2021年09月22日

マティソン「想い(Andenken)」

きのう読んだゲーテの詩とよく似た、ドイツの詩人マティソンの詩を、きょうは、訳して読んでいくことにします。

  想い( Andenken)

私はあなたを想います
林園つきぬけ
サヨナキドリの
和声ひびき渡るときに!
あなたはいつ私を想ってくれるのですか?
Ich denke dein,            
Wenn durch den Hain          
Der Nachtigallen            
Akkorde schallen!            
Wann denkst du mein?         

私はあなたを想います
夕暮れの明るさの
ほのかな光のなかで
陰をなす泉のほとりで
あなたはどこで私を想ってくれるのですか?
Ich denke dein             
Im Dämmerschein           
Der Abendhelle             
Am Schattenquelle!           
Wo denkst du mein?           

私はあなたを想います
甘美な痛みとともに
不安な思慕 そして
熱い一滴の涙とともに
あなたはどのように私を想ってくれるのですか?
Ich denke dein             
Mit süßer Pein             
Mit bangem Sehnen           
Und heißen Tränen!           
Wie denkst du mein?          

ああどうか、私を想って。
よりよい星のもとで
いっしょになれるまで
どんなに遠くにあっても
私はあなただけを想っているのです 
O denke mein,             
Bis zum Verein             
Auf besserm Sterne!           
In jeder Ferne              
Denk‘ ich nur dein!             

MatthissonF

「想い(Andenken)」は、1792~93年の作。1802年に発表されています。脚韻は、aabba aacca aadda aaeea。次のような4詩節から成り立っています。

[第1節] 聴覚に働きかける(ナイチンゲールの鳴き声)。スズメ目ヒタキ科のサヨナキドリ(nightingale)は、全長15、16cm。背面は褐色で、下面は白く、尾は赤褐色。茂った藪の中にすみ繁殖期には夜間も美声でさえずります。繁殖期になると、雌は夜に活発に動き回って気に入った雄を探しているので、雄の夜間のさえずりは雌への求愛行動だということが判明しました。第3・4詩行「Der Nachtigallen/Akkorde schallen」、ナイチンゲールは和音(Akkorde)を奏でるのか、やや不釣り合いな表現のようにも思えます。

[第2節] 「Dämmerschein」「Abendhelle」「Schattenquelle」など、「死」を暗示する語句が並んでいます。

[第3節] 甘美な苦しみ(süßer Pein)、不安な憧れ(bangem Sehnen)、熱い涙(heisen Thränen)などからして、「Ich」は、幸福な状況ではない事が察せられます。

[第4節] 「Bis zum Verien / Auf besserm Sterne(よりよい星のもとでいっしょになれるときがくるまで」というのは、この世ではいっしょになれない、身分違いの恋でしょうか? 

ドイツの詩人マティソン( Friedrich von Matthisson、1761-1831)は、村の牧師の息子としてホーエンボーデレーベンに生まれ、ハレ大学で神学と文献学を学びました。名前に「von」(貴族の出身を示す)が付いていますが、貴族の生まれというわけではなく、功労貴族(Verdienst-adel)と思われるます。

1781年からデッサウで教職につきます。1784年、スイスの作家Bonstettenとジュネーブ湖畔のニヨンに2年間住み、1794年には、アンハルト・デッサウのルイザ王女(レオポルト3世の妻)の朗読・旅行担当に任命され、スイス、チロル、イタリアを訪れています。

その間に、きのうのゲーテ「恋人の傍ら」のもとになる詩を作った、デンマークの作家でサロンニストのブルン(Friederike Brun)と行動を共にしています。1811年にルイザ王女が亡くなり、以後、ヴュルテンベルク王に仕え、シュトゥットガルトの宮廷劇場や王立図書館関係の仕事に従事するなどしたのち、1828年に引退しています。

マティソンが好んだ語彙に「小屋」Hütte、「村」Dorf、「泉」Quelle、「池」Teich、「葦」Schilf、「小道」Pfad、「丘」Hügel、「農夫」Landmann、「牧人」Hirt、「漁夫」Fischer、「小舟」Kahnなどの名詞、「緋色の」purpurn、「銀色の」silbernといった形容詞や副詞があり、「マティソンの多くの詩においては、経験可能な現実を表すことよりも、詩や文学に用いられている言葉を挙げることがはるかに重要になっている」(Wolfgang Preisendanz)といった見方もあります。

マティソンは、貴族の家庭教師として、彼らのために詩を朗読し、自らも詩を作るようになった。そして、19世紀まで、たいへんに流行した。しかし、1900年代に入ると「忘却の過程」が始まり、今日ではすっかり忘れ去られた存在となっています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)その他(海外) 

2021年09月21日

ゲーテ「恋人の傍ら(Nähe des Geliebten)」

窪田般彌『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』で、フランスの近代詩をざっと眺めてきましたが、きょうは、お隣のドイツの詩を一篇。ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の「Nähe des Geliebten」という詩を訳してみました。  

  恋人の傍ら
 
私はあなたを想います。ほのかな陽のひかりが
海原を照らすとき
私はあなたを想います。かすかな月のひかりが
泉に影をおとすとき
Ich denke dein, wenn mir der Sonne Schimmer
Vom Meere strahlt;
Ich denke dein, wenn sich des Mondes Flimmer
In Quellen malt. 

私はあなたを見ます。遠き路上に
砂ぼこりの舞い上がるとき
夜更けの狭い岨道で
旅人が震え慄くとき
Ich sehe dich, wenn auf dem fernen Wege      
Der Staub sich hebt;                
In tiefer Nacht, wenn auf dem schmalen Stege   
Der Wandrer bebt. 

私はあなたの声を聞きます。鈍いザワめきとともに
波浪たかまるとき
静かな林園のなかしげく耳かたむけて 
すべてが黙するとき
Ich höre dich, wenn dort mit dumpfem Rauschen  
Die Welle steigt.                 
Im stillen Haine geh ich oft zu lauschen,     Wenn alles schweigt. 

私はあなたの傍にいます。どんなに離れていようとも
あなたはそこにいます
陽は沈みやがて星が瞬くでしょう
ああ、あなたがここにいてくれたなら
Ich bin bei dir, du seist auch noch so ferne.   
Du bist mir nah!                 
Die Sonne sinkt, bald leuchten mir die Sterne. 
O wärst du da!                  

Frederikke_Brun_1818

原詩の奇数行は、5脚のJambus(女性韻終止)、偶数行は、2脚のJambus(男性韻終止)。abab cdcd efef ghghの交差韻になっています。

「Nähe des Geliebten」(1795年)は、女性詩人ブルン(Friederike Brun、1765-1835)の「Ich denke dein(あなたを想う)」(1792年)に刺激されて作られました。ゲーテは、1795年4月上旬、フーフェラント家(Familie Hufeland)の「集い」で、ツェルター作曲の「Ich denke dein(あなたを想う)」を聞いています。

ゲーテが1796年6月13日にウンガー夫人(Friederie Helene Unger)に送った手紙には「最も親愛なるご婦人、手紙と歌曲をお送りいただき、大変喜んでおります。私も、とある集いでツェルター氏の素晴らしい作曲を聴いたことがあります。その集いで「彼の作品を初めて知りました。「あなたを思う」というメロディーは私を信じがたいほどに魅了し、自分で詩を書かずには居られませんでした。その詩は、シラーの文芸年鑑に載っています。」(横山淳子による)とあったそうです。

この作品は、11音節と5音節の詩行が繰り返されるブルンの詩の形式をそっくり取り入れています。交差韻を踏む点もブルンと共通しているし、第1、2節の第2、4行では韻の音も同じです。また、頭韻の多様さなどもブルンの詩法を踏襲しています。

フリーデリケ・ブルン(Friederike Brun、1765-1835)=写真=は、デンマークの作家、サロニスト。父は作家・神学者で、生まれて間もなくデンマークに移ります。1783年、17歳で、彼女は裕福な商人と結婚。夫の十分な経済的手段に支えられて、1788年から文学サロンを開き、また、1789年から1810年にかけて、ルイザ王女の旅行に同行し、ゲーテ、シラー、シュレーゲル、ヴィルヘルム・グリムら文化人たちと出会いました。

