鞭でずたずたにされて
あなたはボサボサ頭の 服役人夫のまなざしに向きをかえた
私は こに"裁き人" と して来ている あなたは私を知っているのか?
=2014年6月17日訳
ベルゲングリューン(Werner Bergengruen、1892 - 1964)は、カトリック作家として広く知られるドイツの詩人・小説家。医師の子としてバルト海沿岸のリガで幼少期を過し、ドイツ各地の大学で学ぶうち第一次世界大戦が勃発し、ドイツ軍に志願。1922年からは作家として自立し、生涯に約200編の短編、『アトゥムの法則』(1923)から『第三の花冠』(1962)まで13の長編小説、数冊の詩集などを著しました。多くの作品は歴史上の事件を素材にし、宗教的観点から人間性の問題を追求しています。
ベルゲングリューンは、1936年に、プロテスタントからカトリックに改宗しています。詩のタイトルになっている「Epiphanie(公現祭)」は、ローマ・カトリック教会で、1月6日に行なわれる祝祭。三博士の来訪によって、キリストが神の子として、公に世に現われたことを記念するためのものです。
ベルゲングリューンは、1936年に、プロテスタントからカトリックに改宗しています。詩のタイトルになっている「Epiphanie(公現祭)」は、ローマ・カトリック教会で、1月6日に行なわれる祝祭。三博士の来訪によって、キリストが神の子として、公に世に現われたことを記念するためのものです。
きょうの詩は、第二次世界大戦中の1944年の作。各4行5連からなり、abab cdcd ・・・・・・の交差韻を踏んでいます。各連とも、「Ich(私は)」の告白に対比させて「Ihr(あなたは)」で応じる展開で、「I」の頭韻的効果も効いています。詩の全体では、第1連で問いかけ、最後の連の最終行で全体を受ける構成になっています。
カトリックに改宗したベルゲングリューンは、1937年、ナチスによって、信仰をカにあくまで個人の自由を守ろうとする姿勢が忌避されて非ドイツ的作家とみなされ、発表禁止処分を受けます。そして、爆撃でミュンヘン郊外の家を失い、チロルに移っています。そして、戦後の1946年にチューリヒの友人たちに迎えられ、その郊外に移住するまで。
第2連で「ein bleicher Hebräer(一人の蒼白なユダヤ人)」が登場しますが、この詩が作られた1944年の中ごろには、ナチスのユダヤ人絶滅計画はほぼ完成していました。ポーランドではユダヤ人の90%ほど、フランスでは25 %が殺害。5月にはヒトラーは「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と演説しました。同年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなります。ロシア軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移されました。ドイツのインフラは崩壊寸前で、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく雪の中を徒歩で移動させられ(死の行進)、その過程でさらに10万人が死んだ、とされています。
カトリックに改宗したのが重要な精神的転機となり、ベルゲングリューンは魂の問題で迷うことはなくなり、救われ清められた世界をうたうようになりました。ヒトラーの率いるナチスは、この清められた精神の人にも迫害を加えました。しかし彼にとって、芸術と宗教の一致するところでは、世界は救われ完全であるのです。そんな彼の考えかたが、この詩にも表れているように思われます。
第2連で「ein bleicher Hebräer(一人の蒼白なユダヤ人)」が登場しますが、この詩が作られた1944年の中ごろには、ナチスのユダヤ人絶滅計画はほぼ完成していました。ポーランドではユダヤ人の90%ほど、フランスでは25 %が殺害。5月にはヒトラーは「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と演説しました。同年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなります。ロシア軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移されました。ドイツのインフラは崩壊寸前で、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく雪の中を徒歩で移動させられ(死の行進)、その過程でさらに10万人が死んだ、とされています。
カトリックに改宗したのが重要な精神的転機となり、ベルゲングリューンは魂の問題で迷うことはなくなり、救われ清められた世界をうたうようになりました。ヒトラーの率いるナチスは、この清められた精神の人にも迫害を加えました。しかし彼にとって、芸術と宗教の一致するところでは、世界は救われ完全であるのです。そんな彼の考えかたが、この詩にも表れているように思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
両国も八丁堀も吹雪かな
朝の陽を産湯としたり雪だるま
寒明けやどこかであひし人に逢ひ
(りいの2014年5月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月10日
独語詩ノート11 リルケ「初期のアポロ」
リルケ「初期のアポロ」
Wie manches Mal durch das noch unbelaubte
Gezweig ein Morgen durchsieht, der schon ganz
im Frühling ist: so ist in seinem Haupte
nichts, was verhindern könnte, das der Glanz
いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が
aller Gedichte uns fast tödlich träfe;
denn noch kein Schatten ist in seinem Schaun,
zu kühl für Lorbeer sind noch seine Schläfe,
und später erst wird aus den Augenbraun
ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの
hochstämmig sich der Rosengarten heben,
aus welchem Blätter, einzeln, ausgelöst
hintreiben werden auf des Mundes Beben,
薔薇の園から幹が高く伸びいでて
葉は一まいーまい解き放たれ
葉は一まいーまい解き放たれ
震えるくちびるのうえ舞いただようのだ
der jetzt noch still ist, niegebraucht und blinkend
und nur mit seinem Lächeln etwas trinkend,
als würde ihm sein Singen eingeflößt.
くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌(きら)めいて
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように
=2014年4月15日訳
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように
=2014年4月15日訳
ドイツ語圏を代表する詩人の一人、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Mana Rilke、1875 - 1926)は、プラハに生まれ、プラハ大学、 ミュンヘン大学などで学び、早くから詩を発表しました。当初は甘美な旋律をもっ恋愛抒情詩を発表していましたが、ロシアへの旅行での精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだしました。
1902年から、彫刻家オーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から打ちだした「事物詩」(実在性豊かな事物としての自然存在に化するほどに、言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする詩)を収めた 『新詩集 (Neue Gedichte Erster Teil)』(1907年)さらに『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』(1908年)に発表しました。このころ、パリでの生活をもとに都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆しています。
「Früher Apollo 」は、この1907年『新詩集』に収められているソネット。11音節と 10音節の詩行が交互にくる 5 脚のヤンブス(弱強格)。脚韻は、abab、cdcd、efe、ggf で、抱擁韻でまとめる伝統的なソネットとは異なっています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
人生の盛りは過ぎぬどんどの火
長椅子に長き外套寝かせおく
顔知らぬ祖母の着物でちやんちやんこ
(りいの2014年4月)
1902年から、彫刻家オーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から打ちだした「事物詩」(実在性豊かな事物としての自然存在に化するほどに、言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする詩)を収めた 『新詩集 (Neue Gedichte Erster Teil)』(1907年)さらに『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』(1908年)に発表しました。このころ、パリでの生活をもとに都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆しています。
「Früher Apollo 」は、この1907年『新詩集』に収められているソネット。11音節と 10音節の詩行が交互にくる 5 脚のヤンブス(弱強格)。脚韻は、abab、cdcd、efe、ggf で、抱擁韻でまとめる伝統的なソネットとは異なっています。
詩行、詩節のまたぎによる自由なリズムは、定型から離れようとする危うさも感じられます。意味の集積点としての対象とは何か、といったあたりに迫る巧みな比喩。比喩表現に抒情性は消え、事物的、 彫刻家的な目で言葉が発せられていきます。
「アポロ」は、ギリシア神話に登場するオリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子。詩歌や音楽などの芸能、芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神で光明の神でもあります。『イーリアス』では冷酷さ、残忍さを持ち、ギリシア兵を次々と倒した遠矢の神。疫病の矢を放ち男を頓死させる神であるとともに、病を払う治療神。古典ギリシアでは理想の青年像と考えられ、ヘーリオス(太陽)と同一視されます。
リルケはアポロ像の断片を博物館で見て、 その素朴で圧倒的な芸術に打たれた。そして、ロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事を間近に見ていたリルケは、浅薄な抒情を捨て、対象を言葉によって内側から形作る作風に向かわせた。
詩人は、素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った作品へと言葉による 造型を試みた。対象物を契機として主体の感覚、精神自体が練磨され、純化 されていく。対象は精神によって隅々まで透過され、主体化されます。 リルケが「Ding-Werdung(事物の自己実現)」といった、こうした過程を経て作り上げたのが、この事物詩ということになるのでしょう。
詩人は、素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った作品へと言葉による 造型を試みた。対象物を契機として主体の感覚、精神自体が練磨され、純化 されていく。対象は精神によって隅々まで透過され、主体化されます。 リルケが「Ding-Werdung(事物の自己実現)」といった、こうした過程を経て作り上げたのが、この事物詩ということになるのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
人生の盛りは過ぎぬどんどの火
長椅子に長き外套寝かせおく
顔知らぬ祖母の着物でちやんちやんこ
(りいの2014年4月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月09日
独語詩ノート10 メーリケ「クリスマスローズに向けて」
Eduard Mörike ; Auf eine Christblume
メーリケ「クリスマスローズに向けて」
Ⅰ
メーリケ「クリスマスローズに向けて」
Ⅰ
Tochter des Walds,du Lilienverwandte,
So lang’ von mir gesuchte,unbekannte,
Im fremden Kirchhof,öd' und winterlich,
Zum erstenmal,o schöne,find' ich dich!
森のむすめよ きみはユリのはらから
さがし求めてきた いまだ見ぬ花
荒れ果てた冬ざれの よその教会の墓地で
美しき花 きみをはじめて見つけた
さがし求めてきた いまだ見ぬ花
荒れ果てた冬ざれの よその教会の墓地で
美しき花 きみをはじめて見つけた
Von welcher Hand gepflegt du hier erblühtest,
Ich weiß es nicht,noch wessen Grab du hütest;
Ist es ein Jüngling,so geschah ihm Heil,
Ist's eine Jungfrau,lieblich fiel ihr Teil.
きみがだれの墓を守っているのか 私は知らない
それが青年ならば 彼は幸運だろう
乙女であるなら それは好ましき宿命
Im nächt'gen Hain,von Schneelicht überbreitet,
Wo fromm das Reh an dir vorüberweidet,
Bei der Kapelle,am kristallnen Teich,
Dort sucht' ich deiner Heimat Zauberreich.