詩「恋人の傍ら」のゲーテも、「Ich denke dein」.という詩句を受け継ぎ、女性が男性を思う気持ちを描いています。自然現象を恋人に結び付ける表現方法もブルンと共通っしますが、描きかたや感情表現のしかたはかなり違っています。

ゲーテの詩は全4節で、各節の冒頭は①あなたを想う②あなたが見える③あなたが聞こえる④あなたが傍にいる、と変化します。詩節ごとに見ると次のような特徴をあげることができます。

[第1節] 「あなたを想う」のが、太陽の光が海からこちらを照らすときと、月の明かりが泉に影を映すときの昼夜二つの世界で描かれている。

[第2節] 遠くが見える昼間を前半で、後半で夜更けを描く。

[第3節] 前半が海で、鋭い音を立てて波が打ちあがるときを、後半は林で、すべてが静まるときを、やはりシンメトリーな世界を描いている。第10行までは、2行ごとの句またがりになっていて、2行ごとが独立したまとまりをつくることで、情景と恋人への想いが鮮明に示されている。

[第4節] 前半2行で、遠くにいてもあなたの傍にるというパラドキシカルな確信にひとまずたどり着くが、後半2行では、あなたがここにいてくれたなら!と恋人がいない現実にもどり、深い孤独感へと導かれる。第2行「Du bist mir nah!」と第4行「O wärst du da!」の対峙が効果的。

全体に、昼と夜、海と林など、時間や自然の対称性と遠くにいても近くに感じるパラドクスが、この詩を味わい深いものにしているように思われます。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)ゲーテ 

2021年09月20日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉘ サルトル

  ブラン=マントー通り

ブラン=マントー通りに
彼らは台架を建て
桶に糠を入れた
それは弾頭台だった
ブラン=マントー通りの

ブラン=マントー通りで
死刑執行人は朝早く起きた
彼には仕事があったから
将軍や司祭や提督どもの
首を切らねばならなかったから
ブラン=マントー通りで

ブラン=マントー通りに
お上品な淑女たちがやってきた
きれいな安ぴか物を身につけて
しかし彼女たちに首がなかった
首は帽子をかぶったまま
台から転がり落ちたのだ
ブラン=マントー通りの溝のなかに

サルトル

窪田般彌『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』をずっと眺めてきましたが、同書の最後に紹介されているのは、サルトルの「ブラン=マントー通り」という詩です。原詩は次の通り。

  RUE DES BLANCS-MANTEAUX

Dans la rue des Blancs-Manteaux
Ils ont élevé des tréteaux
Et mis du son dans un seau
Et c'était un échafaud
Dans la rue des Blancs-Manteaux

Dans la rue des Blancs-Manteaux
Le bourreau s'est levé tôt
C'est qu'il avait du boulot
Faut qu'il coupe des généraux
Des évêques, des amiraux,
Dans la rue des Blancs-Manteaux

Dans la rue des Blancs-Manteaux
Sont venues des dames comme il faut
Avec de beaux affûtiaux
Mais la tête leur faisait défaut
Elle avait roulé de son haut
La tête avec le chapeau
Dans le ruisseau des Blancs-Manteaux

「ブラン=マントー通り(RUE DES BLANCS-MANTEAUX)」は、1943年、“実存主義のミューズ”といわれたシャンソン歌手ジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)に頼まれて書いたもの。ジョゼフ・コスマ(Joseph Kosma)によって曲が付けられました。

ブラン=マントー通りは、パリのセーヌ右岸の第4区のマレー地区に実在する通りで、その名は「白いマントを着た人たちの通り」といった意味。13世紀に聖母マリアを信奉する乞食僧たちが、白いマントを身に着けていたことに由来するといわれます。

サルトル(Jean Paul Sartre、1905-80)は、言うまでもなく、行動する知識人として著名な、実存主義を代表する思想家。第2次世界大戦中、対独レジスタンス運動に活躍しながら、主著『存在と無』を刊行。戦後は,その実存哲学を発展させて社会変革との関係・結合を追究しました。

「ブラン=マントー通り」という詩は、三つの詩節からなる自由詩(vers libre)で、5行、6行、7行と一行ずつふえる構成となっています。窪田は、次のように指摘しています。

サルトルという進歩派哲学者は、どちらかといえば詩心のない人間のようにも思えるが、「ブラン=マントー通り」のイメージは最初の詩節からなかなか新鮮である。このイメージは第2詩節となると、一段と血なまぐさいものとなる。哲学者の頭のなかには、フランス大革命のイメージがあったにちがいない。そして第3節となると、シュールレアリスム風の黒いユーモアが認められる。いかにもサルトルらしいまとめ方をしている。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月19日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉗ シャール

  笊屋の恋人

ぼくはお前を愛した。ぼくは愛した、嵐のつくった落窪の、泉のようなお前の顔を。ぼくの接吻を温めておいてくれるお前の領有地の数字を。ある人々は、ふくらみきった空想にふけきる。が、ぼくは行くだけで十分だ。恋人よ、ぼくは絶望から、ちっぽけな笊を持ち帰ったのだ、柳で編めるほどのものを。

(『詩と散文』)

ル

きょうは、ルネ・シャール(René Char、1907-1988)の「笊屋の恋人(LA COMPAGNE DU VANNIER)」という散文詩です。詩集『ひとりとどまる(Seuls demeurent)』(1945)に収録されています。ピエール・ゲールは、「笊屋の恋人」の入った詩集『ひとりとどまる』の各ページに聞かれる声は「直接の歌ではなく、予言であり、重厚さであり、苦悩である」といっています。原詩は次の通りです。

  LA COMPAGNE DU VANNIER

Je t’aimais.J’aimais ton visage de source raviné par l’orage et le chiffre de ton domaine enserrant mon baiser. Certains se confient à une imagination toute ronde. Aller me suffit. J’ai rapporté du désespoir un panier si petit, mon amour, qu’on a pu le tresser en osier.

シャールは、南仏リール・シュル・ソルグの生まれ。シュールレアリストとして出発し、1929年にはニームの出版社から『兵器廠(Arsenal)』を刊行。ブルトン、エリュアールとの共著『仕事を遅らせる(Ralentir travaux)』(1930)を発表しました。

ロートレアモンとランボーを愛し、ギリシアの哲人ヘラクレイトスの思想に影響されました。第2次世界大戦では、対独抵抗運動の隊長として活躍し、そのときの体験は散文詩集『眠りの神の書(Feuillets d'Hypnos)』(1946)のポエジーとなり、親友カミュに捧げられています。

『眠りの神の書』は、「笊屋の恋人」の入った『ひとりとどまる』などとともに、詩集『激情と神秘(Fureur et mystère)』(1948)としてまとめられました。カミュ―は『激情と神秘』について、『イリュミナシオン』『アルコール』以後のフランス詩のなかで「最も驚嘆すべきもの」と讃えました。

シャールの詩について窪田は次のように指摘しています。
ルネ・シャールの詩は一般に簡潔で、しばしば一切の虚飾を捨てさった箴言の美しさを持っている。たとえば「人生は爆発にはじまり、和議をもって終るのだろうか? それは不条理だ」とか、「果実は盲目だ。眼が見えるのは樹木だ」といった具合に。

批評家のガエタン・ピコンも、シャールの詩句は「演説口調に対立し、雄弁に対立する詩として、文章よりは語に近い。語よりは行為に近いその詩は、持続的な言葉の織物にささえられてもいないし、詩以外の言葉に取りかこまれてもいない。彼の詩を取りかこんでいるのは沈黙なのだ」と語っている。

「語よりは行為に近い詩」とは巧みな言い方でであるが、愛とモラルにささえられたシャールの詩はまさに行為である。ランボーやカミュとともに「あり得べき幸せを、証もなしに信じている数少ない者たち」の一人であるシャールの詩には、激しい生命感と人間信頼を母胎とするモラリストの思想がある。
戦後、シャールは故郷に戻り、自然のなかに暮らして、生命感と人間信頼にあふれる独自な宇宙的世界を創造していきました。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月18日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉖ フォラン

  10月の思い

ひとは好き
ひとり飲む
この一級葡萄酒
夕ぐれがあかがね色の丘を照らすとき
狩人はもうねらわない
野の獲物を
ぼくらの友の妹たちも
一段ときれいにみえる
けれども戦争の恐怖がある
昆虫が一匹足をとめ
またとんでゆく