雪明かりがおおう 夜の森
草を食みながら シカがそっと過ぎさる
水晶のような池のほとり 礼拝堂のそば
草を食みながら シカがそっと過ぎさる
水晶のような池のほとり 礼拝堂のそば
そこで私はきみのふるさと 魔法の国をさがす
Schön bist du,Kind des Mondes,nicht der Sonne;
Dir wäre tödtlich andrer Blumen Wonne,
Dicht nährt,den keuschen Leib voll Reif und Duft,
Himmlischer Kälte balsamsüße Luft.
ほかの草花の歓喜は きみには死に等しかろう
霧と霜につつまれた 清らかなからだを育むのは
バルサムのように甘く薫る 天の冷気
In deines Busens goldner Fülle gründet
Ein Wohlgeruch,der sich nur kaum verkündet;
So duftete,berührt von Engelshand,
Der benedeiten Mutter Brautgewand.
ほんのり告知するだけの 芳香
天使の手にふれて かおり立ったのだ
この聖母の 花嫁衣装が
Dich würden,mahnend an das heil'ge Leiden,
Fünf Purpurtropfen schön und einzig kleiden:
Doch kindlich zierst du,um die Weihnachtszeit,
Lichtgrün mit einem Hauch dein weißes Kleid.
美しく この上なくきみに似あうだろう
けれどクリスマスの季節にきみは 無邪気に
純白な衣装を 香気とともに淡い緑で飾るのだ
Der Elfe,der in mitternächt'ger Stunde
Zum Tanze geht im lichterhellen Grunde,
Vor deiner mystischen Glorie steht er scheu
Neugierig still von fern und huscht vorbei.
真夜中 月明かりの森の奥へ
舞踏にでかけてゆく エルフ
きみの神秘の輝きをまえに おずおずと
舞踏にでかけてゆく エルフ
きみの神秘の輝きをまえに おずおずと
遠くでじっとながめ やがて素早くはしり去る
Ⅱ
Im Winterboden schläft,ein Blumenkeim,
Der Schmetterling,der einst um Busch und Hügel
In Frühlingsnächten wiegt den samtnen Flügel;
Nie soll er kosten deinen Honigseim.
夂の地の中に 花の芽のように眠るチョウ かつて藪の茂みや丘で春の夜ごと
ビロードのような羽を 揺り動かしていたのに
きみの蜜を味わうことは けっしてない
Wer aber weiß,ob nicht sein zarter Geist,
Wenn jede Zier des Sommers hingesunken,
Dereinst,von deinem leisen Dufte trunken,
Mir unsichtbar,dich blühende umkreist?
けれど夏の飾りがすべて 朽ち果てたあと
だれが知るだろう チョウのいたいけな魂が
きみの微かな香りに陶酔して ひと知れず
花咲くきみのまわりを 舞っていることを
だれが知るだろう チョウのいたいけな魂が
きみの微かな香りに陶酔して ひと知れず
花咲くきみのまわりを 舞っていることを
=2014年3月18日訳
メーリケ(Eduard Friedrich Mörike、1804 - 1875)=写真=は、ドイツの第一級の抒情詩人。テュービンゲン大学で神学を学んだのち、プロテスタントの牧師、後には女学校の教師を務め、一応さしたる風波も立たない平凡に見える人生をおくりましたが、牧歌的民謡調のものから深い精神性を宿すものまで、多様で、あたたかな心情と確かな造形美を備えた詩を数多く残しました。
きょうの詩は、『詩集(Gedichte)』(1838)が刊行されてしばらく経った1841年に作られ、『Morgenblatt (朝刊紙)』第23号(1842年1月26日)に発表しました。この際には、Ⅰは「Die Christblume」、Ⅱは「Auf eine Christblume」と題して、別々の作品でした。が、1847年の『詩集(Gedichte)』(第2版)で、「Auf Christblume」と題して、ⅠとⅡの番号で並べられました。
メーリケは、1841年10月28日にノイエンシュタットのメーリケ家の墓を訪れたとき、その近くの墓に、長く探していたクリスマスローズを見つけています。これがきっかけで作られた詩と考えられます。クリスマスローズは、ヨーロッパ原産のキンポウゲ科の常緑多年草。暖地ではクリスマスのころから開花するので、こう呼ばれています。
早春、15〜30cmにのびた花茎に、径5〜6cmの花を1〜2輪つけます。白または紫を帯びた5枚の花弁状の萼の中央に多数のおしべ、その周辺に緑色を帯びた筒形の短い花弁があるのが特徴。花の色は黄緑、白、桃色、濃紫、黒紫などさまざまです。
Ⅰの4連目の「バルサム」は、含油樹脂、オレオレジンともいいます。樹木や植物から得る油性の浸出液で、芳香をもつ樹脂状の物質。
6連目の「聖なる受難を思わせる 五つの深紅のしずくなら」とは、イエスの五つの傷、すなわち、両手、両足、 わき腹の傷と関係するのでしょう。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ福音書1 9ー3 4)。
第7連の「エルフ」は、ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーコッパの民間伝承に登場する種族。日本語 では「妖精」「小妖精」としばしば訳されます。北欧神話においては本来、自然と豊かさを司る小神族で、美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住み、不死あるいは長命で魔法の力を持っている、ともされます。
ドイツの民間伝承では、エルフは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者とされます。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」には「エルフの夢」、より古風な言い方の「Albdruck」には「エルフの重圧」という意味があるそうです。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因と考えられていたため、だとか。
なお、これら二つの詩には、フーゴー・ヴォルフ(1860 - 1903)が、1888年に曲をつけています。ヴォルフは、メーリケ詩集から43篇の詩に曲をつけていますが、その20番目と21番目です。詩の内容に気を配り、詩を生かした淡々とした曲づくりになっています。ヴォルフは、自作の演奏会では、ます自ら朗々と訴えるように詩の朗読をしてから、歌曲の演奏に入っていたそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
槍投げの叫び弧をなす日短か
不等式跳ねるノートや散紅葉
外套の坊ちやんひとり神楽坂
(りいの2014年3月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月08日
独語詩ノート9 ニーチェ「南で」
Friedrich Nietzsche ; Im Süden
ニーチェ「南で」
So häng ich denn auf krummem Aste
und schaukle meine Müdigkeit.
Ein Vogel lud mich her zu Gaste,
ein Vogelnest ist’s, drin ich raste.
Wo bin ich doch? Ach, weit! Ach weit!
こんなふうに たわんだ枝のうえに
ぼくの倦怠をひっかけて 揺する
ぼくの倦怠をひっかけて 揺する
一羽の小鳥がぼくをこ一へと招き入れたのは
ーっの鳥の巣 その中でぼくは休息をとる
ーっの鳥の巣 その中でぼくは休息をとる
一体ぼくはどこにいるんだ? ああ遠い 遠くへ来た
Das weiße Meer liegt eingeschlafen,
und purpurn steht ein Segel drauf.
Fels, Feigenbäume, Turm und Hafen,
Idylle rings, Geblök von Schafen, -
Unschuld des Südens, nimm mich auf!
白い洵原が 眠り込んでいる
そこに帆が一つ 紅い色が浮かぶ
断崖 いちじく 塔そして港白い洵原が 眠り込んでいる
そこに帆が一つ 紅い色が浮かぶ
あたりには牧歌 羊.たちの鳴き声
南の無邪気さよ ぼくを迎え人れてくれ
Nur Schritt für Schritt - das ist kein Leben,
stets Bein vor Bein macht deutsch und schwer.
Ich hieß den Wind mich aufwärts heben,
ich lernte mit den Vögeln schweben, -
nach Süden flog ich übers Meer.
ただ一歩ずつ―—それは人生じゃあない
いつも脚の前に脚を ってのもドイツ的で重苦しい
風にぼくを上のほうへとまきあげさせた
ぼくは鳥たちと宙を舞うことを習って―—
南へと 海をこえて飛んできた
風にぼくを上のほうへとまきあげさせた
ぼくは鳥たちと宙を舞うことを習って―—
南へと 海をこえて飛んできた
Vernunft? Verdrießliches Geschäfte!
Das bringt uns allzubald ans Ziel!
Im Fliegen lernt ich, was mich äffte, -
schon fühl ich Mut und Blut und Säfte
zu neuem Leben, neuem Spiel …
理性なんて? うんざりしてくる!
それはぼくらを あまりに早く目的地へともたらす
飛んでいてぼくは 何にだまされているかがわかったよ
勇気と 血気と 精気をもうぼくは感じている
新たないのちへの 新たなあそびへの・・・・・・・
飛んでいてぼくは 何にだまされているかがわかったよ
勇気と 血気と 精気をもうぼくは感じている
新たないのちへの 新たなあそびへの・・・・・・・
Einsam zu denken nenn ich weise,
doch einsam singen - wäre dumm!
So hört ein Lied zu eurem Preise
und setzt euch still um mich im Kreise,
ihr schlimmen Vögelchen, herum!
独りきりで考えることを"賢さ"と呼ぼう
でも独りきりで歌うのは―—"愚か"というものだ!
でも独りきりで歌うのは―—"愚か"というものだ!
さあ聞いてくれ 君たちを讃える歌を
音を立てずに ぼくを囲んで
音を立てずに ぼくを囲んで
君たちタチの悪い鳥たちよ ぐる~りと
So jung, so falsch, so umgetrieben
scheint ganz ihr mir gemacht zum Lieben
und jedem schönen Zeitvertreib!
Im Norden - ich gesteh’s mit Zaudern -
liebt ich ein Weibchen, alt zum Schaudern:
"die Wahrheit" hieß dies alte Weib …
こんなにも若く こんなにも偽って こんなにも企み深く
君たちは恋のために つくられているのか
君たちは恋のために つくられているのか
そして それぞれのうるわしい暇つぶしのために
北では―—ためらわれるけれど白状すれば―—
ぼくは一人の女を愛していた ぞっとするような大年増を
《真理》と呼ばれてる老いた女を・・・・・・
=2014年2月4日訳
ぼくは一人の女を愛していた ぞっとするような大年増を
《真理》と呼ばれてる老いた女を・・・・・・
=2014年2月4日訳
ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)は、かの『ツァラトゥストラ』(1883 - 1885)で知られるドイツの哲学者です。ザクセンの牧師の子として生まれ、ボン、ライプチヒ両大学に学び,ワーグナーやショーペンハウアーに傾倒。24歳で、スイスのバーゼル大学に古典文献学の教授に迎えられました,1879年に大学を辞し、10年に及ぶ漂泊を経て1889年発狂、ワイマールで没しました。
ニーチェは、少年期の10歳ころから詩を書きはじめ、発狂直前まで多くの詩作をしています。この詩の初出は、『Internationale Monatsschrift(月刊インターナショナル)』(1882年春季号)という雑誌。その後、同誌掲載の8篇の詩を「Idylls Messina (メッシーナの牧歌)」として独立させました。そのときのタイトルは「Prinz Vogelfrei(プリンツ・フォーゲルフライの歌)」。
ニーチェは、少年期の10歳ころから詩を書きはじめ、発狂直前まで多くの詩作をしています。この詩の初出は、『Internationale Monatsschrift(月刊インターナショナル)』(1882年春季号)という雑誌。その後、同誌掲載の8篇の詩を「Idylls Messina (メッシーナの牧歌)」として独立させました。そのときのタイトルは「Prinz Vogelfrei(プリンツ・フォーゲルフライの歌)」。
「Vogelfrei(フォーゲルフライ)」は、日本的にいえば、さらし首のような極刑のこと。埋葬を禁じて、「鳥(フォーゲル)が自由(フライ)」に食うように死体を野にさらすことをいいます。ニーチェは、従来の道徳などのワクをはみ出た自分のアナロギーとして用いました。
1884年、8篇の「[Idylls(牧歌)」は6篇に書き直され、1887年に出版された改訂版『Die fröhIiche Wissenschaft(喜ばしき知識)』の付録として、「プリンツ・フォーゲルフライの歌」が掲載されました。その際に、「Prinz Vogelfrei」は、「Im Süden」というタイトルになりました。
「Prinz Vogelfrei」 は、5行5連の定型詩で、abaab cdccd cecce afaaf ghggh の脚韻を踏んでいます。
これに6連目の5行(ccijji)を追加して、「 Im Süden」としています。
ニーチェは幼少のこるから鳥を"自由なもの"'の比喩として用いていました。と同時に、この詩を作った漂泊の時代にあっては、フォーゲルフライと表現するような「追放者」としてのイメージも重なっていたのでしょう。鳥の飛翔は、しばしば天と地の関係のシンボルとされます。また、肉体から逃れる魂、あるいは知的機能の相とも考えられ、「知性は、鳥の中でも最も早い」と古代インドの聖典『リグ ・ ヴューダ』でいわれているそうです。
これに6連目の5行(ccijji)を追加して、「 Im Süden」としています。
ニーチェは幼少のこるから鳥を"自由なもの"'の比喩として用いていました。と同時に、この詩を作った漂泊の時代にあっては、フォーゲルフライと表現するような「追放者」としてのイメージも重なっていたのでしょう。鳥の飛翔は、しばしば天と地の関係のシンボルとされます。また、肉体から逃れる魂、あるいは知的機能の相とも考えられ、「知性は、鳥の中でも最も早い」と古代インドの聖典『リグ ・ ヴューダ』でいわれているそうです。
ニーチェは『喜ばしき知識』の中で、「南ヨーロッパで人気のあるすべてのものに見られる卑俗性は私にはよく理解できるし、ポンペイを見てまわったり、また要するにどのような古代の本を読んでも出会う卑俗性と同じように、それは不愉快ではない。どうしてだろうか。そこには羞恥心が欠けている故にだろうか。どんな卑俗なものも、イタリアの歌劇やスペインの悪漢小説におけるなにか高貴なもの、愛らしいもの、情熱的なものと同じように、自信に満ちて、恥じるところなく登場する故にであろうか。『動物は人間と同じように権利をもっている。だから自由に走り回ってよいのだ。わが愛する人間よ、君だってやはり動物なのだ、やはりのところ』。これがことのモラルと私には思えるし、南の人間性に思えるのだ。悪しき趣味は良き趣味とおなじように権利がある。それどころか、必要性が大で、確実に満足を与え、言わば普遍語であり無条件に理解される仮面と所作であるならば、悪しき趣味は良き趣味にまさる権利を持つのである」(訳・河内信弘)と述べています。
また、『この人を見よ』(Ecce homo、1888)では「『プリンツ・フォーゲルフライの歌』はシシリアでその大部分ができあがったが、文字どおり 《gaya scienza》というプロバンス的概念を思わせる。歌い手と騎士という自由精神の一つになったものである」としています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
秋天や浅間山には煙なし
萱葺の屋根の厚みや吊し柿
箸先に剥がす秋刀魚の銀鍍金
卓袱台に蜜柑の山の生まれたり
(りいの2014年2月)
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
秋天や浅間山には煙なし
萱葺の屋根の厚みや吊し柿
箸先に剥がす秋刀魚の銀鍍金
卓袱台に蜜柑の山の生まれたり
(りいの2014年2月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月07日
独語詩ノート8 トラークル「カラスたち」
Georg Trakl ; Die Raben
トラークル「カラスたち」
トラークル「カラスたち」
Über den schwarzen Winkel hasten
Am Mittag die Raben mit hartem Schrei.
Ihr Schatten streift an der Hirschkuh vorbei
Und manchmal sieht man sie mürrisch rasten.
黒い天の隅っこをあたふたとよぎって真昼のカラスたちが堅い叫びをあげる
それらの影は牝鹿のかたわらをかすめ
時折不機嫌そうに休息するのが見える
O wie sie die braune Stille stören,
In der ein Acker sich verzückt,
Wie ein Weib, das schwere Ahnung berückt,
Und manchmal kann man sie keifen hören
ああ、褐色のしじまを何と乱してしまうことか静寂のなかで耕地はうっとりとまどろんでいる
うみ月の重い予感にこころ奪われる女のように
時折かまびすしくののしる彼らの声が聞こえる
Um ein Aas, das sie irgendwo wittern,
Und plötzlich richten nach Nord sie den Flug
Und schwinden wie ein Leichenzug
In Lüften, die von Wollust zittern.
どこかで嗅ぎつけた腐肉のまわりに屯し
それから突如つばさを北へと向けて飛ぶ
そして葬送の列のように消え去ってゆく
情欲にふるえてけいれんする風のなかを
それから突如つばさを北へと向けて飛ぶ
そして葬送の列のように消え去ってゆく
情欲にふるえてけいれんする風のなかを
=2013年11月5日訳
トラークル(Georg Trakl、1887 - 1914)=写真=は、表現主義初期の代表的な存在とされるオーストリアの詩人です。富裕な金物商の家に生れたものの、15歳くらいから麻薬に親しみ、また妹と深い愛によって結ばれて近親相姦の関係にあるなど退廃的な生活を送ったといわれています。
学校を途中でやめて薬剤師になり、1914年に第1次世界大戦がはじまると薬剤士官補として従軍、同年9月、ガリシア地方の小都市で起きたグローデクの激戦の悲惨を体験。数日後にピストル自殺を企てて10月にクラクフの陸軍病院の精神病棟に収容されましたが、コカインの過量服薬で自殺とおぼしき死を遂げています。
生前には、26歳のときに『詩集(Gedichte)』(1913年)を、ウィーンのクルト・ヴォルフ書店から出版しただけ。きょうの詩は、この第1詩集の冒頭の一篇にあたります。第2詩集の『夢のなかのセバスチアン (Sebastian im Traum )』(1915年)は死後に出ています。
作風はしばしばヘルダーリーンと比較され、死や絶望、没落を歌ったものが多くを占めます。この詩のテーマはカラスです。カラスは、世界に100種類あり、寿命は1 0~2 0年ぐらい。視力が高く、見分ける知能が発達していることが知られています。食性は雑食性で昆虫や果実が中心ですが、この詩の第3連で「嗅ぎつけた腐肉のまわりに屯し」としているように、大形のものは腐肉食の傾向が強く、海岸に打ち上げられたものをあさったりするようです。
学校を途中でやめて薬剤師になり、1914年に第1次世界大戦がはじまると薬剤士官補として従軍、同年9月、ガリシア地方の小都市で起きたグローデクの激戦の悲惨を体験。数日後にピストル自殺を企てて10月にクラクフの陸軍病院の精神病棟に収容されましたが、コカインの過量服薬で自殺とおぼしき死を遂げています。
生前には、26歳のときに『詩集(Gedichte)』(1913年)を、ウィーンのクルト・ヴォルフ書店から出版しただけ。きょうの詩は、この第1詩集の冒頭の一篇にあたります。第2詩集の『夢のなかのセバスチアン (Sebastian im Traum )』(1915年)は死後に出ています。
作風はしばしばヘルダーリーンと比較され、死や絶望、没落を歌ったものが多くを占めます。この詩のテーマはカラスです。カラスは、世界に100種類あり、寿命は1 0~2 0年ぐらい。視力が高く、見分ける知能が発達していることが知られています。食性は雑食性で昆虫や果実が中心ですが、この詩の第3連で「嗅ぎつけた腐肉のまわりに屯し」としているように、大形のものは腐肉食の傾向が強く、海岸に打ち上げられたものをあさったりするようです。
黒い羽毛が死を連想させるためか、古来、悪魔や魔女の使い、不吉の象徴とされてきました。旧約聖書の『創世記』では大鴉は凶兆の鳥と信じられ、大洪水を逃れたノアは、洪水の状況を調べるために白い大鴉を飛ばしたがなかなか帰らないので体を黒くし、腐肉を食べる身にしたとされます。
この詩では、腐肉に屯していたカラスは「突如つばさを北へと向けて飛」びますが、渡りをするカラスもいます。ワタリガラスは、北米と、ユーラシア大陸の亜熱帯域以外に広く分布し、ハヤプサなみの高い飛行力をもち、繁殖期にはアクロバティックな求愛ダンスを舞うとか。飛ぶ姿が太陽に向かってるように見えるため、カラスは神聖視されることもあるそうです。
この詩では、腐肉に屯していたカラスは「突如つばさを北へと向けて飛」びますが、渡りをするカラスもいます。ワタリガラスは、北米と、ユーラシア大陸の亜熱帯域以外に広く分布し、ハヤプサなみの高い飛行力をもち、繁殖期にはアクロバティックな求愛ダンスを舞うとか。飛ぶ姿が太陽に向かってるように見えるため、カラスは神聖視されることもあるそうです。
ポーの『大鴉』では、心乱れる語り手のもとに人間の言葉を喋る大鴉が謎めいた訪問し、ひたひたと狂気に陥っていきます。学生であろう語り手は、恋人レノーアを失って嘆き悲しんでいます。大鴉はパラス (アテーナー) の胸像の上に止まり、「Nevermore」を繰り返して、主人公の悲嘆をさらに募らせます。ポーは、大鴉は「死者を悼む、終わりなき追憶」を象徴している、としています。
一連目で、カラスたちのそばにいる「牝鹿」は、すらりとしておとなしくて優美な、カラスとは正反対の存在です。森の奥に引きこもって出産し、子鹿が独り立ちできるようになるまで人目につかないところで世話をする。聖書には生き生きとした比喩的表現で登場し、敵から逃げる動きの敏しようさや、しつかりした足どりについても記されています。詩編では、神を慕う自分の気持ちを「牝鹿が水の流れを慕う」ことになぞらえています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
古里のいも煮つころがして月見かな
旅立やあみの袋に青みかん
旅の途に野分の夜を越えにけり
(りいの2014年1月)
harutoshura at 22:19|Permalink│Comments(0)
2024年02月06日
独語詩ノート7 ゴットフリート・ベン「壁のうえの影」
Gottfried Benn ; Ein Schatten an der Mauer
Wie weit willst du noch gehn? Verwehre
wo ist er hin - ?