(『領土』)

フォラン

  PENSÉES D’OCTOBRE

On aime bien
ce grand vin
que l’on boit solitaire
quand le soir illumine les collines cuivrées
plus un chasseur n’ajuste
les gibiers de la plaine
les soeurs de nos amis
apparaissent plus belles
Il y a pourtant menace de guerre.
Un insecte s’arrête

きょうは、ジャン・フォラン(Jean Follain、1903-1971)の「10月の思い(PENSÉES D’OCTOBRE)」という詩です。原詩は次の通り。『領土(territoires)』(1953)という詩集に入っています。

フォランは、故郷ノルマンディと幼年期の記憶からの着想をもとに、ひそかな韻律を忍ばせ、感情を排した日常生活や事物のさりげない描写を通じて現実を夢と永遠に結び付ける作品を書きました。この詩も、そんな一篇です。

フォランは、牛乳やリンゴ酒の産地として名高いノルマンディ地方のカニジイに生まれました。カニジイの恵まれた自然の中で幼年時代を過ごし、サン・ローの高等中学で哲学を学び、カン大学で法律を修めました。

1925年にパリに出たフォランは、司法官として身を立てながら、フェルナン・マルクが創刊した詩誌『叡智(Sagesse)』に寄稿します。時代はシュールレアリズムの全盛期を迎えていました。が、フォランは独自の道を歩み、周囲の詩とは無縁でした。窪田般彌は、次のように記しています。
ジャン・フォランの世界は故郷カニジイの村々や自然と切り離せない。彼の詩句は簡潔で具象的であり、そのイメージは素朴な印象主義的な版画を思わせる。しかし、彼の詩を単なる日常的な事物の羅列だなどと思ってはならない。

彼はしばしばフランシス・ポンジュとともにマテリアリストの詩人と呼ばれているが、ジャン・フォランという慎しみ深く、もの静かな詩人の眼が洞察した事物には、つねに「永遠」が姿を見せていることを忘れるわけにはいかない。

この永遠は「数多い生命が自然に埋没し、肉づきされ、変容し、遂にはその限りない運命のつなぎめを再び捉えるかにみえる」(アンドレ・ドーテル)世界であり、生と死が共存する国である。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月17日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉕ クノ―

  もしも人生去るものならば

もしも人生去るものならば
さようなら 来るべき人生よ
流れつつ もしも人生去るものならば 去るものならば
もはや尋ねる要もなし 苦労の甲斐があるかどうかと
太陽はのぼり 口には歯ぶらし

もしも人生去るものならば
さようなら 最後の人生よ
精魂つきて もしも人生去るものならば 去るものならば
歯車をもはや後にはまわすまい
雨はしげく降りそそぎ ぬかるみの泥だらけ

もしも人生去るものならば
さようなら 現在の人生よ
消え入りながら もしも人生去るものならば 去るものならば
夜が訪れ すぎゆくときも 世にことはなし
誰一人 暗い穴に投げ込まれる者もない

もしも人生去るものならば 身近な人生は一つもない
そこで人も立ちさる 思索に思いをこめながら
すべてはこれ 迅速にして残忍なこと
にもかかわらず すべては相つづいて去っていく

夜が訪れ すぎゆくときも 世にことはなし

クノー

きょうは、レーモン・クノーの「もしも人生去るものならば」です。『運命の瞬間(L'Instant fatal)』 (1948)という詩集に収録されています。原詩は次の通り。

  SI LA VIE S'EN VA

Si la vie s’en va
adieu la prochaine
si la vie s’en va s’en va s’écoulant
faut plus demander si ça vaut la peine
le soleil se lève et la brosse à dents

si la vie s’en va
adieu la dernière
si la vie s’en va s’en va s’épuisant
on ne fera plus machine en arrière
la pluie tombe drue et l’envasement

si la vie s’en va
adieu la présente
si la vie s’en va s’en va s’éteignant
la nuit ça va bien quand elle est passante
et pas le trou noir qu’on nous fout dedans

si la vie s’en va c’est qu’aucune est proche
alors on s’en va tout philosophant
tout ça c’est véloce aussi bien qu’atroce
malgré ça tout ça s’en va continuant

第1節から第3節までは、5/5/10/10/10の形をとっていますが、実際には、第4節に見られるような等韻律4詩行詩10a 10b 10a 10b の変形になっています。10音綴詩句(décasyllabe)は、12音綴詩句(alexandrin)とともに、フランス語詩でもっとも普遍的な律動です。

レーモン・クノー(Raymond Queneau、1903-1976)は、パリ大学で哲学を学んだ後、シュールレアリスムの運動に参加しましたが、1930年、グループから離脱。その後、新しい文学的方向を求めて、しだいに言語の問題に関心を深めていきました。小説『はまむぎ(Le Chiendent)』(1933)によって数学的な世界観に支えられた独自の文学手法を確立します。

以後、映画的手段を駆使した「わが友ピエロ(Pierrot mon ami)」(1942)、映画化され、注目を集めた「地下鉄のザジ(Zazie dans le métro)」(1959)などの作品があります。

またクノーの詩について窪田は「クノーの詩を特徴づけるものは皮肉とユーモアと、言葉への実験意欲である。その皮肉やユーモアはジャリやマックス・ジャコブの黒いユーモアに近く、言葉の実験家としての態度は、彼が多くの影響を受け翻訳もしているジェームス・ジョイスを彷彿とさせる。とくに新語や造語を巧みに駆使した文体は独特なもので、クノーほど言語遊戯を楽しんでいる詩人はいない」といいます。

「実験」といえば、たとえば『百兆の詩(Cent Mille Milliards de Poèmes)』(1961)には、10篇のソネが収められているにすぎないものの、その一行一行がめくれるようになっています。つまり、最初のソネの一行目をめくれば、そこには二行目のソネの一行目が入ってくるという具合で、詩集全体は順列組み合わせにしたがって何通りにでも読めることになります。まさに無限に読める「百兆の」詩集というわけです。

また、クノーは「詩を書くためには/言葉を愛するだけで十分」といい、「詩とはささやかなもの」と断言していました。窪田は「詩は格別高尚なものでもなければ、深遠なものでもない。・・・・・彼は読者を楽しませるために書き、読みすてられることを何とも思わない。詩が「遊び」であるかぎり、詩がよみすてられ、聞きすてられることこそ詩の本懐ではないか。」と記しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月16日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉔ プレヴェール

  花束

そこで何しているの 幼ない娘よ
手折(たお)ったばかりのその花々を手にもって
そこで何しているの 若い娘よ
その花を 凋(しお)れたその花々を手にもって
そこで何しているの きれいな女(ひと)よ
色あせたその花々を手にもって
そこで何しているの 年老いた女よ
枯れ果てたその花々を手にもって

私は待っています 征服してくれるその人を。

(『言葉』)

プレヴェール

きょうは、民衆詩人ジャック・プレヴェールの「花束」という詩です。原詩は次の通り。

  LE BOUQUET 

Que faites-vous là petite fille?
Avec ces fleurs fraîchement coupées?
Que faites-vous là jeune fille?
Avec ces fleurs, ces fleurs séchées?
Que faites-vous là jolie femme?
Avec ces fleurs qui se fanent?
Que faites-vous là vielle femme?
Avec ces fleurs qui meurent?

J'attends le vainqueur.