=2013年10月15日訳
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
サイホンにあぶくぽこぽこ涼新た
仏壇や水蜜桃の薄明り
ひやひやと千手千体菩薩立つ
(りいの2013年12月)
ゴットフリート・べン「壁のうえの影」
Ein Schatten an der Mauer
von Ästen, bewegt im Mittagswind,
das ist genügend Erde
und hinsichtlich des Auges
genügend Teilnahme
am Himmelsspiel.
壁のうえの影
真昼の風に揺れる枝
それは十分な世界
そして眼差しのほうも
天の戯れに
真昼の風に揺れる枝
それは十分な世界
そして眼差しのほうも
天の戯れに
十分につきあっている
Wie weit willst du noch gehn? Verwehre
doch neuen Eindrücken
den drängenden Charakter -
なのにきみはどこまで行くつもり?
ご免だよ新たな感銘までも
押しつけがましく型どられるのは
stumm liegen,
die eigenen Felder sehn,
das ganze Rittergut,
besonders lange
auf Mohn verweilen,
dem unvergeßlichen,
weil er den Sommer trug -
なにも言わずに寝そべって
きみ自身がもつ耕地を見つめる
完全なる騎士領
なんとも久しく
きみ自身がもつ耕地を見つめる
完全なる騎士領
なんとも久しく
芥子のうえに棲みついている
忘れられずに
忘れられずに
それは夏を運んできたから
wo ist er hin - ?
それはどこいってしまったのか?
=2013年10月15日訳
ドイツの詩人、ゴットフリート・べン(Gottfried Benn、1886 - 1956)は、両世界大戦に軍医として従軍したほか、ベルリンの下町で皮膚・性病科医院を営む医師でした。第一詩集『死体置場(モルグ)』(1912)で従来の詩ではタブーとされてきた、死体を皮肉を込めて冷酷非情に歌い、表現主義を代表する詩人としてセンセーショナルに登場しました。小説集『医師レンネ』(1916)や詩集『肉』(1917)、『瓦礫』(1924)、『分裂』(1925)などでは、醜悪な現実と合理主義的、機能主義的な文明に対する嫌悪を歌う一方で、医学や技術の専門用語などを用いてショッキングな効果をねらう独自の詩境を切り開きました。
ナチズムに傾斜する時期もあって、1946年、ベルリンで「ドイツ文化同盟」が結成されてナチスに協力した作家のプラックリストが作られた際には、べンも攻撃の対象になりました。第二次大戦後には、『静学的詩集』、評論集『表現の世界』(1949)で新たに注目を集めます。自伝の『二重生活』(1950)、エッセイ『叙情詩の諸問題』(1951)、さらに詩集『蒸溜』(1953)、『終曲』(1955)などで、ことばの響きによる幻覚と魅惑を確固たる形式に組み込む「絶対詩」を掲げ、ゲオルゲ、リルケ以後最大の詩人として世界的な評価を得る存在になりました。
「Ein Schatten an der Mauer」は、1950年の作。 戦後、ドイツ国内でも自由にペンをふるうことができるようになり、 ベンの後半生で最も旺盛に執筆活動に励んだころの一篇です。三行分けのHaikuのような印象的出だし。前期の詩に特徴的だった、横隔膜、流産、肝といった生々しい医学関連の用語は姿を消し、風に揺れる枝、天の戯れ、耕地、芥子など、一見のどかな自然の風景が描かれています。
第2連の「ご免だよ新たな感銘までも/押しつけがましく型どられるのは 」というのは、戦中の言論統制や戦争直後にナチスに協力したとして攻撃され状況が反映しているように思われます。
ナチズムに傾斜する時期もあって、1946年、ベルリンで「ドイツ文化同盟」が結成されてナチスに協力した作家のプラックリストが作られた際には、べンも攻撃の対象になりました。第二次大戦後には、『静学的詩集』、評論集『表現の世界』(1949)で新たに注目を集めます。自伝の『二重生活』(1950)、エッセイ『叙情詩の諸問題』(1951)、さらに詩集『蒸溜』(1953)、『終曲』(1955)などで、ことばの響きによる幻覚と魅惑を確固たる形式に組み込む「絶対詩」を掲げ、ゲオルゲ、リルケ以後最大の詩人として世界的な評価を得る存在になりました。
「Ein Schatten an der Mauer」は、1950年の作。 戦後、ドイツ国内でも自由にペンをふるうことができるようになり、 ベンの後半生で最も旺盛に執筆活動に励んだころの一篇です。三行分けのHaikuのような印象的出だし。前期の詩に特徴的だった、横隔膜、流産、肝といった生々しい医学関連の用語は姿を消し、風に揺れる枝、天の戯れ、耕地、芥子など、一見のどかな自然の風景が描かれています。
第2連の「ご免だよ新たな感銘までも/押しつけがましく型どられるのは 」というのは、戦中の言論統制や戦争直後にナチスに協力したとして攻撃され状況が反映しているように思われます。
「騎士領(Rlttergut)」は、領有者が封主に対して、騎士としての軍役奉仕を義務づけられている所領。狭くは、神聖ローマ帝国で、領邦君主が騎士資格ある農村貴族に公認していた特権的所領のことをいいます。領有者は、君主に軍役奉仕を負うのと引換えに通常邦租(直接税)の減免、通行税の免除、領邦議会の成員資格、狩猟権、などを享有していました。
「芥子(Mohn)」は、地中海東部沿岸から小アジア原産と考えられるケシ科の二年草。トルコ、インドなどで多く栽培されます。全草が粉白色を帯び、高さは1.4mほど。葉は長卵形で、縁に粗い切れ込みがあります。5月ごろ、径10cm内外、白、紅、紫色などの4弁の一日花を開きます。果実はいわゆる芥子坊主です。未熟の果実を傷つけ、しみ出した乳汁を採集してアヘン(モルヒネ)を作ります。
最後の一行からすると、いまは芥子はhinsein(なくなって、失われて)しまっているというのです。
最後の一行からすると、いまは芥子はhinsein(なくなって、失われて)しまっているというのです。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
秋涼や一輪挿しの首長し
サイホンにあぶくぽこぽこ涼新た
仏壇や水蜜桃の薄明り
ひやひやと千手千体菩薩立つ
(りいの2013年12月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月05日
独語詩ノート6 オスカー・レルケ「海辺へと」
オスカー・レルケ「海辺へと」
Der Nebel reißt, der albisch kroch
Aus meinem Blut zum Totenfeld:
Ein Morgen scheint im Wolkenloch
Hoch auf die Welt.
私の血脈から死者たちの領野へと
聖職の白い衣のように這っていた霧が裂ける
雲間に開いたロから朝の光が射している
大地のうえ 高く
雲間に開いたロから朝の光が射している
大地のうえ 高く
Das Leben kommt von weitem her.
Und es geschieht, was einst geschah?
Mit ihrer Wäsche fährt ans Meer
Nausikaa.
命あるものは遠い彼方からこちらへ やってくるそして いっか起こったことが起こるのだろうか?
洗い物を車にのせて 海辺へとゆくのは
ナウシカア
Ein Weg weist nach Byzanz und Rom,
Für mich betritt ihn der Barbar.
Im Stein verwittert schon am Dom
Sein Mund, sein Haar.
道はビザンチウムとローマのほうを指している
私の目にあるのは 道に足を踏み入れてゆく彼の異邦人
石造物のなかで 大聖堂のかたわらで
石造物のなかで 大聖堂のかたわらで
そのロは その髪はもうぼろぼろに風化している
Doch wann bin ich? Der Morgen währt,
Ein Rauschen ruft, ein Meer ist nah –
Ans Meer mit ihrer Wäsche fährt
Nausikaa.
それにしても私が居るのはいったい いつなのだろう?