この作品は、『言葉( Paroles)』(1946)という詩集に収録されています。 ひと目で気づくのが、奇数行の「Que faites-vous là(そこで何している)」、偶数行の「Avec ces fleurs (その花々を手にもって)」の繰り返しです。

プレヴェールの詩に繰返しが多いことは、よく知られています。たとえば『言葉』の冒頭にある長編詩「フランス国パリ市における仮面晩餐会の描写の試み(TENTATIVE DE DESCRIPTION D’UN DÎNER DE TÊTES À PARIS-FRANCE, PAR JACQUES PRÉVERT.)」では、「Ceux qui pieusement…/Ceux qui copieusement…/Ceux qui tricolorent/Ceux qui inaugurent/Ceux qui croient/・・・・・・」というように、「Ceux qui (する人)~」の形が33回も繰り返されます。

ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert、1900-1977)は、パリ近郊のヌイー・シュル・セーヌ生まれ。当初、シュルレアリスム運動に参加しますが、脱退。1930年ころから、雑誌『コメルス』などに詩を発表する一方、映画のシナリオを手がけました。

1946年、「花束」も入った『言葉』を発表、詩集としては空前の売れ行きを示しました。日常生活に即した平易な話し言葉を使って、思いがけない二つの言葉を組み合わせたりするなど、言葉に新しい秩序をあたえるとともに、人間の哀歓や嘱目する事象を歌い上げました。「枯葉」「バルバラ」など多くの詩編がコスマらの作曲でシャンソンになっています。

窪田は、シュールレアリズム詩人ジョルジュ・リブモン・デセーニュの「彼は街から来たのだ。決して文学から来たのではない・・・・・・人生を讃え、世間の《お偉方》を軽蔑する・・・・・・素朴で、幸せを好み、心にくいほどユーモアがある」という言葉を引用して「これが詩人プレヴェールの真の姿なのだ」と述べています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月15日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉓ ミショー

  海

私の知っているもの、私のものであるもの、それは涯(はて)しない海だ。
21歳になったとき、私は街の生活をのがれ、志願して船のりとなった。船には幾つかの仕事があった。私は驚いた。私は思っていたのだ、船では人は海をながめているのだ、いつまでも海をながめつづけているのだと。
船は艤装をとかれた。海の人々の休業がはじまった。
くるりと背をむけると、私は出発した。何も言わずに。海は私のなかにあった。私をとりまく永遠の海は。
それはどんな海か? だが、それは私が、どうしてもはっきりとのべ得ないのだ。

(『試練・悪魔ばらい』)

ミショー

きょうは、アンリ・ミショー(Henri Michaux、1899-1984)の「海(LA MER)」。『試練・悪魔祓い(Épreuves,éxorcismes)』 (1945)に収録されています。原詩は、次の通りです。

  LA MER 
Ce que je sais, ce qui est mien, c'est la mer indéfinie.
A vingt et un ans, je m'évadai de la vie des villes, m'engageai, fus marin.
Il y avait des travaux à bord.
J'étais étonné.
J'avais pensé que sur un bateau on regardait la mer, qu'on regardait sans fin la mer.
Les bateaux furent désarmés.
C'était le chômage des gens de mer qui commençait.
Tournant le dos, je partis, je ne dis rien, j'avais la mer en moi, la mer éternellement autour de moi.
Quelle mer?
Voilà ce que je serais bien empêché de préciser.

ミショーは、ベルギーのナミュールに生まれてブリュッセルで育ち、1955年にフランスに帰化しました。

「海」の中に「21歳になったとき、私は街の生活をのがれ、志願して船のりとなった。」とあるように、ミショーは21歳のとき、突如として給炭船の一水夫になり、イギリス、アメリカ、ブラジルを旅しています。

その後も数回の海外旅行を試み、1930~31年にかけてインド、中国、日本、マレーなどを回った際の『アジアにおける一野蛮人(Un barbare en Asie)』(1932)など旅行記も書いています。

また、ミショーは『プリュームという男(Un certain Plume)』(1930)の「Aの肖像」という一篇で「20歳の時、ある日、彼の心に急な閃(ひら)めきがやって来た。彼は遂に自己の生が他の生と全く相反することを理解し、他の極点を試みなければならぬと悟った。自分の住む土地を探しに行くこと、隠遁から出発すること。そうして彼は出発した」(小海永二訳)としています。

ミショーは、シュルレアリストと同世代に属して共通する内的探求を課題としながら、いかなるグループにも属さず独得の世界を開拓しました。

外界の不可解な敵意への不安、そこに生きる困難さ、言語への不信感にさいなまれながら、言語に対する大胆な破壊作業を通じて特異なユーモアをたたえた斬新な表現を生み出すことで、その不安を克服しようとしました。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月14日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉒ エリュアール

  花

ぼくは15歳。ぼくは自分の手をにぎる。大変可愛がられていることの、優越感をともなった若さの確信。
ぼくは15歳でない。過ぎた年月から、無比の静けさが生れてくる。ぼくは夢みる、あの美しさを、盗まれた真珠と小草の、あの快よい世界を。
いまぼくは、いろんな状態のなかにいる。ぼくにかまってくれるな。放っておいてくれ。

     ★

ぼくの眼と疲労とは、ぼくの手の色をしているにちがいない。何という顰めっ面をするのだろう。信頼の母。太陽に向って。そうしてみても、ただ雨を呼ぶだけなのに。
ぼくはお前に断言できる、この愛の物語りと同じほど、はっきりとしたことがある。もし、ぼくが死んでしまえば、もうお前を知ることもなかろうと。

(『人生の必要と夢の結果』)

Eluard

きょうは、ポール・エリュアールの「花」という散文詩です。原詩は、次の通り。

  Les Fleurs

J’ai quinze ans, je me prends par la main. Conviction d’être jeune avec les avantages d’être très caressant.

Je n’ai pas quinze ans. Du temps passé, un incomparable silence est né. Je rêve de ce beau, de ce joli monde de perles et d’herbes volées.

Je suis dans tous mes états. Ne me prenez pas, laissez-moi.

     ★

Mes yeux et la fatigue doivent avoir la couleur de mes mains. Quelle grimace au soleil, mère Confiance, pour n’obtenir que la pluie.

Je t’assure qu’il y a aussi clair que cette histoire d’amour : si je meurs, je ne te connais plus.

エリュアールの特徴的な文体に、対句法の使用があげられます。「花」でも、散文詩にもかかわらず、「J’ai quinze ans(ぼくは15歳)・・・・・・」と「Je n’ai pas quinze ans. (ぼくは15歳でない)・・・・・・」というように、相反する意味あいの対句法が用いられていることに気づきます。

対句の役割は「詩句、詩節における相異なる部分を、正負の相称関係(対比ないし対照)によって結合することにある」(ピエール・ギロー)とされます。

ポール・エリュアール(Paul Éluard、1895-1952)は、パリ北郊サン・ドニの生まれ。少年期に肺結核にかかり、スイスに転地、アポリネールやホイットマンに親しみました。

スイス療養中にロシア娘ガラに出会い、のち結婚します。第1次世界大戦中は看護兵として戦争の惨禍を体験し、反戦詩集『義務と不安(Le Devoir et l'inquiétude)』(1917)、『平和のための詩(Poèmes pour la paix)』(1918)を発表しました。

戦後は、ダダ、次いでシュルレアリスムの運動の主唱者の一人として、「花」が入っているダダイスム詩集『人生の必要と夢の結果(Les Nécessités de la vie et les conséquences des rêves)』(1921)や、シュルレアリズム詩集『苦しみの都(Capitale de la douleur)』(26)を出しています。

こうした時期の作品について批評家ルイ・パロオは「ガラの名が透しのように現われてくるあの深刻であると同時に優雅な詩のなかで、愛が心を開いて語る。彼女との出会いにつづく数年、愛と詩は一つのものとなり、エリュアールの詩の唯一の主題となった」と記しています。

このようにエリュアールは、「愛」をはじめ夢や反抗をテーマに、初めは孤独とメランコリーに彩られていましたが、やがて広く人々と結びつこうとして力強い簡潔な詩風をとるようになり、自由と人間愛を歌いました。

スペイン内乱以後は政治に関わり、1942年に共産党入党。第2次世界大戦中はレジスタンスの詩人として『詩と真実(Poésie et vérité)』(42) などを発表。シュルレアリスム詩人のなかで最も音楽的な詩人ともいわれています。


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2021年09月13日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』㉑ デスノス

  ペリカン

ジョナタン船長は、
十八歳、
或る日、極東のある島で
ペリカン一羽つかまえる。

ジョナタンのペリカンは、
朝、真白な卵を生み落す
そしてそこから、一羽のペリカン
驚くほど似た奴が顔を出す。

こうしたことは、いつまでも長くつづくにちがいない
もしも人間が、卵のうちにオムレツにしてしまわないなら。

(『歌のお話と歌の花』)

Desnos

きょうは、デスノスの「ペリカン」です。原詩は次の通り。

  Le Pélican

Le Capitaine Jonathan,
Étant âgé de dix-huit ans,
Capture un jour un pélican
Dans une île d’Extrême-orient.

Le pélican de Jonathan,
Au matin, pond un œuf tout blanc
Et il en sort un pélican
Lui ressemblant étonnamment.