朝はまた来てざわめきが呼び寄せる すぐそこに海
海辺へと 洗い物を車にのせてゆくのは
ナウシカア
=2013年8月6日訳
海辺へと 洗い物を車にのせてゆくのは
ナウシカア
=2013年8月6日訳
オスカー・レルケ(1884 - 1941)は、自然抒情詩派の祖とも評されるドイツの詩人。西プロイセンのヴィスワ川下流の小さな村に生まれ、ベルリン大学に学ぶ。自然と音楽との清新な結びつきをうたう 『詩集』(1916)で認められ、その後、フィッシャー書店に勤めながら、『秘めやかな都市』(1921) 、『いちばん長い昼』(1926)と相次いで詩集を発表しました。、『大地の呼吸』(1930)の各
1928年には、プロイセン芸術アカデミー文学部会の常任幹事に就任。1930年に発表した詩集『大地の呼吸(ATEMDERERDE)』のなかに「ANS MEER」が収録されています。その後、ナチス体制に非協力の立場を堅持したため冷遇されましたが、アカデミーには踏みとどまりました。『銀あざみの森』( 1934)、『世界の森』(1936)など、晩年は、静かな自然観照のなかに深い懊悩と時代への呪詛とをこめた作品を生み出しています。
この詩は、ギリシアの叙事詩、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしているものと考えられ、4行詩4連からなる構成、「abab・・・・・・」の交差韻をふんでいます。第2連と第4連の最終行の「ナウシカア(Nausikaa)」は、『オデュッセイア』に登場するスケリア島(現在のケルキラ島とされる)の王女です。女神にも似た気品をもち、純粋無垢の象徴とされる。主人公のオデュッセウスはトロイア戦争からの帰り、幾多の苦難を経て故郷イタケーに帰り着く。その直前に立ち寄ったのが、ナウシカアの住むスケリア島でした。
オデュッセウスは、ポセイドーンの怒りに触れ、乗っていた筏は嵐に吹き飛ばされます。ナウシカアが侍女らと洗濯物を車に積んで海に近い河口にやってくると、漂泊のオデュッセウスが眠り込んでいました。 ナウシカアは乞食のような姿の彼に敢然と近づき、王宮に招き入れます。そして、オデュッセウスに愛情を抱くようになりますが、彼がイタケーの王で妻のもとに帰りたがっていることを知り、船でイタケーへと送り出します。別れ際にナウシカアは、帰国してもいっか自分のことを思い出して欲しいと告げるのです。
第3連に出てくるビザンチウムとローマは、それぞれ東ローマ帝国(395 - 1453)と西口ーマ帝国(395 - 476)を指しています。「異邦人」というのは、イエス・キリストのことでしょうか?
第4節であらためて「いったい いつなのだろう」と、眠りから醒めたオデュッセウスの問いが発せられます。時空を超えて人類の蘇生を暗示しているのでしょうか。詩人にとって時間は直線的に流れず、過去の出来事が現在と交錯しながら回帰的に現れます。朝のすがすがしい自然とナウシカアという神話像がもたらす幸運への予感がさわやかに流れていきます。
第3連に出てくるビザンチウムとローマは、それぞれ東ローマ帝国(395 - 1453)と西口ーマ帝国(395 - 476)を指しています。「異邦人」というのは、イエス・キリストのことでしょうか?
第4節であらためて「いったい いつなのだろう」と、眠りから醒めたオデュッセウスの問いが発せられます。時空を超えて人類の蘇生を暗示しているのでしょうか。詩人にとって時間は直線的に流れず、過去の出来事が現在と交錯しながら回帰的に現れます。朝のすがすがしい自然とナウシカアという神話像がもたらす幸運への予感がさわやかに流れていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
執着といふには軽し蝉の殻
鯵を焼く母の猫背の小さかり
盆の月生まれし村の名前消ゆ
右倣ひ左を真似て盆踊り
(りいの2013年11月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月04日
独語詩ノート5 ノヴァーリス「もはや数や図形が」
Novalis ; Wenn nicht mehr Zahlen und Figuren
ノヴァーリス「もはや数や図形が」
Wenn nicht mehr Zahlen und Figuren
ノヴァーリス「もはや数や図形が」
Wenn nicht mehr Zahlen und Figuren
Sind Schlüssel aller Kreaturen
Wenn die, so singen oder küssen,
Mehr als die Tiefgelehrten wissen,
Wenn sich die Welt ins freye Leben
Und in die Welt wird zurück begeben,
Wenn dann sich wieder Licht und Schatten
Zu ächter Klarheit werden gatten,
Und man in Mährchen und Gedichten
Erkennt die ewgen Weltgeschichten,
Dann fliegt vor Einem geheimen Wort
Das ganze verkehrte Wesen fort.[2]
もはや数や図形が 存在するもの
すべてをあらわす暗号ではなくなり
うたい くちづけ交わすものたちが
博学の徒よりも多くを知るのなら、
世界がとらわれのない生へと
すべてをあらわす暗号ではなくなり
うたい くちづけ交わすものたちが
博学の徒よりも多くを知るのなら、
世界がとらわれのない生へと
ほんらいの世界へともどってゆくのなら、
そしてふたたび 光と影が結びあわさって
正真正銘 澄んだ明るさを取りもどすなら、
メールヒェンと詩のなかに
永らえる世界の歴史が認められるなら、
そのときこそ 秘められたひとつの言葉によって
倒錯したもの何もかもが飛びさる
=2013年6月18日訳
そしてふたたび 光と影が結びあわさって
正真正銘 澄んだ明るさを取りもどすなら、
メールヒェンと詩のなかに
永らえる世界の歴史が認められるなら、
そのときこそ 秘められたひとつの言葉によって
倒錯したもの何もかもが飛びさる
=2013年6月18日訳
ノヴァーリス(Novalis、1772 - 1801)=写真=は、ドイツ初期ロマン派の詩人。本名Friedrich von Hardenberg、筆名はラテン語で「新開墾地」の意。イェーナ大学でシラーの講義を聴き、F.シュレーゲルと交友。23歳のとき13歳の少女ゾフィーと婚約しましたが2年後に死別。そのころから神秘力を確信するようになり、彼女の住む闇の世界にあこがれ、抒情詩『夜の賛歌』(1800年)が生まれました。論文『キリスト教世界またはヨーロッパ』では、宇宙・自然と自我の神秘的一致を主張する宗教的世界観を展開しました。
1799年着手した小説『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』と対照的な、永遠の生の神秘を啓示するものとしてのポエジーという、真のロマン的世界を示そうとした作品で、主人公の見る夢にちなんで『青い花』とも呼ばれましたが、未完に終わりました。1799年12月にはヴァイセンフェルスの製塩所試補となり、1800年にはテュ一リンゲン郡の地方長官採用予定者に任命されましたが患っていた肺結核が悪化、1801年3月、その職に就くことなく死にました。
この未完小説『青い花』の遺稿(ベルリン国立図書館所蔵の草稿、1800年夏、第二部第一章の執筆以前の断想と研究メモ)の中にあり、第2部の終わりでうたわれる予定になっていたのがきょうの詩です。
この作品は、二行ずつ脚韻(a a b b・・・・・・)を踏む民謡調の12行詩。反省のない独断的な合理主義が数字と図形によってあらわされ、それに対して、成長したハインリヒは、秘密の言葉を見いだすことによって真の世界の意味を解き明かそうとしています。「ノヴァーリスの詩では最も知られたもので、 平板な啓蒙を揶揄し、 えせ学問を批判し、芸術への傾倒を示し、 神聖なものとして太古へ憧れ、 世界変容を願う軽快な歌である」(青山隆夫の『青い花』の解説から)。
さらに「第二部で物語は変哲もない日常的なことから、たえず不思議なものへと移行し、その両者が互いに解明しあい、補足しあうのである。韻文で序曲を語る霊が、各章の終りに登場し、そこの気分や事物の不思議な見解を繋ぎとめるはずであった。このような方法によって、不可視の世界が可視の世界と永遠の結合を保ってきた。この語りかける精霊は詩それ自体であり、また同時にハインリヒとマティルデの抱擁から生まれた星人でもある。作中に挿入される予定のこの詩に、 著者は自分の本の内面精神をきわめて軽妙に表現した」(ルートヴィッヒ・ティーク)のでした。
この未完小説『青い花』の遺稿(ベルリン国立図書館所蔵の草稿、1800年夏、第二部第一章の執筆以前の断想と研究メモ)の中にあり、第2部の終わりでうたわれる予定になっていたのがきょうの詩です。
この作品は、二行ずつ脚韻(a a b b・・・・・・)を踏む民謡調の12行詩。反省のない独断的な合理主義が数字と図形によってあらわされ、それに対して、成長したハインリヒは、秘密の言葉を見いだすことによって真の世界の意味を解き明かそうとしています。「ノヴァーリスの詩では最も知られたもので、 平板な啓蒙を揶揄し、 えせ学問を批判し、芸術への傾倒を示し、 神聖なものとして太古へ憧れ、 世界変容を願う軽快な歌である」(青山隆夫の『青い花』の解説から)。
さらに「第二部で物語は変哲もない日常的なことから、たえず不思議なものへと移行し、その両者が互いに解明しあい、補足しあうのである。韻文で序曲を語る霊が、各章の終りに登場し、そこの気分や事物の不思議な見解を繋ぎとめるはずであった。このような方法によって、不可視の世界が可視の世界と永遠の結合を保ってきた。この語りかける精霊は詩それ自体であり、また同時にハインリヒとマティルデの抱擁から生まれた星人でもある。作中に挿入される予定のこの詩に、 著者は自分の本の内面精神をきわめて軽妙に表現した」(ルートヴィッヒ・ティーク)のでした。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
履き古りし靴また履きて山開
噴水のさざめき絶えず手術待つ
蚊喰鳥かくれごの鬼ひとりきり
(りいの2013年10月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月03日
独語詩ノート4 インゲボルク・バッハマン「壁の背後で」
Ingeborg Bachmann ; HINTER DER WAND
インゲボルク・バッハマン「壁の背後で」
Ich hänge als Schnee von den Zweigen
in den Frühling des Tals,
als kalte Quelle tréibe ich im Wind,
feucht fall ich in die Blüten
als ein Tropfen,
um den sie faulen
wie um einen Sumpf.
Ich bin das Immerzu-ans-Sterben-Denken.
私は雪になって枝々にひっかかっている
谷間の春のなかへと
谷間の春のなかへと
冷たい清水となって 私は風のなかを流れる
しっとり濡れて 私は花たちのなかに落ちる
ひとつの雫となって
しっとり濡れて 私は花たちのなかに落ちる
ひとつの雫となって
まわりで花たちは痛み崩れる
沼の近傍のように
沼の近傍のように
私とは《いつも死のこと・思慮するもの》だ
Ich fliege, denn ich kann nicht ruhig gehen,
durch aller Himmel sichere Gebäude
und stürze Pfeiler um und höhle Mauern.