Et ce deuxième pélican
Pond à son tour, un œuf tout blanc
D’où sort, inévitablement
Un autre qui en fait autant.

Cela peut durer pendant très longtemps
Si l’on ne fait pas d’omelette avant.

ロベール・デスノス(Robert Desnos、1900-1945)は、催眠状態での夢の口述に特殊な才能を示して,初期シュルレアリスム運動の方向づけに大きな役割を果しました。

デスノスは、睡眠術を深くきわめ、自分自身を自由に暗示にかけることができたのでシュールレアリスムの巫女とも呼ばれました。

眼をつぶりさえすれば催眠にかかってしゃべり出し、「この恐るべき仮眠者」に誘いの質問をしむければ、予言者、魔法使い、革命家、狂信者などあらゆる返答が得られたといいます。

デスノスは、ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)の「言葉遊び」にふけっていたといいます。Rrose Sélavyとは、マルセル・デュシャンがしばしば偽名として用いた女性名だとか。

「ペリカン」は、『歌のお話と歌の花(Chantefables et chantefleurs)』(1952)に収められている一篇です。詩の内容に、とりたてて難しいところはありませんが、[ã] の音がおもしろく繰り返されているところなど「かつてローズ・セラヴィの言葉遊びをした詩人の名残りがある」と窪田は見ています。

デスノスは、1930年にシュールレアリスムの運動から離れ、より柔軟なスタイルで驚異と感傷に満ちた世界を創造していきます。そして第2次世界大戦中に対独レジスタンスに加わって逮捕され、収容所で死にました。


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2021年09月12日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑳ コクトー

  海の底の春

海の底にも季節がある。陸上と同じように、春は最も美しい季節だ。珊瑚は芽を出し、海綿は青い水を胸一杯に吸いこむ。赤い鹿の森はスクリューの音をきく。その音は海の空の、非常に高いところからやってくる。ときおり、飛行船の搭乗員が海の空から落ちてくる。彼はゆっくりと落ち、砂の上にころがる。花々は立ったまま眠り、別れの挨拶をする花も沢山ある。不具の魚たちは、その上に身を置く。彼らは海に、たっぷりと接吻する。照明と室内装飾のおかげで、人はしばしば写真家のところにいると思うにちがいない。小さな玉の羽飾りが、すみっこで囀っている。それは逃げていく、塩水を入れかえる小さな蛇口から。

(『ポエジー』)

Cocteau

きょうは、ジャン・コクトーの「海の底の春」という散文詩です。原詩は次の通り。

  LE PRINTEMPS AU FOND DE LA MER

Le fond de la mer a ses saisons. Comme sur la terre, le printemps est une des plus belles. Le corail bourgeonne et les éponges respirent l'eau bleue à pleins poumons. Une forêt de cerfs rouges écoute un bruit d'hélice. Il arrive de très haut dans les cieux de la mer. Quelquefois, un aeronaute tombe des cieux de la mer. Il tombe lentement et se roule dans le sable. Les fleurs dorment debout et il y en a une foule qui disent adieu. Les poissons manchots se posent dessus. Ils donnent de gros baisers à la mer. À cause de l'éclairage et du décor on se croirait souvent chez le photographe. Un panache de globules gazouille dans le coin. Il s'échappe du petit robinet qui change l'eau salée. 

最後の一行のところにきて、詩のからくりがはっきりします。才気を感じさせる一篇です。

ジャン コクトー(Jean Cocteau、1889-1963)は、パリ近郊のメゾン・ラフィット生まれ。幼少からパリの社交界になじみ、詩人としてだけでなく、作家、随筆家、漫画家、演出家など芸術のさまざまな分野で活躍しました。

1909年に第1詩集『アラジンのランプ(La Lampe d'Aladin)』。「海の底の春」は、1916年から19年にかけての作品を集めた『ポエジー(Poésies)』(1920)に収められています。

コクトーにとって詩に必要なものは、「ポエジー」であって、古典とか前衛といった表面的な区別はどうでもよかった。さらに言葉の世界だけに生きようとはしなかったこの詩人は、才能のおもむくままにあらゆる芸術のジャンルで「ポエジー」を見出すことができました。

1915年に書かれた『永眠論』の一節に「ポエジーは死に似ている・・・・・・真の詩人は、死者のように、生きている者には見えない」とあります。窪田は、これを引用して、次のように述べています。

確かにコクトーの真の姿を見出すことはむずかしい。しかし、華やかなこの軽業師の背後に漂う孤独感や、虚無と死のイメージを見落すわけにはいかない。彼は単なる言葉の道化師や前衛芸術の曲芸師ではなかった。人の眼を驚かす綱渡りを軽快に演じてみせながら、じつはつねに人生の深淵を見つめていた詩人だった。


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2021年09月11日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑲ シュペルヴィエル

  炎の先端

彼は生涯にわたって
蝋燭の明りで
本を読むのが好きだった
そしてしばしば手を
炎のうえに差しかけ
自分は生きている
まちがいなく生きている、
と納得した。

死んだ日から
彼は自分のそばに
点された蝋燭をたてる
だが手は隠しっぱなし。

(『詩選集』)

Jules Supervielle

きょうは、ジュール・シュペルヴィエルの「炎の先端」という詩です。原詩は、次の通りです。

Pointe de flamme

Tout le long de sa vie
Il avait aimé à lire
Avec une bougie
Et souvent il passait
La main dessus la flamme
Pour se persuader
Qu'il vivait,
Qu'il vivait.

Depuis le jour de sa mort
Il tient à côté de lui
Une bougie allumée
Mais garde les mains cachées.

『choix de poèmes』(1947)

リルケは、シュペルヴィエル宛の1925年11月28日付の手紙で、「たとえば《炎の先端》のようなポエジーに見られる、やさしくも正確な軽やかさはまったくみごとというほかはなく、まるで人の書いたものとは思えません」(安東元雄訳)。

日本人にとっても、この詩のような蠟燭の炎は、日常的な近しい存在です。たとえば落語の「死神」にあるように、人の生命を蝋燭の火にたとえることもよくあります。

ジュール・シュペルヴィエル(Jules Supervielle、1884-1960)は、南米ウルグアイの首都モンテビデオ生まれ。両親は南フランスの出身で、彼が生まれてまもなく急死したため孤児となり、牧場や銀行を営む裕福な伯父の手で育てられました。パリ大学文学部卒業後、文筆生活に入りました。

シュペルヴィエルは、シュルレアリスムに近い要素をもちながら形而上的でもある、流派に分類しがたい“異邦人”的な詩人でした。ウルグアイで広大な自然のなかに育った経験が、初期の自由詩には、宇宙的な感覚をもつ野性的な鼓動が感じられる一方で、しだいに人間存在の根源を見つめて、独特の存在論的主題を探っていくようになりました。


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2021年09月10日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑱ ローランサン

  鎮静剤

退屈した女よりも哀れなのは悲しい女
  悲しい女より哀れなのは
    不幸な女

不幸な女よりも哀れなのは
  病める女
病める女よりも哀れなのは
  棄てられた女
棄てられた女よりも哀れなのは
  この世で一人ぽっちの女
この世で一人ぽっちの女よりも哀れなのは
  死んだ女
死んだ女よりも哀れなのは
   忘れさられた女

 (バルセロナ)

マリー

きょうは、きのうのアポリネールの恋人だったマリー・ローランサンの「鎮静剤(LE CALMANT)」。1926年刊の『動物小詩集』(限定版)に収められています。原詩は次の通り。

  LE CALMANT

Plus qu'ennuyée triste
    Plus que triste
      Malheureuse.

Plus que malheureuse
    Souffrante.

Plus que souffrante
    Abandonnée.

Plus qu'abandonnée
    Seule au monde.
Plus que seule au monde
    Exilée.
Plus qu'exilée
    Morte.
Plus que morte
    Oubliée.

 (Barcelone)

この詩集には動物詩篇8篇と、「鎮静剤」など女性をテーマにした3篇が収められていたようです。その後、この詩集を増補した小詩文集『夜の手帖(Le Carnet des Nuits)』(1956)には「鎮静剤」など16篇構成になっています。

マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1885‐1956)は、パリで生まれパリで活躍した女流画家。ピカソ、ブラック、アポリネールらキュビスム周辺の芸術家と交友し、その影響を受けることになります。

きのう紹介した『キュビスムの画家たち(Les Peintres cubistes)』(1913)の中で、アポリネールは「マリー・ローランサン嬢は、絵画という大芸術のなかで全く女性的な美学を表現することができた・・・・・・いままで、レースとか刺繡といった応用美術の分野以外にほとんど姿を見せなかった女性の美学は、いまや何よりも先ず絵画の領域において、この女性独自の新しさそのものを表現しなければならなかった」と讃えました。

その芸術だけでなく、女性としてのローランサンも魅力にあふれていました。だから、モレアスは、

笑う
マリー・
ローランサン
美しい
瞳に
金の輪が浮ぶ

と歌い、フランシス・カルコは「ローランサンを知っていて、いつまでも変わらぬ愛情を持たない人間は化物だ・・・・・・ギョームを不幸にしたことについて、われわれは少しも彼女を恨みに思っていない」と断じています。

こうしたキュビスム周辺の芸術家たちの影響を受けたとはいえ、ローランサンの作品の多くは、夢見るような娘たちの姿を淡い色彩を用いて描き出した少女趣味的なもので、形や線の扱いにキュビスム的要素がいくらかうかがわれるものの、本質的にはキュビスムの造型思考とは異質のものでした。それは、詩についても言えそうです。


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2021年09月09日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑰ アポリネール

  ミラボー橋

ミラボー橋の下をセーヌが流れる
  二人の恋も
 僕は思い出さねばならないのか
喜びはつねに苦しみのあとにきた

 夜よこい 鐘もなれ
 日々はすぎ 僕は残る

手に手を重ねて向きあったままでいると
  二人の腕の橋下を
 永遠の眼ざしをした
あんなに疲れた波が流れる

 夜よこい 鐘もなれ
 日々はすぎ 僕は残る

恋はすぎる この流れる水のように
  恋はすぎ去る
 人の世の何と歩みのおそいこと
希望ばかりが何と激しく燃えること

 夜よこい 鐘もなれ
 日々はすぎ 僕は残る

日々が去り月日が消える
  すぎた時も
 昔の恋も戻ってこない
ミラボー橋の下をセーヌが流れる

 夜よこい 鐘もなれ
 日々はすぎ 僕は残る

(『アルコール』)


アポリネール


これまで16回にわたって窪田般彌『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』を眺めてきましたが、17回目のきょうは、この本のタイトルに取られたアポリネールの「ミラボー橋」です。原詩は次の通り。

  Le pont Mirabeau

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
           Et nos amours
     Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours après la peine

           Vienne la nuit sonne l'heure
           Les jours s'en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
           Tandis que sous
     Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l'onde si lasse

           Vienne la nuit sonne l'heure
           Les jours s'en vont je demeure

L'amour s'en va comme cette eau courante
           L'amour s'en va
     Comme la vie est lente
Et comme l'Espérance est violente

           Vienne la nuit sonne l'heure
           Les jours s'en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
           Ni temps passé
     Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

           Vienne la nuit sonne l'heure
           Les jours s'en vont je demeure

この詩は、10音綴、4音綴、6音綴、10音綴の詩句からなる不規則形4行詩と、7音綴の詩句からなる2行詩の繰り返しによって構成されています。脚韻は、第2詩句を除いて女性韻が踏まれ、哀調のある甘い響きをつたえています。初出では、各節4行詩ではなく、10音綴詩句の3行詩だったようです。

アポリネール(Guillaume Apollinaire、1880-1918)は、イタリア人将校とポーランド貴族出身の母とのあいだの私生子としてローマで誕生しました。生涯を通じて前衛的な芸術運動に加わり、ダダ,シュルレアリスムなど新しい詩、芸術の創造に大きな役割を果たしました。また、ピカソとともにキュビスム理論の確立に力を尽したことでも知られています。

「ミラボー橋」は、1913年に、前衛画家たちの経典ともいわれる評論『キュビスムの画家たち(Les Peintres cubistes)』とともに刊行した詩集『アルコール (Alcools)』に収録されていいます。一切の句読点を排除するなど斬新さで知られる詩集ですが、 この「ミラボー橋」は、必ずしもアポリネールの新しさを示す、というわけではなく、内容は古典的で甘美、そして楽しく読める抒情詩です。

そして、「ミラボー橋」には、マリー・ローランサンとの恋の思い出が「幻のように漂って」います。窪田の解説にしたがって、二人の関係についてまとめると、次のようになります。

アポリネールがローランサンに巡り合ったのは、1907年のこと。画学生だったローランサンに、クロヴィス・サゴの画廊で開かれたピカソの個展で紹介されたのです。ブロンドの髪と明るい眼を輝かせ、茶目っ気たっぷりで陽気なローランサンに、惚れっぽいアポリネールはたちまち夢中になりました。

彼女を「小さな太陽」と呼び、その家に近いオートゥイユのグロス街に引っ越します。アポリネールが彼女に会いに行くために毎日渡ったのが「ミラボー橋」でした。彼は、ローランサンの芸術を育てるのにも懸命でした。

『キュビスムの画家たち』でアポリネールは「洗者ヨハネであるピカソの芸術と、ヘロデ王にほからならにアンリ・ルッソーの芸術のあいだに」位置するサロメの芸術と、ローランサンに多大な讃辞を寄せています。

しかし、2人の恋は長つづきはしませんでした。1912年、破局を迎えます。翌1913年、ノルマンディー旅行をしたアポリネールは、そこでローランサンに会う機会に恵まれましたが、撚りが戻ることはありませんでした。

さようなら 遠のく女と一体の
偽りの恋よ
去年ドイツで
僕はきみを失った
もう二度と会うことはあるまい。

(『アルコール』所収「ふられ男の唄」)

1914年、マリー・ローランサンは、ドイツの画家オットー・フォン・ワエットエンと結婚しました。


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2021年09月08日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑯ フォール

  世界を取りまく輪舞(ロンド)

もしも世界中の娘たちが、互いに手を取りあうならば、海をぐるっと取りまいて、ロンド踊りができるだろうに。

もしも世界中の子供たちが、みんな船乗りになるならば、彼らの船で、波の上にきれいな橋ができるだろうに。

だから、もしも世界中の人たちが、みんなで手をつなぐなら、世界のまわりをぐるっとまわって、ロンド踊りができるだろうに。

(『フランス歌謡集』)


フォール

きょうは、「詩王」と仰がれ、20世紀初頭の詩壇に君臨した詩人ポール・フォールの「世界を取りまく輪舞」です。原詩は――

  La Ronde autour du monde

Si toutes les filles du monde voulaient se donner la main, tout autour de la mer, elles pourraient faire une ronde.

Si tous les gars du monde voulaient bien êtr’ marins, ils f’raient avec leurs barques un joli pont sur l’onde.

Alors on pourrait faire une ronde autour du monde, si tous les gens du monde voulaient s’donner la main.

ポール・フォール(Paul Fort、1872-1960)は、ランスの生まれ。早くから象徴派詩人と交わり、1890年には「芸術座」を創設して象徴劇運動に参加。1894年ころから詩を書き始め、1905年文芸詩「詩と散文」を主宰、アポリネール、ジュール・ロマン等若い詩人を育て大きな影響を与えました。

「世界を取りまく輪舞」は、1897年に出た『フランス歌謡集(Ballades françaises)』の第1巻に入っています。この本の序文を書いているピエール・ルイスは、ポール・フォールを俗謡体の詩人ジュール・ラフォルグの兄弟と見なしています。実際、フォールの詩は、自由詩でも伝統詩でもない独自の「律動的散文」によって作られています。

こうした自らの詩法について、1898年にフォールは「心の動きにつれて、散文から詩へ、詩から散文へ移ることの文体を私は探した。つまり、移行する律動的散文である。詩句が言葉の自然な母音省略に従い、散文形式のもとに母音省略の厄介をすべてなくして、散文として立ち現われる。散文、律動的散文、詩句は、もはや段階のあるただ一つの楽器にすぎない」(ピエール・マルチノ著・木内孝訳『高踏派と象徴主義』)と語っているといいます。