Ich warne, denn ich kann des Nachts nicht schlafen,
die andern mit des Meeres fernem Rauschen.
Ich steige in den Mund der Wasserfälle,
und von den Bergen lös ich polterndes Geröll.
私は飛ぶ なぜなら平静に歩くこと私はできないから
すべての天の頑丈な建物たちを通りぬけ
そして柱たちを覆し そして塀たちを穿つ
私は警鐘を鳴らす 夜眠ること私はできないから
ほかの人たちに 遠い海のざわめきによって
私は滝のロのなかへとのぼってゆく
すべての天の頑丈な建物たちを通りぬけ
そして柱たちを覆し そして塀たちを穿つ
私は警鐘を鳴らす 夜眠ること私はできないから
ほかの人たちに 遠い海のざわめきによって
私は滝のロのなかへとのぼってゆく
そして山々から騒がしい岩のガレキを取り放つ
Ich bin der großen Weltangst Kind,
die in den Frieden und die Freude hängt
wie Glockenschläge in des Tages Schreiten
und wie die Sense in den reifen Acker.
私は大きな世界不安の子どもだ
それは平穏と楽しみのなかにぶら下がる
昼間の歩みに打ち鳴らされる鐘のように
そして熟れた畑のなかの大鎌のように
昼間の歩みに打ち鳴らされる鐘のように
そして熟れた畑のなかの大鎌のように
Ich bin das Immerzu-ans-Sterben—Denken.
私とは《いつも死のこと・思慮するもの》だ=2013年5月21日訳
インゲポルク・バッハマン(Ingeborg Bachmann、1926 - 1973)=写真=は、オーストリアの詩人、小説家。インスプルック、グラーツ、ウィーンの大学で哲学、心理学、文献学、法律学を学び、1949年にウィーン大学で哲学の博士号(ハイデッカー論)を取得。卒業後、脚本家兼編集者としてオーストリアのラジオ局に勤務し、放送劇を書きました。
ヒトラー政権崩壊後の文学を担う若手作家の育成を目指した「47年グループ」の作品発表会で詩が評価され、1953年に詩集『猶予の時』でデビュー。この詩にもうかがえるような、当時の戦争文学とは一線を画した鮮烈な作品で文壇に名を馳せました。この年ロー マに移り、詩、エッセー、オペラの台本などを執筆、1964年のゲオルク・ビュヒナー賞などを受けました。1971年、長編小説『マリーナ』を発表。1973年、次作の完成前にローマの自宅で重度の火傷を負い、10日後に死にました。
「HINTER DER WAND」は、生前未発表、1948年から1953年に作られた詩と考えられます。ドイツの哲学者アドルノが「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」(1949年ニューヨーク)という、よく知られたテーゼを発したころの作品です。
バッハマンは作家の言葉について次のように述べています。「新しい言葉は、新しい歩調をもっています。この歩調は、言葉に新しい精神が住み着いて初めて可能となるのです。私たちはみな言葉というものを知っていると思っています。言葉を扱っているわけですから。でも作家は違います。作家は言葉を扱うことは出来ないのです。言葉は作家を恐れさせます。自明のものではありません。言葉は文学というものが存在する以前から存在しています。生動し、一つのプロセスの中におかれ、使用されるために。しかし作家は言葉を使用することはできません。言葉は作家にとって、随時取り出すことができるような、在庫品ではありません。すべての人々の社会的な対象物、共有財産ではないのです。言葉は、作家が望んでいるもの、言葉をもって望んでいるものに対して未だ真価を発揮したことはないのです」(バッハマンのフランクフルト大学での 1959-1960講義「現代文学の諸問題」、山田貞三訳)
ヒトラー政権崩壊後の文学を担う若手作家の育成を目指した「47年グループ」の作品発表会で詩が評価され、1953年に詩集『猶予の時』でデビュー。この詩にもうかがえるような、当時の戦争文学とは一線を画した鮮烈な作品で文壇に名を馳せました。この年ロー マに移り、詩、エッセー、オペラの台本などを執筆、1964年のゲオルク・ビュヒナー賞などを受けました。1971年、長編小説『マリーナ』を発表。1973年、次作の完成前にローマの自宅で重度の火傷を負い、10日後に死にました。
「HINTER DER WAND」は、生前未発表、1948年から1953年に作られた詩と考えられます。ドイツの哲学者アドルノが「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」(1949年ニューヨーク)という、よく知られたテーゼを発したころの作品です。
バッハマンは作家の言葉について次のように述べています。「新しい言葉は、新しい歩調をもっています。この歩調は、言葉に新しい精神が住み着いて初めて可能となるのです。私たちはみな言葉というものを知っていると思っています。言葉を扱っているわけですから。でも作家は違います。作家は言葉を扱うことは出来ないのです。言葉は作家を恐れさせます。自明のものではありません。言葉は文学というものが存在する以前から存在しています。生動し、一つのプロセスの中におかれ、使用されるために。しかし作家は言葉を使用することはできません。言葉は作家にとって、随時取り出すことができるような、在庫品ではありません。すべての人々の社会的な対象物、共有財産ではないのです。言葉は、作家が望んでいるもの、言葉をもって望んでいるものに対して未だ真価を発揮したことはないのです」(バッハマンのフランクフルト大学での 1959-1960講義「現代文学の諸問題」、山田貞三訳)
『バッハマン/ツェラン往復書簡』(青土社)の訳者、中村朝子は、その「あとがき」で、「イタリアと旧ユーゴスラヴィアとの国境に近いオーストリア南部の町クラーゲンフルトに「ドイツ語を書きながら、ドイツとはこの言葉によってしか繋がりを持たない」者として生まれ育ったバッハマンは、早くから言葉の限界や言葉とアイデンティティの問題についての意識を目覚めさせられ、長じてハイデッガーならびにヴィトゲンシュタインの研究にも向かう。だが同時に 彼女の故国オーストリアは彼女の少女期にナチス・ドイツに併合され、彼女の父も一時期オーストリア・ナチスの党員となり、第ニ次世界大戦には将校として従軍したのであり、彼女の詩作は自身がいわば加害者の娘として繋がるナチズムの過去と向き合うことで始まったということができる」と指摘しています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
十薬や行李開けたる勝手口
夫送り老母青梅漬け始む
鋤簾掻く砂の老婆や青嵐
(りいの2013年9月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月02日
独語詩ノート3 ペーター・フーヘル「オリーブの木と柳」
Peter Huchel ; Ölbaum und Weide
ペーター・フーヘル「オリープの木と柳」
Im schroffen Anstieg brüchiger Terrassen
dort oben der Ölbaum,
am Mauerrand
der Geist der Steine,
noch immer
die leichte Brandung
von grauem Silber in der Luft,
wenn Wind die blasse Unterseite
des Laubs nach oben kehrt.
くずれかけた段丘の険しいのぼり坂
そのうえに オリーブの木
塀ぎわには
石たちの精
いまも
そのうえに オリーブの木
塀ぎわには
石たちの精
いまも
中空(なかぞら)にうす明るい銀の波
軽やかに寄せ 砕けちる
色あせた葉のうらを風が
天へとめくり上げると
軽やかに寄せ 砕けちる
色あせた葉のうらを風が
天へとめくり上げると
Der Abend wirft sein Fangnetz ins Gezweig.
Die Urne aus Licht
versinkt im Meer.
Es ankern Schatten in der Bucht.
夜の闇が枝に投網をうつ
光の骨壺が
海にしずむ
光の骨壺が
海にしずむ
影は人江に停泊している
Sie kommen wieder, verschwimmend im Nebel,
durchtränkt
vom Schilfdunst märkischer Wiesen,
die wendischen Weidenmütter,
die warzigen Alten
mit klaffender Brust,
am Rand der Teiche,
der dunkeläugig verschlossenen Wasser,
die Füße in die Erde grabend,
die mein Gedächtnis ist.