『フランス歌謡集』は、生涯にわたって書きつづけられ、1949年までに46巻をかぞえ、「それを最後まで読み通した者は一人もいない」とも言われたそうです。

窪田は「ポール・フォールは自分の詩法に忠実だった。中世以来のバラードやシャンソンの形式を活用し、民謡や民話の調子をひびかせ、伝統的な押韻やアレクサンドランの律動を巧みに駆使しながら、神話や伝説やフランスの自然美を歌い、諸事万端に及ぶ風俗を語った。彼は「歌う」詩人であり、語部であった。」と述べています。


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2021年09月07日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑮ ジャム

  悲歌14番

「好き」とお前がいった。
「好きだよ」と私が答えた。

「雪だわ」とお前がいった。
私は答えた、「雪だね」と。

「もっとよ」とお前がいった。
「もっと」と私は答えた。

「こんなふうに」とお前がいった。
「こんなふうに」と私もいった。

ずっとたってからお前はいった。
「愛してるわ」

そこで私もいった
「もっともっと愛しているよ」

「美しい夏も終りね」とお前がいった。
「秋さ」

と私が答えた。二人の言葉は
もうそれほど類似しなくなった。

或る日、ついにお前はいった。
「あなた、こんなに愛しているのに・・・・・・」

(それは広漠とした秋の
華やかな夕暮だった)。

私はお前に答えた
「くり返しておくれ・・・・・・もう一度・・・・・・」

(『桜草の喪』)

ジャム

きょうは、フランシス・ジャムの「悲歌14番」です。下記の通り、原詩は12音綴の平韻2行詩で書かれていますが、ここでは「原詩の形式のとおりに訳すと1行があまりに長くなる」として、1行を2行詩として訳しています。

  ÉLÉGIE QUATORZIÈME

— Mon amour, disais-tu. — Mon amour, répondais-je.
— Il neige, disais-tu. Je répondais : Il neige.

— Encore, disais-tu. — Encore, répondais-je.
— Comme ça, disais-tu. — Comme ça, te disais-je.

Plus tard, tu dis : Je t’aime. Et moi : Moi, plus encore…
— Le bel Été finit, me dis tu. — C’est l’Automne.

répondis-je. Et nos mots n’étaient plus si pareils.
Un jour enfin tu dis : Ô ami, que je t’aime・・・・・・

(C’était par un déclin pompeux du vaste Automne.)
Et je te répondis : Répète-moi・・・・・・ encore・・・・・・

フランシス ジャム(Francis Jammes、1868-1938)=写真=は、オート・ピレネ県のトゥルネー(Tournay)に生まれ、生涯をピレネーの山麓で過ごした、自然と切り離して考えることのできない詩人です。

1897年『メルキュール・ド・フランス』誌に、象徴主義とその人工楽園的美学に対して、たとえどんなものでもこの世の中にあるものを詩人は作品の中に語る権利があるとしたいわゆる「ジャム主義」を宣言しました。

ジャムはこの中で「私は真実とは神の讃美であり、詩が清冽であるためには、詩のなかで真実を讃えねばならないと思っている。また、流派はただ一つしかなく、それは可能なかぎり正確に美しい習字の手本を真似しようとする子供たちのように、詩人が誠心誠意、一羽の愛らしい鳥や一輪の花や、あるいは魅力的な脚と優美な胸をもった一人の少女を写しとる流派であると考えている・・・・・・ 一切のものは、それが自然なものであるかぎり描くに値するのだ」としています。

「悲歌14番」は、1901年に刊行された詩集『桜草の喪』(Le Deuil des primevères)に収められている19篇の連作からなる「悲歌」の一篇です。窪田は「全篇の悲歌からは、一人の可憐な少女の幻影が浮かびあがってくる」として、次のように解説しています。
ジャムはそのころ、母と2人きりでオルテズに住んでいた。そして、マモールというユダヤ娘を愛した。しかし、昔ながらの慣習やしきたりに生きる村人たちの視線は、この他国者でユダヤ教徒の娘に冷たかった。熱心なカトリック信者だったジャムの母親も、信仰の問題と世間への気兼ねから息子の恋に強く反対した。
ジャムはのちにポール・クローデルの手引きでカトリックの信者となるが(1906)、彼もまた母親と同じように、信仰と世間の眼に苦しんだにちがいない。彼は第1詩集の序詞に歌っているように「悩み、そして愛した」。2人の恋は結局は悲恋に終ったが、天使のように純粋な詩人の魂は一巻のやさしい抒情詩となった。


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2021年09月06日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑭ レニエ

  オードレット

一本の小さな葦があれば十分だった
高い草と すべての牧場と
  やさしい柳と
  やはり歌うたう小川とを
身ぶるいさせるためには。
一本の小さな葦があれば十分だった
森を歌わせるためには。

道ゆく人たちはそれを耳にした
夕闇の奥で、それぞれの思いのなかで、
沈黙(しじま)につつまれ、風に吹かれて、
  はっきりと 或いはおぼろげに
  身近かに 或いははるか遠くに・・・・・・
道ゆく人たちは、それぞれの思いのなかで
耳にしながら、それぞれの心の奥底で
さらに耳にするだろう、そしていつも
  耳にする、その歌声を。
  私には十分だった
或る日、愛の神が訪れて
涙にぬれたその生真面目な顔を、
  水に映した泉のほとりで、
  摘みとって
  この小さな葦だけで、
道ゆく人たちに涙を流させ
小草をふるわせ、水をざわつかせるためには。
そして、私は一本の葦を吹きながら
森という森を歌わせた。

(『田園と神々の戯れ』)

レニエ

きょうは、アンリ・ド・レニエの「オードレッド」です。『田園と神々の戯れ(Les Jeux rustiques et divins)』(1897)に収録されています。下に原詩を示しましたが、自由詩で詩行も詩節も古典的な規律を無視し、脚韻の代わりに、語の位置を問わず類似音を重ねる半諧音(assonance)が踏まれています。

  Odelette

Un petit roseau m’a suffi
Pour faire frémir l’herbe haute
   Et tout le pré
   Et les doux saules
Et le ruisseau qui chante aussi ;
Un petit roseau m’a suffi
À faire chanter la forêt.

Ceux qui passent l’ont entendu
Au fond du soir, en leurs pensées,
Dans le silence et dans le vent,
   Clair ou perdu,
   Proche ou lointain...
Ceux qui passent en leurs pensées
En écoutant, au fond d’eux-mêmes,
L’entendront encore et l’entendent
   Toujours qui chante.
   Il m’a suffi
De ce petit roseau cueilli
À la fontaine où vint l’Amour
   Mirer, un jour,
   Sa face grave
   Et qui pleurait,
Pour faire pleurer ceux qui passent
Et trembler l’herbe et frémir l’eau ;
Et j’ai, du souffle d’un roseau,
Fait chanter toute la forêt.

アンリ・ド ・レニエ(Henri de Régnier、1864-1936)は、オンフルール(北フランス)の貴族の末裔の家に生まれました。当初は外交官を志しますが詩作に転じ、1885年に文芸誌『リュテース』に寄稿してからマラルメの「火曜会」の常連となりました。

また、若い詩人の一部から偶像視されていたルネ・ギルの教えにも耳を傾けて「言葉の器楽編成の有効性を宣言」。定型詩の束縛を放れて半諧音を活用する自由詩にも賛同しました。永井荷風が愛した詩人としても知られています。

「一本の小さな葦があれば十分だった・・・・・・」の「オードレット」(小オード)も、自由詩の一つの典型です。

ただし、窪田は「フランスにおける自由詩とはいわゆる無韻の詩(vers blancs)のことではない。近代的自由詩のなかには無韻の詩も含まれているけれども、ラ・フォンテーヌのような古典的な自由詩がいろいろな韻律の自由な混合によって成りたっているものの、音綴の型、句切り、脚韻に関するかぎり完全に規則的であること、そして近代的自由詩においても脚韻代りの半諧音によって音が重視されていたことを忘れてはならない。レニエも haute と saules 、grave と passent のような半諧音を用いている」と指摘しています。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)窪田 般彌 

2021年09月05日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑬ メーテルランク

  シャンソン

妹たちよ、私はさがした、30年も、
  その人はどこにかくれたのか!
妹たちよ、私は歩いた、30年も、
  あの人のそばに近づけずに・・・・・・

妹たちよ、私は歩いた、30年も、
  それで、足はもうくたくただ。
妹たちよ、あの人はどこにもいた
  しかし、どこにも存在しなかった・・・・・・

妹たちよ、ついに悲しいときがきた、
  私のサンダルをぬがしておくれ。
妹たちよ、夕暮れもまた死にかけている、
  私の心は痛み苦しむ・・・・・・

妹たちよ、きみたちは16歳だ、
  さあ、ここから遠くにいくがいい。
妹たちよ、私の杖を取るがいい
  そして、探しにいったらいい・・・・・・

(『12のシャンソン』)

メーテルリンク

きょうは、モーリス・メーテルランクの「シャンソン」です。1890年に出された小冊子『12の歌』が初出で、これは増補されて『15の歌』となり、詩集『温室』にも収められました。原詩は次の通りです。

  CHANSON

J’ai cherché trente ans, mes sœurs,
Où s’est-il caché !
J’ai marché trente ans, mes sœurs,
Sans m’en approcher…

J’ai marché trente ans, mes sœurs,
Et mes pieds sont las,
Il était partout, mes sœurs,
Et n’existe pas…

L’heure est triste enfin, mes sœurs,
Ôtez mes sandales,
Le soir meurt aussi, mes sœurs,
Et mon âme a mal…

Vous avez seize ans, mes sœurs,
Allez loin d’ici,
Prenez mon bourdon, mes sœurs,
Et cherchez aussi…

「CHANSON」の詩節は、7a 5b 7a 5b の相称形4行詩ですが、古来、神秘の数とされてきた7とか5などの奇数をメーテルランクはとくに好み、試作品にもたくさん用いています。

モーリス・メーテルランク (Maurice Maeterlinck、1862-1949)は、ベルギー象徴主義の詩人。1886年にパリに留学してリラダンやマラルメと交際し、1889年に33の詩篇からなる『温室』(Serres chaudes)を出版して文壇にデビュー、同年には最初の戯曲『マレーヌ姫』(La princesse Maleine)を発表し、フランス演劇界に注目されました。

メーテルランクの詩集はけっきょくこの一冊だけで、彼の作品のなかで最も重要なのは戯曲ということになります。しかし、ポール・クローデルの象徴主義演劇に先立って新しい道を開いたこの劇作家の本質はあくまで「詩」にあった、と窪田は見ています。

シュールレアリスト、ブルトンも『温室』は、青年時代に感動した詩集の一つだといっているし、メーテルランクは、西条八十をはじめとする大正期の象徴派詩人にも少なからぬ影響を与えることになりました。


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2021年09月04日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑫ ラフォルグ

  なげきぶし風の墓碑銘

女というもの
俺の魂よ、
ああ! 何という
呼びかけだ!

命はかない
パステル画さ、
色が悪けりゃ
けなすがいいさ

阿呆一人
進み出て
道化の踊り。

し-っ・・・・・・
奴だぞ、どこに?
ほととぎすが鳴いている。

(『なげきぶし』)

ラフォルグ

「なげきぶし風の墓碑銘」の原詩は次の通り、2音綴詩句による正韻ソネの形がとられています。

  Complainte-épitaphe

La Femme,
Mon âme :
Ah! quels
Appels!

Pastels
Mortels,
Qu’on blâme
Mes gammes!

Un fou
S’avance,
Et danse.

Silence…
Lui, où?
Coucou.

最後の「Coucou.」は、「ほととぎすが鳴いている。」と訳されていますが、俗語では coucou は、cocu つまり女に裏切られた男のこと。ここでは、これら二つが掛け合わせられています。

ジュール・ラフォルグ(Jules Laforgue、1860-1887)は、ウルグアイの生まれ。6歳のときタルブのリセ (高等中学)の寄宿生となり孤独な幼少年時代をおくりました。 1873年にはパリに出て、ブールジェらの文学者と交遊。 81年ドイツ皇后アウグスタの講書係となってベルリンにおもむき、5年間滞在しました。

帰国後、この詩の入った第1詩集『なげきぶし(Les Complaintes)』(1885)を発表。 86年には『母なる月のまねび(L'Imitation de Notre-Dame la Lune)』を刊行し、同年末にはイギリス女性と結婚しましたが、すでに結核におかされていた詩人は、まもなく 27歳の若さで世を去りました。

『なげきぶし』には、エピグラフとしてシェークスピアの「むだ騒ぎ」という言葉がそえられています。ラフォルグは、生まれたときから人生に疲れ、退屈しきっていたようだったといいます。「むだ騒ぎ」とは、一種の諦念の境地に達し、死を目前にひかえていた若い詩人の人生に対するイロニーであったといえるのかもしれません。窪田はラフォルグについて、次のように述べています。

彼の鋭いゆえに戦きふるえる神経には、誰しも近代の悲哀を感じるにちがいない。シェークスピアを愛したラフォルグは、まさに近代のハムレットと呼ばれるにふさわしい。T・S・エリオットが世紀末の感覚をつかんだのはラフォルグからであったし、中原中也がランボーやヴェルレーヌとともに最も愛した詩人はラフォルグだった。


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2021年09月03日

『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』⑪ モレアス

  スタンス

みだりに言ってはいけない、人生は楽しみ多い宴などと。
それは愚かしい精神や卑しい魂の世迷いごとだ。
絶対に言うべきではない、人生ははてしなく不幸だと。
それは、あまりに早く疲れる情ない勇気の泣きごとだ。

春に木々の梢がそよぐように笑いたまえ、
北風や砂浜の波のように泣きたまえ、
あらゆる喜びを味わい、あらゆる苦しみを耐え、
そして言いたまえ、人生はすばらしいもの、夢の影だと。

(『スタンス集』)

モレス

「スタンス(stance)」には、詩節の意のほかに、同型の詩節の反復された荘重体詩のことをいいます。原詩は次の通り。

  Les Stances

Ne dites pas : la vie est un joyeux festin ;
Ou c’est d’un esprit sot ou c’est d’une âme basse.
Surtout ne dites point : elle est malheur sans fin ;
C’est d’un mauvais courage et qui trop tôt se lasse.

Riez comme au printemps s’agitent les rameaux,
Pleurez comme la bise ou le flot sur la grève,
Goûtez tous les plaisirs et souffrez tous les maux ;
Et dites : c’est beaucoup et c’est l’ombre d’un rêve.

この詩は、2つの連詩形からなるスタンスで、次に示すように、各詩句は12音綴。脚韻は、ababの交差韻を踏んでいます。

 1    2  3     4     5   6    7      8   9   10     11  12
Ne/ di/tes/ pas/ la/ vi/e est/ un/ jo/yeux/ fes/tin 

「スタンス」は、もともとイタリア語のスタンザ(Stanza)から転じた言葉で、本来は停止、休息を意味しました。詩節は、抒情詩ではstrophe、歌謡ではcoupletと呼ばれ、宗教的・哲学的な主題を扱った詩ではstanceといっています。スタンスはまた、一つの詩形とも考えられています。

鈴木信太郎『フランス詩法』には「詩節の数の限定されている定形詩」として8行詩と10行詩のスタンスが取りあげられ、「8行詩および10行詩は、この形態だけであって、他の形態をいわない。そして、これらの形態は一般に16世紀のクレマン・マロ Clément Marot に始まると考えられる」と説明されています。

クレマン・マロ以後、スタンスをつくった詩人には、ロンサールやマレルブがいるし、ロマン派のミュッセやヴィニーも試みています。特にマレルブのスタンスは、美しい形式として定評があります。このマレルブ風のスタンスを踏襲したのが、きょうの詩を作ったジャン・モレアス(Jean MORÉAS、1856-1910))です。

モレアスは、ギリシア・アテネ生まれで、本名はパパディアマントポウロス(Papadiamantopoulos)といいます。1882年以後パリに定住する。86年に「象徴主義宣言」を発表し、象徴派の詩論家の一人となります。やがて象徴主義を離れて「ロマン語派」という一派をおこし、古典主義へ復帰します。6巻からなる『スタンス集(Stances)』(1899~1901)のほか、詩集『情熱的な巡礼』(1890)などがあります。

モレアスの「スタンス」について窪田は「12音綴の4行詩二つを以て厳密に構成しされた詩形のなかに、しばしばロマン派の哲人詩人アルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred de Vigny、1797-1863)を思わせるような、冷徹にして格調あるストイシスムを歌った」としています。


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