霧にかすみながら またやってくる
マルク(辺境)の草地の葦にけむるもやを
たっぷりしみ込ませて
ヴェンドの柳の母たちが
胸はだけた
マルク(辺境)の草地の葦にけむるもやを
たっぷりしみ込ませて
ヴェンドの柳の母たちが
胸はだけた
疣(いぼ)だらけの老婆たちが
池のヘり
池のヘり
黒い瞳 口を閉ざした水辺で
私の記憶の大地に
足を埋めながら
=2013年3月5日訳
私の記憶の大地に
足を埋めながら
=2013年3月5日訳
ペーター・フーヘル(Peter Huchel、1903 - 1981)=写真=は、ベルリン近郊のグロース・リヒターフェルデに生まれ、ベルリン大学、フライブルク大学、ウイーン大学に学びました。1941年より兵役に就き、ソ連捕虜収容所で終戦を迎えました。戦後、ソ連管区のベルリン・ラジオ放送局に勤務。1948年に第1詩集『詩集』を刊行。翌1949年から文学雑誌『意味と形式』(Sinn und Form) の編集長を務め、B・ブレヒト、E・ブロッホら、多くの作家、思想家たちと親交を結びました。
しかし、彼の広い視野に立つ編集方針や論評が批判され1962年辞職。1963年に西ベルリンのフォンターネ賞を受けたのを機に、同年4月から1971年までポッダム・ヴィルヘルムホルストの自宅に軟禁、秘密警察の監視下に置かれました。1971年4月、国際ペンクラフの調停で10年有効の旅券をもって東ドイツを出国。ローマ近郊の芸術家村ヴィラ・マッシモに滞在し、ベルギー、イギリス、オランタ、イタリアなどを旅行しました。
この詩は、そんな時期に作られたものらしく、「アルジェンタリオ、1971年9月」と添え書きされています。旅先、イタリア・トスカーナ州のモンテ・アルジェンターリオ(Monte Argentario)での作のようです。発表は、1972年。冒頭からイタリアらしい明るい光景が描かれ、長い軟禁生活から解き放たれた開放感がつたわってきます。
4行目に「石たちの精(der Geist der Steine)」とありますが、詩「捕囚」(1966年)に「誠実であれ、と石は言う。/白む朝明けが/はじまり、すると光と葉叢が/入りまじって住みつき/そして 顔は/一本の炎となって燃え尽きるのだ。」(小寺昭次郎訳)とあります。石は詩人が頼りとし、守ってくれる存在でしょうか。
2連目。「骨壺」や「影」は、死者の世界、生が打ちされる暗示のように思われます。
3連目の「霧にかすみながら またやってくる」というのは、幼年時代の追億のことでしょう。詩集『街道街道』のトビラに、「わたしの記憶の大きな中庭に。そこにわたしには天と地と海が現存する」というアウグスチヌスの「告白」のことばが挿入されています。
「マルク(märk)」は「辺境」の意味。ブランデンブルクは、古くからマルク・ブランデンブルクと呼ばれてきました。中世、ドイツ東部にはスラブ人が多く住み、ドイツ人にとってのフロン ティアだったのです。
「ヴェンド(wend)」は、ゲルマン人居住地の近くに住むスラブ人をさすゲルマン語(ドイツ語)。出身地ベルリン周辺で共存するスラブ民族の中に根付くものを、ヴェンドと呼んでいるのでしょうか。フーヘルは生母が肺結核だったため、ポツダム付近の母方の祖母の百姓屋敷でアンナという下女に育てられました。そうした経験から、抑圧された貧しい労働者と、川、湖、葦など北ドイツ湿地帯の自然との一体感を感じるようになったようです。
「ヴェンドの柳の母たち」の「柳」は、「(柳の)根には/放浪者たちの/秘密が隠されている、」(詩「東部の川」)。「母たち」は故の大地を顕現し、命を与える「大母」を意味するのか。詩人と大母の地との関係性は、もはや失われ、命を奪う、帰還のかなわぬものとなってしまったのです。
イタリアの明るい光が、輝けば輝くほど、喪夫感、孤独、そして死へと、影は、その深まりと濃さを増していきます。この詩を読んでふと、フェデリコ・ガルシア・ロルカが暗殺されたとされる、ビスナールの丘のオリープの木を思い出しました。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
柳絮舞ふ蘇軾の村に入りけり
竹林を弾くきぎすの声高し
風薫る御河童少女髪乱れ
(りいの2013年8月)
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
柳絮舞ふ蘇軾の村に入りけり
竹林を弾くきぎすの声高し
風薫る御河童少女髪乱れ
(りいの2013年8月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年02月01日
独語詩ノート2 イヴァン・ゴル「ハイ・カイ」
Y.Goll ; Hai-Kais
イヴァン・ゴル「ハイ・カイ」
(1)
Wir arbeiten zu Hunderten zusammen.
イヴァン・ゴル「ハイ・カイ」
(1)
Wir arbeiten zu Hunderten zusammen.
Wir lieben zu zweit.
Wir sterben jeder allein.
なん百人と ともに働きふたり 愛しあい
死は ひとり ひとり
(2)
Fünf Kontinente zittern,
wenn der Kornpreis steigt :
Und nicht, wenn du weinst !
作物の値だん上がるなら
五つの大陸 ぶるぶるふるえる
五つの大陸 ぶるぶるふるえる
きみが泣いたって なんにも起こらない
(3)
(3)
Rot, rot ist das seidene Mieder des Mohns,
Aber schwarz und verkohlt
Darunter das Herz.
赤 絹のコルセットは芥子の赤なのに黒ずみ 炭になる
心がそのしたに
(4)
Die schwarzen Ochsen vor dem Abendhimmel
Wie schwanken sie
Schwer von Vergißmeinnicht.
夕暮れの空に 黒ずんだ雄牛たち
ゆらゆらゆれている
ゆらゆらゆれている
わすれな草の 重い悲しみ
(5)
Ein dunkler Baumstamm bin ich.
Aber in meinem Grüngezweig
Zwitscherst du.
ぼくは一本の 暗い木の幹でも 若葉しげるぼくの枝で
きみは囀っている
(6)
Wie ein ZitroneneisZerging die letzte Wolke
Auf den Lippen des Abends.
ひとつのレモンアイスのように最後の雲が とけてなくなっていった
黄昏のくちびるのうえで
(7)
Tagtäglich sitz ich
An deiner Wimpern blauem Ufer
Und angle die Melancholie.
毎日まいにち ぼくは腰かけているきみの睫毛にある 青い海べに
そして憂うつをつりあげる
(8)
Dein Herz,arbeitend Tag und Nacht,
Erzeugt den Weltstrom:
Millionen Volt der Liebe.
昼も夜も働いている きみの心臓は
世界の海流をつくり出す
世界の海流をつくり出す
1 0 0万ポルトの愛
(9)Die Schwalben wurden dieses Jahr
Aus Kairo importiert:
Am Güterbahnhof stehen noch die Wagen.
(10)Herbstraben kreisen über dem Haus.
Fäult irgendwo ein Aas?
Mein längst gestorbens,nie entdecktes Herz.
ツバメたちは ことし
カイロから輸入されてきた
貨物駅にはまだ 車両がある
カイロから輸入されてきた
貨物駅にはまだ 車両がある
(10)
Fäult irgendwo ein Aas?
Mein längst gestorbens,nie entdecktes Herz.
秋ガラスたちが家のうえ 旋回している
どこかに屍肉 朽ちているのか?
どこかに屍肉 朽ちているのか?
ぼくはずっと前に死んだ 一度もこころ打ちあけず
=2012年12月18日訳
イヴァン・ゴル(Yvan Gol、1891 - 1950)=写真=は、アルザス・ロレーヌ生まれの詩人。フランス語とドイツ語をはじめ、多言語、多文化の中にいた詩人で、「運命によってユダヤ人として、偶然によってフランスの地に生まれ、一枚の印紙によってドイツ人の烙印を捺された」と自ら語っています。
ゴルは、第一次大戦中に、スイスのローザンヌ、ジュネープ、チューリッヒなどで、亡命芸術家、表現主義者、ダダイストらと知り合い、多くの詩を表現主義の雑誌に発表しました。1918年夏にはボヘミ
ゴルは、第一次大戦中に、スイスのローザンヌ、ジュネープ、チューリッヒなどで、亡命芸術家、表現主義者、ダダイストらと知り合い、多くの詩を表現主義の雑誌に発表しました。1918年夏にはボヘミ
アン、無政府主義者らののコロニーがつくられていたアスコナに滞在した後、1919年にパリに移っています。ゴルは、ブルトンに先行して『シュルレアリズム』(1924年10月、1号のみ)の名の雑誌を刊行したことでも知られています。
「ハイカイ」とは、日本の俳句がヨーロッパに翻訳、紹介されはじめたころ、それを範に創作されたフランス語の三行詩に用いられた言葉。ゴルは、20世紀の都市化や科学技術がもたらした生活様式の急激な変化を新しい詩の基盤とするには従来の表現主義的抒情詩では時代遅れで、新しい時代のパワーとスピードに応じた簡潔で力を秘めた表現形式が必要だと考え、それを日本の俳句に求めました。
「ハイカイ」とは、日本の俳句がヨーロッパに翻訳、紹介されはじめたころ、それを範に創作されたフランス語の三行詩に用いられた言葉。ゴルは、20世紀の都市化や科学技術がもたらした生活様式の急激な変化を新しい詩の基盤とするには従来の表現主義的抒情詩では時代遅れで、新しい時代のパワーとスピードに応じた簡潔で力を秘めた表現形式が必要だと考え、それを日本の俳句に求めました。
「ゴル抒情詩集』(1996年、全4巻)の第1巻(初期詩集1906 - 1930)に、ハイカイ詩53篇が収録されていますが、上にあげたのは、そのうえの10編。日本の俳句と異なり、五七五の音数律や季語への配慮は特にないようです。
(4)の「Vergißmeinnicht(わすれな草)」には、次のようないわれがあるそうです。騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、Vergiss meinnicht! (僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたべルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。
(4)の「Vergißmeinnicht(わすれな草)」には、次のようないわれがあるそうです。騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、Vergiss meinnicht! (僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたべルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。
上田敏『海潮音』には次のような一篇もあります。
わすれなぐさ ウィルヘルム・アレント
わすれなぐさ ウィルヘルム・アレント
ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。
(9)には「Die Schwalben(ツバメたち)」とありますが、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』(1888)では、金色に輝く王子の像が、越冬のために渡ろうとするツバメを使いにして、貧しく不幸な人々のために自らがる上女宿を分け与える、ことになっています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
春暁や諸手で掬ふ井戸の水
一陣の風追ふ雉子や古戦場
弓取の弓手たをやか夕長し
山寺の沢は閑かや花まつり
(りいの2013年7月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年01月31日
独語詩ノート1 シラー「新世紀の始まり」
Friedrich von Schiller;Der Antritt des neuen Jahrhunderts
シラー「新世紀の始まり」
シラー「新世紀の始まり」
Edler Freund! Wo öffnet sich dem Frieden,
Wo der Freiheit sich ein Zufluchtsort?
Das Jahrhundert ist im Sturm geschieden,
Und das neue öffnet sich mit Mord.
平和が 自由がひろがっている
そんな隠れ家がどこにあるのか 尊き友よ!
そんな隠れ家がどこにあるのか 尊き友よ!
百年は嵐のなかに過ぎさり
新たな世紀は殺伐とした喧騒にはじまる
Und das Band der Länder ist gehoben,
Und die alten Formen stürzen ein;
Nicht das Weltmeer hemmt des Krieges Toben,
Nicht der Nilgott und der alte Rhein.
国と国のきずなは取りはらわれ
つちかわれてきたカタチは崩れさる
荒れ狂う戦乱を大海原が 阻むことはない
ナイルの神も 老いたライン川も ・・・・・・①
つちかわれてきたカタチは崩れさる
荒れ狂う戦乱を大海原が 阻むことはない
ナイルの神も 老いたライン川も ・・・・・・①
Zwo gewaltge Nationen ringen
Um der Welt alleinigen Besitz,
Aller Länder Freiheit zu verschlingen,
Schwingen sie den Dreizack und den Blitz.
強大なふたつの国が 世界を ・・・・・・②
ひとりじめにしようと触手を伸ばしている
国々の自由すべてをむさぼり食おうと
ひとりじめにしようと触手を伸ばしている
国々の自由すべてをむさぼり食おうと
三叉の矛をふりかざし 稲妻でおどす ・・・・・・③
Gold muß ihnen jede Landschaft wägen,
Und wie Brennus in der rohen Zeit
Legt der Franke seinen ehrnen Degen
In die Waage der Gerechtigkeit.
かの地もこの地も黄金をさし出すしかない野蛮なあの時代のブレンヌスのように ・・・・・・④
フランスは裁きの天秤ばかりに
鉄のつるぎを置く
Seine Handelsflotten streckt der Brite
Gierig wie Polypenarme aus,
Und das Reich der freien Amphitrite
Will er schließen wie sein eignes Haus.
イギリスは商船の隊列を繰り出してゆく
タコの足のように貪欲にところかまわず
そして自由なるアンピトリテの領海を ・・・・・・⑤
わがもの顔で囲い込もうとしている
タコの足のように貪欲にところかまわず
そして自由なるアンピトリテの領海を ・・・・・・⑤
わがもの顔で囲い込もうとしている
Zu des Südpols nie erblickten Sternen
Dringt sein rastlos ungehemmter Lauf,
Alle Inseln spürt er, alle fernen
Küsten – nur das Paradies nicht auf.
南極へまでいっても星々は遠い ・・・・・・ ⑥、⑦
なのに さだめなき不断の行進はつづき
なのに さだめなき不断の行進はつづき
いかなる島々も 遥かな海岸線をも探り出す
―—天国 だけを除いて
―—天国 だけを除いて
Ach umsonst auf allen Länderkarten
Spähst du nach dem seligen Gebiet,
Wo der Freiheit ewig grüner Garten,
Wo der Menschheit schöne Jugend blüht.
ああ あらんかぎりの国々の地図できみが
とこしえに緑しげる自由の園のありかを
人びとがうるわしい青春の花を咲かせる地を
見つけ出そうとしても 無駄なこと
とこしえに緑しげる自由の園のありかを
人びとがうるわしい青春の花を咲かせる地を
見つけ出そうとしても 無駄なこと
Endlos liegt die Welt vor deinen Blicken,
Und die Schiffahrt selbst ermißt sie kaum,
Doch auf ihrem unermeßnen Rücken
Ist für zehen Glückliche nicht Raum.
きみの眼前には果てなき世界がひろがっている
そこでの航海が如何なるものか推しはかることはできまい
そこでの航海が如何なるものか推しはかることはできまい
だというのに この広大無辺の背中には
幸運な十人のための居場所もないのだ
幸運な十人のための居場所もないのだ
In des Herzens heilig stille Räume
Mußt du fliehen aus des Lebens Drang,
Freiheit ist nur in dem Reich der Träume,
Und das Schöne blüht nur im Gesang.
汲汲とした喧騒の日々からきみは逃れなければならない崇高なこころで静寂な空間のなかへと
自由は夢の国のなかだけにある そして美しきは
歌のしらべにのみ花ひらく
=2012年10月30日の訳
自由は夢の国のなかだけにある そして美しきは
歌のしらべにのみ花ひらく
=2012年10月30日の訳
ドイツ文学者であり、俳人でもあった檜山哲彦さんが、昨年(2023年)12月30日に亡くなりました。私にとっては、12年間にわたってドイツ語やドイツ語の詩の指導を受けた先生であり、また、檜山さん主宰の「りいの」誌の同人として俳句の教えも受けてきました。さらには、かけがえのない人生の師でもあった檜山さんを私なりにしのんで、きょうからしばらく、指導を受けた際のノートのなかから、稚拙ながら試みたドイツ語詩の私訳(試訳)を拾いあげ、再読していきたいと思います。
一回目のきょうは、2012年10月30日の日付のある私のノートから、シラーの「Der Antritt des neuen Jahrhunderts」です。
シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759-1805)=写真=は、ドイツの有名な劇作家・詩人。軍医の子として生れ、軍人学校で法律や医学を学んだものの、「シュトゥルム・ウント・ドラング」の吹荒れるなかで戯曲『群盗』( Die Räuber、1781)を書き、劇作家としてはなばなしいスタートを切りました。以後各地を転々としながら戯曲や思想詩、評論などをつぎつぎに発表し文名を高めました。
1789年からイェナ大学で歴史を講じ、1794年からゲーテとの交友が始まり、はドイツ古典主義となって結実しました。1796年には二行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した『クセーニエン』(Xenien)を共同制作しました。1799年末からはワイマールに住み、ゲーテとの交流はより深まっていきます。
この詩は、こうした時期、まさに新世紀の始まり「Der Antritt des neuen Jahrhunderts」にあたる1801年に作られた全9連からなる4行詩。トロヘーウス(強弱格)、交差韻(a b a b)を踏んでいます。
1789年からイェナ大学で歴史を講じ、1794年からゲーテとの交友が始まり、はドイツ古典主義となって結実しました。1796年には二行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した『クセーニエン』(Xenien)を共同制作しました。1799年末からはワイマールに住み、ゲーテとの交流はより深まっていきます。
この詩は、こうした時期、まさに新世紀の始まり「Der Antritt des neuen Jahrhunderts」にあたる1801年に作られた全9連からなる4行詩。トロヘーウス(強弱格)、交差韻(a b a b)を踏んでいます。
①の「ナイルの神」は、大地、豊穣、創造をつかさどる神々を養い、ナイルの氾濫によって恵みをもたらす神ハビをイメージしているのか。
②「ふたつの国」は、フランスとイギリスのこと。詩が作られた1801年にはフランスとオーストリアがリュネヴィルの和約を締結。戦いに敗れたオーストリアは、フランスのライン川左岸支配を容認して第2次対仏大同盟は崩壊。イギリスだけがフランスとの戦争を続けることになりました。
③ギリシャ神話の最高神ゼウスは、宇宙、雲、雨、雷などを支配。ゼウスに次ぐポセイドンは、大海と大陸を支配する三つ叉の矛を持ち、これを使ってたやすく嵐や津波を起こすとされます。
④「プレンヌス」は、ガリア人・セノネス族の族長で、前387年アツリアの戦いでローマを占領。ローマ人に身代金として黄金1000ポンド(327キロ)で合意したが、竿秤の計測の正当性をめぐって争いになり、プレンヌスは「征服された者に災いあれ」と叫んで剣を秤に置いて割り増しを要求したといわれます。
⑤「アンピトリテ」は、海の女神で、ポセイドンの妃。ポセイドンからイルカを貰って結婚を承諾します。
⑥南極は、1773年1月に英国の海軍十官ジェームズ・クック(1728-1779)が南極圏に突入。クックは卓越した地図作成技術をもち、オーストラリア東海岸やハワイ諸島など多くの島や海岸線を見つけて欧州へ報告しています。南極大陸の発見は1820年です。
⑦ここに「星々」とありますが、この詩が作られた1801年の1月1日には、イタリアのジョゼッペ・ピアッツィが小惑星ケレスを発見して、ガウスが軌道を計算するなどしています。また、 シラーの名が付いた小惑星(3079 Schiller, 1960)もあります。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
きょうからしばらく、「りいの」(檜山哲彦主宰)に載せていただいた私の句をあげていきます。
影法師連れて梅見の列に入る
野火走り天狗の森を囲みけり
春疾風喧嘩別れの友逝けり
太筆に墨どつぷりと暖かし
(りいの2013年6月)
harutoshura at 03:00|Permalink│Comments(0)
2024年01月30日
安水稔和「地名抄・妙高**」
妙高**
目のしたに
尾根が走り。
谷がひろがり
丘がうねり。
川が光り
家々が集まり。
蜘蛛の糸のように
道がのび。
あれが黒姫
あれが戸隠。
あの光るのが
野尻湖。
遠く遠く
白い雲が流れ。
頭上には
真夏の太陽。
詩人は、妙高山頂のあたりから、「目のしたに/尾根が走り。/谷がひろがり/丘がうねり」する下界を眺めています。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
どこまで続くか一本道
道幅はしだいに狭く
落とし穴の数も増える
窮地に穴を踏む
踏むと
手にもつ皿が逃げていく
(神原芳之『流転』の「0・5秒の宇宙遊泳」から)
目のしたに
尾根が走り。
谷がひろがり
丘がうねり。
川が光り
家々が集まり。
蜘蛛の糸のように
道がのび。
あれが黒姫
あれが戸隠。
あの光るのが
野尻湖。
遠く遠く
白い雲が流れ。
頭上には
真夏の太陽。
詩人は、妙高山頂のあたりから、「目のしたに/尾根が走り。/谷がひろがり/丘がうねり」する下界を眺めています。
妙高山をはじめとする妙高火山群、焼山、黒姫山、飯綱山、戸隠連峰、さらには野尻湖など、新潟・長野両県にまたがる地域は、妙高戸隠連山国立公園となっています。面積約400平方キロ。一帯の高原は、夏は避暑地、冬季にはスキー場として利用され、温泉保養地もたくさんあります。
詩人は、目に入ってくる川や集落、道をたどりながら、「あれが戸隠。/あの光るのが/野尻湖」というように、場所を確認していきます。
野尻湖は、長野県の北端、上水内郡信濃町にある東方の斑尾山の噴出物でせき止められてできた湖。周長14km、最深部38m。湖岸は出入りに富み、東岸は絶壁、湖中に琵琶島が浮かんでいます。西には妙高、黒姫、飯綱の三火山。湖底や湖岸からはナウマンゾウの化石が発掘されています。戸隠山は標高1904m。神話の天の岩戸が落ちてできたものと伝えられ、山岳信仰で知られる戸隠神社があります。
・・・・・・・・・・・・・・・欄外雑記・・・・・・・・・・・・・・・
どこまで続くか一本道
道幅はしだいに狭く
落とし穴の数も増える
窮地に穴を踏む
踏むと
手にもつ皿が逃げていく
(神原芳之『流転』の「0・5秒の宇宙遊泳」から)